Radwimpsの有心論でひと休み。

久々に手抜きネタで失礼します。自分は基本的に日本人の音楽というのはあまり聞かんので、よく知らないのですが、よく知らない中から、かろうじて聴いているのを最近使っております。

ここまで社会がしっちゃかめっちゃかになってしまうと、せめて日本のアーティストでも聴いて、国内の消費に貢献しないとマズいのでは・・・・・というのは冗談ですが、自信が無くなってしまうと、変な所で断固決然になっちゃったりもするので、日本人の音楽でも聴いて、まだまだ捨てたもんじゃないと思えればと、意識的に最近日本人をネタにしております。

基本的に洋楽ばっかり聴いているので、殆ど聴かない日本のアーティストですが、このあんちゃん達は、演奏が(この曲はそうでもありませんが、ライブ映像を見たときに、とくにベースとドラムが)若いあんちゃんのロックバンドの割には、そこそこ上手いので、初めて聴いた時から、何となく気にして聴いております。

基本的にロックばっかり聴いているので、いい年して、こういった若いあんちゃんの曲も聴いたりしているわけですが、00年代に入ってから、特にここ最近、ロックをカウンターとして当てる主体が消えているので、歌詞が随分90年代、80年代、もちろん70年代とはだいぶ変わってしまって、特に最近のは自分が年食ったからなんでしょうけれど、どうも痛々しくて、歌詞は聴いていて若干辛いものがあります。

元々洋楽ばっかり聴いているので、基本的に歌詞よりも格好良さで聴いて来たので、歌詞はそんなに気にする方ではないのですが、最近のはちょっと気になるのです。

それは若いとか恥ずかしいとか、厚みがないとか、そういう事ではなくて、その歌詞が出てくる時代の空気みたいなものが痛々しいのです。

カウンターカルチャーだったロックが死に、カウンターではなくなって、サブカルチャーとして商業音楽に成り果てて、という頃は、少なくともロックを叩き付けるべき、もしくは皮肉るべき、おちょくるべきハイカルチャーとか、メインカルチャーというのがあった。そういう対象があればサブカルチャーと言っても、ロックはロックとして鳴っていた。

90年代も不況に喘いでいたわけですが、まだハイカルチャー、メインカルチャーに対して、というのがどこかにあった。
しかしここ最近は、完全にハイカルチャーが腐りきって死んでいるので、ロックをぶつけようにも衝動をぶつける対象が無くなってしまい、自己責任に投げ出されて、結局何かにぶつけようと思うと自分の内に向かって行ってしまう。

そうすると、このバンドのように、非常に聴いていて恥ずかしくなるような真っすぐな心とか、愛とかを皮肉っぽく言うでもなく、そのまんま俺達は幸福だと言わないとやってられないというのがあるのかもしれませんが、そこが非常に痛々しくて、聴いていてロックの移り変わりを複雑な気持ちで感じてしまうのです。

ロックは死んだと言われてからだいぶ立ちますが、その時代にとって切実な形で、人々を引きつけるものが出てくる。この痛々しさも、この国の結果でもあるわけで、こういう歌詞がロックになるような時代の痛さ、こうでも言わないとやってられないようなどうにもならなさ、ぶつける対象が無くなり、現状を思いっきり素直に肯定する事がカウンターになってしまっている。それが切実になってしまっている、そういう時代なんだなと痛感するのであります。



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今日でフィニッシュです。

リベラル派であれば、反戦平和という軸があるとして、そこから自動的に護憲、アンチグローバライゼーション、弱者救済と言った感じで、決まりきった路線に串刺し化されちゃうのではなくて、なぜ護憲なのかという問題を反戦平和を取っ払って考えてみるというのが重要なんじゃないかと思うわけです。

それは戦争反対だからという理由であれば、何も説明していない事になっちゃうので、気持ちはわかるけれどいったん切り離して考えてみるという事が重要なんだろうと思います。改憲派の人に反戦平和の為に護憲が必要なんだ!!と言っても、反戦平和の為に改憲が必要なんだと言われちゃえば、お前のは反戦平和じゃない、俺の方が反戦平和だ!!、いいや俺の方が!!という感じの、一種のコメディみたいになっちゃう。

これは右翼の人がよく言う事なのですが、愛国心競争になっちゃう。俺の方が国を愛している。いや、俺の方が愛している、お前なんか国を愛していないじゃないか。国を愛している事を証明しろ、わかったそれなら見せてやると言って暴走する。見たいな。

結局どっちも愛しちゃいない、愛していると言っているだけ、そんなの比べようもないのに、ただ競争しているだけです。だから反戦平和で意見があうのだから、お前のは反戦平和ではないと否定してもしょうがない。

これは例えばオウム事件を引き起こした信者達なんかとも同じです。麻原に対する忠誠心競争、俺の方が忠誠心がある、いや俺だ、いや俺の方が、という蛸壺内での田吾作の鍔迫り合いが暴走を引き起こす。これはあらゆる日本の蛸壺的共同体に含まれている行動作法です。だから企業だって不正をぶちかましても、社員がそれを黙っている。

しかしヘタレの田吾作競争なので、何かあると簡単に手のひらを返す。不正をした共同体の誰かがパクられたりすると、ちょっと脅されただけであっという間に、全部ゲロして反省してますってパターンです。責任をどこかになすり付けて、自分は悪くない、騙されていた、反省していると。そんでしばらくしたら挫折をネタに真面目に更正していますとお涙頂戴、本でも書いて一儲け。

前大戦だって統治権力のケツ舐め愛国心競争の成れの果てです。だからあっという間にGHQに尻尾を振って、天皇陛下万歳だったのが、マッカーサー様!なんつって手の平を返す。今度は民主主義優等生競争に変じるだけ。

戦前の愛国心なんてもんは右翼と何の関係もない。その国の国王なり皇帝なり、統治権力なりが、国民を苦しめるようであれば、刺し違えても人民の権利を死守する事こそ、愛国者であり右翼と呼べるものです。小汚い街宣車で喚き散らす事は愛国心と何の関係もない。

だいたい国賊共が運営する統治権力なんぞを外国に罵倒されたからと言ったって、何の問題もない。統治権力を愛する事は愛国心とは何の関係もない。

愛国心を教えろとバカ保守が吹き上がってますが、望む所です。そんなものを教えることが出来るのなら、今の売国奴官僚や国民の生活を無視する国賊政治家なんぞ皆殺しにしろと教えられる、それが善い事であると教育出来るのだから最高です。どうぞ好きなだけやってくれという話です。そうすればもう少しまともな国になる。左翼もそんな事にビビる必要はありません。愛国心があるが故に左派になる人だって出てくるでしょう。

戦後の民主主義なんて威張ってみても、中身はなんにもないスッカラカンです。アホウのような国賊野郎がいつまでたっても政権にしがみついている。民主主義を舐めています。実際民主主義なんて機能していないし、国民も別に切実にも思って来なかった。思考停止的に同じ人間に投票し続けるなんてのは、民主主義とは言えません。

愛国心も民主主義も結局は忠犬ハチ公病、奴隷病です。だから民主主義も芽生えないし、戦争が終われば簡単にアメリカのケツを舐める。

蛸壺内であるにしても、競争するのは重要な事ですが、何に向かって、何の為に、何と競争しているのか?という事を考えると、蛸壺的ハチ公病に冒されると本末転倒が多過ぎる。それ意味ないじゃんってパターンです。官僚や政治家なんていい例です。これは右とか左は関係ない。あらゆる蛸壺が陥る病です。

弱者救済にしても単純な言い方は出来ないわけですから、個別で考えなければそれは腐敗を招きかねないし、その外の不平等を黙認する事になりかねない。弱者救済という言葉を掲げているが故に、ある疎外には鈍感になるというのでは本末転倒です。

