例えば郵政民営化にしろ、道路公団民営化にしろ、自分は問題点は郵政を民営化するかどうかではない、道路公団を民営化するかどうかではない。それらをしなくとも問題は是正出来るはずじゃないかと批判したのですが、高速道路無料化にしなくとも、道路の無駄を削れればそれでいいではないかという批判もあるのでしょう。こっちは放置して、自民党の案には反対するのはダブルスタンダードではないかと。

これは根本的に意味が全く違います。なぜなら郵政を民営化に仮に出来たとしても、そのこと自体で何らかの構造転換やこの国の問題点を是正出来るのか?というと、財投改革はとっくに終わっていたわけだから、それを真面目にやる気があるなら、別に郵政を民間会社にしなくとも問題は是正出来たはずで、郵政を民間会社にして何らかの善い事が日本全体にあるのかと言うと、全くないとは言わないけれど、あれだけ大騒ぎしてやるほどの話ではないような気がする。少なくとも選挙の争点にして争うような類いの話ではない。

道路公団を民営化するかどうかもしかりで、民営化であろうが国営であろうが、問題がある事には何ら変化はない。民間にした方がそのスキームが貫徹出来るのなら話もわかるけれど、別にどうしても民間にしないと出来ない改革だったのか?と、見直してみるとたいした事はやっていないように見えるし、余計わかりづらくしているようにも見えるので、そこに悪意を感じざるを得ない。

高速道路無料化というのは、道路の無駄を削るという事が一番重要なんじゃなくて、高速道路を無料化にする事そのものが重要な意味が含まれているのではないかと思える政策です。郵政を民営化したり、道路公団を民営化するような、わかり難いし、効果があまり国民的な実感として感じる事が出来ないような政策と違って、この国の構造を転換させるためには有効な手段であるだろうと思えるからです。

分権化による人口分散、内需型の一次産業への転換、超高齢化への対処、多様性を埋め込む為の一手、単純な景気対策、無駄な道路へ金を使う構造の是正、経済の損益分岐点を下げるための産業構造の分散化、実に様々な処方箋が入っている。もちろん最後には我々にかかっているわけですが、我々の手に委ねるも何もリソースがなければ委ねられたって何も出来ません。

もちろんこれらの方向性というのは高速道路を無料にしなくとも出来るではないかという批判もあるでしょう。確実だとは言えないではないかと言いたい人もいるのでしょう。まあそれはそうなんですが、グズグズしている余裕も今のこの国の状態を見ていると無いわけで、今何とかなりそうな方法で、これらを同時に担保出来るような方法を政治家が考えつくとも思えないし、合意出来るようにも思えない。

何も政策を打たなければ、その構造の転換は進まないでしょうし、構造転換する為には、何らかの政策を打たないと前に進まない。その政策が他にあるのか?という問題です。確実でなければ政策を打てないと言い出したら、政策なんて何も打てないわけで、今の今までフィージビリティスタディもクソもなく無駄に金を使い、無意味な政策を延々と続けて来たのに、政権交代した途端にいきなりそんな厳しい要求を突きつけてもクリア出来なくなるだけです。上手く行かないとしたら、高速の無料化前提で是正措置を打てばいい話です。元々ただにするって約束して作ったんですから、その方がスジが通っている。

今のまま成長戦略も無く、構造転換も進まず、ただどこに予算を付けるのかという奪い合いが繰り返されて行けば、もう出口は無くなる。後5年がタイムリミットでしょう。例えば温暖化対策にしろ、高速無料化にしろ、それによって国民負担が現状より増えるという話が、経産省やひも付きの学者達のネガティブなインチキ試算で出て来て、それの一番高い数字だけをインチキメディアが報じたりしますが、これらは現状がこのまま続かないという前提が入っていない。

要するに温暖化対策をしらばっくれたまま、各国からサンクションを受けたりプレッシャーを受けたり、新興国の台頭によってどれくらいのエネルギー価格の上昇や、その枯渇問題がどれくらいの可能性で、それが外交問題に発展した場合、この国の外交力の無さがどのように悪影響を及ぼすのか?とか、外需依存の中央集権体制一極集中少子超高齢化人口減社会を転換させられない場合のネガティブさがどれくらいの影響を及ぼしてしまうのか?とか、それにともなう国民負担がどれくらい増えるのか?とか、現状がこのまま続かないという当たり前さを考慮していないとか、極めて恣意的に低く楽観的に見積もっている場合が多く、温暖化対策や高速道路無料化がただ単に国民負担を増やす為だけの政策であるかのような報じられ方がされる。

しかし当たり前ですが、現状がこのまま続く事などはあり得ないし、現状維持が出来ないから何らかの温暖化対策なり分権化対策なりが必要であるという話になっているという事をニグレクトしている。最悪の事態に備えて対策は打たなきゃならない。事業仕分けにしてもそうですけれど、ただ削ればいいってもんじゃない的な批判も多いけど、それでは削らずにこのまま現状維持で行けるのかと言えば、行けないからやっているわけで、これは単に予算を圧縮するという目的が重要なんじゃなくて、行政の透明化をはからないと外からの投資を呼び込めないから必要だという話になる。後5年もすれば外人の国債比率を上げてもらわないと、どうにもならなくなります。日本人の資産だけでは財政を支えきれなくなる。金が何に使われていて、どんな効果があるのかもわからない代物に投資をするバカはいません。不透明なまま現状維持をしていても、せいぜい5年が限界で、今回の税収不足による予算の内分けなんかを見ていると、もうかなりヤバい段階に入っています。

それを全く度外視して、分権化も必要ないし、人口分散の必要もない、内需転換する必要もなければ、超高齢化放置でOK、多様性なんて無い方がいいし、景気はこのまま悪化して構わない。無駄な道路だろうがなんだろうがバンバン金を使えばいいし、経済の損益分岐点なんて下げる必要は無く、人件費をバンバン削って、新卒を渋ればOK、全部お上にお任せで構わないのだ。とでも言うのなら、これは論点がそもそも全く噛み合ないので、そう思っている人に無料化の必要性を説いても理解してもらえないでしょうけれど、こういった事は是正した方がいいと思う人の方が多いのでしょうから、無料化よりも効果的な何らかの手段があるのなら示してほしい。

単純に道路が無料になって旅行やレジャーが出来るようになるようなレイヤーの問題はたいした問題ではないと書きましたけれど、それだって不景気で煮詰りやすい状況に多くの人がさらされている現在、どっかに行って気分転換出来れば、それも幸福な生活の一つの糧にもなりうるだろうし、若い子達が就職難で四苦八苦している状況の今、どっかに旅をしたりするだけだって、一つの新たな価値観を開くオルタレーションのきっかけになる場合だってあるでしょう。地方へと生活の場を移すという可能性も開く事が出来る。

自分が今いる場所で上手く行かないとか、煮詰まってしまっているような状況を、簡単に新たな場所に移動出来て生活も出来るようになれば、人生において経験出来る選択肢は増えるでしょう。貧しくともその可能性があれば、人は極端に絶望する事無く生活を送る事は出来ると思う。

超高齢化が手遅れになる前に、高速道路を突破口とした分権化、一次産業へのシフトによって内需を拡大して雇用を生み、いったんドロップアウトしたらお終いの社会ではなく、きちんとセーフティネットによってもう一度復活出来るような仕組み、誰でも社会参加が可能になるには、生活だけでなくて時間にも余裕が無いとできませんから、ワークライフバランスによってお任せする政治から引き受ける政治へとマインドを変える。これは育休の取得率を上昇させるのと連動して、少子化に対する対策にもなっている。

農家への価格補償から個別補償への切り替えなんかも、もちろんこういう構造の変化には重要な政策で、例えば現在の日本の米は700%以上の関税で価格を補償して守っている。だけどこれでは毒米問題で大騒ぎしたように、減反政策をやりながらミニマムアクセス米を輸入しなければならないようなサンクションを受ける事になる。それで自給率が下がったと騒いでいるのだから意味が分からない。これでは農業は守れない。零細農家を零細のまま動員装置として利用する為の制度です。

そもそも民族学者で有名な柳田國男が打ち出したこの国の農政本流の発想からすれば著しくかけ離れてもいる。米とか麦とか国民にとっての必需品は安く供給しなければ、生活者が困窮してしまう。それを価格補償なんてやっている状態は生活者を無視した、JAや農水省を守って農業を守らずという自滅の発想です。

