続きです。
しかし戦争は勘弁してほしいけれど、流動化は必要なんじゃねえか?と言う気はする。当たり前ですが官から民へなんて陳腐なスローガンが言いたいわけではありません。この国でのそれは民へと移行すると言っても、それは政府のケツ舐め企業が儲かるような所を規制緩和しているだけですので、ハッキリ言えばインチキしても責任転嫁出来るシステムに置き換わっているだけです。
それに官が腐っているのは確かに間違いないでしょう。しかし大手マスメディアだって民であるわけですから、民だってあちらこちらが腐っている。責任者出て来いと、無責任な民衆が散々非難したあげく、責任者達は責任を取らずに末端に押し付けて逃げ切れるようなスキーム作りにせっせと勤しみ、結果無責任に非難をして来た個人個人の自己責任へと帰結してしまう。
何を非難していても、結局個人の自己責任で何とかするしかないという風になる。無責任だ!というのが批判として言われたりしますが、責任が無い人が無責任である事は何の問題も無い。しかし責任のある人間が責任を取らない無責任はこれは問題どころの話ではない。
これは日本だけの話ではない。サブプライム問題なんて良い例です。あれはどこかに責任を帰属させると言っても、リスクを分配してしまっているので、みんな悪いという話になってしまう。したがって誰も悪くないと言っているのと同じです。誰も悪くないという事は、結局自己責任という事になる。
各々自己責任で勝手にしろ、その代わり政府に逆らったら重罰化だ、マスメディアも、国民も総動員して二度と復活出来ないように血祭りに上げる。挙げ句の果てに死刑。そういう方向性にどんどん進んでいる。
アメリカなんかは自由と民主主義を掲げて戦争したりするわけですが、その事によって、世界からの怨嗟が深まり、テロの脅威にさらされ、結果的に国内を監視したり重罰化したり、自由と民主主義のお題目が不自由を生み出すと言う帰結を招いている。
従来のパターナリズムの枠組みが壊れてしまったのは、ミドルマンをマスメディアが独占するようになり、個人からミドルマンとしての役割を引きはがしてしまった所に原因もあります。だから赤の他人であって、本当に我々の事なんて考えているわけなど無いのですが、マスメディアにパターナリズム的な何者かを期待している所もあるのやもしれません。
そして時代はネット環境へと進み、ミドルマンの役割が再びマスメディアから個人へと、少しずつ移行している端境期に今はあるのかもしれません。しかしこのミドルマンというのは、結局の所前時代的なミドルマンとは意味が全然違う。
マスメディアであれば、責任は確実にマスメディアにあるわけですが(まあ全然責任なんてとりませんが)、ネットになってしまえば、それすらも匿名にかき消されてしまう。もちろん当然従来の意味でも、マスメディア的意味でも、パターナリズムにはなり得ない。どこにも責任の無い無責任は結果的に個人の自己責任に行き着く。みんなが自由に振る舞う事によってより不自由に縛られる帰結を生み出す。
だからもちろんそういった責任者がしらばっくれる為の流動化は論外であるのは間違いないのですが、競争に参加出来て、失敗しても復活出来るような流動化は何とかしたほうがいいような気はする。
しかしこれも非常に難しい問題があって、じゃあ仮に流動化して、既得権の権益を取り上げて、それを分配して行けば上手く行くのかというと、今度はその事によって新たな既得権が生まれてしまう。べき法則、ようするに自由化すると、今度は弱肉強食になるわけだから、常に勝者と敗者が生まれ続け、最終的には生き残ったものの独占状態になってしまう。
メディアが無能なので彼らの既得権を剥奪して、自由化しましょうとなればそれで問題が解決するのかというと、もっと民意に媚び媚びのメディアや、もっと面白おかしさだけを追求した刺激的だけど中身がゼロのメディアの方が人気になる可能性も大いにあるわけで、そこが勝ち続けて独占しちゃえば、今よりももっと絶望的な状況になりかねない。そういう意味でも現状のマスメディアには責務がある。
