真・遠野物語2 -9ページ目

真・遠野物語2

この街で過ごす時間は、間違いなく幸せだった。

早池峰郷の鹿踊り、残っている東禅寺しし踊りは、土淵の後に続いて来た。

掲げている幟に「早池峰役しし踊り保存会」と書かれている。これは、早池峰郷の鹿踊りは3団体が毎年交代で(つまり3年に一度)大出の早池峰神社に奉納する慣わしがあり、今年は東禅寺しし踊りの順番だということだ。

 

 

東禅寺という寺院は今はなく、附馬牛の片隅に僅かにその痕跡を残すのみだ。石上の麓を通って綾織に抜ける道の途中で、昔の水場の跡などを見たことがある。

かたちがあるものは土に還っても、その上で今を生きる人たちが伝統を引き継ぎ、自然への畏敬を表現し続けている。

 

 

 

 

 

東禅寺の後には、鷹鳥屋獅子踊りが来た。

鷹鳥屋は小友地区の中でも中心から外れた山間にある地域だが、何か惹かれるものがあるのか、何組かの移住者も定着している。俺も小友の中心から二日町、綾織へ抜けるのに通ったことがあるが、言葉で表現するのは難しいがとても美しい、数ある小友の集落の中でも一番と言って良い程心に残っている場所だ。

 

 

 

 

 

 

決して「遠野といえばココ!」という程名が知られた土地ではなく、人口も多くはない。しかし今、移住者や若い子供たちが力になり、地域の伝統を未来に紡いでいる。

 

続いてまた鹿踊りの一団が来た。

これは附馬牛の上柳しし踊りで、現代の早池峰郷の鹿踊りに於いて最も主流で活動している団体だ。踊り手に太鼓を持っている人はいない、幕踊系と呼ばれるタイプの鹿踊りだ。

 

 

 

 

 

後ろには張山しし踊りの一団が続く。珍しい白色の衣装が、個人的にはカッコ良くて好きである(以前は他の地域同様に濃紺だったようで当時を懐かしむ人もいるが)。

衣装には剣九曜紋の他、南部家の対い鶴をイメージした紋様が描かれている。元々は早池峰郷の鹿踊りの主流だったという話もあり、遠野城下までその名声が聞こえていたのだろう。逆に、角の間の立て物は、昔は様々な種類があったが現在は剣九曜紋に統一されている。

 

 

 

 

 

 

上柳、張山と来たので続いては東禅寺が来るのかと思いきや、後ろには土淵の鹿踊りが続いていた。

こちらは角の間の立て物がバラエティに富んでおり、地域の神社の名前が刻まれていたり、比較的近代になって登場したと思われる河童のモチーフなどもある。非常によく似た“鹿踊り”という伝統芸能でありながら、地域によって鹿の顔立ちや衣装、装飾品など、細かい部分では全くと言って良い程異なっていることもある。これはとても興味深いポイントである。

 

 

 

 

早池峰郷の鹿踊りは、附馬牛の寅という老人が伊勢参りの記念に伝えたとされ、その起源は遠州にあると言われている。駒木の角助も、鹿踊りの原型を遠州から持ち帰ったとされる。

一方で花巻や釜石、臼澤といった沿岸地域では、諸説はあるが地元で鹿の供養のために始まった踊りともされている。また現在の愛媛県宇和島地域にも似た踊りがあり、こちらはより現実の鹿に近い造形の鹿頭を被るが、こちらは伊達藩から伝わったとされ、起源は東北にあるようだ。

これだけよく似た踊りが偶然各地で勃発したとは考え辛く、ルーツを辿れば何処かで合流するのかもしれないが、それにしても鹿踊り自体の起源には不明な点も多い。今となっては正確なことを知る人はいないのかもしれないが、解き明かされない歴史の謎に思いを馳せながら現代の鹿踊りを眺めるのも、ロマンがあって良い。

 

神輿に続いて神楽の一団が続々と民話通りに入って来た。

神楽の勇壮な仕草に加え、ゴンゲサマが歯を打ち鳴らす乾いた音が響き、とても心地良い空気に満たされる。

 

 

 

 

鼻が長い猿田彦(天狗のイメージと混同されることも多い)に、巨大な口のゴンゲサマが躍動する神楽の世界は、日常とは懸け離れた世界である。

 

 

 

 

