前回の続きです。
筑紫さんの追悼番組で、彼の遺言じゃありませんが最後の多事争論といいますか、彼のコメントで、この国は癌に冒されている。これを取り除くのは中々難しいというような事を言っていました。彼の病名を考えると、最後まで自分をも客観視して自分が感じた事と社会を結びつけてその困難さを語っていました。全くその通りです。
そしてその話は続きます。民主制の国家というのは、配分をめぐっての調整と言うか若者と老人とかが奪い合うという言い方は適切ではないかもしれませんが、そんなような事を言っていました(本来民主制とは配分をめぐっての鍔迫り合いにどうしても陥ってしまうという背理を抱えた制度です。だから配分をめぐっての合意に対する異議申し立てが民主主義の本義です。言葉が少ないので単純化して言っているのだろうと思うのですが、こういう説明が決められた枠内では出来ず、「奪い合い」というような言葉に引っかかってしまう人がどうしても出て来てしまう。こういう事一つをとってもテレビで決められた時間の範囲で発言するという事の困難さがわかります。勘違いや誤解を与えやすい)。
その後も話は続きます。しかしそれが若者にも老人にも配分されていない。どこにも行ってない、これが問題なんだと。
まさしくその通り。つまり民主制ではないわけです。
そしてそれは特定の所に回っているわけです。所謂既得権益という事です。公正な競争を免除され、制度によって保護され、機会の均等なんてどこにも無い。そしてその構造の上に君臨するのが、当の筑紫氏の属する大手メディアであるわけです。再販価格制度、クロスオーナーシップ、記者クラブ制度による独占、電波を独占し、広告収入を独占し、5系列16社そしてNHKによって市場を歪めている。権力の監視など全く形骸化し、メディアの報道の8割は事実上官報と化している。
国家の監視、これはよく民主主義の重要な要素として言われる言葉です。筑紫さんも国家の監視が重要なんだと言ってました。それはその通り。
だけど、我々が監視するという意味合いと、メディアが監視するという意味合いは全然違うはずです。ただ見ているだけなら誰にでも出来るし、別に独占してなくても出来る。それだけ膨大なリソースがありながら、ただ問題点を恣意的に列挙し、見ているだけでは、事実上メディアの権力への牽制にはならない。
昔働いていた所で、若いあんちゃんに、おう!ちっとこれ見ててくれ!と言って、焼き物を託して自分が別の仕事をしていました所、何やらこげたニオイが漂ってくるわけです。まさか!と思い、さっきのあんちゃんの所に行くと、自分が託した焼き物は炭と化していました。
バカタレ何やってんだ!!と怒りますと、凄くまっすぐな目で「見てました」と言うではないですか。そりゃ見ててくれと言ったけれど、本当に焦げるまで見てる奴があるか!!と怒鳴りつけたくなる所をぐっと堪えて、お前なあ見ててくれというのは、任せたぞという意味で、ただ見てたら焦げちまうだろう、とまあ教えるわけなんですが、よくよく考えてみますと、自分が若い頃、先輩に、三日坊主!白菜持って来てくれや!ハイわかりました、速攻で!!と言って、白菜を持って行くと、先輩は大爆笑。お前なあ、これはキャベツだよと。
そうです。その時の自分は白菜とキャベツを分節する事が出来なかった。自分の中では同じものだったわけです。自分が焼き物を見といてくれと頼んだあんちゃんは、見ておくという事が=塩梅を見るという事ではなかった。見ていろと命令されたから、律儀に焦げるまで一生懸命見ていたわけです。それがそういうものだとわかっている人間からすれば、お前アホかって話ですが、わからない人にはわからないのだからどうにもならない。
さて、そこで仮に、自分が焼き物を監視するとして、焦げるまで監視しているとしたら、それは自分にとって見ているという事になるのでしょうか?当然見ているという事と塩梅を見るという事の違いがわかっている人間がそれをやれば、わざとやっているかサボタージュしているかのどちらかです。
若いあんちゃんが、白菜とキャベツの区別もつけずに、材料として一緒くたに使っているのを見て、ああアイツらは、白菜とキャベツを一緒くたにしているなと監視する事が、自分にとって見ている事と言えるでしょうか?
そして仮に自分がそういう監視の仕方しかしていないにも関わらず、監視が大切だと言って、なるほどと思う人がいるでしょうか?
お前監視になってないじゃないかと言われて、いや私は私なりに監視をしていた、私にもいろいろ理由があるのだと言ったとして、本当に理由があるかどうかははたからすればわからないわけで、理由があったって結果がこれじゃ言い訳にならねえよと言われないでしょうか?
