皇位継承問題について 非リベラル(右翼)による女系天皇肯定論の可能性 | 玲瓏透徹

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あなたの正統性は、どこから?

 現代の皇位継承問題の根本的な対立軸は、男系継承を貫く(悠仁親王に男子が生まれることに賭け、かつ歴代天皇の男系末裔に当たる一般人に皇位継承権を与える)か、女系の継承権を認める(愛子内親王・佳子内親王本人及びその子孫、悠仁親王の女子及びその子孫に継承権を与える)か、の二つの立場にある。しばしば、前者の立場は「保守」と、後者の立場は「リベラル」と見なされる。しかし、後者の主張は、所謂「リベラル」な人々が主唱する「普遍的な」価値(男女平等など)に基づかなくても、唱えることは可能である。いうなれば、右翼(「保守」「反動」「日本の固有・特殊を重んじる者」「歴史主義者」「伝統主義者」「君主主義者」など。どれでもよい)でも女系継承を主張し得るのである。
 現在、女系継承を継承問題の議論の俎上に載せようと奮闘する政治勢力は「リベラル」とされる立憲民主党のみである。また、女系継承権を主張する皇室に詳しい学者も、多くは「リベラル」な者の共感を呼びやすそうな議論を展開している。私は、そのような「リベラル」な立場、「普遍的な」原理から継承問題を議論することを非とするのではない。ただ、「右翼」的な立場からも女系継承権を主張し得るということが認識されず、男系主義と非男系主義の対立が「保守」と「リベラル」の対立と同一視されがちなことを憂えるのである。ゆえに、本稿では、「右翼」の立場からも女系継承を主張し得ること、「歴史」「伝統」を盾に取った議論は男系主義の専売特許ではないことを示してゆく。

1、「天壌無窮の神勅」と世襲
 非「リベラル」な立場にあり、かつたいていの自覚的な「右翼」(前述)であれば、天皇が日本に君臨することの正統性の根源は、「国民の総意」に基づくことである以前に、「天壌無窮の神勅」(『日本書紀』の一書にある、「皇孫」が永遠に日本を統治し栄えることを保証する、天照大神の神勅)にあると見なす。そこで挙げられる日本に君臨すべき者は、「皇孫」とあれ、「男系に限る」などとは書かれていない。神勅における天皇統治の根本原則からは、男系主義は導き出せない。そこから導き出されるのは、あくまでも世襲の原理である。
 世襲の原理は、君主の子が君主に、またその子が君主に……と連綿と続くことにある。君主に子がない場合や、君主に経験や指導力が求められる場合には、君主の兄弟などの傍系の一族が即位する場合もあるが、いずれにせよ同族の血統の連続性が君主となることの根拠であることには変わりがない。その君主の血を繋ぐ者が、男であるか女であるかは、世襲の原理にとって本質的ではない。男系にも女系にも継承権を認めることは、男女平等や人権論などの「普遍的な」原理に頼らずとも、世襲の原理から導き出せるものである。

2、時代の反映としての男系継承と
 無論、君主制における世襲がどのように行われるかは、各国や各王室・皇室ごとに、その歴史や社会を反映して、各々異なっている。が、過去の多くの君主制国家は男系継承を主とすることが多かったといえる。周知の通り、家系図上日本の歴代天皇はすべて男系の血を引き、ヨーロッパ諸国でも長らく優位だったのは男系継承であった。日欧ともに男系継承が主流だった理由としては、(説明の仕方はいくらでもあるが)王室が確立する時代には男性優位の社会が存在したこと、社会が母権制から父権制へと移行していたこと、などがあげられよう。こと日本においては、厳格な男系主義的家族制度を採る中国文明の思想的影響も大きいと言えるだろう。
 世襲継承のあり方は、その成立や沿革の中で、時代時代の相を反映している。現代のヨーロッパの王室で男女問わぬ長子継承が定められる国がある(スウェーデンなど)のもまた、現代という時代相の反映による。時代の相というものは、あくまでも相対的なものであって、絶対的なものではない。(それは世襲のあり方のみにかぎられるものではない。古代の天皇が自ら指導力を発揮したからといって指導力を発揮することが天皇の「本質」であるわけでもなければ、中世や近世には実権を振るわない天皇が多かったからと言って「天皇不執政」が天皇の「本質」であるわけでもない)
 日本の男系継承は、その原理を「天壌無窮の神勅」のような天皇統治の根本原則から導き出せないことは既に述べた。男系継承の根拠とされるのは、「歴史」と「伝統」であるが、それらは時代の相の反映によるものであって絶対的なものではなく、あくまで相対的なものである。ここで言っているのは、「歴史」「伝統」から男系主義を導く主張が破綻しているということではない。ただ、あくまでもその拠って立つところのものは相対的なものであること、かつそこから必然的に男系継承が導き出せるというわけではない、ということである。

3、「歴史」「伝統」からの自覚的選択
 女系継承の支持は「リベラル」な「普遍的」原理によらずとも主張しうるし、「歴史」と「伝統」を重んじれば男系継承の維持に至らざるを得ないというわけではない。女系天皇は歴史上(家系図上)存在しなかったし、男系末裔の一般人が皇位を継承した例もない。(18歳で臣籍降下した源定省が後に宇多天皇として即位したこと、その子である源維城が3歳で皇籍を取得し後に醍醐天皇として即位したことは、先例たりえない。両者とも皇族として人格を形成し、かつ血統的にも天皇の子であって直近の天皇と極めて近しい)
 現代の皇位継承問題において、女系継承を主張することも、男系末裔の一般人の皇位継承権取得を含めた男系継承貫徹を主張することも、「歴史」と「伝統」に寄りかかるだけで主張しうるものではない。それらを踏まえたうえでの、意識的な選択があくまでも求められているのである。天皇の世襲を大前提としつつ、「君臣の義」(この言葉が気に入らなければ「君民の別」でもよい)を重んじて男系末裔の一般人よりも現天皇に近い血筋の皇族による男系女系問わぬ継承にこそ正統性を見るか、これまで家系図上例外なく続いてきた男系継承の「歴史」「伝統」を君臣の別という「歴史」「伝統」よりも価値があるものと見なすか。男系主義と非男系主義の対立は、そのようなものとしても存在し得る。どうして「保守」と「リベラル」の対立としてのみ存在し得ようか。「普遍的な」原理によって女系継承を正当化する議論が目立ちがちであっただけで、「右翼」的な論法や語彙からそれを行うことも可能なのである。

おわりに
 普遍的とされる価値を重んじる「リベラル」(自由主義者とは限らない)と、歴史や伝統などの固有の価値を重んじる「保守」は、粗雑な分類として使われるものではあれ、現代の政治や社会における諸問題の対立軸としてある程度機能している。皇位継承における男系主義と非男系主義の対立を、無理にこの対立に落とし込むこと(往々にして「敵」に対するレッテル貼りとともに)は、「政治社外」にあるべき(とされる)皇室の存続にかかわる継承問題を、一般の政治的・社会的対立に帰せしめることとなる。それが冷静な議論のために望ましいことであると言えようか。