いろんなポータルサイトが乱立して、みんな自由に選んでいるのに、結局は日本ではまだかろうじてヤフーの需要と鬩ぎあっていますが、世界的に見るとグーグルの一人勝ちになってしまう。そうすると常に勝ち続けるという帰結が生まれてしまい、何でもやりたい放題になってしまう。イニシャルエンドウメントによって勝ち負けは決まってしまう。それを牽制するものが結局国家しか無くなる。国家は無能なんですから、これもやっぱり自己責任になる。
自己責任自体は当然の事なんですが、最近のそれは個人で抱えきれなかったりするのに、個人で抱えるしかないような、そういうむき出しの自己責任になっているような気がします。そして勝手にしろという事なのかと思えば、より不自由によって縛るような流れになっている。
日本の銀行だってあんなにあったのに、いつの間にやら合併だ吸収だで、もともと何々銀行と何々銀行が合体したのかわからなくなってしまうくらい、少なくなっちゃった。もちろんこの国では国家が牽制なんてするわけないので、やりたい放題になってしまう。しかも国家と結託して。レッセフェールに叩き込めば、競争によってより良い状態を目指そうとするのではないか?という発想は非常に素朴な考えで、ある時期まではそうかもしれませんが、勝ち負けが決まって来て、ある程度淘汰され、生き残った僅かな所で牛耳るようになってしまうと、結果的に自由化しないほうがよかったのではないかという帰結を生み出しかねない。
選択肢を失い独占を許す結果になりかねない。機会の平等を担保した結果、格差は拡大し固定化してしまう。ロングテールは所詮ロングテールでしかない。
しかし小泉改革が不人気になり、格差拡大が騒がれる。そうすると小泉政権のときは抵抗勢力だなんて言われていた人達と、格差によって苦境に叩き込まれている人の意見が同じになってしまったりする。流動化に抗うような力学です。
金だけではないとか、弱者に優しい社会をとか、頑張れば報われる社会をとか、そんな社会は有史以来一度も無いにも関わらず、昔、そうであったかのような錯覚を埋め込み、過去を美化した下らない美辞麗句の裏には既得権護持の力学に絡めとられている所がある。だからこれでも格差拡大が解消される事など絶対にありえない。もともと儲かっていた奴がもっと儲かる社会になるだけです。
例えばサブプライム問題によって、レバレッジを駆使した金融工学の危うさに疑義が呈される。それは確かに話はわかる。しかしレバレッジを駆使出来るという事は、小が大に戦いを挑む為にはあった方が逆転のチャンスは間違いなくあるわけで、サブプライム自体も貧しい人でも家が買えて、そのリスクをみんなで負担するというのは、考え方としては悪い事ではないような気がする。
リスクをリスクだと啓蒙出来なかった格付け会社に問題はもちろんあるだろうし、リターンの大きいリスクに投資して加熱してしまったヘッジファンドにも原因はある。だからと言って、流動化はけしからんという話になってしまえば、勝つ側は常に勝ち続け、やがてそこに挑む事すら出来ない社会になってしまう。
だから単純に流動化か?非流動化か?とか、グローバリゼーション是か非か?とか、物事を切る事が出来なくなってしまっている。ここに向き合わないと、平等に不幸になる社会に反対するロジックが力を失う。
タイで空港を占拠してデモが行なわれていました。平気で日本のバカメディアは反政府勢力とか言ってましたが、この問題も非常に微妙な問題点が見えます。
昨今食料自給率の向上を叫ぶ力学や金融やグローバル化へのアンチな流れ、それは確かに国内的には話はわかりますが、先進国の自給率を上げ内需を拡大させるという事は、タイのような輸出や安い労働力を駆使して、外国から金を呼び込んで発展している国というのは、いったんグローバライゼーションの流れに乗ってしまうと、もう簡単には元には戻れないという帰結を生み出します。日本の地域が回復不能の空洞化を招いている事と似ている。
バッファのある国は、比較的この切り替えも出来ますが、かつかつで発展している国というのは、日本の非正規労働者が切られたり、内定取り消しでガッカリの学生達のような現象が、ダイレクトで国家全体に直撃してしまう。