話を戻しますよ、国民が監視するといっても、何を持って監視するかもわからない人もいるわけで、ただ見ているとか、ただ選挙に行くとか、いろいろその人にとっての監視の質が違うわけです。ガヴァナンスといっても何がガヴァナンスなのかがわからなければ、それはサブスタンシャルにはなりえない。
しかし監視とはどういう事であるのかを知っている人間が、そういう人達と同レベルの監視しか出来ないとすれば、それはサボタージュしているかわざとやっているかどちらかしかありません。
監視をしなければならないというのはいいですよ。いくらでも。しかし肝腎の監視をするにしても、メディアが情報をスクリーニングしている状況で、何を監視すればいいのかあらかじめ決められた状況で、国民の無関心が国家の暴走を招いていると言われても、困ってしまいます。
その国民を啓蒙する為に存在するのが、ポール・ラザースフェルト的に言えばミドルマンの存在という事になります。知識人とか専門家が難しい事を考えて、難しい事を実践しようとしている。しかしそれが何を意味するのか我々一般人には皆目見当もつかない。知識人とか専門家の説明では、それが日本語なのか、はたして何を説明しているのかもわからない。そういう人達は頭の構造が違うので、噛み砕いて説明出来ない。
ようするに昔よくあった「パソコンの説明書がわかりづらい問題」です。パソコンの説明書を作っている人は、パソコンの使い方を熟知している人であって、熟知していない人のわからなさは忘れてしまっている。
だから丁寧に書いているつもりになっていても、素人にはそもそもそれが何を意味するのかもわからないわけだから、サッパリ意味不明。段々飽きて来てもういいやとなってしまう。挙げ句の果てに、パソコンも単なる部屋のオブジェと化し、ホコリをかぶって宝の持ち腐れというパターンです。さすがに最近ではそういう事は無くなっていますが、今から10年くらい前までは、結構有り得る話だったわけです。
そうすると、パソコンに詳しい友達とか、彼氏とか、知り合いとかを呼んでネットに接続してもらったり、アプリケーションをセットアップしてもらったり、使い方を教えてもらって、初めてああなるほどそういう事かと合点が行く。
政治や経済の話でも、全然意味がわからない、何がなんだかサッパリわからないから、自分に関係ない事だと思い込み、無関心になってしまう。しかし職場の上司とか、親とか、学校の先生とかが、これはこういう意味なんですよと噛み砕いて、日常的な比喩を用いて解説してくれれば、ああそっか、僕たちの生活に密接な繋がりがあるんですねと納得する。
これをポール・ラザースフェルトのいう「コミュニケーションの二段の流れ仮説」と言います。
この所謂ミドルマンの役割を一手に握って独占しているのがマスメディアという事になります。その動員力と伝播力は個人が個人に教えてあげるなんて言うショボイ啓蒙とは次元が違う。
それに個人が啓蒙すると言ったって、所詮ちょっと人生経験があるとか頭がいいとかのレベルでしかないわけで、そういうリソースを膨大に抱えていて、それそのものが仕事である大手メディアに比べれば、仕事で忙しい個人の力など微々たるものです。
もちろん学校教育というのもその役割を担っていますが、ここはその前の共通前提を教えるような所がありますし、学校の授業なんて子供からすれば子守唄と似たようなもんですから、まず一人前の共通前提を教えるのに精一杯かもしれません。
ミドルマンがミドルマンとしてコミュニケーションの二段の流れ仮説を実行してくれれば、何の問題も無いわけですが、これが完璧に100%機能不全を起こしてしまっている。もちろん社会の変化による所も大きいのですが、立ち位置系でしかないという諦めだけを埋め込んでしまう事に、かなり重要な役目を果たしてしまっている。だから理念や正論もどんどん無力になってしまっている。
そもそもこの国の現状のマスメディアは国家のケツを舐めるような構造を、国家によって担保して貰っている。したがって市民性の成熟も、国家を監視するような国民的な連帯も目指しちゃいない。分断をする事を半ば目的として機能している所がある。
何かを批判したり、問題点を指摘したりしていても、そう言ったものを解決しようなんてハナっから考えちゃいない。なぜならその不安や争点こそが、彼らにとっての利権であるわけです。問題を起こした人を叩いても、反省を望むような偽善者面はしても、別にそんな事は望んじゃいない。どちらかと言えば、もっとそう言う不祥事をむしろ望んでいる。だから田原は分断化する為に非常に効果的に機能して来たし、筑紫氏だってカビの生えた思想信条を掲げ、分断に加担して来た。
そもそもメディアとは問題点を解決するというよりも、その問題点を明らかにするという事の方に重点があるのは間違いないわけで、そういう意味では田原的手法もしょうがない部分はあるし、不安や争点にスポットを当てるのは仕事ですからそれはしょうがない。
しかし今のメディアはそれを明らかにして公正な社会になってほしいとは思ってもいないでしょう。公正な社会と言ったらメディア自身を解体しなきゃならなくなる。自浄能力なんてあるわけが無い。談合利権集団であるわけです。
それに明らかにすると言ったって、その恣意性やバイアスは酷いなんてもんじゃない。特定の大手広告主にとって不利益な問題はしらばっくれている。どうでもいいような食品偽装みたいな下らない話で弱っちい会社は完膚なきまでに叩いても、自らの権益に傷がつくような話には絶対にしらばっくれている。逆に自分達の権益が脅かされそうになると、公共の電波や新聞の紙面を使って、なんとしても権益護持のキャンペーンを繰り広げる。タレントや御用学者もそこに乗っかる。
もはやそういう事が可視化されつくしている状況で、信念とか理念みたいな事を掲げても、結局立ち位置系にしか見えなくなってしまっている。だからもうそう言うやり方では無理がある。例え掲げる信念とか理念がどんなに正しくて崇高であって、そこにどんなに誠実であったとしてもです。
