しつこいようですが、前回の続きです。

CO2削減には効果的だという謳い文句が出て来たと思ったら、原発利権に絡めとられてしまったりというパターンも問題です。もうすでにそういうプラットフォームで生活を享受しちゃうと、別に自分の住んでいる所にあるわけじゃねえし、みたいな感覚も間違いなくあるだろうし、なんだかんだで結構大丈夫なんじゃないかと、隠蔽体質に騙されてしまう。

そうじゃなくとも、電力が足らないとか、石油価格上昇なんかがあったりもしたわけで、CO2削減、温暖化回避とすり込まれていれば、なんかよくわかんねえし、別に面倒くせえよとなってしまう。

原発が出来ちゃっている地域の人も、来るまでは反対だったけれど、いざ地域経済に組み込まれてしまえば、そういう所の人達も間違いなく金を落とすわけで、まあ背に腹は代えられないという感じで、肝腎の一番回復不能のリスクに対してスルーしてしまう。

この場合もよくある言い方で、どうせ作るのなら都会に作れ的言い方をしてしまうと、自分の住んでいる所にないから無関心という輩と紙一重になるので、どこに作れという言い方をすると、結局原発の押しつけ合戦に陥ってしまうロジックに手を貸す事になりかねないので注意が必要です。

無関心な輩を益々無関心にしてしまい、関心のある人との間での溝を深めてしまう。そこを統治権力が取りにくるという帰結を生み出し不利になってしまいます。無関心な輩を電力不足や温暖化、CO2削減には不可欠というロジックで原発仕方なしと誑かす。

まだこのへんなら、明らかに原発のリスクはデカ過ぎるので、理念主導でもそんなインチキ通じないぜと言ってられるのですが、CO2削減、環境保護を絡めとられて、国内のインチキ排出権取引なんてのが出てくる。これは結構厄介な戦略です。

環境保護を訴えていれば、排出権取引みたいな制度はやった方がいいような気がするので、政府のやり方はインチキだけど、ひとまずは仕方がないかという感じになっちゃったりもする。やらないよりはまずは第一歩ってな感じで。そうすると排出権制度が日本ではある事になっちゃうので、ここの争点がぼやけてしまう。

制度を作れというより、制度を最適化しろという力学の方がどうしてもアピール力が弱まる。

関心の無い人は、だってその制度あるじゃん。となっちゃう。いやこれはインチキなんですよと説明出来ればいいのですが、広告主に大事な所を握られているメディアでは、とりあえず問題点があります位は言っても、それを持続させるという風にならない。そうすると忘れちゃってまあいいかと多くの人が思ってしまい、相変わらず制度の最適化を喚いている人が煙たく思われてしまう。

これはクラスター爆弾の問題なんかにも言える。結果的に日本もオスロ・プロセスに署名しているので、結果だけを言うと、まずまずと自分のようにギャーコラ喚いて来た人間からすると、うっかり認めてしまう。よかったよかったと思っちゃう。

しかしここに至るプロセスというのにも非常にストレスが溜まりましたし、クラスター爆弾問題にコミットしているという事で論点をスポイルされちゃうと、世論を惹起する論点を失ってしまう事になる。と、おめでたい話に水を差すような事は言いたくはもちろんありません。別にすんなり行ってくれれば何の問題もない。

真面目に変な権益とかに変えないでやってくれればいいのですが、クラスター爆弾へのコミットメントが仮にインチキまみれに見えた場合、従来うるさく言っていた自分のような人間が、ふざけんなインチキだぞと言うと、お前らはコミットしろと騒ぎ、コミットしたらしたで文句を言う、一体全体どうしろっつうんだよ、ってな感じで言われてしまうと、もの凄く不利になってしまう。これは事後チェック型の社会に切り替え始めてから、度々起こる事です。

そうするとリベラル勢力とか左派というのは、一体全体どうしろっつうんだよ!!お前らは結局何でも反対なだけなんだろ!!なんつって叩かれてしまうわけです。それを頭の悪いバカ保守野郎とか、そういうクソがブレーンの政治家、そのケツを舐める国民というパターンになり、メディアも国民が望むものを作らねばならず、そこに媚びてしまい、その論点が押しやられて忘れられてしまう。

全く官僚っつうのは頭が良くて困った連中です。紋切り型の反対コールを逆手に取られて、上手い事権益を押し込んでくる。自分達が掲げて来た理念を盾に取られてしまい、それゆえに不利になってしまう。

それにこの問題なんかは、とくに左派的な理念からの流れでこういう問題を考えるというパターンが日本では多いと思うのですが、実際の議論というのは実にテクニカルな話も出てくるわけです。

例えば炸裂したものが一定の時間で必ず爆発して不発弾にならないようになればよいとか、一定の時間で無効化されればよいのではないかとか、はたまたこれは武器による攻撃自体、もしくは戦争状態の悲惨さや残虐さの是非という問題をわきにおいて、この武器の必要性にしぼって論じられていたりもする。

同じぐらいの威力で、これよりも残虐性の少ないもので代替可能であるかどうか、戦力の弱体化にならないような代替可能性があるかどうかとか、日本のお決まりの残虐可哀想という子供のロジックとは違う鬩ぎあいがある。

こういう問題を考える時に単純に戦争イコール悪、絶対反対という思考停止ではついて行けない所もある。正しさだけを主張しても事はそんなに単純な話ではないわけです。

だから武装そのものの否定をいったんわきにおいて、他のもので代替が利くのだから、別にここまで残虐性によって相手を威嚇するような兵器は必要ないんだという話で対抗しないとサブスタンシャルじゃなかったりもするわけです。

理念を逆手に取られた甘い誘いをはねつける為にも、実際に中身のある議論によって問題を前に進めて行く為にも、理念をいったんわきにおくという事が非常に重要になっている。

自分のように市民性の成熟、民度の上昇、なんて話を普段から喚き散らしている人間は、裁判員制度なんて甘い誘惑が出てくると、喉から手が出てしまいそうになる。しかしここはいったん市民性の成熟という理念は封印して、制度の問題として冷静に考える必要があるわけです。市民性の成熟に必要ではないかと言われても、市民性と裁判制度は別の問題でもありますので、制度としてどうなのかと。

そうすると制度的には問題はありすぎるくらいですし、これを市民性と言う甘い罠にハマって乗っかってしまうと、制度の可視化、市民性の為の制度という論点をスポイルされてしまう。

日本人の悪いクセで、制度が導入されるまではギャースカピーピー喚きますが、いったん制度が導入されてしまうと、途端に熱が冷めて忘れてしまうという悪いクセがあります。制度は可視化した、市民性の為に導入したというエビデンスを握られてしまうと余計に力を失ってしまう。

