玲瓏透徹

玲瓏透徹

述べてつくらず。

目次

 はじめに

1、北条泰時の評価  ――善と不善の同居

2、北条泰時の「忠孝」 ――主従制と「國體の大義」

おわりに

 

はじめに

 鎌倉幕府の3代執権・北条泰時は、武家法の御成敗式目(貞永式目)を制定したことで名高く、優れた政治家として同時代からも後世からも高く評価された人物である。彼は承久の乱の際、父の北条義時の命を受けて、軍を率いて後鳥羽上皇方の官軍を打ち破り、敵方への処断を行った。

 所謂「皇国史観」の唱道者として知られる中世史学者・平泉澄は、多くの著書(『武士道の復活』『伝統』『物語日本史』など)で泰時に筆誅を加えている。中世史を専攻とする平泉は北条泰時の事績を熟知しているはずであることは言うまでもないが、たいていの泰時への言及は批判ばかりである。戦前に書かれたある論文では「抜群の人物」と述べてはいるものの、泰時の事績への具体的な評価はない(『岩波講座日本歴史8』(岩波書店、1934年)所収「中世における国体観念」)。

 平泉の著名な著作では泰時の負の側面にばかり光が当てられているが、泰時の評価すべき点についても言及している著作もある。それが今回取り上げる『明治の源流』(時事通信社、1970年)である。これは承久の乱から建武中興、南北朝の動乱について叙述したものであり、その歴史の中で受け継がれた精神が明治維新の源流となったと主張するものである。今回はそこで述べられている泰時論を紹介し、平泉の北条泰時観を確認する。

 

1、北条泰時の評価  ――善と不善の同居

 承久の乱で官軍と刃を交える決断をしたのは北条義時である。平泉とて、その責任を泰時に負わせて批判したりはしない。平泉は泰時が自身の決断で行った行動などを10個列挙し、論評を加えた後、次のように述べる。

確かに良い点もあって、一概に悪としりぞけるわえには行かぬが、善人賢者とは絶対に云へない不徳の一面が、強く在してゐる。無欲公平の仁者かと思へば、掌をかへして残忍凶悪、目を覆はしめるものがあるでは無いか。(38頁)

 平泉は泰時には善悪二つの側面があると評した。

 平泉が列挙した10の泰時の行動を大別すると、官軍方への刑罰の宥免、道義に背く行為、皇室に関する処断、家庭関係に関するものの4つに分けられる。刑罰宥免について「これならば賢者といひ、良い政治家といっても、差支えないであらう」と述べており、ここの評価は好意的である。家庭関係については、ややそのあり方に疑問を呈する程度の批判である。平泉の泰時観について知る上で重要なのは、残る2つ、道義に背く行為と皇室に関する処断である。

 道義に背く行為の具体的な内容は次の2つで、ともに承久の乱の戦後処理での事例である。

・捕えた敵方の後藤基清を、その子・基綱に斬らせた。
・佐々木広綱の子・伊多伽丸を赦免嘆願を受けていったんは放免したが、広綱の弟・信綱が死刑を要求したため、この少年を呼び戻して信綱に引き渡した。

 特に後藤親子については「人倫をふみにじったものと云はなければならぬ」「斬った奴も斬った奴、斬らせた奴も斬らせら奴」(39頁)と、舌鋒鋭く批判している。この2つの事例は平泉の泰時批判の十八番で、他の著作でも頻繁に取り上げている(『物語日本史 中』161‐162頁、『武士道の復活』256頁など)。

 平泉が列挙した泰時の行為のうち、皇室に関する処断に関するものは次の2つである。
 ・義時死後、朝廷の重鎮・藤原道家と藤原教実が後鳥羽院・順徳院の帰京の申請を泰時に行ったが、却下した。
 ・四条天皇の死後、皇位を断固として順徳院の皇子には渡さなかった。

 これらは泰時にとっては政治的な判断であり、平泉にとっては國體に関する事項である。この論点について詳述するためには、泰時の二面性に関する平泉の言をもう一つ引用する必要がある。

くはしく見てゆくと、泰時には、善と不善と、凶悪と無私とが、交錯して存じてゐる。分かりやすくいへば、彼らは、右を向けばジギル、左を向けばハイド、白と黒との両面を持つ男であった。その凶悪の性質は、これは北条一家の遺伝であらう。時政を祖父とし、義時を父とする以上、此の性質を泰時が受けついだに、不思議は無い。之と対立する性格、公平無私は、どこから得たか。それは正しく明恵上人の感化である。(44頁)

