真・遠野物語2 -4ページ目

真・遠野物語2

この街で過ごす時間は、間違いなく幸せだった。

2015年も後数日で暮れようかという或る日の晩、我々は馴染みのインド料理屋で、骨付き山羊肉のカレーターキーの脚を食べていた。これがこの年、東京でいただく最後の夕食だった。

 

 

 

写真を見ておわかりいただけると思うが、とてもひと晩で食べ切れる量ではない。ということで、翌朝の食事も骨付き山羊肉のカレーになるのだった。

 

朝早く、まだ太陽の光の予兆すら感じられない真っ暗闇の中、我々は本郷の家を出て、上野駅に向かった。

今ではかわいいブタ家の年末恒例行事(?)になったが、嫁と一緒になってから年末の遠野へ足を運ぶのは、この年が初めてだった。

 

 

金を持っている一部の人間は、速い新幹線で盛岡まで向かった後、はまゆりの指定席に座って遠野を目指すのだろうが、我々は遅い新幹線の自由席でのんびり新花巻まで向かう。急ぐ旅でもないし、我々のペースはこれで良い。

 

 

 

幾ら遅いと言っても、新花巻まで3時間程度で到着する。

この年の岩手の冬は暖かいらしく、殆ど雪が無いようだ。

 

 

 

釜石線を見下ろす新幹線のホームから下界に降り、さっき見ていたホームから汽車に乗り換え。

 

 

 

20分と少々で、今日の最初の目的地である宮守に到着する。

 

 

嫁と一緒に宮守に足を運ぶのは初めてだが、俺は宮守が大好きなので、その一端でも感じ取って貰えると嬉しい。

 

 

 

 

朝9時台の宮守駅で、我々と一緒に下車した客は数人だけ。彼らも足早に駅を出て行ってしまった。

誰も居なくなったホームに、少し冷たい風と透き通る日差しが静かな音を奏でている。

 

 

信号機のモニュメントに掲げられた鐘を鳴らす。澄んだ音が宮守の街に響き、そして冬の風に掻き消されて行く。

我々もそろそろ駅を出て、街を歩くことにした。

 

辛うじてまだ空が明るいうちに、仙北町駅に到着した。

 

 

この駅は1915年に開業したので、この年で丁度百周年だ。駅舎も当時から建て替わっていないので、百歳だ。

 

 

ホームから駅舎へ渡る跨線橋からは、岩手山の雄大な姿が見える。この時間は岩手山の向こうに日が隠れ、山のシルエットが薄紅色の空に浮かんでいる。

 

 

 

以前はこのあたりが盛岡の中心街だったこともあり、駅前には小さいながらも商店が立ち並び、家路を急ぐ人々で賑わっている。

 

 

 

 

駅前のバイパスは4車線の広さだが、嫁が幼い頃には2車線しか無く、沿道には数々の商店が立ち並んでいたという。交通の利便性向上と引き換えに、幾つの店が姿を消したのだろうか。

 

 

 

バイパスから路地を抜け、嫁の実家に到着。今日は嫁の実家に身を寄せることにしたのだ。

晩ごはんには、地元の食材を使ってお母さんが作ってくれた料理をおなかいっぱいいただいた。

 

 

食後に「がんづき」もいただいた。遠野の郷土料理だと思っていたが、聞くと岩手県や宮城県の広い地域で食べられているらしい。

 

 

食休みをしたら風呂を浴び、布団に入る。今日は長い一日だったので、少々早めの就寝だがぐっすり寝られるだろう。

 

 

俺にとっては二年振りの遠野まつりだったが、前回は独りでふらふらと訪れ、遠野の友人や世話になった人たちと一緒に楽しい時間を過ごした。しかしそれはあくまで行きずりの時間で、明日にはまた独りに戻らなければならないという寂しさが何処かにあった。今は、明日になっても隣にいてくれる人がいると思うと、寂しさは無い。

そしてそのようなところに喜びを感じる自分を顧み、一年前とは何もかもが変わったのだと実感する。

 

祭りを見終えて帰る人、これから落ち着いた境内を歩くために中に入る人、多くの人が未だ行き交っている筈なのに、木漏れ日が差し込む鎮守の並木はやけに静かだ。

 

 

八幡宮から駅まで歩いて30分弱。一年で最も静かな30分間かもしれない。

黄金色の稲穂が未だ地上に光を落としている。空が暗くなり、秋の終わりを告げる雨が近付いている。

 

 

 

 

今少し日が射したような気がして振り返れば、透明な空に信号の赤が映えている。秋の終わりはこのようなところにも孤独に浮かんでいる。

 

 

 

 

我々ははまゆりに乗り、終着駅の盛岡へ向かう。現実に引き戻された多くの人が、同じ汽車に乗りそれぞれの日常へ帰って行く。

 

