19.10.19 シンポジウム『瀬戸内の近世城郭』 その1 | ぬるま湯に浸かった状態

ぬるま湯に浸かった状態

城巡りを中心にしたブログです。
『ぬるい』ので入られる方はご注意ください。

秋祭りを終えた、昨年10月19日。

syunpaturyoku1号は今治港にある、今治みなと交流センター に姿を現しました。

とある講演があり、その講演を一緒に聞いてくれる方との待ち合わせの為です。

しかし、その一緒に講演に参加される方は、昼食がてらに、既にビールを所望しておりましたアセアセ

時間が来たので、講演会場に降りていきます。

最初は疎らでしたが、そのうち、人がわんさかと入ってきました。

で、何の講演会かと言うと、昨年の秋、年に約1回は訪れる、愛媛県歴史博物館で行われた特別展

瀬戸内ヒストリア -芸予と備讃を中心に- の関連イベントとして、この場所で

瀬戸内の近世城郭 と題されたシンポジウムが行われます。

このシンポジウムは、城のイラストレーターとして有名な香川元太郎 先生が復元イラストを

作成する過程の講演を中心に、四国の瀬戸内海沿いにある近世城郭である、松山城今治城

そしてお隣の高松城 の最新の研究結果が其々行われました。

既に1年前の事ですので、結構忘れている事も多いのですが、レジュメを参考にこのシンポジウムの

話しを書いていきます。

しかも写真も撮れずじまいでしたので、画のない面白味のない文章になると思いますがご了承下さい。

 

 

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先ずは香川元太郎先生が、城のイラストをどの様に書かれているかのお話しでしたが…。

残念ながら、これこそ写真がなければ、説明のしようがないんですよねアセアセ

ちなみに、香川先生は愛媛は松山のご出身です。

出身高校は、愛媛でも幾多の活躍された方を輩出している松山東高校。

松山藩の藩校からの流れを汲み、旧制松山中学以来の伝統がある、愛媛県内最古の高校です。

あの夏目漱石も一年間、ここで教鞭を振るう名門校。

現在も、愛媛県の公立高校では、最たる進学校であります。

我が母校との偏差値の違いは雲泥の差です。

まぁ、校区が全く違うので、入ろうと思う事は全くなかったですけどね。

それにしても、同じ県から、この様に著名な方がいる、しかも僕の趣味で活躍されているのは

本当に嬉しい限りです。

尚、僕は知らなかったのですが、城のイラストの他、迷路を描く事でも有名だそうです。

 

で、本題は、今回美濃金山城を参考に、山城のイラストを描く際のお話しを聞かせて頂きました。

説明するのは難しいですが、イラストの書き方は縄張図に基盤目をひいて、下絵用の紙

とは別に斜めに見下ろした基盤目を描いて、そして下絵様に紙の下に敷き、透かしてみます。

その後、其々の曲輪の標高に応じて、基盤目の紙を上下にずらしながら、縄張図の曲輪の形を

基盤目を目安に下絵の紙に移す事で、立体に描き起こしているそうです。

印象深かったのが下絵的なモノは元太郎先生が描かれて

最終段階は、娘さんが描いているという事。

確かに、あれを一人でするのは、かなり難しいですからね。

また、今回、各学芸員の方が講演して頂く、松山城、今治城、そして高松城のイラストも参考に

しながらお話しを頂けましたがこの点は、後程、書いていきます。

 

尚、香川元太郎先生のHPを下矢印にリンクしておきます。

『歴史館』の中にある地域検索で『愛媛県』を選択して頂けると、今回のシンポジウムと為に描かれた

『今治城』の画が出てきます。

その他、テーマになった『松山城』や『高松城』(こちらは香川県)も描かれています。

 

 

 

 

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さて、基調講演が終わってから、松山城 の話しになりました。

愛媛県歴史文化博物館の学芸員である、井上淳先生の報告です。

 

