人と出会うこともなくなった山の奥で、代わりに道を歩く一匹の蟹と出会った。
蟹は握り飯に欲を出すことも、親の敵討ちなぞ決意することもなく、のんびりと道を渡って沢を目指していた。
蟹は本当に横歩きしか出来ない種が殆どで、この小さな一匹の沢蟹も懸命に鋏を左右に振りながら道を渡っている。蟹が横歩きしか出来ないのは、足が密集し過ぎて前後に歩くことが極めて苦手だからだが、環境によっては前進することの方が得意な蟹もいる。
蟹の正面に回ってみると、彼は見たこともない巨大な生物である俺を敵だと認識したのか、立ち上がって鋏を振り翳し、威嚇して来た。
俺はたまたま持っていた紐を蟹の前に垂らし、鋏で挟んで来ることを期待したのだが、蟹はそんなものには興味を示さなかった。やがて俺に敵意がないことがわかったのか、蟹は再びいそいそと横歩きを始め、沢がある崖下に消えて行った。
あの小さな身体では、沢まではまだ距離がある。彼が無事に平穏な世界へ帰り着いていることを願う。
余談だが、俺は日本の作家の中では芥川龍之介が三本指に入る程好きなのだが、その芥川龍之介の作品の中でも一番好きなのが「猿蟹合戦」である。青空文庫でも公開されているので、機会があれば一度御読み頂くことを勧める。
暫く何もない山道が続いていたが、やがて行く手に青い屋根の家が見えて来た。此処は馬木の内という地域で、鉱山勤めが盛んだった頃にはこの集落から奉公に行った人も多かったようだ。