農家を直接個別補償によって支援する事によって、外に日本の農産物をどんどん売れるような体制にする事は農業の発展にも重要です。これはヨーロッパやアメリカ、先進国ではむしろ当たり前の政策でバラマキでもなんでもない。価格を補償して農業の自由化を阻止し、関税をかける事によって必要の無い米を外から買い入れて、国内の自給率を下げるなんてのは愚の骨頂です。農家を直接支援して、自由化を阻止するのではなくむしろ開いて、世界のマーケットを相手に商売が出来るようになれば、農業も大きなビジネスチャンスに繋がる。

道路公団民営化の成功例として猪瀬なんかがよくサービスエリアを民間に開放したのでサービスが良くなっていると言っていますが、確かにサービスは良くなり綺麗にもなったので嘘を言っているわけではありません。しかしこれもやっぱりデタラメな話で、昔はファミリー企業がそこを牛耳っていてその事に猪瀬なんかが文句を言っていたわけですが、国が100%もっている民間会社でありながら、民間会社だから介入するなと、益々ファミリー企業や関係企業がやりたい放題に振る舞えるようにしてしまって、実質上サービスが向上していると見せかけは整えていますが、その上前をキッチリはねている。

これもふざけた話で、国民の資産の私物化に他なりません。そこの土地を全部売却するか、不動産会社にして株を全部売却するべきで、地元優先で民間が誰でも参入出来るようにしないと意味が無い。しかも無料じゃないから外部からは入れない。これを無料化すれば誰でも入れるので客も増える。一般道路脇のお店と同じ扱いになる。国道の出入り口のまわりにどういう店を作るのかという、地域主導の土地計画によって地域参加で決めてくれという方向性に変える事になる。これを天下り集団の利権や道路族の利権の為に牛耳らせておいては出口が無い。

民営化会社や料金所で働いている人達はどうするのだ!!という切り口で猪瀬直樹なんかも批判します。そういう人達を斬り捨てるのかと。まあもっともらしい言い分に聞こえますけれど、道路公団の職員が2万人、料金所で働いている人が6000人と言われています。仮にその人達に仕事が無くなったとしても、それ以上の経済効果や雇用の創出が生まれるのだとすれば、その人達の雇用を守る為に、全国民が犠牲になるのは合理的ではありません。今は多くの人が職を失い、安定を失っている時代なわけですから。

それに国鉄の時は50万人も人がいたから大変だったわけですが、それに比べたらたいした数ではありません。何もそういう所で働いている人達を斬り捨てろって話でもないのです。
今後の高速道路の民営化会社の正しい姿というのは、サービスエリアなどの10兆にも及ぶ土地をいかにして活用するのか?という所にかかっている。要するに売却してその土地土地に街が出来上がる可能性が生まれる。当たり前ですが道を作るよりも街を作る方が雇用は生まれる。

不動産開発会社にするにしても、管理会社が必要になる。今でも出入り口が800あって、それを3キロに一つくらいに増やすと2000カ所以上の出入り口が出来る。そこに仮に半分でも街が出来て行けばもの凄く多くの雇用機会が生まれる。単純に不動産会社で雇用すれば、料金所だけでも6000人と言われる雇用の創出なんて楽勝な話です。逆に手が足りないくらいかもしれない。十分に雇用機会を作る事が出来る。それに街や出入り口の数が増えるという事は、公共事業で飯を食っている人達にとっても仕事が増える事になるわけで誰も損しない。

早く無料化して不動産会社にするか土地を売却してしまわないと、地域の拠点を作る事や、活性化や雇用の創出に繋がらない。やっぱり地方はどうしたって不便であるわけで、わざわざ都市部に行かなくとも、地域地域に拠点が出来てそこそこ便利にならないと人も住まない。

結局都会で働いているサービス業などの人達の仕事が地方に流れて行くだけだから、実質雇用は増えないのではないか?という反論もあるでしょうけれど、それが重要な人口分散へのステップになる。分散化してこそ外需一辺倒から内需、一次産業への構造転換も進む。

それが真の意味での地域主権の強力なリソースになる。住民達にとって便利で、地域経済が潤い、住民が参加して地域を再活性化して行く為の手段です。住民による住民の為の町づくり。当然、短期的には格差も生むでしょうし、人口分散としての高速道路無料化がむしろ人口集中という逆効果を生む可能性ももちろんある。しかし今のままの地域に権限は渡さないけれど、責任は取ってねという方向性では、中央集権型の上を向いて口を開けて待っていればいい事があるかもしれないというマインドは変わらない。

結局それは官僚の利権になり、政治家へのキックバックとなってしまう。脱官僚という事は、地域住民のコミットメントによって、官主導の政策決定や土地計画を国民の手に取り戻してそれを補う必要がある。

それが結局めんどくさいと言いながら、官僚の利権を許すな!!というのは筋が通らない。ただ乗り野郎的メンタリティでは、この方向性は上手く回らない。分権化してもクレクレ主義が国家ではなく、それぞれの地方のお上に変わるだけになってしまう。

その社会へのコミットメントを実現する為に、民主党の政策にはワークライフバランスのような方向性も入っている。これは我々が試されてもいる方向性でもある。このままお上依存のクレクレ主義的発想から脱却出来ないのであれば、この国の復活の経路はもう無いでしょう。国民自らそれでいいと思うのだから、もうどうにもなりません。

高速道路が無料化になるとそれ以外の交通手段が廃れてしまうのではないかというのも反対する人達の一つの根拠になっている。交通弱者達が影響を受けるのではないかと。そういう試算が出て来て、喜んでバカマスコミも報じたりしています。

これも結構おかしな所があって、通勤でバスとか電車を使っている人の多くは、そのまま使い続けるだろうし、バスで言えば高速バスが料金も下がり増えるわけだから、あんまり関係ないのではないかと思える。

要するに人口分散が起こるという事を前提にして言っているのであれば、そりゃ当然都市部の人口が地方に流れて行けば、都市部のバスや電車は人口が減るのだから利用者も減るでしょうけれど、それは分散化するからそうなるのであって、その為に無料化するのだからそんな事は当たり前の話です。

一極集中の現在の構造のままでは、人口減、超高齢化というのはどの道利用者を減らす事になりますから、短期的な目先の利益に縛られると、結局先々どうにもならなくなってからでは手遅れであるわけで、その為の人口分散を考えているわけですから、今の経営者が逃げ切る為の短期的な逃げ切り戦略で交通政策をねじ曲げられちゃかなわない。

今の構造のままではどの道地方は交通の足はどんどん不便になっている。結局車しか移動手段が無い地域が圧倒的であるわけです。そういう構造を転換させる為に、そもそも人口分散が必要だという話になっている。

飛行機会社にしたって人口分散はむしろありがたい話であるはずで、三大都市圏特に東京にばかり人口が集中している現在、羽田線ばかりが混んであとはガラガラの状態です。例えば北海道から石川県に移動するには高速道路では不便に決まっているわけで、高速で移動するのは2~3時間くらいで移動出来る距離ならいいけれど、それ以上になると逆に合理的ではなくなる。人が分散して住むようになれば、飛行機のニーズも増えるだろうし、需要が増えればコストも下がるでしょうから採算もあうようになる。それが観光の再活性化にも繋がるでしょう。

国土交通省というのは全く役に立たない役所で、日本では総合交通政策というのが皆無の状況です。そもそも交通手段の道路や鉄道や飛行機なんかをそれぞれ対立図式で考える事こそが不毛な発想で、国民にとって移動が便利になる、交通をシームレスにしていかに国民に取って便利な交通網にして行くかというのが一番重要な事であるはず。少なくともせっかくバカみたいに金をかけて作った高速道路を、無用の長物にしてしまう事が、合理的な交通政策であるとか、環境対策であるとか、そういう発想そのものがお門違いです。

高齢化社会になれば自動車の運転も難しくなって行くわけだから、都市計画としては歩く事で毎日の生活が事足りるような方向性にして行かなきゃどうしようもない。車を使う時には便利にして、鉄道のアクセスもよくしてあげる。地方都市の中での移動は出来るだけコミュニティバスを作るとか、生活者主体で国土や交通を考える発想が国土交通省には全然無い。利権の道具としてしか考えていない。これをどうにかしないとどうにもなりません。

問題は鉄道で大都市内は黒字で回るけれど、人口が一定より減ると鉄道では赤字になるので道路しかない。鉄道なら鉄道だけの売り上げを考えたり、バスならバスだけの利益を考えたりしているのでは、結局国民にとっての利便性は置き去りにされています。高速道路が無料化されると、鉄道会社が割を食うと言ったような敵対関係で総合交通政策を考えるのではなく、それぞれが相互乗り入れをして利便性を高める事とか、地域を開発するような住宅開発やショッピングセンター、高速バス事業、そういった事業に鉄道会社を優先的に参入させ、地域の開発事業そのものまでも参入させられるようにすると、鉄道会社というのはそういうノウハウも持っているので、そのノウハウを味方に付ければこれほど頼もしいものはない。

