平泉澄と美濃部達吉 (附、平泉澄と喜田貞吉) | 玲瓏透徹

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【目次】

はじめに

1、平泉の美濃部批判

2、平泉と美濃部の関係

おわりに

附 平泉澄と喜田貞吉

 

はじめに
 歴史学者の平泉澄は、明治末から大正にかけて「世界を迷わしている民主主義の誘惑」に追随する風潮が強くなってきたとし、「学問の中において、国家の本質を明らかにし、その健全を維持するうえに、特に責任の重いものは、憲法学と国史学でありましょう。しかるに、憲法学は、明治の末より大正に入っては、もっぱら論理の周密を喜んで、祖国の歴史を顧みず、一方国史学は、いたずらに史料に拘泥して、その中に一貫している精神を忘れてきました」(『物語日本史 下』191頁)と述べ、当時の国史学の状況とともに、憲法学のあり方を批判する。ここで批判されている憲法学を代表する学者は、名前こそ上がっていないが、言うまでもなく美濃部達吉である。周知の通り、美濃部は天皇機関説を唱えて大正時代以降の憲法学を牽引した学者であり、天皇機関説を不敬とする1934年以降の攻撃に遭うまで、彼の理論が日本の憲政を下支えした。天皇親政を理想とする平泉が美濃部の憲法学と相容れないのは、容易に想像しうるところであろう。
 ここでは、平泉の美濃部批判と、平泉と美濃部のかかわりについて、平泉の著書やインタビューから拾っていく。

 

1、平泉の美濃部批判
 平泉は、「忠君愛国」「質実剛健」「忠孝一致」の明治の時代精神を理想的なものと見なし、大正時代以降の「国家観念の動揺」を批判する。そのような平泉の大正時代批判は、美濃部批判を伴って現れる。彼は、大正時代の「国の箍が弛」まんとする風潮を後押しして「明治憲法の根底を脆弱ならしめたものは、東京帝国大学教授美濃部達吉博士であります」(『日本の悲劇と理想』369頁)と断じる。平泉は、美濃部の文才と実力は高く評価している。「論理の明快にして行文の流暢なる、読む者を魅了せずんば止まざる力を有つてゐます。数多くの行政官また司法官が之を愛読したに無理はありませぬ」(前掲書271頁)、「美濃部学説は、その博学洽聞の雄大と、細密精緻の分析と、一糸乱れざる整然たる論理と、鉄騎千里を馳するが如き行文とを以て、読者を魅了し、学界官界に於いて頗る重んぜられたのでありました」(『悲劇縦走』320頁)という文章からは、その高評価が窺われよう。
 だが平泉は、美濃部のそのような論理稠密なる美文の中に、「日本の国体に対する冒涜」が含まれていると言う。ホッブズ以降の自然法学者の思想や辿る美濃部は、彼らの思考実験の倫理に基づいて欽定憲法を理解しようとしていて日本の歴史に冷淡であり、「欽定憲法の根本精神を理解する上に最も必要なる御歴代天皇の詔勅御製等を拝領する代りに、外国特にフランスの歴史を訪ねてゐる」(『日本の悲劇と理想』371頁)、「御歴代天皇の遺訓を承けず、フランス革命の源流を為したホッブズを継がうとしている」とし、「かやうな学説が横行して法学界を支配する時、忠孝一致、忠君愛国の信念の動揺してくるのは、まことにやむを得ざる勢でありました」(前掲書372頁)と述べる。明治憲法を、「我が国の建国の体」に基づき「我が国の歴史をかえりみ」たうえで「外国憲法の利害を考え」るという岩倉具視の方針に基づいて伊藤博文が作ったものとする(『物語日本史 下』169頁)平泉から見れば、美濃部の憲法学は、日本の歴史を主とし外国憲法や外国思想を参考にしたものではなくして、外国憲法や外国思想を主として日本の歴史を顧みないものに映ったのである。それゆえ平泉は、「美濃部博士の説は、欽定憲法の解釈ではなくして、博士独自の論理の弄びであり、日本の国体を無視し、或は之を軽視するものでありました」(『日本の悲劇と理想』373頁)とまで述べるのである。

 