自分が正しいと思っている理念が邪魔してしまって、結果的に裁判員制度やむなしとなってしまったり、インチキ排出権やむなしとなってしまっては意味がありません。

やっぱりそこに問題があるのなら、理念をいったん放り投げて、インチキはインチキだと言わねばならない局面もあるだろうし、流れとして導入への方向性が止められなければ、肝腎の市民性が担保されていないではないかとか、肝腎の環境問題への取り組みが事実上骨抜きになっているではないかとかを、どういう戦略で盛り込んでいくのかを考えないと話は進まない。

もちろん戦略的に市民性の確立の為の方便として利用するというパターンもありえますが、その戦略をとる場合は尚更、比較衡量を必要とするので、市民性の成熟の為の方法論として制度を利用して得られる市民性と、方法論として導入した制度の影響力を十分吟味する必要があります。これだっていったん市民性を切り離さないと、市民性にとらわれて、都合のいい甘い見込みをしてしまう。説得力も無くなってしまう。

一番合理的な近代主義は保守主義であるというのはマンハイムが言った事ですが、制度の変更というのは、予測不能の副作用が付きまといます。綿密なフィージビリティ・スタディを必要とする。それでも人間の予測なんてたかがしれている。にもかかわらず日本ではそれが全く無いし、何よりブレーキを踏めないという最大の弱点がある。いったん制度が走り出すと、みんなが不合理だとわかっているのに、空気によって歯止めが利かなくなる。前大戦もしかり。

役人の権益や利用しようとする連中に当初の思惑はねじ曲げられて、形骸化しただ制度が走り出してしまい様々な副作用をまき散らして、取り替えしがつかなくなって、どうにもならなくなってからやっとバックフラッシュというパターンです。バックフラッシュするだけで、目指すべき目的そのものまでもが否定されて捨て去られてしまう。だから日本ではとくに保守主義的なまなざしを柱にしないと危険が付きまとう。散々制度をいじくり回して、残ったのは混乱と借金ばかりです。

市民性は市民性で別の問題として考えて、裁判制度は裁判制度として冷静に考える必要がある。環境への取り組みはそれはそれで考え、そこから切り離して排出権取引の問題を個別で考える必要がある。それが適切な制度でなければ、制度として問題があるわけだから問題だとちゃんと言う。

逆にそれでは環境保護にはならないではないか、という批判もいったんわきにおいて、何らかの合理性がその制度にあるのならそれはそれで、個別の問題としてその制度を擁護する。環境の問題は外交のイニシアティブを握る為に有効な部分もあるわけです。環境を盾に取られても、それとこれとは話は別だとキッパリと切り分ける。

そもそも市民性が必要なのか?という問題も考えなければならない。裁判員制度というのは司法制度なのですから、必ずしも市民性が必要だとは言えない所でもある。専門家でなければわからない世界でもあるわけで、素人が簡単に判断出来るようなものでもない。

当たり前ですが自分は市民性が大切だとは思いますが、何でもかんでも市民に開いて民主主義では、逆に世の中上手く行かない。素人を参加させたって判断を間違うだけです。だから民主性というのは必ず限界がある。ヒトラーだって民主主義の中から生まれている。

民主主義の国家にいると、民主主義である事は重要なんだと思い込みやすいのは確かですが、これは大きな勘違いでもある。

医療にしたって教育にしたって、報道にしたって、料理人にしたって、やっぱり専門性はあるわけですから、その分野のプロフェッショナルに任せた方が上手く行く所もいっぱいあるわけです。しかしその分野のプロフェッショナルがプロフェッショナル足りえていないという問題があるわけで、それは本来市民性とは別の話でもある。

プロフェッショナルが担うべき分野にノコノコ素人が出て行って流動化というか市民化しろと言っても、それは悲惨な状況を招きかねない。何も市民性を否定する事もないし、可視化を否定する事はない、批判が出来る体制と言うのは重要な事ではあるので、だから必要ないと言うロジックに媚びる必要も無い。

しかし任せた方が上手く回る領域まで市民が取って代わるという話にすり替えられてしまう所には敏感にならないと、市民性は必要か否かという無意味な二元論に収束して話が前に進まない。

流動化賛成もしくは反対という理念を掲げてしまうと、これが矛盾を生み出してもしまう。だからその問題は流動化させるべきかどうかを局面局面で使い分ける必要がある。それがトレードオフの関係であればどのへんに妥協点を置くのかという事を考えなければサブスタンシャルにはならない。

そしてその事がお前の言い分は矛盾しているじゃないか!的、理念に一本筋が通ってなきゃならんといった困ったものいいをする人には、たとえその問題で同じ意見であっても、理念に筋を通すかどうかと、個別の問題は関係がないとキッパリと言う必要がある。意見が逆でも個別の問題で論じ合える人であればそういう時はその論点で共闘する必要がある。

中小企業を救え!!という言い方がありますが、何をすれば救えるのか?という問題を考えると、彼らの会社を存続させる事が救う事になるのか?という事も考えないわけには行かない。

救済する事によって、会社の売り上げが倍増し、再び栄光を取り戻す事が出来るのであれば、それは必要な措置かもしれませんが、結局倒産を先延ばしにするだけの話でしかないのであれば、引導を渡して、復活出来るような流動化の方が重要なのではないのか?というような感じもする。

その方が幸せな生き方が出来るような気もするわけです。そっちの方が救っている事になるのではないかと。しかもそういう社会というのは彼らだけを救うというわけではない。

しかしその分野を流動化してしまってその技術を失ってしまえば、それは将来非常にマズい事になるような話であれば、それは救済する必要もあるだろうし、後継者を育てる為の何らかの手当も施す必要があるでしょう。

しかし別に必要無さそうなものであればその必要も無い。いくら伝統があったって、必要であれば残るし、必要でないから不必要になっている部分もあるわけですから、ただ闇雲に伝統を守れというロジックもいったん封印した方がいい。

その分野を残す事で、地域性が残るとか、社会の保全になり得るとか、理由はいろいろありえるでしょうから、単に費用対効果で決める事は出来ないでしょうし、それを一元的に決めつける事はもちろん出来ませんので、いったん弱者救済とか、流動化是か非かとかそういう事をわきにおいて、それぞれ個別の問題として考えないと本質が見えて来ない。

それをやろうとすると、頭の悪い思考停止野郎が不平等だ!!もしくは、日本の伝統文化が!!って喚き始める。こういう場合も個別の問題で論じる事が出来る人は意見で対立していてもそういう事を思考停止野郎に言う必要がある。これはその論点に賛成か反対かとはまた別の話です。

後期高齢者医療制度なんかも、非常に不人気なんですが、これに反対する連中にもこれまた酷いのがいっぱいいる。乳母捨て山とか、弱者切り捨てとか、それから酷いのになると、市場原理主義と結びつけたり、財務省主導の財政再建原理主義だ!!なんて喚いている人もいます。そういうのはいったんわきにおけよって感じです。

