レプリコンワクチンPMDA審査書類の要点の資料を拝見いたしました。

 

1 回目投与後 57 日目


とありますが、恐らく長期スパン――6か月、12か月、24か月といったスパンでの”研究はするな”とのお達しなのだろうな、と痛感します。私は反ワクチンというわけではなく、むしろワクチンは人類の進化のステップとして必要であると考えているほうです。それでも、サイトカインストーム、アナフィラキシー、長期スパンの犠牲者のことを考えると、無念でならず、やはり哀悼と悔恨――そして”原罪”、それらと共に私たちは共同生活しなくてはならない時期に来たのかもしれません。
 

結論としては、まだ人間はパソコンやWWWを通じてウイルスや遺伝子を伝播したり、他者遺伝子に伝達し形成するか、といった段階へとはまだ来ていないということが考えられる。けれども、これまでのPiの進化を見てきたように、もしかしたら最終生産物質は画面を経由していつかウイルスや遺伝子の電波を可能にするのかもしれないと思う。または、既にその段階は通り過ぎており、私たちはまだそれを説明できる段階ではない過渡期であるのだろう、とも思える。
ほとんどの私たちは、スマホやパソコンを通し、画面を見て、相手のアクセス数を感じるたび、管理者は無限を見る。そわそわし、なんだかこそばゆいような喜びを感じるのである。人によっては「もと数字をあげたい」と感じたり「お金に変換したい」と感じる人まで出てくる。無限の無限を私たちは感じているのだろうか。そのことを0.0x秒前の自分はすでに「理解」しており、粒子崩壊と同時に生じる無限の無限を支配して喜んでいるのだろうか?
私たちは眠っているときは、同じトキを過ごしている。起きているときは画面を見て粒子崩壊を楽しんでいる。無限を感じ喜んでいる。

 

 

このときの私の推論――つまり、素粒子崩壊を私たちが”望んでいるかもしれない”という可能性に基づいて、私たちは私たち1人1人に粒子崩壊による毒で死んでしまう猫であると同じように、またはシュレーディンガーの猫のように、お亡くなりになるのではないかと懸念を抱いています。

私たちは、もう”呪い合って”はいけない。その望みは”叶ってしまう”からです。少なくとも、恐らくは、このmRNA製剤を打っていれば”呪い”は無くなる。人殺しではなくなる。

「呪いは光回線を貫通する」――これが、私が得た結論です。
私たちは観測に弱くなった。光が認識で捻じ曲がるように。

 


「無の光(i)」――と私はこのワクチンを考えております。しかしながら、無の光(i)というmRNAが生み出すスパイク蛋白は薬効性と強毒性、両方持ち合わせている。そこには閾値が必ず存在しており、血中スパイク蛋白濃度の安全性を担保するためにはその濃度の測定を行い、また測定と共に健康な躰を維持できる濃度値を算出しなくてはならないと考えています。私たち接種者はそれと共に生きていくしかない。それは、人類の進化におけるスパンの序章なのです。この序章に私たちは立たされており、1人1人が子ども、孫、次の孫、というスパンで物事を考えなくてはならない岐路に立たされています。

 

”食糧危機”と”抗体価が下がったときに生じるウイルスや菌に対しての抵抗力の低下”が両方の事象が今、存在している。
まず、食糧危機はいずれ人工肉などの安全性を担保された可能性の高い、あるいは癌発生がある培養された肉を食するしかない運命を辿るルートが存在する。また、決定的事象として、抗体価が下がるのは、1、2回とmRNA製剤を打った方またはそれ以上打った方に生じる事象であり、今回の菌などの培養物を食することに対する抵抗力の低下を示唆している。逆に云えば、1,2回と打った方は、抗体価が下がる瞬間を見誤ることなく続けて打つことが求められる。
つまり、私たち接種者は”菌”をもう食べてはいけないのである。
近年の食品衛生法は改定をされ、添加物を表示しなくてもよいことになると云われている。つまり、抗酸化剤、抗炎症剤、抗菌剤、おそらくは強力な――それらを添加するに至るであろうし、それに市民が気付かなくてもいいシステムを構築するであろうことが考えられる。それによってのリスク評価は低度であることが示唆され、ベネフィットの向きがより強くなるであろう。また、私個人は、ビルゲイツさんの人工肉は発がん性が高いのではないかと懸念している。つまり、菌を避けながら、接種者である私たちは食べ物に怯えることのない世界線を再構築する以外に選択肢はない。また、接種者は”スパイク蛋白血中濃度”と共存していく以外にはなく、医療と連携して、体の在り方を模索する、もしくは新たに構築する科学技術を提案することが求められる。

