しつこいようですが、前回の続きです。
CO2削減には効果的だという謳い文句が出て来たと思ったら、原発利権に絡めとられてしまったりというパターンも問題です。もうすでにそういうプラットフォームで生活を享受しちゃうと、別に自分の住んでいる所にあるわけじゃねえし、みたいな感覚も間違いなくあるだろうし、なんだかんだで結構大丈夫なんじゃないかと、隠蔽体質に騙されてしまう。
そうじゃなくとも、電力が足らないとか、石油価格上昇なんかがあったりもしたわけで、CO2削減、温暖化回避とすり込まれていれば、なんかよくわかんねえし、別に面倒くせえよとなってしまう。
原発が出来ちゃっている地域の人も、来るまでは反対だったけれど、いざ地域経済に組み込まれてしまえば、そういう所の人達も間違いなく金を落とすわけで、まあ背に腹は代えられないという感じで、肝腎の一番回復不能のリスクに対してスルーしてしまう。
この場合もよくある言い方で、どうせ作るのなら都会に作れ的言い方をしてしまうと、自分の住んでいる所にないから無関心という輩と紙一重になるので、どこに作れという言い方をすると、結局原発の押しつけ合戦に陥ってしまうロジックに手を貸す事になりかねないので注意が必要です。
無関心な輩を益々無関心にしてしまい、関心のある人との間での溝を深めてしまう。そこを統治権力が取りにくるという帰結を生み出し不利になってしまいます。無関心な輩を電力不足や温暖化、CO2削減には不可欠というロジックで原発仕方なしと誑かす。
まだこのへんなら、明らかに原発のリスクはデカ過ぎるので、理念主導でもそんなインチキ通じないぜと言ってられるのですが、CO2削減、環境保護を絡めとられて、国内のインチキ排出権取引なんてのが出てくる。これは結構厄介な戦略です。
環境保護を訴えていれば、排出権取引みたいな制度はやった方がいいような気がするので、政府のやり方はインチキだけど、ひとまずは仕方がないかという感じになっちゃったりもする。やらないよりはまずは第一歩ってな感じで。そうすると排出権制度が日本ではある事になっちゃうので、ここの争点がぼやけてしまう。
制度を作れというより、制度を最適化しろという力学の方がどうしてもアピール力が弱まる。
関心の無い人は、だってその制度あるじゃん。となっちゃう。いやこれはインチキなんですよと説明出来ればいいのですが、広告主に大事な所を握られているメディアでは、とりあえず問題点があります位は言っても、それを持続させるという風にならない。そうすると忘れちゃってまあいいかと多くの人が思ってしまい、相変わらず制度の最適化を喚いている人が煙たく思われてしまう。
これはクラスター爆弾の問題なんかにも言える。結果的に日本もオスロ・プロセスに署名しているので、結果だけを言うと、まずまずと自分のようにギャーコラ喚いて来た人間からすると、うっかり認めてしまう。よかったよかったと思っちゃう。
しかしここに至るプロセスというのにも非常にストレスが溜まりましたし、クラスター爆弾問題にコミットしているという事で論点をスポイルされちゃうと、世論を惹起する論点を失ってしまう事になる。と、おめでたい話に水を差すような事は言いたくはもちろんありません。別にすんなり行ってくれれば何の問題もない。
真面目に変な権益とかに変えないでやってくれればいいのですが、クラスター爆弾へのコミットメントが仮にインチキまみれに見えた場合、従来うるさく言っていた自分のような人間が、ふざけんなインチキだぞと言うと、お前らはコミットしろと騒ぎ、コミットしたらしたで文句を言う、一体全体どうしろっつうんだよ、ってな感じで言われてしまうと、もの凄く不利になってしまう。これは事後チェック型の社会に切り替え始めてから、度々起こる事です。
そうするとリベラル勢力とか左派というのは、一体全体どうしろっつうんだよ!!お前らは結局何でも反対なだけなんだろ!!なんつって叩かれてしまうわけです。それを頭の悪いバカ保守野郎とか、そういうクソがブレーンの政治家、そのケツを舐める国民というパターンになり、メディアも国民が望むものを作らねばならず、そこに媚びてしまい、その論点が押しやられて忘れられてしまう。
全く官僚っつうのは頭が良くて困った連中です。紋切り型の反対コールを逆手に取られて、上手い事権益を押し込んでくる。自分達が掲げて来た理念を盾に取られてしまい、それゆえに不利になってしまう。
それにこの問題なんかは、とくに左派的な理念からの流れでこういう問題を考えるというパターンが日本では多いと思うのですが、実際の議論というのは実にテクニカルな話も出てくるわけです。