2、平泉と美濃部の関係
 平泉は美濃部と面識があった。平泉が29歳の時(1924年か)、九州帝国大学の創立委員を務めていた美濃部は、平泉を国史学科の主任教授に招くという案を立てて、平泉を懇切に勧誘した。平泉の「仲間」は助教授や助手で迎えられたが、主任教授で迎えられようとした者は平泉の他にいなかったが、結局、平泉はその誘いを断ったという(「平泉澄氏インタビュー(三)」79頁)。どうやら美濃部は、平泉の国史学者としての実力を高く買っていたようである。
 戦後の著書でこそ平泉は美濃部を名指しで批判しているが、美濃部が天皇機関説問題で攻撃を受けたとき、平泉はそれには関与していなかったと言う。戦後のインタビューで、平泉は「例の蓑田胸喜氏、小田村(寅次郎)氏、あれはみんな酷薄に人身攻撃をやるでしょう。私はあれには関係しない。世間では私がやったように思うんです。美濃部憲法を攻撃するのも平泉がやったんだというんですが、全然私は知らない」と述べている(前同)。


おわりに
 以上、平泉の美濃部批判の所以と美濃部との関係を確認した。平泉は美濃部の能力を認めながらも、国史から欽定憲法の「精神」を読み取らず、外国思想を主として憲法を論じる美濃部の発想は容認できなかった。平泉は美濃部の思想を、「国家観念」が動揺する大正時代の風潮に拍車をかけ、若いインテリが美濃部の憲法や吉野作造のデモクラシー論を通り越して天皇制転覆の革命思想に走る前景となったものと見ている(『悲劇縦走』321頁)。平泉は大正時代に起こった「精神」の動揺に果たした美濃部の歴史的役割を重く見ており、それゆえ批判するのである。
 ところが、実は平泉は美濃部と面識があり、美濃部から学者としての実力を高く買われていた。思想は違えど、平泉が美濃部の才覚を高く評価していたことを考慮すると、彼らはお互いに認め合う存在でもあったといっても過言ではあるまい。無論、平泉は著書で遠慮なく美濃部を批判するが、その批判には、「変節」した和辻哲郎や宮沢俊義への批判(『明治の光輝』参照)とは違い、一定の敬意はあるように思われる。天皇機関説事件の時勢に便乗して美濃部を人格攻撃するが如きは、平泉の潔しとするところでなく関与することがなかったのも当然であろう。

 

【附 平泉澄と喜田貞吉】
 喜田貞吉は平泉よりも年長の歴史学者で、南北朝を併記する教科書を書いたことで攻撃を受けた(南北朝正閏論争)。南朝を「正統」と見なす平泉とは、学説上でも大義名分上でも意見が対立する人物である。本稿の冒頭で引用した「一方国史学は、いたずらに史料に拘泥して、その中に一貫している精神を忘れてきました」には、「明治四十四年に起こった南北朝正閏問題などは、その一つの現れです」という文章が続く。つまり、平泉にとって、南北朝正閏で「史料に拘泥」して天皇の正閏を弁じ切らなかった喜田は、憲法学での美濃部とともに、明治末から大正時代の嘆くべき風潮の代表的人物であると見てもよいであろう。

 東京大学百年史のインタビューで、平泉はあるときの喜田とのやり取りを再現している。

喜田「きみと山田(孝雄)君と、南北正閏論は、わしらと考えが違うが、あれは間違っているぞ、宮中では北朝の天皇をお祀りになっている」
平泉「私は宮中のことは知りません。どうあそばされるかは宮中の思し召し次第で、私は歴史の上からことを考える」
喜田「それならいうが宮内省でも内閣でも、いよいよ北朝のほうを正統と決めたときはどうするんだ」
平泉「先生、ご心配くださるな。そのときはそのときで自分は処置しますから」
喜田「それからな、それはそれとして新六(筆者注:貞吉の子。当時助手)のことを頼むぞ」
平泉「私は新六さんはいい方だと思うし、よくわかっていますから、この人の将来は私が見ます」
喜田「頼むぜ」
平泉「先生、ご心配くださるな。南北朝正閏論は正閏論で先生と私は意見が違いますけれども新六さんの将来は私がおる限り大丈夫です。必ず将来はお世話します」
喜田「頼むぞ」
(「平泉澄氏インタビュー(五)」118頁参照)

 相変わらず正閏論の意見は合わないにせよ、平泉は喜田ときちんと対話し、喜田の息子の世話も請け負っている。平泉は、然るべき人物には対しては、意見が対立しても敬意を失わなかったのである。

 

【参考文献】
平泉澄『物語日本史』講談社学術文庫、1979年(初出『少年日本史』時事通信社、1970年)
平泉澄『明治の光輝』日本学協会、1980年
平泉澄『悲劇縦走』皇学館大学出版部、1980年
東京大学旧職員インタビュー、「平泉澄氏インタビュー(三)」『東京大学史紀要』第15号(1997年)
東京大学旧職員インタビュー、「平泉澄氏インタビュー(五)」『東京大学史紀要』第17号(1999年)