玲瓏透徹 -2ページ目

玲瓏透徹

あなたの正統性は、どこから?

 濱田浩一郎氏は「平泉澄博士の人物論 ――鎌倉北条氏・楠木正成・足利高氏――」を日本学協会の雑誌『日本』令和3年5月号に載せた。
 平泉の人物論というテーマは本ブログでも頻繁に取り上げてきたものである。その点で関心を持ち、濱田氏の論考を閲覧する機会を得た。その内容については深入りしないが、2点ほど述べておきたいことがある。

1、北条氏の評価について
濱田氏は次のように書く。

『建武中興の本義』以降、北条泰時の高評価が限定的・抑制的になったとする向きもあるが、同書では泰時を「英傑」と評しているので、限定的とするのが正しいかは議論の余地があるだろう。(22頁)

 ここで言う、「『建武中興の本義』以降、北条泰時の高評価が限定的・抑制的になったとする向き」は、私の書いたものを指すであろう(「平泉澄 北条氏評価の変化について」、令和2年)。その記事で私は「ただし、泰時の美点を手放しで褒める『日本歴史物語』に比べると、その高評価も抑制的・限定的になっているのは明白であろう」と書き、また「泰時については、『日本歴史物語』以降、泰時への高評価は全くなくなりはしなかったものの抑制的・限定的になり、時頼への高評価はなされなくなり、否定と言ってもよいほどの低評価となった」とも書いている(後者は文章の見直しが不十分であり、「泰時については」「泰時への」が重複している)。
 氏の批判内容からも、「限定的・抑制的」という表現が拙稿と一致していることからも、氏の言う「向き」は私の議論であり、拙稿を踏まえているのは明らかであろうと思われる。
 であれば、批判対象となる先行研究(?)として明記してくれてもよさそうなものであるが、所詮は電子の海を漂うブログごとき、名指しする価値もないということであろうか。尤も、批判対象の出典を明記しないことはよくあることでもあり、まだよい。本当の問題は次である。

2、「足利高氏」の評価について
 濱田氏による平泉の「足利高氏」論の結論部を見てみよう。

博士は「歴史を生かすものは、その歴史を継承し、その歴史の信に生くる人の、奇しき霊魂の力である」(「歴史における真と実」『我が歴史観』至文堂 大正十四年、後に平成十年刊行の田中卓編『平泉博士史論抄』青々企画に収録)との思想を持っておられた。(中略)博士にとって重要なのは、「継承及び発展」であるが、足利氏の行動は私欲を根本とするため「歴史においてただ破壊的作用をするだけ」であった。このような思考法によって、博士は、足利氏を全否定するに至ったのであろう。(27頁)

 氏の言っていることは、私が平成30年に書いた「平泉澄はなぜ足利尊氏・直義を全否定したのか」の結論部と同じである。その部分は以下の通りである。

平泉の歴史哲学について詳述するのは避けるが、簡単に言えば、国史学の意義は、歴史上の偉大な人物(楠木正成など)の人格を「回顧」によって感得し、継承することにある。
「歴史を生かすものは、その歴史を継承し、その歴史の信に生くる人の、奇しき霊魂の力である」(「歴史における真と実」1925年)
 重要なのは、「継承」であり、忌むべきは「破壊」である。歴史上の変化は「発展でなければなら」ず、「革命や滅亡によって、国家の歴史は消滅する」(「国史学の骨髄」1927年)のである。天皇を中心とする日本の歴史を閑却し、私利私欲のためだけに動く足利氏は「継承及び発展には、微塵も貢献することはできない」のである。
 畢竟、足利氏には理想も大義もなく、私利私欲のためにだけ動いて人倫を蹂躙し、それゆえ「歴史」に「破壊的作用」を及ぼすのみであって、足利氏は歴史になんらの貢献を果たしていない。足利氏に「勇気」や「手腕」があたっとしても、歴史に破壊的作用しか及ぼさない限り、評価するに値しないのである。
 そうみなしたからこそ、平泉澄が足利氏を全否定したと結論づけられよう。

 行論がほぼ同じであるだけでなく、平泉の思想を紹介するために行った「歴史における真と実」の引用箇所まで同じである。

おわりに
 論文は然るべき媒体に掲載されてこそ意味があり、後から編集できるブログなどの記事の価値は極めて低い――。という判断には一理あろう(現に私もブログでは、追記や大きな変更などを除き、特に断りもなく誤字脱字や表現の修正を行ったりはする。尤も、本稿で言及した2つの私の記事は、濱田氏論文発表の前年以前が最終更新日時となっているバックアップファイルが存在している)。研究者が「ネット上の駄文などは先行研究と呼ぶに値しないからわざわざサーチをかけない」ことは特に非難されることではないであろうし、当ブログ如きを持ちだして「先行研究として明記されずスルーされた!」と騒ぎ立てることにもあまり意味はないであろう。

 濱田氏が平泉の北条氏評価について、私のブログの存在と平泉論の存在を把握しているということは確かであると見てよい。私の記事を見、その内容を踏まえながら、特に先行研究(?)として明記することなく論を進めているであろうことは既にみたとおりである。