例えば炸裂したものが一定の時間で必ず爆発して不発弾にならないようになればよいとか、一定の時間で無効化されればよいのではないかとか、はたまたこれは武器による攻撃自体、もしくは戦争状態の悲惨さや残虐さの是非という問題をわきにおいて、この武器の必要性にしぼって論じられていたりもする。
同じぐらいの威力で、これよりも残虐性の少ないもので代替可能であるかどうか、戦力の弱体化にならないような代替可能性があるかどうかとか、日本のお決まりの残虐可哀想という子供のロジックとは違う鬩ぎあいがある。
こういう問題を考える時に単純に戦争イコール悪、絶対反対という思考停止ではついて行けない所もある。正しさだけを主張しても事はそんなに単純な話ではないわけです。
だから武装そのものの否定をいったんわきにおいて、他のもので代替が利くのだから、別にここまで残虐性によって相手を威嚇するような兵器は必要ないんだという話で対抗しないとサブスタンシャルじゃなかったりもするわけです。
理念を逆手に取られた甘い誘いをはねつける為にも、実際に中身のある議論によって問題を前に進めて行く為にも、理念をいったんわきにおくという事が非常に重要になっている。
自分のように市民性の成熟、民度の上昇、なんて話を普段から喚き散らしている人間は、裁判員制度なんて甘い誘惑が出てくると、喉から手が出てしまいそうになる。しかしここはいったん市民性の成熟という理念は封印して、制度の問題として冷静に考える必要があるわけです。市民性の成熟に必要ではないかと言われても、市民性と裁判制度は別の問題でもありますので、制度としてどうなのかと。
そうすると制度的には問題はありすぎるくらいですし、これを市民性と言う甘い罠にハマって乗っかってしまうと、制度の可視化、市民性の為の制度という論点をスポイルされてしまう。
日本人の悪いクセで、制度が導入されるまではギャースカピーピー喚きますが、いったん制度が導入されてしまうと、途端に熱が冷めて忘れてしまうという悪いクセがあります。制度は可視化した、市民性の為に導入したというエビデンスを握られてしまうと余計に力を失ってしまう。
自分が正しいと思っている理念が邪魔してしまって、結果的に裁判員制度やむなしとなってしまったり、インチキ排出権やむなしとなってしまっては意味がありません。
やっぱりそこに問題があるのなら、理念をいったん放り投げて、インチキはインチキだと言わねばならない局面もあるだろうし、流れとして導入への方向性が止められなければ、肝腎の市民性が担保されていないではないかとか、肝腎の環境問題への取り組みが事実上骨抜きになっているではないかとかを、どういう戦略で盛り込んでいくのかを考えないと話は進まない。
もちろん戦略的に市民性の確立の為の方便として利用するというパターンもありえますが、その戦略をとる場合は尚更、比較衡量を必要とするので、市民性の成熟の為の方法論として制度を利用して得られる市民性と、方法論として導入した制度の影響力を十分吟味する必要があります。これだっていったん市民性を切り離さないと、市民性にとらわれて、都合のいい甘い見込みをしてしまう。説得力も無くなってしまう。
一番合理的な近代主義は保守主義であるというのはマンハイムが言った事ですが、制度の変更というのは、予測不能の副作用が付きまといます。綿密なフィージビリティ・スタディを必要とする。それでも人間の予測なんてたかがしれている。にもかかわらず日本ではそれが全く無いし、何よりブレーキを踏めないという最大の弱点がある。いったん制度が走り出すと、みんなが不合理だとわかっているのに、空気によって歯止めが利かなくなる。前大戦もしかり。
役人の権益や利用しようとする連中に当初の思惑はねじ曲げられて、形骸化しただ制度が走り出してしまい様々な副作用をまき散らして、取り替えしがつかなくなって、どうにもならなくなってからやっとバックフラッシュというパターンです。バックフラッシュするだけで、目指すべき目的そのものまでもが否定されて捨て去られてしまう。だから日本ではとくに保守主義的なまなざしを柱にしないと危険が付きまとう。散々制度をいじくり回して、残ったのは混乱と借金ばかりです。
市民性は市民性で別の問題として考えて、裁判制度は裁判制度として冷静に考える必要がある。環境への取り組みはそれはそれで考え、そこから切り離して排出権取引の問題を個別で考える必要がある。それが適切な制度でなければ、制度として問題があるわけだから問題だとちゃんと言う。
逆にそれでは環境保護にはならないではないか、という批判もいったんわきにおいて、何らかの合理性がその制度にあるのならそれはそれで、個別の問題としてその制度を擁護する。環境の問題は外交のイニシアティブを握る為に有効な部分もあるわけです。環境を盾に取られても、それとこれとは話は別だとキッパリと切り分ける。
