岩場やら木の根だらけの荒れ地を抜け、ようやく俺は岩根橋の目の前までやって来た。
荒れた河原に一ヶ所だけぽっかりと空いた、小さな雪原。この場所にだけ、別の時間が流れているようである。
岩根橋は、宮守のめがね橋と同じアーチ形。めがね橋よりもひとつ多い、6連アーチ橋だ。
この場所には、元々岩手軽便鉄道の達曽部川橋梁が架かっていた。現在の岩根橋は、1943年に達曽部川橋梁を丸ごと鉄筋コンクリートで包み込むようにして作られたという。
冬でも凍らない川の黒々とした流れを見て、岩手の偉大な先人たちは何を思ったのだろうか。
ふと、橋の向こう側を見ると、何と釜石街道に上る坂道がちゃんと用意されていた。
まあ、それはそうだろう。俺の苦労はいったい何だったのだろうか。
時間にはまだまだ余裕があるので(というより、はまゆりがまだ来ないので)、岩根橋の周りを歩き、何か面白いものはないかと探ってみる。
また少し雪が強くなってきて、橋の周辺は視界が悪くなって来た。少しだけ顔を出していた太陽は再び雲の向こうに隠れてしまった。
普段は汽車に乗って、また自らの脚で歩いて見ている景色が、猿ヶ石川と同じ視線の高さから眺めると全く違うものに見える。まだ春は遠い岩手の山々に、雪解けを待つ生命たちが静かに息衝いている。
前回の記事にも書いたが、岩根橋の前身の達曽部川橋梁は、めがね橋の前身の宮守川橋梁と並び、宮沢賢治が「銀河鉄道の夜」を着想した場所だと伝えられている。
また、彼の作品集「春の修羅」に収録されている「そのとき嫁いだ妹に云ふ」にもその名前が登場する。岩手が誇る綺羅星の如き美しい文学が、このような人里離れた険しい峠の中で生まれているとは、何ともロマンに満ちた事実ではないか。
本当に、宮守という土地は、漆黒の銀河の中にあって暖かい明かりを灯すプラットホームなのかも……。
こうしている間にも、雪はどんどん強くなって来た。予定より少し早いが、再びあの河原を歩いて駅方面へ戻ることにする。
他に誰もいず、車の音も聞こえず、釜石線も止まってしまった。時間が凍り付いてしまったかのような一日の中で、ようやく出会えた岩根橋の姿を俺は忘れない。