 泰時の悪の側面は祖父や父から受け継ぎ、善の側面は明恵上人(華厳宗の高僧)の感化によって得たというのである。平泉は泰時と明恵の交流を『明恵上人伝記』から引き、詳しく説明している。

 泰時と明恵の交流は、泰時が承久の乱の戦後処理の過程で明恵を捕えて面会したことに始まる。そこから泰時は明恵から感化を受けていく。(泰時自身が「我不肖蒙昧の身たりながら、辞する理なく、政をつかさどりて天下を治めたることは、一筋に明恵上人の御恩なり」と述懐している記述が『明恵上人伝記』にあり、平泉もそれを引用している)。平泉は明恵の教えのうち、泰時が理解しえなかったものと肝に銘じたものとがあると指摘する。前者が「我が国君臣の道」、後者が「無欲公平の訓誨」であるという。

 明恵は泰時に、我が国は神代から今に至るまで天皇が受け継いできた国であること、日本の万物は天皇のものであることを説き、朝廷に背いて上皇を配流したことは理に背いた行為であると批判した。泰時は涙を流して明恵の話を聞いたが、泰時は父義時の死後も配流した3上皇を京都に還幸させることはしなかった。平泉は、もし明恵の教えが泰時にしみ入っていれば、3上皇の御還幸が行われたはずであるとして、「道義の最高、忠孝の大節に於いては、泰時は明恵上人の教を理解し得なかった」(53頁)と、明恵の教えがこの点においては泰時に染み入っていなかったことを指摘している。

 一方で、太守が無欲で心正しくあれば、世の人の欲心も薄くなり、「天下安く治まるべし」という明恵の教えを泰時は忠実に守ったと平泉は評価、「無欲公平の訓誨は、泰時の肝に銘じ、その行為の指針となった」(50頁)と述べた(その具体例として父義時の死後の遺産相続で、泰時が自分の取り分を少なくして弟の取り分を多くしたことが挙げられている)。「せめて自分の欲望だけでも抑へ、物質的利益を追求しなかったとすれば、それは一般世間には非常な評判となり、いかにも賢人であり、君子であるとして、謳歌せられたであらう(51頁)」と、少し皮肉めいた書きぶりながら、泰時の無欲さは平泉も認めるところなのである。

 

2、北条泰時の「忠孝」 ――主従制と「國體の大義」

 続けて、泰時が制定した御成敗式目(貞永式目)を通してみた平泉の泰時評を見てゆこう。

 まず、平泉は泰時が式目とともに北条重時に送った「和字の御書」を引用する。その引用の内容は次の通りである。

詮ずるところ、従者は主に忠をいたし、子は親に孝あり、妻は夫に従はんは、人の心のまがれるをば捨て、直きをば賞して、土民安堵のはかり事にてや候とて、かやうに沙汰候事を(後略)

 これについて、「忠孝と貞操の道徳を確立するを政治の要諦として、それを奨励し、それを守るべく、法律の上で規制したのが貞永式目だといふのである。然しながらここにいふところの忠といふのは、君臣の大義ではなくして、武家に於ける主従の間の道徳をさすのである」(53頁)と説明し、武家の主従関係の「忠」と、君臣(天皇と臣下)の「忠」とを峻別する姿勢を見せている。さらに貞永式目の第十九条での主従道徳(従者が主人から忠勤を賞して与えられた土地は、主人に忠勤を尽くすことを条件としており、主人の子孫に忠勤に励まない場合、その土地は主人の子孫に還付されるべきであると定めたもの)について言及して、「是れは土地の所有権の上に於いて、主従の関係を規定し、主人への忠勤を奨励したものであるが、泰時の「忠」といふのは、此の程度にとどまって、君臣の大義には及ばないのである」(55頁)と評している。

 主従の「忠」について、平泉は泰時の式目に北条政子の承久の乱の際の演説を並べる。

幕府のおかげで、武士の生活は楽になり向上したではないか、その恩義を忘れて官軍に加はる気か、と責めるのである。これが将士の心をひきつけた。ここに幕府の立脚地があり、それを失へば幕府は成立たないのである。泰時は此の道理を十分わきまへていた。(55頁)