そもそも市民性が必要なのか?という問題も考えなければならない。裁判員制度というのは司法制度なのですから、必ずしも市民性が必要だとは言えない所でもある。専門家でなければわからない世界でもあるわけで、素人が簡単に判断出来るようなものでもない。
当たり前ですが自分は市民性が大切だとは思いますが、何でもかんでも市民に開いて民主主義では、逆に世の中上手く行かない。素人を参加させたって判断を間違うだけです。だから民主性というのは必ず限界がある。ヒトラーだって民主主義の中から生まれている。
民主主義の国家にいると、民主主義である事は重要なんだと思い込みやすいのは確かですが、これは大きな勘違いでもある。
医療にしたって教育にしたって、報道にしたって、料理人にしたって、やっぱり専門性はあるわけですから、その分野のプロフェッショナルに任せた方が上手く行く所もいっぱいあるわけです。しかしその分野のプロフェッショナルがプロフェッショナル足りえていないという問題があるわけで、それは本来市民性とは別の話でもある。
プロフェッショナルが担うべき分野にノコノコ素人が出て行って流動化というか市民化しろと言っても、それは悲惨な状況を招きかねない。何も市民性を否定する事もないし、可視化を否定する事はない、批判が出来る体制と言うのは重要な事ではあるので、だから必要ないと言うロジックに媚びる必要も無い。
しかし任せた方が上手く回る領域まで市民が取って代わるという話にすり替えられてしまう所には敏感にならないと、市民性は必要か否かという無意味な二元論に収束して話が前に進まない。
流動化賛成もしくは反対という理念を掲げてしまうと、これが矛盾を生み出してもしまう。だからその問題は流動化させるべきかどうかを局面局面で使い分ける必要がある。それがトレードオフの関係であればどのへんに妥協点を置くのかという事を考えなければサブスタンシャルにはならない。
そしてその事がお前の言い分は矛盾しているじゃないか!的、理念に一本筋が通ってなきゃならんといった困ったものいいをする人には、たとえその問題で同じ意見であっても、理念に筋を通すかどうかと、個別の問題は関係がないとキッパリと言う必要がある。意見が逆でも個別の問題で論じ合える人であればそういう時はその論点で共闘する必要がある。
中小企業を救え!!という言い方がありますが、何をすれば救えるのか?という問題を考えると、彼らの会社を存続させる事が救う事になるのか?という事も考えないわけには行かない。
救済する事によって、会社の売り上げが倍増し、再び栄光を取り戻す事が出来るのであれば、それは必要な措置かもしれませんが、結局倒産を先延ばしにするだけの話でしかないのであれば、引導を渡して、復活出来るような流動化の方が重要なのではないのか?というような感じもする。
その方が幸せな生き方が出来るような気もするわけです。そっちの方が救っている事になるのではないかと。しかもそういう社会というのは彼らだけを救うというわけではない。
しかしその分野を流動化してしまってその技術を失ってしまえば、それは将来非常にマズい事になるような話であれば、それは救済する必要もあるだろうし、後継者を育てる為の何らかの手当も施す必要があるでしょう。
しかし別に必要無さそうなものであればその必要も無い。いくら伝統があったって、必要であれば残るし、必要でないから不必要になっている部分もあるわけですから、ただ闇雲に伝統を守れというロジックもいったん封印した方がいい。
その分野を残す事で、地域性が残るとか、社会の保全になり得るとか、理由はいろいろありえるでしょうから、単に費用対効果で決める事は出来ないでしょうし、それを一元的に決めつける事はもちろん出来ませんので、いったん弱者救済とか、流動化是か非かとかそういう事をわきにおいて、それぞれ個別の問題として考えないと本質が見えて来ない。
それをやろうとすると、頭の悪い思考停止野郎が不平等だ!!もしくは、日本の伝統文化が!!って喚き始める。こういう場合も個別の問題で論じる事が出来る人は意見で対立していてもそういう事を思考停止野郎に言う必要がある。これはその論点に賛成か反対かとはまた別の話です。
後期高齢者医療制度なんかも、非常に不人気なんですが、これに反対する連中にもこれまた酷いのがいっぱいいる。乳母捨て山とか、弱者切り捨てとか、それから酷いのになると、市場原理主義と結びつけたり、財務省主導の財政再建原理主義だ!!なんて喚いている人もいます。そういうのはいったんわきにおけよって感じです。
