平泉澄 北条氏評価の変化について | 玲瓏透徹

玲瓏透徹

あなたの正統性は、どこから?

【目次】

はじめに

1、『日本歴史物語』での北条氏の評価

2、『物語日本史』での北条氏の評価

 2-1、北条泰時の評価

 2-2、北条時頼の評価

3、「浅薄なる美化主義」への反省

おわりに

 

はじめに
 所謂「皇国史観」の唱道者として知られる平泉澄は、鎌倉幕府を率いる北条氏を倒そうとした後鳥羽上皇を高く評価する。後鳥羽と戦って後鳥羽を流罪にした北条氏への彼の評価は、概して厳しい。戦後に少年向けに書かれた通史『物語日本史』(初出1970年)の中巻では、蒙古襲来という国難を乗り切った北条時宗への高評価を除いて、北条氏を高く評価することはない。しかし、戦前に少年向けに書いた中世史の通史『日本歴史物語(中)』(1928年)では、北条氏を高く評価する文言が多く見受けられる。本稿では、平泉の北条氏の評価がどのように変わったのかを概観し、その変化がなぜ起こったのか、平泉の考えの変化を探ってみたい。
 まずは『日本歴史物語』での平泉の北条氏の評価を紹介し、次いで『物語日本史』との変化点を見、そのほかの平泉の著作の記述と突き合わせてその変化とその所以を掘り下げてゆく。

 

1、『日本歴史物語』での北条氏の評価
 南北朝時代ごろに成立した歴史書『増鏡』に、承久の乱の際、幕府軍の大将となった北条泰時が、万一後鳥羽院自らが戦場に出てきた場合はどうすればいいかを父義時に問い合わせたところ、義時が降参しろと言ったという有名な逸話がある。平泉はそれを引いて、「義時、なかなか腹の黒い人間で、決して立派な人ではないのですが、かういふ大きな問題になると、さすがは日本人です」(94頁)と義時を「立派な人ではない」と言いつつも、高く評価している。
 北条氏は「ひとり皇室に対してばかりでなく、将軍に対してもふらちなことがおおかつた」「前には源氏将軍に対してほんとうに忠義をつくさず」(98頁)という有様ながら、

そんなことをしながら、北条氏が中心になってゐる鎌倉幕府が、これから百年あまりもつづいたのはなぜかといひますと、それはまったく北条氏の政治がよかったからです。北条氏は泰時からあとは非常に立派な政治家がつぎつぎに出て、下々を憐んだものですから、皇室と将軍に対してはふらちなことがあつたのですけれども、とにかく一般国民の間には北条氏の信用は大したものでした。(99頁)

と述べている。
 ここでの泰時の評価は高い。泰時は明恵上人の教えを受けて「えらく」なり、「すっかり欲を離れて、すこしも自分の為を考へず、人の為、世の為ばかり考へたのですから、天下はよく治まり、幕府の信用は大したものになったのです。そしてこの泰時の代に、幕府では、初めて法律を作りました。貞永式目といつて、五十一箇条あります。これで幕府の政治は、ますますよくなりました」(101頁)
 続けて、泰時の次代・時頼も高く評価する。

それにまた、泰時の孫の時頼がえらい人でした。時頼はちひさい時に父に分かれて、母の手にそだてられた人ですが、その母が松下禅尼といつて、非常に考への深い、立派な人で、障子のやぶれた時にも、みんな張りかへないで、やぶれた所だけを切り張りして、時頼に倹約を教へました。この母に育てられた時頼が、祖父のように欲のない、立派な人になつたのに不思議はありません。(101~102頁)

ひとり倹約ばかりではありません。時頼は盛んに武芸を奨励しました。武士にはみな弓や馬の稽古をさせたり、相撲をとらせたりして、からだを鍛へさせました。ですから、この時分の幕府は、財力も豊かであれば、武力も十分強く、強いといふ点では申し分のない時だつたのです。(103頁)

 倹約と武芸奨励を高く評価される時頼に続き、時宗も「非常にえらい人」と紹介される。
 蒙古襲来の後、幕府が防衛の支出ために財政難になったことについて触れ、「これだけならば、決して幕府がわるいのではな」いが、「時宗の死後、その財政を立て直す人物が出て来ず」、北条高時に至って「いっこうに政治のことをかへりみず、勝手気ままに遊ぶことばかり考へましたので、財政は乱れる一方」(130頁)になったと述べる。時頼以降になり、ようやく北条氏への批判が出てくるのである。
 幕府の政治は「我が國體の上からいへばどうしても変態」(132頁)だが、「それでも泰時とか時頼とか時宗とかいふようなえらい人物が出て、国民の為をはかり、外寇をうちはらつた為に、国の為にもなれば、人の信用もあつて、これまでつづいて来たのですが、それが高時の代になつて、こんなに政も乱れ、人の信用も失つて来ては、幕府は立つてゆく筈がありません」(133頁)。それでも、泰時・時頼・時宗の政治がよかったために、滅亡に当たって幕府や北条氏に殉じる武士が多数いたことを詳述し、後醍醐天皇が北条氏を滅ぼすのは容易ではなかったことが強調される(145~150頁)