そしてそれはルサンチマンに繋がる。先進国への恨みつらみになりかねない所もあるわけです。弱者救済という言葉もその外側の不平等を黙認してこそ初めて担保出来る方向性でもありますので、単純な言い方は出来ない。
もちろんタイの人たちは、彼らで内需で食って行けるような社会を構築するしか無いわけですが、日本の国内がグローバル化でスポイルされた以上に、そういう国は発展と引き換えに、それ無しでは食って行けないような状況にスポイルされちゃっている。イスラムの人たちの西側諸国への怒りだってそういう所に根がある。
先進国はやはりその責任があるわけですから贈与をすべきではないかとも思えるわけですが、先進国は先進国なりにかつかつな状況に追い込まれているので、贈与なんて話になれば、そんな金があるなら俺達に回せという風になっちゃう。
我々がある程度、国民すべてが不安を感じずに余裕が生まれるような状況になれれば、そういう話にもなるのでしょうけれど、今の統治権力の力量、政治家のアホさ加減、役人やマスメディアの利権に邁進している姿を見ていると、そんな時代は永久に来そうも無い。
弱者救済を言うにしても、流動化をせき止めて従来の既得権をそのままにしておけばいいのかと言えば、昨今のメディア批判や官僚批判なんかを考えれば、流動化しろと言っているようにも聞こえるし、一方ホリエモン、村上ファンド、小泉竹中改革、そしてサブプライム問題に至る流れ、派遣会社に対する非難、金融資本主義、グローバライゼーションなどへのまなざし、などなど流動化をせき止めろという風にも聞こえる。どちらも必要な気もするし、ダメな気もする。ヘタすると一人の人間の中で、こう言ったねじれが起こっていて、結局流動化したいのかしたくないのかがよくわからなかったりする。
立ち位置系でしかない現在、この力学に抗う為には非常に重要な方法がそこに隠れている。まずは理念とか信念みたいなものも全てある立ち位置からの視点に過ぎないと相対化する。まずいったんしまう。例えば今回のこの長ったらしいエントリーでは、ずっとリベラル派を批判して来たので、彼らを例にとりますと、弱者救済、市民性の構築、制度の可視化、過度なグローバル化への警告、金融資本主義へのアンチなまなざし、と言った感じで、この先に例えば、死刑反対、反戦平和、9条護持といった感じで、ある種の定型化された一本筋の通ったクリシェがあります。
これでは矛盾がどうしても出てくる。流動化反対と言う割には官僚を批判する。官僚を批判するのかと思えば再配分を要求する。安心安全への不満を言いながら、監視社会反対、にもかかわらず重罰化反対、弱者救済を言う割には、その外側には無関心、と言った感じで、そういう矛盾点に権益を押し込んでくるような国家のタクティクスに、あまりにも無防備になっちゃっている。
例えば裁判員制度、個人的にはこんなインチキ制度は大反対ですが、この問題なんかが凄く今の問題の切り分け方の難しさを示しています。単純に言えばこの制度は市民に開かれた司法制度にするんだというお題目があります。
しかし実際は裁判員に選ばれた市民は非常に厳しい守秘義務を課せられます。これは憲法違反の疑いがある。結局市民に開いてもヘタをするとこれまでより不透明になる可能性すらある。公務員が守秘義務なんて全く守ってもいないにもかかわらず野放しであるのに、市民がそれをバイオレートすれば、厳しいペナルティが待っている。という事は裁判に問題点があったとしても、それが表に出て来ない仕組みになっているわけです。
しかし市民に開いたという言い訳になり、その事によって可視化を言う事も出来る。そして何より判決に対して、市民を取り込む事によって司法のプロフェッショナル達が責任を回避出来る。市民のせいに出来るわけです。そして細かい話は表には出て来ない。
実際市民がいくら判決を出しても、裁判官がそこに乗らなければ事実上、多数決であっても市民だけの決定では決められない。裁判官がようは決めるわけです。しかし市民のせいに出来る。究極的には死刑の判決も出る事があるわけですから、国家が人殺しを強要している制度であるとも言えますので、極端な見方をすれば徴兵制に近いと言えない事も無い。