実際、市場原理主義とは何の関係もないし、財政再建は必要な事でもあるわけで、制度として適切かどうかの一本で論じた方がいいのに、いろんな理念を総動員して否定しながら、制度の必要性の是非や制度の問題の是非というのがぼやけてしまって、殆ど理念をまき散らしているだけの人がいたりする。これはちょっとどうにもならない。

実際問題、団塊世代が後期高齢者の年齢に達する前に何らかの措置をとらない事には、このままだと皆保険制度がもたなくなるのは目に見えているわけだから、それをどうにかしなきゃならないというのは間違いなくある。なくすならなくすでも別に構わないとは思いますが、いずれにせよ冷静な議論が必要であるのは間違いない。

そういう理念を振り回してサブスタンシャルじゃないバカが多過ぎて困るのですが、こういうのに誑かされない目線が必要です。とくに高齢者は背に腹は変えられないから、理念を振り回す動員に引っかかって、俺に分け前をよこせ的感情を煽られてしまう。

確かに気持ちはわかるけれど、こういう分断統治に引っかかってしまえば、若者からの反発は仕方がない。そんな年寄りは尊敬出来ません。あんな奴らに配分するなら俺達によこせという風になってしまう。

救済すべき老人がいるのは間違いないので、その事は必要でしょうけれど、それは明らかに部分で全体を考えている所があるわけだから、切り離して考えなければ結局話が前に進まない。

それに理念を振りかざして、市場原理主義とか財政再建とかに対する否定まで振り回してしまうと、かえって言った方に刃がかえってくる。じゃあどうしろっつうんだよと。

だからこういう問題は手を広げず、弱者切り捨てのロジックも封印して、この制度が適切かどうか、そしてどのような代替案があるのか、そういう所から切り崩した方がいい。正論を吐くだけならバカでも言えるわけです。国民はそれでもいいけれど、政治家がそれでは困る。一時動員出来ても、どこかで必ず梯子を外される。

ひとまずは政権交代一本でその為の動員なんだという事をわかっている人と言うのはマジョリティではないので、政権交代したらしたでも、結局じゃあどうするんだ、無責任だというロジックによって簡単に梯子を外される。

それにこういう論点の切り方をしてしまうと、実際の問題へのサブスタンスは何も無いので、結局何も話が進まない。こういう理念によって吹き上がるバカを利用して、デコイをバラまけばいくらでも問題の本質から目をそらす事が出来てしまう。結果何が起こるかと言えば、問題の先送り、逃げ切り、そして借金が増えて行くというパターンです。ここまでどうにもならない状況に陥っても尚この構造から抜け出る事が出来ない。

自分は立憲主義の為には改憲だと言いました。それが担保出来るなら護憲だってOKだとも言いました。が、そもそも立憲主義なるものが、この国に必要なのか?という問題点も考えないわけには行かない。

イギリスなんかは憲法が無いにも関わらず立憲主義が芽生えているわけで、悲劇の共有が無い国で統治権力のリヴァイアサン性を唱えても、全く共感可能性が無ければそれもやっぱりサブスタンシャルではない。

もちろんリヴァイアサンを縛る為に必要な立憲主義も理解出来ないだろうし、その前になぜ巨大な力を持つリヴァイアサンが必要なのかという、無秩序状態のビヒモス性の恐ろしさが多分呑気な日本人にはあまり理解出来ない。

日本人はビヒモスにはならないようにも思える。そういった意味で日本的お上意識というのもあるのかもしれない。別に自分達の生活にとって必要でも何でも無いわけです。だから依存しているという言い方よりも、ひょっとすると単に無関心と言うか人畜無害なものという意識があるのかもしれない。別の世界に生きている人と言うか何というか。

もちろん今の統治権力は人畜無害どころか有害でしかないので、こういう感覚はマズいのですが、立憲主義というもの自体、かなりありそうも無い前提が無いと芽生えない。もちろんこの国では原爆まで落とされてあれだけ悲惨な戦争を体験しているわけですから、そのチャンスが無かったわけではないのですが、立憲主義だ!!と喚き散らしても、みんなが別に切実に感じていなければ無力です。

まあ今の統治権力の腐れ具合がこれだけ可視化されている状態というのはある意味チャンスでもありますので、だからこんな事を長々と書いているのかもしれませんが、近代社会の体を成しておらんと雄叫びをあげても、別に近代社会じゃなくてもいいよ面倒くせえぜと思っている人達にとっては馬の耳に念仏でしかありません。仏教でも大乗、小乗、金剛乗とあるように、レイヤーによって言い方を変えないと、伝わらないかもしれない。

しつこいようですがそれでもつづきます。後少し。
続きです。

しかし戦争は勘弁してほしいけれど、流動化は必要なんじゃねえか?と言う気はする。当たり前ですが官から民へなんて陳腐なスローガンが言いたいわけではありません。この国でのそれは民へと移行すると言っても、それは政府のケツ舐め企業が儲かるような所を規制緩和しているだけですので、ハッキリ言えばインチキしても責任転嫁出来るシステムに置き換わっているだけです。

それに官が腐っているのは確かに間違いないでしょう。しかし大手マスメディアだって民であるわけですから、民だってあちらこちらが腐っている。責任者出て来いと、無責任な民衆が散々非難したあげく、責任者達は責任を取らずに末端に押し付けて逃げ切れるようなスキーム作りにせっせと勤しみ、結果無責任に非難をして来た個人個人の自己責任へと帰結してしまう。

何を非難していても、結局個人の自己責任で何とかするしかないという風になる。無責任だ!というのが批判として言われたりしますが、責任が無い人が無責任である事は何の問題も無い。しかし責任のある人間が責任を取らない無責任はこれは問題どころの話ではない。

これは日本だけの話ではない。サブプライム問題なんて良い例です。あれはどこかに責任を帰属させると言っても、リスクを分配してしまっているので、みんな悪いという話になってしまう。したがって誰も悪くないと言っているのと同じです。誰も悪くないという事は、結局自己責任という事になる。

各々自己責任で勝手にしろ、その代わり政府に逆らったら重罰化だ、マスメディアも、国民も総動員して二度と復活出来ないように血祭りに上げる。挙げ句の果てに死刑。そういう方向性にどんどん進んでいる。

アメリカなんかは自由と民主主義を掲げて戦争したりするわけですが、その事によって、世界からの怨嗟が深まり、テロの脅威にさらされ、結果的に国内を監視したり重罰化したり、自由と民主主義のお題目が不自由を生み出すと言う帰結を招いている。

