濱田浩一郎氏は「平泉澄博士の人物論 ――鎌倉北条氏・楠木正成・足利高氏――」を日本学協会の雑誌『日本』令和3年5月号に載せた。
平泉の人物論というテーマは本ブログでも頻繁に取り上げてきたものである。その点で関心を持ち、濱田氏の論考を閲覧する機会を得た。その内容については深入りしないが、2点ほど述べておきたいことがある。
1、北条氏の評価について
濱田氏は次のように書く。
『建武中興の本義』以降、北条泰時の高評価が限定的・抑制的になったとする向きもあるが、同書では泰時を「英傑」と評しているので、限定的とするのが正しいかは議論の余地があるだろう。(22頁)
ここで言う、「『建武中興の本義』以降、北条泰時の高評価が限定的・抑制的になったとする向き」は、私の書いたものを指すであろう(「平泉澄 北条氏評価の変化について」、令和2年)。その記事で私は「ただし、泰時の美点を手放しで褒める『日本歴史物語』に比べると、その高評価も抑制的・限定的になっているのは明白であろう」と書き、また「泰時については、『日本歴史物語』以降、泰時への高評価は全くなくなりはしなかったものの抑制的・限定的になり、時頼への高評価はなされなくなり、否定と言ってもよいほどの低評価となった」とも書いている(後者は文章の見直しが不十分であり、「泰時については」「泰時への」が重複している)。
氏の批判内容からも、「限定的・抑制的」という表現が拙稿と一致していることからも、氏の言う「向き」は私の議論であり、拙稿を踏まえているのは明らかであろうと思われる。
であれば、批判対象となる先行研究(?)として明記してくれてもよさそうなものであるが、所詮は電子の海を漂うブログごとき、名指しする価値もないということであろうか。尤も、批判対象の出典を明記しないことはよくあることでもあり、まだよい。本当の問題は次である。
2、「足利高氏」の評価について
濱田氏による平泉の「足利高氏」論の結論部を見てみよう。
博士は「歴史を生かすものは、その歴史を継承し、その歴史の信に生くる人の、奇しき霊魂の力である」(「歴史における真と実」『我が歴史観』至文堂 大正十四年、後に平成十年刊行の田中卓編『平泉博士史論抄』青々企画に収録)との思想を持っておられた。(中略)博士にとって重要なのは、「継承及び発展」であるが、足利氏の行動は私欲を根本とするため「歴史においてただ破壊的作用をするだけ」であった。このような思考法によって、博士は、足利氏を全否定するに至ったのであろう。(27頁)
氏の言っていることは、私が平成30年に書いた「平泉澄はなぜ足利尊氏・直義を全否定したのか」の結論部と同じである。その部分は以下の通りである。
平泉の歴史哲学について詳述するのは避けるが、簡単に言えば、国史学の意義は、歴史上の偉大な人物(楠木正成など)の人格を「回顧」によって感得し、継承することにある。
「歴史を生かすものは、その歴史を継承し、その歴史の信に生くる人の、奇しき霊魂の力である」(「歴史における真と実」1925年)
重要なのは、「継承」であり、忌むべきは「破壊」である。歴史上の変化は「発展でなければなら」ず、「革命や滅亡によって、国家の歴史は消滅する」(「国史学の骨髄」1927年)のである。天皇を中心とする日本の歴史を閑却し、私利私欲のためだけに動く足利氏は「継承及び発展には、微塵も貢献することはできない」のである。
畢竟、足利氏には理想も大義もなく、私利私欲のためにだけ動いて人倫を蹂躙し、それゆえ「歴史」に「破壊的作用」を及ぼすのみであって、足利氏は歴史になんらの貢献を果たしていない。足利氏に「勇気」や「手腕」があたっとしても、歴史に破壊的作用しか及ぼさない限り、評価するに値しないのである。
そうみなしたからこそ、平泉澄が足利氏を全否定したと結論づけられよう。
行論がほぼ同じであるだけでなく、平泉の思想を紹介するために行った「歴史における真と実」の引用箇所まで同じである。
おわりに
論文は然るべき媒体に掲載されてこそ意味があり、後から編集できるブログなどの記事の価値は極めて低い――。という判断には一理あろう(現に私もブログでは、追記や大きな変更などを除き、特に断りもなく誤字脱字や表現の修正を行ったりはする。尤も、本稿で言及した2つの私の記事は、濱田氏論文発表の前年以前が最終更新日時となっているバックアップファイルが存在している)。研究者が「ネット上の駄文などは先行研究と呼ぶに値しないからわざわざサーチをかけない」ことは特に非難されることではないであろうし、当ブログ如きを持ちだして「先行研究として明記されずスルーされた!」と騒ぎ立てることにもあまり意味はないであろう。
濱田氏が平泉の北条氏評価について、私のブログの存在と平泉論の存在を把握しているということは確かであると見てよい。私の記事を見、その内容を踏まえながら、特に先行研究(?)として明記することなく論を進めているであろうことは既にみたとおりである。
当ブログを把握しているとすれば、平泉の足利氏評価に関する私の記事についても、存在を把握し、内容を確認している蓋然性は高い。その上で、全く同じような議論・結論を、特に私の書いたものに触れることなく展開しているというのは、どういうことであろうか。誰にでも起こりうる「先行研究の見落とし」「先行研究の記載漏れ」「調査不足」などではなさそうである。
当ブログの平泉論は、特にアクセス困難な史料を用いているわけでもなければ、博引旁証や高度な論理展開を行っているわけでもない。入手の容易な書籍から、言説を拾いだし、平泉の思想と絡めて議論を組み立てているだけである。それゆえ、「たまたま同じような論の組み立てと結論になった」という人がいてもおかしくはないと思っている。しかし、前述の通り、濱田氏は私の記事や当ブログを把握している蓋然性は極めて高いと見てよい。「たまたま」である可能性は低いのではないか。
その上で、濱田氏が平泉の足利氏論論において、数年前に公開された拙稿と同じようなことを書いている(ご親切にも、「歴史に於ける実と真」の引用箇所まで同じ)のは、どういうことか。
これは、世に言う「○○」というものではないだろうか。研究倫理上、問題のある行為を指す二字熟語である。
【2023年1月22日 追記】
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【2023年4月1日 追記】
濱田氏論文を剽窃と見なす、より詳細な根拠はこちら