フェミニズムという価値観だって、フェミニズムを唱えるのはいいけれど、それで幸せになっているのかという所にも冷静にならなきゃマズい。フェミニズムを振り回す人にとって幸せであっても、そんなのどうでもいいよと思っている女性だっているはずですし、そんな事よりという事だってあるでしょう。

反戦平和、改憲という組み合わせだってあり得るわけですし、グローバライゼーション擁護、弱者救済という組み合わせだってあり得る。新自由主義、再配分政策重視という組み合わせだって出来るわけです。
市場原理主義者とアンチ市場原理主義者の二人でも、話してみればお互いに弱者救済を考えているかもしれない。

核武装、核兵器反対だって、どっちも話してみれば、おそらく多くの人が戦争には反対しているでしょう。核武装しろと言っている人が、どこかの国に核を撃ち込みたいから言っているわけではないに決まっているでしょうし。むしろ広島長崎の悲劇を繰り返しちゃならんと思っている人が圧倒的だと思います。

相手に核を撃ち込まれる事を回避する為に、抑止してそれを食い止めるというのは、合理的に考えれば、一番核抑止力にはなるわけです。

沖縄の悲劇を繰り返すな!!というならば、上陸されたらマズいわけですから、上陸させない為には抑止を持つ事はそれなりに合理性がある。

しかし理念に絡めとられてしまうと、核武装論者がまるで核戦争でも望んでいるかのように勘違いしている人もいる。核武装反対という人は、何で反対なのかと言うのを反戦平和とか別の論点から切り離して、考える必要がある。

例えば抑止力を持つという事は、反撃能力を持つ事、だから相手が本当に脅威かどうかを見極める必要がある。中国がすぐに攻めて来るかと言えば、現状の日本の軍事力であれば自衛する能力はあるし、中国も日本にだけ軍を集中させる事は出来ない。国境の広さを考え、守るべき国土面積を考えれば、防空に特化して戦える日本の現戦力でも十分自衛出来る。北朝鮮に至ってはまさに語るまでもなし。

しかし核の脅威はある。核の脅威には自衛隊をどんなに強化させようが、撃たれたら終わりなわけだから、核の脅威を理由にして重武装化する根拠にはならない。もちろん核戦争があったとして、核を一発ずつ撃ってくる国なんてあるわけないので、MDの理由にもならない。

そうなると核を持つ事でしかそれに対する効果はない。だけど核と言うのは使ったらそれまで、あるけれど使えない兵器でもある。だから武装もない国に向かって今の国際情勢から考えるといきなり撃ってくる事は考え難い。

日本に核攻撃をしても何のメリットもないし、仮にあったとしても、国際社会の信頼を失ってしまう事と差し引きで考えれば、明らかに損をするわけだから、合理的に判断する能力があるのなら、核攻撃など脅しには使うだろうが、実際には使えない。合理的に判断する能力を失っているのなら、核を持っていたって撃ってくるだろうから抑止にはならない。

だから抑止力を持っているかいないかが問題なのではない。撃てるものなら撃ってみろという覚悟が重要なんだと。仮に撃たれたら撃ち返せたとしたって、撃たれた被害を元通りにする事が出来るわけではないので、どの道撃たれれば痛い目に合うのは変わらない。核の脅しでは何も出ないよ。と言う必要があり、核を振りかざす事無く友好を掲げている国とはどんどん仲良くしますし、協力もしますと言えばいい。

と言った感じで、核武装反対という人でも、自衛隊はあった方がいいと考える人であれば、こういったロジックは十分使えますし、自衛隊に反対だという人も、今自衛隊はあるわけですから、それをいったんわきにおいて、核武装反対を叫ぶ人は核武装を叫ぶ人に言う必要がある。実際問題、日本が核武装しているわけではないのですから。

核武装論者を危険な軍国主義的な言い方をしてしまうと、核武装論者だって、戦争を未然に防ぐ為の抑止として言っているわけで、反戦平和の鍔迫り合いになるだけです。反戦平和と言う理念が正しければ正しい程、それは益々加熱してしまう。抑止の方法が必ずしも核が必要ではないのではないか?という所から論じて行った方が打開策がありそうな気がする。

そしたら本気で核武装なんて、現時点の世界情勢、統治権力の無能さから考えれば、出来っこないわけで、あんまり理不尽な事を言っていると、核武装するかもしれないよと、思わせる事が重要だというだけの話をしているかもしれない。話してみれば単なるネタだよで終わっちゃうかもしれないわけです。だけどそれは誰にも言っちゃダメだよと。

軍備賛成論者だって今の軍備であれば、ある程度の脅威にはすでに対抗出来る。日本は相当な軍事大国でもあるわけです。非武装と叫んでいる人がいても、実際には軍備があって、しかもすでに重武装しているわけだから、そういう人が叫んだら非武装になるかと言えば、それがマジョリティを形成する事は無いでしょう。みんななんだかんだと言ったって恐いわけです。

非武装派だって反戦平和故に言っているわけですから、そこをキチンと見ないと、全く同じ事を言っている事になる。武装しないと戦争になる、武装を持つと戦争になる。戦争になるかどうかと、武装非武装をいったんわけて考えた方がいい。戦争は相手があって、国民全てがその事に突っ走って行って始まるものでもある。非武装でも攻められれば戦争になって人が死ぬし、武装を持っていても抑止を乗り越えて仕掛ければ戦争になって人が死ぬ。

理念を掲げてしまうと、お互いに話も聞かずに幻影とやり合っているような感じに見えてしまうわけです。反戦平和だっつっているのに、反戦平和を望む者同士がもめるなんてのは、笑えない冗談です。現に今、日本が主体的に戦争しているわけではないし、アメリカのケツ舐め的貢献はしていますが、それだって、意味の解らない言い訳を駆使しながら、必死で抜け道を探りながら、アメリカのご機嫌とりをしているだけであって、それがすぐさま日本がどこかの国と全面戦争に至る道かと言えば、それにはまだ安全装置がいくつかある。

海外派兵の問題は、戦争反対のロジックから切り離して、正当性の問題とそれによって得られるゲインの比較衡量から考えた方が実りがある。

だけどお互いに平和の為と言った理念を掲げて、これこそが正しい平和の道だという分断が深刻になればなるほど、その軋轢が火種になり、社会はどんどん揺れて行きます。

極端なのはアメリカです。戦争、戦争反対というスイングバックを繰り返ししながら、バランスをとる方向性になってしまう。クリントンだって散々爆撃していたわけで、政権交代しなくとも同じ政権の中で、人気になったり不人気になったりと、彼らの勝手な都合で、世界中に絶望をまき散らしている。

日本は元々二大政党制ではありませんでしたし、もう少しバランス感覚があったはずなのに、それが段々失われている。左派の理念は非武装反戦平和の方向性なので、そちら側である時は、もちろん戦争と言う選択肢はとり難いとは思いますが、そっちにスイングした反動が大きくて、それが機能不全に見えてくると、断固決然野郎が登場する。

そしてそれが梯子を外されて、再びスイングバックする。その振れ幅が大きくなればなるほど、段々両極が過激になっていって分断が益々深まる。やがてそれは戦争を止める安全装置を次々と外して行くという帰結を生み出す。バックフラッシュしてもっと厳しく雁字搦めにし、そして再び更に安全装置をもっと外して行くと、このサイクルに入っている。

このもとでは我々はどんどん自由を失い、分断化され、やがてわかり合う事の出来ない不毛な溝になってしまう。そしたらこの流れは止められない。敵が外にいるかどうかが問題ではなく、ここが一番の我々の戦争の種かもしれません。

今の若い子達というのは、社会の信頼の底が抜けて、寄る辺になるものも殆どぶち壊れているので、家族であっても、友達であっても、疑心暗鬼ベースの価値観になっている所があります。これは悪い側面もありますが、そこから利点を引き出すと、相対化がすでにすんでいるという考え方も出来る。