 当ブログを把握しているとすれば、平泉の足利氏評価に関する私の記事についても、存在を把握し、内容を確認している蓋然性は高い。その上で、全く同じような議論・結論を、特に私の書いたものに触れることなく展開しているというのは、どういうことであろうか。誰にでも起こりうる「先行研究の見落とし」「先行研究の記載漏れ」「調査不足」などではなさそうである。

 当ブログの平泉論は、特にアクセス困難な史料を用いているわけでもなければ、博引旁証や高度な論理展開を行っているわけでもない。入手の容易な書籍から、言説を拾いだし、平泉の思想と絡めて議論を組み立てているだけである。それゆえ、「たまたま同じような論の組み立てと結論になった」という人がいてもおかしくはないと思っている。しかし、前述の通り、濱田氏は私の記事や当ブログを把握している蓋然性は極めて高いと見てよい。「たまたま」である可能性は低いのではないか。

 その上で、濱田氏が平泉の足利氏論論において、数年前に公開された拙稿と同じようなことを書いている(ご親切にも、「歴史に於ける実と真」の引用箇所まで同じ)のは、どういうことか。

 

 これは、世に言う「○○」というものではないだろうか。研究倫理上、問題のある行為を指す二字熟語である。

 

【2023年1月22日 追記】

続きはこちら

【2023年4月1日 追記】

濱田氏論文を剽窃と見なす、より詳細な根拠はこちら

はじめに

 現在、我が国の皇位継承権について、男系主義を維持するか、女系継承を認めるかの論争は絶えない。
 しかし、世間一般では、「男系」「女系」の意味や「女性天皇」と「女系天皇」の違いなどは必ずしも広く認知されていないか、そもそも大きな関心は引いていないように思われる。そもそも、皇位継承問題について積極的に持論を展開する人が、人数としては明らかに少数派なのは疑いない。多くの人々にとって、皇位継承問題は経済生活にも精神生活にも、主観的には直接かかわってこない事柄であろう。彼らからすれば、「男系」「女系」の争いは、一部のマニアックな人たちの「神学論争」であり、何をそんなにムキになって争っているのかよくわからないことであろう。
 そのゆえか、中には「男系がどうの、女系がどうのという皇位継承問題は本質的な問題ではない」と主張する人もいる。“何にとって”「本質的でない」のかは明示されておらず、よくわからないが、だいたい言いたいことは伝わってくる。皇位継承が男系で行われようが女系で行われようが、天皇の国制上の地位や政治との関係が変わるわけでもなければ(「国制的に本質的ではない」)、神道と国家との関係が変わるわけでもなく(「政教関係的に本質的ではない」)、天皇と国民との法律上・事実上の関係が変わるわけでもない(「君民関係的に本質的ではない」)、だから皇位継承問題は「本質的ではない」「枝葉末節の問題である」ということであろう。大体の共通項を取れば、「国家の重要問題にとって本質的ではない」という主張だと理解してよい。

 しかし、君主国にとって、君主の位をどう継承するかの問題が「国家の重要問題にとって本質的でない」はずはない。具体的な現実政治上の問題でもさることながら、国家の体制を支える思想や国制構想の点でも、そうである。言ってしまえば当たり前のことを、改めてここでは述べていきたい。ここでは、あくまでも本邦の皇室に限らず、「君主制」と一般に認知される体制(「君主」として認知される、何らかの名誉ある地位を持つ1者を戴く体制)全般の話として議論を進める。(時代や国によって、また君主権の範囲や強弱によって前提が異なってはくるのだが、ここでは大雑把な枠組みの把握を目的としているため、詳細には立ち入らない。歴史的事実の詳細や思想的な詳細にも立ち入らない。ここで行うのは、特に参考文献を設けることのない、大まかな素描である)
 

1、世襲君主制と選挙君主制

 そもそも君主国には、ある血筋が続く限り特定の一族に君位継承権を限定するか、それとも特定の家系に限定せずに選挙によって新しい君主を選ぶかの違いがある。これも「君位継承権」の問題である。細かく説明するまでもなく、ある君主国が前者(世襲君主制)と後者(選挙君主制)のどちらであるかが、その国家にとって「重要問題」でないはずがない。世襲制か選挙制かで、現実政治のあり方も政治文化のあり方も、体制の依拠する政治思想のあり方も異なってくることは、少し想像すればわかるはずである。

 

2、厳格で客観的な継承法の有無
 次に、同じ世襲制であっても、客観的な継承法によって君主の一族に厳格な継承順位を定めている体制(継承法によって自動的に継承順位が割り振られる体制)と、何らかの形(君主・有力者の意思など)で都度人為的に継承者を決定する体制の違いがある。前者は体制がある程度安定していて、継承法に合意が存在していれば、安定的な君位継承が可能な制度であるといえ、後者は国家体制の整備途上で君主に相当の政治的力量が求められる体制や、君主や政治的有力者による後継者指名が政治上重要な役割を果たす体制によって運用される方法であるといえる。日本の例を挙げれば、皇室典範制定以前は後者(律令制成立以前の君主は政治的力量を求められ、それ以降かつ前近代の天皇は皇太子制が取られ一定の制度は整っているものの継承者選定が重要な意味を果たしていたといえる)であり、皇室典範制定以降は前者(継承候補者の病気などの事態や例外的事態、典範の改正などがない限り、天皇や有力政治家が皇位継承者を恣意的に変更することは出来ない)である。