この国で自動車免許を持っている人というのは殆どが有権者。そして自動車を使って輸送をしていない企業は殆どない。物流の恩恵という意味で言えば、免許を持ってなくとも、子供であっても恩恵を受けていない人はいないわけで、だから大多数の人にとっては高速道路を無料化する事によって得られるメリットこそあれ、デメリットは少ないはず。一部鉄道会社やフェリー会社なんかは影響を受けるかもしれませんけれど、そういう所にちゃんと地方の再活性化に参加出来るように適切に対策をうてば、この国の構造的な問題を転換する事が出来る。

アメリカは戦前無料の高速道路が無かった時は人口が東部に集中し企業も集中していた。この時は全国の航空網も無かった。しかし無料の高速道路によって人口分散が起こり、世界一の航空網が出来た。航空網を充実させるには人口分散はかなり有効なリソースになる。鉄道網も同じです。

ドイツなんかはアウトバーンの上に高速鉄道を作り、都会には路面電車網を作り、それを深夜まで運転をしている。マルチの交通アクセスを考える事が交通行政であるはずで、先進国はどこもそれを考えている。

高速道路を無料化するなんて、未来に借金を押し付ける気か!!マニフェストなんて支持していない!!なんて吹き上がっていたのではどうにもならない。これは民主党の掲げるあらゆる分野の政策に対する反対の声に対しても同様で、どういうものであるのか自覚して適切にチェックしプレッシャーをかけなければサブスタンスは何も無い状況に陥って、また失われた10年を繰り返すだけになるでしょう。

何度も言いますが高速道路を有料のままにしておく理由は、借金返済でもなければ、財政再建でもありません。高速道路を有料にしておいて得な連中は、役人と政治家と一部のステークホルダー、中央主権国家維持こそが、広告料を独占し既得権護持できる大手マスコミの利権に他なりません。そういう連中の権益の為に多くの国民にとって得になる政策が邪魔されているのが現状です。

自分は比較的政策に関しては割と保守的な立ち位置で眺める癖があります。どんな政策でも必ず副作用があるからです。だけどこの政策に限っては副作用もあるだろうけれど、それを補うだけの効果が期待出来るように思えます。もちろんそれは我々にかかっているわけですが、我々にその気がないのなら、どの道もうどうにもならない。前にも書きましたが自分はどちらかと言うと悲観的にこれからのこの国の先行きを予想しております。ある程度人口バランスが適正化するまでは衰退して貧しくなって行く事は避けられないだろうと本当は思っている。それによってどうにもならなくなってからでは手遅れですので、かなり悲惨な状況にまで落ちる所まで落ちるだろうと。いったんドロップアウトしたら益々お終いの足の引っ張り合いの社会になり、疑心暗鬼は蔓延していくでしょう。それだって日本人が絶滅するわけではありませんからそれも仕方なしと思っている。

政治家や役人なんかに頼ってもろくでもない事になるに決まっているわけで、これはもう不可能である事はとっくにコンセンサスでしょう。

昭和の初期、この国が暴走して道を踏み外して行く時の状況に、今の状況は酷似している。長引く不況、無能な政治家、役人の暴走、大手バカメディアのチェック能力の欠如、国民の民主制に対する絶望。支持したにもかかわらず民主党の政策を指示したわけではないと雄叫びをあげているバカがいっぱいいますけれど、その事一つをとっても民主制が機能していない。政権交代が起こったから民主制がやっと機能したように思えたけれど、それは単なる錯覚でしかなかったというわけです。

昭和初期のその後の顛末を見れば原爆まで落とされて徹底的な敗戦をむかえるまで結局ブレーキは踏めなかった。今はその時と同じように戦争になる可能性は低いでしょうけれど、おそらく同じような悲劇を味合わないとブレーキが踏めないでしょう。国民のマインドは変わらない。考えようによっては前大戦の時の方が物理的に徹底的なダメージを食らったから強制的にブレーキを踏まざるを得ない状況に陥ったわけだから、その物理的な外部からのインパクトが無い分だけ、少しずつ痛みが加速して行って、ブレーキを踏む事が出来ずにズルズルとグズグズと絶望をまき散らして、もっとどうにもならなくなるまでブレーキが踏めないかもしれない。少しずつ痛みが増えるという事は耐性がつきやすいので、慣れてしまうからです。もっと悲惨な事態になるかもしれない。

唯一可能性としてあり得ると思えるのは、分権化して我々が引き受けられるか否かにあると思える。それだって、多分引き受けるのなんてめんどくさいと思う人が大部分であろうし、逃げ切れる連中は逃げ切りにのみ全力を注ぎ、俺に分け前をよこせの足の引っ張り合いは終わらないであろうから、その可能性もか細いものでしかないので本音を言えば無理だと思っています。

しかし仮にその突破口を突破して、分権化が進み、人口分散が進んで、企業が都会から地方に出て行けるようになれば、一次産業への転換も自然に進んで行くであろうし、少子化対策にも一定の効果が見込めるように思える。一次産業というのは人手を必要とするので家族は多い方が有利になるからです。分権化すれば自然に多様性は生まれるであろうし、多少は希望が持てる方向性に進めるかどうかは、先ず分権化によって、人口分散が進むか否かにあると思えます。そこが転がり出せば、後は結構どうにかなるように思える。落ちる所まで落ちる前に、劇的な右肩上がりは無理にしろ、なんとか歯止めがかけられると思えるのです。

民主党の政策というのも、役人のコントロールが全く上手く行かず、財源確保も上手く行かないので、そもそも出来ないような気もするし、4年間キッチリやれば何とかなるかもしれませんけれど、すでに自民党の大臣と大差ない振る舞いをしている愚か者もいるし、鳩山の献金問題もネガティブな影響があるでしょうから、来年の参院選だって怪しい感じがしています。何も出来ずにあっという間にひっくり返る可能性だってある。自民党がより拍車をかけてマヌケなので何とか支持率を保っていますが、それだって記者クラブの利権を守ってもらっている大手メディアの情報操作がかなり影響しているでしょう。チェックが適切になされていない。なので民主党の方向性自体も揺らいでいるので、かなり厳しい状態にあると言えるでしょう。

非常に単純に言うと、小泉改革なるもので、一応目指すと言っていた方向性というのも分権化だと書きましたけれど、これは順番としては小さな政府を優先し分権化をしようとしたのだけれど、国民が耐えきれずに悲鳴を上げて文句を言っていた。だから国民に分配するものを分配した上で、分権化しましょうという方向性に今は切り替わっている。しかし分配するにも分配するものが無いという問題もあるし、俺に分け前をよこせとやり合っているので話も前に進まないのですが、基本的に民主党のマニフェストやインデックスなんかに掲げられた政策というのは、もちろん賛成出来ないものもあるんですけれど、個人的には条件付きで賛成というものが多い。

その条件というのは分権化する事です。この前提が無ければ賛成出来ない。子供手当なんかも分権化して人口分散を進めて行くという前提があって初めて意味が出てくるだろうと思えるし、農業への個別補償なんかもその前提が無ければ次に繋がらない。その前提を担保出来なければ、何をやっても単なるバラマキにしかならず、短期的に救う事が出来たとしても、本質的な救いの手当にはならない。すなわちツケを先送りして、泥舟の沈没の速度を速めるだけです。

その前提を担保するのに効果があるだろうと思えるから、高速の無料化に賛成しているのであって、いわば前提を担保する前提だと思えるからやれと言っているのです。もちろん高速無料化したから、すぐに人口分散が起こるなんて思っているわけではありませんけれど、出来るだけ素早くその体制に移行しないともう時間もない。前提を担保する為に必要な措置を出来るだけ速やかに打つ必要がある。その一手になるだろうと思えるから書いているのです。

もちろんそこを突破出来たからと言ったって問題は山積している。例えば子供手当を例にとりますけれど、人口分散が進んで一次産業への構造転換が進んだとする。その上であったとしても、子供手当で子供を増やす事に対して援助して行くとどういう事になるか?これは簡単な話ですが、高学歴層や高収入な層というのが今現在も子だくさんって訳ではありません。そういう人達は経済的な問題で子供を作らないのではない。だからどっち道子供は作らない。しかし低学歴層というのは今でも出来ちゃった婚なんてパターンが多いように、比較的無計画に子供を作ってしまう。これを支援する事になるわけだから、どういう事になるかと言うと、映画「イデオクラシー」(邦題「26世紀青年」アホなネーミングで泣きたくなりますが、非常に良く出来た悪意満載のSFコメディ映画です)じゃありませんけれど、バカばっかりの社会になってしまう。