あまりにも相対化しているが故に、ニヒリズムが蔓延するという大問題もあるわけですが、肝腎の大人達は自分の信念にすがって、子供に信念を持てとか言って教育しちゃう。そのくせ自分の権益が脅かされそうになると醜いまでに狼狽える所もバッチリ見られている。自分の権益を守る為に、若者を排除するような無関心に加担しているわけで、見透かされているわけです。

だから大人の方が相対化する必要がある。その上で、ニヒリズムに陥らないような絶望や疑心暗鬼に絡めとられないような生き方を提示する必要がある。理念を相対化して、自分の足で立てといいましたが、それは強くなれという事ではありません。弱さを認めろという事です。まずそこを認めないと、何が必要なのかもわからない。

それは友達かもしれないし、恋人かもしれない、勉強かもしれないし、遊びかもしれない、仕事かもしれないし、趣味かもしれない。金かもしれないし、金ではないかもしれない。どれか一つという事はないし、複数必要でしょう。

しかし自分が弱いという事を人は簡単に忘れる。ちょっと仕事が出来ると、頭が良いと錯覚すると、金持ちになると、名誉を手に入れると、女にもてると、擦り寄ってくる友人が増えると、自分は強いと思い込む。

だから人の弱さを忘れ、強くあれと言ってしまう。たまたま生まれた場所や、運がよかったというだけかもしれないのに勘違いをおこす。弱い人間を攻撃し、それはお前が弱いから悪いという話になってしまう。強さを全面的に前にだし、人を攻撃する。だから戦争も無くならない。

ロールズの正義論(自分が生まれ変わったとして、耐えられないような貧困や絶望があるのなら、それはジャスティファイされる事が公正な正義である)じゃあありませんが、人は基本的に愚かで、弱い生き物なのだという事を自覚する事が重要なんだろうと思います。

それは愚かであっても構わないとか、無知であっても構わないという事ではない。開き直れという事でもない。愚かで無知で弱いという事を自覚しろという事なんだろうと思います。それを自覚しないと何が必要なのかもわからないし、人の痛みにも鈍感になってしまう。

無知で愚かであれば、人の話を聞かなくちゃ賢くなれませんし、弱ければ人の助けも重要です。どんなに頑張ったって、所詮人一人が出来る事なんてたかがしれている。だから自分一人の力では限界がある。人に任せた方が上手く行く事もあるし、人の手を借りた方が上手く行く事もある。人に頼った方が、自分でやるよりいい結果が生まれる事なんて世の中にはいくらでもある。

だけどそうしてもらう為には、そういう関係性を結ばなきゃならない。そういう関係を結ぶ為には相手にとっても何らかの助けになれるような、自分を必要だと思ってくれるように振る舞わなきゃそうはなれない。その為には自分を磨く事も重要です。

自分を磨けという言い方が、殆どがキャリアアップみたいな話に落ちてしまって、成功者の成功体験みたいな話になりやすいのですが、そうなる前に、他者と上手く関係性を結べなければそうなれないわけで、競争に勝つ為みたいな話になっちゃっている。自分のエゴ、野望、自己実現みたいな。

そういう事も重要なんでしょうけれど、その前に、人の役に立てるような人間になる事があまりにも軽んじられているような気がする。結果的にそれが困った時の自分の為にもなる、誰かに助けてもらえる。日本には昔から助け合いの精神というのがあったはずです。お互い様という感覚があった。我々はその事を知っている。最近は抜け駆け感覚や、正直者が損をする感覚がどんどん強まっている。エゴのぶつかり合いばかり。みんな自分大好き。

自分は男ですから、どんなに頑張ったって、子供は産めません。だから子供が欲しいと思ったら女性の助けが必要です。だけど子供を産む為に利用しようとしたって、出来るわけないわけで、相手が自分の子供を産んでもいいと思ってくれるような関係性を結ばなきゃ出来ない。

だけどその前に結婚もしくはそういう関係性を結ばなきゃ出来ないわけで、ハナっから子供を産んでもらう事のみを目的に近付いたって上手く行くわけない。段階があり、プロセスがある。

結婚する為には付き合わなきゃ出来ないし、付き合う為には、付き合ってもらえるように好きになってもらえないと付き合えない。そうする為には、自分のエゴをぶつけたって上手く行かない、相手が何を思い、何を欲しているのか察して、関係性を結んで行く必要がある。

相手の助けになり、支えになる事が出来て初めて必要だと思ってもらえるし、切実だとも思ってもらえる。関係性を結ぶ事も出来る。その為には自分が男であるという事を自覚しないと出来ないし、相手の事がよくわからないと思わなきゃ、わかろうとは思えない。

勝手にこう思っているはずだでは、そのうち意志の疎通が出来なくなって、誰も自分の事をわかってくれない、こんなにわかろうとしてるのにってパターンになる。相手の事が切実だと思ったからって、上手く行くとは限らない。それは相手が決める事でもある。

自分が無知で愚かで、弱い存在だという事を自覚しなきゃ、何が足りないのかもわからないし、わかろうとも出来ない。わかっているつもりになれるだけです。これは大人であっても欠けている人が結構います。自分の弱さを自覚出来れば、人の痛みもわかるはずです。正論が無力になるというのは近代化が成熟するからでもある。そういう時代なんだから、せめて人の痛みくらい敏感になれなくちゃ、何もわかり合えるわけがない。理念主導のどちらが正しいか合戦で傷つけ合っていたのではもう前に進まなくなっている。そういうのはもうごちそうさまです。

国の借金がいくらあったって、それが返せる当てがあるのなら、国家権力を信頼出来るわけですから、バラマキをやろうが、財政再建をやろうが、何とかなるでしょう。しかし誰も国家権力の事なんて信用していませんし、国家の側もことごとく無能、無策、そして利権まみれであるわけで、そもそもどうにかしようなんて微塵も考えちゃいないわけです。利権を守ろうとしているだけ。それにどうにかしようと思ったって、そんな能力のある人間も見当たらない。あらゆる問題が噴出し、国家権力への信頼が全く失われてしまっている。監視をしようがチェックをしようがどうにもならないくらいに腐りきっている。

アメリカのブッシュ大統領が批判されますが、彼の8年の間、日本の総理大臣はすでに5人変わっています。森、小泉、安倍、福田、麻生と。そのうち小泉が5年やっているにもかかわらずです。小泉は任期満了しましたが、これは時期がたまたまよかっただけの話で、今彼がやっていてもどうにもならないような気がする。そして麻生だってもう風前の灯です。このまま続ければ、いずれ一桁に、目指せ支持率ゼロ%なんて冗談言ってましたが、結構近い数字になりそうな気もする。

大統領制とは基本的にシステムが違うので、比べるのもどうかと思いますが、これだけ国のトップが頻繁(「はんざつ」じゃないですよ)に入れ替わって、ことごとくどうにもならなさだけを国民に埋め込んでしまうだけで、統治権力としての体を成していないような国家が国家と呼べるようなものなのか?