 前近代の日本で皇位継承をめぐる政争や戦争が頻発したことは言うまでもない。また、このような具体的な現実政治の問題だけにはとどまらない。継承法を君主や有力者の恣意を越えたところに置こうとする発想は、君主と雖も法の下にあるとする、ある種の「法の支配」的な発想であり、国家の依拠する重要な政治思想であるといえる。皇位継承順位を定めるか否かもまた、国家にとって重要な問題でないはずがない。


おわりに
 以上、説明するのも馬鹿馬鹿しいくらい当たり前のことを述べた。さらに当たり前の説明をしよう。日本は世襲君主制であり、現在は皇位継承法によって皇位継承順位を明確に定めている体制である。そして皇位継承法である皇室典範が継承権を「男系」に定めている。その継承権のあり方を変えないか、どう変えるか(男系庶子や皇室外の男系皇裔などの現時点で継承権のない男系の人物に継承権を与えるか、女系に継承権を与えるか等)が、現代の皇位継承問題の争点である。
 この争点は、「世襲君主制か選挙君主制か」「客観的な皇位継承順位が定められているか、定められていないか」といった問題に比べると、スケールが小さく、影響範囲の小さい問題ではある。その意味では「(君位継承権の問題の中では)枝葉末節」であるとはいえても、あくまでも程度の問題であって、男系・女系の論争から「皇位継承問題は(国家の重要問題にとって)本質的な問題ではない」という命題を導き出すのは明確な誤りであると言わざるを得ない。

 

 

【余談】

 非君主制国家でも、大統領などのトップの選出方法という「継承問題」がある。トップが事実上世襲されるか選挙で選ばれるのか、選挙の場合直接選挙で選ばれるか間接選挙で選ばれるか、その選挙をするにしても選挙権が制限されているかいないか、は重要問題であろう。この問題は、現実政治のあり方のみならず、依拠する政治思想や国制構想の違いにも関連する問題である。君主国の継承問題を「本質的でない」とする者は、かかる問題を非君主国にとって「どうでもよい」とするのと同程度の無見識であろう。

 なお今回は、男系主義者や非男系主義者の依拠する具体的な国制構想や思想は何か、には立ち入らない。男系主義者も非男系主義者も思想的に一枚岩ではなく、「(非)男系主義者の依拠するイデオロギーはこれだ」と断定することは困難である。一般に言われていたり、自称したり、相手方へのレッテル貼りをともなって主張されたりするのは、以下のようなステレオタイプであろうか。(「☆」は積極的な自称。それ以外は対立者からの悪口を含む)
○男系主義者
・保守主義者(☆男系主義は伝統的な天皇のあり方の根幹であり、変えるべきではない)
・非男女差別論者(☆皇室における男系女系は男女平等の適用の範囲外であって、男女差別には当たらない)
・家父長制の支持者(家のトップは男であるべきであり、家は男の血筋を基準とすべき。当然、「家」は大切なものである)
・男女差別論者(女は男よりも下であり、女系血統の価値は男系血統よりも価値が低い)
・戦前賛美論者(男系を維持することで「万世一系」の戦前的価値観を存続させようとしている)
○非男系主義者
・保守主義者(☆男系主義は皇室にとって絶対の価値ではなく、皇室を護持するためには変えても問題はない。女系継承でも「万世一系」は崩れない)
・男女平等論者(☆男女平等は皇室にも適用されて当然である)
・「家」の破壊者(男系主義の論理で維持されてきた皇室の特殊な「家」=「氏」を普遍的な平等論を振りかざして破壊)
・原理主義的平等論者(男女平等という人間の平等は皇室にも適用されて当然。この平等論を突き詰めると皇室の存在そのものも相対化される)
・「リベラル」(英米的転回後の「リベラル」な価値を皇室にまで適用させようとしている)

 自ら積極的な原理を主張するにせよ、対立論者の意図を被害妄想的に評価して警戒するにせよ、それらは国のあり方や社会のあり方への問題意識の反映である(「国のあり方」を越えて「社会のあり方」を皇位継承問題を通して主張する場合、その論者は国家と社会を直線的に結びつける思考の持ち主であり、主観的には「国家の重要問題」を語っていることになるであろう)。実際に皇位継承問題が何らかの進展を見せることで、上記の政治思想や社会思想がただちに我々の国民生活に影響を与えるようには思えないにせよ、何らかの思想に基づいて、国家の重要問題に関する決断が行われたことになるのは疑いない。