実際アメリカなんかはもうそういう状況になっていて、この映画が非常に多くの人に不快感を与えお蔵入りになりはぐった。怒る人がいっぱいいるという事は実際に的を射ているからでもある。日本もすでにそういう状況になっているとも言える。これが益々加速して行くことになるわけだから、バカばっかりの民主主義というのは最悪の状況だとも言える。そうならないような教育の体制が出来ているのかと言えば、今現在でもバカになったと大騒ぎしている輩がいっぱいいるのだから、益々手に負えなくなるでしょう。と言ったように問題は山積みであり、今この段階で必要だと思えるから条件付きで賛成しているだけで、それをやればすべて上手く行くわけではなく、そこから先もやるべき事はいっぱいあるし、民主制によって監視して行く事が必要不可欠です。

中々時間もなくて思うように書き進む事が出来ませんでしたけれど、選ぶのは我々ですから、すでに選択して合意した事とは言え、みんなでその気が無ければ頓挫するでしょう。自分は今の政権の政策の中で、少なくとも高速道路の無料化に関してはやるなではなく、やれのほうがいいと思えます。もちろんそれはあくまで自分がそう思うというだけですので、やるなと言うのも自由ですが、今この国がどういう状況で、必要なものはなんであるのか?

自分にとって必要な事ばかりを言い合いしていたのでは民主主義は機能しません。民主主義が機能しなくても、この国が民主国家でなければ別に構わないのですが、民主国家であるにも関わらず民主主義が機能しないとなると何も出来ない事になる。一度それによって失敗して地獄を味わったのですから、同じ過ちは繰り返して欲しくないものです。


この話題はこれにて!!


26世紀青年 [DVD]/ルーク・ウィルソン,マーヤ・ルドルフ,ジャスティン・ロング

¥1,490
Amazon.co.jp

イエーイ!!ドバイショック?何を騒いでいるのやら、安売りのチャンスじゃん。どんどんオーバーシュートしろ!!ボトムでまってるぜい!!って感じの三日坊主です。こういう時はチャンスなんだから、ごちゃごちゃ言ってないで、みんなそこに乗っかればいいのに。儲けが目の前に転がっているというのに悲観論ばっかり。だから景気も回復しねえんだよ。

上から配分が降ってくるのを待つんじゃなくて、目の前にチャンスが転がってんだから、当てにならないものを待つよりも目の前の手に届くものに手を伸ばせよって話です。その方がよっぽど手っとり早いのに。

なんちゃって。悲観論ばっかりなので、多少明るく書いてみました。

まあこういう時はタイミングですから、そう簡単に復活しそうもないので悲観論が横行してしまうのですが、9000円割れ、8500円割れくらいまでは行きそうですかね。個人的には8000円割れくらいまで行ってくれると尚おいしいのですけれど。月曜日に一気に戻っちゃったらチャンスもクソもないのですが、もう一押し来ねえかな。

日本の政治や経済を憂うような話を書いておりますけれど、それと金儲けは別の話なので、そっちはそっちでよろしくやらせてもらう浅ましさが信条です。さて前回は多様性のお話と、政治的な対立図式が深刻になっちゃったという話を書きました。その辺から続きを書いて行きます。

対立図式を煽って、反対する人を抵抗勢力と名指しして、徹底的にぶっ叩いてしまったが故に、本当は郵政民営化にしたって、小泉改革そのものにしたって、問題点はあったけれど、正しい所だって探せばあるはずなのに、敵対勢力をボロクソに叩いてしまうと、もうそれが正しいかどうかなんて関係ないとばかりに、亀井大臣のような恨みを晴らすための小泉否定、何が何でも否定、全部否定で一つも意味がない。という風になってしまう。

前原大臣が日航の政策でかなりヘタを打っているのも、自民党何が何でも否定という対立図式に対する恨み節が全面に出てしまって、政策的な合理性があれば自民党案だって利用すべきという当たり前の感覚まで失わせてしまっている。見直すと言って意気揚々と拳を振り上げたものの、合理的な政策を埋め込んでおくという簡単なトラップに引っかかって自爆している。ライブドアメール事件再びって感じでした。

民主党の連中や亀井大臣がそういう風に思ってしまうのは、彼らの問題でもあるので、小泉竹中だけのせいではありません。友愛ってどこがだよって気もします。が、そういう敵対図式をあらゆるレイヤーで利用して、何でもかんでも白か黒かで論じようとしていた所は非常によくない事だと思う。特にそこに国民まで巻き込んで、深刻な分断線を引いてしまった。

本当はルール主義を貫徹させなければならない所は、グレーゾーンという言葉がある通り、白黒つけない曖昧な所が多い事こそ、徹底的に是正すべきであったはずで、そっちは適当に誤摩化しているくせに、人の多様性をたった二色で塗りわけて、それをもとにしてこっちか向こうかにわけて考えてしまうような、そういう短絡的な下らないコミュニケーションを蔓延させた責任は許し難いものがあると思える。

だからこの下らない感覚を捨てないとどうにもなりません。政治家や役人達にはある程度お灸を据える必要はありますから、政治家達が政治家やステークホルダーに対して、ある程度恨みを晴らす必要はあるでしょう。やられたらやり返さないと所詮は権力闘争ですから、甘い事は言っていられないのかもしれない。しかし民主党を支持したくせに納得がいかないと拳を振り上げている一般の国民を斬り捨てるような事があっちゃならない。そういう人達が全く納得がいかないような状況に放置してしまえば、破壊されてしまった対立図式の修復は困難になってしまう。

亀井大臣のようなお人が、別に支持されたわけでもないのに政権党に入ってやりたい放題にやっている図式は正直自分だって腹が立つし、社民党の福島なんかが、わかったような顔をして足を引っ張っている光景なんかを見ていると、イライラするし、正直、「死ね!!」と思ってしまう事もしばしばです。大っ嫌いなんですよ本当は。が、そういう人達を支持している人達も少なからずいるわけで、敵扱いしてしまえば、小泉を否定した意味が無くなってしまうのではないかと思える。

最終的にはいずれにせよ決断は下さないとマズいわけで、それをグズグズしているわけにも行かないけれど、反対している連中を敵扱いしてボロクソに叩くような事を繰り返すのは実りがなさ過ぎる。反対する人にはその人なりの理由もあるし、それをまあ多くの人が賛成しているから、納得は行かないけれどしょうがないと思ってもらうような説得を怠っちゃマズい。それを繰り返す事がルサンチマンを中和する効果が多少は期待出来るのではないかと思えます。

それ以外にも目を覆いたくなるような、明らかに適性を欠いていると思える、愚かな閣僚達の振る舞いも目立って来ている。それを任命した鳩山首相の力量もその程度なんだろうし、文句は山ほどあるし、はっきり言って自民党のバカ大臣とレベルは一緒の閣僚もちらほら見える、さっさと首にしろと言いたいのは山々。

しかしコイツらをバカ扱いして叩いても、肝腎の今のこの国の問題の根源には届きません。スッキリするかもしれないけれど、益々出口は遠ざかってしまう。だからバカに向かってバカと言ってもしょうがないので、そんな事に時間を割いている場合ではない。どうやって今の状況を打破するのかを考えないとどうにもならない。

経団連なんかが言う民主党の政策が成長戦略が無いという意味は、今まで通り大企業優遇の方向性を維持せよという意味であって、これからの方向性として目指している日本の社会の姿とは何の関係もない。彼らの企業に金が残り、株主利益が増えるようにしろという意味です。もちろん経営者としてはまあ言い分はわかります。しかしそこを優遇しても、株主の半分は外国資本なので儲かっても海外に流出してしまう。様々な規制緩和をやっても、海外に出資をして行って、海外で資産が増殖して行くだけで日本には帰って来ない。海外から投資が集まって国内の経済成長に繋がればいいけれど、日本の国内の企業に投資をして日本を買う人なんか殆ど出て来ない。借金まみれで、人口は減って行き、超高齢化社会を迎える全く魅力のない国に成り果てている。これを魅力ある国へと変化させる為には、ただ企業を優遇したってどうにもなりません。

