前回の続きです。

筑紫さんの話に戻りますが、彼の番組なんかに例えば護憲派バリバリの論者が登場するとする。そうすると、筑紫さんもどちらかと言えばそういう方向性なので、お互いに護憲がいかに大切かなんて素人の床屋談義みたいな話を延々とする。

ハッキリ言えばそんな話を聞かせられても困るわけで、そういう場合は例えば筑紫さんが、自分は護憲派の意見の方がシンパシーを感じるけれど、それをいったんわきにおいて、護憲がいかに大切かなんて話をここで延々していてもしょうがないので、今日は改憲派を演じますと言って、護憲派のゲストにビシバシ改憲の必要性とか護憲の矛盾点とかを突っ込んでそういう問題があるという事を啓蒙する事が、本当の意味で言えばジャーナリズムではないかと思うわけです。

護憲派のゲストの時は一緒に9条最高と盛り上がって、改憲派のゲストの時は護憲派としてビシバシ質問するというのは、明らかに自分の思想信条をもろに投影してしまっている。それじゃジャーナリズムではないわけです。

護憲派に媚びてそっち方面の意見を引き出すのであれば、改憲派の時も同じスタンスでやらないと、みている方からすれば、この人は偏っているからなという見方は避けられません。むしろ自分の信じる事であればある程、余計に厳しく批判する必要が本当はあるわけです。それが無いと、彼の言説が気持ちいいと感じる人達の間での内輪ウケでしかなくなっちゃう。

アメリカのメディアなんかは大統領に支持の表明や、自分達が何々会社の子会社である事をキチンと言うと書きましたが、それは自分達が誰々の支持だから割り引いてみて下さいと表明するというのが眼目では実はありません。

あくまでも表向きはそうですが、誰々支持と言ったからには、何々会社の子会社であると言ったからには、キチンとそこに対する目線を甘くは出来なくなるという表明にもなるわけです。

仮にも大メディアであれば割り引いてみて下さい許してねじゃ済むわけないのは当たり前ですから、よりいっそう拠り所になるものへの厳しい批判をしなければならないという十字架を背負う事となる。それをしなければもう信用されなくなる。

だから日本の談合メディアにはそういう報じ方が出来ないわけです。だいたいこの国では報道に携わっている人間がコマーシャルにでて特定の企業の広告塔になったりしている国です。そういう奴がニュース番組なんかに出てくる事自体、考えられない状況です。

何々会社の子会社だから、この問題は批判出来ないんだよ、じゃなくて、何々会社の子会社であるからこそ、よりいっそうこの問題には突っ込まなきゃならないという足枷をはめる事となるわけです。単なるエクスキューズとして言うわけじゃありません。自ら足枷をはめる事によって、より公正であろうとする。バイアスがかかります許して下さいではなくて、退路を断って報道しようとするわけです。そうじゃなければ信頼だってされない。

こういう厳しい環境に立つ事なんて全くしていない談合メディアで、信念を持っていますと言うのと、自分達は公正中立ではない所詮一私企業でしかありませんと表明した上で、出来る限り誠実に報道しようとする姿勢と、どちらが信用出来るでしょうか?立ち位置系である事自体が問題なんじゃないわけです。立ち位置系ではないと装う事が問題であるわけで、例え立ち位置系でしかなくとも、どれだけコミットメントがあるかが本当は問われる。

自分が護憲派だと表明するのはいいと思う。それは誠実だと思います。そしてそれに基づいて最終的に持論を展開するのもいいと思う。しかしずっとそれを見せられても、それじゃ護憲に同意出来なけりゃ見なくていいと言っているのと変わりません。

それをいったんわきにおいて、その場ではその場の役割を演じてみせる事によって、啓蒙出来る問題点というのがあるはずです。それが必要な局面がある。

そうする事によって、例えば改憲派にとっては、憎き敵である護憲派に見える筑紫さんも、なんだ実は改憲の必要性とか護憲の矛盾点がわかっているのだなという事がわかる。その上で、それでも思想信条としては、意見としては護憲を望むという彼のその真意を聞いてみようかという話にもなる。

