今回はコメント返しなので、続きではありませんから、興味のない方はスルーでお願いします。続きは次回で。



いちいち引っかかりますね。マスコミでもあると書いてあるだけで、マスコミだとは書いていませんよ。

文脈を参照するどころか、書いてある事すら読んでいない。読んでもいないのに批判をする。そういう無自覚なファシズムが言論統制を生み出す。その事をいい加減自覚したらどうですか?

そういうのが話の内容も聞かず、言葉尻をとられる言論弾圧、言葉狩りにつながる事を自覚した方がいいですよ。それは非常に危険な方向性です。

貴方が何を思おうがそれは貴方の自由ですから、お好きなようにしてもらって構いませんが、せめて話くらい読んでから批判して下さい。

前にも言いましたが、何々と言った!!という批判は批判じゃないんですよ。聞いていないのですか?しかも言ってないし。いちいちこんな下らない話で突っかかるのは勘弁して下さい。もっとサブスタンスのある話をして下さい。それならいくらでも批判は受けます。

100歩譲って自分がマスメディアに全責任があると仮に言ったとして、何か問題がありますか?

貴方はマスメディアに責任が無いとでも言いたいのですか?一生懸命頑張っているから、もしくは現状を憂慮しているから許されるとでも言いたいのですか?

それとも責任はあるとしてもそこまで言うのはどうなんだという事でしょうか?もしそうなら完全にズレている。

ガキの部活じゃあるまいし、プロというのは、責任があるんですよ。それは甘いもんじゃない。結果だけが問われる。自分の料理を金払って食った客を満足させられないで、一生懸命私なりに頑張っているという言い訳が通じるとでも思っているのですか?そういう店、もしくは料理人は淘汰されるのが当たり前。

よくて当たり前、悪けりゃおまんま食い上げ、何か問題が起これば、自分の顧客でもない人からまで、責任を取れとクソミソに叩かれるのがプロなんですよ。

現にマスコミはそうやって叩いているではないですか。叩かれる会社に勤めている人間が、みんな不真面目で頑張っていないとでもお思いですか?

それだって一蓮托生で地獄に落とされるわけですよ。どれだけ多くの人々が、職を失い、絶望に追い込まれ、自殺まで追い込まれているか、推定有罪でメッタクソに叩き、世論を煽って地獄に送り込まれているか考えたらどうですか?

ちなみに自分が以前働いていた会社が不正経理によって摘発されて、あげく買収されちゃいました。自分はその半年くらい前にその会社を辞めています。そこの会社の社長とか会長とか経理担当者とかを見るにつけ、怪しいニオイがしたからで、コイツの下では嫌な予感がすると思って辞めました。これはインサイダーではないのか?と思えるような不正が見え隠れした。

その半年後、不正経理が摘発されて、いきなり上場廃止か?という所まで追い込まれてしまった。まあ実際には監理ポスト止まりでしたが、その時、そこで働いていた同僚達がどれだけ戦々恐々としていたか。

自分は辞める前に、これは危ない予感がするから、なるべく出来る事なら逃げた方がいいような気がするよとアドバイスはしておりましたが、自分も漠然とした予感だけだったので、同僚を説得出来ませんでした。

テレビや新聞ではその企業が悪魔のように言われるわけです。しかし実際悪魔だったのは責任者だけの話で、自分の同僚達は真面目に働いていた。もちろん察知して逃げればよかったのでしょうが、自分もたまたま運がよかったというだけだと思いますので、それは中々難しい。

テレビや新聞で悪魔呼ばわりされるわけですから、もちろん同僚達の風当たりは酷くなる。そしてあげく経理担当者が勝手にやった事という話で、経理担当者だけが罪に問われ、会長は辞任、彼は大株主でもあるので、それを別の企業に売却して逃げちゃった。

その会社はなんだかんだで会長権限が絶対的だったので、経理担当者が単独で行うなど考えられません。組織ぐるみで隠蔽し、逃げ切った野郎共が大勢いたわけです。

買収された先がそれほど理不尽ではない、というかそれが普通なんですが、真っ当な会社だったので、今から考えればかえってよかったような気がしますが、そのときは毎日のように泣き言を電話してくるわけです。お前が羨ましい。お前の言葉をちゃんと聞いていればと。

こういう理不尽は突然やってくる。マスコミの正義の刃は半端じゃありません。そしてそれに煽られて一緒に尻馬に乗る市民もいっぱいいる。不正経理という話なわけで、株主からすれば言語道断許すまじというのは確かなんですが、直接接する顧客に対する何らかのデメリットや裏切り行為をしていたわけではないと言ってもそんな事は関係ないわけです。悪い奴は悪いんだという大合唱が始まっちゃう。責任者は雲隠れ、責任者が勝手にやった事だなんて言えるわけありませんから、末端が叩かれるわけです。

それとは別に、以前取引のあった企業が顧客への裏切り行為がバレて一斉に大バッシングが始まった事もありました。そこに勤めている人の話によると、朝起きてテレビをつけたら、どっかで見た事があるなと思ったおっさんがニュースの会見で、謝罪をしている。あれ?と思ったら、俺の会社の社長じゃねえかとビックリぶったまげたと。

その人は事件が発覚するほんの少し前に結婚したばかりで新婚ホヤホヤでした。会うたびにのろけ話を聞かされて、幸せいっぱい夢いっぱいでした。

結婚する前からずっと面識があって、今度結婚するんですよとか、この間、先方の両親に会いに行って、いやあ緊張したのなんのって参りましたよとか、やっぱり結婚したら奥さんの手料理は最高です、コンビニ弁当食わなくてすむようになったから嬉しいとか、この間○○(同僚)が奥さんと一緒の所を見かけたといってましたよ、きれいだそうじゃないですかと、茶化すと、いやあそんな事は、まあきれいですとか言って、幸せエネルギーを発散させながら、いつもニコニコしている人でした。

それが結婚してから初めてのボーナスまで一か月を切り、安月給ですから、いつもは出来ませんが、ボーナスの時くらいはちょっと贅沢させていただきますなんて言っていた、ウキウキワクワクしている所に、いきなりの不正発覚、しかもそれは顧客に対してモロに裏切り行為をしているような事でした。

もちろんその知り合いはそんな事は全然知らない事だったわけなんですが、これがメディアから政治家から、一斉にバッシングが始まって、悪魔、鬼畜と罵られるような叩かれぶりです。こんな悪い奴は見た事ないみたいな。

ウキウキワクワクだった彼のボーナスはもちろんカット、そして給料一律カット、新婚ホヤホヤの天国から、奈落の底に真っ逆さまです。仕事に行けば一日中苦情処理、電話が鳴り止まない。とにかく謝罪、得意先を回ってひたすら謝罪。もうお前の所と付き合うのは止めると言われまくるわけです。こんな恥知らずな行いをして恥ずかしくないのかとか、徹底的にクソミソに叩かれる。

会社の先行きは真っ暗、自分の所に来た時には、顔がゲッソリ、絶望に満ち満ちた顔をしていました。とにかく元気づけて、まあ頑張って下さい。自分達はお付き合いを継続しますからと言ったら、目に涙を浮かべて何度も何度も頭を下げていました。

当然こちらはそこにつけ込んで安く買いたたくという悪魔のような思惑があったわけで、申し訳ないなと思いながらも、彼はこんな暖かい言葉をもらったのは久しぶりですと感動していました。その会社も今は元のように復活出来ましたが、その一年ぐらいの間は、もの凄い辛酸をなめる事になったわけです。

