真・遠野物語2 -5ページ目

真・遠野物語2

この街で過ごす時間は、間違いなく幸せだった。

青笹地区に於ける芸能団体の二大巨頭といえば、六角牛神楽と青笹しし踊りだ。

山の名前の「六角牛」を戴いている糠前の六角牛神社は、古くは神楽大権現と称されていたと伝えられているので、六角牛神楽も狭義には糠前あたりの発祥なのだろう。

同じ青笹の中沢地区には「六神石」神社があるが、神社の起源としてはこちらの方が古く、1872年に六神石の名を戴いた。このとき、当初は「六角牛」の名前で登録しようとしていたが、元々「六角牛」は六角牛山善応寺という寺院があり、神社の名前に用いるのは相応しくないという理由で却下されたそうだ。しかしながらその8年後、糠前の神楽大権現は何故か「六角牛」の名前で登録することが許された。何故このような対応の差が生まれたのかは、今以て明らかではない。

 

 

 

 

六角牛神楽は1860年頃、土淵は飯豊から青笹のとある家庭に婿養子に来た甚太という人物が躍り始めたことから発祥したとされる。その後、八幡神楽の流れも取り入れ、現在まで続く踊りのかたちになった。

 

 

 

遠野の神楽は迫力あるゴンゲ舞が見所だ。内馬場に向かって大きな口を開くところを見せてくれ、歯を打ち鳴らす乾いた音が胸の中を通り抜けて行くようだった。

 

 

 

 

六角牛神楽に続いては同地区の青笹しし踊りが来るのかと思ったが、来たのは小友は鷹鳥屋の獅子踊りだった。馬場を巡る順番がどう決められているのかはわからないが、芸能の種類でも地域でも、全く規則性は無いようだ。

 

 

 

 

鷹鳥屋は割とあっという間に通り過ぎてしまい、早くも次の団体の足音が聞こえて来る。

あらゆる団体が混ざり合って踊る様は一年のうち一度しか拝めないし、次にどの団体が来るのかというガラガラポン的なワクワク感も、ひとつの楽しみなのであろう。

 

神楽の団体は、全国的にも名高い土淵の飯豊を始め、市内に13を数える。

飯豊の神楽は山伏派に属し、記録が残る1821年には既に成立していたとされる。他の神楽と比較して、拍子が速く荒々しい踊りが特徴。1954年に一度中断し、14年後に復活したものの常に後継者不足に悩まされて来た。当時を思うと、小さな子も大勢参加して懸命に扇子を振るう姿には隔世の感がある。

 

 

 

 

 

 

 

 

 

これだけ激しい踊りを、ステージ等その場に留まるのではなく、馬場を周回しながら行うのはかなりハードだろう。

他の地域の神楽については寡聞にして知らないが、遠野では附馬牛の例祭を始め、何かの周りを回りながら行われる特徴があるように感じる。神社の本殿や御神体に敬意を表する意味で、その周囲を踊りながら回るのだろうか。

 

 

考えてみると、盆踊りなどはその典型例だ。踊りの輪の中心に神が宿り、神を囲んで踊る行為が盆踊りに発展したと考えると、馬場めぐりや周回形式の神楽も出自は同じだと考えられそうだ。そうすると、このような形式の神楽は遠野固有ではなく、東北を中心に各地に存在している可能性がある。

 

 

 

 

 

 

 

 

特に若い踊り手たちにとって、神楽というものが内面にどういった位置付けなのかはわからない。時代と共に、神楽を踊る理由も変わって行くのかもしれない。しかし、彼らの中には彼らだけの「神楽を舞う理由」があり、それは形を変えつつも人が遠野で暮らす限り、受け継がれて行くものなのだろう。

 

流鏑馬の後は、いよいよ遠野まつりのオーラス、伝統芸能団体による八幡宮の馬場めぐり。

鹿踊りだけでなく神楽、神輿、田植え踊りに手踊りとあらゆる団体が一緒に馬場を練り歩くカオスな催しだ。団体の数は60を超えるともされており、この馬場めぐりが最も遠野らしい光景だと称賛する人もいる。