 さらに平泉は、「道理」という言葉を泰時が式目などで頻繁に用いていること、明恵もまた用いていることを挙げ、泰時の言う「道理」と明恵の言う「道理」は「決して同じでは無い」と論じる。さらに、幕府の立脚地である主従の忠孝について、「従って其の忠孝とは、主従の間の忠孝であって、國體の大義に於ける忠孝とは、言葉は一つであって、内容は相違して居るのである」(56頁)と喝破している。平泉は武士の主従制の道徳である「忠孝」と、「國體の大義に於ける忠孝」すなわち本来日本で唯一の君主であるはずの天皇とその臣との「忠孝」とを厳密に分け、泰時が説く道徳はあくまでも前者の領域を出るものではなく、同時代の武士の間で通用するのみのものであって、本来の「國體の大義」である道徳とは異なるものであることを力説するのである。無論、平泉も幕府指導者としての泰時の立場は承知してる。

明恵上人の説いた我が國體、君臣の大義は、泰時の理解し得る所では無かった。若し之を理解しようとすれば、それは泰時の立場を失はしめ、身の破滅を来したかもしれぬ。(50頁)

 平泉は泰時の時代的制約と政治的立場に対する理解を示しており、泰時が「國體の大義」を理解しないことを以て泰時を全否定することはないのである。

 

おわりに

 以上、『明治の源流』から平泉澄の北条泰時の評価を確認した。平泉は泰時を善悪の二つの顔を持つ人物であると評価、残酷さについては父祖(時政と泰時)から受け継ぎ、善の側面は明恵上人の感化によるものであると見なしている。明恵上人の教えのうち、泰時は公平無私・無欲の教えは肝に銘じたものの、「君臣の道」「忠孝の大節」は理解しえなかったという。また、泰時が貞永式目で説いた「忠孝」の道徳は、あくまでも武士の主従制に限る道徳であって、「國體の大義に於ける忠孝」とは別物であると力説している。

 既にみたように、鎌倉幕府の重鎮としての泰時の立場への理解を平泉は示している。平泉の泰時評価の眼目は、泰時の行いにも難点があること、彼の説いた「忠孝」の道徳はあくまで主従制下の「忠孝」であって「國體の大義」の「忠孝」とは別物であること、「國體の大義」は終始理解しなかったに注意を促し、泰時が優れた政治家であり道徳的な人物であるという評価に対して、泰時の全面的礼讃を戒めることにあるといえよう。

 本稿の主題は、平泉の北条泰時観を『明治の源流』から読み解くことなので、以上で目的は果たした。しかし、ここで取り上げた平泉の泰時論の中には、単に泰時論で終わらすには惜しい論点も含まれている。具体的には、主従制と君主制(「國體の大義」)における「忠」の違い――平泉の武士道論にも関わってくるであろう――や、「凶悪」な性質を父祖から受け継いでも教育によって「善」に誘われる可能性――(忠孝一致論を取る平泉が「乱臣賊子」の子弟の生きる道を残している――についてである。今回は深く触れることはないが、いずれ機会があれば論じたい問題である。もしくは、後学に期待したい(平泉が忌み嫌う他力本願である)。

【前回のフェルディナント2世】

 1609年、ハプスブルク家の諸大公からの指示を受けた皇弟マティアスは、上下オーストリアの等族の要求に譲歩、彼らから臣従の誓いを受ける。教皇からは破門され、フェルディナントからは非難されるが、ともあれマティアスの領邦君主としての立場は整った。同年、ユーリヒ・クレーフェ継承問題が起こり、国際情勢も緊迫する。

 

1、兄弟和解に向けて

 ルドルフ2世がボヘミア等族に国王勅書を渙発した後、フェルディナントとマティアスの懐刀クレスルは兄弟和解に向けて動き始める。1611年にフェルディナントの秘書ペーター・Casalはクレスルと会見、プラハでの諸大公と兄弟の会見をバイエルン公を仲裁者として開こうと計画した。議題は帝国の秩序の維持と、ハプスブルク諸邦での君主と等族の勢力均衡である。フェルディナントは、等族が自らの要求を出すことも期待した。

