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真・遠野物語2

この街で過ごす時間は、間違いなく幸せだった。

これが現在の佐比内溜池の姿だ。この静かな水の底に、世界遺産にも匹敵する大いなる歴史の遺構が眠っているとは、とても信じられない。

 

 

 

日本の歴史の夜明け前、鉄の街・釜石が経済と産業の成長を後押ししたことに疑いはないが、彼の地から僅かに山ひとつ隔てた遠野の奥地でも、大洋の街に負けじと製鉄が行われていたのだ。

 

 

 

今でも佐比内溜池は現役の溜池なので、山肌に管理事務所らしき建物がある。といってもダムマニアが訪れたりするような大きなダムにある立派な施設ではなく、人が2~3人も入れば満杯になるような小さなプレハブ小屋だ。

 

 

堰堤の一番奥から、管理小屋への道が続いているが、この先に立ち入ると怒られる。コンクリート造りの橋やその手摺りは、年経てかなり古びている。この上を歩くのは怖そうだ。

 

 

 

よく見ると、溜池の脇の山裾に大きな側溝が掘られている。これは恐らくさらに上流で大雨が降ったとき、ダイレクトに溜池が溢れるのを防ぐための受け皿のような役割をしているのだろう。

 

 

それにしても、誰もいない山奥の溜池は果てしなく静かだ。11月の冷たい風が吹き、それを遮るものは無いため結構寒い。製鉄民たちはこのような土地で、何を思いながら働いていたのだろう。

 

 

 

遠野には有史以前から製鉄民の存在が言い伝えられており、場所は全く違うがマヨヒガも山奥に隠れ住む製鉄民の財であろうとされている。この土地には文化遺産として取り沙汰される程の製鉄炉があったことから、怪し気な民族が鉄で財を成していたという類の話は流石になさそうだが、山ひとつ挟んだ釜石側とは違い遠野側では金や銅が採掘されたというから、活気に溢れる釜石鉱山のエピソードとは全く違う話が残っていても不思議ではない。

 

 

 

ただ、それも全て想像に過ぎない。幾ら過去に思いを巡らせても、それに応えてくれるものはなく、代わりに晩秋の寒風が容赦なく体温を奪って行くのみである。

 

 

堰堤は寒いが坂を下ると幾分か風を避けることが出来たので、草に腰掛けて昼ごはんをいただく。

今回は、キャンベルスープの缶詰のミネストローネをごはんと一緒に食べる。本来は水や牛乳で希釈し、ひと煮立ちさせて食べるものだが、こんな山の上ではとてもそんなことはしていられない……少々味が濃い上に冷たいが、ごはんと一緒に食べると意外に美味しい。キャンプをする人が使うような携帯コンロでもあれば、なお良いのだが、其処迄の贅沢は望むべくもない。

 

 

地図を見ると、大峰鉱山は溜池のすぐ上にあることになっている。後少しで、遠野の歴史を支えた人々が働いていた場所に辿り着けるのだ。

 

これ以上先に集落は無いため、この道はもう生活道路ではない。

近くに採石場があるため車の通りはあるのだが、現代ではそもそもあまり重要な道でもなく、土が剥き出しの路面は昨日の雨でぬかるんでいる。

 

 

 

猫川の雰囲気もだいぶ変わった。源流ももうすぐ近くである。

 

 

荒れた道はまだ山の高いところを目指して上って行く。

 

 

やがて佐比内溜池の標柱が見えて来た。

立入禁止の看板が出ているが、溜池を近くで見学することは出来る筈だ。

 

 

道は二手に分かれていた。俺は上る道は鉱山に続いている筈だから、溜池はきっと下る道の方にあると信じ、本通りを外れて砂利道を下った。

 

 

 

しかしその道は谷底へ続いているだけで、溜池はなかった。

 

 

その場所には沢が流れており、その元は崖の上にあるようだった。ということは、鉱山へ続く道の途中に溜池があるのだろう。

 