しかも先日から被害者参加制度も始まりましたから、感情の問題と制度の問題の区別が出来ない今の民度から考えると、重罰化にする為の正当性を調達しようとしているようにも見える。被害者家族が涙ながらに訴えているのを見て、検察の証拠に疑問点があるかないか、適正手続きがキチンと行なわれているか否かだけを吟味して判決をだせと言っても、事実上不可能に決まっている。
と、大反対する問題点山積なんですが、この一見市民に開かれるという見え方が非常に厄介な事態を招いている。
これまでリベラル勢力なんかが、制度の可視化、市民に開けとずっと言って来たわけで、じゃあ元の不透明な構造のままでいいのか?と言われると、まあとりあえず市民に開くという事は重要な気がしてしまうので、反対を言いづらい市民化というお題目を盾に取られてしまっている。完全に反対するとなると、司法権力の恣意性をそのまま許すのか?という話になってしまう。
自分のように市民性の成熟が不可欠とか、制度の恣意性の排除とか、制度の可視化とか、言ってしまっている人間にとっては、何となく最初は困難があるだろうけれど、市民性の成熟には必要な気もしてしまう。
もちろん今のバカメディアの有罪推定報道に乗せられるアホな市民なんかが入って行ってこんな制度をドライブさせれば、暗黒裁判が待っていそうな気はしますが、こういうきっかけが無いと学ぶ事が出来ないではないかというジレンマも感じてしまう。したがって非常に微妙な所を突かれて上手い事権益を押し込んできやがるなと厄介な気持ちがする。
これは従来の市民に開かれた制度を、という大義名分を絡めとって、その大義名分故に反対しづらい方向性をどんどん押し込んでくる。だからその大義名分がかえって足を引っ張ってしまうようなそういうタクティクスによってどんどん押し込まれている感覚がある。
中々終わらず、困った・・・・・それでもつづく!!
しかし戦争は勘弁してほしいけれど、流動化は必要なんじゃねえか?と言う気はする。当たり前ですが官から民へなんて陳腐なスローガンが言いたいわけではありません。この国でのそれは民へと移行すると言っても、それは政府のケツ舐め企業が儲かるような所を規制緩和しているだけですので、ハッキリ言えばインチキしても責任転嫁出来るシステムに置き換わっているだけです。
それに官が腐っているのは確かに間違いないでしょう。しかし大手マスメディアだって民であるわけですから、民だってあちらこちらが腐っている。責任者出て来いと、無責任な民衆が散々非難したあげく、責任者達は責任を取らずに末端に押し付けて逃げ切れるようなスキーム作りにせっせと勤しみ、結果無責任に非難をして来た個人個人の自己責任へと帰結してしまう。
何を非難していても、結局個人の自己責任で何とかするしかないという風になる。無責任だ!というのが批判として言われたりしますが、責任が無い人が無責任である事は何の問題も無い。しかし責任のある人間が責任を取らない無責任はこれは問題どころの話ではない。
これは日本だけの話ではない。サブプライム問題なんて良い例です。あれはどこかに責任を帰属させると言っても、リスクを分配してしまっているので、みんな悪いという話になってしまう。したがって誰も悪くないと言っているのと同じです。誰も悪くないという事は、結局自己責任という事になる。
各々自己責任で勝手にしろ、その代わり政府に逆らったら重罰化だ、マスメディアも、国民も総動員して二度と復活出来ないように血祭りに上げる。挙げ句の果てに死刑。そういう方向性にどんどん進んでいる。
アメリカなんかは自由と民主主義を掲げて戦争したりするわけですが、その事によって、世界からの怨嗟が深まり、テロの脅威にさらされ、結果的に国内を監視したり重罰化したり、自由と民主主義のお題目が不自由を生み出すと言う帰結を招いている。