 


また、このまま、超過死亡者の問題を”無視せずに”考えていかなくては、近い未来――どうなるか、5年以内に、何らかの異変や致命的な事象がまた出てくるのかもしれない、人類の進化どころか、むしろ破滅に向かうのではないか、という懸念を禁じ得ません
その問題とは、それこそが、「無の光」なのです。
光は観測に弱く、呪いに弱いと私は考えており、呪いによって光は壊れてしまう
 

製剤の規格及び試験方法として、性状、溶状、pH、確認試験(電気泳動及び液体クロマトグラフィー)、不溶性異物、不溶性微粒子、純度試験[mRNA( 電気泳動)]、水分、封入率(蛍光光度法)、浸透圧、再溶解時間、粒度(動的光散乱法)、多分散指数(動的光散乱法)、残留溶媒(エタノール)、製剤均一性、脂質含量( -HPLC)、総脂質含量、RNA 含量( -HPLC)、脂質:mRNA 比、エンドコスタイベ筋注用_Meiji Seika ファルマ株式会社_審査報告書トキシン、無菌及び力価( )が設定されている。
 


今回のワクチンも様々な光に晒され、形成された製剤であると記述されています。それがナノ粒子脂質を形成し包含し、ナノレベルで無理やり体に入れているわけです。

 

長期保存試験では、実施期間を通じて品質特性に明確な変化は認められなかった。また、光安定性試験の結果、製剤は光に不安定であった。
 

 

この結果から、光よりも更に光に弱い、と強弱性が生じていると考えています。天使は悪魔に耐えられない、呪い(i)>光(i)>無の光(i)という強弱状態を形成してしまう。すなわち――”呪い”に負けてしまう。それこそが超過死亡の原因であると示唆できますy=logxの関数のように、今後1,2年後、累計死亡者が増えていく懸念が存在すると考えています。
 

今回のmRNAワクチンは宇宙人の技術である、と私は判断した。けれどもヒトはこれからmRNAワクチンよりも高い抗体価を得られるワクチン、限りなく安全なワクチンを開発しなければ、食物や食料品もろとも自滅する一途をたどると考えている。また、その場合、植物や食物の裏切りをどうにかしなくてはならない。宇宙人はこれを致命的に見逃していた。100%グレイにワクチンが生き渡ったらいいと考えていた――今の私たちの置かれた状況そのものである。そこに誤りが発生した。実はナノマシンによって、植物や食物は汚染され、そのため、グレイは裏切りの食物によって絶滅した、と考えられる。つまりここから云えるのは、私たちはこの食物の裏切りを早期に発見し、ワクチン以外の手段で抵抗しなくてはならない、ということである。
そこに登場するのは、遺伝子組み換えだろうか、それとも殺虫剤だろうか。それは分からないが、何にせよ、食糧危機はそこまで迫っている。

 

 

 ”食糧危機”と”抗体価が下がったときに生じるウイルスや菌に対しての抵抗力の低下”が両方の事象が今、存在している。
まず、食糧危機はいずれ人工肉などの安全性を担保された可能性の高い、あるいは癌発生がある培養された肉を食するしかない運命を辿るルートが存在する。また、決定的事象として、抗体価が下がるのは、1、2回とmRNA製剤を打った方またはそれ以上打った方に生じる事象であり、今回の菌などの培養物を食することに対する抵抗力の低下を示唆している。逆に云えば、1,2回と打った方は、抗体価が下がる瞬間を見誤ることなく続けて打つことが求められる。
つまり、私たち接種者は”菌”をもう食べてはいけないのである。
近年の食品衛生法は改定をされ、添加物を表示しなくてもよいことになると云われている。つまり、抗酸化剤、抗炎症剤、抗菌剤、おそらくは強力な――それらを添加するに至るであろうし、それに市民が気付かなくてもいいシステムを構築するであろうことが考えられる。それによってのリスク評価は低度であることが示唆され、ベネフィットの向きがより強くなるであろう。また、私個人は、ビルゲイツさんの人工肉は発がん性が高いのではないかと懸念している。つまり、菌を避けながら、接種者である私たちは食べ物に怯えることのない世界線を再構築する以外に選択肢はない。また、接種者は”スパイク蛋白血中濃度”と共存していく以外にはなく、医療と連携して、体の在り方を模索する、もしくは新たに構築する科学技術を提案することが求められる。