簡単に梯子を外されてしまう。アイツは終わったと言われてしまうわけです。だから相対化する必要がある。他人の見ている現実は結局他人には理解が出来ない。いろんな立ち位置から問題の輪郭を提示する必要がある。そしてそれらを繋ぐ接点。どうせ立ち位置系なんだから、ご大層なお題目は捨てて。
メディアには期待するだけ無駄なので、残された方法はそういう分断化を逆手に取って変わるしかない所まで追い込まれている。そういうどうにもならない絶望的な状況を、むしろ望んで積極的に構築して来たのがマスメディアそのものであるわけです。
年金問題で厚労省叩きをしてますが、あんなのはポーズだけ、ガス抜きでしかありません。肝腎要の問題点はしらばっくれている。
そもそも日本人のリテラシー能力が芽生えない原因は、旧内務省系の国策として仕組まれたものでもあります。英語教育が役に立たない理由もそこにある。教育と、マスメディアが牛耳る啓蒙とを、言わば国家に握られてしまっている状態でもある。これがどうにもならない。子供の頃から教育され、テレビで啓蒙されて育ち上がれば、リテラシー能力の無い愚民のいっちょ上がりです。そして厄介な事に、そういう人達も平等に選挙権を持ってしまう。
例えば役人の地方の出先機関の統廃合なんて言う話が出てくる。どうせ骨抜きになるのがオチなんでしょうが、そういう力学がある。そして一方テレビや新聞ではやたらと大麻の問題なんかが騒がれる。どうも臭いなと思ったら、厚労省管轄の麻取りが、250人くらいしかいない、今の日本の現状では足らないのではないか、みたいな話が出てくる。
麻取りが行なっている事を、各都道府県の警察本部には、銃器薬物対策課というのがありますから、そこと統合してしまおうという統廃合の流れにあらかじめ楔を打ち込んでいるわけです。大麻の検挙数が増えているのは間違いありませんが、大麻を利用している人口自体が増えているのかどうかはわかりようが無い。検挙するから増えるわけで、必要だというアピールをしているように見えない事も無い。
麻取りにしろ警察にしろ、麻薬撲滅の為に存在するわけではありません。彼らはそれを取り締まるのが仕事です。だから本当に撲滅なんかされちゃったら仕事も無くなってしまう。この関係は相互補完関係にあると言ってもいい。だから世界から麻薬が無くならないという見方だってあながち的外れじゃないかもしれない。アフガンをメッタクソに攻撃した結果、現在世界中のアヘンの9割を同地域が生産している。
日本で大麻が禁止である理由はよくわかりませんが、その一つとしては間違いなく、ようするに酒と煙草と役人の既得権護持も含まれている。大麻なんてそのへんに自生しているわけですから、これを自由化しちゃえば麻取りの仕事も減るし、既得権が無くなってしまう。政治献金も減るでしょう。世界を見ると比較的大麻に関しては寛容な政策を取っている国もある。
大麻を吸うと、それが入口になって覚醒剤とかに進んでしまうという話がありますが、これは大麻がイリーガルであるから、売人と繋がりが出来、その事が次のステップを招いていると言う話なだけで、大麻が合法化されれば、逆に覚醒剤の需要は減るかもしれない。酒や煙草をやっている人間が、覚醒剤に進んでいるかと言えば、そんな事は無いわけです。しかしそんな事になってもらっちゃ困る連中がいるわけです。
大麻を取り締まる事や違法である事は自分にはどうでもいい話ですし、酒も煙草もやらないので、興味も無いのですが、マスメディアが正義を主張して急に騒ぎ出す理由の裏側には必ずこういった、権力に媚び、広告主に媚び、民意を煽り、不安を増大させ、権益拡大もしくは権益護持に利用する力学がある。
こういった相互補完関係の困った図式は至る所に存在します。公安調査庁の元長官が実は取り締まるべき対象である朝鮮総連の存続に肩入れしていたなんて話が、だいぶ前にありましたが、そういう関係性が出来やすいという事にも敏感になる必要があるでしょう。
もちろん医者がいるから病人が生まれる的な、本末転倒話がしたいわけではありませんが、かつてオウム事件の際、明らかに警察や公安は内偵を進めていた。坂本弁護士殺害事件の時点で、相当オウムの関与を事実上掴んでいた。にもかかわらず、泳がせていたようにも見える。オウムが事件を起こした裏側には、それを起こさせるような力学も見えるわけです。事前に掴んでいたわけだから、やろうと思えば止める事も出来たかもしれない。しかし麻原は頭がおかしくなっちゃったと言うし、そういう問題点は一切スルーして、死刑への流れが進んでしまう。国民もあんな悪党とっととぶち殺せと、問題点を闇に葬る事にむしろ加担している。それはメディアがそういう風に煽るからでもある。
あの事件の前、公安調査庁というのは廃止の方向で話が進んでいた。しかしあの事件以後、公安調査庁の役割が見直されて、莫大な権力を握りアンタッチャブルな存在として不動の地位と絶対的な力を手に入れるわけです。結果だけを見ると、誰が得をしているのか?
テロの脅威を国民はトラウマのように埋め込まれて、重罰化、監視社会化の方向性へと大きく舵を切り替える事が比較的簡単に出来るようになる。不安産業花盛りです。天下り先も困る事は無いでしょう。先日の厚労省元次官の事件の時も、翌日の何もわかっていない段階で、読売新聞などは一面トップで、「テロ」と決めつけてすり込みを行なおうとした。
この事件の顛末も、何となく腑に落ちない話になっちゃっていますが、これが本当かどうかはわかりません。これだけはわかっている。そして結果だけを見れば、統治権力の権限増進の力学に絡めとられてしまっている。
例えばあの容疑者は自首しているわけですから、死刑に出来ないかもしれないとかニュース番組でほざいているバカがいますが、これは明らかに司法の重罰化要請を呼び起こすような力学になっています。そこに何の問題があるのか?死刑に出来ないとか言ってますが、無理矢理死刑にしろとでも言いたいのでしょうか?現行の法のままでは死刑に出来ないから不適切だとでも言いたいのでしょうか?ほくそ笑んでいるのは誰でしょう?