実際、市場原理主義とは何の関係もないし、財政再建は必要な事でもあるわけで、制度として適切かどうかの一本で論じた方がいいのに、いろんな理念を総動員して否定しながら、制度の必要性の是非や制度の問題の是非というのがぼやけてしまって、殆ど理念をまき散らしているだけの人がいたりする。これはちょっとどうにもならない。
実際問題、団塊世代が後期高齢者の年齢に達する前に何らかの措置をとらない事には、このままだと皆保険制度がもたなくなるのは目に見えているわけだから、それをどうにかしなきゃならないというのは間違いなくある。なくすならなくすでも別に構わないとは思いますが、いずれにせよ冷静な議論が必要であるのは間違いない。
そういう理念を振り回してサブスタンシャルじゃないバカが多過ぎて困るのですが、こういうのに誑かされない目線が必要です。とくに高齢者は背に腹は変えられないから、理念を振り回す動員に引っかかって、俺に分け前をよこせ的感情を煽られてしまう。
確かに気持ちはわかるけれど、こういう分断統治に引っかかってしまえば、若者からの反発は仕方がない。そんな年寄りは尊敬出来ません。あんな奴らに配分するなら俺達によこせという風になってしまう。
救済すべき老人がいるのは間違いないので、その事は必要でしょうけれど、それは明らかに部分で全体を考えている所があるわけだから、切り離して考えなければ結局話が前に進まない。
それに理念を振りかざして、市場原理主義とか財政再建とかに対する否定まで振り回してしまうと、かえって言った方に刃がかえってくる。じゃあどうしろっつうんだよと。
だからこういう問題は手を広げず、弱者切り捨てのロジックも封印して、この制度が適切かどうか、そしてどのような代替案があるのか、そういう所から切り崩した方がいい。正論を吐くだけならバカでも言えるわけです。国民はそれでもいいけれど、政治家がそれでは困る。一時動員出来ても、どこかで必ず梯子を外される。
ひとまずは政権交代一本でその為の動員なんだという事をわかっている人と言うのはマジョリティではないので、政権交代したらしたでも、結局じゃあどうするんだ、無責任だというロジックによって簡単に梯子を外される。
それにこういう論点の切り方をしてしまうと、実際の問題へのサブスタンスは何も無いので、結局何も話が進まない。こういう理念によって吹き上がるバカを利用して、デコイをバラまけばいくらでも問題の本質から目をそらす事が出来てしまう。結果何が起こるかと言えば、問題の先送り、逃げ切り、そして借金が増えて行くというパターンです。ここまでどうにもならない状況に陥っても尚この構造から抜け出る事が出来ない。
自分は立憲主義の為には改憲だと言いました。それが担保出来るなら護憲だってOKだとも言いました。が、そもそも立憲主義なるものが、この国に必要なのか?という問題点も考えないわけには行かない。
イギリスなんかは憲法が無いにも関わらず立憲主義が芽生えているわけで、悲劇の共有が無い国で統治権力のリヴァイアサン性を唱えても、全く共感可能性が無ければそれもやっぱりサブスタンシャルではない。
もちろんリヴァイアサンを縛る為に必要な立憲主義も理解出来ないだろうし、その前になぜ巨大な力を持つリヴァイアサンが必要なのかという、無秩序状態のビヒモス性の恐ろしさが多分呑気な日本人にはあまり理解出来ない。
日本人はビヒモスにはならないようにも思える。そういった意味で日本的お上意識というのもあるのかもしれない。別に自分達の生活にとって必要でも何でも無いわけです。だから依存しているという言い方よりも、ひょっとすると単に無関心と言うか人畜無害なものという意識があるのかもしれない。別の世界に生きている人と言うか何というか。
もちろん今の統治権力は人畜無害どころか有害でしかないので、こういう感覚はマズいのですが、立憲主義というもの自体、かなりありそうも無い前提が無いと芽生えない。もちろんこの国では原爆まで落とされてあれだけ悲惨な戦争を体験しているわけですから、そのチャンスが無かったわけではないのですが、立憲主義だ!!と喚き散らしても、みんなが別に切実に感じていなければ無力です。
まあ今の統治権力の腐れ具合がこれだけ可視化されている状態というのはある意味チャンスでもありますので、だからこんな事を長々と書いているのかもしれませんが、近代社会の体を成しておらんと雄叫びをあげても、別に近代社会じゃなくてもいいよ面倒くせえぜと思っている人達にとっては馬の耳に念仏でしかありません。仏教でも大乗、小乗、金剛乗とあるように、レイヤーによって言い方を変えないと、伝わらないかもしれない。
しつこいようですがそれでもつづきます。後少し。