フランスだって(首相こそジョスパン、ラファラン、ド・ビルパン、フィヨンと四代変わっていますが)大統領はシラクからサルコジという比較的盤石な流れでもある。イギリスだってブレアからブラウン、ドイツは首相がシュレーダーからメルケル(大統領がラウ、ケーラー)、イタリアは首相はアマート、ベルルスコーニ、プローディ、再びベルルスコーニ(大統領はチャンビ、ナポリターノ)、カナダがクレティエン、マーティン、ハーパー、ロシアがプーチン、メドベージェフ(首相がカシヤノフ、その代行を務めたフリステンコ、フラトコフ、ズブコフ、そしてプーチン)と、政権交代も無いのに、一国の代表を務める国家元首が、勝手になって勝手に辞めてを国民の意志とは無関係に繰り返し、ことごとく無策無能であり続ける国など、先進国のどこを見渡しても無い。

これが90年代となると、海部、宮澤、細川、羽田、村山、橋本、小渕、森と、実に八人も入れ替わっている。この時は政権交代もあったし、日本というのは元々比較的ころころ変わる国ではあるので、外国と比較する事にはたいして意味がないと思いますが、どうにもならないのは、いずれもサブスタンスがない連中ばかりという所です。

無能な人間がトップに君臨し続けて、それが辞めずに居座るよりは、簡単に変わる方がマシな気がしますが、ここ最近の流れは変わると言っても、日本の首相は変わった所で殆ど誰も何も期待なんてしていない。どうせダメなんじゃねえかと諦めがある。ここまで国民に見放された統治権力も珍しい。そして実際に何も変わらない。

その信頼が壊れてしまっている状態では、将来にも希望が無い、不安が社会を覆いつくしている。国民だって消費より貯蓄という流れになる。これでは縮小再生産にしかならない。そして人口減、超高齢化。もう手の打ちようが無い。システムはことごとく腐りつくし、制度はことごとく壊れ、八方塞がりの状態です。

挙げ句の果てにトドメの一撃ともいえるサブプライム問題からの絶望的な金融不安。これに対して何らかの対策を打っているのかと言えば、全く持って無策であり、殆ど彌縫策、そして延命の事しか頭にない。実体経済への影響はこれからが本番です。今は序の口に過ぎない。今後しばらく長いスパンで、バブル崩壊以上の痛みを味わう事になる可能性も十分ありえます。

ちょっと前までは環境問題花盛りでしたが、すでにCOP14では新興国と先進国の軋轢は更にどうにもならない感が強まり、先進国でさえ一部では何となくそれどころじゃない的な雰囲気も出て来ている。それでよく新興国に環境問題にコミットしろなんて言えたもんですが、世界中で余裕が無くなりつつある。

これは非常にマズいスパイラルに陥っている。こういう状態というのは、信頼がことごとくぶち壊れているだけに、何らかの希望を見いだした瞬間にそれが急速に熱を帯びて支持されるという、もっと厄介な状況を生み出しかねない。実際小泉旋風にしろ、ホリエモン旋風にしろ、安倍にしたってサブスタンスの無いアジテーションに引っかかって、簡単に動員されてしまったりもする。今の炎上のしやすさや熱狂しやすさというのは、非常に危険な状態になっている。

こういう時代、理念とか信念のようなものは、簡単に人を傷つける理由にすり替わる。理念とか信念はいったんわきにおいて、どれだけサブスタンシャルであるのかだけを、様々な角度から検証する必要がある。

信念や理念を掲げて傷つけ合うなど不毛です。自由であるというのは、許容し合って初めて担保出来る理念です。そして自由である事にコミットしてこそ自由になる。それこそがまさにリベラリズムの本義でもある。そしてそれは戦前の日本の右翼だってそうだった。我々が右翼と勘違いしているものは、統治権力のケツを舐める奴隷に過ぎません。そんなのは右翼とは何の関係もない。

いろんな国があれば、それぞれいろんな国があるに決まっている。そして当然その中にはいろんな人がいる。それぞれの国はそれぞれの国民が決めればいい事で国民が決められないような抑圧があるのなら、その国の国民がキチンと抗えるように手を貸して連帯する事が重要だと。それが亜細亜主義の本義でもあるわけです。変な方向に行っちゃいましたが。

そしてそれほど難しいことを言わなくたって、元々日本というのは伝統的にそういうものを解決するような、シンクレティズムという伝統がある。神仏習合という事が典型に現れる。氏族が別の氏族を滅ぼす、村が別の村を滅ぼすという事があった場合にも、基本的にはジェノサイド全殺戮という事を行わず、その部族や氏族の神様を祭る。

神社だと思って奥に行くと、仏、寺があったり。寺だと思って奥に行くと神社があって、神社だと思って更に奥に行くと、道祖神、巨石信仰、があるという事がよくある。これはまさに征服によって風俗習慣宗教がオーバーライトされるのではなくて、共存させられて行くという動きです。

これがまさに和辻哲郎の言う所の、日本的風土であって、それはある種、無原則に見えるかもしれないが、無原則と言う原則であったと。これが日本の再近代化、近代化を可能にしてきた。日本的伝統にとってキリスト教徒でもないのにクリスマスを祝い、仏教徒でもないのに寺に行き、神道でもないのに初詣に行くというのは、日本的にトラディショナルな意味で正しい。

クリスマスは西洋のものだから、こんなもの崇めるのは日本人ではない!!という二元論これは全然日本人的ではない、全然伝統的でも何でも無い。我々はそもそもいい意味でいい加減な民族であったはずです。ご大層な理念を掲げるよりも解決の術を知っているはずです。自分のまわりの小さな世界であれば、折り合いの付け方、ケリの付け方話し合い方までひっくるめて我々はわかっているはずです。まだそれが多少残っているうちに、そこを少し見直すだけでもだいぶ変わってくる。

世の中どこもかしこも絶望だらけではありますが、反面少し復活の萌芽も見られるような気もします。イラク戦争翼賛、小泉翼賛体制から考えると、だいぶ世論が冷静なまなざしをもつに至るようになって来ているという若干の希望も感じられる気もします。底を打ったような感じがする。

例えば麻生のあっという間の墜落ぶり、総裁選の時も比較的冷静だったと思う。田母神論文へのまなざしもしかり。先日の厚労省元事務次官殺傷の事件の際も、可哀想だけど、だからって厚労省の話が免罪されるわけではないだろ、というちょっと前だと、それでも人間ですか!!的非難があっても不思議ではないような物言いも、結構出てくるようになっているし、市民も比較的そういう感覚があると思う。

これはイラク翼賛の頃、自衛隊派兵無関心の頃から考えると、だいぶまともになっているような気がする。あの頃アメリカの自業自得なんだよなんて言ったら、それこそお前は頭が狂っているのか?的扱いを受けたわけです。北朝鮮の時だって、強硬路線は自爆するから止めておけなんて言おうものなら、反日売国奴扱いを受けたわけです。それがそういう断固決然バカの帰結によって多少学習したのか、少しだけ冷静になっているように、これは希望的観測かもしれませんが思うのです。

ようは国民が貧乏になっちゃったので、無関心じゃいられないという事もあるのでしょう。オバマが大統領になれたのだって、アメリカが貧乏になっちゃったからです。何とかしろと国民が真剣になる。余計な金は使うなと敏感になる。それにメディアが演出する味付けに、国民も飽き飽きしているというのもあるでしょう。どうせそんな事言ったって、マスメディアも捏造しているし、インチキじゃねえかと。

マスメディアも少し懲りたような感じも見受けられる。実際マスメディアにはもうあんまり明るい未来は無さそうなので、今から心を入れ替えても、ガソリンが普及したら、馬車が消えるのと同じように、こういう時代の変化は止められない。だから手遅れ感があるものの、若干報道の原点に返っているような所がぼちぼち見え始めている。今更遅えよって感じですが。

それは例えば、NHKが視聴率を稼ぐようになっているという事とリンクしている。下らないバラエティなんぞ、結局見たくて見ているわけではないので、ただついているだけ現象でしか無く、まともで少し固い話を見たいと思えば、NHKの例えば7時台のニュースから、クローズアップ現代とか、結局そういうものを見ている人は見たくて見ているので、民意に媚びて下らない情報番組と化したニュースなんて見てもしょうがない。時間の無駄であると気付いて来ているのだと思う。

NHKは国営放送なみたいなものなので、少なくとも民放が報道で負けているようじゃ話にならない。

その事に何となく気付き始めて少し心を入れ替え始めた感がある。筑紫さんが死んじゃってからやっとかよという感じですが、逆に言えば彼が病気でニュース23を降りて(もうすぐ終わるみたいですが)、なんだよ筑紫さんがいないとつまんねえぜと言った感じで、従来の筑紫フリークに支えられていたのが離れて行き、視聴率が下がり、思考停止ではいられないという危機感が生じたからという見方も出来る。一カ所が流動化を始めると、他も連鎖して行く。

誰もがもうどうにもならないと世の中が絶望に満ち溢れ、落ちるまで落ちた時、実はそこが希望の始まり、再生の始まりでもある。せっかく我々は痛みを学んだのだから、これから生かされる事を期待してしまいます。

理念をしまって、相手の話を聞いて、議論の後に握手が出来るようになれば、まだ希望は残っていると思います。




「では、今日はこんな所です。」




この話題はこれにてEND!!