こういう出来事を想像してみて下さい。無責任に悪魔呼ばわりして地獄に落とされている所にも人がいるんです。もちろん不正をしている方が悪いわけですから、バッシングはしょうがない。

彼らは運が悪かったとしか言いようがありませんが、社会のルールを破るという事は、時に非情な仕打ちを受けるもんです。いくら知らなかった事とは言え、そういう会社に就職した人にも責任の一端はあるのだから諦めるしかない。

しかしそうであるからにはマスメディアはより厳しい目にさらされる事を覚悟してもらわなくちゃ困る。それだけの事をしているわけです。

こういう事を想像した事ありませんか?メディアへの言い方が酷い?冗談じゃありませんよ。彼らの動員によってどれだけ多くの人々がこういう目にあっているのか考えてみたらどうですか?メディアなんてそんじょそこらの不正企業なんておよびもつかないくらいの、談合、癒着、利権、インチキまみれじゃないですか。

前大戦だって政府の弱腰を非難し、国民を断固決然へと煽り、一番の戦犯はマスコミにある。どれだけ多くの人間が死んだと思っているのですか?

A級戦犯がどうたらこうたら、軍部がどうたらこうたら、原爆、沖縄の悲劇、天皇の戦争責任、毎年毎年バカメディアは繰り返しますが、そういう熱狂的な世論を作り出して後戻り不能の泥沼に突っ走ってしまったその先頭で旗を振っていたのが、当時のマスメディアに他ならないわけです。戦争翼賛報道を進んで行なっていたわけです。言論統制があったというのはウソですよ。

彼らはそれを積極的にやっていた。それに対する言及なんて一切しないくせに、何々が悪いとか言っているわけです。もちろん彼らだけが悪いとは言いませんよ。

しかし最も重い責任を担っている彼らが、自分達の責任をバックレて、戦争責任について何かを批判するなど、下らないわけです。あげく憲法9条とか言っている。戦前は外国からの圧力に煮え切らない政府を弱腰と批判し、国民を玉砕と煽り立てた張本人が何を言うかって話です。

そんな昔の話をしなくたって、今現時点でも毎日悲劇が繰り返されている、地獄に蹴落としておいて、悪気は無いでは済まないのですよ。現状を憂いているじゃすまないんです。地獄に突き落とされた人のみにもなって下さい。なぜその事をみようとしないのですか?

貴方はみたい現実だけをみようとしている。もしくは人に与えられた現実をみて自分でみている気になっているだけです。その目は節穴ですか?自分の目で見たらどうです?

メディアの機能不全によって我々の社会は相当どうにもならない地点まで追い込まれている。その事が見えないのですか?

貴方がみたい現実だけをみていたいのは、そりゃ勝手にやればいいでしょう。しかしそれを振りかざすのはよくないですよ。

貴方のような無自覚な無関心が、そういう悲劇に加担しているのです。殺しに加担している。その事を少しは自覚したらどうですか?自分は間接的に地獄に送り込んでいる事を自覚しているから、こんなしち面倒くさい長ったらしい話を言っているんですよ。

筑紫などメディア中で言えばA級戦犯と言える。あのカスが何年あの座に君臨して人々を地獄に送り込んだと思っているんですか?とっとと相対化してからものを言った方がいい。相対化出来ない発想が神を生み出し、人を傷つける拠り所となるのです。

別に仕事なんだからそれはそれでいいですよ。しかしそうであるからには彼らはそれなりの批判にさらされる事を覚悟してもらわなくちゃ困る。それを、どこにも配分されてない?この国は癌に冒されている?ふざけんなって話ですよ。お前らがそれを言うなって事です。責任をその前に果たせば済む話です。

だいたい貴方は田原は認めないと言っているではないですか。彼だって頑張っているかもしれませんよ?現状を憂慮しているかもしれませんよ?メディアは現状を憂慮すれば許されて、田原が現状を憂慮していてもそれはウソだから許されないとでもいうのでしょうか?

メディアには何もそこまで言わなくてもと思いながら、田原は許せないその違いはなんなんですか?

自民党批判や官僚批判だってされてるじゃないですか?田原が自民党を擁護したと叩いていませんでしたっけ。彼らの中にも現状を憂慮している人はいるはずですよ、だから彼らは悪くないとでも言うつもりですか?

自分の言っている事がわかって発言してますか?貴方は単に自分の好みを振り回しているだけじゃないですか。その独善性に気付いたらどうですか?それを醜いパターナリズムというのです。嫌いだと言っていたじゃないですか。

どっかの一企業が自分の生活とは関係のない次元で、何らかの過ちを犯したという話であれば、自分もそこまでは言いませんよ。基本的には擁護する方かもしれません。その人達にもそれなりに事情はあるのでしょう。

そして企業同士が競争したその果てに失業する人が出たり、最悪自殺する人が出てしまったりする事は、手を差し伸べるべき事だとは思いますし、自殺するまで行ってしまえば問題に決まっていますが、公正な競争であれば、勝ち負けがある程度ついてしまうのは避けられません。

自分の会社を繁盛させるという事は、他の会社が割を食う事になりますから、そこの人達は困るでしょう。もちろん逆であれば自分が痛い目に合う。だからそういう痛みが常に我々の社会には付きまとう。

マスコミでなくとも我々はそうやって傷つけ合いながら社会を営んでいる。この罪は例え公正な競争の上であっても逃れられない、人間の殆ど全てがもっていると思います。だからその事では自分も人の事を責めるつもりはありません。自分も有罪だと思いますから。

しかしマスコミは公正な競争を免除されて、国家によって独占を許されている企業です。それにマスコミの機能不全は国民全体の問題に直結します。我々が物価で負担し、公正な競争を免除されて、先進国水準、もしくはまともな民主主義のレベルでは考えられないような犯罪に近い特権を認められているから彼らは彼らでいられる。それは何の為でしょう?

下らない企業の不正などを叩く為ですか?犯罪者を叩く事ですか?そんなのは放置しておいたって国家権力が取り締まるわけですよ。もちろん国民にとって必要な所もありますから、悪者退治は悪者退治でやってくれて構わない。しかしもっと叩くべき対象があるではないですか。肝腎要の国家権力への監視が出来もしない役立たず共の何が擁護出来るというのでしょうか?そこにこそ彼らの存在意義があるのに全然チェック出来ていないではないですか。

それを下らないコンプライスばかりを喚き散らして、コンプライアンス不況に叩き込んでいるにもかかわらず、肝腎の自分達はコンプライアンスのコの字もないようなズブズブの癒着まみれ。

今はどこの企業も業界も激烈な競争にさらされている。マスメディアのようなヌルい環境じゃないわけです。

同じニュースソースにあれだけ多くの談合記者どもがぶら下がって、それでも飯が食える。一つのテレビ局から、三台も四台もカメラが集まる。しかも見事に横一列の官報、普通に競争にさらされている外国のメディアでは、それでは絶対に飯は食えない。

こういう思考停止で食って行ける構造に温々と居座っているから、マスコミの調査報道の質も上がるわけがないし、国民にも啓蒙出来ない。しかもテレビ局などは上場までしているのですよ。上場しながら市場に拘束されないような特権まで認められている。