従来のパターナリズムの枠組みが壊れてしまったのは、ミドルマンをマスメディアが独占するようになり、個人からミドルマンとしての役割を引きはがしてしまった所に原因もあります。だから赤の他人であって、本当に我々の事なんて考えているわけなど無いのですが、マスメディアにパターナリズム的な何者かを期待している所もあるのやもしれません。

そして時代はネット環境へと進み、ミドルマンの役割が再びマスメディアから個人へと、少しずつ移行している端境期に今はあるのかもしれません。しかしこのミドルマンというのは、結局の所前時代的なミドルマンとは意味が全然違う。

マスメディアであれば、責任は確実にマスメディアにあるわけですが(まあ全然責任なんてとりませんが)、ネットになってしまえば、それすらも匿名にかき消されてしまう。もちろん当然従来の意味でも、マスメディア的意味でも、パターナリズムにはなり得ない。どこにも責任の無い無責任は結果的に個人の自己責任に行き着く。みんなが自由に振る舞う事によってより不自由に縛られる帰結を生み出す。

だからもちろんそういった責任者がしらばっくれる為の流動化は論外であるのは間違いないのですが、競争に参加出来て、失敗しても復活出来るような流動化は何とかしたほうがいいような気はする。

しかしこれも非常に難しい問題があって、じゃあ仮に流動化して、既得権の権益を取り上げて、それを分配して行けば上手く行くのかというと、今度はその事によって新たな既得権が生まれてしまう。べき法則、ようするに自由化すると、今度は弱肉強食になるわけだから、常に勝者と敗者が生まれ続け、最終的には生き残ったものの独占状態になってしまう。

メディアが無能なので彼らの既得権を剥奪して、自由化しましょうとなればそれで問題が解決するのかというと、もっと民意に媚び媚びのメディアや、もっと面白おかしさだけを追求した刺激的だけど中身がゼロのメディアの方が人気になる可能性も大いにあるわけで、そこが勝ち続けて独占しちゃえば、今よりももっと絶望的な状況になりかねない。そういう意味でも現状のマスメディアには責務がある。

いろんなポータルサイトが乱立して、みんな自由に選んでいるのに、結局は日本ではまだかろうじてヤフーの需要と鬩ぎあっていますが、世界的に見るとグーグルの一人勝ちになってしまう。そうすると常に勝ち続けるという帰結が生まれてしまい、何でもやりたい放題になってしまう。イニシャルエンドウメントによって勝ち負けは決まってしまう。それを牽制するものが結局国家しか無くなる。国家は無能なんですから、これもやっぱり自己責任になる。

自己責任自体は当然の事なんですが、最近のそれは個人で抱えきれなかったりするのに、個人で抱えるしかないような、そういうむき出しの自己責任になっているような気がします。そして勝手にしろという事なのかと思えば、より不自由によって縛るような流れになっている。

日本の銀行だってあんなにあったのに、いつの間にやら合併だ吸収だで、もともと何々銀行と何々銀行が合体したのかわからなくなってしまうくらい、少なくなっちゃった。もちろんこの国では国家が牽制なんてするわけないので、やりたい放題になってしまう。しかも国家と結託して。レッセフェールに叩き込めば、競争によってより良い状態を目指そうとするのではないか?という発想は非常に素朴な考えで、ある時期まではそうかもしれませんが、勝ち負けが決まって来て、ある程度淘汰され、生き残った僅かな所で牛耳るようになってしまうと、結果的に自由化しないほうがよかったのではないかという帰結を生み出しかねない。

選択肢を失い独占を許す結果になりかねない。機会の平等を担保した結果、格差は拡大し固定化してしまう。ロングテールは所詮ロングテールでしかない。

しかし小泉改革が不人気になり、格差拡大が騒がれる。そうすると小泉政権のときは抵抗勢力だなんて言われていた人達と、格差によって苦境に叩き込まれている人の意見が同じになってしまったりする。流動化に抗うような力学です。

金だけではないとか、弱者に優しい社会をとか、頑張れば報われる社会をとか、そんな社会は有史以来一度も無いにも関わらず、昔、そうであったかのような錯覚を埋め込み、過去を美化した下らない美辞麗句の裏には既得権護持の力学に絡めとられている所がある。だからこれでも格差拡大が解消される事など絶対にありえない。もともと儲かっていた奴がもっと儲かる社会になるだけです。

例えばサブプライム問題によって、レバレッジを駆使した金融工学の危うさに疑義が呈される。それは確かに話はわかる。しかしレバレッジを駆使出来るという事は、小が大に戦いを挑む為にはあった方が逆転のチャンスは間違いなくあるわけで、サブプライム自体も貧しい人でも家が買えて、そのリスクをみんなで負担するというのは、考え方としては悪い事ではないような気がする。

リスクをリスクだと啓蒙出来なかった格付け会社に問題はもちろんあるだろうし、リターンの大きいリスクに投資して加熱してしまったヘッジファンドにも原因はある。だからと言って、流動化はけしからんという話になってしまえば、勝つ側は常に勝ち続け、やがてそこに挑む事すら出来ない社会になってしまう。

だから単純に流動化か?非流動化か?とか、グローバリゼーション是か非か?とか、物事を切る事が出来なくなってしまっている。ここに向き合わないと、平等に不幸になる社会に反対するロジックが力を失う。

タイで空港を占拠してデモが行なわれていました。平気で日本のバカメディアは反政府勢力とか言ってましたが、この問題も非常に微妙な問題点が見えます。

昨今食料自給率の向上を叫ぶ力学や金融やグローバル化へのアンチな流れ、それは確かに国内的には話はわかりますが、先進国の自給率を上げ内需を拡大させるという事は、タイのような輸出や安い労働力を駆使して、外国から金を呼び込んで発展している国というのは、いったんグローバライゼーションの流れに乗ってしまうと、もう簡単には元には戻れないという帰結を生み出します。日本の地域が回復不能の空洞化を招いている事と似ている。

バッファのある国は、比較的この切り替えも出来ますが、かつかつで発展している国というのは、日本の非正規労働者が切られたり、内定取り消しでガッカリの学生達のような現象が、ダイレクトで国家全体に直撃してしまう。

そしてそれはルサンチマンに繋がる。先進国への恨みつらみになりかねない所もあるわけです。弱者救済という言葉もその外側の不平等を黙認してこそ初めて担保出来る方向性でもありますので、単純な言い方は出来ない。

もちろんタイの人たちは、彼らで内需で食って行けるような社会を構築するしか無いわけですが、日本の国内がグローバル化でスポイルされた以上に、そういう国は発展と引き換えに、それ無しでは食って行けないような状況にスポイルされちゃっている。イスラムの人たちの西側諸国への怒りだってそういう所に根がある。