もちろんその逆もありえて、護憲派バリバリの彼があえて改憲派の役割を演じる事によって、自分達がよって立つ護憲のエビデンスの矛盾点にも気付く事が出来るし、改憲と言ってもなるほどそれなりに筋が通っている所もあるかもしれないと気付く事も出来る。

そういう気付きが生まれれば、護憲と改憲で分断されていてもしょうがない部分もあるのではないか?というアウフヘーベンに辿り着く事が出来る。

改憲派イコール戦争、軍国主義という単純な図式ではないわけで、多くの改憲派の人だって目指す方向性は恒久平和であるわけです。その為の方法論が少し違うという話でしかない。改憲派、断固決然、軍備増強、右翼と言った感じで、本当は全く別の論点なのに串刺し化されちゃう所が不毛なわけです。

コソボ紛争の際、ドイツの左翼は二分して、ドイツがNATOの一因として軍隊を出すべきかどうかでもめた。一方は我々は二度とナチスの悲劇を繰り返さない為に、一切戦争しないと決めたわけだから出すべきではないと言った。

それに対してハーバマスなんかを筆頭にしたリベラル派は、それは違うと言った。自分の隣国でナチスのような強権によって(これはPR会社の戦略に乗っちゃったわけですが)、無辜の民が傷ついている時に、それを見過ごす事こそナチ的というか、ナチに加担するような振る舞いじゃないかと、軍隊を出せと言って、軍隊を出したわけです。

今から振り返ると、NATOに出した事が必ずしもよかったとは言えませんが、こういう議論が左派の中で起こる。そしてこれは日本ではあまり話題にもならなかった。ストイコビッチがJリーグでゴールを決めた際にNATOへのメッセージを書いたTシャツで爆撃に抗議した事が話題になったくらいでした。

こういう議論がリベラル派の中で出てくる可能性を全く感じない。本当は右でも左でもいろんな人がいるわけで、いろんな議論があってしかるべきなのに、そのそれぞれの蛸壺内で気持ちのいい言説を吐いていないと、そこからはじかれてしまう。いったん建て前はわきにおいて合意出来る所を模索して行くという方向性に中々進まない。

自分は改憲の方にシンパシーを感じますがその理由は一点です。立憲主義をキッチリ機能させる為には、現状の憲法ではもう難しいのではないか?という所です。だから戦争したくてそんな事を言っているわけではありません。現行の憲法を守れないから憲法を現実に即した形で変えるのは本末転倒だという反論があるかもしれません。それは全くその通り。本末転倒である事も自覚しております。

しかし現状の統治権力の憲法を無視したやり口というのは実際今の憲法を守っていても平気の平左で行なわれている。これがどうにもならない。歯止めがどこにも無い。これをどうにかしなきゃ民主主義もクソもありません。下の下です。

ただ変えるだけではもちろん同じでしょう。だから我々が憲法に何を意志するのかという合意をリコンファームする為の手段として、現状維持ではどうにもならないと感じているから言っているだけの話です。

もちろん戦争をしたいから改憲したいわけではありませんし、むしろ戦争なんて何が何でも回避する為に、統治権力をキッチリ憲法によってガチガチに縛り付ける為に言っているわけです。

縛りが弱いと感じれば、更に改憲する必要もあるでしょうし、強過ぎて非効率であれば弱める為にも改憲が必要です。だから改憲が必要だという話なわけで、我々の意志を国家に反映させる為の手段として、憲法を利用したいと思っているわけです。

この憲法によって国を縛るという発想は護憲派であってもというか、立憲主義の国に住んでいる人であれば、独裁制にしたいとか、共産主義にしたいとか、封建制にしたいとか考えている人は別かもしれませんが、大多数は同意出来る所ではないかと思うわけです。だから方法論が少し違うという話でしかない。