彼らはそれだけの特権と、責務を持っている。しかもそれは誰も望んでいるわけでも何でも無い。選ばれているわけじゃないにもかかわらずです。

公正な社会になってほしいと思っているのなら、責任をキチンと果たすか、それが出来ないのなら、さっさと権益を手放して公正な社会を目指せばいいんですよ。記者クラブを解放するたったそれだけでも、報道の質は全く違ってくる可能性がある。

いくら罪悪感なんて持ったって、そんなのエクスキューズになるわけないじゃないですか。彼らの罪は我々全ての人間が持っている罪とは質が全然違う。統治権力者達に匹敵するくらいの責務を担っているわけです。

現に毎日毎日地獄に叩き落とされている人々が大勢いる。恣意的なスクリーニングによって無視されている現実がある。どうでもいいような当たり障りのないクソ報道ばかりです。マスメディアの暴走を黙ってみていればいいとでも言う気ですか?別に関係ないと思うのは貴方の自由ですからそれは結構です。が、関係ないとは思えない自由も尊重して下さい。

一般人なら虚しさを埋める為に発言するのもいい。実存のホメオスタシスとして必要であれば、それは勝手にやればいい。

しかしマスメディアがそれじゃ困る。全てダメだと言われて発言するのが虚しくなるなら発言なんかするなって事です。辞めりゃいいんですよ、別に誰もなってくれとは頼んじゃいない。勝手に成りたくて成っているわけですよ。しかも多くの人間がコネで。そういう立場の人間が虚しさを埋める為に発言するなど百害あって一利無し。そういう脆弱な精神が現実に向き合えない帰結を生み出す。

理想も真実も全て立ち位置、正論は無力、この世は欺瞞だらけ、しかしそれでも尚というコミットメントだけがサブスタンシャルになり得る。メディアの人間であるにもかかわらず、自分の信念にすがって現実に向き合えないヘタレ野郎はとっとと消えろって事です。

別にマスメディアでなくともプロであれば最低それくらいの心構えはあるのが普通じゃないでしょうか?料理人であれば、客を喜ばすのが仕事です。どんなにそのプロセスに気を使おうが時間をかけようが、高い材料を使おうが、客が喜んでこそ、初めてものが言える。プロなんだから結果が全てなんですよ。

自分は例えばメディアにしろ、芸能人にしろ、仕事以外のスキャンダリズムとかで、基本的に文句は言いませんよ。むしろそういうときは世論が一斉にバッシングしていても擁護します。

そして不人気であっても。プロとしての責務を全うしようとしていれば、自分と考え方が逆だろうが、例え政治家だろうが官僚だろうが、犯罪者と烙印を押されていようが擁護していますよ。

もちろん責務を全うしようと努力を重ねて結果が出なかったとしてもそのコミットメントがサブスタンシャルであろうとしているのなら擁護する場合もあるでしょう。

マスメディアは国家の監視とか、国民の啓蒙とか、民主主義をまともにドライブさせる為のツールとか、料理人なんかとは比べ物にならないくらいの責務があるはずです。でもそういうプロフェッショナルがいないじゃないですか。

責務なんてこれっぽっちも全うしようなんて考えちゃいない。国家に権益を認めてもらっている事によって、大事な所を握られている。まずそれを手放さなきゃ国家の監視なんて出来っこない。

逆に言えば政権交代とか、構造改革とか、そんな事よりも、メディアがメディアとしての機能を果たせるようになれば、一撃で今の閉塞状況を打開出来ると言ってもいい。全て彼らが全く機能していない所から、現在の腐った連鎖は始まっている。それくらい彼らには威力がある。民主主義の最大の武器なわけです。だから当然彼らが無能であれば国家全てが一蓮托生で機能しなくなる。それくらい彼らには影響力が本来あるわけです。

彼らの牽制がキチンと担保出来れば政治家も変わらざるを得ないし、官僚も絶対に変わらざるを得ない。もちろん国民も変わるでしょう。教育だって、司法制度だって、メディアがまともに機能するだけで、劇的に変わる。それくらいの重責を担っている。

だから彼らの批判は絶対に止めません。もっとクソミソに叩きますよ。前回のエントリーの話なんて、ほんの序の口、0,001%ぐらいの話でしかない。あんなもんで言い過ぎだなんて言われちゃたまらない。滅茶苦茶セーブしてものを言っている。あれくらいで言い過ぎだなんて、貴方は一体何をみてるんですか?

口で批判するくらいじゃ痛くも痒くもないじゃないですか。実際彼らが無能であるおかげでどれだけ多くの人々が苦境に立たされているのか、目を開いてみたらどうですか?それとも貴方はメディア関係者ですか?

メディア関係者であるのなら、エクスキューズなどよりもコミットメントを願います。それは例えばこれだけネットが発達しているわけですから、匿名でリークを流すだけでももの凄い破壊力になるはずです。尊敬され、メディアの人達はやっぱり立派だなと思われるような気骨を見せろと言いたいわけです。一応相当疑問ですがバカじゃなれない事になっているわけですから。

自分は流動化は必要だと思いますが、今のテレビや新聞がその役割を果たせるようになるのなら特権を持っていようが高収入を得ていようが、何の文句もありません。

しかし今のままでは認めるわけには行かない。民意や政治家なんかに媚びないで、本当の真剣のジャーナリズム魂を見せれば、それだけで今のクソ報道なんて一発で駆逐出来る。

あっという間に需要も増えるでしょう。そういう方が面白い。バラエティはバラエティに任せて、ジャーナリズムはジャーナリズムとしてみせてほしいと思うわけです。メディアの広告収入が激減していると騒いでますが、一番の近道は、マスメディアとして責務を果たす所なんじゃないかと思うわけです。

それでも擁護をしたいのなら擁護をするのは自由ですから、批判するなりなんなりお好きなようにしていただいて構いませんが、これらの論点をすっ飛ばして頑張っているとか、現実を憂いているとか、そういうのは勘弁して下さい。

現実を憂うだけなら誰でも出来るし、言うだけはただです。そんなの何のサブスタンスもない。プロはプロらしく行動と結果で示さなければ意味がありません。

真面目に答えているこっちの身にもなって下さい。それほどヒマじゃないので。理解していただける事を願います。
前回の続きです。

筑紫さんの追悼番組で、彼の遺言じゃありませんが最後の多事争論といいますか、彼のコメントで、この国は癌に冒されている。これを取り除くのは中々難しいというような事を言っていました。彼の病名を考えると、最後まで自分をも客観視して自分が感じた事と社会を結びつけてその困難さを語っていました。全くその通りです。

そしてその話は続きます。民主制の国家というのは、配分をめぐっての調整と言うか若者と老人とかが奪い合うという言い方は適切ではないかもしれませんが、そんなような事を言っていました(本来民主制とは配分をめぐっての鍔迫り合いにどうしても陥ってしまうという背理を抱えた制度です。だから配分をめぐっての合意に対する異議申し立てが民主主義の本義です。言葉が少ないので単純化して言っているのだろうと思うのですが、こういう説明が決められた枠内では出来ず、「奪い合い」というような言葉に引っかかってしまう人がどうしても出て来てしまう。こういう事一つをとってもテレビで決められた時間の範囲で発言するという事の困難さがわかります。勘違いや誤解を与えやすい)。