 現代の皇位継承問題の根本的な対立軸は、男系継承を貫く(悠仁親王に男子が生まれることに賭け、かつ歴代天皇の男系末裔に当たる一般人に皇位継承権を与える)か、女系の継承権を認める(愛子内親王・佳子内親王本人及びその子孫、悠仁親王の女子及びその子孫に継承権を与える)か、の二つの立場にある。しばしば、前者の立場は「保守」と、後者の立場は「リベラル」と見なされる。しかし、後者の主張は、所謂「リベラル」な人々が主唱する「普遍的な」価値(男女平等など)に基づかなくても、唱えることは可能である。いうなれば、右翼(「保守」「反動」「日本の固有・特殊を重んじる者」「歴史主義者」「伝統主義者」「君主主義者」など。どれでもよい)でも女系継承を主張し得るのである。
 現在、女系継承を継承問題の議論の俎上に載せようと奮闘する政治勢力は「リベラル」とされる立憲民主党のみである。また、女系継承権を主張する皇室に詳しい学者も、多くは「リベラル」な者の共感を呼びやすそうな議論を展開している。私は、そのような「リベラル」な立場、「普遍的な」原理から継承問題を議論することを非とするのではない。ただ、「右翼」的な立場からも女系継承権を主張し得るということが認識されず、男系主義と非男系主義の対立が「保守」と「リベラル」の対立と同一視されがちなことを憂えるのである。ゆえに、本稿では、「右翼」の立場からも女系継承を主張し得ること、「歴史」「伝統」を盾に取った議論は男系主義の専売特許ではないことを示してゆく。

1、「天壌無窮の神勅」と世襲
 非「リベラル」な立場にあり、かつたいていの自覚的な「右翼」(前述)であれば、天皇が日本に君臨することの正統性の根源は、「国民の総意」に基づくことである以前に、「天壌無窮の神勅」(『日本書紀』の一書にある、「皇孫」が永遠に日本を統治し栄えることを保証する、天照大神の神勅)にあると見なす。そこで挙げられる日本に君臨すべき者は、「皇孫」とあれ、「男系に限る」などとは書かれていない。神勅における天皇統治の根本原則からは、男系主義は導き出せない。そこから導き出されるのは、あくまでも世襲の原理である。
 世襲の原理は、君主の子が君主に、またその子が君主に……と連綿と続くことにある。君主に子がない場合や、君主に経験や指導力が求められる場合には、君主の兄弟などの傍系の一族が即位する場合もあるが、いずれにせよ同族の血統の連続性が君主となることの根拠であることには変わりがない。その君主の血を繋ぐ者が、男であるか女であるかは、世襲の原理にとって本質的ではない。男系にも女系にも継承権を認めることは、男女平等や人権論などの「普遍的な」原理に頼らずとも、世襲の原理から導き出せるものである。

2、時代の反映としての男系継承と
 無論、君主制における世襲がどのように行われるかは、各国や各王室・皇室ごとに、その歴史や社会を反映して、各々異なっている。が、過去の多くの君主制国家は男系継承を主とすることが多かったといえる。周知の通り、家系図上日本の歴代天皇はすべて男系の血を引き、ヨーロッパ諸国でも長らく優位だったのは男系継承であった。日欧ともに男系継承が主流だった理由としては、(説明の仕方はいくらでもあるが)王室が確立する時代には男性優位の社会が存在したこと、社会が母権制から父権制へと移行していたこと、などがあげられよう。こと日本においては、厳格な男系主義的家族制度を採る中国文明の思想的影響も大きいと言えるだろう。
 世襲継承のあり方は、その成立や沿革の中で、時代時代の相を反映している。現代のヨーロッパの王室で男女問わぬ長子継承が定められる国がある(スウェーデンなど)のもまた、現代という時代相の反映による。時代の相というものは、あくまでも相対的なものであって、絶対的なものではない。(それは世襲のあり方のみにかぎられるものではない。古代の天皇が自ら指導力を発揮したからといって指導力を発揮することが天皇の「本質」であるわけでもなければ、中世や近世には実権を振るわない天皇が多かったからと言って「天皇不執政」が天皇の「本質」であるわけでもない)
 日本の男系継承は、その原理を「天壌無窮の神勅」のような天皇統治の根本原則から導き出せないことは既に述べた。男系継承の根拠とされるのは、「歴史」と「伝統」であるが、それらは時代の相の反映によるものであって絶対的なものではなく、あくまで相対的なものである。ここで言っているのは、「歴史」「伝統」から男系主義を導く主張が破綻しているということではない。ただ、あくまでもその拠って立つところのものは相対的なものであること、かつそこから必然的に男系継承が導き出せるというわけではない、ということである。