 1609年12月5日、長い会談でフェルディナントの顧問官エッゲンベルクは主君が執るべき政策について雄弁を揮った。大略は次のような内容である。「オーストリアの人々は、ボヘミア人に譲歩したルドルフに戻ってきてほしいと思っている。それに味方したらマティアスが怒るし、それに反対したらルドルフが怒る。ここでは中道を行くべきである。まずはスペインと親密に連絡を取って、スペインがマティアスをどう思っているのかを探るべきである。兄弟和解は、宗教と王朝に利益を齎す」

 

2、和解の成立
 1610年5月1日、大公フェルディナント、大公マクシミリアン、マインツとケルン、ザクセンの選帝侯、ヘッセン=ダルムシュタット方伯ルートヴィヒ、ブラウンシュヴァイク公らの君侯がプラハに参集、皇帝ルドルフのもてなしを受ける。なお、兄弟和解の仲裁者を期待されたバイエルン公マクシミリアンは、ハプスブルク家の内紛に巻き込まれるのを避けるために、参加を断った。集まった君侯はルドルフの異議に反してマティアスを招き、マティアスの使節団は5月31日に到着した。彼らはフェルディナントと大公マクシミリアンに兄弟のどちらにつくのかの選択を迫ったが、彼らはどちらにもつかないと表明する。マティアスはプロテスタント同盟とも連絡を取った。
 その間、パッサウとストラスブルクで、フェルディナントの弟である大公レオポルトはルドルフの要請を受けて1万5千の兵を擁していた。名目は北西でのユーリヒ・クレーフェ継承問題の備えだが、不吉な軍事的圧力として存在していた。

 プラハでの交渉は夏を通じて続けられた。フェルディナントらの代表団は、マティアスに会うためにウィーンとプラハを往復することになる。1610年10月9日のプラハの皇居での式典で和解が成立する。フェルディナントとマクシミリアンはマティアスの代理を務め、マティアスの兄に対する行動を謝罪する文章を読み、ルドルフもそれを受け入れる旨の用意された文章を読み上げた。ルドルフはマティアスに渡った土地を取り戻せないということを渋々認める。マティアスはルドルフを家長として認め、毎年、ワインと現金を送ることで、ルドルフの諸邦への請求権放棄に感謝を示すことを約束した。1606年4月のウィーンでのマクシミリアンとフェルディナントの合意は公式に破棄された。
 ちなみにこのころ、和解を仲裁したフェルディナントへの期待も存在した。1610年にネーデルラント総督の大公アルプレヒトはフェルディナントに、「この悲惨な時に、あなたは活気ある政府と帝国の威光の復活を引き受けるべき人です」と書き送っている。

 

3、大公レオポルトのプラハ侵入とマティアスのボヘミア王即位

 プラハでの合意は成立したが、兄弟の反目が完全に解決されたわけではない。帝国の継承問題は依然として残っていたのである。ルドルフは、レオポルトを継承者として引き立てたいと公表さえした。レオポルトはプラハの君侯会議に参加しておらず、1606年のウィーン合意にも与していなかったし、しかもこの時、大きな軍事力を持っていた。ケルトンとマインツの選帝侯は、レオポルトがマティアスのようにプロテスタントに妥協しないので彼に好感を示した。一方、プラハの教皇大使はマティアスの選出を主張した。レオポルトでは異端にとっても他のオーストリア家君侯にとっても受け入れられ難いとみたのだ。兄弟の合意の後、プラハを去ったフェルディナントは、Casalをプラハに送り、弟レオポルトへの反対とマティアス支持を表明した。レオポルトは後ろ盾を得るためか、バイエルン公の妹との結婚を考えていた。彼にとっての問題は、活動の基盤となる大きな所領を持っていなかったことだ。パッサウ司教領などの彼の所領は、十分な大きさがあると言えるものではなかった。ゆえに、彼は皇帝からの援助が必要であった。