 

もう一度元の道に戻り、鉱山方面へ向かった。

 

 

暫く歩くと、再び本通りを外れる小道に行き当たった。今度は当たりだったようで、森を抜けると突然視界が開け、溜池の堰堤へ上る九十九折の道が目の前に現れた。

 

 

丁度雲が晴れ、まるで空に向かって歩いているような感覚だった。

 

 

溜池の周辺には幾つかの記念碑が残されており、この溜池の造成事業が当地にとって重要なものであったことが窺える。

 

 

 

この地には元々、佐比内鉄鉱山の高炉が2基あり、1860年の開業から1869年まで製鉄を行っていた。その後1930年に溜池が出来、佐比内鉄鉱山は水底に沈んだが、現在でも遠野市の史跡に指定されている。のみならず、2015年に世界遺産に指定される橋野鉄鉱山の他に周辺地域で高炉跡が残っているのは佐比内鉄鉱山以外に無く、水没している状態であるにもかかわらずこちらも世界遺産に指定されるべきだと主張する研究者もいる程だ。

 

 

また佐比内鉄鉱山と佐比内鹿踊りには深い関係があり、高炉完成の際に執り行われた山神祭にて、佐比内鹿踊りが奉納されたという記録が残っている。佐比内溜池が完成し、高炉跡が水の底に沈む際にも惜別の佐比内鹿踊りが奉納されたが、このときが暫く途絶えていた佐比内鹿踊りの復活の瞬間だったともされている。

 

 

堰堤まで道が整備されていたので、歩いてみる。かつては東北一の貯水量を誇った溜池だが、今は訪れる人も殆どいない。斯く言う俺も溜池の存在は知らなかったが、遠野の歴史上途轍もなく重要な場所を歩いていたのだと知るのは、暫く後のことなのだった。

 

馬木の内はこの道沿いにある最後の集落であり、その外れには馬木の内稲荷が鎮座している。

 

 

田畑の農作物は全て刈り取られ、山の木々の葉も落ちる季節なので、その中にある朱塗りの鳥居は遠くからでも目立って見える。

 

 

 

御社がある一角だけ土が盛られ、高いところから人々の暮らしを見下ろしている。

 

 

手水鉢は苔生していたが、水は止まることなく流れ続けていた。

 

 

白塗りの質素な御社は、何時の頃からこの場所にあるのだろうか。

この御社の由来は遠野物語拾遺の189話に出て来る。一日市の勘右衛門という人が、この先にある鉱山に奉公していた頃のこと。自宅の背後の山(一日市にあるのか馬木の内に下宿していたのかは不明)で天気の良い昼間にもかかわらず急な暗闇に襲われ、これが馬木の内の御稲荷様の仕業であると直感した彼が「どうか明るくしてください、そうしたら御位を取得してお祀りします」と祈ったところ、元の明るい空に戻ったことから、約束通り位を取って祀ったというのがこの神社である。

 

 

 

御社は今でも手厚く管理されているようだ。しかし、このような少しだけ昔にあった話を覚えている人が、今どれくらいいるのだろうか。

 

 

嘗ては鉱山労働者で賑わったであろうこのあたりの集落も、今は数軒の家が残るのみである。

 

 

このあたりが本当に人の暮らしの終端で、この先には山、そして今は滅びてしまった鉱山跡しかない。

 

 

その滅びてしまった鉱山――大峰鉱山が今日の目的地である。

 

 

 

最後の集落を過ぎると道は一層険しくなり、猫川も上郷の街で見た面影は最早ない。

 

 

砂防ダムがあるためかこのあたりでは流れが停滞し、水面には冬に向かう山の姿が映し出されている。標高が上がると、それだけ季節の進みは早くなる。

 

 

この上流にはさらに大きなダムがあるようなので、時間的にダムを眺めながらの昼ごはんになりそうだ。

 