3、「歴史」「伝統」からの自覚的選択
 女系継承の支持は「リベラル」な「普遍的」原理によらずとも主張しうるし、「歴史」と「伝統」を重んじれば男系継承の維持に至らざるを得ないというわけではない。女系天皇は歴史上(家系図上)存在しなかったし、男系末裔の一般人が皇位を継承した例もない。(18歳で臣籍降下した源定省が後に宇多天皇として即位したこと、その子である源維城が3歳で皇籍を取得し後に醍醐天皇として即位したことは、先例たりえない。両者とも皇族として人格を形成し、かつ血統的にも天皇の子であって直近の天皇と極めて近しい)
 現代の皇位継承問題において、女系継承を主張することも、男系末裔の一般人の皇位継承権取得を含めた男系継承貫徹を主張することも、「歴史」と「伝統」に寄りかかるだけで主張しうるものではない。それらを踏まえたうえでの、意識的な選択があくまでも求められているのである。天皇の世襲を大前提としつつ、「君臣の義」(この言葉が気に入らなければ「君民の別」でもよい)を重んじて男系末裔の一般人よりも現天皇に近い血筋の皇族による男系女系問わぬ継承にこそ正統性を見るか、これまで家系図上例外なく続いてきた男系継承の「歴史」「伝統」を君臣の別という「歴史」「伝統」よりも価値があるものと見なすか。男系主義と非男系主義の対立は、そのようなものとしても存在し得る。どうして「保守」と「リベラル」の対立としてのみ存在し得ようか。「普遍的な」原理によって女系継承を正当化する議論が目立ちがちであっただけで、「右翼」的な論法や語彙からそれを行うことも可能なのである。

おわりに
 普遍的とされる価値を重んじる「リベラル」(自由主義者とは限らない)と、歴史や伝統などの固有の価値を重んじる「保守」は、粗雑な分類として使われるものではあれ、現代の政治や社会における諸問題の対立軸としてある程度機能している。皇位継承における男系主義と非男系主義の対立を、無理にこの対立に落とし込むこと(往々にして「敵」に対するレッテル貼りとともに)は、「政治社外」にあるべき(とされる)皇室の存続にかかわる継承問題を、一般の政治的・社会的対立に帰せしめることとなる。それが冷静な議論のために望ましいことであると言えようか。

漫画主人公の「海賊王に俺はなる」というセリフについて、「王の定義は何か説明しろ」と突っ込むアホはおるまい。が、歴史学の叙述での「武家の王」という用語法についての突っ込みは許されよう。


【目次】

1、「武家の王」の意味は何か
2、「武家の王」という言葉選びは妥当か

おわりに

1、「武家の王」の意味は何か
 谷口雄太『〈武家の王〉足利氏 戦国大名と足利的秩序』(吉川弘文館、2021年)は、足利氏を武家の中で卓越して尊貴な血筋と見なす観念の成熟と崩壊に注目することで、足利時代を再考する書物である。
 本稿で問題とするのは、「武家の王」という言葉選びの妥当性についてである。谷口氏は同書で、「王」という言葉を選んだ理由についても、「王」という言葉の定義についても、特に説明はしていない。この表現への違和感を覚えるのは、私に限らない。近現代英国史研究者の君塚直隆氏は「読書人WEB」に載せた同書の書評で次のように述べている。

本書の主題とも直結するが、武家の「王」という呼称は著者オリジナルの概念であろうか。それとも足利時代にすでに諸大名から「王」と呼ばれていたのか。義満の「日本国王」とも関連するが、君主号の定義にはやはり慎重になるか、より詳細な定義が必要なのではないか。

 君塚氏の指摘するところは、まさに読者の誰しもが感じているところであろう(と私は信じている)。
 私の知る限り、史料用語としての「王」が足利氏を指すことはまずなく(足利義満らの「日本国王」は明との貿易のための対外的称号であり、国内的に「王」「国王」で通用させたわけではない)、諸大名から足利氏が「王」と呼ばれていたこともない。また、宣教師が残した史料で足利将軍を「王(rei、rey)」と呼ぶ用例はある(松本和也『イエズス会がみた「日本国王」』吉川弘文館、2020年参照)が、言うまでもなく、それは本書で論じられる足利氏=「武家の王」という「武家の共通認識」とは全く次元が違う話である。
 本書を読む限り、やはり「武家の王」は、「著者オリジナルの概念」であると言わねばならない。「武家の王」の意味するところは、同書で使われている言葉でいえば「武家の最高貴種」「唯一無二(代替不可能)の存在(頂点=武家の王)」(27頁)である。「武家の王」は、「武家の最高貴種」「武家の頂点」と言い換えても意味は通る。また、「「対抗可能な存在」(相対的な存在)から「武家の王としての存在」(絶対的な存在)へ」(41頁)という表現にも注目したい。これは、足利氏以外の氏族が武家のトップの座を取って代わることが可能であるという認識を変化させてゆくことに関する叙述での表現である。筆者が使う「王」という言葉には、「絶対的」「対抗不可能」という含意が込められているようである。

2、「武家の王」という言葉選びは妥当か
 では、「武家の王」という言葉選びは妥当なのか。私は大きく2つの理由で不当であると考える。一つは概念の混乱、もう一つは著者の叙述内容とのズレである。