先進国はやはりその責任があるわけですから贈与をすべきではないかとも思えるわけですが、先進国は先進国なりにかつかつな状況に追い込まれているので、贈与なんて話になれば、そんな金があるなら俺達に回せという風になっちゃう。

我々がある程度、国民すべてが不安を感じずに余裕が生まれるような状況になれれば、そういう話にもなるのでしょうけれど、今の統治権力の力量、政治家のアホさ加減、役人やマスメディアの利権に邁進している姿を見ていると、そんな時代は永久に来そうも無い。

弱者救済を言うにしても、流動化をせき止めて従来の既得権をそのままにしておけばいいのかと言えば、昨今のメディア批判や官僚批判なんかを考えれば、流動化しろと言っているようにも聞こえるし、一方ホリエモン、村上ファンド、小泉竹中改革、そしてサブプライム問題に至る流れ、派遣会社に対する非難、金融資本主義、グローバライゼーションなどへのまなざし、などなど流動化をせき止めろという風にも聞こえる。どちらも必要な気もするし、ダメな気もする。ヘタすると一人の人間の中で、こう言ったねじれが起こっていて、結局流動化したいのかしたくないのかがよくわからなかったりする。

立ち位置系でしかない現在、この力学に抗う為には非常に重要な方法がそこに隠れている。まずは理念とか信念みたいなものも全てある立ち位置からの視点に過ぎないと相対化する。まずいったんしまう。例えば今回のこの長ったらしいエントリーでは、ずっとリベラル派を批判して来たので、彼らを例にとりますと、弱者救済、市民性の構築、制度の可視化、過度なグローバル化への警告、金融資本主義へのアンチなまなざし、と言った感じで、この先に例えば、死刑反対、反戦平和、9条護持といった感じで、ある種の定型化された一本筋の通ったクリシェがあります。

これでは矛盾がどうしても出てくる。流動化反対と言う割には官僚を批判する。官僚を批判するのかと思えば再配分を要求する。安心安全への不満を言いながら、監視社会反対、にもかかわらず重罰化反対、弱者救済を言う割には、その外側には無関心、と言った感じで、そういう矛盾点に権益を押し込んでくるような国家のタクティクスに、あまりにも無防備になっちゃっている。

例えば裁判員制度、個人的にはこんなインチキ制度は大反対ですが、この問題なんかが凄く今の問題の切り分け方の難しさを示しています。単純に言えばこの制度は市民に開かれた司法制度にするんだというお題目があります。

しかし実際は裁判員に選ばれた市民は非常に厳しい守秘義務を課せられます。これは憲法違反の疑いがある。結局市民に開いてもヘタをするとこれまでより不透明になる可能性すらある。公務員が守秘義務なんて全く守ってもいないにもかかわらず野放しであるのに、市民がそれをバイオレートすれば、厳しいペナルティが待っている。という事は裁判に問題点があったとしても、それが表に出て来ない仕組みになっているわけです。

しかし市民に開いたという言い訳になり、その事によって可視化を言う事も出来る。そして何より判決に対して、市民を取り込む事によって司法のプロフェッショナル達が責任を回避出来る。市民のせいに出来るわけです。そして細かい話は表には出て来ない。

実際市民がいくら判決を出しても、裁判官がそこに乗らなければ事実上、多数決であっても市民だけの決定では決められない。裁判官がようは決めるわけです。しかし市民のせいに出来る。究極的には死刑の判決も出る事があるわけですから、国家が人殺しを強要している制度であるとも言えますので、極端な見方をすれば徴兵制に近いと言えない事も無い。

しかも先日から被害者参加制度も始まりましたから、感情の問題と制度の問題の区別が出来ない今の民度から考えると、重罰化にする為の正当性を調達しようとしているようにも見える。被害者家族が涙ながらに訴えているのを見て、検察の証拠に疑問点があるかないか、適正手続きがキチンと行なわれているか否かだけを吟味して判決をだせと言っても、事実上不可能に決まっている。

と、大反対する問題点山積なんですが、この一見市民に開かれるという見え方が非常に厄介な事態を招いている。

これまでリベラル勢力なんかが、制度の可視化、市民に開けとずっと言って来たわけで、じゃあ元の不透明な構造のままでいいのか?と言われると、まあとりあえず市民に開くという事は重要な気がしてしまうので、反対を言いづらい市民化というお題目を盾に取られてしまっている。完全に反対するとなると、司法権力の恣意性をそのまま許すのか?という話になってしまう。

自分のように市民性の成熟が不可欠とか、制度の恣意性の排除とか、制度の可視化とか、言ってしまっている人間にとっては、何となく最初は困難があるだろうけれど、市民性の成熟には必要な気もしてしまう。

もちろん今のバカメディアの有罪推定報道に乗せられるアホな市民なんかが入って行ってこんな制度をドライブさせれば、暗黒裁判が待っていそうな気はしますが、こういうきっかけが無いと学ぶ事が出来ないではないかというジレンマも感じてしまう。したがって非常に微妙な所を突かれて上手い事権益を押し込んできやがるなと厄介な気持ちがする。

これは従来の市民に開かれた制度を、という大義名分を絡めとって、その大義名分故に反対しづらい方向性をどんどん押し込んでくる。だからその大義名分がかえって足を引っ張ってしまうようなそういうタクティクスによってどんどん押し込まれている感覚がある。

中々終わらず、困った・・・・・それでもつづく!!
前々回の続きです。

今、非正規雇用が切られているとメディアは嬉しそうに騒いでいます。切り捨てだと。しかしこれは元々わかりきっていた帰結でもある。

今から2、3年前、ホリエモンなんかが持てはやされていた頃、最初の頃は持ち上げるメディアも結構いたのですが、ニッポン放送の買収に乗り出した瞬間に態度を豹変させて、市場原理主義とか言ってメッタクソに叩いたはずです。

ニッポン放送の問題も以前から言われていた事ですし、暗黙の了解だった事に、買えるんだから買っちまうという、コロンブスのたまご的振る舞いに動転したマスメディアは全力を挙げて、ちょっと株価が上がれば、バブルだ、虚業だと、格差拡大だと、散々バッシングした。金だけじゃないとか、弱者切り捨てとか、散々騒いで来たわけです。

もちろん彼のやり口が強引だったというのは間違いありませんが、狼狽えていたマスメディアに正義があるようにはとてもじゃないけど思えないような醜さでした。

外資が入って来そうだとなれば、ハゲタカだのなんだのと騒いだ。実際こんなアホらしい国に来るバカもあまりいませんから、たいして来ませんでしたが、これまで既得権を握って来た、とくに大手メディアなどは自分達の権益が脅かされるとなると、公共の電波を駆使して、新聞の紙面を駆使して、それこそ血祭りに上げた。