CO2削減には効果的だという謳い文句が出て来たと思ったら、原発利権に絡めとられてしまったりというパターンも問題です。もうすでにそういうプラットフォームで生活を享受しちゃうと、別に自分の住んでいる所にあるわけじゃねえし、みたいな感覚も間違いなくあるだろうし、なんだかんだで結構大丈夫なんじゃないかと、隠蔽体質に騙されてしまう。
そうじゃなくとも、電力が足らないとか、石油価格上昇なんかがあったりもしたわけで、CO2削減、温暖化回避とすり込まれていれば、なんかよくわかんねえし、別に面倒くせえよとなってしまう。
原発が出来ちゃっている地域の人も、来るまでは反対だったけれど、いざ地域経済に組み込まれてしまえば、そういう所の人達も間違いなく金を落とすわけで、まあ背に腹は代えられないという感じで、肝腎の一番回復不能のリスクに対してスルーしてしまう。
この場合もよくある言い方で、どうせ作るのなら都会に作れ的言い方をしてしまうと、自分の住んでいる所にないから無関心という輩と紙一重になるので、どこに作れという言い方をすると、結局原発の押しつけ合戦に陥ってしまうロジックに手を貸す事になりかねないので注意が必要です。
無関心な輩を益々無関心にしてしまい、関心のある人との間での溝を深めてしまう。そこを統治権力が取りにくるという帰結を生み出し不利になってしまいます。無関心な輩を電力不足や温暖化、CO2削減には不可欠というロジックで原発仕方なしと誑かす。
まだこのへんなら、明らかに原発のリスクはデカ過ぎるので、理念主導でもそんなインチキ通じないぜと言ってられるのですが、CO2削減、環境保護を絡めとられて、国内のインチキ排出権取引なんてのが出てくる。これは結構厄介な戦略です。
環境保護を訴えていれば、排出権取引みたいな制度はやった方がいいような気がするので、政府のやり方はインチキだけど、ひとまずは仕方がないかという感じになっちゃったりもする。やらないよりはまずは第一歩ってな感じで。そうすると排出権制度が日本ではある事になっちゃうので、ここの争点がぼやけてしまう。
制度を作れというより、制度を最適化しろという力学の方がどうしてもアピール力が弱まる。
関心の無い人は、だってその制度あるじゃん。となっちゃう。いやこれはインチキなんですよと説明出来ればいいのですが、広告主に大事な所を握られているメディアでは、とりあえず問題点があります位は言っても、それを持続させるという風にならない。そうすると忘れちゃってまあいいかと多くの人が思ってしまい、相変わらず制度の最適化を喚いている人が煙たく思われてしまう。
これはクラスター爆弾の問題なんかにも言える。結果的に日本もオスロ・プロセスに署名しているので、結果だけを言うと、まずまずと自分のようにギャーコラ喚いて来た人間からすると、うっかり認めてしまう。よかったよかったと思っちゃう。
しかしここに至るプロセスというのにも非常にストレスが溜まりましたし、クラスター爆弾問題にコミットしているという事で論点をスポイルされちゃうと、世論を惹起する論点を失ってしまう事になる。と、おめでたい話に水を差すような事は言いたくはもちろんありません。別にすんなり行ってくれれば何の問題もない。
真面目に変な権益とかに変えないでやってくれればいいのですが、クラスター爆弾へのコミットメントが仮にインチキまみれに見えた場合、従来うるさく言っていた自分のような人間が、ふざけんなインチキだぞと言うと、お前らはコミットしろと騒ぎ、コミットしたらしたで文句を言う、一体全体どうしろっつうんだよ、ってな感じで言われてしまうと、もの凄く不利になってしまう。これは事後チェック型の社会に切り替え始めてから、度々起こる事です。
そうするとリベラル勢力とか左派というのは、一体全体どうしろっつうんだよ!!お前らは結局何でも反対なだけなんだろ!!なんつって叩かれてしまうわけです。それを頭の悪いバカ保守野郎とか、そういうクソがブレーンの政治家、そのケツを舐める国民というパターンになり、メディアも国民が望むものを作らねばならず、そこに媚びてしまい、その論点が押しやられて忘れられてしまう。
全く官僚っつうのは頭が良くて困った連中です。紋切り型の反対コールを逆手に取られて、上手い事権益を押し込んでくる。自分達が掲げて来た理念を盾に取られてしまい、それゆえに不利になってしまう。
それにこの問題なんかは、とくに左派的な理念からの流れでこういう問題を考えるというパターンが日本では多いと思うのですが、実際の議論というのは実にテクニカルな話も出てくるわけです。