 言うまでもなく、「王」は漢字文化圏で使われていた君主号の一つであり、現在ではKingなどの非漢字文化圏の君主号の訳語としても使われる。周知の通り、日本の男性皇族の称号でもある。日本史学の史料用語としては、天皇を指して使われる例もある(なお、定義不明瞭で論者によって意味内容が異なる、一部日本史学の分析概念「王権」における「王」については、詳述しない。本書で谷口氏は不毛な「王権論」を展開してもいない)。
 これまた周知の通り、王=君主から派生して、何らかの分野で卓越した「スゴい」人などを「王」と呼ぶ、俗な用法がある。「百獣の王ライオン」「発明王エジソン」などがそれである。谷口氏の「武家の王」もまた、そのような「スゴい」ものを指す、俗な用法と同じ使い方であろう。しかし、こと中世史で、安易にこのような「王」の使い方をするのはいかがなものであろうか。「王」と同じように(少しニュアンスは変わるが)、通俗的な使い方をされる君主号に「天皇」もある(例「通産省の天皇・佐橋滋」)が、意味が通じそうだからといって、『〈武家の天皇〉足利氏』などというタイトルで本を出し、本文中で「足利氏を“武家の天皇”とする認識が~」などと連呼しようものなら、同業者からも読者からも(右翼団体からも)「ふざけるな」と突っ込まれること必定であろう。中世の史料用語として「王」というものがあり、また「中世における“王”とは何か」を論じることに血道を上げる中世史家も多少はいる以上、概念の混乱を招く「武家の王」という表現は「武家の天皇」と五十歩百歩のナンセンスさであろう。

 また、君主としての「王」は、基本的に(共同統治者などが設けられない限り)1人である。
 ところが、本書が「武家の王」とするのは「足利将軍」ではなく、「足利氏」である。本書は足利氏が武家の最高の地位を占める一族として他の氏族とは別格という認識が存在して「足利的秩序」を形成していたこと、将軍や関東公方を筆頭とする足利一門と非・足利一門の間には明確な差が認識されていたことについて論じている。「武家の王」という表現を取ると、どうしても「足利氏の征夷大将軍」1人をイメージさせてしまい、せっかく本書が論じた内容から外れてしまうのではなかろうか。その意味でも、この言葉選びが適切であるとは言い難い。(無理やり辻褄を合わせようとして、「武家の王家」「武家の王室」などという表現を使えば、さらに混乱を招く。「王家」「王室」も天皇の一家・一族を指す、中世の史料用語だからだ)

おわりに
 やはり、「武家の王」という言葉選びは不適切であると言わねばならない。「武家の頂点」「武家の最高貴種」という表現で事足りているものを、なぜ、わざわざ混乱を招く「武家の王」という表現を選んだのか、正直理解に苦しむ。こと一字一句を軽んじることなく史料を読み、それによって成果を重ねてきたはずの優れた歴史学者がそれをしているのであるからなおさらである。本稿は用語法に文句をつけることを目的としており、内容の是非については問うてはいないが、本書が気鋭なる最新研究を一般読者に分かりやすく届けることに成功した意欲作であることは間違いない。それゆえに却って、「武家の王」なる用語法を取って無用の混乱を招いていることが悔やまれるのである。本書が「武家の王」という表現を使って得をしたことと言えば、私のような末学をして、悪口、ではなく批判記事を書くために本書を通読せしめたことくらいではなかろうか。

【蛇足1 タイトル案】

 本稿を読んだ人の中には、「じゃあお前はどんなタイトルだったら納得するんだ」と思われた方もいるかもしれない。『<武家の頂点>足利氏』『<武家の最高貴種>足利氏』では、タイトルとして今一つしっくりこないではないか、と言う向きもあろう。

 以下、戯れ半分で言うのだが、もし私が著者ならば、『足利的秩序の成熟と崩壊』というタイトルにしたであろう(副題までは考えていないが、足利氏の尊貴性に関する叙述だとわかるようなものにすると思う)。これは国際政治学者・高坂正堯の名著『古典外交の成熟と崩壊』のパロディである。『<武家の王>足利氏』は最初の方で、高坂の名著『国際政治』(一般に「高坂の名著」といえばこちらである)の有名な一節「各国家は力の体系であり、利益の体系であり、そして価値の体系である」を引用し(11頁)、それも踏まえて、足利氏を「武家の最高貴種」とする認識を将軍と大名が共有する「共通価値」としていたという論を全体として展開している。「足利的秩序」とは、「足利氏を頂点とする秩序意識・序列認識のこと」(28頁)である。本書の副題は「戦国大名と足利的秩序」であるが、戦国時代に至るまでに「足利的秩序」がいかに形成されてきたかにも多くの紙幅が割かれている。最終的に足利氏の「上からの改革」、即ち下剋上を追認する「血統軽視策」が「足利的秩序」の意識を相対化させて墓穴を掘るところも描いているため、本書の内容は、まさに「足利的秩序の成熟と崩壊」であろう。タイトルとしても御洒落である(主観)し、内容的との合致に於いても「武家の王」よりは適切であると個人的に思う。尤も、それで「売れるか売れないか」は判断できない。ここの「蛇足1」は部外者の雑談として聞き流していただきたい。