そこから市場への恣意的な介入を事実上、国民も望み、既得権護持を賢明になる連中、元々力を持っている大企業の手助けをして一緒に拍手喝采した。実際ホリエモンや村上ファンドのような連中が、ちょっと脇の甘い古典的な所でパクられたというのもあり、まるでそれが善い事であるかのように、コンプライアンスを叫び、まさに官製暴落、株価はどんどん下がりました。そしてとどめに今回のサブプライム。

末端のよくわかっていない人達というのは、そりゃ何となく錬金術を使って金儲けしている奴らは気に食わんという風になるのは仕方がない事でもあるのですが、メディアは市場に金が流れないように叩いて行けばこういう帰結になるのは少なくともわかっていたはずです。あげく、今の状態になった。このブログでもこうなると何度も書いています。市場原理主義と言って叩いている人達が目指している方向性は、経営者逃げ切り主義ですよと。

格差拡大が騒がれ始めるというのは、実は景気が回復しているからに他なりません。しかしその景気の頭を抑える事ばかりをして来た。なぜかと言えば、景気が拡大するという事は、これまでと権益のスキームが変化する可能性が出てくるからです。逆転現象が起こってくる。マスメディアなどは自分達が握っている膨大な既得権を脅かされる可能性が出てくる。したがって景気が拡大しすぎて、これまでと権益のスキームが変わってもらっては困るわけです。

だから必死で格差拡大、市場原理主義、外資をハゲタカと喚き散らして散々駆逐して来た。結果さらに格差は拡大どころか絶望的な状態になり、今後最低10年、ヘタすると二度と復帰出来ない状況にまでなってしまった。ダーウィンの悪夢的現実が待っているやもしれません。

身から出た錆ですからしょうがないと言えばしょうがない。バカメディアも広告収入が減っているわけですから、本当にただのバカなだけかもしれませんが。独占を許されていますから、普通の企業に比べれば全然生温い環境であるのは間違いありません。それに国民が貧乏になって娯楽が減れば、テレビへの需要が増えるとでも思っているのかもしれません。そんな事はありえないと思いますが。

不安こそが彼らの利権でもあるし、それは同時に統治権力の利権でもある。国民がみんな裕福になって、みんな幸せになっちゃえば統治権力の権益も減ってしまう。みんなが不安を抱えて、分断化分捕り合戦状態にさらして、政府に何とかしてくれという状態の方がやりたい放題に出来るわけです。

以前のバブル崩壊もトドメを刺したのは今の財務省であり当時の大蔵省です。当たり前ですがその事で全く責任を取っていません。共産主義の国家というのは、国民を等しく貧乏にして統治しようとします。そして盛んに平等を叫んでいる連中だけが平等を真逃れる。日本が資本主義ではない理由もこのへんにあります。

日本はサブプライムとはあまり関係ないとかほざいておりましたが、実際それが本当であれば、ここまで滅茶苦茶に売りたたかれるという事もなかったはずです。

しかしそうであるにもかかわらず、日本というのは投資するにはあまりにも魅力のなさ過ぎる国になっているという所があるので、サブプライムで損失を出している国以上に下がっている。

これは不透明な構造なので、本当にサブプライムの影響がないのか?という問題ももちろんありますし、世界的に縮小しているので仕方のない所もあるのですが、元々官製暴落によって、かなり下がりまくっていたにもかかわらず更に絶望的に下がりまくっているわけです。

たまたまサブプライム問題がここまで世界を直撃したので、官製暴落という大問題はかき消されちゃいましたが、市場原理主義と騒いで、ことごとく叩きのめしてどうなったかと言えば、経済は縮小し、切り捨てが始まってしまったわけです。サブプライムと関係がないのであれば、今回の暴落はチャンスでもあるわけなのにそれでも買われない日本。

景気が戦後最大に回復していたと言われたその時期に、実際に好景気と呼べるような瞬間は半年くらいしかありませんでした。後はプラスかマイナスかで言えばプラスになっているから、便宜的に景気拡大と言っていただけで、好景気だったわけではありません。

しかし経済の頭を押さえつけるような事をせず、本当にサブプライムに手をだしておらず、好景気の時の状態を介入して腰を折らずに継続させていれば、日本に資金が逃げて来た可能性だってあるわけです。

前回の日本のバブルだって、ブラックマンデーの後で資金が日本に逃げて来てあそこまで加熱してしまった。もちろん当時よりもグローバル化が進んでいるので一蓮托生の構造になっているのは間違いありませんが、前回の失敗を繰り返さず、上手く舵取り出来れば(無理っぽい気もしますが)、何とか乗り切る可能性だってありえたし、そういう国があれば世界経済もここ迄沈滞せずにすんだかも知れない。

トヨタとかキャノンとか、元々強い所だけが儲かるような構造を国民も拍手喝采して来た。だから今回のような事態になると、あっという間にしぼんでしまう。バッファがないわけです。

景気がもっと拡大していて、強い新興企業を育てていれば、今度はそういう所にチャンスが眠っているわけで、こういう状態は千載一遇のチャンスになる可能性だってあった。しかしそういう所をことごとく叩いて、規制して、弱体化させ、既得権を守って来た、その帰結に他ならないわけです。

サブプライムがここまで深刻化していないとしても、どの道派遣の問題は相当顕在化して来ていて結構騒がれていました。これは実際に派遣と言っても選択肢がないという問題があり、したがって安く買いたたかれるという問題があるのだろうと思います。

だから搾取に怒りも感じてしまう。流動化し派遣業などによって選択肢があるかのように錯覚させられたものの、実際には新しい芽を叩き潰して、従来の儲かっている企業が儲かるだけの構造になっていた。だから派遣と言っても選択肢もない。

景気が回復して、好景気になったからと言ったって末端にまでそれを実感させるにはすぐにというわけには行かない。だから格差を感じる。しかしその時に儲かっている所を叩いてしまえば、当然末端までは行かない。自ら叩き、不況になりたくてなっている。そしてとどめにサブプライム。

グローバル企業がちょっと前まで過去最高益なんつって騒いでいる割には実感がない人が殆どだったと思います。だから余計に派遣の問題なんかでも不満が噴出していた。グローバル企業というのは本社が日本にあるというだけの話で、すでに日本企業というより世界企業になっている。だから彼らが最高益をあげたって、日本人全てが恩恵を被るなんてのは不可能です。それは当然の話でもある。

大企業だけが儲かる構造だったわけだから、完全に外需依存型であるわけで、そういう所がしぼんでくれば、あっという間に絶望に叩き込まれるというわけです。お望み通りの結果ですからしょうがない。

サブプライムの打撃で予想以上に絶望的な状況になりましたが、バカメディアとアホ統治権力に煽られて、アホな国民が一緒になって不景気になろうと努力していたようにしか見えない。だから今の帰結も当然に見える。自業自得です。そしてアホメディアは生き生きと切り捨てだと嬉しそうに目を輝かせて煽るわけです。