 

 

遠野盆地の奥底に沈殿し、何処へも行けない寂しさを湛えたような、最後の陽光。

 

 

 

 

 

秋の日が落ちるのは早く、北上川の底からは既に夜の闇が這い出て、岩手の空を覆い尽くそうとしている。

 

 

 

花巻に辿り着いたはまゆりはそのまま止まらず、向きを変えて盛岡へ。百年昔の空気は次第に薄れ、現在の岩手が見られる光景へと変わって行く。

 

 

盛岡から更に折り返しの汽車に乗り、隣の仙北町駅へ向かう。

盛岡駅を出てすぐに、北上川に中津川と雫石川が流れ込む三川合流地点がある。盛岡へ入る汽車からは、鉄橋が視界を遮り川面は殆ど見えないが、盛岡を出る汽車からは綺麗にその様子を見ることが出来る。

 

 

 

川は不思議だ。誰も知らない何処からか湧き出し、名前を変え、誰かと合流しては別れ、誰も知らない何処かへと旅をして行く。それでいて、一瞬たりとも同じ水の一滴が其処に留まることは決してない。

俺が川を眺めるのが好きなのは、根無し草のように生きてきた自分に重なるところがあると感じられるからなのだろうと思う。

 

境内はだいぶ暗くなり、もう残っている鹿踊りの団体も少なくなった。

我々の前に、上郷しし踊りの一団がやって来た。年季が入った九曜紋の衣装が、当地の鹿踊りの歴史を感じさせる。

 

 

 

 

こちらは衣装に佐比内の文字。

実は佐比内しし踊りの団体は、オフィシャルブログを開設して情報発信に努めている。他地区や遠野以外の鹿踊りの紹介もたまにあり、ファンならば一読の価値があろう。

 

 

 

 

 

 

 

 

 

佐比内は兎に角踊り手の数が多い。スペースの制約が少ない八幡の馬場では、それこそフルメンバーに近い数の踊り手が参加出来る。

鹿の中にどのような人が入っているのかは知る由も無いが、この中の誰かがブログで情報発信しているのかと思うと、隔世の感がある。

 

 

 

鹿たちの行列は切れ目無く続くが、馬場めぐりをずっと見ている俺の記憶が確かならば、次が最後の団体だ。

秋の日が落ちるのは早く、長かった祭事が終われば皆家に帰らなければならない。

 

 

 

 

衣装には「南部神社」と銘打たれ、鹿頭には「鍋倉神社」「遠野柏崎」「遠野土淵」……といった馴染みのある地名が掲げられている。鹿頭の意匠は地区によって千差万別、それぞれに特徴があるのだが、このようにシンプルに地元の地名を掲げるのも、郷土に根差す伝統芸能という感じがしてとても好きだ。

 

 

 

 

 

 

偶々か否かはわからないが、最後に「万年豊作」を頭に掲げた鹿と目が合い、一礼してくれた(様な気がした)。

そしてそれきり、後に鹿が続くことはなく、踊り手たちは祭囃子と共に森の彼方へ消えて行った。

 

 

全てが終わると、急に現実に引き戻されたような寂寥を覚える。祭りの終わり、旅の終わり、年の終わり。これから冬に向かう遠野の風の中に独り取り残され、嗚呼俺はこの土地の住人ではないのだ、自分の家へ帰らなければ……と背後から何かに肩を引かれた様な感覚に陥る。

時間は待ってくれない、前へ進むのみだ。俺は次の一歩を踏み出すために、この場所を去らなければならない。

 

人垣の中から、早池峰獅子踊りの幟が見えて来た。斜陽に照らされる鎮守の森に、濃い青の幟がひと際映えている。

 

 

濃紺の装束は上柳しし踊りのものだ。附馬牛には他にふたつの団体があるが、伝統的な濃紺の装束を維持しているのは上柳だけだ。

 

 

 

 

 

 

 

上柳の起源は、残念ながら1933年に家元が火災に遭ってしまい資料が焼失したため、今は詳しいことはわからないようだ。しかしながら踊りの特徴は張山とそっくりであり、張山から習ったものだというのが定説になっている。

 

 

 

 

 

 

上柳は附馬牛の街の中心にあたる地区で、人口も多いためか、踊りに参加している人の数もかなり多い。これだけの鹿と踊り手が、広い馬場を縦横無尽に踊り回る様は壮観だ。

 

 

 

特に、子供たちの姿が多いのが嬉しい。少子化が叫ばれて久しく、附馬牛の小学校でも新入生の確保に苦労する年もあるようだが、まだまだこうして地元から若い力が生まれ、新しいことを採り入れながらも変わらないものも守って行く強固な意志が芽生えつつあるのだ。