21.10.17 松山城[最も新しい現存天守を持つ城]その9 | ぬるま湯に浸かった状態

ぬるま湯に浸かった状態

城巡りを中心にしたブログです。
『ぬるい』ので入られる方はご注意ください。

松山城 レポのその9になります。

 

 

その8のレポはこちらです。

 

 

   ---------------------------------------

 

 

見所となる遺構(土塁など)はブルー、名前のある場所(本丸など)はパープル

現存建築物(移築建築物含む)はピンク、再現建築物(模擬建築物含む)はオレンジ

跡地(櫓跡など)はグリーン、その他(銅像など)はブラックで表記します。

 

 

 縄張図

 

 

   ---------------------------------------

 

 

ニノ門を潜ると、広い 曲輪 が広がっています。

しかし、虎口はどこにも見当たりません。

そう、ここでも180度ターンをしないと 虎口 がないんです。

実際、もう一か所はここからは見えない場所にあるんですけどね。

で、ヘアピンカーブを曲がった場所に、高麗門三ノ門 があるのです。

 

 ニノ門前ほどの圧迫感はありません。

 

 

 説明

 

 

 

ただし、全体図が写りこんでいませんが、右(西)に大天守が控える事で容易に

門前に辿り着く事ができなくなっています。

また、二ノ門を潜ると、三ノ門東塀 からの横矢を受ける形になっています。

 

 しかし、まだ本壇の中心部には入る事ができないんですよね。

 

 

 説明

 

 

 

では、三ノ門を潜ります。

この門を潜って左(東)を見ると、三ノ門東塀に向かって登る 雁木 があります。

三ノ門東塀にも、狭間 が見られ、二の門を越えた敵を側射できる形になっています。

で、この塀の 控柱 は、途中まで石を使用していますね。

建物の事は本当に詳しくないのですが、こういうのは珍しい事なんでしょうか?

 

 この辺りは雁木Worldです。

 

 

 

このまま雁木を紹介したい所ですが…その前に、人がいなくなったタイミングが

あったので、振り返って、筋鉄門 を見ます。

門全体が鉄製という訳ではなく、柱角などを鉄板で補強している 渡櫓門 です。

ちなみに、目の前に 枡形スペース を持つ、枡形虎口 でもあるんですよね。

 

 『すじがねもん』というWordが好きです。

 

 

 

もう十分見えてしまっていますが、先程も言いましたが、この枡形には雁木が

多く見られます。

先ずは、ニノ門南櫓へと登る、雁木

 

 整然とした雁木も一興があります。

 

 

 

そして、その脇を走る、筋鉄門東塀 に登る 雁木 です。

この塀は表からも見ましたが、一ノ門前の枡形を狙う、狭間 が多く見られます。

また、雁木の下部には、あの石樋に向かって排水する、暗渠 もあります。

あっ、ここの 控柱 は、完全に石造りですね。

 

 僅かな空間なのに、情報量が多すぎる!

 

 

 

筋鉄門を超えると、ついに本壇の中心部に到達しました。

しかし、観光客が多く、撮影タイムを待つ時間の長い事、長い事…。

やっと人が掃けたので、天守 を狙って。

天守台 は殆ど隙間のない、切込接の石垣 になっています。

という事は、築城当時のモノではないでしょう。

 

 最も新しい現存天守です。

 

 

 説明

 

 

 

この松山城の天守ですが、築城当初は五層の『天守』が存在したと、巷間では

言われていました(上の説明でも書かれています)。

幕府に憚って、久松松平氏の時代に三層の天守に変えたなんていう話しも

僕が城を巡り始めた頃に聞いた(もしくは調べた)覚えもあります

(昔のレポでも書いているかも)。

しかし、最近の研究で、築城時には『天守』はなかったとされています。

その根拠となったのが、幕府隠密の絵図。

先だって、宇和島城のレポで書きましたが、五角形の輪郭をした城を、四角形と描いて

しまう、失態を犯した幕府の隠密ですが、この松山城を描いた絵図には、『天守』が

描かれていないのです。

その代わりに、この本壇には五基の二重櫓が囲み、それを多聞櫓もしくは塀で連結させて

いる様に描かれています。

イメージとしては、飛騨松倉城(行った事ないけど)の様な印象ですね。

そして、その櫓に囲まれたスペースには、池が存在しています。

この池に対しては、蒲生氏時代の絵図にも描かれており、水源として重宝されていたと

考えられるそうです。

本壇の形も、現在見せる姿とは異なり、今と同じく東西の二重構造で、南側に虎口を

持っていますが、西側は、西が尖っている凸型に描かれています。

その旧本壇の事は、栗石が発掘調査で発見されるなど、証明されています。

詳しく書きましたが、その話しを聞いた際のレポをまたまた貼っておきます。

 

 という事はここらに池があったんですね。

 

 

 本壇説明

 

 

 本壇周辺図

 

 

シンポジウム『瀬戸内の近世城郭』のレポ

 

 

 

この連立天守の 玄関 になります。

車寄 のある玄関は、松平十五万石の権威を示すように立派です。

恐らく、一門にしか許されない、葵紋が刻まれているのも印象的です。

この玄関を擁するのが、玄関多聞櫓

大天守と北隅櫓を連結させる 多聞櫓 です。

 

 葵紋は殆ど、見えませんがアセアセ

 

 

 説明

 

 

 

この後、この建物群に入っていきましたが…団体客もいたりした事もあるのですが

一枚も写真を撮っていません。

まぁ、僕のブログを散々読んできた方はお判りでしょうが…「建物内には興味がない!

という事を自分自身再認識させて頂きました。

そりゃ多少は、展示物で目を見張るモノはあるんですが、そういうのに限って撮影禁止。

仕方ないっちゃ仕方ないんですけどね。

で、皆より早く廻って外に出ました。

という事で、さっさと出てきたので、もう一度、連立天守の内部を見てみました。

ここも 枡形スペース と言いえるかもしれませんね。

尚、写真奥の建物ですが、左(東)から 小天守多聞櫓南隅櫓 そして

十間廊下 です。

 

 まさかの無人の時間帯でした。

 

 

 小天守説明

 

 

 多聞櫓説明

 

 

 南隅櫓説明

 

 

 十間廊下説明

 

 

 

本壇の順路通りに行きますと、先程の筋鉄門ではなく、この 内門 から出ていく

事になります。

この 渡櫓門 の脇にある、玄関多門櫓が 横矢 を掛けています。

 

 人が内部に居てたので、この角度でしか写真が撮れませんでした。

 

 

 説明

 

 

 

その手前には、またまた 枡形スペース が設けられています。

筋鉄門側もそうでしたが、こちらも 枡形虎口 となっている訳です。

そしてこの枡形にも、雁木 が置かれて、これまた 狭間石落し を持つ塀に

登る事ができます。

尚、この塀の名前は…判りません。

 

 そして今、立っている場所には。

 

 

 

枡形虎口の外側にあたる、仕切門 が現存しています。

この門は、大天守に隠れており、二ノ門からは見えません。

まぁ、三ノ門も見えませんが、従って、最後の反撃の食らわす、出撃用の門で

あったのかもしれません。

出撃した兵を収容するのは枡形スペースでしょうし、もし敵が接近しても

大天守からの横矢が掛けられる様な仕組みになっています。

 

 建物がない枡形虎口ばかり撮っている様な場所で狙います。

 

 

 説明

 

 

   ---------------------------------------

 

 

その9はここまでです。

本壇内部は、もう少しだけ引っ張ります。