その後も話は続きます。しかしそれが若者にも老人にも配分されていない。どこにも行ってない、これが問題なんだと。

まさしくその通り。つまり民主制ではないわけです。


そしてそれは特定の所に回っているわけです。所謂既得権益という事です。公正な競争を免除され、制度によって保護され、機会の均等なんてどこにも無い。そしてその構造の上に君臨するのが、当の筑紫氏の属する大手メディアであるわけです。再販価格制度、クロスオーナーシップ、記者クラブ制度による独占、電波を独占し、広告収入を独占し、5系列16社そしてNHKによって市場を歪めている。権力の監視など全く形骸化し、メディアの報道の8割は事実上官報と化している。

国家の監視、これはよく民主主義の重要な要素として言われる言葉です。筑紫さんも国家の監視が重要なんだと言ってました。それはその通り。

だけど、我々が監視するという意味合いと、メディアが監視するという意味合いは全然違うはずです。ただ見ているだけなら誰にでも出来るし、別に独占してなくても出来る。それだけ膨大なリソースがありながら、ただ問題点を恣意的に列挙し、見ているだけでは、事実上メディアの権力への牽制にはならない。

昔働いていた所で、若いあんちゃんに、おう!ちっとこれ見ててくれ!と言って、焼き物を託して自分が別の仕事をしていました所、何やらこげたニオイが漂ってくるわけです。まさか!と思い、さっきのあんちゃんの所に行くと、自分が託した焼き物は炭と化していました。

バカタレ何やってんだ!!と怒りますと、凄くまっすぐな目で「見てました」と言うではないですか。そりゃ見ててくれと言ったけれど、本当に焦げるまで見てる奴があるか!!と怒鳴りつけたくなる所をぐっと堪えて、お前なあ見ててくれというのは、任せたぞという意味で、ただ見てたら焦げちまうだろう、とまあ教えるわけなんですが、よくよく考えてみますと、自分が若い頃、先輩に、三日坊主!白菜持って来てくれや!ハイわかりました、速攻で!!と言って、白菜を持って行くと、先輩は大爆笑。お前なあ、これはキャベツだよと。

そうです。その時の自分は白菜とキャベツを分節する事が出来なかった。自分の中では同じものだったわけです。自分が焼き物を見といてくれと頼んだあんちゃんは、見ておくという事が=塩梅を見るという事ではなかった。見ていろと命令されたから、律儀に焦げるまで一生懸命見ていたわけです。それがそういうものだとわかっている人間からすれば、お前アホかって話ですが、わからない人にはわからないのだからどうにもならない。

さて、そこで仮に、自分が焼き物を監視するとして、焦げるまで監視しているとしたら、それは自分にとって見ているという事になるのでしょうか?当然見ているという事と塩梅を見るという事の違いがわかっている人間がそれをやれば、わざとやっているかサボタージュしているかのどちらかです。

若いあんちゃんが、白菜とキャベツの区別もつけずに、材料として一緒くたに使っているのを見て、ああアイツらは、白菜とキャベツを一緒くたにしているなと監視する事が、自分にとって見ている事と言えるでしょうか?

そして仮に自分がそういう監視の仕方しかしていないにも関わらず、監視が大切だと言って、なるほどと思う人がいるでしょうか?

お前監視になってないじゃないかと言われて、いや私は私なりに監視をしていた、私にもいろいろ理由があるのだと言ったとして、本当に理由があるかどうかははたからすればわからないわけで、理由があったって結果がこれじゃ言い訳にならねえよと言われないでしょうか?

話を戻しますよ、国民が監視するといっても、何を持って監視するかもわからない人もいるわけで、ただ見ているとか、ただ選挙に行くとか、いろいろその人にとっての監視の質が違うわけです。ガヴァナンスといっても何がガヴァナンスなのかがわからなければ、それはサブスタンシャルにはなりえない。

しかし監視とはどういう事であるのかを知っている人間が、そういう人達と同レベルの監視しか出来ないとすれば、それはサボタージュしているかわざとやっているかどちらかしかありません。

監視をしなければならないというのはいいですよ。いくらでも。しかし肝腎の監視をするにしても、メディアが情報をスクリーニングしている状況で、何を監視すればいいのかあらかじめ決められた状況で、国民の無関心が国家の暴走を招いていると言われても、困ってしまいます。

その国民を啓蒙する為に存在するのが、ポール・ラザースフェルト的に言えばミドルマンの存在という事になります。知識人とか専門家が難しい事を考えて、難しい事を実践しようとしている。しかしそれが何を意味するのか我々一般人には皆目見当もつかない。知識人とか専門家の説明では、それが日本語なのか、はたして何を説明しているのかもわからない。そういう人達は頭の構造が違うので、噛み砕いて説明出来ない。

ようするに昔よくあった「パソコンの説明書がわかりづらい問題」です。パソコンの説明書を作っている人は、パソコンの使い方を熟知している人であって、熟知していない人のわからなさは忘れてしまっている。

だから丁寧に書いているつもりになっていても、素人にはそもそもそれが何を意味するのかもわからないわけだから、サッパリ意味不明。段々飽きて来てもういいやとなってしまう。挙げ句の果てに、パソコンも単なる部屋のオブジェと化し、ホコリをかぶって宝の持ち腐れというパターンです。さすがに最近ではそういう事は無くなっていますが、今から10年くらい前までは、結構有り得る話だったわけです。

そうすると、パソコンに詳しい友達とか、彼氏とか、知り合いとかを呼んでネットに接続してもらったり、アプリケーションをセットアップしてもらったり、使い方を教えてもらって、初めてああなるほどそういう事かと合点が行く。

政治や経済の話でも、全然意味がわからない、何がなんだかサッパリわからないから、自分に関係ない事だと思い込み、無関心になってしまう。しかし職場の上司とか、親とか、学校の先生とかが、これはこういう意味なんですよと噛み砕いて、日常的な比喩を用いて解説してくれれば、ああそっか、僕たちの生活に密接な繋がりがあるんですねと納得する。

これをポール・ラザースフェルトのいう「コミュニケーションの二段の流れ仮説」と言います。

この所謂ミドルマンの役割を一手に握って独占しているのがマスメディアという事になります。その動員力と伝播力は個人が個人に教えてあげるなんて言うショボイ啓蒙とは次元が違う。

それに個人が啓蒙すると言ったって、所詮ちょっと人生経験があるとか頭がいいとかのレベルでしかないわけで、そういうリソースを膨大に抱えていて、それそのものが仕事である大手メディアに比べれば、仕事で忙しい個人の力など微々たるものです。

もちろん学校教育というのもその役割を担っていますが、ここはその前の共通前提を教えるような所がありますし、学校の授業なんて子供からすれば子守唄と似たようなもんですから、まず一人前の共通前提を教えるのに精一杯かもしれません。

ミドルマンがミドルマンとしてコミュニケーションの二段の流れ仮説を実行してくれれば、何の問題も無いわけですが、これが完璧に100%機能不全を起こしてしまっている。もちろん社会の変化による所も大きいのですが、立ち位置系でしかないという諦めだけを埋め込んでしまう事に、かなり重要な役目を果たしてしまっている。だから理念や正論もどんどん無力になってしまっている。

そもそもこの国の現状のマスメディアは国家のケツを舐めるような構造を、国家によって担保して貰っている。したがって市民性の成熟も、国家を監視するような国民的な連帯も目指しちゃいない。分断をする事を半ば目的として機能している所がある。