神楽には子供から大人、老いた人々も一緒になって参加し、剣を振るい、笛や太鼓の音を響かせ、ゴンゲサマの歯を打ち鳴らすその一音毎にその場の空気を異質なものに染め上げて行く。それは過去からも未来からも同じ時間軸に辿り着ける、魔法のような音の響きである。

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

見知った場所が熱い空気に包まれ、それを見ている我々の足も重力の軛から解き放たれ、ふわふわと宙に浮かんで行くようだ。

 

通りには丁度、青笹しし踊りの一団が来ていた。

あくまで個人的な印象だが、青笹の鹿踊りは遠野郷の鹿踊りの中でもスタイリッシュであり、かつ様々なかたちで積極的に鹿踊りの文化を広める姿勢が見て取れ、好感度は高い。

無論他の団体がそうではないと思っている、ということでは全くないが。

 

 

 

 

 

 

 

 

続いて市内の様々な団体の神輿が民話通りに到着。「わ組」の神輿がたくさんの餅を蒔き、神輿の行列を威勢良く盛り上げる。

 

 

 

続いて、佞武多絵を思わせる迫力ある神々の画をあしらった、魁義友會の神輿。参加企業の名が刻まれた提灯をたくさん掲げているのだが、その中には見知った名前がちらほら。このようなところにも遠野に足を突っ込みつつある自分の変遷を感じる。

 

 

 

続いて烏合烈火衆の神輿。烏合烈火衆は大船渡市の彫櫻會という団体と相互交流しており、彫櫻會は遠野まつりにも来てくれている。こうして異なる地域との交流があるのはとても良い。

 

 

 

そして、毎年遠野まつりに一定数訪れる、遠野をよく知らない人たちの注目を一身に集める、勢組の金精神輿。この神輿にかんして特に言うことはない。遠野まつりを練り歩く数々の神輿の中でも、俺が一番好きな神輿である。

 

 

 

「神輿」という言葉のイメージだけで何となく想像する“神輿の姿”というものはあると思うが、実際に様々な地域の神輿を見比べると、その姿や振る舞いは全く異なることがわかる。鹿踊りや神楽などキャッチーな伝統芸能に目が行きがちだが、神輿をじっくり観察して見るのも面白い。

 

次に登場したのは、田植え踊りの一団。遠野には5団体の田植え踊りがあり、他の伝統芸能とは一風変わった踊りが見られる。

 

 

 

田植え踊りとは、主に宮城や岩手に伝わっている伝統芸能で、小正月の頃に米を収穫するまでの作業を踊りとして表現することで一年の豊作を願うものだという。元々冬の暇な時期に遊びで踊っていたという説もあり、より俗世間の中で発展して来た伝統芸能だといえよう。

 

 

 

子供から大人まで、様々な世代の人たちが一緒に踊っている。家族で踊って来たという伝統が今でも受け継がれているのだろう。

 


続いてさんさ踊りの一団が来た。華やかな衣装に身を包んだ女性たちが一糸乱れぬ踊りを披露する。

 

 

 

 

遠野には下郷と山口の2団体があり、花巻経由で伝わった下郷さんさと、小国から山口に婿入りした尻石磯吉という人から地域に伝えられた山口さんさというように、ルーツも様式もだいぶ異なるようだ。

 

 

続いても田植え踊りの団体、横田田植え踊りが来た。

横田というと、鍋倉以前に遠野の城があった地区であり、古い時代においては遠野の中心だった。かつては20団体近くの田植え踊りが遠野のあちこちで活動していたが、現在はその殆どが廃絶したり、活動を中断している。遠野における田植え踊りの命運は、遠野の源流に近い場所で活動を続ける彼らの手に委ねられている。

 

 

 

鹿踊り、さんさ、田植え踊りと遠野の主な伝統芸能を見学することが出来、時間は昼近くになった。一度休憩がてら、昼ごはんを食べて行くことにする。

 

 

CocoKanaに入り、遠野の民話や方言をイメージしたカクテルをいただく。つまみは宮守の燻製豆腐だ。

 

 

 

食事は天婦羅が乗ったひっつみ蕎麦と、カツオの刺身定食を発注した。とても食べ応えがあり、かなり腹いっぱいになる。

カツオもとても新鮮だ。世間的にはカツオといえばタタキだというイメージが定着しているように感じるが、新鮮なカツオなら生のまま刺身で食うに限る。

 

 

 

店には同じように遠野まつりを見学に来た人がいっぱいだったが、忙しい中でちょっとしたデザートまでサービスしてくれた。

 

 

少しの間喧騒から離れてゆっくりし、再びまつりの会場に戻ろう。