 レオポルトはルドルフの支援を受けて、軍を率いてプラハを目指した。その軍勢はボヘミアへの道中で下墺を略奪し荒廃させた。軍勢はレオポルトとともに2月13日の国境を越え、プラハに入った。だが、彼の軍はAltsadtを落とすことができず、等族の軍に押し戻された。レオポルトは3月10日夜から11日の夜にかけてプラハを脱出、入れ替わるように24日にマティアスが1万8千の軍を率いてプラハに入った。マティアスを呼び寄せたのは、ボヘミアの等族であった。彼らはレオポルトを支配者として望まなかったのだ。5月23日、マティアスは聖Veitのカテドラルでボヘミア王に即位する。マティアスの力の制限を目指すボヘミア等族は、上下オーストリアとハンガリーの等族と水面下で連携しつつあった。マティアスは諸邦の徳族の全体会議の招集を約束してしまう(クレスルは拒否するように勧めたのだが)。

 

 

 

 

Bireley,R.,Ferdinand II, Counter-Reformation Emperor, 15781637.Cambridge 2014

 今回の記事では67~70頁を参照した。

 

 

 

 

【前回のフェルディナント2世】

 フェルディナントの使者として、カトリック連盟の帝国外の諸君主への拡大などの壮大な計画を懐くカトリックの論客ショッペが教皇の元に赴くが、教皇は連盟への資金援助の要求を拒んだ。ショッペはフェルディナントの立場を越えて、「自由に」喋りすぎたのだった。

 

1、諸大公のマティアス支持

 1608年7月24日、Schottweinで皇弟マティアスは大公マクシミリアン、フェルディナント、その弟のマクシミリアン・エルンスト及びレオポルトと会談した。この会談で、皇帝ルドルフ2世の後継者としてマティアスを支援することが合意された。
 モラヴィアの等族は宗教迫害をしないとの約束と引き換えに、マティアスに臣従の誓いを立てる。だが、上下墺のプロテスタント等族の多数派はマティアスが宗教的特権を与えない限り臣従を拒んだ。彼らには、マティアスではなくルドルフを支配者と見なすぞと脅迫するというカードがあったのだ。フェルディナントは等族からその選択肢を奪うために行動を起こす。即ち、兄弟の和解への工作である。その間、プロテスタント同盟のアンハルトが密かにオーストリア家の内紛に付け込もうと企てており、決して穏やかな情勢ではなかった。
 マティアスは1609年3月19日、交渉の末に上下オーストリアの等族の要求に譲歩した。それにより、4月29日に下墺の等族の、5月17日に上墺の等族の臣従の誓いを受ける。教皇パウロ5世はそれを非難してマティアスを破門、フェルディナントもこの譲歩を非難、マティアスらを「家と宗教をさげすむ者」と呼びさえした。ともあれ、マティアスは上下オーストリアの支配者として認められたのだ。
 1609年7月9日、一方のルドルフはボヘミア等族に宗教上の権利などを認めた国王勅書に同意した。

 

2、ユーリヒ・クレーフェ継承問題

 1609年3月にドイツ北西部の邦ユーリヒ・クレーフェの君主ヨハン・ヴィルヘルム狂公が後継者なくして死ぬ。ユーリヒ・クレーフェ継承問題が発生する。継承問題の詳細は省くが、これは一つの国際危機であった。この問題にはプロテスタント同盟とカトリック連盟が介入するかと思われた。さらにユーリヒがハプスブルクの手に落ちることを畏れたフランス王アンリ4世がイングランドとオランダをバックに、ハプスブルク家への包括的な攻撃を企てる。フランス王は、ヴェネツィアやサヴォイアと組んでミラノ侵略も考えた。が、1610年5月14日にアンリ4世が暗殺されたことで危機は遠のく。連盟の盟主バイエルン公は同盟との妥協的解決を好まなかったが、連盟は「防衛的な」組織であるという建前によって、戦争に向かう決断は避けられた。結局、1614年のクサンテン条約によって2人の請求者は領邦を分割し、大きな戦闘は回避された。

 ルドルフ2世とマティアスの兄弟の対立と和解への動きは、この継承問題と並行して起こっていた。

 

 

 

Bireley,R.,Ferdinand II, Counter-Reformation Emperor, 15781637.Cambridge 2014

 今回の記事では65~67頁を参照した。

 

【前回のフェルディナント2世】
 新教諸侯のプロテスタント同盟の結成に対抗し、バイエルン公や聖界選帝侯の主導によって旧教諸侯によるカトリック連盟が結成された。フェルディナントの要請を受けた論客ショッペは連盟を支持する声明書を書きあげる。

 