何かを批判したり、問題点を指摘したりしていても、そう言ったものを解決しようなんてハナっから考えちゃいない。なぜならその不安や争点こそが、彼らにとっての利権であるわけです。問題を起こした人を叩いても、反省を望むような偽善者面はしても、別にそんな事は望んじゃいない。どちらかと言えば、もっとそう言う不祥事をむしろ望んでいる。だから田原は分断化する為に非常に効果的に機能して来たし、筑紫氏だってカビの生えた思想信条を掲げ、分断に加担して来た。

そもそもメディアとは問題点を解決するというよりも、その問題点を明らかにするという事の方に重点があるのは間違いないわけで、そういう意味では田原的手法もしょうがない部分はあるし、不安や争点にスポットを当てるのは仕事ですからそれはしょうがない。

しかし今のメディアはそれを明らかにして公正な社会になってほしいとは思ってもいないでしょう。公正な社会と言ったらメディア自身を解体しなきゃならなくなる。自浄能力なんてあるわけが無い。談合利権集団であるわけです。

それに明らかにすると言ったって、その恣意性やバイアスは酷いなんてもんじゃない。特定の大手広告主にとって不利益な問題はしらばっくれている。どうでもいいような食品偽装みたいな下らない話で弱っちい会社は完膚なきまでに叩いても、自らの権益に傷がつくような話には絶対にしらばっくれている。逆に自分達の権益が脅かされそうになると、公共の電波や新聞の紙面を使って、なんとしても権益護持のキャンペーンを繰り広げる。タレントや御用学者もそこに乗っかる。

もはやそういう事が可視化されつくしている状況で、信念とか理念みたいな事を掲げても、結局立ち位置系にしか見えなくなってしまっている。だからもうそう言うやり方では無理がある。例え掲げる信念とか理念がどんなに正しくて崇高であって、そこにどんなに誠実であったとしてもです。

簡単に梯子を外されてしまう。アイツは終わったと言われてしまうわけです。だから相対化する必要がある。他人の見ている現実は結局他人には理解が出来ない。いろんな立ち位置から問題の輪郭を提示する必要がある。そしてそれらを繋ぐ接点。どうせ立ち位置系なんだから、ご大層なお題目は捨てて。

メディアには期待するだけ無駄なので、残された方法はそういう分断化を逆手に取って変わるしかない所まで追い込まれている。そういうどうにもならない絶望的な状況を、むしろ望んで積極的に構築して来たのがマスメディアそのものであるわけです。

年金問題で厚労省叩きをしてますが、あんなのはポーズだけ、ガス抜きでしかありません。肝腎要の問題点はしらばっくれている。

そもそも日本人のリテラシー能力が芽生えない原因は、旧内務省系の国策として仕組まれたものでもあります。英語教育が役に立たない理由もそこにある。教育と、マスメディアが牛耳る啓蒙とを、言わば国家に握られてしまっている状態でもある。これがどうにもならない。子供の頃から教育され、テレビで啓蒙されて育ち上がれば、リテラシー能力の無い愚民のいっちょ上がりです。そして厄介な事に、そういう人達も平等に選挙権を持ってしまう。

例えば役人の地方の出先機関の統廃合なんて言う話が出てくる。どうせ骨抜きになるのがオチなんでしょうが、そういう力学がある。そして一方テレビや新聞ではやたらと大麻の問題なんかが騒がれる。どうも臭いなと思ったら、厚労省管轄の麻取りが、250人くらいしかいない、今の日本の現状では足らないのではないか、みたいな話が出てくる。

麻取りが行なっている事を、各都道府県の警察本部には、銃器薬物対策課というのがありますから、そこと統合してしまおうという統廃合の流れにあらかじめ楔を打ち込んでいるわけです。大麻の検挙数が増えているのは間違いありませんが、大麻を利用している人口自体が増えているのかどうかはわかりようが無い。検挙するから増えるわけで、必要だというアピールをしているように見えない事も無い。

麻取りにしろ警察にしろ、麻薬撲滅の為に存在するわけではありません。彼らはそれを取り締まるのが仕事です。だから本当に撲滅なんかされちゃったら仕事も無くなってしまう。この関係は相互補完関係にあると言ってもいい。だから世界から麻薬が無くならないという見方だってあながち的外れじゃないかもしれない。アフガンをメッタクソに攻撃した結果、現在世界中のアヘンの9割を同地域が生産している。

日本で大麻が禁止である理由はよくわかりませんが、その一つとしては間違いなく、ようするに酒と煙草と役人の既得権護持も含まれている。大麻なんてそのへんに自生しているわけですから、これを自由化しちゃえば麻取りの仕事も減るし、既得権が無くなってしまう。政治献金も減るでしょう。世界を見ると比較的大麻に関しては寛容な政策を取っている国もある。

大麻を吸うと、それが入口になって覚醒剤とかに進んでしまうという話がありますが、これは大麻がイリーガルであるから、売人と繋がりが出来、その事が次のステップを招いていると言う話なだけで、大麻が合法化されれば、逆に覚醒剤の需要は減るかもしれない。酒や煙草をやっている人間が、覚醒剤に進んでいるかと言えば、そんな事は無いわけです。しかしそんな事になってもらっちゃ困る連中がいるわけです。

大麻を取り締まる事や違法である事は自分にはどうでもいい話ですし、酒も煙草もやらないので、興味も無いのですが、マスメディアが正義を主張して急に騒ぎ出す理由の裏側には必ずこういった、権力に媚び、広告主に媚び、民意を煽り、不安を増大させ、権益拡大もしくは権益護持に利用する力学がある。

こういった相互補完関係の困った図式は至る所に存在します。公安調査庁の元長官が実は取り締まるべき対象である朝鮮総連の存続に肩入れしていたなんて話が、だいぶ前にありましたが、そういう関係性が出来やすいという事にも敏感になる必要があるでしょう。

もちろん医者がいるから病人が生まれる的な、本末転倒話がしたいわけではありませんが、かつてオウム事件の際、明らかに警察や公安は内偵を進めていた。坂本弁護士殺害事件の時点で、相当オウムの関与を事実上掴んでいた。にもかかわらず、泳がせていたようにも見える。オウムが事件を起こした裏側には、それを起こさせるような力学も見えるわけです。事前に掴んでいたわけだから、やろうと思えば止める事も出来たかもしれない。しかし麻原は頭がおかしくなっちゃったと言うし、そういう問題点は一切スルーして、死刑への流れが進んでしまう。国民もあんな悪党とっととぶち殺せと、問題点を闇に葬る事にむしろ加担している。それはメディアがそういう風に煽るからでもある。

あの事件の前、公安調査庁というのは廃止の方向で話が進んでいた。しかしあの事件以後、公安調査庁の役割が見直されて、莫大な権力を握りアンタッチャブルな存在として不動の地位と絶対的な力を手に入れるわけです。結果だけを見ると、誰が得をしているのか?

テロの脅威を国民はトラウマのように埋め込まれて、重罰化、監視社会化の方向性へと大きく舵を切り替える事が比較的簡単に出来るようになる。不安産業花盛りです。天下り先も困る事は無いでしょう。先日の厚労省元次官の事件の時も、翌日の何もわかっていない段階で、読売新聞などは一面トップで、「テロ」と決めつけてすり込みを行なおうとした。

この事件の顛末も、何となく腑に落ちない話になっちゃっていますが、これが本当かどうかはわかりません。これだけはわかっている。そして結果だけを見れば、統治権力の権限増進の力学に絡めとられてしまっている。

例えばあの容疑者は自首しているわけですから、死刑に出来ないかもしれないとかニュース番組でほざいているバカがいますが、これは明らかに司法の重罰化要請を呼び起こすような力学になっています。そこに何の問題があるのか?死刑に出来ないとか言ってますが、無理矢理死刑にしろとでも言いたいのでしょうか?現行の法のままでは死刑に出来ないから不適切だとでも言いたいのでしょうか?ほくそ笑んでいるのは誰でしょう?