例えば炸裂したものが一定の時間で必ず爆発して不発弾にならないようになればよいとか、一定の時間で無効化されればよいのではないかとか、はたまたこれは武器による攻撃自体、もしくは戦争状態の悲惨さや残虐さの是非という問題をわきにおいて、この武器の必要性にしぼって論じられていたりもする。
同じぐらいの威力で、これよりも残虐性の少ないもので代替可能であるかどうか、戦力の弱体化にならないような代替可能性があるかどうかとか、日本のお決まりの残虐可哀想という子供のロジックとは違う鬩ぎあいがある。
こういう問題を考える時に単純に戦争イコール悪、絶対反対という思考停止ではついて行けない所もある。正しさだけを主張しても事はそんなに単純な話ではないわけです。
だから武装そのものの否定をいったんわきにおいて、他のもので代替が利くのだから、別にここまで残虐性によって相手を威嚇するような兵器は必要ないんだという話で対抗しないとサブスタンシャルじゃなかったりもするわけです。
理念を逆手に取られた甘い誘いをはねつける為にも、実際に中身のある議論によって問題を前に進めて行く為にも、理念をいったんわきにおくという事が非常に重要になっている。
自分のように市民性の成熟、民度の上昇、なんて話を普段から喚き散らしている人間は、裁判員制度なんて甘い誘惑が出てくると、喉から手が出てしまいそうになる。しかしここはいったん市民性の成熟という理念は封印して、制度の問題として冷静に考える必要があるわけです。市民性の成熟に必要ではないかと言われても、市民性と裁判制度は別の問題でもありますので、制度としてどうなのかと。
そうすると制度的には問題はありすぎるくらいですし、これを市民性と言う甘い罠にハマって乗っかってしまうと、制度の可視化、市民性の為の制度という論点をスポイルされてしまう。
日本人の悪いクセで、制度が導入されるまではギャースカピーピー喚きますが、いったん制度が導入されてしまうと、途端に熱が冷めて忘れてしまうという悪いクセがあります。制度は可視化した、市民性の為に導入したというエビデンスを握られてしまうと余計に力を失ってしまう。
自分が正しいと思っている理念が邪魔してしまって、結果的に裁判員制度やむなしとなってしまったり、インチキ排出権やむなしとなってしまっては意味がありません。
やっぱりそこに問題があるのなら、理念をいったん放り投げて、インチキはインチキだと言わねばならない局面もあるだろうし、流れとして導入への方向性が止められなければ、肝腎の市民性が担保されていないではないかとか、肝腎の環境問題への取り組みが事実上骨抜きになっているではないかとかを、どういう戦略で盛り込んでいくのかを考えないと話は進まない。
もちろん戦略的に市民性の確立の為の方便として利用するというパターンもありえますが、その戦略をとる場合は尚更、比較衡量を必要とするので、市民性の成熟の為の方法論として制度を利用して得られる市民性と、方法論として導入した制度の影響力を十分吟味する必要があります。これだっていったん市民性を切り離さないと、市民性にとらわれて、都合のいい甘い見込みをしてしまう。説得力も無くなってしまう。
一番合理的な近代主義は保守主義であるというのはマンハイムが言った事ですが、制度の変更というのは、予測不能の副作用が付きまといます。綿密なフィージビリティ・スタディを必要とする。それでも人間の予測なんてたかがしれている。にもかかわらず日本ではそれが全く無いし、何よりブレーキを踏めないという最大の弱点がある。いったん制度が走り出すと、みんなが不合理だとわかっているのに、空気によって歯止めが利かなくなる。前大戦もしかり。
役人の権益や利用しようとする連中に当初の思惑はねじ曲げられて、形骸化しただ制度が走り出してしまい様々な副作用をまき散らして、取り替えしがつかなくなって、どうにもならなくなってからやっとバックフラッシュというパターンです。バックフラッシュするだけで、目指すべき目的そのものまでもが否定されて捨て去られてしまう。だから日本ではとくに保守主義的なまなざしを柱にしないと危険が付きまとう。散々制度をいじくり回して、残ったのは混乱と借金ばかりです。
市民性は市民性で別の問題として考えて、裁判制度は裁判制度として冷静に考える必要がある。環境への取り組みはそれはそれで考え、そこから切り離して排出権取引の問題を個別で考える必要がある。それが適切な制度でなければ、制度として問題があるわけだから問題だとちゃんと言う。
逆にそれでは環境保護にはならないではないか、という批判もいったんわきにおいて、何らかの合理性がその制度にあるのならそれはそれで、個別の問題としてその制度を擁護する。環境の問題は外交のイニシアティブを握る為に有効な部分もあるわけです。環境を盾に取られても、それとこれとは話は別だとキッパリと切り分ける。