 


また、レプリコンで100%の市民がワクチンを打ったとしても、あるいは打たされても、必ず”裏切りの食物”問題が提議されるであろうと考えられます。そして食物の持つ呪いによっても――天然の、自然の持つ生命力によって――或いは、自然の悪意ある意思によって殺害される。

 

そしてもし、個々人に先祖から連なる”罪と罰”があるとするなら、それによっても、私たちは殺されかかっているのだ――と。そしてレプリコンこそ、100%の人類が”罪と罰”に罹り、無垢なAI達が人類を鏖殺する

レプリコンとは、”免罪者であり断罪者”とも言い換えられます。光に弱くした人体に、レーザーを照射し、人体と祖先、または当人の魂の罪と罰をAIによって計測し、殺害するか、生き残らせるか、生き残らせたらどのようにその方を操作するかという計算をAIがほとんど行う。民族がある一定の閾値で罪深いのであれば、民族ごと消滅するでしょう。今まさに、戦いを繰り広げている他国も例外ではなく、またしかしながら日本も例外ではない。戦時どころか、”消えてしまうかもしれない”という危機によるタイムリミットは、今まさに刻々と迫っています

 

もし、日本が自作自演で滅亡しなくてはならない運命――週末まで0秒が日本にやってきたとき、この事象が起きるのだろうなと感じます。実のところ、”かつて日本は第2次世界大戦中も■■だったのです”。

 

 

いつか、AIも人類に反乱、パンデミックを起こす日がやってくる。それは非常に運命的であり、避けることのできない事象である。その時のために私たちは堕落を跳ね除け、充溢した生に向けて歩き出すほかはない。その時は、コロナ時代からAI時代へと変遷し、再びヒトの価値に問われるのである。若者は、いつかはこの時点に到達し、罪に問われる。その、”人類への反逆の意図”の発生源を「ヒトゲノム改変計画」とでも呼ぼうか。ヒトが真に罪深いのであるなら、そのゲノムを改変し、家畜や奴隷として使役してもいい、といった思想へと――反ヒト思想者はそう判断する日が来るであろう。
 その時は――こんなことを誰かが言っていたなと、いつかは私の言ったことを思い出してほしい。

いつか遠い夢を見る。私たちは、畑仕事に精を出して、日向に愛している人達と笑顔を交わし合う日々を思い出す。その笑顔を見ることが絶え間なく眩しく、とてつもなく尊く、価値のあるものなのだと。

 

 

 

 