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

白の装束の附馬牛系鹿踊りに続き、長野、板沢といった団体が続く。途中で違う地域の鹿が混ざったりもしており、当人たちもあまり統制が取れていないように見えるが、その混沌すら在りの侭に受け入れて来たのが遠野という土地の歴史なのだろう。

 

 

 

 

 

 

 

 

馬場外側の土手に多くの人が上って鹿踊りを見学しているが、我々は流鏑馬が終わり空いた内馬場の真ん中に陣取ることが出来た。見やすいし広く、とても良い。馬場めぐりはもう少し続く。

 

八幡の馬場で行われる流鏑馬は、まさに2日間に渡る遠野まつりのクライマックス。尤も、嘗ては遠野まつりとは別に八幡の例祭における神事として行われており、時代の変化を感じてしまうところでもあるのだが。

目の前を神馬が全力疾走し、射手が見事に的を射抜き、そして介添奉行が高らかに声を響かせながら後を追う。この様式美は約六百年の昔から既に確立されていた。

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

日本には幾つもの流鏑馬の流派があるが、中でも介添奉行が表に出るのは南部流鏑馬だけだ。これはとあるおじいちゃんの孫バカから定着したというから驚きだ。

もうどれだけ昔だかもわからない昔、橘左近という弱冠18歳の青年が射手の大役に指名されたことがある。左近青年は突然のプレッシャーにガチガチになってしまい、その様子を見た祖父は心配のあまり、自ら介添え役を申し出た。しかし左近青年はプレッシャーに打ち勝ち、見事3枚の的を全て射落とした。これに感動した祖父は、興奮のあまり「よう射たりや!よう射たりや!」と叫びながら、孫の後を追いかけて自らも馬で全力疾走した。

今であれば微笑ましいエピソードに留まりそうだが(もしくは勝手に叫びながら走るなと怒られそうだが)、これが当時は吉例だとされ、現代まで続く南部流鏑馬の作法として定着したのだ。

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

遠野郷八幡宮の流鏑馬は、6頭の馬が2走ずつし、計36本の矢が放たれる。よくも全力疾走する馬の上で両手で弓矢を構え、かつ正確に的を射落とすことまで出来るものだと、見る度に感嘆する。

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

左近青年と祖父のエピソードを聞くにつけ、俺はダイシンボルガードが勝ったダービーで同馬の厩務員が興奮のあまり「俺の馬だ!俺の馬がダービーを取った!」と叫び、パドック用のメンコを振り回しながら馬と並走したというエピソードを思い出す。これは当時、発走を見届けた厩務員が歩いて待機所に戻っていたために起き得たことであり、この出来事があったからなのかは知らないが、現在はバスに乗って待機所に戻る仕組みになっているためこのような出来事は起こらないだろう。

当然ながら最後の直線を馬と並走するというのは危険極まりない行為であり、公正競馬の観点からも本来あってはならないので、これが吉例として定着しなかったのは当たり前といえば当たり前なのだが、昭和の時代は良くも悪くも大らかだったことがよくわかる。

 

祭りは晴天に恵まれ、我々は馬場の芝生に座り込んで昼ごはんを食べることにした。

今日は屋台で調達した牛カルビの串焼き、大阪風のお好み焼き、たこ焼き。粉ものばかりだがたまには良いだろう。

特別素晴らしい肉でもないし、豪華な具材が入っているわけでもない。祭りの喧騒と乾いた青空が、外で食べる昼ごはんの何よりの味付けなのだ。

 

 

 

 

食事の匂いに誘われて、嫁の帽子に一匹の蜻蛉が止まった。

蜻蛉は変温動物なので、気温が下がる秋になると、日向ぼっこをして体温を上げるために日当たりの良い場所に止まる性質がある(柵の上や指先に止まるのもこのため)。ついでに美味そうな食料にでも有り付ければ万々歳といったところだろうか。蜻蛉とも一緒に良い時間を過ごそう。

 

 

暫く待っていると、午後の流鏑馬の為の準備が進み、奉行が白馬に跨ってコースの確認を始めた。

 

 

競馬でも1レースの未勝利戦から始まり、条件戦や障害戦が進むに連れてメインの重賞への期待が高まって行くように、祭りの段取りが進みいよいよ流鏑馬の準備が整うと、否応無しに期待感は最高潮に達する。2日間に渡る遠野まつりも遂にクライマックスを迎える。