毎度毎度クソ長くて誠にすんません。文章中、とくに筑紫さんの事を罵倒するような書き方もあったと思いますが、不愉快な思いをされた方、大変申し訳ございませんでした。

後ちょっとで20だったのに!!悔しい。
続きです。

このエントリーでも散々取り上げて来た筑紫氏が、イラク戦争開戦の前に、イラク入りをしてイラクの現状をリポートするという企画があったと記憶しております。筑紫さんがイラクの方々と話をしたりして、イラクの人々だって普通の人達で、我々と何ら変わらない、なのになぜ敵視して戦争などをせねばならんのか?と、非常に真っ当な事を言っていた。しかしいったん戦争賛成が大半を占めるとここにブレーキをかけるのが難しくなってしまう。

今は多くの人が忘れていると思いますが、当時のブッシュの政策への支持、小泉政権への支持、911で傷ついたアメリカの正義の戦争というのが圧倒的な世論だった、散々批判して来てなんですが、この世論の時に、キッパリ反対出来る彼は、そんじょそこらのクソキャスターとは次元が違う胆力があったと思う。

パッと今の大手メディアに出てくる連中を見ていると、彼のようにこういうここぞという時にはビシッと言うようなキモの座った人がいない。彼の遍歴を見ていると、必ずここぞという時に不人気だろうが、バッシングされようが言う事を言っていて、しかもそれが的を得ていた。

しかし世論の空気が圧倒的になっている時に言っても、加熱して突っ走ってしまっている状態は冷静さを取り戻す事が出来ない。

今から見返せば筑紫さんの言っていた事は100%正しかったわけで、まだ大量破壊兵器云々かんぬんと言っている人はほぼ残っていません。逆に今にいたっても言っている人はある意味信用出来ますが、殆どが空気が変わると簡単に手の平を返す。

あの時点のあの状況であれを言うというのはもの凄いプレッシャーもあったと思う。多くの人はあの戦争を支持していた、もしくは無関心だった。自衛隊が派兵されるのもしょうがねえじゃんという感じだった。あの時に反対を言うと、それこそ反日売国奴と罵倒されたと思います。実際に筑紫さんはそうやって罵倒されまくっている。

もちろんあの人はそんな事を気にする程、ヤワな男ではなかったろうし、あの状況であれがキッパリとしかも民放のニュース番組で言えるのだからタフな人だったんだと思います。

もちろん散々彼の問題点として書いて来た、筑紫さんはそう言うだろうと誰もがわかってしまっているという(あの状況でそれを言って当たり前という彼に課せられたハードルも凄まじいものがありますが)、彼の立ち位置から来る嫌悪感をあらかじめ持ってしまう声のでかい層というのも確実にいるので、聞いてもらえないという問題もあるのですが、あの時の空気、まるでイラクは空爆されて当然といった空気、こういうのを人は簡単に忘れる。そしてその反省もしない。自分達が直接手を下していないから、アメリカを批判して話が落ちてしまう。

これを前提に思い出してもらってから、このエントリーで取り上げて来た田母神問題と絡めて反戦平和の話を進めて行きます。

例えば田母神論文で保守派の中からも、田母神への批判があったり、彼への援護射撃が無かったりと、彼の論文が幼稚であるのかもしれませんが、ちょっと取り扱いに困るような感じもある。しかし左派と言うのは基本的に彼の擁護というか、ある部分では気持ちはわかるぜという人が全くいない。

もちろんあの人が自分の歴史観を言う事自体、中身が正しいかどうかとは別に、あんた自衛隊のトップだろという事が問題なわけで、それをわきまえていないのがどうにもならんのですが、反対する方もする方で頭の悪い反対派はどうしてもここの問題が今イチわかっていないような所もあって、中身が正しいかどうかをわきにおいて、立場上不適切であるという事、発言の自由を主張するなら辞めて発言しろという一本で攻めればいいのに、何となく戦争反対という理念とか、危険な軍国主義者とか、戦前の彼の歴史観に対する否定とかが見え隠れしてしまっている。これが非常にマズい。今回はたいした事はないと思いますがこの鈍感さが反発を招く。

まあそうは言っても実際彼はもう辞めたわけですので、そういう意味ではマスコミも、政府も比較的まともに機能したような気もします。

しかし辞めても元自衛官空幕長という肩書きは残るので、彼は何かと発言はするでしょうし、彼を持ち上げる人だっているかもしれません。あんまりいないと思いますが。だからこういう言説を言う人がいるという問題は残るわけで、それこそ今度は言論の自由だと言われれば今回彼を叩いたようなロジックは通じなくなる。そうすると中身の問題はとりあえず正しかろうが間違っていようが関係ない。お前は日本の官僚であって、憲法に拘束される政府見解に拘束される立場なんだよという物言いでは、無効化出来ない、したがって中身の吟味も必要になる。そうなると言っている事を全くスルーするというわけにもいかなくなってくる。

田母神が言うには戦争がしたくて言っているのではないと言っていますし、別に日本は正しい国だと認めてくれと言いたいわけではないとも言っている。中国の方や、朝鮮半島の方々が、日本の戦争責任をいつまでたっても言ってくるから、日本が一方的に悪者だといつまでもいつまでもバッシングされるから、どこの国だって多少は恥じる過去があるではないかと言いたいのだと言っています。

講和条約を結んだら、基本的に過去の事は水に流しましょうという前提であるはずで、何もアメリカめ原爆落としやがってふざけるなとか言いたいわけではないと。

しかし戦後半世紀以上たっても、相変わらず日本は悪者、日本に軍事力なんか持たせたら、また侵略戦争を始めるに決まっているという言われ方をされ続けているわけで、いつかはわかってもらえて水に流してくれる日が来るのではないかと、日本人はずっと何を言われても頭を下げ続けて来た。だからもういい加減にそこまで言われるのなら、日本人にも日本人の言い分がありますと言いたいだけだと。

別に言われなければそんな事は言うつもりはないし、それぞれの国の歴史観に文句があるわけではないと。言いたい事も言わず上っ面の友好関係ではなくて、言いたい事は腹を割って話せるような友好関係こそ望むと。

それに彼の安全保障に対する発言、自衛力を持つ事や、自衛隊をもう少し動けるようにする事は、戦争する為に必要なのではなくて、戦争を抑止する為に必要なのだ、というのはある程度安全保障の一般的な基準で考えると、間違った事は言っていない。それなりに合理性はある。

もちろん自分はキッパリと彼の歴史観の浅さを否定しましたが、彼が本当にそう思っているのかどうかは別として、歴史認識に差があっても戦争反対だと一応は言っているわけですから、リベラル派だってちょっとくらいは、まあ言っている事はトンチキだけど、戦争反対という気持ちは共有出来ると、擁護出来る所を探す人がいたっておかしくないわけですが、見事に彼の歴史観にとらわれて一斉に横一列でバッシングという風になっちゃう。

反戦平和の理念によって、彼の言っている事すら聞いていない。聞いていないのに批判しているわけです。これでは不毛です。こっちが理念を振り回せば、向こうも向こうの理念を振り回して理論武装合戦になってしまう。理論武装合戦になると最近ではリベラル派はどうも旗色が悪過ぎる。

