「ナチスの手口学んだら」麻生副総理の失言と言うより本音が出た。
誰も気がつかない間に、いつの間にか変えてしまえ・・本気でそう思っているから始末に悪い。

 自民党を勝たせ過ぎた弊害が早くも出た、奢り昂ぶった自民党の暴走を止めなければ大変なことになる。

 このままでは、集団的自衛権の発動で、アメリカの起こした戦争に、日本の若者が駆り出され命を落とす日がやってくる。

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 スポニチ Annexより
麻生副総理 改憲でナチス引き合い、都内の講演で語る
【 麻生太郎副総理兼財務相は29日夜、都内で講演し、憲法改正をめぐり戦前ドイツのナチス政権時代に言及する中で「ドイツのワイマール憲法はいつの間にか変わっていた。誰も気がつかない間に変わった。あの手口を学んだらどうか」と述べた。

 「けん騒の中で決めないでほしい」とし、憲法改正は静かな環境の中で議論すべきだと強調する文脈の中で発言したが、ナチス政権を引き合いに出す表現は議論を呼ぶ可能性もある。

 麻生氏は「護憲と叫んで平和がくると思ったら大間違いだ。改憲の目的は国家の安定と安寧。改憲は単なる手段だ」と強調した。その上で「騒々しい中で決めてほしくない。落ち着いて、われわれを取り巻く環境は何なのか、状況をよく見た世論の上に憲法改正は成し遂げられるべきだ。そうしないと間違ったものになりかねない」と指摘した。

 安倍晋三首相や閣僚による終戦記念日の靖国神社参拝を念頭に「国のために命を投げ出してくれた人に敬意と感謝の念を払わない方がおかしい」とし「静かにお参りすればいい。何も戦争に負けた日だけに行くことはない」と話した。】

―ワイマール共和国期およびナチス期の政治・政党に関するコレクションより―
『ヒトラーが総統になった日』
【1.当該時期のドイツの状況
このコレクションの内容を紹介する前に、当該時期のドイツの政治状況について概観してみよう。
「ワイマール共和国期およびナチス期」とは、ドイツ政治史において 1918 年から 1945 年までの約 27 年間をさして
いる。第1次世界大戦(1914~18 年)末期の 1918 年 11 月、ドイツでは革命が勃発し、帝政が崩壊、新たに共和政が
スタートした。最初の憲法制定国民議会が革命の喧騒を避けて、首都ベルリンではなくドイツ中部のワイマールで開
かれたため、新しい共和国は「ワイマール共和国」と呼ばれた。しかし、国民主権、議会制民主主義、男女同権、社
会権的基本権などを保障した有名な「ワイマール憲法」を持つこの共和国はその高い理念とは裏腹に絶えず政治的混乱に悩まされ、特に 1929 年 10 月の世界恐慌の発生後は大量失業や相次ぐ企業倒産から国民の信頼を失っていった。
その混乱の中で政治の表舞台に登場したのが、アドルフ・ヒトラー(1889-1945)を指導者とするナチス(国民社会主
義ドイツ労働者党)である。この政党はワイマール憲法の理念とは対極的な、指導者への個人崇拝(反民主主義)、ド
イツ民族至上主義、反ユダヤ主義を唱えていた。1930 年 9 月の総選挙で泡沫政党から第 2 党に躍進したナチスは、続
く 1932 年 7 月の総選挙では第 1 党の地位を勝ち取った。この国民諸階層からの高い支持を背景に、1933 年 1 月、ヒト
ラーは大統領によって首相に任命され、ナチスは政権を獲得したのである。
政権獲得からわずか 2 年のうちに、ナチスは反対派を粛清し、独裁体制を築いた。ヒトラーは 1934 年 8 月に首相、
大統領、国防軍最高司令官の機能を統合した「総統(Führer)」の地位に就いた。この間、ワイマール憲法の人権規定
は停止され、ナチスの価値観に基づくドイツ社会の一元化が進行した。ナチス体制の下では軍備拡大が推し進められ
たが、これをきっかけにドイツ経済は回復し、国民生活が安定したことで国民の中でのヒトラー人気は絶大なものと
なっていった。しかし、同時にヒトラーは軍事力を背景とした領土拡大(他国への侵略)を強行し、1939 年 9 月のポ
ーランド侵攻をきっかけに第 2 次世界大戦(1939~45 年)を引き起こすことになった。】一部抜粋