警察の捜査の限界を喚く力学もあります。早い話が現在の警察力では対応出来なくなっている。もっと警察に予算と権限をというエビデンスにしようとしています。
それから官僚に対するバッシングを和らげる力学も間違いなくある。トヨタの会長の恫喝が、結果的にその通りになろうとしている。
こういった痛ましい事件であって、それを騒いでいる連中も情緒的な物言いで、元事務次官の死を悲しむような言い方や、許すまじという話、断固対処という言い方、民主主義の敵とまで言っています。そのくせキッチリ圏域拡大の力学として利用している。
彼の動機があれこれ言われていますが、本当に彼が言ったかどうかは誰にもわからない。それをリークする警察関係者は明らかに守秘義務違反をしている。他の国であれば直ちにブタ箱行き、もしくはクビです。そしてそうでなければメディアが捏造しているわけです。絶対に言える事は、容疑者は捕まっているので直接彼の話であるかどうかは確認出来ない。容疑者がこう言っているといくらでも言えるわけで、その事によっていくらでも権益拡張が出来る。
光市事件の際、あの加害者の男がドラえもん発言なんかで叩かれて、弁護士も馬鹿扱いを受けましたが、彼が子供の頃からおびただしい父親からの暴力による外傷と精神的に叩きのめされた事によって、彼の精神年齢が4、5歳並であるという鑑定結果は殆ど報じられない。それに加えて、そのおびただしい暴力に耐えられなくなった母親が、彼が12の時に首をつって自殺している。それを一番先に見つけたのが当時子供であった彼で、その時点で知能の発達も止まっているという事も報じられない。
ドラえもんの発言ばかりにスポットが当たるが、何でそういう事を言うのかという所には目がいかないというか、恣意的なスクリーニングをかけている。統治権力と結託し、国民の不安を煽って権益拡大の構造に思いっきり乗っかっている。
あの加害者は警察の取り調べの際、生きて罪を償えと言われているという主張も出て来ない。その上で自白調書にサインをしている。自白をひっくり返したという話は出て来ますが、何で彼が自白調書にサインをしたかという話は出て来ない。ようするに本当の話ではないが、この自白調書を認めれば、死刑にならずに済むからサインをしろと言う事で、手打ちとして受け入れた可能性がある。実際一審では無期懲役になる。
ここまではまあよかった。しかし被害者遺族である旦那さんが吹き上がって、ふざけるなだったら俺がぶち殺すと怒りを表明する。見ている国民も被害者遺族である彼の怒りはもっともだと思い、同調する。メディアも一斉に検察何やっているというバッシングが始まる。弁護士を同じ弁護士である橋下なんかが世論を煽ってクソミソに叩き、検察も俗情に媚び何が何でも死刑にするという方向性に舵を切り替える。
加害者は事件の時、勤めている所の制服を着て、胸に名札をつけているにもかかわらず、水道工事を装って入っている。ポケットにはカッターナイフも入っていた。しかしそれは使っていない。子供を頭上から地面に叩き付けたという自白をさせられるわけですが、証拠の中にそれを立証するような外傷が無い。
明らかに検察の証拠には矛盾点がある。裁判は検察の証拠を吟味する場です。そこに僅かでも疑いが残れば無罪、これが近代裁判の鉄則です。その事だけを問う場でもある。
証拠は怪しい、デュープロセスも問題が多くある。こういう事を一切合切スルーしてとっとと葬ってしまうというのは明らかに問題がある。
結果的に見ると少年犯罪への断固対処、凶悪犯罪への断固対処という方向性に流れている。冷静に問題点を吟味する事も出来なくなってしまった。別に犯罪が増えてるわけでも凶悪化しているわけでもないのに、統治権力の権益増進の力学に絡めとられてしまっている。
先日渋谷で麻生総理の自宅を見に行こうとしていた若者を、警察が公妨逮捕を行なった時の映像がYoutubeなんかで話題になりました。当ブログでも紹介しましたが、私服の警察官がいきなり抱きつく、それを振り払ったら公務執行妨害で逮捕となるわけです。ちょっと触っただけとか、そういうレベルであるにもかかわらず、公務執行妨害だと多くの警察官に強引に取り押さえられる。こういう事を、マスメディアは事実上ノーチェックで権力の言う事をそのまま報じている。無届けで渋谷でデモを行なった若者が暴れて警察に取り押さえられたという話になっちゃう。
そもそも無届けでもないし、麻生の自宅に行ってもいいと警察が認めていると、デモを行なった人達は主張しているわけです。そういう主張が出て来ない。不届きものが警察に逮捕されたという話になってしまう。調査報道の力量が無いのか、わざと権力の犬として報じているのか知りませんが、いずれにせよマスメディアの機能は全く果たしていない。中国や北朝鮮のマスメディアと大差ないわけです。
ミラーマン事、植草教授の話を前回だか前々回だかに書きましたが、痴漢にあった被害者像というのが全然出て来ません。話によると婦人警察官であったという話もある。渋谷での公妨逮捕なんかから連想して考えれば簡単な話ですが、痴漢をされたというよりも、痴漢にさせた、仕立て上げた可能性だって排除出来ない。抱きついて振り払ったら痴漢だと叫べばいっちょ上がりです。
ネットの匿名性や炎上、掲示板によるイジメの問題なんかが、マスメディアによって騒がれる。何の事は無い。マスメディアがメディアスクラムによって散々無責任なリークを流し、関係者の話では何々である事が明らかになった的な言い回しで、そういった事実が嘘であっても、そういう話を聞いたのは本当だと逃げ道を残しながら取材源の秘匿によって責任を回避する。事実上やりたい放題の有罪推定でメッタクソに叩きのめして地獄に突き落として来た事を、そのまんまネット環境を手に入れた人達が真似しているだけの話で、何を驚いているのか理解出来ません。
こう言った話を書き出すとキリが無いので止めますが、マスメディアだけではなくて、国家に対しても、政治家に対しても、企業に対しても、学校の教師、医者、隣人と、ことごとく信頼の土台が破壊されつくしています。その先兵となって土台を木っ端微塵にぶち壊した原動力は間違いなくマスメディアにもある。前大戦でも戦争を翼賛し国民を煽り、政治家を追い詰めて行き、後戻り不能の状況を作り出したもっとも重い戦犯であるとも言える。やっている事は基本的に何も変わっていない。
つづく!!