言わずと知れた、四国が誇り名城、松山城は、加藤嘉明が築城し、その後に入封した蒲生氏が

二の丸の工事を引き継ぎ、1635年松平定行が松山に配されると、改修を行って、現在の姿に

なりました。

この時の本壇(現在大天守や小天守などで囲む部分)には池があった以外は、現状とほぼ同じと

思われていて、江戸中期に落雷で焼失しますが、幕末に再建されます。

しかし、加藤氏、蒲生氏時代の本壇は、違う形だったのではと最近の研究で提唱されているそうです。

 

寛永4年(1627)の『幕府隠密松山城見取図』には、現在同様に本壇は西と東の二重構造

なっているのですが、西側は現在の様な方形ではなく、西側が飛び出ている凸型になっています。

またその西側に、五棟の二重櫓が描かれているのです。

そして東側には建物がなく、五重の天守は描かれていません

 

同じく寛永4年から寛永9年頃に描かれた『蒲生家伊予松山在城之節郭中屋敷割之図』には

隠密の図と同じく、東西二重構造で、全体的に多角形の形状となっています。

また、南側に虎口がある、折れ曲がりながら本壇東に入る形となっています。

これは現在の姿に類似しているかもしれません。

そして、西側の中央に水(貯水池)と記載されています。

 

江戸初期の『与州松山本丸絵図』では、これまた東西二重構造となり、虎口は南にあって東側に

折れ曲がりながら入る様子が描かれています。

また、西側中央に文字が判らないのですが池(貯水池)が記載されており、西側の石垣は

現在の本壇よりも高く傾斜角度は53度と緩やかった事が判ります。

 

さらに平成27年度の松山城本丸跡の防災設備工事による調査でも、旧本壇の裏込石と

考えられる栗石が検出されている事からも、本壇が現在の姿の前に改修を受けている事も実証

されました。

 

では五重天守の伝承はどの様に解釈されるのか。

推論では、幕府の城郭統制との関係で、松平定行が三重の天守を上がる為の口実ではと

思われるとの事ですが…。

 

 

 

次に加藤嘉明は松山城下の建設という話しがありました。

色んな城下でもあった話しですが、松山でも石手川という暴れ川がありました。

その川を、加藤嘉明足立重信に命じ改修させます。

 

足立重信は、石手川の流れを付け替え、城郭の外堀を造ると共に、旧石手川の流路を利用して

排水設備を整備しています。

現在の大法寺川、大街道川、中ノ川などはその名残だそうです。

また武家屋敷と町屋の町割りを定めています。

また橘小島(現在の立花橋の上流付近)を削り、その土砂で石手川の堤防を造り阿沼を埋め立てて

城下としています。

 

ただ、残念な事に、松山市民ではない為、地理感がない為、少々、判り難かったのが残念です。

 

 

 

最後に、松山城が改修された時代背景を見てみます。

 

寛永12年(1635)に松山城松平定行が、今治城にはその弟である松平定房が配置されます。

 

翌々年の寛永14年島原の乱が勃発します。

 

寛永16年ポルトガル船の来航を禁止します。

この年、松平定行が松山城改修を幕府に願い出ます

 

翌寛永17年には、松平定房今治城の改修を開始します。

 

また寛永19年、高松城に松平頼重を配置します。

 

尚、改修された本壇は、石垣は直角を基調としています。

ここが現在とは違うのですが、南西隅に貯水池があります。

天守は層塔式で腰壁が下見板張で、一層目は全方向に千鳥破風が設けられ、二層目は南北が

唐破風で東西が千鳥破風でした。

また天守の入口には鉄開戸があり、その上には小さな付縁があったようです。

 

御用米蔵も同時に建設されていますが、その内、三十五貫は幕府が拠出しています。

この事は、江戸幕府にとって、松山城は瀬戸内海を掌握すると共に、島原の乱後の軍事的緊張が

高まる西日本を睨む戦略拠点と捉えていたからと考えられます。

 

 

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さて、今治城へと話しを移したところですが…このままいくと話しが長くなりそうなので、次回

書いていきます。