従来のパターナリズムの枠組みが壊れてしまったのは、ミドルマンをマスメディアが独占するようになり、個人からミドルマンとしての役割を引きはがしてしまった所に原因もあります。だから赤の他人であって、本当に我々の事なんて考えているわけなど無いのですが、マスメディアにパターナリズム的な何者かを期待している所もあるのやもしれません。
そして時代はネット環境へと進み、ミドルマンの役割が再びマスメディアから個人へと、少しずつ移行している端境期に今はあるのかもしれません。しかしこのミドルマンというのは、結局の所前時代的なミドルマンとは意味が全然違う。
マスメディアであれば、責任は確実にマスメディアにあるわけですが(まあ全然責任なんてとりませんが)、ネットになってしまえば、それすらも匿名にかき消されてしまう。もちろん当然従来の意味でも、マスメディア的意味でも、パターナリズムにはなり得ない。どこにも責任の無い無責任は結果的に個人の自己責任に行き着く。みんなが自由に振る舞う事によってより不自由に縛られる帰結を生み出す。
だからもちろんそういった責任者がしらばっくれる為の流動化は論外であるのは間違いないのですが、競争に参加出来て、失敗しても復活出来るような流動化は何とかしたほうがいいような気はする。
しかしこれも非常に難しい問題があって、じゃあ仮に流動化して、既得権の権益を取り上げて、それを分配して行けば上手く行くのかというと、今度はその事によって新たな既得権が生まれてしまう。べき法則、ようするに自由化すると、今度は弱肉強食になるわけだから、常に勝者と敗者が生まれ続け、最終的には生き残ったものの独占状態になってしまう。
メディアが無能なので彼らの既得権を剥奪して、自由化しましょうとなればそれで問題が解決するのかというと、もっと民意に媚び媚びのメディアや、もっと面白おかしさだけを追求した刺激的だけど中身がゼロのメディアの方が人気になる可能性も大いにあるわけで、そこが勝ち続けて独占しちゃえば、今よりももっと絶望的な状況になりかねない。そういう意味でも現状のマスメディアには責務がある。
いろんなポータルサイトが乱立して、みんな自由に選んでいるのに、結局は日本ではまだかろうじてヤフーの需要と鬩ぎあっていますが、世界的に見るとグーグルの一人勝ちになってしまう。そうすると常に勝ち続けるという帰結が生まれてしまい、何でもやりたい放題になってしまう。イニシャルエンドウメントによって勝ち負けは決まってしまう。それを牽制するものが結局国家しか無くなる。国家は無能なんですから、これもやっぱり自己責任になる。
自己責任自体は当然の事なんですが、最近のそれは個人で抱えきれなかったりするのに、個人で抱えるしかないような、そういうむき出しの自己責任になっているような気がします。そして勝手にしろという事なのかと思えば、より不自由によって縛るような流れになっている。
日本の銀行だってあんなにあったのに、いつの間にやら合併だ吸収だで、もともと何々銀行と何々銀行が合体したのかわからなくなってしまうくらい、少なくなっちゃった。もちろんこの国では国家が牽制なんてするわけないので、やりたい放題になってしまう。しかも国家と結託して。レッセフェールに叩き込めば、競争によってより良い状態を目指そうとするのではないか?という発想は非常に素朴な考えで、ある時期まではそうかもしれませんが、勝ち負けが決まって来て、ある程度淘汰され、生き残った僅かな所で牛耳るようになってしまうと、結果的に自由化しないほうがよかったのではないかという帰結を生み出しかねない。
選択肢を失い独占を許す結果になりかねない。機会の平等を担保した結果、格差は拡大し固定化してしまう。ロングテールは所詮ロングテールでしかない。
しかし小泉改革が不人気になり、格差拡大が騒がれる。そうすると小泉政権のときは抵抗勢力だなんて言われていた人達と、格差によって苦境に叩き込まれている人の意見が同じになってしまったりする。流動化に抗うような力学です。