2、『物語日本史』での北条氏の評価
 『物語日本史』では、時宗を讃えることはあっても、泰時や時頼らの善政を讃えることは全くない。後鳥羽院自ら戦場に出て来たら降参せよ、と義時が泰時に言ったという逸話も紹介されておらず、貞永式目についても言及すらされていない。北条氏への評価は辛辣を極めた。

陰謀と残酷とを特徴とする性格は、時政、義時、泰時、時頼よりして、最後の高時に至るまで、一貫していました。(163頁)

北条氏九代、時政より高時に至り、よくない人物が続きました中に、ひとり時宗は、大国難に遭遇して、よく国防の重責を果し北条一門の罪を償おうとしました。(173~174頁)

 泰時や時頼も一括して「よくない人物」に繰り込まれているのである。彼らが『日本歴史物語』で「えらい」「立派」と讃えられているのとは雲泥の差である。一方で、滅亡時に幕府と北条氏に殉じて死んだ武士が多かったことに触れ、彼らへの評価はしていないものの、好意的に紹介しており、その点は『日本歴史物語』と共通しているといえる。
 なぜ、同じ少年向けの通史でありながら、戦前と戦後でこのような大きな変化が起こったのであろうか。以下、平泉のそのほかの戦後の著作も参照しながら確認していく。

 

2-1、北条泰時の評価
 まず、泰時については、『物語日本史』では良い評価を書いていないとはいえ、戦前と戦後で評価はそこまで変わっていない。戦前の『建武中興の本義』(1934年)に「明恵上人の教えをを守つて、つとめて自らの私慾を去り、為によく人心を得、その悖逆の身を以てして猶たくみに世を治める事が出来たのであつた」(33頁)と、戦後の『明治の源流』(1970年)に「(引用者注:明恵上人の)無欲公平の訓誨は、泰時の肝に銘じ、その行為の指針となった」(50頁)、「せめて自分の欲望だけでも抑へ、物質的利益を追求しなかったとすれば、それは一般世間には非常な評判となり、いかにも賢人であり、君子であるとして、謳歌せられたであらう」(51頁)とあり、どちらも泰時の無欲は評価する線では共通している。ただし、泰時の美点を手放しで褒める『日本歴史物語』に比べると、その高評価も抑制的・限定的になっているのは明白であろう。
 また、「幕府のおかげで、武士の生活は楽になり向上したではないか、その恩義を忘れて官軍に加はる気か、と責める」北条政子の演説を引き、「これが将士の心をひきつけた。ここに幕府の立脚地があり、それを失へば幕府は成立たないのである。泰時は此の道理を十分わきまへていた」(『明治の源流』55頁)と述べている。そこからは、泰時の「善政」は(『日本歴史物語』の記述からから読み取れるような)「一般国民」のためのものではなく、あくまでも武士のためのものに過ぎない、という風に読み取れよう。

 以上から、平泉の泰時への評価は、『日本歴史物語』から『建武中興の本義』の間でトーンを変化させ、ほぼその線で戦後まで一貫しているといってもよい。泰時の「無欲」は戦後も認めているものの、『物語日本史』ではそれに敢えて触れなかった。

 

2-2、北条時頼の評価
 戦後の平泉は時頼を全く評価していない。『明治の源流』で、「時頼の一生、吟味して見るに、賢明とか、善政とか、特に称揚すべく感謝すべきところ、一向にない」(134頁)と、見事なまでに否定している。出家した時頼が諸国を巡回して民情を視察、政治の得失を考えたという『増鏡』『太平記』や謡曲『鉢木』の伝説は、出家後の時頼が政治に関わっている動向が『吾妻鏡』『保暦間記』に記載されていることを根拠に史実とは考えられない「後世の想像もしくは創作」(131頁)と実証し、時頼名政治家説を一蹴した。同様の記述は『明治の光輝』所収「明治天皇の御巡幸」(1973年)にもあり、時頼の巡国伝説は「足利の悪政に苦しみ、暴虐を嘆いた人々の、かやうにあつてほしいと思ふ願望が生んだ夢物語」(57頁)であるとしている。
 『物語日本史』でも、時頼の倹約や武芸奨励を讃えることはなく、道元が時頼に「道を説こうと」半年鎌倉に滞在したが、時頼には全く効果がなく「失望して」帰った、という逸話を載せるのみである(164頁)。時頼については、いつごろからかは明確でないにせよ、『日本歴史物語』執筆以降に大きく見解を変えたというより他はないであろう。