黒船だハゲタカだと騒いでいたけれど、実態は日本が黒船として海外に進出していった所ばかりで、逆は殆どなかった。どっちがハゲタカなんだよって話です。まあもちろん日本の企業が外国行って非常識な事をしているわけではないのでハゲタカじゃありませんけど、というかむしろ日本人に対する扱い方よりも外国で外国人に対する扱い方の方が人としてまともに扱っているような気がする。だから規制緩和は規制緩和で別にやるのは構わないけれど、今の構造のままだと、それが日本の多くの国民にとって何らかのプラスになるのかと言えば、殆どが企業が儲かるだけで、多くの国民にその実感は殆ど感じられない構造に変化してしまっている。だからみんなで文句を言っていたのでしょう。

もちろん企業は企業で、マーケットでの競争によって利益を最大化するべきだし、そのこと自体を否定しても仕方が無い(これを悪者扱いする言説もあり、意外と人気があるのが厄介なんですが)。だけど、それが国民生活には直結しない時代に変化しているのだから、それを国策として優遇して行く意味は無い。日本の社会に対して何らかの還元をするようなコミットメントのある企業を優遇すればいい事です。

そういう大企業の広告費に支えられている新聞やテレビが、民主党は成長戦略が無いと言うのも、要するに広告主にとって有利な政策ではないと喚いているにすぎず、ここまでグローバル化が進み、末端まで景気回復の実感が起業の好業績とリンクしていない時代である以上、成長するための戦略そのものが、これまでの必勝パターンには頼れなくなってしまっている。

今までは大企業の工場、製造業にばかり金を出して来た。これからはそういう所を優遇する必要は無い。むしろそこからどうやって金を取り上げるのかを考える事の方が大切で、もちろん取り上げるだけでは本当に逃げてしまうので、社会に還元する事によって優遇されるようなインセンティブメカニズムを設計していく必要がある。企業が日本社会にコミットするようなインセンティブをどうやって埋め込むのか?いかに分権化のリソースとして企業を動機付けるのか?その辺が課題でしょう。

そして例えそうであるしかないとしても、現段階ではそれでも日本経済を底支えしているのもやっぱり間違いないのも確かであり、ダイレクトに景気回復の実感を多くの国民的な実感として感じられなくとも、それで儲かって楽になる人もいる事は確かですし、好業績と末端までの国民にとっての好景気がリンクしていない時代とは言っても、業績悪化は結構ダイレクトに国民生活を直撃してしまう、これまた厄介な構造に変化してしまっているので、末端にポジティブな影響がトリクルダウンするのは時間がかかる上に反応もしょぼいものしかなくなっているのだけれど、ネガティブな影響は速攻響いてしまう。だからこれからは大企業優遇から方向を転換すると言っても、いきなりそんな事が出来るわけもないので、今のパッとしない景気の状況からして、それらを全く打たないで、放置しておくというのも、不満を増大させる要因になる。

つまり大企業を優遇するなという事を要求しながら、それを実際に貫徹して景気回復の見通しが立たなければ、何をやってんだ!!と不満が出て来てしまう。優遇するな!優遇しろ!!二つの解決不能な命題を突きつけている事になる。これに答えるのは簡単な話じゃない。

企業にとってありがたい政策も打つ必要があるのだけれど、それが国民生活にとって問題の先送りではなく、未来への先行投資になるような布石も同時に打たないとマズい。何らかの立ち位置をとった瞬間に、梯子を外したい人がいっぱいいるわけで、そういう連中もそれなりに納得行くような状態にしてあげないと、余計へそを曲げてしまう。

これらを同時に何とかする方法というのは非常に限られていて、どれも確実じゃないと言ってしまえば、何も出来ない。

今民主党不況だと自民党なんかがほざいていますが、デフレ宣言したと言ってもこれまでそれを誤摩化して来たのは自民党ですし、無策だったのも彼らの責任です。が、現政権は民主党ですので、今適切な対策を打てるかどうかは民主党にあるに決まっている。

どうもその能力がないのか、それともやる気がないのか、今イチ反応が鈍いのですけれど、民主党が市場の不信任に対して割と無反応であるのは、背景にこの問題があるわけで、例えば市場を安定させてデフレに対処出来たとしても、その事を国民的な景気回復として実感出来ない時代になっている。かといって対処しないでいると無策だと叩かれる。

多少インフレ気味になるくらいの金融政策によって、おもいっきりケツを押してやらないと日本の景気回復はないのは確かなので、そういった政策は必要なんですが、それが国民的な実感としてトリクルダウンするまでには時間がかかる上に反応もしょぼいものになる。そしてインフレ気味になっているにもかかわらず、国民に景気回復の実感がないとなると、インフレによる悪い方の実感は影響してしまいかねない。

内需中心の産業構造に転換するという事で、円高容認とも受け取れるような発言が閣僚から出て来たりしていますので、どこまで切実に考えているのかはわかりませんけれど、内需中心型の産業構造へ転換すると言ったって、その具対策も打ってないのに、円高をただ放置しているだけでは、構造転換なんて進まないし、実際問題、今失業している人や就職の当てのない人達はいっぱいいるわけで、今の産業構造のまま円高を放置しておけば日本の経済は打撃を受け、そういう時だけは末端がダイレクトに痛い目に合う。

とりあえず合意した政策の中で民主党がやると言っているものの中では、高速道路を無料化してしまうという方法が、両立不可能な要求に対して一定程度満たせるのではないかと思える。だからこれに反対するのは反対するで、それは人の自由なんで好きにすればいいのだけれど、それじゃ具対策が何かあるのか?それよりも確実な方法で両立不可能な要求を満足させる何らかの方策があるのか?それを考えないと話は前に進まない。

しかも民主党が掲げている政策の中からです。勝手に何らかの政策を国民の合意もないのに押し進めるようになったのでは、それは民主主義とは言わない。自民党と同じになってしまう。その事を考えた方が実りがあるでしょう。どこに金を付けるとか付けないとか何を優遇するしないの話ではなくて、構造転換をソフトランディングさせる為の今までの産業構造に対してもそれなりに景気回復の助けとなるような政策且つ、地方分権、内需中心のポスト工業化社会、超高齢化社会への対処です。

仮に百歩譲って民主制の手続きを無視する事を脇に置くとして、合意出来る何らかの方策があると思えるか?分け前をよこせではなくて、借金を増やさず、財政再建を成立させられるような範疇で、景気対策になるのだけれど、それが同時にこれからの日本の変化に対する先行投資の意味合いも含むような政策が。

そういう事を考えないとどうにもならないような気がする。高速道路なんて無料化しなくとも、何らかの出口戦略があるのであれば高速道路は今のままであったって構わない。それを考える事の方が実りがある。

自分がなぜこの政策にこだわるのかというと、この政策はすでに合意調達は済んでいる。だからそれをやっても、手続き的には問題はないはずで、後はそれを国民が梯子を外さずにはいられないとか、民主党が合意調達をしているという事を背景にして突破する事を躊躇してしまうか、そういう問題があるだけです。

しかもこういう問題は支持率が下がり出したらもう手遅れでもある。実際すでに民主党の議員や閣僚の間からは若干及び腰になっているような感じも見受けられる。マニフェストマニフェスト騒いでいたのに、それの意味が分かっていないのだから、どうにもならない。何とかに付ける薬は無い。

バカに向かってバカと言ってもしょうがないので、こんな奴らに期待するだけ無駄なので、とっととやると言った事をやらせてしまわないと何も手が打てなくなる。今のデフレ状況にただ手当をすれば、一時的な景気の回復にはなるだろうけれど、構造転換の為の布石を何も打てなければ、それは将来にツケを先送りしている事にしかならない。同じ事が繰り返されて行くだけで、復活の経路はどんどんか細くなって行く。

高速道路無料化というのはまず大企業にとっては結構減税効果としてバックアップ出来ると思う。ヘタな減税措置なんてしたって、それを必ずしも有効に活用出来るとは言えないわけで、日本の企業の問題である高コスト構造を是正する意味では有効なのではないかと思えます。