田母神のおっさんは、自分は日本がいい国であると言ったらクビだと言われた、自衛隊のトップは日本がろくでもない国だと思っている奴がトップであるべきだと言うのは話がおかしくないですか?と言っています。当然ですが、彼に反対をしている人達はそんな事を言っているわけではありません。彼も彼で話をちゃんと聞いていない。

実際彼はネット投票や、テレビの投票でで6割が私の支持だなんて胸を張ってますが、多分彼の事をアホかと思っている人は基本的に、そんなバカらしい投票はしませんので、ああいう幼稚な論点に引っかかる人達でさえ6割しか支持していないという事は、まあたいした事は無い。

例えばまあ言いたい事はわかるけれど、本当に自衛隊へのフリーハンドが欲しいと思ったら、北東アジアからの許しが無ければ不可能なんだから、そんな彼らの心情を煽るような物言いは火に油を注ぐようなもんなんだから、嘘でもいいから土下座でも何でもして謝罪を続ければいいんだよと言ってあげればいいような気もしますし、それよりはまあ相手に対して誠実な気もする。外交的なタクティクスとしては下の下ですが。

田母神のおっさんの会見なんかを見ていると、さしで話せば、まあ頭の中身はカラッポかもしれませんが、きっと気のいいとぼけたおっさんなんじゃないかという風にも見える。悪人ってわけではないような感じがするわけです。

少なくとも特権の上で責任を回避して温々と批判だけしているような連中と比べれば、あれだけバッシングにあっても言いたい事を言って討ち死にする覚悟はあるわけですから、少なくともキモは座っている。まあ自衛官だからなのかもしれませんが、反戦平和という接点から話せば、もちろん護憲、自衛隊反対という人からすれば中々簡単には行かないとは思いますが、そういう論点をいったんわきにおいて話せば、それほど話が通じない堅物ってわけでも無さそうにも見える。

個人的には戦前の亜細亜主義や右翼思想を全くわきまえもしないで、中学生並の陰謀史観程度の話を誇らしげに話している姿を見ていると、若干哀れみも感じますし、反面ボコボコに論破して正座させて説教してやりたい気分ですが、彼はそれが真実だと思っているわけですから、それはそれで尊重する必要がある。

こちらの話を聞いてもらう為には、こちらの理念をいったん封印しないと、向こうも理念を振り回すというだけで、単に分断されて終わってしまう。理念じゃなくて、どれだけサブスタンシャルであるのかだけを議論出来なきゃ意味がない。反戦平和は願望ではないわけですから。

ここで冒頭の筑紫さんの話を思い出して下さい。田母神の論点の浅はかさ、そしてそれに食いついて否定する方々、この部分に非常に今の日本の問題点がありますので、理念を封印しろと言っといてなんですが、少しここではそこを詰めて行きたいと思います。

田母神の論点では例えば朝鮮半島や台湾に帝国大学を作ったではないか、そんな植民地政策を取った国は他には無い!とか、朝鮮半島の皇族もちゃんと丁重に扱って、丁重におもてなしている、そんな国なんて他にあるか!!とか言っています。確かにそりゃそうなんですが、個人的に言えばこの感覚がズレている。

我々は何といって朝鮮半島を併合したのかがわかっていない。朝鮮の人々と日本人の間に差別があっちゃならん。対等であり平等に扱うべきだと言ってしたわけです。そして何と言ってロシアと戦争をしたのかもわかっていない。少なくとも建て前では朝鮮半島の自立の為に戦ったわけです。その建て前の為に多くの日本人も死んだ。そしてそういう風に朝鮮半島の人にも言っている。だから当時の日本も支持された。

朝鮮半島の独立を叫び、協力し合おうと対等合邦を叫び、結果的に併合している。しかも平等だと言う。

平等に扱うべきだという視点がそもそも上から目線でしかありえない。下からそんな事を言ったって、サブスタンシャルにはなり得ない。そういう風に選択出来る立場にあったという事を自覚出来ていない。これが日本人の決定的な鈍感さです。

帝国大学を作ってやったではないか、これも押し付け、平等に扱ったではないかというのも、押しつけでしかない。パターナリズムになっているという事に気付いていないわけです。善かれと思って行動したって、相手にとってどう見えるのかを考えていない。学校を作ってあげられるという立場にいたという事が何を意味するのかが田母神的アホ右翼はわかっていない。

アメリカやイギリスが植民地の人々や黒人奴隷に我々は平等だとは絶対に言わない。平等ではないのだから言うわけが無い。平等だと言うからには平等にしなきゃしょうがない。解放宣言をするのと同義です。

しかし日本は平等だと言いながら、朝鮮半島の自立という事実上の解放宣言をしておきながら統治をしている。そもそも日露戦争に勝って列強へと名乗りを上げている日本と、当時弱小国家であった韓国との間で対等合邦なんてどうしたって無理があるに決まっている。

なんで伊藤博文がぶち殺されたのかがわかっていない。なぜ安重根が当時の一部の日本人からでさえ支持されたのかもわかっていない。朝鮮半島の独立、東洋の平和という大義を掲げて、日露戦争をし多くの日本人が死んだ。それは天皇の意志だという事になっていた。にも関わらず、日本は事実上朝鮮半島を併合しようとする。東洋の平和を乱しているではないかと、これは天皇の意志に反しているではないかと、安重根に殺されたわけです。だから安重根は勤王の志士だと言える。

伊藤の死を理由にして、伊藤を叩いていたマスメディアも手の平を返して賛美し、一般的な国民の世論を煽って加熱させ、併合強硬派を世論が後押しして結果的に併合に突っ走るわけですが、少なくとも当時のまともな日本人はその事がわかっていた。伊藤の側近でさえ、一番尊敬する人は誰か?という問いに、それは大変残念ながら安重根ですと答えている人がいたくらいです。日本の国益の為とは言え、我々は矛盾しているのではないか?と。

伊藤は何かと併合政策には反対の立場を取ってはいましたが、それはあくまで日本にとって都合のいい朝鮮半島のあり方であって、これだって上から目線でしかありえない。朝鮮半島の自立を言いながら事実上保護下に置き、彼の死後併合したわけです。

もっともなぜ明治維新が成功したのか?なぜ伊藤博文が初代総理大臣になったのか?裏日本史的に言えば、岩倉具視らと結託して、天皇を暗殺しているからだという説もある。天皇を殺して、長州に住んでいた薩長の操り人形である、南朝系の末裔と言われる大室寅之祐その座に据えた。だから維新が上手く行った。伊藤にはその功績があった。何で会津藩が完膚なきまで叩きのめされたのかと言えば、会津は京都守護職であり、孝明天皇と面識があった。だから松平容保を徹底的に攻撃し力を削がなきゃならなかったって説です。



(余談ですが面白いので書いておきます。孝明天皇と本当の明治天皇は北朝系であるのですが、南北朝は遠い昔に合一されています。徳川家茂の妻は孝明天皇の妹君である和宮、徳川慶喜は筋金入りに尊王派である水戸藩出身、薩長やそんじょそこらのにわか尊王派とはわけが違う、父親の斉昭公は当時の尊王派、水戸学の御本尊みたいな人です。会津も孝明天皇の信任が厚かったと言われている。しかし将軍家も会津松平家も賊軍として逆賊扱いを受ける。これは南朝を利用した南北朝の延長線上にある問題であったとされるわけです。

しかも南朝系の末裔かどうかなんてのも怪しい話ですので、ひょっとするとこの国が隠し通さなきゃならない出発点もそのへんにあるのかもしれません。橋本龍太郎は大室の血族でしたし、今の麻生は大久保の末裔、安倍晋三は岸信介の孫、岸と佐藤栄作の先祖は長州藩出身で、吉田松陰に兵学を教えている。池田勇人も長州藩、広沢真臣の末裔と血縁関係を一時結んでいたし・・・・・・・・・・そういうのが様々にネットワークとなって、関係を結び、財界とも繋がり、探し出すといろいろ見つかりますので結構面白いのですこれまた。