金だけではないとか、弱者に優しい社会をとか、頑張れば報われる社会をとか、そんな社会は有史以来一度も無いにも関わらず、昔、そうであったかのような錯覚を埋め込み、過去を美化した下らない美辞麗句の裏には既得権護持の力学に絡めとられている所がある。だからこれでも格差拡大が解消される事など絶対にありえない。もともと儲かっていた奴がもっと儲かる社会になるだけです。
例えばサブプライム問題によって、レバレッジを駆使した金融工学の危うさに疑義が呈される。それは確かに話はわかる。しかしレバレッジを駆使出来るという事は、小が大に戦いを挑む為にはあった方が逆転のチャンスは間違いなくあるわけで、サブプライム自体も貧しい人でも家が買えて、そのリスクをみんなで負担するというのは、考え方としては悪い事ではないような気がする。
リスクをリスクだと啓蒙出来なかった格付け会社に問題はもちろんあるだろうし、リターンの大きいリスクに投資して加熱してしまったヘッジファンドにも原因はある。だからと言って、流動化はけしからんという話になってしまえば、勝つ側は常に勝ち続け、やがてそこに挑む事すら出来ない社会になってしまう。
だから単純に流動化か?非流動化か?とか、グローバリゼーション是か非か?とか、物事を切る事が出来なくなってしまっている。ここに向き合わないと、平等に不幸になる社会に反対するロジックが力を失う。
タイで空港を占拠してデモが行なわれていました。平気で日本のバカメディアは反政府勢力とか言ってましたが、この問題も非常に微妙な問題点が見えます。
昨今食料自給率の向上を叫ぶ力学や金融やグローバル化へのアンチな流れ、それは確かに国内的には話はわかりますが、先進国の自給率を上げ内需を拡大させるという事は、タイのような輸出や安い労働力を駆使して、外国から金を呼び込んで発展している国というのは、いったんグローバライゼーションの流れに乗ってしまうと、もう簡単には元には戻れないという帰結を生み出します。日本の地域が回復不能の空洞化を招いている事と似ている。
バッファのある国は、比較的この切り替えも出来ますが、かつかつで発展している国というのは、日本の非正規労働者が切られたり、内定取り消しでガッカリの学生達のような現象が、ダイレクトで国家全体に直撃してしまう。
そしてそれはルサンチマンに繋がる。先進国への恨みつらみになりかねない所もあるわけです。弱者救済という言葉もその外側の不平等を黙認してこそ初めて担保出来る方向性でもありますので、単純な言い方は出来ない。
もちろんタイの人たちは、彼らで内需で食って行けるような社会を構築するしか無いわけですが、日本の国内がグローバル化でスポイルされた以上に、そういう国は発展と引き換えに、それ無しでは食って行けないような状況にスポイルされちゃっている。イスラムの人たちの西側諸国への怒りだってそういう所に根がある。
先進国はやはりその責任があるわけですから贈与をすべきではないかとも思えるわけですが、先進国は先進国なりにかつかつな状況に追い込まれているので、贈与なんて話になれば、そんな金があるなら俺達に回せという風になっちゃう。
我々がある程度、国民すべてが不安を感じずに余裕が生まれるような状況になれれば、そういう話にもなるのでしょうけれど、今の統治権力の力量、政治家のアホさ加減、役人やマスメディアの利権に邁進している姿を見ていると、そんな時代は永久に来そうも無い。
弱者救済を言うにしても、流動化をせき止めて従来の既得権をそのままにしておけばいいのかと言えば、昨今のメディア批判や官僚批判なんかを考えれば、流動化しろと言っているようにも聞こえるし、一方ホリエモン、村上ファンド、小泉竹中改革、そしてサブプライム問題に至る流れ、派遣会社に対する非難、金融資本主義、グローバライゼーションなどへのまなざし、などなど流動化をせき止めろという風にも聞こえる。どちらも必要な気もするし、ダメな気もする。ヘタすると一人の人間の中で、こう言ったねじれが起こっていて、結局流動化したいのかしたくないのかがよくわからなかったりする。