高コスト構造のうちまず輸送コスト削減をバックアップするのに非常に意味のある政策だと思う。しかも無料にした瞬間からその効果が出るわけだから、国家に余計な事をお願いして変な裁量を与え利権化や介入を許すより、よっぽど民間の活力を生かせるのでマシだと思える(とりあえず誤解されたくないので書いておきますけれど、自分は民間至上主義者ではありませんよ。民間だって悪い事をする奴はいっぱいいるし、必ず暴走を引き起こす可能性を常に抱えている。そういう事を是正する為に統治権力というのはあるわけで、それを否定するのなら、政府なんて必要ないアナキズムになってしまう。自分は気持ちはアナーキストで権力者は嫌いですが、必要だとは思っています。が、今の日本ではその政府がそもそも一番信用出来ない。霞ヶ関なんて泥棒の類いと一緒でしょう。しかも責任も取らなくて済む。ここまでこの国を二進も三進もいかない状況にしているわけだから、彼らにはその能力もない。もちろん自浄作用なんてあるわけない。だから泥棒で無能で責任も取らない連中に任せるよりは、少なくとも業績に対しては責任を持っている人達に任せて、脱法行為をすればサンクションもあるわけなので、しょうがないから民間に任せた方がマシだという話です。あくまでも)。

暫定的な措置で減税をするとか安くするとか無料にするとかではなくて、将来にわたってずっと無料になるというのは、確実に企業の経営の面では計画も立てやすいでしょう。元々ずっと無料にする為に作ったわけで、有料である事が暫定であったはずですし。

日本は諸外国と比べて、交通機関や輸送機関はトップクラスで発達しているのだけれど、何せコストが高過ぎる。有料道路代、空港使用料、港湾の荷揚げ料金、上海から福岡に持ってくるよりも、福岡から東京に持ってくる方が高い、外国から日本に運ぶよりも、日本の国内を輸送する方がコストが高くついてしまうのだから、ここを是正すると、結構企業は楽になると思う。

そしてこれはもちろん大企業優遇措置というだけではなくて、中小企業にとっても勝負しやすくなる環境を整える意味でも、スタートラインが揃うので、少なくとも輸送コストの面だけで見れば、初期手持ち量や立地の問題をある程度そろえて、勝負しやすくなれると思う。要するに景気対策として結構効くのではないかと思える。

もちろんそれ以外に初期手持ち量の差は圧倒的でもあるので、最適化しても勝つ方は決まっていると言える、それが自由な競争とは言えないのは確かなんですが、そこは中小企業向けの対策を別個で打つ必要はあるでしょう。それを書き出すと話がそれるので、それが必要であるとは思っているし、それは高速を無料化しようがしまいが現段階ですでにある取り除く事の困難な格差でもあるので、高速の無料化とリンクさせて考えるべき事ではないように思います。これはすでに書きましたね。

国民がそれによって旅行が出来たりレジャー観光に生かせるという意味もありますけれど、それよりも多くの企業が輸送のコストカットが出来れば、それは国民にとっても様々な形で好影響を及ぼすでしょう。

そしてなぜこれが優れているのかと言うと、景気対策としてもそれなりに効果があるだろうし、これから目指そうとしている社会を実現させる意味でも非常に効果的であるだろうと思えるからです。分権化の過程では自動車が交通のメインにならざるを得ないと書きましたけれど、そこでもやはり高速道路がただで使えるかどうかはかなり違いがある。

そして一番重要な点は大都市に集中している企業も、その分散化の流れに乗れば地方へと拠点を移す事も出来るようになる。地方にいても輸送コストや交通のアクセスがクリアされれば、必ずしも大都市にヘッドクォーターを置く必要は無くなる。そうなれば地方も活性化出来るし、企業も損益分岐点は劇的に下がるので、経営は楽になる。輸送コストと土地代といった固定費を下げる事が出来れば、働いている人も人件費削減にこれまでほどは怯えないですむ。ここが出来るかどうかが分権化を機能させる事が出来るかどうかの分水嶺でもあると思える。だからそれぞれの地域が企業を呼び込めるように、法人税率を地方の裁量に任せてしまうとか、更に突っ込んだ政策が必要ではあるのだけれど、現段階で高速を無料化にするというのは、そういう事への布石にもなる。

今の日本の問題は経済の損益分岐点をいかにして下げるのか?というのが重くのしかかっている。都市部に大企業が集中していれば、基本的にコストを下げると言ったって、電気を消すとか、コピー代をケチるとか、人の首を切るとか、採用を渋るとか、ボーナスカットするとか、工場を海外に移すとか、そういう発想になってしまうわけですが、海外の方が人件費が安く輸送コストまで日本国内に工場を造っても結局大差ないとか、逆に高くつくような状況で、海外に出て行くなと言ったって、それは無理ってもんです。

今のこの国は何となく大企業を敵かなんかと勘違いしているような風潮があって、敵扱いして文句を言っているわりには、何を言っているのかと言えば、俺を働かせろ、仕事をくれ、って話になる。まあ気持ちはわかりますけれど、なんかおかしくねえか?って感じがする。自分はある時期に会社員から料理人に職を変更してからは、ずっとフラフラといろんなお店、いろんな土地を渡り歩いて来たので(それを料理人は修行と言う。都合がいい呼び方ですね)、仕事をくれと言う感覚が理解出来ない。自分がそのお店にとって必要な人材だという事を認めさせれば、別に欲しくなくとも仕事はある。労働条件が悪けりゃ別のとこに行くか、自分で独立すればいい話で、人に雇ってもらうのに、企業に文句を言って俺の権利を認めろ、と言う感覚が正直全く理解が出来ない。

お客さんが減って売り上げが減れば、当然店が潰れる事もあるわけで、俺の給料を補償して仕事もよこせなんて言えるわけがない。まあ言うだけなら言えるでしょうけれど、言ってもなんにもならない。ある日突然店はもぬけの殻、給料持ち逃げされてトンズラが関の山です。そうなる前に鼻を効かせ、目を光らせて、ヤバくなったら出し抜かれないように自分の身は自分で守るしかなく、別の仕事の口を探すしかない。もちろん労働者の権利というのはあるわけですから、権利を主張するのは当然な事なんだろうけれど(料理人だって労働者である事には違いないはずなんですが、それが問題になっているのを見た事がない)、仕事がないのに仕事をよこせというのは労働者の権利というか、企業に言ってもどうにもならない所もあるだろうと思う。

極端な話、安い賃金の外国人労働者と同じ給料で働けるか?と言えば無理に決まっているし、そういう人達よりも素晴らしく働けるのか?と言えば、同じ人間ですから、多少はいっぱい働けても、人の二倍三倍は働けません。休みも返上し、寝る間もおしんで働くとしたって、一日24時間しかないのだから、スキルが素晴らしければ、倍は働けるかもしれないけれど、三倍は絶対無理でしょう。二倍以上働けば、給料が倍でも採算はあうわけですが、途上国の人達の賃金は二分の一どころか、劣悪な環境で、給料も数分の一で文句も言わない。それに日本人でそういう人達の倍も働いている人なんて殆どいないでしょう。ヘタすりゃというかかなりの確率で途上国よりも働いてないかもしれない。

この状況で企業を叩けば、そりゃ企業としてみりゃ出来ない相談だぜと思っても仕方なく、自分が金を払っている立場になれば、間違いなくリーズナブルな選択をするに決まっている。消費者として何かを買うとき誰しも予算に合わせた、なるべく合理的な選択をしているはずです。この状況で文句を言われれば、そりゃキャノンの会長じゃないけれど、国内に工場を置いているだけありがたく思え!的な愚痴の一つも言いたくもなる。経営者としてそれを言っちゃうのはどうかと思うけれど、俺たちだって、出来る限りの事はしてるんだと主張したくなる気持ちもわかる。

外需頼みの産業構造の内需への転換という事を言っていますけれど、日本の外需産業はすでに世界企業へと進化を遂げているので、国内へのリターンがそれほど実感出来なくなっているという話なだけで、外需がダメだとか必要ないとかって話ではない事はお分かりでしょう。日本の外需産業は世界に通用する素晴らしい企業がいっぱいありますから、そういう所はそういう所でこれからも頑張って勝負してもらう必要はあるに決まっているわけで、構造を転換すると言ったって、所詮は外需中心の大企業の肩にまだまだしばらくの間は日本経済を牽引してもらう必要がある。

大企業の横暴的な図式は昔からあるでしょうし、彼らに問題がないとは思わないし、どっちが強い力を握っているのかと言えば、圧倒的に大企業の方が強いに決まっているので、大企業に文句を言いたい気持ちはよくわかる。だけど、ここで対立図式でもめていても、出口はないのは間違いなく、そろそろ敵を見つけ出して叩く図式で時間を浪費する無駄を止めて、どうするのかを考えた方がいい。企業にとっても嬉しいと思えて、それが国民生活にとってもプラスになるような構造を模索してシフトした方が、みんな幸せになれんじゃねえかと思える。不毛な断罪合戦はこりごりです。