ですから自分は何らかの方法によって立憲主義を機能させる事が出来るのなら、護憲であろう改憲であろうが構わないとさえ思っています。ただ自分には改憲の方が可能性があり、これからの事を考えても改憲出来る体制と民度を獲得して、常に不具合が生じれば改憲してでも機動的に国家を監視出来る方がいいだろうと思っているわけです。

それを改憲というだけで右翼、軍国主義者というスティグマが張り付いて、そういう人と話もしないという状況が、今の右左の対立にはある。これでは出口はありません。

武装しろというのも安全保障の問題として言っている所というのは実は半分くらいでしかありません。なぜそういう事を言うのかと言うと、日本が独力では安全保障が担保出来ないというフィクションを使って、統治権力が政治的に利用するのを止めさせたいからです。

そのせいで国民は簡単に中国脅威論や北朝鮮断固対処という雄叫びをあげるアホな政治家に乗せられてしまう。アメリカのケツを追いかけて戦争に加担する事もやむなしとなってしまう。

そういう状況をなんとしてでも回避しないと、彼らの権益として利用され続けるからです。それを例えば沖縄利権として利用したり、アメリカ基地利権として利用している輩がいる。防衛利権で甘い汁を吸っている奸賊どもがいるわけです。

反戦平和、非武装中立という崇高な理想も、もうそういう連中からすればおいしい構造を維持出来る、もっとも効果的な援護射撃になっちゃっている。打ち出の小槌状態です。単に理念とか建て前とかを吹き上がらせて満足させれば権益をいくらでも増やす事が出来るわけですから、こんなに安上がりの打ち出の小槌はありません。理念とか建て前はただですから。

そういうやりたい放題の状況に楔を打ち込む為には武装をして選択肢を増やし、我々の手にフリーハンドを取り戻す必要があるだろうと思うわけです。

フリーハンドが無くなって選択肢の無い状態に叩き込まれれば、前大戦の二の舞です。それを避ける為に必要だと思うからそういっているだけで、平和の為に言っているだけです。もちろん非武装でそれが出来るのなら別にそれはそれでいいと思います。そういう切り口だってあるわけです。だから武装と非武装で分断している場合ではなくて、それを越えて連帯出来る場合もあり得る。

食料自給率の問題にしろ、環境問題への対応にしろ、本当の眼目は自給率を上げる事や、環境問題が本当に切実かどうかとは別の所に一番の問題点がある。食料自給率が低いという危機を使って、統治権力がいくらでも不安を煽って権益拡大が出来る構造を何とかしなきゃならない。だから食料自給率を上げる事が重要なのであって、本当に食料危機が起こるかどうかとは別次元に重要な論点があるわけです。

もちろん食料自給率を上げなくても我々がしっかりしていれば済む話ではあるのですが、現に食の不安とか、BRICs諸国の台頭とか、食の安全保障を担保出来ていないという不安を突破口にして様々な腐った構造が見えるわけです。環境対応の必要性の問題もそうです。

食料自給率の問題は本当はたいした問題ではないとか、いや食料危機が起こればお終いだとか、環境問題なんて嘘っぱちだとか、環境破壊を食い止めなければならないとか、そういう論点だけで考えて、二元論的極と極で鬩ぎあっても不毛な話です。それこそまさに権益拡張をはかる勢力からすれば好都合なわけです。自分達に問題点の矛先が向かない。

我々に選択肢が無い状態に放り込んで、フリーハンドを政府が握っていれば、彼らのやりたい放題になってしまう。それを国民の手に取り戻す為に重要であるというのが、一番の論点であって、食料危機が起こるかどうか、環境問題が本当なのか嘘なのかは実はそれほど重要な話ではない。