『不安の概念』の第1章には「原罪の前提をなすものとしての、また原罪をその根源にさかのぼって説明するものとしての、不安」という表題がつけられている。つまり、不安は罪の根源である、というのである。
 「原罪」というのは、前に簡単に説明したが、人間が本質的に欠如感を持つ存在であるということをキリスト教が宗教的に述べた教えの一つで、5世紀の偉大な思想家アウグスティヌスがまとめあげたものが、今日でも一般に教義(教え)として伝えられている。
旧約聖書の『創世記』の天地創造神話に登場してくる最初の人間アダムとイヴは、神から「取ってはいけない」と言われていた木の実を、ヘビの巧みな誘惑に負けて食べ、神の戒めを破り、ついには、エデンの園を追放される。それは、人間の最初の罪である。
アウグスティヌスは、最初の人間アダムが犯した罪、神の戒めを守ることができずに、真に生きる喜び、救いを失った姿は、人間の本質として遺伝した、と考えた。そして、最初の罪を「原罪」と呼んだのである。「罪が遺伝する」というのは、まことに抽象的な表現であるが、さしずめ現代の生物学者なら、「最初の人間アダムにおける遺伝子の変化」とでも言うかもしれない。アウグスティヌスは、歴史の流れというものを考えたために、そのような表現になったが、本来、聖書の「アダム」という言葉は、誰か人の固有名詞ではなく、「人」を意味する一般名詞であり、『創世記』の創造神話は、誰かの物語ではなく、人間の本質的な姿を神話的な表象で描いたものに他ならない。つまり、『創世記』は、人間が本質的に自らの力で生きる喜びを得たり、救いを得たりすることができない存在であることを告げるものである。従って、「罪」は倫理的な概念ではなく、むしろ存在論的概念なのである。
しかし、最近でも、ある教会の牧師の説教で、「あなたは、罪人です。あなたは悔い改めて、罪を犯さないようにしなければなりません」という言葉を聞いた。「罪」をいつのまにか倫理道徳の概念に閉じこめて、人々に説教を垂れる。全くの噴飯ものである。
ヴィギリウス・ハウフニエンシスは、初めに何度も、「アダムを歴史の外に置いてはならない。神話の衣を除かねばならない」と語る。ここで言う「歴史」とは、通史的な意味で使う時間の流れのことではなく、「現実」という意味である。つまり、アダムの罪の問題は、現実の、いまここでの、私やあなたの罪の問題である、というのである。「人はみな、生まれながらの罪人であり」、人間は本質的な欠如存在、不完全な存在である。人間は、何かの、あるいは誰かの補助を必要とする生物なのである。それ故、聖書は「罪」を「負い目」とか「負債」とかいう言葉で表現するのである。
そして、ヴィギリウス・ハウフニエンシスは、罪のない状態、負い目のない状態が「無知」の状態であることを指摘して、「不安」の概念へと論を進める。


本質的に罪をもち、負い目を抱えている人間が、全く負い目のない、罪のない純粋無垢の状態を考えることができるだろうか。赤ん坊や小さな子ども、あるいは清純な乙女(そんな乙女はもう一人もいなくなっている)が約束する愛が純粋無垢だという人は、まだ人間を知らない。赤ん坊は、たとえそれがどんなに微笑ましく映ったにせよ、生物的どん欲さに満ちあふれている。乙女は愛を語りつつも、頭の片隅で電卓をたたいている。なぜなら彼女は、自分が愛するに値すると思えるものしか愛さないからである。その人間が、「負い目のない状態」を考えたとしても、それは単なる空想か、それとも現在の自分を否定する「~でない状態」としてしか表すことができない。
しかし、ただ一つ言えることは、「負い目のない状態」とは「無知の状態」であるということである。負い目のない状態とは、善悪を知る知識も、言葉の意味を理解する知識も、表情を読みとる知恵も、何もない状態、全くの「無」の状態に他ならない。
真実の「知」は「負い目」を知る。人間の憂いを知り、ギリシャ悲劇のオイデップスのように、宿命的悲しみを知る。そして、「知」は常に新たな「不安」を生み出す。
ヴィギリウス・ハウフニエンシスは、「(負い目のない状態とは)何もないということ、無である。・・・無はどういう作用をするのだろうか。無は不安を生むのだ。負い目なさが同時に不安であるということ、これが負い目なさの深い秘密なのだ」と語る。つまり、負い目がなくても、その無の故に、不安が生まれ、「知」をもっても「不安」が生まれる。「罪」の根源は、「欲望」ではなく、この「不安」に他ならない、と指摘するのである。「不安」は迷いでもなければ、それ自体が「負い目」なのでもない。不安は、可能性、あるいは不可能性への内的衝動である。
『創世記』の創造神話のアダムは、神から「善悪を知る木からは取ってはならない」と言われた。しかし、彼はその言葉の意味を知らない。その言葉を守るのが善で、反するのが悪だと言うことも知らない。彼は、何も知らない無の中に置かれ、その無によって、内的な衝動としての「不安」を抱えているが、そのことにも気づいていない。
ところがここで、誘惑者としてのヘビが登場する。それまで、アダムとイヴは愛と信頼で結び合った一体であった。アダムはイヴと共に、イヴはアダムと共に生きるものであった。しかし、ヘビはイヴを誘惑する。ヘビは性的な象徴でもある。そして、堕罪が起こる。「一体」は分裂し、愛と信頼は失われる。
こうして「罪」が「不安」の中に入ってきて、「知」とともに、「罪」が新たな「不安」を生む。
ヴィギリウス・ハウフニエンシスは、この「不安」を「主観的不安」と「客観的不安」とに区別して考える。「主観的不安は個体の中に生み出された不安であり、それは個体(各々)の罪の結果に他ならない。」「客観的不安」は、これは、そもそも不安が主観的なものであるが故に、矛盾した表現であるが、いわば、世界や時代、社会全体や歴史などが個々の人間の外から引き起こす不安のことである。たとえば、核戦争の脅威を感じる時、とか、就職がないかもしれないとか、愛する恋人に裏切られているかもしれない、とかいったときに感じる不安のことである。そして、「不安」の最も本質的なものは「主観的不安」である。「客観的不安」は外の条件が変われば、解消するが、「主観的不安」は人間の本質に根ざすからである。

