習慣化コンサルタントの古川です。
素敵な文章の引用からスタートしましょう。
月が欠けているとき、あなたは輝く明るい部分を見る。
それは半月と呼ばれるだろう。
しかし、澄んだ夜に注意深く見ると、明るい部分だけでなく、
静かに揺らめく暗い部分を見ることができる。
わたしのようにほとんどの人々は明るい部分にしか焦点を当てず、
月の暗い部分を見逃している。
輝く明るい部分は月全体の一部でしかない。
月の明るい部分にしか焦点を当てず、暗い部分を無視することによって
われわれは暗い部分など存在しないと思い込んでしまう。
しかし、月が全体であるには本当は暗い部分も必要なのである。
アーノルドミンデル「24時間明晰夢」より
この月のメタファーは、
自分自身のことにも当てはまるのではないでしょうか?
私たちは、自分の長所に眼を向けるが、
短所は忌み嫌う影だと思う。
自分という存在をあるがままに愛するということは、
月そのものの全体を見ることに他ならないのですが、
私たちは、光と影をつくることで
必ず分裂します。
たとえば、
私の例でいうと、
「男は、強くいなければならない」
という価値観を持つと、
自分の中に光と影が生まれます。
私の中にある、
強さ、男らしさは、
それはもう喜びます。
光となって「強さ」は誇らしさになります。
しかし、一方で、「繊細さ」という自分の一部は
否定されて、拒絶されて、影になります。
でも強くならなければならないと
言って繊細さを否定していたところは、
身体にたくさんのストレスサインが出ていました。
突発性の難聴だったり、頭痛だったり・・・
でもそれ、全部強くない象徴だから
無視するんですね。
月のメタファーで言えば、光が当たらない部分です。
しかし、私というあるがままの存在は、
強さと繊細さを両方兼ね備えた人物なのです。
ある価値観で、一方を受け入れ、一方を否定すると、
このように光と影が出来上がるのです。
私は、強さと繊細さの両方を今は受け入れています。
繊細さは、私がクライアントの気持ちに
共感するときにとても重要な資質です。
また、本を書く時に
続かない人の苦しみや辛さ、心が折れてしまうことに対する
深い理解の源になっています。
強さと繊細さが同時に
私というフィールドで存在できるようにする。
これが統合。
統合したら、矛盾がなく、葛藤がなく、とてもナチュラルなのです。
しかし、これまで身につけてきた
思考習慣により、分断されてしまう。
それは国同士の戦争を作り出すように、
自分の中に葛藤という戦争を作り出し、苦しみをつくります。
あるがままの自分、
ナチュラルな自分というONENESSの世界では
本当は区別もなく、光も影もないのに。
月は、月なのです。
光の当て方で、見え方は変わっていますが、
月はそのまま月として存在している。
月を月として見ることができれば、
光と影はなくなります。
ちなみに
影を扱うことは、短所を修正することではありません。
短所だと思っている時点で、
すでに影になり、修正しようとすればするほどに、
影が濃くなります。
できない自分がどんどん濃くなっていく。
そうではなく、全く超越して自分を見るのです。
もちろん、
短所を修正しない=自分を甘やかすということでもないのです。
すでに長所・短所というパラダイム自体が
光と影を作り出し、
その人の、固有のその人らしさを発揮する妨げになっていく。
ナチュラリティーとは自然性という意味ですが、
本来あるナチュラルな自分になっていくということは、
光と影を超越して1つになっていくことです。
強さと繊細さは、
私の中で猛烈な矛盾があったのが、
今はない。
これがONENESSです。
そして、矛盾がなくなったとき、
私らしく強さと繊細さが力になる。
ロジカルに理解しようとするのではなく、
感性で感じて見ると、この統合は腑に落ちるのではないでしょうか?
許すとか、短所を受け入れるとか、
そういうことではなく・・
月が光っているところと影の部分がある状態から
強引に月の全体を見ようとするのでもなく。
光と影がない、
そもそもの次元に戻る。
戻ってあるがままに見たら、
もう矛盾がないのです。
そしてナチュラルな自分がいて、
それは長所・短所などという短絡的な自己分析を
超越した存在がいるのです。
どこまで伝わったか変わりませんが、
何か気づきになれば幸いです。