そもそも岩倉具視は公家の村上久我(こがと読みます)源氏である土御門(源)通親の末裔であり、土御門通親が源氏長者であったとき、武家である清和源氏の末裔である源頼朝と源氏長者をめぐって政争を繰り広げている。源氏長者とは公家が担うポジションで、官位の低い武家ではなれないのが当たり前でした。源頼朝が源氏の頭領という言われ方がしますが、その場合、武家の清和源氏の長者という意味です。本当の意味での源氏長者だったわけではありません。

武家源氏である清和源氏の一流河内源氏である足利尊氏が後醍醐天皇を追い落として、その後醍醐天皇が吉野で創始したのが南朝。その後、足利家は室町幕府を開き、足利義満の時に初めて兼任、将軍職と武家として初めて源氏長者をかね、あげく王権纂奪を行なって事実上、治天の君{ようするに上皇とか法皇みたいな天皇より偉い人}の座を皇位につかずに獲得した二人目の人となって日本の頂点に君臨する。そして対外的には日本の国王と名乗る。その前の源氏長者は村上源氏の久我家である久我具通。

その後、源氏長者の座を久我家と足利家で入れ替わりを繰り返す。室町幕府が終わった後、久我家が再び源氏長者の座に座り、その後、再び武家源氏を名乗る徳川家に久我家から源氏長者の座が移り、将軍兼源氏長者、そして日本国王となり、幕末まで行く。

江戸時代末期、朝廷に弓を引いた足利尊氏は逆賊という風に言われていましたし、そういう思想が流行っていた。という流れを考えると、村上久我源氏の末裔である岩倉が、南朝を担いで逆賊である足利尊氏の利用した北朝を撃つというのは、それなりにストーリーとしては筋が通る・・・・・・

公家と武家の因縁、源氏長者をめぐっての因縁、そして南北朝の因縁、そういうものがもしかすると複雑に絡まって、もしくは利用して・・・・・・・ひょっとすると、天皇もまだ4代しか続いてないなんて事も・・・・・・

と陰謀説は聞くのは面白く、基本的に自分はあんまり信じない口なのですが、ついでとして、この幕末の回天の際、背後から支援していたのが、サッスーンの部下グラバー、赤い盾がちらつく。憲法制定の際の留学先で世話になったのもそう。ロシア戦争の際、援助を引き受けたのも、ユダヤ系、ロスチャイルドと繋がりのあるジェイコブ・ヘンリー・シフ、なあんて話になるんですが、そこまで行くとつまらんので、本筋に戻ります。こういう話は妄想も混じっていますので、あまり本気にしないで下さい。ただ面白いので本気で書き出すと終わらなくなる恐れが・・・・・・)



とまあこれは真相はわかりませんし、その他にもいろんな説があるのですが、そういう陰謀説(孝明天皇と明治天皇が殺されているのではないか?という所までで、その後の話は別です)を当時の真性右翼はわかっていた。これが本当かどうかという話ではなくて、少なくともそういう空気があった。そう言う二重の意味でも逆賊である長州の伊藤をぶち殺した安重根は勤王の志士だったわけです。

本当は天皇陛下万歳なんてのは右翼でも何でも無い。革命の玉として天皇が必要だからそう言っているだけです。それはあくまで国民の為の政治に必要であるからそう言っていたわけで、天皇だから無前提に翼賛しろという話では全然無い。天皇を囲っている連中の好き勝手にさせちゃならんというのがあった。

売国政治家と国賊官僚ども、そういった君側の奸に天皇という玉を囲い込まれてしまってやりたい放題になっている。国民の為の政治なんてどこ吹く風(今と同じですね)、西郷が言った敬天愛人の精神なんて全く無視している、自由民権運動だってそもそもそういう精神から出てくる。政府のケツなんて舐める輩は右翼でも何でも無い。

そして当時のまともな右翼、国粋主義者は朝鮮半島の併合政策に完璧に反対している。玄洋社の頭山満も、黒龍会の内山良平も。朝鮮半島の人民の為になる事が重要であって、日本が統治するなど言語道断であると。合邦して協力関係を結ぼうと尽力していたのに、それが併合政策のエビデンスとして利用されてしまう。韓国人も望んでいるのだと。

平等に扱おうとすればする程上から目線でしかありえないわけだから、平等だと言われている人達からすれば、平等だと言っているけれど、内心差別しているじゃないかという風になる。亜細亜主義を掲げながら、結局中国と戦争し、朝鮮半島の独立自尊を掲げながら、対等合邦が併合にすり変わったわけです。言っている事とやっている事が矛盾している。

しかしその事には日本人的に言えば悪気は無かった、そりゃ平等というのは建て前に決まっているだろうという風になる。それがウソつきだという風に見られるわけです。ここの所はどんなに言い訳をしても逃げられない。その事に自覚しないと、彼らからの感情的な許しはありえないでしょう。

朝鮮半島だって他に選択肢が無かったではないかという言い方をよくされますが、選択肢があったかどうかが問題ではない。我々が何をやったのかという事に自覚的になる必要がある。それはどんなに温情的な融和的な政策をとろうがなんだろうが、平等であると嘘をついていたのは事実です。日本の安全保障と国益の為に建て前できれい事を言っていた。国内では通じるかもしれませんが、それを外人相手にやったら通じない。

今のバカ右翼的に言えば列強からのプレッシャーもあり、しょうがなかったかもしれないが、しょうがなかったかどうかは彼らにとっては問題ではない。たとえ悪気が無くても、どんなに彼らの為を思っていたのだとしても、やった事はやった事なわけです。だから朝鮮半島の方々からすればウソつき日本人に対してウソをつくのは当然の事だという風になる。

実際日本の植民地政策は当時の列強水準で考えれば温情的であったというのは事実です。しかし彼らからすれば押しつけでしかありませんし、平等になろうという言葉そのものが不平等でなければ言えない事でもあり、内心は日本人だってそんなの建て前だと思っている人だって当然いたでしょう。それが彼らにとって気に食わないわけです。これを自覚しないと、話が全然かみ合いません。

亜細亜主義者達がなぜアメリカとの開戦の際に万歳をしたのかが田母神的アホは全然わかっていない。日本がアジアに対して引け目を感じていたからに他ならない。言っている事とやっている事が矛盾していると少なくとも当時のまともな右翼は気付いていたわけです。だからやっと本当の敵であるアメリカとの大義ある列強の帝国主義打破という戦争を行なう事によって、アジアに対して行なって来た矛盾ある戦争政策も大義の為だと言い訳が出来る。アジアの列強からの解放と言う大義名分が成り立つと、申し開きが出来ると。だから万歳したわけです。この事がわかっていない。

ただ単に歴史的な出来事を取り上げて、何でそういう政策をとっていたのかという文脈を無視して、学校を作ったから偉かったとか、アホじゃねえかって話です。そりゃ作ったのは作ったけれど、そこにどんな文脈が隠れているのかを読み込む作業が出来ないのなら、歴史なんて学ばない方がいい。ここ数年のバカ右翼現象がどうにもならないのは、こういう文脈を参照出来ない点にある。もちろん文脈どころか歴史の出来事すらキチンと認識出来ていない善悪二元論的バカ左翼はもっと論外ですが。

当時の選択肢としてみれば仕方がなかったのだとか、簡単に言ってしまう。そりゃ今から見ればその選択肢が適切だったか不適切だったかが分かるから言える話で、その当時の文脈を参照しないでそんな事を言っても無意味です。

最初の話を思い出して下さい。9.11同時多発テロのときのそしてその後のビン・ラディンへの報復の際、もしくはその後のイラク政策にしても、どれだけ多くの日本国民がアメリカの悲劇とアメリカの正義の報復に拍手喝采したか?911直後どれだけアメリカの悲劇のお涙報道を繰り返したか?