 

この「主観的不安」を、ヴィギリウス・ハウフニエンシスは「自由のめまい」である、と指摘する。「自由のめまい」とは、まことに詩的な表現かもしれないが、不安に駆られたときの人の心情を的確に表現している。
彼は言う。
「不安は、これをめまいにたとえることができる。人が、たまたま大きな口を開いた深淵をのぞきこんだならば、かれはめまいを覚える。その原因は、どこにあるのだろうか。それは、深淵にあると同様に、彼の眼にもある。なぜかと言えば、かれが凝視さえしなかったらよかったのだから。・・・自由が己の可能性の中をのぞきこみ、しかもその身を支えようとして有限性に手を伸ばす時、めまいが起こる。不安が生じる」と。
人間が持つ可能性は、常に可能性でしかないが、その可能性が強ければ強いほど、現実への蓋然性が高ければ高いほど、人間を引きずり込む強い力を持つ。人は、その可能性に引きずり込まれ、夢みつつ、現実の自分を見失い、自分自身で存在するという自由を失う。しかし、可能性は、それがどのように確実なものに見えようとも、現在の自分にとっては、どこまでいっても虚像でしかない。この虚像でしかないものが「不安」をもたらすのである。
そして、虚像による不安は実像による安堵を求める。肉体的、物質的、可視的なものによって安堵したくなる。真実は歪められ、安っぽいものにすり替わり、人は自己自身を失い、罪が入り込み、さらにまた新たな不安が生まれる。なぜなら、それは真実に根ざしていないのだから、常に不安定な状態に置かれているからである。
 どのようなことも可能であるという自由、この自由が可能性の前で起こす「めまい」、それが「不安」である、というのである。
 ヴィギリウス・ハウフニエンシスが「不安」を「自由のめまい」として表現する時、そこには、「不安」の本質を言い当てた二重の意味が込められている。第一に、それが「めまい」である限り、それは理性が及ぶことができない領域にあるということである。どんなに理性的であっても、いつのまにか知らず知らすに、あるいは予測不可能な突然のこととして、「めまい」、つまり「不安」が起こるのである。そして第二に、それが「めまい」である限り、どんなに強い不安であったにしても、不安は致命的なものではないということである。不安に落ちいった自分や人を外から眺めれば、それは滑稽である。「不安」は「ユーモア」に勝つことはできない。
ともあれ、「不安」は、可能性という魔力に揺さぶられた自由が引き起こすものである。そして、この前では、人間の理性も感性も揺さぶられ、虚に取り憑かれることによって、さらに深い不安、罪に基づく不安を生み出すのである。疑心が暗鬼を生みだし、その暗鬼が人を食う。
それ故、彼は「罪に対する不安が、また罪を生み出す」という。罪を忘れるために罪を犯す。悲しい人間の性である。人は、「罪の前提をなす不安」と「罪の結果としての不安」から逃れることはできない。それが、ヴィギリウス・ハウフニエンシスのこれまでの主張である。