そもそも市民性が必要なのか?という問題も考えなければならない。裁判員制度というのは司法制度なのですから、必ずしも市民性が必要だとは言えない所でもある。専門家でなければわからない世界でもあるわけで、素人が簡単に判断出来るようなものでもない。
当たり前ですが自分は市民性が大切だとは思いますが、何でもかんでも市民に開いて民主主義では、逆に世の中上手く行かない。素人を参加させたって判断を間違うだけです。だから民主性というのは必ず限界がある。ヒトラーだって民主主義の中から生まれている。
民主主義の国家にいると、民主主義である事は重要なんだと思い込みやすいのは確かですが、これは大きな勘違いでもある。
医療にしたって教育にしたって、報道にしたって、料理人にしたって、やっぱり専門性はあるわけですから、その分野のプロフェッショナルに任せた方が上手く行く所もいっぱいあるわけです。しかしその分野のプロフェッショナルがプロフェッショナル足りえていないという問題があるわけで、それは本来市民性とは別の話でもある。
プロフェッショナルが担うべき分野にノコノコ素人が出て行って流動化というか市民化しろと言っても、それは悲惨な状況を招きかねない。何も市民性を否定する事もないし、可視化を否定する事はない、批判が出来る体制と言うのは重要な事ではあるので、だから必要ないと言うロジックに媚びる必要も無い。
しかし任せた方が上手く回る領域まで市民が取って代わるという話にすり替えられてしまう所には敏感にならないと、市民性は必要か否かという無意味な二元論に収束して話が前に進まない。
流動化賛成もしくは反対という理念を掲げてしまうと、これが矛盾を生み出してもしまう。だからその問題は流動化させるべきかどうかを局面局面で使い分ける必要がある。それがトレードオフの関係であればどのへんに妥協点を置くのかという事を考えなければサブスタンシャルにはならない。
そしてその事がお前の言い分は矛盾しているじゃないか!的、理念に一本筋が通ってなきゃならんといった困ったものいいをする人には、たとえその問題で同じ意見であっても、理念に筋を通すかどうかと、個別の問題は関係がないとキッパリと言う必要がある。意見が逆でも個別の問題で論じ合える人であればそういう時はその論点で共闘する必要がある。
中小企業を救え!!という言い方がありますが、何をすれば救えるのか?という問題を考えると、彼らの会社を存続させる事が救う事になるのか?という事も考えないわけには行かない。
救済する事によって、会社の売り上げが倍増し、再び栄光を取り戻す事が出来るのであれば、それは必要な措置かもしれませんが、結局倒産を先延ばしにするだけの話でしかないのであれば、引導を渡して、復活出来るような流動化の方が重要なのではないのか?というような感じもする。
その方が幸せな生き方が出来るような気もするわけです。そっちの方が救っている事になるのではないかと。しかもそういう社会というのは彼らだけを救うというわけではない。
しかしその分野を流動化してしまってその技術を失ってしまえば、それは将来非常にマズい事になるような話であれば、それは救済する必要もあるだろうし、後継者を育てる為の何らかの手当も施す必要があるでしょう。
しかし別に必要無さそうなものであればその必要も無い。いくら伝統があったって、必要であれば残るし、必要でないから不必要になっている部分もあるわけですから、ただ闇雲に伝統を守れというロジックもいったん封印した方がいい。
その分野を残す事で、地域性が残るとか、社会の保全になり得るとか、理由はいろいろありえるでしょうから、単に費用対効果で決める事は出来ないでしょうし、それを一元的に決めつける事はもちろん出来ませんので、いったん弱者救済とか、流動化是か非かとかそういう事をわきにおいて、それぞれ個別の問題として考えないと本質が見えて来ない。
それをやろうとすると、頭の悪い思考停止野郎が不平等だ!!もしくは、日本の伝統文化が!!って喚き始める。こういう場合も個別の問題で論じる事が出来る人は意見で対立していてもそういう事を思考停止野郎に言う必要がある。これはその論点に賛成か反対かとはまた別の話です。
後期高齢者医療制度なんかも、非常に不人気なんですが、これに反対する連中にもこれまた酷いのがいっぱいいる。乳母捨て山とか、弱者切り捨てとか、それから酷いのになると、市場原理主義と結びつけたり、財務省主導の財政再建原理主義だ!!なんて喚いている人もいます。そういうのはいったんわきにおけよって感じです。