1、ショッペの主張
 ショッペはカトリック連盟に、1555年のアウクスブルクの宗教和議以降にプロテスタント諸侯が(カトリック側の解釈によれば)「不当に」没収したカトリック教会領を回復することを求めた。教会領回復の問題は帝国での新旧教両派の争点であり、レーゲンスブルク議会でプロテスタントはこの問題で妥協する気配を見せなかった。カトリック諸侯、特に聖界諸侯が返還を求めるのはマクデブルク、メルゼブルク、ミンデン、ハルバーシュタット、ブレーメン、バーデン、オスナブリュック、マイセン、ナウムブルクだ。旧カトリック教会領の回復を求めるショッペの主張は、控えめで防衛的な連盟の目的を遥かに凌駕する過激なものだった。
 さらにショッペは、連盟をドイツ諸侯に限らず、ローマ教皇、スペイン王、イタリアの君侯もメンバーとして歓迎する構想まで行っていた。カトリックの論者の中には、もはや帝国でのカトリック防衛に留まらず、ヨーロッパでのカトリック防衛、さらにはヨーロッパ全域にアウクスブルクの宗教和議を施行せしめるに等しい壮大な目的を掲げる者もいた。回復された旧教会領からの歳入は連盟の資金源となり、また教皇やイタリアの君侯もそれらの土地の支配を約束されることを見込んで支援してくれるであろうという見込みも想定されていた。

 

2、ローマ教皇とショッペの交渉

 ショッペの壮大な提案を真剣に聞いたフェルディナントは、彼を教皇パウロ5世への特使としてローマに送った。ショッペに与えられたフェルディナントの指令書は、ショッペの壮大な計画を逐語的に反映していた。
 1609年6月初め、ショッペはローマに到着し、フェルディナントからの指示以上に彼の立場を強く語った。教皇はショッペの要求に応じなかった。教皇は戦争につながるような緊張を助長するのを望まなかったのだ。教皇は連盟への資金提供の依頼も断った(ただし、フランス王アンリ4世の死後、少額の資金援助に同意)。
 フェルディナントはショッペへの書状で教皇の決定について遺憾の意を表明するとともに、ショッペの「自由すぎる弁舌」を戒めた。この論客は、ローマで皇帝の弟マティアスを激しく批判したのである(マティアスの側近、ウィーン司教クレスルはプロテスタントとの妥協の道を探り、連盟の結成に反対していた)。フェルディナントの警告を受けても、ショッペは激しい言葉を使いがちでありであった。翌年にはアンリ4世を暗殺したラヴァイヤックをフランス王への神罰の使いであるとして擁護するなど、軽率な発言が目立った。

 

 

 

 

Bireley,R.,Ferdinand II, Counter-Reformation Emperor, 15781637.Cambridge 2014

 今回の記事では63~65頁を参照した。

 

 

【第3章 概要】

 この記事から、参考文献の原書3章「継承に向けて 1608‐1618」に入る。

 1608年のレーゲンスブルク議会と母の死から10年、ハプスブルク家と皇位の継承問題はフェルディナントに有利に傾いた。まずは皇弟マティアスがハプスブルク家所領とローマ皇帝位を受け継ぎ、それが後にフェルディナントに渡ることになる。フェルディナントの関心は、オーストリア諸領邦やボヘミア、ハンガリーなどのハプスブルク領と神聖ローマ帝国の政情との間で行き来することになる。彼の帝国での政策遂行能力は所領での強さにかかっており、また、後に彼が果たす皇帝としての役割は所領での地位を高めることになる。つまり、彼の領邦君主としての力と皇帝(この時点では皇帝の後継者候補)としての力は、相互補完的なものだったのである。

 対外的には、和平を結んだとはいえ、オスマン帝国との国境近辺の状況は争いの種であり続けた。さらに、アドリア海ではヴェネツィア共和国との紛争をも抱えていた。オスマン帝国に占領されたアドリア海沿岸からの難民(ウスコック)はヴェネツィア船に海賊行為を行い、その統制を巡るオーストリアとヴェネツィアの外交問題が後に戦闘へと発展する。

 