ローマ帝国が300年間繁栄したのは、人類最初の無料の高速道路網8万キロを作ったからであり、それを学んでナチスドイツのヒトラーが無料のアウトバーンを建設し、失業者が600万から30万に減り、爆発的な成長を遂げ、ワイマール共和国が破綻してからわずか5年でヨーロッパ最強の経済大国にした。

戦後それを学んだアメリカのアイゼンハワーがドイツの経済政策を真似て、東部一極集中のアメリカの経済を、地域分散型の経済に変化させる為に、無料の高速道路網を作ったおかげで、50年代60年代の輝かしい経済成長を遂げ、年率で経済成長率3%の増加分は高速道路無料化から生まれたと言われている。分散化が進んだから世界一の航空網も構築出来たと言える。

もちろんこれらの成功のモデルというのは、グローバル化以前だし、公共事業としての高速道路建設自体も推進力にはなっているので、一概に無料化のおかげだけだというつもりはない。だけど流通コストを下げ、流れを良くしてやるという事は、国家の成功モデルとしては基本の政策であると言えます。今は高速を無料化すると他の交通手段の需要が下がると騒いでいたりもしますけれど、人口減の一極集中超高齢化のままで行けば、どの道需要は減るしか無い。人口を分散させてこそ、他の交通手段が地方都市でも採算が合うようになる。

高速道路網をこの財政の厳しい状況でこれから整備して無料化せよって話ではないわけで、今あるものを無料化した時点から経済成長が始まる。この一点だけを取ったってそれなりに合理性のある成長戦略です。

アメリカはフリーウェイを作り、航空網を整備し、金融ビックバンと通信のビックバンを行った事によってマンハッタンにいなくても、アメリカ中どこにいても企業が立地出来る国になったからこそ、ダウ30社の中で6社しかマンハッタンの会社は無い。マンハッタンから出て行った事によって、もちろん再活性化した会社もいっぱいあるし、グーグル、マイクロソフト、ヤフー、ウォルマート、カーギル等々、みんな地方から生まれた産業で、それが世界企業にまで成長を遂げている。そこが決定的に日本とは違う。都に行って一旗揚げると言う感覚、大都会でないとチャンスが無い国家像というのは先進国モデルではない。途上国型のモデルです。日本がこの20年30年で一部上場のグローバル企業が何社生まれたでしょうか?殆どありません。この20~30年で地方から生まれた世界企業があるでしょうか?皆無です。

シリコンバレーはカリフォルニアのワイン畑の中。ヨーロッパなんかでも村の中に人が住み、森や村の中に企業がある。病院にしろ、教育機関にしろ、高速の無料化などによって交通の問題さえクリア出来れば、土地代が安い所に建てた方が、儲けは大きくなる。

ビジネスのリゾート化を進めているのが先進国のモデルであって、リゾートにたまに行くのではなくて、そこが気持ちいいのだからそこに住んで、会社もそこに持って行ってしまえばいいという発想に切り替わっている。

日本のように満員電車に揺られて、片道一時間以上もかける通勤だけでへとへとな状態ではいい仕事はできません。日本人の就労時間は先進国中ずば抜けて長い時間拘束されているのに、それに対して仕事の効率は先進国中最低レベルで低い。長い時間働いてもそれが結果になっていない。こういう構造を変えないと効率も悪いし幸せになれません。

この面から考えても人件費に対する費用対効果が上がれば、同じ人件費でより効率が良くなれば輸送費や固定費だけではなく、人件費の面まで効果が見込めるのではないかと思える。働いている人に余裕が生まれれば会社もハッピーになるし働いている人達もハッピーになれる。そうして人口分散が進んで行けば、一次産業へのシフトもよりやりやすくなるでしょうから選択肢も増えて行く。

もちろんそれで都会がしぼんで行く事はあり得ない。都会は都会で魅力的であり、例えばマンハッタンなんかだって人が溢れかえっているし、観光客もいっぱいいる。都会で遊びたいと思う人はいるわけで心配する事は無いでしょう。

もう少し続きます。
日本の一番の問題点はまさに多様性のなさにある。目的が決まっていて、目指すべき方向性がはっきりしている時というのは、多様性がないという事は逆に目的に向かって一致団結して突っ走る事が出来るので、一時的にはそれが強みになったわけですが、目的を失い、未来も不透明な状況の現在、多様性のなさというのは致命的です。多様性のない生き物は必ず淘汰される。

多様性を無理矢理にでも社会に埋め込んでしまえば、初期手持ち量による格差を中和する事も出来るし、可能性を常に切り開く原動力を生む事も出来る。移民に対して拒絶反応がある国で、右向け右の同調圧力が激しい状態のままですと、何か事が起こった時に対処する処方箋も生まれて来ない。みんなで失敗して不幸自慢を繰り返して行くしかない。何しろそれだと民主主義というのは機能しない。投票のパラドックス、もしくはリベラル・パラドックスに陥ってしまう。分断統治として機能してしまう。

多様性を埋め込むという事は多様な可能性も生まれて来やすい。これからの日本は経済的に右肩上がりというのは不可能ですので、経済的にみんなが満足するような政策を打つという事は不可能でしょう。ですから、経済的な満足度=幸福度、という状況を変えないと、幸福にはなれない時代になる。と言うかもうなっている。グローバル化が進み、近代成熟期を迎えている以上、これは避ける事が出来ない。

なので多様な生き方や可能性が信じられるような社会に組み直す必要がある。それはアマルティア・センが言う所のケイパビリティ、要するに選択肢の可能性の束がどれだけあり得ると思えるか。その豊かさこそが真の豊かさなのではないかという発想です。日本は結構裕福な国であるとされてきた。今もまだそういえるかもしれない。だけど自分の人生自分の選択して来た結果だと言ってしまえばそれまでなんだけれど、はたして選択肢があったのか?と自問すると、多分多くの人が、選べそうで選べない。ありそうだけどこれしかなかったような気がするという感じではなかろうかと思う。

勉強して大学に行って、いい会社に就職して、定年まで働いて、年金貰って暮らして死ぬというのが、例えばスタンダードな目指すべき成功モデルだと言うすり込みが今現在でも行われているけれど、それって選択している事になるのか?一極集中の国家モデル、成功モデルも結局金と安定、それなりに幸せだと思える事が出来たとしても、はたしてそれでいいのだろうか?という自問は誰でも持ってしまうでしょう。だけど、その自問はすぐに打ち消される。なぜならそこから飛び出して何らかの選択肢があると思えないからで、その事がそこそこ金と安定を手にしても幸福度が低い状況を生み出してしまう。これは制度的な制約故に選べないというのと、主体的な能力のなさ故に選ぶ事が出来ない教育の問題と二つの要因があるでしょう。

それに今はそのスタンダードな成功の経路を頑張って進んでも、必ずしも成功(=金と安定)が約束されているわけではなく、人手不足の仕事はいくらでもあるはずなのに、就職の道はどんどん狭くなってしまっているような思い込みに支配されてしまっている。学生の自殺率が異様な数字になっている原因の一つでもあるだろうと思える。可能性があるはずなのに、それを選ぶ事が出来ない。

あげくこの国では成功=金と安定だけではなくて、やりがい、生き甲斐、人間関係、何から何まで仕事と結びついていると思っている所が多く、仕事は仕事と割り切って働くような教育はいっさいして来なかったので、仕事による自己実現を煽る事によって、夢を売って自己責任スキームで成り立つビジネスが溢れかえっている。学校もそれで潤うし、企業も老人が逃げ切る為に夢を求めてモラトリアム状態の人達をバイトや派遣のような安い賃金で買いたたいてきた。その逃げ切りによって手にした金を自分の子供の夢を売って自己責任スキームに投資してしまうという不毛な連鎖を繰り返す。大人達も夢を持ってそれがどうにかなると思えたかつての栄光をそのまま子供に押し付けてしまう。もうとっくにそんな時代は終わっているにもかかわらず。頑張れとあおりながら袋小路に蹴落としている。

すなわち金と安定を手にしたものが、やりがいや生き甲斐や人間関係の豊かさを手に入れる事が出来ると錯覚されている。これらは錯覚でしかないのだけれど、仕事を失うと、やりがい生き甲斐人間関係を同時に失ってしまったような状態に陥ったり、やりがい生き甲斐人間関係に実りがないのは仕事が上手くいっていないから、もしくは仕事が自分に合わないからだと考え悩み、病気になってしまう。仕事は単に生活の糧であるしかないと思えれば、別にそこにやりがいも生き甲斐も人間関係の豊かさも求める必要は本当はない。日常に実りがあれば、ないよりはあった方がいいというくらいのものでしか本当はないはずです。