【蛇足2 「武家の王」を無理やり肯定する解釈】
”本書での「王」は、君主号でもなければ、通俗的な意味でもない。
「王者と覇者」「尊王斥覇」という言葉に於ける意味の「王」である。
戦国時代に下剋上でのし上がった大名などの「覇者」は、あくまで周王を尊重した「春秋の五覇」のように、「王者」たる足利氏を「共通の価値」として尊重したのだ!”
……言うまでもなく、ナンセンスで成り立たない解釈である。

【目次】

はじめに

1、平泉の院政論

2、白河・鳥羽・後白河院への批判

おわりに

 

はじめに

 平泉澄は「皇国護持」に尽力した歴史学者である。当然のことながら、皇室に対する尊崇の念は強い。
 今回の記事では、平泉が院政をどう捉えたかを論じる。周知の通り、院政とは退位した天皇(院。上皇)が権力を揮う政治体制である。
 生駒哲郎氏は、平泉の教え子の平田俊春について述べる際に、「平田は、平泉にはみられなかった院政を批判している」(『南朝研究の最前線』326頁)と記している()。しかし、平泉の院政に関連する論考を見てゆくと、院政批判を「平泉にはみられな」いとは言えない。
 本稿では、まず平泉の院政論を概観する。続けて、平泉が特定の院を批判しているように読める記述について確認してゆく。基本的に皇室に尽くす臣下としての立場を重んじ、皇室を議論の俎上に挙げたりすることに慎重な平泉が、例外的に行っている批判を確認していきたい。

生駒氏は、私とのTwitter上のやりとりで「平泉は院政に反対している」と明記している。しかし、前掲書での生駒氏の書き方では、「平泉は院政を批判していない」としか読めない。前掲書は世に出て広い読者を獲得しているため、その誤解が広がっている可能性が高い。私と生駒氏との間では解決している論点ではあるが、改めてここで記して湖広に問うことをお許しいただきたい。(尤も、インターネットの検索エンジンの劣悪さのせいで、私の平泉論は調べてもなかなか出てこないのだが)
 

1、平泉の院政論
 ここでは戦前の著書、『建武中興の本義』を中心に平泉の院政論を見てゆく。ここでの引用は、特に断らない限り、同書前編六「院政の廃止」(42~49頁)からである。
 平泉は、後宇多院が院政を「自発的に廃して」(41頁)、子の後醍醐天皇に親政を行わせたことについて言及し、続けて「院政と幕府との二つが、いかに天皇の大権を干犯制限し、皇位継承の如き大事にすら、深く干渉して、以て長く禍根を培ひ来つたかを概観しよう」と、院政という政治体制を批判的に説明し始めている。
 まず平泉は、「(院政は)後三条天皇が藤原氏の専横を抑圧せんが為に、特に按出せられたる制度」「院政は、やがて実現するであらう所の天皇親政に向かはんとする出発点であった」とする説を批判した。また、後三条天皇が白河天皇に譲位したのは遊楽のための隠居であるとする三浦周行の説も批判した上で、後三条の譲位は病気のためであったことを論証する。
 平泉は院政の起源は白河天皇であるとし、院政は藤原氏の勢力抑制を意図したものではなく、弟の輔仁親王の「勢力の牽制のために按出せられた便宜の手段」であるとする。それに続く院政批判は厳しい。

その発生の淵源に於いて、既に皇室の内訌を見た院政は、その変態政治の当然の帰結として、以後絶えず皇室の内訌をうみ来つた。かの保元の大乱も、全く院政の弊害の爆発に外ならぬ。

 さらに、院政が両統迭立の問題に与えた影響の具体例を三つ列挙する。
(一)後嵯峨法皇の院政は後宇多天皇の叡慮に反して亀山天皇に皇位を譲らせ、
(二)亀山法皇の院政は後宇多院を掣肘して、恒明親王の立太子を希望し、
(三)伏見上皇の院政は花園天皇の子孫の即位を否定して花園の兄・後伏見上皇の子孫に皇位を伝えるように決定した。
 ここで平泉の院政批判は、持明院統(三)・大覚寺統(一、二)の両統に及んでいることに注意が必要であろう(※1)。そして最後に、以下のように六節を総括する。

見よ、天皇の大権は、常に上皇のために牽制せられ、制肘せられて、その為に皇統分裂の形勢を来たしたのであり、両皇統更に四派に分れ、分裂を重ぬる有様となつたのである。

 以上の通り、平泉は院政を「皇室の内訌」により生まれた「変態政治」であり、その帰結として皇統分裂を招いたものとして厳しく批判した。また、1940年の講演「後醍醐天皇の聖徳を偲び奉る」では、「大義名分上に於きまして正しいことではない」「大義名分を紊ると言はねばなりませぬ」(『平泉澄博士神道論抄』267頁)と批判する。これは「変態政治」の言い換えと見てよい。平泉にとって、理論上も実態上も、院政はあってはならないものだったのである。戦後の著書『物語日本史(中)』でも、「それは変態であって、国家組織の上からいって、決して良いことではありません」(34頁)と抑制的ながらも院政に否定的であり、平泉の見解は戦後も一貫していると見てよい。(※2