人と出会うこともなくなった山の奥で、代わりに道を歩く一匹の蟹と出会った。

蟹は握り飯に欲を出すことも、親の敵討ちなぞ決意することもなく、のんびりと道を渡って沢を目指していた。

 

 

 

 

蟹は本当に横歩きしか出来ない種が殆どで、この小さな一匹の沢蟹も懸命に鋏を左右に振りながら道を渡っている。蟹が横歩きしか出来ないのは、足が密集し過ぎて前後に歩くことが極めて苦手だからだが、環境によっては前進することの方が得意な蟹もいる。

 

 

蟹の正面に回ってみると、彼は見たこともない巨大な生物である俺を敵だと認識したのか、立ち上がって鋏を振り翳し、威嚇して来た。

 

 

 

俺はたまたま持っていた紐を蟹の前に垂らし、鋏で挟んで来ることを期待したのだが、蟹はそんなものには興味を示さなかった。やがて俺に敵意がないことがわかったのか、蟹は再びいそいそと横歩きを始め、沢がある崖下に消えて行った。

 

 

あの小さな身体では、沢まではまだ距離がある。彼が無事に平穏な世界へ帰り着いていることを願う。

 

 

余談だが、俺は日本の作家の中では芥川龍之介が三本指に入る程好きなのだが、その芥川龍之介の作品の中でも一番好きなのが「猿蟹合戦」である。青空文庫でも公開されているので、機会があれば一度御読み頂くことを勧める。

 

 

 

暫く何もない山道が続いていたが、やがて行く手に青い屋根の家が見えて来た。此処は馬木の内という地域で、鉱山勤めが盛んだった頃にはこの集落から奉公に行った人も多かったようだ。

 

いよいよ家の姿は見えなくなって来た。行く手には怪しい雲が垂れ込めているが、大丈夫だろうか。

 

 

光を集める広い窪地の真ん中に、小さな御社がある。昔から同じ光景があり、同じように朝を迎えて来たのだろう。

 

 

緩やかなカーブの途中に大きな建物が見える。あれも豪農の家だろうか。

 

 

道端に「たかまさま」と書かれた標柱が立っていた。向こうは谷底だが……。

 

 

振り返ると、建物の側にまた幾基かの石碑があった。これのどれかが、たかまさまの石碑なのだろうか。

 

 

コレが気になる。というか、明らかにコレがたかまさまだろう。

 

 

たかまさまは「ジャドウ=盲目の人」が集落で生まれないようにという願いを込めて祀られた石碑だという。ジャドウとは座頭のことだろう。

昔、盲目の虚無僧が集落で宿を借り、手厚く持て成してくれた集落の人に「この地では今後盲目の人は生まれないだろう」と言い残して去って行ったという伝承があり、藁の屋根は虚無僧の深編笠を思い起こさせる。

 

 

さらに少し先へ進むと、今度は「女長者屋敷のかると石」と書かれた標柱が立っていた。

 

 

脇にはまた幾基もの石碑が立ち並んでいるが、このどれかがかると石だという訳ではないようだ。

 

 

このあたりは笹久保という地域で、昔ひとりの女長者が住んでいたが、この女長者が唐臼の重しに使っていた巨大な石がかると石で、今でも稲荷淵という水の畔にかると石が残っているという。

 

 

稲荷淵が何処にあるのか、かると石は本当にまだ残っているのかはわからなかった。石碑群の反対側は切り立った崖になっており、その底に川が流れているので、かると石は今頃崖の下かもしれない。

 

 

非常に気になるが、探してもかると石は見付かりそうにないので、先へ進むことにした。

 

 

遂に家は一軒も見えなくなり、道は深い山に突入した。

 

 

11月も終わりに近いので、落葉樹はすっかり裸になってしまった。上には青空が広がっているというのに、こんなにも寂しい気持ちになる。独り旅とはこんなだっただろうか。