実際、市場原理主義とは何の関係もないし、財政再建は必要な事でもあるわけで、制度として適切かどうかの一本で論じた方がいいのに、いろんな理念を総動員して否定しながら、制度の必要性の是非や制度の問題の是非というのがぼやけてしまって、殆ど理念をまき散らしているだけの人がいたりする。これはちょっとどうにもならない。
実際問題、団塊世代が後期高齢者の年齢に達する前に何らかの措置をとらない事には、このままだと皆保険制度がもたなくなるのは目に見えているわけだから、それをどうにかしなきゃならないというのは間違いなくある。なくすならなくすでも別に構わないとは思いますが、いずれにせよ冷静な議論が必要であるのは間違いない。
そういう理念を振り回してサブスタンシャルじゃないバカが多過ぎて困るのですが、こういうのに誑かされない目線が必要です。とくに高齢者は背に腹は変えられないから、理念を振り回す動員に引っかかって、俺に分け前をよこせ的感情を煽られてしまう。
確かに気持ちはわかるけれど、こういう分断統治に引っかかってしまえば、若者からの反発は仕方がない。そんな年寄りは尊敬出来ません。あんな奴らに配分するなら俺達によこせという風になってしまう。
救済すべき老人がいるのは間違いないので、その事は必要でしょうけれど、それは明らかに部分で全体を考えている所があるわけだから、切り離して考えなければ結局話が前に進まない。
それに理念を振りかざして、市場原理主義とか財政再建とかに対する否定まで振り回してしまうと、かえって言った方に刃がかえってくる。じゃあどうしろっつうんだよと。
だからこういう問題は手を広げず、弱者切り捨てのロジックも封印して、この制度が適切かどうか、そしてどのような代替案があるのか、そういう所から切り崩した方がいい。正論を吐くだけならバカでも言えるわけです。国民はそれでもいいけれど、政治家がそれでは困る。一時動員出来ても、どこかで必ず梯子を外される。
ひとまずは政権交代一本でその為の動員なんだという事をわかっている人と言うのはマジョリティではないので、政権交代したらしたでも、結局じゃあどうするんだ、無責任だというロジックによって簡単に梯子を外される。
それにこういう論点の切り方をしてしまうと、実際の問題へのサブスタンスは何も無いので、結局何も話が進まない。こういう理念によって吹き上がるバカを利用して、デコイをバラまけばいくらでも問題の本質から目をそらす事が出来てしまう。結果何が起こるかと言えば、問題の先送り、逃げ切り、そして借金が増えて行くというパターンです。ここまでどうにもならない状況に陥っても尚この構造から抜け出る事が出来ない。
自分は立憲主義の為には改憲だと言いました。それが担保出来るなら護憲だってOKだとも言いました。が、そもそも立憲主義なるものが、この国に必要なのか?という問題点も考えないわけには行かない。
イギリスなんかは憲法が無いにも関わらず立憲主義が芽生えているわけで、悲劇の共有が無い国で統治権力のリヴァイアサン性を唱えても、全く共感可能性が無ければそれもやっぱりサブスタンシャルではない。
もちろんリヴァイアサンを縛る為に必要な立憲主義も理解出来ないだろうし、その前になぜ巨大な力を持つリヴァイアサンが必要なのかという、無秩序状態のビヒモス性の恐ろしさが多分呑気な日本人にはあまり理解出来ない。
日本人はビヒモスにはならないようにも思える。そういった意味で日本的お上意識というのもあるのかもしれない。別に自分達の生活にとって必要でも何でも無いわけです。だから依存しているという言い方よりも、ひょっとすると単に無関心と言うか人畜無害なものという意識があるのかもしれない。別の世界に生きている人と言うか何というか。
もちろん今の統治権力は人畜無害どころか有害でしかないので、こういう感覚はマズいのですが、立憲主義というもの自体、かなりありそうも無い前提が無いと芽生えない。もちろんこの国では原爆まで落とされてあれだけ悲惨な戦争を体験しているわけですから、そのチャンスが無かったわけではないのですが、立憲主義だ!!と喚き散らしても、みんなが別に切実に感じていなければ無力です。
まあ今の統治権力の腐れ具合がこれだけ可視化されている状態というのはある意味チャンスでもありますので、だからこんな事を長々と書いているのかもしれませんが、近代社会の体を成しておらんと雄叫びをあげても、別に近代社会じゃなくてもいいよ面倒くせえぜと思っている人達にとっては馬の耳に念仏でしかありません。仏教でも大乗、小乗、金剛乗とあるように、レイヤーによって言い方を変えないと、伝わらないかもしれない。
しつこいようですがそれでもつづきます。後少し。