※1)かかる院政批判を前提に、「復古の理想を懐」(37頁)く後宇多が院政を廃止し、後醍醐天皇がその理想を継承したことを平泉は高く評価する。院政批判が両統に平等に及ぶ中、「理想」をもとに院政を廃した後宇多の皇統が道徳的優位に立ったことになる。

※2)『物語日本史』でも、平泉は院政の起源を「不幸なる皇室内部の勢力争いから起こったもの」(34頁)と書いているが、それ以上の細かい説明は省かれている。『建武中興の本義』においても、輔仁親王の「勢力抑制」以上の詳しい説明はない。


2、白河・鳥羽・後白河院への批判
 平泉澄は基本的に天皇や皇族への批判(歴史人物でも同時代人でも)を行わない。既にみた院政批判でも、院を直接批判するという形はとらず、あくまで「院政」を批判する。砕けて言えば、「院政を憎んで院を憎まず」といったところであろうか。
 だが、院政黎明期の院たち例外である。直接的に非難はされずとも、婉曲に批判されている。
 まずは『物語日本史』の記述を確認しよう。そこでは、後三条天皇の改革が永続せずに、後継者の白河・鳥羽上皇の院政で贅沢と無気力に流れたことが叙述され、以下のように嘆かれる。

後三条天皇が倹約をもって国を建て直そうとされた御精神は、全く忘れ去られたこと、明らかです。(34頁)

永承七年より保元元年まで、その間百年間、奢侈と我儘とにあけくれて、後三条天皇の御指導に従わなかった報いは、やがて恐るべき大乱となって現れたのでした。(38頁)

 後三条の精神を忘れ、その指導に従わなかったのは、朝廷の官人全般ではあろうが、その筆頭には白河・鳥羽の両院が想定されるのは自明であろう。
 平泉が批判するのは、白河・鳥羽のみではない。『再続 父祖の足跡』では、後白河上皇も批判の的となっている。後白河の主導する朝廷は、源義経・行家の要求通りに源頼朝追討の院宣を出した後に、今度は頼朝に「義経・行家謀叛」と言い訳した。それに対して頼朝が「日本国第一の大天狗は、更に他の者にあらず候か」と激怒したことについて、平泉は「抗言は痛烈である。然し理の当然、朝廷にはかへすべき言葉は無い」(257頁)と述べる。さらに頼朝の後白河に対する批判と朝廷への忠誠心について、次のように述べる。

「もとより頼朝も、朝廷の欠点、皇室の御失徳に対して、盲目であったわけではない」(同)

失政失徳には、強く抗言した。しかし頼朝の忠誠心は変わらぬ。(同)

 頼朝が抗議した朝廷・皇室(実質的には後白河その人)の「失徳」を、平泉は否定しないのだ。後白河を「大天狗」呼ばわりする頼朝の“不敬”発言についても、その“不敬”を非難するどころか、「理の当然」として受け入れている。

おわりに
 以上、平泉の院政論と院批判を確認した。平泉は院政を「皇室の内訌」から起こったもので、理論の上では大義名分を乱すものである上に、現実上でも「皇室の内訌」を助長したものとして厳しく非難している。その院政批判は、持明院統の院政にも大覚寺統の院政にも、等しく及んだ。また、院政を創始した白河院、院政を継承した鳥羽院を、後三条天皇の「御精神」「御指導」に背いたと評価し、後白河院に至っては「失政失徳」の非を認めている。白河・鳥羽・後白河を直接名指しはせず、主語をぼかしたり、「朝廷」「皇室」と幅のある表現を用いるのが、平泉の皇室に対するギリギリの配慮であった。
 平泉が高く評価した栗山潜鋒の史書『保建大記』(1689年。保元の乱から頼朝の武家政治開始までを描く)は皇室の失政・失徳を批判し、「嗚呼、自ら毀つの家はまた人の毀つを禁むること能はず」と詠嘆した。皇室の衰微と武家政治の開始は、皇室が自らの不徳によって招いたとする痛烈な批判である。白河・鳥羽は後三条の改革を台無しにして武士の擡頭を招き、後白河の「失政」は頼朝の武家政治を不可避のものとし、院政という政治体制は皇統の分裂までも招いた。そのような皇室の「自ら毀つ」院政を、いかに遺憾であれ、平泉が美化せずに批判するのは当然であるといえよう。

【参考文献】
平泉澄『建武中興の本義』至文堂、1934年
平泉澄『再続 父祖の足跡』時事通信社、1966年
平泉澄『物語日本史』講談社学術文庫、1979年(初出『少年日本史』時事通信社、1970年)

平泉澄『平泉澄博士神道論抄』錦正社、2014年

呉座勇一編『南朝研究の最前線』洋泉社、2016年

『日本思想大系〈48〉近世史論集』岩波書店、1974年