 

3、「浅薄なる美化主義」への反省
 平泉は、『日本歴史物語』では、北条泰時、時頼、時宗は「えらい」「立派な」人物で、善政を敷いて「一般国民」の信用を得たと評価しているのに対し、『物語日本史』では元寇を退けた時宗を除いて北条氏には「よくない人物」が続いたと辛辣に評価した。泰時については、『日本歴史物語』以降、泰時への高評価は全くなくなりはしなかったものの抑制的・限定的になり、時頼への高評価はなされなくなり、否定と言ってもよいほどの低評価となった。平泉の北条氏への評価は、多かれ少なかれ、『日本歴史物語』以降で変化があったのは明白である。
 1928年の『日本歴史物語』執筆後、1930年から1年間、平泉はヨーロッパ諸国に留学する。平泉が帰国後に国粋主義的な傾向を強めたことは夙に指摘されている。彼は留学中に歴史哲学や英仏の革命史・革命論に触れ、さらに「世界情勢のただならぬ雲行」(『悲劇縦走』362頁)を感じて日本の前途に危機感を強めた。帰国後の平泉は、革命論や近世や幕末の尊王論の論文を多く執筆、専門の中世史でも南朝の忠臣についての著述が増える。
 平泉の思索に影響を与えた留学中・留学後の危機感は、彼の中世史の認識にも再考を求めたことは疑いない。戦時中(1943年)の文章で平泉は、江戸時代の幕藩政治を「翼賛政治の一体型」とする見方を「浅薄なる美化主義」の一例として挙げ(『平泉博士史論抄』370頁「国史の威力」)、次のように主張する。

徳川氏にして猶かやうであれば、その前に遡って、足利といひ、北条といひ、倨傲不逞の状、推して知る事が出来よう。我々はそれを有りの儘に認めなければならぬ。認めて之を慙愧痛恨しなければならぬ。之を隠して示さず、之を覆うて慚づる事なき者、即ち真実を愛せず、誠心をもたざる者は、歴史学の名を冒涜して虚偽を弄ぶ者、到底歴史の門に入るを許されざる者である。(372頁)

 かくの如き思想に到達した(あるいは向かいつつあった)平泉にとって、鎌倉時代の北条氏の善政を手放しで讃えるのは、北条氏が朝廷を蔑ろにして政治を行ったという歴史の現実を、悪くないものとして追認して受容れる=美化することに等しいであろう。平泉は留学前に書いた北条氏を讃える文章を、「浅薄なる美化主義」であったと反省する所があったのではあるまいか。それは、歴史の現実を皇国護持のイデオロギーで捻じ曲げて行う反省ではない。実際に冷静に歴史を見た上で、泰時の善政なるものは、「一般国民」ではなく武士に利するものに過ぎず、時頼に至っては治績を見、伝説を検討すれば名政治家であるという評判は虚構に過ぎないと結論づけたのであろう。そのような思索が著作の上に現れたのが、戦前にあっては『建武中興の本義』であり、戦後になっては『明治の源流』『物語日本史』であるといってもよいであろう。平泉の北条氏への評価の変化は、かかる思想上の進展と一体であったと言っても過言ではないのではあるまいか。

 

おわりに
 以上、平泉の北条氏評価の変化点を確認し、その上でその変化の由来を尋ねた。1928年の『日本歴史物語』での北条氏の手放しでの評価が後に変化するが、その変化は、平泉の留学以後の思索の結果である、というのが本稿の結論である。

 

【参考文献】
平泉澄『日本歴史物語(中)』日本児童文庫、1928年
平泉澄『建武中興の本義』至文堂、1934年
平泉澄『物語日本史』講談社学術文庫、1979年(初出『少年日本史』時事通信社、1970年)
平泉澄『明治の源流』時事通信社、1970年
平泉澄『明治の光輝』日本学協会、1980年
平泉澄『悲劇縦走』皇学館大学出版部、1980年
平泉澄『平泉博士史論抄』青々企画、1998年
田中卓『平泉史学と皇国史観』青々企画、2000年
若井敏明『平泉澄』ミネルヴァ書房、2006年