汗水たらして働くのが偉いと言うのはいいですよ。自分もそれは大切だと思います。しかしそういう汗水たらして働いた金が、ファンドによって運用されていたりするわけです。レバレッジを駆使して、弱小企業が大企業に挑む為にもそれが必要でもあった。そこを叩けばこういう風になるのは目に見えている。

もちろん不景気は避けられなかったかもしれませんが、大企業が弱体化しても、景気拡大によってセーフティネットになり得る新たな企業の台頭があればもう少しバッファもあったような気もしますが、事実上国民も乗せられて叩いて来た。だからバッファもない。

サブプライムのせいだ、市場原理主義のせいだと、バカマスコミは自分達の権益護持によって日本の市場を弱体化させて来た責任はしらばっくれて騒ぎますが、サブプライムの影響が少ないと言われているこの国が何でここまで絶望的な状況になっているのかを学ばなければ、こういう状態が繰り返されるだけです。繰り返せればまだ希望もありますが、そういう時は来るとしてもしばらく先になりそうです。だから忘れているんでしょうね。きっと。

こういう時に痛みを感じるのは末端だけです。金だけじゃないと騒いで来たわけだから望み通りになったというわけです。市場で金儲けをしている人間というのは、資金を逃がしていますから被害が少なくてすみます。ヘタすると空売りで儲けている人もいるでしょう。

しかし実体経済では肝腎の資金が流れて来なけりゃどうにもなりません。今の日本の構造では、資金は来なくていいと言っているのと同じですので、末端の人達だけが苦しむようなスキーム作りに自分達で協力して来てしまったのだから救いようがない。

これを救えるのが市場原理主義というのが皮肉な所なのですが、どうせメディアはそんな事啓蒙するわけありませんし、どこもかしこも痛い目に合ってますから、肝腎の日本政府があの体たらくでは、復活の経路はないでしょう。わかりきった帰結とは言え、何とも歯痒くて涙も出ません。

ひょっとすると来年あたり、一波乱ありそうな気もします。デフォルトとまでは行かないかもしれませんが、何となく嫌な予感もする。その際も資金を逃がせる人は商品に変えたりして逃げますから、痛い思いをする人達はそういう事を乗せられて叩いて来た人達という事になります。

実際日本のグローバル企業は日本の雇用はカットしても、アメリカとかヨーロッパとかの雇用は守っていたりします。すでに日本の市場に見切りをつけているような所もある。だから何とかして世界市場で生き残るでしょうし、バカメディアは多少しょぼくれるかもしれませんが、何てったって国家に守られていますから何とかなるでしょう。

なりたくてなっているのだから、どうにもならない。金だけじゃないという夢が叶うのだから望み通りなのかもしれない。こんなはずじゃなかったというパターンです。まさに後悔先に立たずという話なんですが、だからってしょうがないってわけにはもちろんいかないのですが、肝腎の統治権力はあのザマ、このままだと益々悲惨な方向へ行くのは避けられないでしょう。あまりにも悲し過ぎます。

この問題だって明らかにマスメディアが先頭切って旗を振っていたわけです。確かに市場原理主義を無自覚に受け入れるわけには行きません。そういうのがサブプライムの問題を招いているわけですから。

しかしマスメディアはそういう意味で言っているわけではない。実際に市場原理主義で儲かっていないわけですから、市場原理主義が悪というよりも、インチキ格付け会社とかの問題であって、格差拡大と喚いて、もっと格差を絶望的にしたわけですから、彼らの言っていた事が正しいわけでも何でも無い。

勝ち組企業とメッタクソに叩かれていた象徴であった六本木ヒルズの会社の平均年収は500万程度だったと言います。官僚よりももちろん安いし、大手メディアよりももちろん安月給です。その割には重労働、しかも親の敵扱いをされる。どこが勝ち組だったのか?結果的に勝ち組企業なんて全然いなくなっちゃった。

儲けてウハウハ気分の一部のトップが気に食わないというのはわかるのですが、ちょっと公平さを欠いた方向性にあまりにも突っ走っていたように感じる。風説の流布と叩いているマスメディア自身が思いっきり風説の流布を公共の電波でぶちかます。こういう風になるのは目に見えていた帰結とは言え、切り捨てだ!!と喚いている姿を見ていると複雑な気持ちになってしまいます。

これらの話を続けても終わらないので、このへんで切り上げますが、マスメディアの行なって来た事全部がダメだと言いたいわけではもちろんありませんが、彼らがになっている役割から考えると、明らかに適正をかいた部分があったような気がする。

それはもちろん筑紫さんや田原総一朗氏のような立場の人間にも責任は間違いなくある。死ぬ前の最後の言葉に対して批判をするのも非常識だという事を十分承知で言いますが、彼のような立場の人間がそういう泣き言を言っていい立場ではない。だったらとっとと辞めればよかっただけの話です。

それを10年以上続けて来て一線で活躍して来たわけで、責任が無いとは言えない。何の為の特権なんだという事です。流れに片足を突っ込んで、腐敗したマスメディアの中からあがいて打開しようとする事は必要です。が、その立場に君臨し続けて変えられないと思ったら、もっと早くに次の人にバトンタッチして、新しい可能性にかけるという選択だってあったはずです。

自分には能力が無いと認める事も必要でしょうし、中から変えられないのだから、あれだけの人気があった人なんだから、外に出て戦略的に振る舞う事だって出来たはずです。

もちろんいまさらそんな事を言ってもしょうがありませんし、一緒に働いている人達に対する愛着もあったのだろうとは思います。彼にも後悔はあったろうなとも思う。おそらく歯痒い気持ちもあるでしょう。それが最後の言葉のはしはしには感じられました。

久米宏なんかもをニュースステーションを辞めた後にメディアの構造的な問題と視聴者の要求するもの、そういう軋轢の狭間に立つ事の難しさを言ってましたね。おそらくそれは嘘ではないのでしょう。

大手メディアといえども商売であるわけで、社員も食わせなきゃならないし、ジャーナリストの質は落ちて行くし、クライアントの意向に逆らえないわけですから、気を使わなきゃならず、あった事をありのまま伝える事が難しいのでしょう。

実際政治家からの無言の圧力もあるでしょうし、失言に吹き上がる視聴者もいっぱいいる。区切られた時間の中で、簡潔にしゃべらなければならないわけですから、当然何かをネグレクトせざるを得ないというのも理解出来ますし、的確に何かを伝えようと思えば偏ってしまいかねないというのもわかる。

視聴率も欲しいわけだから、当然視聴者に媚びなきゃならない所もあるわけで、いろいろと苦労があるのだろうと思います。当然そんな事は想像するしかありませんので、きっと想像以上なのだろうと思う。