筑紫さんの追悼番組で、彼の遺言じゃありませんが最後の多事争論といいますか、彼のコメントで、この国は癌に冒されている。これを取り除くのは中々難しいというような事を言っていました。彼の病名を考えると、最後まで自分をも客観視して自分が感じた事と社会を結びつけてその困難さを語っていました。全くその通りです。
そしてその話は続きます。民主制の国家というのは、配分をめぐっての調整と言うか若者と老人とかが奪い合うという言い方は適切ではないかもしれませんが、そんなような事を言っていました(本来民主制とは配分をめぐっての鍔迫り合いにどうしても陥ってしまうという背理を抱えた制度です。だから配分をめぐっての合意に対する異議申し立てが民主主義の本義です。言葉が少ないので単純化して言っているのだろうと思うのですが、こういう説明が決められた枠内では出来ず、「奪い合い」というような言葉に引っかかってしまう人がどうしても出て来てしまう。こういう事一つをとってもテレビで決められた時間の範囲で発言するという事の困難さがわかります。勘違いや誤解を与えやすい)。
その後も話は続きます。しかしそれが若者にも老人にも配分されていない。どこにも行ってない、これが問題なんだと。
まさしくその通り。つまり民主制ではないわけです。
そしてそれは特定の所に回っているわけです。所謂既得権益という事です。公正な競争を免除され、制度によって保護され、機会の均等なんてどこにも無い。そしてその構造の上に君臨するのが、当の筑紫氏の属する大手メディアであるわけです。再販価格制度、クロスオーナーシップ、記者クラブ制度による独占、電波を独占し、広告収入を独占し、5系列16社そしてNHKによって市場を歪めている。権力の監視など全く形骸化し、メディアの報道の8割は事実上官報と化している。
国家の監視、これはよく民主主義の重要な要素として言われる言葉です。筑紫さんも国家の監視が重要なんだと言ってました。それはその通り。
だけど、我々が監視するという意味合いと、メディアが監視するという意味合いは全然違うはずです。ただ見ているだけなら誰にでも出来るし、別に独占してなくても出来る。それだけ膨大なリソースがありながら、ただ問題点を恣意的に列挙し、見ているだけでは、事実上メディアの権力への牽制にはならない。
昔働いていた所で、若いあんちゃんに、おう!ちっとこれ見ててくれ!と言って、焼き物を託して自分が別の仕事をしていました所、何やらこげたニオイが漂ってくるわけです。まさか!と思い、さっきのあんちゃんの所に行くと、自分が託した焼き物は炭と化していました。
バカタレ何やってんだ!!と怒りますと、凄くまっすぐな目で「見てました」と言うではないですか。そりゃ見ててくれと言ったけれど、本当に焦げるまで見てる奴があるか!!と怒鳴りつけたくなる所をぐっと堪えて、お前なあ見ててくれというのは、任せたぞという意味で、ただ見てたら焦げちまうだろう、とまあ教えるわけなんですが、よくよく考えてみますと、自分が若い頃、先輩に、三日坊主!白菜持って来てくれや!ハイわかりました、速攻で!!と言って、白菜を持って行くと、先輩は大爆笑。お前なあ、これはキャベツだよと。
そうです。その時の自分は白菜とキャベツを分節する事が出来なかった。自分の中では同じものだったわけです。自分が焼き物を見といてくれと頼んだあんちゃんは、見ておくという事が=塩梅を見るという事ではなかった。見ていろと命令されたから、律儀に焦げるまで一生懸命見ていたわけです。それがそういうものだとわかっている人間からすれば、お前アホかって話ですが、わからない人にはわからないのだからどうにもならない。
さて、そこで仮に、自分が焼き物を監視するとして、焦げるまで監視しているとしたら、それは自分にとって見ているという事になるのでしょうか?当然見ているという事と塩梅を見るという事の違いがわかっている人間がそれをやれば、わざとやっているかサボタージュしているかのどちらかです。
若いあんちゃんが、白菜とキャベツの区別もつけずに、材料として一緒くたに使っているのを見て、ああアイツらは、白菜とキャベツを一緒くたにしているなと監視する事が、自分にとって見ている事と言えるでしょうか?
そして仮に自分がそういう監視の仕方しかしていないにも関わらず、監視が大切だと言って、なるほどと思う人がいるでしょうか?
お前監視になってないじゃないかと言われて、いや私は私なりに監視をしていた、私にもいろいろ理由があるのだと言ったとして、本当に理由があるかどうかははたからすればわからないわけで、理由があったって結果がこれじゃ言い訳にならねえよと言われないでしょうか?