警察の捜査の限界を喚く力学もあります。早い話が現在の警察力では対応出来なくなっている。もっと警察に予算と権限をというエビデンスにしようとしています。

それから官僚に対するバッシングを和らげる力学も間違いなくある。トヨタの会長の恫喝が、結果的にその通りになろうとしている。

こういった痛ましい事件であって、それを騒いでいる連中も情緒的な物言いで、元事務次官の死を悲しむような言い方や、許すまじという話、断固対処という言い方、民主主義の敵とまで言っています。そのくせキッチリ圏域拡大の力学として利用している。

彼の動機があれこれ言われていますが、本当に彼が言ったかどうかは誰にもわからない。それをリークする警察関係者は明らかに守秘義務違反をしている。他の国であれば直ちにブタ箱行き、もしくはクビです。そしてそうでなければメディアが捏造しているわけです。絶対に言える事は、容疑者は捕まっているので直接彼の話であるかどうかは確認出来ない。容疑者がこう言っているといくらでも言えるわけで、その事によっていくらでも権益拡張が出来る。

光市事件の際、あの加害者の男がドラえもん発言なんかで叩かれて、弁護士も馬鹿扱いを受けましたが、彼が子供の頃からおびただしい父親からの暴力による外傷と精神的に叩きのめされた事によって、彼の精神年齢が4、5歳並であるという鑑定結果は殆ど報じられない。それに加えて、そのおびただしい暴力に耐えられなくなった母親が、彼が12の時に首をつって自殺している。それを一番先に見つけたのが当時子供であった彼で、その時点で知能の発達も止まっているという事も報じられない。

ドラえもんの発言ばかりにスポットが当たるが、何でそういう事を言うのかという所には目がいかないというか、恣意的なスクリーニングをかけている。統治権力と結託し、国民の不安を煽って権益拡大の構造に思いっきり乗っかっている。

あの加害者は警察の取り調べの際、生きて罪を償えと言われているという主張も出て来ない。その上で自白調書にサインをしている。自白をひっくり返したという話は出て来ますが、何で彼が自白調書にサインをしたかという話は出て来ない。ようするに本当の話ではないが、この自白調書を認めれば、死刑にならずに済むからサインをしろと言う事で、手打ちとして受け入れた可能性がある。実際一審では無期懲役になる。

ここまではまあよかった。しかし被害者遺族である旦那さんが吹き上がって、ふざけるなだったら俺がぶち殺すと怒りを表明する。見ている国民も被害者遺族である彼の怒りはもっともだと思い、同調する。メディアも一斉に検察何やっているというバッシングが始まる。弁護士を同じ弁護士である橋下なんかが世論を煽ってクソミソに叩き、検察も俗情に媚び何が何でも死刑にするという方向性に舵を切り替える。

加害者は事件の時、勤めている所の制服を着て、胸に名札をつけているにもかかわらず、水道工事を装って入っている。ポケットにはカッターナイフも入っていた。しかしそれは使っていない。子供を頭上から地面に叩き付けたという自白をさせられるわけですが、証拠の中にそれを立証するような外傷が無い。

明らかに検察の証拠には矛盾点がある。裁判は検察の証拠を吟味する場です。そこに僅かでも疑いが残れば無罪、これが近代裁判の鉄則です。その事だけを問う場でもある。

証拠は怪しい、デュープロセスも問題が多くある。こういう事を一切合切スルーしてとっとと葬ってしまうというのは明らかに問題がある。

結果的に見ると少年犯罪への断固対処、凶悪犯罪への断固対処という方向性に流れている。冷静に問題点を吟味する事も出来なくなってしまった。別に犯罪が増えてるわけでも凶悪化しているわけでもないのに、統治権力の権益増進の力学に絡めとられてしまっている。

先日渋谷で麻生総理の自宅を見に行こうとしていた若者を、警察が公妨逮捕を行なった時の映像がYoutubeなんかで話題になりました。当ブログでも紹介しましたが、私服の警察官がいきなり抱きつく、それを振り払ったら公務執行妨害で逮捕となるわけです。ちょっと触っただけとか、そういうレベルであるにもかかわらず、公務執行妨害だと多くの警察官に強引に取り押さえられる。こういう事を、マスメディアは事実上ノーチェックで権力の言う事をそのまま報じている。無届けで渋谷でデモを行なった若者が暴れて警察に取り押さえられたという話になっちゃう。

そもそも無届けでもないし、麻生の自宅に行ってもいいと警察が認めていると、デモを行なった人達は主張しているわけです。そういう主張が出て来ない。不届きものが警察に逮捕されたという話になってしまう。調査報道の力量が無いのか、わざと権力の犬として報じているのか知りませんが、いずれにせよマスメディアの機能は全く果たしていない。中国や北朝鮮のマスメディアと大差ないわけです。

ミラーマン事、植草教授の話を前回だか前々回だかに書きましたが、痴漢にあった被害者像というのが全然出て来ません。話によると婦人警察官であったという話もある。渋谷での公妨逮捕なんかから連想して考えれば簡単な話ですが、痴漢をされたというよりも、痴漢にさせた、仕立て上げた可能性だって排除出来ない。抱きついて振り払ったら痴漢だと叫べばいっちょ上がりです。

ネットの匿名性や炎上、掲示板によるイジメの問題なんかが、マスメディアによって騒がれる。何の事は無い。マスメディアがメディアスクラムによって散々無責任なリークを流し、関係者の話では何々である事が明らかになった的な言い回しで、そういった事実が嘘であっても、そういう話を聞いたのは本当だと逃げ道を残しながら取材源の秘匿によって責任を回避する。事実上やりたい放題の有罪推定でメッタクソに叩きのめして地獄に突き落として来た事を、そのまんまネット環境を手に入れた人達が真似しているだけの話で、何を驚いているのか理解出来ません。

こう言った話を書き出すとキリが無いので止めますが、マスメディアだけではなくて、国家に対しても、政治家に対しても、企業に対しても、学校の教師、医者、隣人と、ことごとく信頼の土台が破壊されつくしています。その先兵となって土台を木っ端微塵にぶち壊した原動力は間違いなくマスメディアにもある。前大戦でも戦争を翼賛し国民を煽り、政治家を追い詰めて行き、後戻り不能の状況を作り出したもっとも重い戦犯であるとも言える。やっている事は基本的に何も変わっていない。

つづく!!
前回の続きです。

筑紫さんの話に戻りますが、彼の番組なんかに例えば護憲派バリバリの論者が登場するとする。そうすると、筑紫さんもどちらかと言えばそういう方向性なので、お互いに護憲がいかに大切かなんて素人の床屋談義みたいな話を延々とする。

ハッキリ言えばそんな話を聞かせられても困るわけで、そういう場合は例えば筑紫さんが、自分は護憲派の意見の方がシンパシーを感じるけれど、それをいったんわきにおいて、護憲がいかに大切かなんて話をここで延々していてもしょうがないので、今日は改憲派を演じますと言って、護憲派のゲストにビシバシ改憲の必要性とか護憲の矛盾点とかを突っ込んでそういう問題があるという事を啓蒙する事が、本当の意味で言えばジャーナリズムではないかと思うわけです。