死刑反対賛成議論だってそうです。死刑賛成と言っている人だって、死刑が野蛮な手段であり、それ以外に方法があれば死刑にしなくてもいいかもしれない。何も死刑がいい事だと思ってないだろうし、人を殺すという矛盾のある制度である事もおそらくわかっている。

しかし現状のこの国でそれを無くしてしまえば、何によってそれを担保するのかというのが、市民性とかヌルい言い方では出来るわけ無いだろうと言う所で、死刑やむなしとなっている人が結構いると思う。被害者遺族の感情的な回復措置をどうやって担保するのか、ここから議論して行けば、賛成派の人だって、そういう手段が担保されるのならとなるかもしれない。

重罰化要求や治安悪化の延長線上での死刑賛成という話であるのなら、それはここまで空洞化してしまった社会に原因があるわけですから、社会の厚みを取り戻す必要があるわけで、それが無いから国家権力に頼らざるを得ないと思わされている。まず社会の厚みをどのようにして担保するのか?という闘争こそ必要であり、その事をやる必要がある。

そしてやはり国家に頼らざるを得ない部分も市民性の成熟の無い現状では間違いなくあるわけだから、それを踏まえて、国家権力の恣意性を透明化しないと、本当は死刑に値しない人も国家に取って有害だからとか、国家の権益増進にとって丁度いいエサになるからと言う理由で暴走を許しかねないわけだから、せめてチェック出来るように透明化はした方がいいと思いませんか?という論点から切って行けば、その事には同意してくれるかもしれない。透明化されていろんな事が白日の下にさらされれば、国家のマインドコントロールも解除出来るかもしれない。

死刑反対を掲げて闘争するだけではなくて、同意出来る論点は連帯の輪を広げる為に、いったん死刑反対という論拠はしまって、接点を繋いで行くという議論が必要なのではなかろうかと思うわけです。

現状ではもうどこもかしこも立ち位置系であるわけで、にもかかわらず信念とか理念のようなものにすがってしまう啓蒙する側とされる側が多過ぎる。実際の社会は立ち位置系だらけなんだから、後はどこでそれに気付いて向き合うかの話でしかない。対応しようがしなかろうが、社会はすでにそういう風にシフトしている。パターナリズムが機能した時代には戻れない。その為の啓蒙活動が必要なんじゃないかと思っているわけです。そして気付いた人間がいかにそれを言い、行動して行くか。

だから田原のやり方というのではやっぱり限界がある。論点や問題点や解決出来る妥協点の難しさという不可能性ばかりが可視化されて絶望を埋め込むだけになってしまう。もちろん絶望が可視化出来ないと始まらないのは確かなんですが、あの人のやり方だと、議論の後に握手という方向性には持って行けそうもない。

それを考えると、筑紫さんというのは非常に真面目な方だったと思うし、こういう困難さもよくわかっている人だったと思う。田原のように論点をさらけ出して壁を明らかにするという攻撃ばかりではなくて、包摂出来る魅力も知性もある人に思えた。イメージ的にも柔らかさを持っていたし、ユーモアもセンスもあったと思う。自分の信念はいったんわきにおいて、こういう所を繋いで行く可能性を持っている人だったと思えるわけです。

そして何より彼はそれを伝える圧倒的なリソースも握っていた。特権を認められていたわけだから当然責務もあった。にもかかわらず、彼はその信念が強烈過ぎたというのもあり、どうしてもそこから抜け出せなかったというか、そういうイメージを見ている人間に与えてしまっている。それが自分が筑紫さんの言説があまり好きではないという理由です。

もちろん筑紫さんにとって反戦平和を相対化するなんて事は出来ないくらい切実な問題だったのでしょう。我々はその彼が見ていた現実は見えていない。だからそれを伝えたかったのだと思う。不可能に近い戦いをそれでも愚直に挑み続けなければならない彼の立ち位置というのも理解出来ます。しかしどんなに彼の信念が正しくて、誠実であったとしても、結局の所、彼だって立ち位置系でしかないわけです。

それでもつづく!!