話を戻しますよ、国民が監視するといっても、何を持って監視するかもわからない人もいるわけで、ただ見ているとか、ただ選挙に行くとか、いろいろその人にとっての監視の質が違うわけです。ガヴァナンスといっても何がガヴァナンスなのかがわからなければ、それはサブスタンシャルにはなりえない。
しかし監視とはどういう事であるのかを知っている人間が、そういう人達と同レベルの監視しか出来ないとすれば、それはサボタージュしているかわざとやっているかどちらかしかありません。
監視をしなければならないというのはいいですよ。いくらでも。しかし肝腎の監視をするにしても、メディアが情報をスクリーニングしている状況で、何を監視すればいいのかあらかじめ決められた状況で、国民の無関心が国家の暴走を招いていると言われても、困ってしまいます。
その国民を啓蒙する為に存在するのが、ポール・ラザースフェルト的に言えばミドルマンの存在という事になります。知識人とか専門家が難しい事を考えて、難しい事を実践しようとしている。しかしそれが何を意味するのか我々一般人には皆目見当もつかない。知識人とか専門家の説明では、それが日本語なのか、はたして何を説明しているのかもわからない。そういう人達は頭の構造が違うので、噛み砕いて説明出来ない。
ようするに昔よくあった「パソコンの説明書がわかりづらい問題」です。パソコンの説明書を作っている人は、パソコンの使い方を熟知している人であって、熟知していない人のわからなさは忘れてしまっている。
だから丁寧に書いているつもりになっていても、素人にはそもそもそれが何を意味するのかもわからないわけだから、サッパリ意味不明。段々飽きて来てもういいやとなってしまう。挙げ句の果てに、パソコンも単なる部屋のオブジェと化し、ホコリをかぶって宝の持ち腐れというパターンです。さすがに最近ではそういう事は無くなっていますが、今から10年くらい前までは、結構有り得る話だったわけです。
そうすると、パソコンに詳しい友達とか、彼氏とか、知り合いとかを呼んでネットに接続してもらったり、アプリケーションをセットアップしてもらったり、使い方を教えてもらって、初めてああなるほどそういう事かと合点が行く。
政治や経済の話でも、全然意味がわからない、何がなんだかサッパリわからないから、自分に関係ない事だと思い込み、無関心になってしまう。しかし職場の上司とか、親とか、学校の先生とかが、これはこういう意味なんですよと噛み砕いて、日常的な比喩を用いて解説してくれれば、ああそっか、僕たちの生活に密接な繋がりがあるんですねと納得する。
これをポール・ラザースフェルトのいう「コミュニケーションの二段の流れ仮説」と言います。
この所謂ミドルマンの役割を一手に握って独占しているのがマスメディアという事になります。その動員力と伝播力は個人が個人に教えてあげるなんて言うショボイ啓蒙とは次元が違う。
それに個人が啓蒙すると言ったって、所詮ちょっと人生経験があるとか頭がいいとかのレベルでしかないわけで、そういうリソースを膨大に抱えていて、それそのものが仕事である大手メディアに比べれば、仕事で忙しい個人の力など微々たるものです。
もちろん学校教育というのもその役割を担っていますが、ここはその前の共通前提を教えるような所がありますし、学校の授業なんて子供からすれば子守唄と似たようなもんですから、まず一人前の共通前提を教えるのに精一杯かもしれません。
ミドルマンがミドルマンとしてコミュニケーションの二段の流れ仮説を実行してくれれば、何の問題も無いわけですが、これが完璧に100%機能不全を起こしてしまっている。もちろん社会の変化による所も大きいのですが、立ち位置系でしかないという諦めだけを埋め込んでしまう事に、かなり重要な役目を果たしてしまっている。だから理念や正論もどんどん無力になってしまっている。
そもそもこの国の現状のマスメディアは国家のケツを舐めるような構造を、国家によって担保して貰っている。したがって市民性の成熟も、国家を監視するような国民的な連帯も目指しちゃいない。分断をする事を半ば目的として機能している所がある。
何かを批判したり、問題点を指摘したりしていても、そう言ったものを解決しようなんてハナっから考えちゃいない。なぜならその不安や争点こそが、彼らにとっての利権であるわけです。問題を起こした人を叩いても、反省を望むような偽善者面はしても、別にそんな事は望んじゃいない。どちらかと言えば、もっとそう言う不祥事をむしろ望んでいる。だから田原は分断化する為に非常に効果的に機能して来たし、筑紫氏だってカビの生えた思想信条を掲げ、分断に加担して来た。
そもそもメディアとは問題点を解決するというよりも、その問題点を明らかにするという事の方に重点があるのは間違いないわけで、そういう意味では田原的手法もしょうがない部分はあるし、不安や争点にスポットを当てるのは仕事ですからそれはしょうがない。
しかし今のメディアはそれを明らかにして公正な社会になってほしいとは思ってもいないでしょう。公正な社会と言ったらメディア自身を解体しなきゃならなくなる。自浄能力なんてあるわけが無い。談合利権集団であるわけです。
それに明らかにすると言ったって、その恣意性やバイアスは酷いなんてもんじゃない。特定の大手広告主にとって不利益な問題はしらばっくれている。どうでもいいような食品偽装みたいな下らない話で弱っちい会社は完膚なきまでに叩いても、自らの権益に傷がつくような話には絶対にしらばっくれている。逆に自分達の権益が脅かされそうになると、公共の電波や新聞の紙面を使って、なんとしても権益護持のキャンペーンを繰り広げる。タレントや御用学者もそこに乗っかる。
もはやそういう事が可視化されつくしている状況で、信念とか理念みたいな事を掲げても、結局立ち位置系にしか見えなくなってしまっている。だからもうそう言うやり方では無理がある。例え掲げる信念とか理念がどんなに正しくて崇高であって、そこにどんなに誠実であったとしてもです。