1、プロテスタント同盟とカトリック連盟の成立

 レーゲンスブルク議会の少し後、プファルツ選帝侯の主導で1608年5月12日、ネルトリンゲン近くのアハウゼンでプロテスタント同盟が結成された。

 3人の聖界選帝侯(マインツ、ケルン、トリーアの各大司教)は、所領がプファルツの攻撃を受けやすい所に位置したこともあり、プロテスタント同盟に対する対策を議論した。 1608年7月7日、ライン河畔のアンダーナッハの会談で、聖界選帝侯はカトリックの諸侯連盟の形成についてバイエルン公マクシミリアン1世と合意した。その後何度か話し合いが持たれ、1610年2月10日から19日のバイエルンのヴュルツブルクの会談でカトリック連盟が成立した。カトリック連盟は、バイエルン公に代表される南ドイツの諸邦の部会と、聖界選帝侯たちを含むライン沿岸の部会からなった。連盟の参加諸侯には聖界諸侯が多かったのが特徴である(プロテスタント同盟には都市の参加が多かった)。なお、後者を率いたマインツ大司教はバイエルン公よりもザクセン選帝侯率いるルター派に理解を示す傾向があった。8月後半、スペインの圧力によってフェルディナントが連盟の管理者の称号を得たが、連盟の実質的な権限はバイエルン公にあった。

 プロテスタント同盟は自らの防衛的な性格を強調し、カトリック連盟もまた自らを防衛的なものだと主張した。連盟の目的は、帝国でのカトリック防衛とアウクスブルクの宗教和議の保持であった。

 

2、フェルディナントとカトリック連盟

 1609年4月、フェルディナントの要請を受けて、アリストテレス学派の論客キャスパー・ショッペがカトリック連盟を支持する声明書を書いた。ショッペはレーゲンスブルク議会の際にフェルディナントの側近となった人物である。彼の主張の概要は、以下の通りである。

「帝国のカトリック勢力の「金と力」はプロテスタントのそれと同程度だが、カトリック諸邦には団結が必要である。カトリック諸侯は、共通の善を無視して自らの意志を追求する傾向にある。彼らは、カトリックの危機への対処の中で、帝国でのハプスブルク家の力が増大することを恐れている。そのため、オーストリア大公(フェルディナント想定される)は連盟の主導権を握るべきではなく、それは他の君侯に任されるべきである。連盟の目的はアウクスブルクの和議の保持であり、それには異端のプロテスタントも反対していない。連盟の目的はハプスブルクの利益になる」

 連盟の主導権をオーストリアのハプスブルク家が握るべきでないとする意見にフェルディナントは衝撃を受けたが、彼はおおよそその意見に従うことになる。実際、かつてレーゲンスブルク議会のさなかにフェルディナントがバイエルン公に同盟を提案した際、バイエルン公は自らの主導権を失うこととハプスブルク家の継承問題に巻き込まれることを恐れて、明言を避けたという経緯もあった。ハプスブルク朝は、自らの弱体化を恐れるだけでなく、自らの力の増大への他者の恐怖にも配慮する必要があったのだ。

 

 

 

Bireley,R.,Ferdinand II, Counter-Reformation Emperor, 15781637.Cambridge 2014

 今回の記事では61頁~62頁を参照した。

 

【おまけ キャスパー・ショッペについて】

 Caspar Schoppe(1576年5月27日-1649年11月19日)はドイツの論客・学者である。彼についての英文ウィキペディアの記事があったので、それを参照して彼の生涯を紹介する。
 彼は、プファルツ北部のノイマルクトで生まれ、ドイツのいくつかの大学で学んだ。彼はバロニウスのアンナレス教会を読んだ後、1599年頃にローマカトリックに改宗した。

 ショッペは教皇クレメンス8世の好意を獲得し、プロテスタントに対抗する著作によって名声を上げた。彼はEcclesiasticus auctoritati Jacobi regis oppositus(1611)でプロテスタントのイングランド王ジェームズ1世を攻撃し、Classicum belli sacri(1619)では、カトリックの君侯にプロテスタントに戦争を仕掛けるよう促した。 1607年ごろ、ショッペは大公フェルディナンドに仕える。ショッペはフェルディナントがプロテスタントの議論に反論するのに貢献し、外交のため派遣されることもしばしばあった。ピエール・ベイルによると、彼は1614年にマドリードで数人のイギリス人に殺されそうになり、1617年にはイエズス会への攻撃に参加したため再び命の危機に陥ってドイツを離れてイタリアに逃れた。1649年11月19日にイタリアの都市パドヴァで亡くなった。