護憲派のゲストの時は一緒に9条最高と盛り上がって、改憲派のゲストの時は護憲派としてビシバシ質問するというのは、明らかに自分の思想信条をもろに投影してしまっている。それじゃジャーナリズムではないわけです。

護憲派に媚びてそっち方面の意見を引き出すのであれば、改憲派の時も同じスタンスでやらないと、みている方からすれば、この人は偏っているからなという見方は避けられません。むしろ自分の信じる事であればある程、余計に厳しく批判する必要が本当はあるわけです。それが無いと、彼の言説が気持ちいいと感じる人達の間での内輪ウケでしかなくなっちゃう。

アメリカのメディアなんかは大統領に支持の表明や、自分達が何々会社の子会社である事をキチンと言うと書きましたが、それは自分達が誰々の支持だから割り引いてみて下さいと表明するというのが眼目では実はありません。

あくまでも表向きはそうですが、誰々支持と言ったからには、何々会社の子会社であると言ったからには、キチンとそこに対する目線を甘くは出来なくなるという表明にもなるわけです。

仮にも大メディアであれば割り引いてみて下さい許してねじゃ済むわけないのは当たり前ですから、よりいっそう拠り所になるものへの厳しい批判をしなければならないという十字架を背負う事となる。それをしなければもう信用されなくなる。

だから日本の談合メディアにはそういう報じ方が出来ないわけです。だいたいこの国では報道に携わっている人間がコマーシャルにでて特定の企業の広告塔になったりしている国です。そういう奴がニュース番組なんかに出てくる事自体、考えられない状況です。

何々会社の子会社だから、この問題は批判出来ないんだよ、じゃなくて、何々会社の子会社であるからこそ、よりいっそうこの問題には突っ込まなきゃならないという足枷をはめる事となるわけです。単なるエクスキューズとして言うわけじゃありません。自ら足枷をはめる事によって、より公正であろうとする。バイアスがかかります許して下さいではなくて、退路を断って報道しようとするわけです。そうじゃなければ信頼だってされない。

こういう厳しい環境に立つ事なんて全くしていない談合メディアで、信念を持っていますと言うのと、自分達は公正中立ではない所詮一私企業でしかありませんと表明した上で、出来る限り誠実に報道しようとする姿勢と、どちらが信用出来るでしょうか?立ち位置系である事自体が問題なんじゃないわけです。立ち位置系ではないと装う事が問題であるわけで、例え立ち位置系でしかなくとも、どれだけコミットメントがあるかが本当は問われる。

自分が護憲派だと表明するのはいいと思う。それは誠実だと思います。そしてそれに基づいて最終的に持論を展開するのもいいと思う。しかしずっとそれを見せられても、それじゃ護憲に同意出来なけりゃ見なくていいと言っているのと変わりません。

それをいったんわきにおいて、その場ではその場の役割を演じてみせる事によって、啓蒙出来る問題点というのがあるはずです。それが必要な局面がある。

そうする事によって、例えば改憲派にとっては、憎き敵である護憲派に見える筑紫さんも、なんだ実は改憲の必要性とか護憲の矛盾点がわかっているのだなという事がわかる。その上で、それでも思想信条としては、意見としては護憲を望むという彼のその真意を聞いてみようかという話にもなる。

もちろんその逆もありえて、護憲派バリバリの彼があえて改憲派の役割を演じる事によって、自分達がよって立つ護憲のエビデンスの矛盾点にも気付く事が出来るし、改憲と言ってもなるほどそれなりに筋が通っている所もあるかもしれないと気付く事も出来る。

そういう気付きが生まれれば、護憲と改憲で分断されていてもしょうがない部分もあるのではないか?というアウフヘーベンに辿り着く事が出来る。

改憲派イコール戦争、軍国主義という単純な図式ではないわけで、多くの改憲派の人だって目指す方向性は恒久平和であるわけです。その為の方法論が少し違うという話でしかない。改憲派、断固決然、軍備増強、右翼と言った感じで、本当は全く別の論点なのに串刺し化されちゃう所が不毛なわけです。

コソボ紛争の際、ドイツの左翼は二分して、ドイツがNATOの一因として軍隊を出すべきかどうかでもめた。一方は我々は二度とナチスの悲劇を繰り返さない為に、一切戦争しないと決めたわけだから出すべきではないと言った。

それに対してハーバマスなんかを筆頭にしたリベラル派は、それは違うと言った。自分の隣国でナチスのような強権によって(これはPR会社の戦略に乗っちゃったわけですが)、無辜の民が傷ついている時に、それを見過ごす事こそナチ的というか、ナチに加担するような振る舞いじゃないかと、軍隊を出せと言って、軍隊を出したわけです。

今から振り返ると、NATOに出した事が必ずしもよかったとは言えませんが、こういう議論が左派の中で起こる。そしてこれは日本ではあまり話題にもならなかった。ストイコビッチがJリーグでゴールを決めた際にNATOへのメッセージを書いたTシャツで爆撃に抗議した事が話題になったくらいでした。

こういう議論がリベラル派の中で出てくる可能性を全く感じない。本当は右でも左でもいろんな人がいるわけで、いろんな議論があってしかるべきなのに、そのそれぞれの蛸壺内で気持ちのいい言説を吐いていないと、そこからはじかれてしまう。いったん建て前はわきにおいて合意出来る所を模索して行くという方向性に中々進まない。

自分は改憲の方にシンパシーを感じますがその理由は一点です。立憲主義をキッチリ機能させる為には、現状の憲法ではもう難しいのではないか?という所です。だから戦争したくてそんな事を言っているわけではありません。現行の憲法を守れないから憲法を現実に即した形で変えるのは本末転倒だという反論があるかもしれません。それは全くその通り。本末転倒である事も自覚しております。

しかし現状の統治権力の憲法を無視したやり口というのは実際今の憲法を守っていても平気の平左で行なわれている。これがどうにもならない。歯止めがどこにも無い。これをどうにかしなきゃ民主主義もクソもありません。下の下です。

ただ変えるだけではもちろん同じでしょう。だから我々が憲法に何を意志するのかという合意をリコンファームする為の手段として、現状維持ではどうにもならないと感じているから言っているだけの話です。

もちろん戦争をしたいから改憲したいわけではありませんし、むしろ戦争なんて何が何でも回避する為に、統治権力をキッチリ憲法によってガチガチに縛り付ける為に言っているわけです。

縛りが弱いと感じれば、更に改憲する必要もあるでしょうし、強過ぎて非効率であれば弱める為にも改憲が必要です。だから改憲が必要だという話なわけで、我々の意志を国家に反映させる為の手段として、憲法を利用したいと思っているわけです。

この憲法によって国を縛るという発想は護憲派であってもというか、立憲主義の国に住んでいる人であれば、独裁制にしたいとか、共産主義にしたいとか、封建制にしたいとか考えている人は別かもしれませんが、大多数は同意出来る所ではないかと思うわけです。だから方法論が少し違うという話でしかない。

ですから自分は何らかの方法によって立憲主義を機能させる事が出来るのなら、護憲であろう改憲であろうが構わないとさえ思っています。ただ自分には改憲の方が可能性があり、これからの事を考えても改憲出来る体制と民度を獲得して、常に不具合が生じれば改憲してでも機動的に国家を監視出来る方がいいだろうと思っているわけです。