簡単に梯子を外されてしまう。アイツは終わったと言われてしまうわけです。だから相対化する必要がある。他人の見ている現実は結局他人には理解が出来ない。いろんな立ち位置から問題の輪郭を提示する必要がある。そしてそれらを繋ぐ接点。どうせ立ち位置系なんだから、ご大層なお題目は捨てて。
メディアには期待するだけ無駄なので、残された方法はそういう分断化を逆手に取って変わるしかない所まで追い込まれている。そういうどうにもならない絶望的な状況を、むしろ望んで積極的に構築して来たのがマスメディアそのものであるわけです。
年金問題で厚労省叩きをしてますが、あんなのはポーズだけ、ガス抜きでしかありません。肝腎要の問題点はしらばっくれている。
そもそも日本人のリテラシー能力が芽生えない原因は、旧内務省系の国策として仕組まれたものでもあります。英語教育が役に立たない理由もそこにある。教育と、マスメディアが牛耳る啓蒙とを、言わば国家に握られてしまっている状態でもある。これがどうにもならない。子供の頃から教育され、テレビで啓蒙されて育ち上がれば、リテラシー能力の無い愚民のいっちょ上がりです。そして厄介な事に、そういう人達も平等に選挙権を持ってしまう。
例えば役人の地方の出先機関の統廃合なんて言う話が出てくる。どうせ骨抜きになるのがオチなんでしょうが、そういう力学がある。そして一方テレビや新聞ではやたらと大麻の問題なんかが騒がれる。どうも臭いなと思ったら、厚労省管轄の麻取りが、250人くらいしかいない、今の日本の現状では足らないのではないか、みたいな話が出てくる。
麻取りが行なっている事を、各都道府県の警察本部には、銃器薬物対策課というのがありますから、そこと統合してしまおうという統廃合の流れにあらかじめ楔を打ち込んでいるわけです。大麻の検挙数が増えているのは間違いありませんが、大麻を利用している人口自体が増えているのかどうかはわかりようが無い。検挙するから増えるわけで、必要だというアピールをしているように見えない事も無い。
麻取りにしろ警察にしろ、麻薬撲滅の為に存在するわけではありません。彼らはそれを取り締まるのが仕事です。だから本当に撲滅なんかされちゃったら仕事も無くなってしまう。この関係は相互補完関係にあると言ってもいい。だから世界から麻薬が無くならないという見方だってあながち的外れじゃないかもしれない。アフガンをメッタクソに攻撃した結果、現在世界中のアヘンの9割を同地域が生産している。
日本で大麻が禁止である理由はよくわかりませんが、その一つとしては間違いなく、ようするに酒と煙草と役人の既得権護持も含まれている。大麻なんてそのへんに自生しているわけですから、これを自由化しちゃえば麻取りの仕事も減るし、既得権が無くなってしまう。政治献金も減るでしょう。世界を見ると比較的大麻に関しては寛容な政策を取っている国もある。
大麻を吸うと、それが入口になって覚醒剤とかに進んでしまうという話がありますが、これは大麻がイリーガルであるから、売人と繋がりが出来、その事が次のステップを招いていると言う話なだけで、大麻が合法化されれば、逆に覚醒剤の需要は減るかもしれない。酒や煙草をやっている人間が、覚醒剤に進んでいるかと言えば、そんな事は無いわけです。しかしそんな事になってもらっちゃ困る連中がいるわけです。
大麻を取り締まる事や違法である事は自分にはどうでもいい話ですし、酒も煙草もやらないので、興味も無いのですが、マスメディアが正義を主張して急に騒ぎ出す理由の裏側には必ずこういった、権力に媚び、広告主に媚び、民意を煽り、不安を増大させ、権益拡大もしくは権益護持に利用する力学がある。
こういった相互補完関係の困った図式は至る所に存在します。公安調査庁の元長官が実は取り締まるべき対象である朝鮮総連の存続に肩入れしていたなんて話が、だいぶ前にありましたが、そういう関係性が出来やすいという事にも敏感になる必要があるでしょう。
もちろん医者がいるから病人が生まれる的な、本末転倒話がしたいわけではありませんが、かつてオウム事件の際、明らかに警察や公安は内偵を進めていた。坂本弁護士殺害事件の時点で、相当オウムの関与を事実上掴んでいた。にもかかわらず、泳がせていたようにも見える。オウムが事件を起こした裏側には、それを起こさせるような力学も見えるわけです。事前に掴んでいたわけだから、やろうと思えば止める事も出来たかもしれない。しかし麻原は頭がおかしくなっちゃったと言うし、そういう問題点は一切スルーして、死刑への流れが進んでしまう。国民もあんな悪党とっととぶち殺せと、問題点を闇に葬る事にむしろ加担している。それはメディアがそういう風に煽るからでもある。
あの事件の前、公安調査庁というのは廃止の方向で話が進んでいた。しかしあの事件以後、公安調査庁の役割が見直されて、莫大な権力を握りアンタッチャブルな存在として不動の地位と絶対的な力を手に入れるわけです。結果だけを見ると、誰が得をしているのか?
テロの脅威を国民はトラウマのように埋め込まれて、重罰化、監視社会化の方向性へと大きく舵を切り替える事が比較的簡単に出来るようになる。不安産業花盛りです。天下り先も困る事は無いでしょう。先日の厚労省元次官の事件の時も、翌日の何もわかっていない段階で、読売新聞などは一面トップで、「テロ」と決めつけてすり込みを行なおうとした。
この事件の顛末も、何となく腑に落ちない話になっちゃっていますが、これが本当かどうかはわかりません。これだけはわかっている。そして結果だけを見れば、統治権力の権限増進の力学に絡めとられてしまっている。
例えばあの容疑者は自首しているわけですから、死刑に出来ないかもしれないとかニュース番組でほざいているバカがいますが、これは明らかに司法の重罰化要請を呼び起こすような力学になっています。そこに何の問題があるのか?死刑に出来ないとか言ってますが、無理矢理死刑にしろとでも言いたいのでしょうか?現行の法のままでは死刑に出来ないから不適切だとでも言いたいのでしょうか?ほくそ笑んでいるのは誰でしょう?