死んじゃった人々は大変悲劇であり、胸が痛むし、だからテロをしても許されるという話ではないが、アメリカが全くの無罪かと言えば、アメリカへの恨みつらみを持つ人々が出て来てしまうような事をして来ている。という多分世論に一斉にバッシングされるような不人気であっても冷静さを喚起するような、そういう事を言った大手メディアは皆無です。

今から見直せば明らかにブッシュの政策は誤っていたとは言えるでしょう。しかしあの当時の空気がどういう空気だったのかという事が抜け落ちている。それを騙されていたから悪くないという言い方で簡単に済ましてしまう。アメリカの陰謀という話で終わっちゃう。前大戦もアメリカの陰謀が隠れていたという話に落ちちゃう。左翼も左翼で軍部の横暴って話に落ちちゃって終わり。違うだろ、みんなで万歳三唱して突っ込んで行ったわけです。

とまあ、田母神に対しては言いたい事は山ほどあるのですが(もちろん左派にも)、こういう当たり前の前提がわかっていれば、あんな幼稚な話はしないでしょうから、こういう一般常識はひとまずわきにおいて、どれだけ反戦平和にとってサブスタンシャルでありえるのかを紡いで行くしか無い。

自衛隊反対と言ったって、現に自衛隊はあるわけですし、憲法9条が危ないとか言ったって、現に憲法は全く守られていませんが、キチンとあるにはあるわけで、安倍晋三的改憲バカは簡単に駆逐出来るわけです。あんなトンチキな改憲なんて、自分も改憲派ですが、まともな改憲論者からすれば語るに値せず程度の脆弱なものでしかない。クソの値打ちもありません。

田母神は政府が左傾化していると言うし、リベラル派は右傾化しているという、同じ現実を切り取っているのに見え方が全然違うわけですから、俺はこう見えるではなくて、実際どうなのかを様々な角度から検証する必要があるのではないかと思うわけであります。自分も右傾化しているような気もしますが、それはお前がリベラル派だからだと言われちゃえば、まあそうかもしれませんとなってしまう。

ようするに右にしろ左にしろ、結局主体性が無い。責任がどこにあるのかと言えば日本人にあるに決まっているわけで、軍国主義のせいにするのも、アメリカのせいにするのも全く同じ、何かの理念を掲げて、その理念ゆえに盲目的にオートマチックに言う事が決まっちゃうなんてのも主体性が無く責任感覚がないからに他ならない。理念なんて放り投げて自分の足で立てばいいだけの話です。そういう意味では田母神も問題外だし、彼を批判する左派も問題外、どちらの歴史観もクソという事です。

左派も左派で、ようするに誰々が悪いと言う悪者探しゲームをずっとやっているだけ、可哀想な国民と言うロジック、可哀想な中国や韓国の人民というロジック。可哀想と言う発想そのものが上から目線だという事に無自覚です。ドイツと言うのはドイツが悪かったとは言ってません。そんなの罪は人それぞれ、軍部にいた奴と、末端の農民や子供達や女性達では、その責任の重さも違うし、やった事も違うわけだし、内心これは問題ではないのか?と思っていた人だっていたはずですから、一概には言えない。

しかしあの戦争にたいしては未来永劫ドイツ国民には責任があり、その責任を守って行く義務があると言って免罪されたわけです。そういう目線が右も左もない。戦前が悪、もしくは善とやり合っているだけ、もしくは誰々が悪かったという話をしているだけ、下らない。

誰々が悪かったなんてのはどうでもいい。そりゃ悪い奴はいただろうけれど、自分にも、もしくは日本人である現在の我々にも責任があるのではないのか?という自分の立ち位置を解体する作業が無く、理念にすがって錦の御旗を手にするという感覚がどうにもならない。

誰が悪いと言う話は、単なる責任のなすり合いです。にもかかわらず謝罪はキッチリしているわけです。日本的感覚から言うと、謝罪をするという事は水に流してもらうという感じですが、普通まともな論理がある国からすれば、謝罪をするという事は責任を認めるという事に他なりません。水に流すも何も、悪かったのを認めているわけだから流れがそこで止まるようなもんです。にもかかわらず責任を担うどころか、誰々が悪いとなすり合いをして、あげく悪くなかったと言う奴まで出てくる。

だから日本がいつまでたっても叩かれているという事がわかっていない。この絶望的な当事者意識のなさ、理念主導の不毛な殴り合い、これをいったん放り投げて、我々の問題として見る必要がある。

戦後半世紀以上、こういう主体性をいまだ獲得すら出来ていないわけだから、そりゃ国もダメになるって話です。帰結として、みんな当事者意識が無いわけですから、投票率が低いのも仕方ないし、無前提に自民党に投票し、自民党がずっと牛耳って来たのも仕方ない。プライオリティも当事者意識が無ければつくわけがないし、責任感も芽生えるわけがない、だから先送りばかりになる。

それは我々の主体性の無さにある。悪者探しで免罪されるという勘違いがこの連鎖を招いている。だから責任者が逃げ切って自己責任ってパターンに行き着く。空気を読んで、勝ち馬に乗り、自分が梯子を外されないようなポジション取りをしているだけ。勝ち馬が勝ち馬じゃなくなれば、みんなで梯子を外して血祭りに上げ、騙されていた、最初から懸念していたと言って逃げ切るのみ。

こういう社会を構築して来た世代にはもの凄い責任がある。しかしそんな事を言っても始まらないわけですから、気付いた人間がどんどん主体性を獲得するしかない。その為には現状の絶望的な状況や、自己責任原則によって個人に痛みを押し付けるような社会である故に、この変化への可能性も出て来ている。理念を振りかざして悪者探しゲームが大好きな連中をお掃除するチャンスでもあるわけです。

自分はリベラル派や左派を散々批判しました。マスメディアも散々批判した。バラバラに解体して徹底的に問題点をあぶり出したわけですが、これだってある立ち位置に立つからそう見えるという話でしかありませんし、その事を延々と続けて、批判をして話が落ちるというのでは、悪者探しと変わらない。

いつでもそれに簡単にすり替わる。バラバラに解体して問題点が見えたら、視点をずらして相対化するという事が必要でしょう。当たり前ですが彼らが全て悪いという話ではありませんので、彼らを叩くだけで問題が解決するなどありえない。それを生み出す構造問題を考えないと、理念を振り回しているのと変わらない。

若者が戦争を待望してしまうような空気の問題を、なぜそういう社会になったのかという考察をして、一見擁護しているかのように(別に擁護しちゃいませんが)書きましたが、これだって部分から全体を語っているのは間違いありません。

なのでそういう問題を考えもしないで批判するというのは論外ですが、だからってずっと擁護の理念を掲げて、悪者探しをしていてもしょうがない。問題点を十分認識した上で、別の視点から見つめ直すという作業が必要だと思います。そしてどのへんに着地点を置けば納得解になるのかを理念主導ではなくて、サブスタンスのある方向に持って行かないと話が前に進まない。

自分の足で立つという事は、結構しんどいものです。だからこそ連帯も必要になるし、自分の足で立ってこそ理念も初めて生きてくる。自分を勇気づける為には理念も必要になるでしょう。しかしそれは人を傷つける為のものではない。自分の足で立ち上がる為には理念という支えも必要でしょう。しかし立ち上がってからもいつまでもその支えに補助してもらっていては立っている意味も無い。まず立っていない輩が多過ぎるという問題があるのですが、理念を支えにして己の足で立ち、そしたら理念は心の中のどこかにひっそりと潜ませておけばいい。

そして連帯というのは放っておけば必ず腐敗する。組合野郎が典型ですが、手段の目的化が必ず起こる。だからその連帯を絶対化するのも理念を振り回すのと一緒です。必ず相対化を常にし続けるという行為態度が必要です。それにはこの絶望だらけでバラバラになってしまった今だからこそ、絶好のチャンスでもあるわけです。

ふうー、やっと区切りがついた。今日は一段と長くなっちゃってすんません。

次回でフィニッシュです。