それを改憲というだけで右翼、軍国主義者というスティグマが張り付いて、そういう人と話もしないという状況が、今の右左の対立にはある。これでは出口はありません。

武装しろというのも安全保障の問題として言っている所というのは実は半分くらいでしかありません。なぜそういう事を言うのかと言うと、日本が独力では安全保障が担保出来ないというフィクションを使って、統治権力が政治的に利用するのを止めさせたいからです。

そのせいで国民は簡単に中国脅威論や北朝鮮断固対処という雄叫びをあげるアホな政治家に乗せられてしまう。アメリカのケツを追いかけて戦争に加担する事もやむなしとなってしまう。

そういう状況をなんとしてでも回避しないと、彼らの権益として利用され続けるからです。それを例えば沖縄利権として利用したり、アメリカ基地利権として利用している輩がいる。防衛利権で甘い汁を吸っている奸賊どもがいるわけです。

反戦平和、非武装中立という崇高な理想も、もうそういう連中からすればおいしい構造を維持出来る、もっとも効果的な援護射撃になっちゃっている。打ち出の小槌状態です。単に理念とか建て前とかを吹き上がらせて満足させれば権益をいくらでも増やす事が出来るわけですから、こんなに安上がりの打ち出の小槌はありません。理念とか建て前はただですから。

そういうやりたい放題の状況に楔を打ち込む為には武装をして選択肢を増やし、我々の手にフリーハンドを取り戻す必要があるだろうと思うわけです。

フリーハンドが無くなって選択肢の無い状態に叩き込まれれば、前大戦の二の舞です。それを避ける為に必要だと思うからそういっているだけで、平和の為に言っているだけです。もちろん非武装でそれが出来るのなら別にそれはそれでいいと思います。そういう切り口だってあるわけです。だから武装と非武装で分断している場合ではなくて、それを越えて連帯出来る場合もあり得る。

食料自給率の問題にしろ、環境問題への対応にしろ、本当の眼目は自給率を上げる事や、環境問題が本当に切実かどうかとは別の所に一番の問題点がある。食料自給率が低いという危機を使って、統治権力がいくらでも不安を煽って権益拡大が出来る構造を何とかしなきゃならない。だから食料自給率を上げる事が重要なのであって、本当に食料危機が起こるかどうかとは別次元に重要な論点があるわけです。

もちろん食料自給率を上げなくても我々がしっかりしていれば済む話ではあるのですが、現に食の不安とか、BRICs諸国の台頭とか、食の安全保障を担保出来ていないという不安を突破口にして様々な腐った構造が見えるわけです。環境対応の必要性の問題もそうです。

食料自給率の問題は本当はたいした問題ではないとか、いや食料危機が起こればお終いだとか、環境問題なんて嘘っぱちだとか、環境破壊を食い止めなければならないとか、そういう論点だけで考えて、二元論的極と極で鬩ぎあっても不毛な話です。それこそまさに権益拡張をはかる勢力からすれば好都合なわけです。自分達に問題点の矛先が向かない。

我々に選択肢が無い状態に放り込んで、フリーハンドを政府が握っていれば、彼らのやりたい放題になってしまう。それを国民の手に取り戻す為に重要であるというのが、一番の論点であって、食料危機が起こるかどうか、環境問題が本当なのか嘘なのかは実はそれほど重要な話ではない。

死刑反対賛成議論だってそうです。死刑賛成と言っている人だって、死刑が野蛮な手段であり、それ以外に方法があれば死刑にしなくてもいいかもしれない。何も死刑がいい事だと思ってないだろうし、人を殺すという矛盾のある制度である事もおそらくわかっている。

しかし現状のこの国でそれを無くしてしまえば、何によってそれを担保するのかというのが、市民性とかヌルい言い方では出来るわけ無いだろうと言う所で、死刑やむなしとなっている人が結構いると思う。被害者遺族の感情的な回復措置をどうやって担保するのか、ここから議論して行けば、賛成派の人だって、そういう手段が担保されるのならとなるかもしれない。

重罰化要求や治安悪化の延長線上での死刑賛成という話であるのなら、それはここまで空洞化してしまった社会に原因があるわけですから、社会の厚みを取り戻す必要があるわけで、それが無いから国家権力に頼らざるを得ないと思わされている。まず社会の厚みをどのようにして担保するのか?という闘争こそ必要であり、その事をやる必要がある。

そしてやはり国家に頼らざるを得ない部分も市民性の成熟の無い現状では間違いなくあるわけだから、それを踏まえて、国家権力の恣意性を透明化しないと、本当は死刑に値しない人も国家に取って有害だからとか、国家の権益増進にとって丁度いいエサになるからと言う理由で暴走を許しかねないわけだから、せめてチェック出来るように透明化はした方がいいと思いませんか?という論点から切って行けば、その事には同意してくれるかもしれない。透明化されていろんな事が白日の下にさらされれば、国家のマインドコントロールも解除出来るかもしれない。

死刑反対を掲げて闘争するだけではなくて、同意出来る論点は連帯の輪を広げる為に、いったん死刑反対という論拠はしまって、接点を繋いで行くという議論が必要なのではなかろうかと思うわけです。

現状ではもうどこもかしこも立ち位置系であるわけで、にもかかわらず信念とか理念のようなものにすがってしまう啓蒙する側とされる側が多過ぎる。実際の社会は立ち位置系だらけなんだから、後はどこでそれに気付いて向き合うかの話でしかない。対応しようがしなかろうが、社会はすでにそういう風にシフトしている。パターナリズムが機能した時代には戻れない。その為の啓蒙活動が必要なんじゃないかと思っているわけです。そして気付いた人間がいかにそれを言い、行動して行くか。

だから田原のやり方というのではやっぱり限界がある。論点や問題点や解決出来る妥協点の難しさという不可能性ばかりが可視化されて絶望を埋め込むだけになってしまう。もちろん絶望が可視化出来ないと始まらないのは確かなんですが、あの人のやり方だと、議論の後に握手という方向性には持って行けそうもない。

それを考えると、筑紫さんというのは非常に真面目な方だったと思うし、こういう困難さもよくわかっている人だったと思う。田原のように論点をさらけ出して壁を明らかにするという攻撃ばかりではなくて、包摂出来る魅力も知性もある人に思えた。イメージ的にも柔らかさを持っていたし、ユーモアもセンスもあったと思う。自分の信念はいったんわきにおいて、こういう所を繋いで行く可能性を持っている人だったと思えるわけです。

そして何より彼はそれを伝える圧倒的なリソースも握っていた。特権を認められていたわけだから当然責務もあった。にもかかわらず、彼はその信念が強烈過ぎたというのもあり、どうしてもそこから抜け出せなかったというか、そういうイメージを見ている人間に与えてしまっている。それが自分が筑紫さんの言説があまり好きではないという理由です。

もちろん筑紫さんにとって反戦平和を相対化するなんて事は出来ないくらい切実な問題だったのでしょう。我々はその彼が見ていた現実は見えていない。だからそれを伝えたかったのだと思う。不可能に近い戦いをそれでも愚直に挑み続けなければならない彼の立ち位置というのも理解出来ます。しかしどんなに彼の信念が正しくて、誠実であったとしても、結局の所、彼だって立ち位置系でしかないわけです。

それでもつづく!!