警察の捜査の限界を喚く力学もあります。早い話が現在の警察力では対応出来なくなっている。もっと警察に予算と権限をというエビデンスにしようとしています。
それから官僚に対するバッシングを和らげる力学も間違いなくある。トヨタの会長の恫喝が、結果的にその通りになろうとしている。
こういった痛ましい事件であって、それを騒いでいる連中も情緒的な物言いで、元事務次官の死を悲しむような言い方や、許すまじという話、断固対処という言い方、民主主義の敵とまで言っています。そのくせキッチリ圏域拡大の力学として利用している。
彼の動機があれこれ言われていますが、本当に彼が言ったかどうかは誰にもわからない。それをリークする警察関係者は明らかに守秘義務違反をしている。他の国であれば直ちにブタ箱行き、もしくはクビです。そしてそうでなければメディアが捏造しているわけです。絶対に言える事は、容疑者は捕まっているので直接彼の話であるかどうかは確認出来ない。容疑者がこう言っているといくらでも言えるわけで、その事によっていくらでも権益拡張が出来る。
光市事件の際、あの加害者の男がドラえもん発言なんかで叩かれて、弁護士も馬鹿扱いを受けましたが、彼が子供の頃からおびただしい父親からの暴力による外傷と精神的に叩きのめされた事によって、彼の精神年齢が4、5歳並であるという鑑定結果は殆ど報じられない。それに加えて、そのおびただしい暴力に耐えられなくなった母親が、彼が12の時に首をつって自殺している。それを一番先に見つけたのが当時子供であった彼で、その時点で知能の発達も止まっているという事も報じられない。
ドラえもんの発言ばかりにスポットが当たるが、何でそういう事を言うのかという所には目がいかないというか、恣意的なスクリーニングをかけている。統治権力と結託し、国民の不安を煽って権益拡大の構造に思いっきり乗っかっている。
あの加害者は警察の取り調べの際、生きて罪を償えと言われているという主張も出て来ない。その上で自白調書にサインをしている。自白をひっくり返したという話は出て来ますが、何で彼が自白調書にサインをしたかという話は出て来ない。ようするに本当の話ではないが、この自白調書を認めれば、死刑にならずに済むからサインをしろと言う事で、手打ちとして受け入れた可能性がある。実際一審では無期懲役になる。
ここまではまあよかった。しかし被害者遺族である旦那さんが吹き上がって、ふざけるなだったら俺がぶち殺すと怒りを表明する。見ている国民も被害者遺族である彼の怒りはもっともだと思い、同調する。メディアも一斉に検察何やっているというバッシングが始まる。弁護士を同じ弁護士である橋下なんかが世論を煽ってクソミソに叩き、検察も俗情に媚び何が何でも死刑にするという方向性に舵を切り替える。
加害者は事件の時、勤めている所の制服を着て、胸に名札をつけているにもかかわらず、水道工事を装って入っている。ポケットにはカッターナイフも入っていた。しかしそれは使っていない。子供を頭上から地面に叩き付けたという自白をさせられるわけですが、証拠の中にそれを立証するような外傷が無い。
明らかに検察の証拠には矛盾点がある。裁判は検察の証拠を吟味する場です。そこに僅かでも疑いが残れば無罪、これが近代裁判の鉄則です。その事だけを問う場でもある。
証拠は怪しい、デュープロセスも問題が多くある。こういう事を一切合切スルーしてとっとと葬ってしまうというのは明らかに問題がある。
結果的に見ると少年犯罪への断固対処、凶悪犯罪への断固対処という方向性に流れている。冷静に問題点を吟味する事も出来なくなってしまった。別に犯罪が増えてるわけでも凶悪化しているわけでもないのに、統治権力の権益増進の力学に絡めとられてしまっている。
先日渋谷で麻生総理の自宅を見に行こうとしていた若者を、警察が公妨逮捕を行なった時の映像がYoutubeなんかで話題になりました。当ブログでも紹介しましたが、私服の警察官がいきなり抱きつく、それを振り払ったら公務執行妨害で逮捕となるわけです。ちょっと触っただけとか、そういうレベルであるにもかかわらず、公務執行妨害だと多くの警察官に強引に取り押さえられる。こういう事を、マスメディアは事実上ノーチェックで権力の言う事をそのまま報じている。無届けで渋谷でデモを行なった若者が暴れて警察に取り押さえられたという話になっちゃう。
そもそも無届けでもないし、麻生の自宅に行ってもいいと警察が認めていると、デモを行なった人達は主張しているわけです。そういう主張が出て来ない。不届きものが警察に逮捕されたという話になってしまう。調査報道の力量が無いのか、わざと権力の犬として報じているのか知りませんが、いずれにせよマスメディアの機能は全く果たしていない。中国や北朝鮮のマスメディアと大差ないわけです。
ミラーマン事、植草教授の話を前回だか前々回だかに書きましたが、痴漢にあった被害者像というのが全然出て来ません。話によると婦人警察官であったという話もある。渋谷での公妨逮捕なんかから連想して考えれば簡単な話ですが、痴漢をされたというよりも、痴漢にさせた、仕立て上げた可能性だって排除出来ない。抱きついて振り払ったら痴漢だと叫べばいっちょ上がりです。
ネットの匿名性や炎上、掲示板によるイジメの問題なんかが、マスメディアによって騒がれる。何の事は無い。マスメディアがメディアスクラムによって散々無責任なリークを流し、関係者の話では何々である事が明らかになった的な言い回しで、そういった事実が嘘であっても、そういう話を聞いたのは本当だと逃げ道を残しながら取材源の秘匿によって責任を回避する。事実上やりたい放題の有罪推定でメッタクソに叩きのめして地獄に突き落として来た事を、そのまんまネット環境を手に入れた人達が真似しているだけの話で、何を驚いているのか理解出来ません。
こう言った話を書き出すとキリが無いので止めますが、マスメディアだけではなくて、国家に対しても、政治家に対しても、企業に対しても、学校の教師、医者、隣人と、ことごとく信頼の土台が破壊されつくしています。その先兵となって土台を木っ端微塵にぶち壊した原動力は間違いなくマスメディアにもある。前大戦でも戦争を翼賛し国民を煽り、政治家を追い詰めて行き、後戻り不能の状況を作り出したもっとも重い戦犯であるとも言える。やっている事は基本的に何も変わっていない。
つづく!!