立ち位置系でしかない現在、この力学に抗う為には非常に重要な方法がそこに隠れている。まずは理念とか信念みたいなものも全てある立ち位置からの視点に過ぎないと相対化する。まずいったんしまう。例えば今回のこの長ったらしいエントリーでは、ずっとリベラル派を批判して来たので、彼らを例にとりますと、弱者救済、市民性の構築、制度の可視化、過度なグローバル化への警告、金融資本主義へのアンチなまなざし、と言った感じで、この先に例えば、死刑反対、反戦平和、9条護持といった感じで、ある種の定型化された一本筋の通ったクリシェがあります。
これでは矛盾がどうしても出てくる。流動化反対と言う割には官僚を批判する。官僚を批判するのかと思えば再配分を要求する。安心安全への不満を言いながら、監視社会反対、にもかかわらず重罰化反対、弱者救済を言う割には、その外側には無関心、と言った感じで、そういう矛盾点に権益を押し込んでくるような国家のタクティクスに、あまりにも無防備になっちゃっている。
例えば裁判員制度、個人的にはこんなインチキ制度は大反対ですが、この問題なんかが凄く今の問題の切り分け方の難しさを示しています。単純に言えばこの制度は市民に開かれた司法制度にするんだというお題目があります。
しかし実際は裁判員に選ばれた市民は非常に厳しい守秘義務を課せられます。これは憲法違反の疑いがある。結局市民に開いてもヘタをするとこれまでより不透明になる可能性すらある。公務員が守秘義務なんて全く守ってもいないにもかかわらず野放しであるのに、市民がそれをバイオレートすれば、厳しいペナルティが待っている。という事は裁判に問題点があったとしても、それが表に出て来ない仕組みになっているわけです。
しかし市民に開いたという言い訳になり、その事によって可視化を言う事も出来る。そして何より判決に対して、市民を取り込む事によって司法のプロフェッショナル達が責任を回避出来る。市民のせいに出来るわけです。そして細かい話は表には出て来ない。
実際市民がいくら判決を出しても、裁判官がそこに乗らなければ事実上、多数決であっても市民だけの決定では決められない。裁判官がようは決めるわけです。しかし市民のせいに出来る。究極的には死刑の判決も出る事があるわけですから、国家が人殺しを強要している制度であるとも言えますので、極端な見方をすれば徴兵制に近いと言えない事も無い。
しかも先日から被害者参加制度も始まりましたから、感情の問題と制度の問題の区別が出来ない今の民度から考えると、重罰化にする為の正当性を調達しようとしているようにも見える。被害者家族が涙ながらに訴えているのを見て、検察の証拠に疑問点があるかないか、適正手続きがキチンと行なわれているか否かだけを吟味して判決をだせと言っても、事実上不可能に決まっている。
と、大反対する問題点山積なんですが、この一見市民に開かれるという見え方が非常に厄介な事態を招いている。
これまでリベラル勢力なんかが、制度の可視化、市民に開けとずっと言って来たわけで、じゃあ元の不透明な構造のままでいいのか?と言われると、まあとりあえず市民に開くという事は重要な気がしてしまうので、反対を言いづらい市民化というお題目を盾に取られてしまっている。完全に反対するとなると、司法権力の恣意性をそのまま許すのか?という話になってしまう。
自分のように市民性の成熟が不可欠とか、制度の恣意性の排除とか、制度の可視化とか、言ってしまっている人間にとっては、何となく最初は困難があるだろうけれど、市民性の成熟には必要な気もしてしまう。
もちろん今のバカメディアの有罪推定報道に乗せられるアホな市民なんかが入って行ってこんな制度をドライブさせれば、暗黒裁判が待っていそうな気はしますが、こういうきっかけが無いと学ぶ事が出来ないではないかというジレンマも感じてしまう。したがって非常に微妙な所を突かれて上手い事権益を押し込んできやがるなと厄介な気持ちがする。
これは従来の市民に開かれた制度を、という大義名分を絡めとって、その大義名分故に反対しづらい方向性をどんどん押し込んでくる。だからその大義名分がかえって足を引っ張ってしまうようなそういうタクティクスによってどんどん押し込まれている感覚がある。
中々終わらず、困った・・・・・それでもつづく!!