ニュース23のプロデューサーから、ついこの間まで、TBSの報道局長を務めていて、先日アメリカに行っちゃった、金平茂紀さんなんか典型ですが(ネットなんかですと、反日売国奴、北朝鮮の工作員、在日野郎と散々ですが)、リベラルな人でしたし、期待していた人だったのですが、彼のような人が局長になっても、そう簡単には構造問題がどうにもならないというのを見ると、きっとマスメディアの構造問題は根深いものがあるのだろうと思います(とにかく足を引っ張る輩も多いし、彼自身もこれは彼の誠実さ故なんでしょうが、結構批判の矢面にあえて立つような所があったので)。劇的に変わるという事は難しいのでしょう。

そういう要素を鑑みると、マスメディアの問題もまさに末期癌状態で、処方箋がないのかもしれません。

だけど例えそうであったとしても、筑紫さんの遺言によってメディア全体が免罪されるわけではない。筑紫さんは死んじゃったわけだから、もう彼を責めてもしょうがありませんが、彼の死を利用し、それを言い訳にして、メディアの機能不全を仕方がないという風にはならない。そうであるのなら直ちに独占を止めてくれれば済む話なわけです。それだけでも物価は下がるでしょう。

大手自動車産業への批判は出来ない、原発も広告主、裁判員制度の宣伝も流れていますね。ネット規制や掲示板叩きは起こっても、携帯の電磁波問題だってまともに議論も出来ない。狂牛病問題もしかり、食肉偽装はクソミソに叩くのに。ダイオキシンの問題だって、解決したから言わなくなったというわけじゃない。問題は問題として残っている

自分達の権益を護持する為に、開き直って権力の犬として活動するなどもってのほか迷惑千万な話です。あげくネット規制の世論を煽ろうと賢明になっていたりする。ハッキリ言えばそういった構造にのうのうと居座っておきながら、エクスキューズなどいい加減にしてくれよって話です。

その権益を手放さないというのであれば、それなりの責任を果たせという事です。もうああいったニュース番組の必要性は実際の所無くなっている。テレビなんてまともに見ている人なんてあんまりいないのではないでしょうか。ただつけっぱなしになっているだけとか、真面目に見ていないけれどなんとなくついているとか、地デジになったら、もうテレビは買わない人だって結構いるような気がします。だって必要ありませんからね。

新聞だってそうです。ネットでニュースの速報を見て、ただ何があったのかだけがわかれば、全く必要性を感じません。

もう広告収入は激減しているし、新聞なんて酷いと言います。今のままではジリ貧確実であるにも関わらず、メディアとしての機能を果たすよりも、権力に媚びて権益を守って貰おうなど話になりません。麻生の批判をしていても、ようするに次の政権に保険をかけているという話でしかない。

間違いは誰にでもあるし、総理大臣だって漢字が読めないわけですから(総理大臣が漢字が読めないと小馬鹿にされたりしていますが、別に漢字が読める読めないと政治の話は関係ない。バカだって政治家として有能であれば問題は無いわけです。田中角栄なんて小学校しか出ていないと、昔は学歴社会を相対化する比喩としてよく使われたりしたもんです。今漢字の読み書きに我々が苦労していないのは携帯とかパソコンのおかげであって、彼が漫画を読んでいるから読めないという問題とは関係がない。彼に問題があるのは政治家として無能に見えるからで漢字が読めないのは別にどうだっていい話です。まあその事をこれだけ突っ込まれるという事は、メディアも見捨てたという事なんでしょうけれど)、無能であるのもしょうがない。しかしそうであるのなら、役に立つ事をその立場でキチンとやるか、そこに居座る事だけは頼むから止めてくれよという事です。

そうじゃなくともメディアには考えられないような特権が認められているわけで、普通の企業が同じ事をやればそれは犯罪になるような事です。そういう事を国家に守られて温々と批判しているポーズだけ取り、国家に守られているが故に肝腎の事の真相にはしらばっくれている。それでは困る。

その責務を果たしてないのに、そこに居座るという事は、何を言われてもしょうがない。これだけ大手メディアに対するバッシングが高まっているのも頷けます。しかしこれまた風車の理論。それを利用してメディアを統制しようと言う、権力のブタ共に力を貸す事になりかねない。

そしたら国民にとっては結果的に莫大な損失になる。このままだと、権力が動く事をやむなしという方向性に行きかねない。実際、やられちまえ!という力学もある。自分だってあまりの酷さにたまにそう思ってしまう事もある。例え自業自得なんだとしても、一蓮托生で国民益まで犠牲にされるのではかなわない。

日本のGDPが年間550兆、一般会計、特別会計含めた国の予算が212兆、そして、特殊法人や三セク、ファミリー企業群で回している金までひっくるめるとグロスで660兆に達するわけです。公正な競争を免除された金が日本の民間のGDPを上回っている。これが例えば100兆、民間に回るというだけでどれだけの無駄を排除して経済効果を生み出せるのか考えるまでもない。公的セクターで100兆という事は民間であれば少なくとも倍、ヘタすると数倍の経済効果がある。乗数効果まで考えれば相当なものでしょう(これで増税とか言っているわけですからとんでもない話です)。

民間であっても大手メディアのような談合と独占によって利益を回しているような構造もあるわけですから、こういう構造を少しでも解体する事が、必要な所に配分するという話に行き着く。ようするにどこかに線を引いてその内側を守るという事でしか、結局リベラルにしろ何にしろ民主主義と言う形態の中では機能しないのであれば、結局は分捕り合戦になってしまうわけで、そうなると競争を免除された所は永久に勝ち続けるという話にしかならない。

そうであれば配分を期待するだけ無駄なので、全部流動化しろ、全て平等に流動化しろ、平等に競争させろ、平等に幸福になるチャンスが与えられないのなら平等に不幸になる可能性を担保しろ、即ち赤木君の言う所の戦争しかないという話に帰結してしまう。戦争というのは人口が減り平等に流動化にさらされる。命までもが流動化にさらされる。そこにしか希望が無いという話が出てくるのは避けられなくなってしまいかねない。

もちろん自分はそこには同意は出来ません。赤木君のような立場に立たされた人がそういう風に考えてしまう気持ちは理解出来ますが(もちろん完全には理解出来ませんが、何となくです)、それじゃ困る。自分のような反権力の人間は戦前のように特高警察にパクられて拷問を受けるとか、最前線に送られて弾よけに使われるとか、そういう末路が待っていそうな気がしますので冗談じゃない勘弁してほしい。自分もまわりの人間も危険な目にあうのも困るし、それで誰かを傷つけたり殺したりなんてしたくないし、させたくない。

つづく!!まだまだ!!