金と安定を失った旦那さんは大黒柱として失格の烙印を押され、奥さん子供に見捨てられて寂しく暮らすような事態に陥る。あげく孤独死か自殺ってパターンがどんどん増えている。金と安定こそが最上の価値であり、それがないと生きるのに困難な社会であるという思い込みと、実際そういう社会でもるので、人間関係も結局そこに寄りかかってしまっている。

今貧困で苦しんでいる人は、他に選択しようとしたって、選択肢がなく、もしくは少ない選択肢の中から、選択した何かを守るしか生活を守るすべがない。可能性が閉ざされている。裕福な人が脱サラして農業を始めるとか、ラーメン屋を開くとか選択出来るのは余裕があるが故であって、金の問題と選択肢の束がおもいっきりリンクしているので、15歳で社会に出て手に職をつけてその道一筋で生きている人が、その道が何らかのテクノロジーや時代の変化によって無意味化されてしまうと何も選択肢が無くなってしまう。そういう人がある程度の年齢で何かを始め成功するという可能性は限りなくか細い。

今自分の前に実際に選択可能な選択肢の束があると思えるような社会にならないと、何かの選択肢が閉ざされた瞬間に生きるのが困難だと思い込んでしまう。ここが日本の幸福度がこれだけ経済成長したにもかかわらず低い要因なのではないかと思える。それは自殺率の異様な高さともリンクするだろうし、先進国中ぶっちぎりの最低である子供達の幸福度の低さともリンクしているように思える。家族の絆もダントツで低い。これは安定や金だけでは本当は担保出来ませんので、安定しているのにそこそこ収入があるのに、それらのリソースが目の前の仕事を続けて行く事と完璧にトレードオフの関係にあるが故に、選択肢があると思えなくて閉塞感に陥ってしまう事にもなる。

フリーターや派遣やシングルマザーや低学歴の人や、何らかの失敗をしてしまった人や、年齢的にはやり直しのきかない年齢と思われがちな年齢の人であっても、その人なりの選択肢の束が目の前にあって、金はちょっとしか手に入らないとしても幸せだと思えれば、金がちょっとしか手に入らなくて且つ不幸であるよりは全然マシなわけで、人間関係ややりがいや生き甲斐は仕事以外の別の何かでも本当は得られるはずです。安定や経済的な余裕を手にしている人だって、自分の目の前に可能性が開いていて、その方が幸せかもしれないと思えれば、安定や経済的な余裕という呪縛を脱ぎ捨てちゃった方が幸福な生き方があるかもしれない。結果的にそっちの方が安定と余裕が生まれる事だってあるでしょう。

そういう選択の余地のない生き方しかなければ、鬱憤がたまり、それが政治的な動員のリソースとなって断固決然と拳を振り上げる輩に吸い上げられるというのが、後発近代化国家である旧枢軸国の近代化スキームです。それですでに失敗もしたし、近代化はすでに遂げている。

不安をネタにして動員したり利権へと吸い上げたりするのは、非常に簡単な手法なのでやる時は簡単に出来るのだけれど、その不安や不満を中和する方法というのは誰かを攻撃してスッキリしても中和出来るものではないので、結局鬱憤は消える事がない。余計蓄積されて行って、あげくの果てにはコントロール不能になり、一丸となって暴走するのが関の山です。

そういう事を回避する為にも多様性を埋め込んでおくという事は重要でしょう。多様性に対する過敏症的な恐れは不安と不満を誘発させ、それは安心安全という言葉によって利権化されて吸い上げられてしまう。それが本当に安心安全を担保する事などあり得ないので、鬱憤は消える事はない。

だいたい不安ベースの生き方を、安心安全で担保するというのはコストが高くつく、経済的な余裕を失いつつある国で、そんな事に金を使っている場合ではないはずで、そんな事をやっているから経済的余裕=幸せ図式がより強化されてしまう。安心安全=幸福ではありませんので、せっかく経済的な余裕があっても安心安全に右往左往しているおかげで、結果的に余裕を失って更に不安はより増幅されてしまい幸福には更に届かなくなるという悪循環を生み出す。経済的な余裕がなければ尚更で、不安を煽られ、鼻先に安心安全をちらつかされて、それに届かないと感じれば、それは更なる閉塞感を生み出す。

こんなものは信頼によって担保しちゃえばコストは安上がりで済む。その信頼を国家に依存して何とかしてもらおうと思うから、それは利権化されてしまう。不安こそが国家の最大の利権を生み出すモーターであるからです。信頼が破壊されていると煽り、不安を煽れば簡単に正統性を調達出来るのだから、国家としてみればこんなに簡単で安上がりな人気取りのリソースはない。だけどそれは国民の幸せを担保する事にはならない。

多様性を埋め込んでそれになれてしまえば、過剰な不安を持つ必要は無くなるでしょう。社会に対する信頼を持つ事が出来れば、安心安全に必要以上にコストをかけなくとも生きて行ける。中央集権体制の国家モデルというのは、そもそもそういうものを破壊して、社会の相互扶助をぶちこわして国家への忠誠心によって国をまとめる為の手段でもあり、今の日本の制度、教育、啓蒙、すべてにわたってそれが前提となって回っている。もうそれは時代遅れであるわけで、これを変えないとどうにもならない。これではいくら求めても満たされない歯車に絡めとられてしまっている。

こういう事を書くと、経済的な余裕があって安定しているだけマシではないか、贅沢を言ってんじゃねえよ、と言いたい人が多分世の中にはいっぱいいる。今のこの国の状況は、不幸自慢合戦を繰り返している状況です。気持ちはわかるけれど(正確に分かっているとは言えないかもしれませんけれど)、それを言い出してしまうとキリが無い。人それぞれその人の境遇で事情を抱えて生きているわけだから、アイツより俺の方が不幸だ!!と言い合いしていてもどうにもなりません。自分の人生しか経験出来ないのだから、みんなそれぞれそれなりに切実な問題を抱えていて、多分その問題こそが自分にとって一番重要に決まっているからです。だからそれを言い合いしていても問題は解決出来ません。いったんそれを脇に置いて考えないとどうにもならない。民主主義というのは他者への覚悟だと言える。自分以外の他者の問題をどれだけ切実に考えられるか?それがなければ絶対に上手く行かない。

小泉政権の時、何が一番許せなかったかと言えば、彼は対立を煽った。彼を支持していた人達も対立図式に熱狂した。これが一番ムカついた。日本はアメリカやヨーロッパのように、元々国民の間に決定的なイデオロギー的な対立図式なんてなかったはずで、これを後戻り不能の状態に木っ端微塵に粉砕したのが、どうしても許せない。

それ以前にも対立の図式はあったでしょう。政治的なスタンスの差によって与党を応援するか、野党を応援するかというのはあったわけですから、なかったとは言わない。だけどそれが90年代以降の「バカ保守」の台頭による、「バカ左翼」バッシングや(これはそもそも「バカ左翼」自体の敵を見つけ出して叩くという手法のバックフラッシュなので、すべての根源はこのバカ共にある)、更にネット環境の普及によって不可避であったとは思いますけれど、明らかに小泉政権以降の自民党はその対立図式をブーストさせ不満を吸い上げてリソースに変えるという一番愚かな方法を取っていた。分断を決定的なものとし、みんなわかり合えるという同調圧力はより強固なものとなり、いったんそこから外れてしまうと、敵と名指されてしまい、わかりあおうとすらしないような社会へと変えた。この国特有のディスコミュニケーションをブーストさせ、合意可能性を破壊してトドメを刺してしまった。

基本的に今回民主党が勝ったので、自分としては初体験なんですが、自分が支持した政党が政権を握ったのは初めての事です。これまでずっと野党を支持して来た。だけどその事を周りの人に言っても、蔑みは受けた事がなかった。変わりもんだなと言われた事はあったけれど、マイノリティを排除するような空気はなかった。

それが小泉自民党の頃になると、あんな奴どうせインチキに決まっているぜ、なんて言った日には、それこそ、お前は国益を考えた事があるのか!!お前は左翼か!!反日分子か!!中国や韓国の手先か!!みたいな感じになってしまった。

日本のコミュニケーションというのは不思議な所があった。例えば今でもおばちゃん達のコミュニケーションを見ていると端的に現れている。みんなバラバラ、言っている事も聞いちゃいないし、相手の話のレスポンスにもなっていない。みんな自分の言いたい事を言い合っていて、話は全くかみ合っていない。だけど最終的には「そうよねえー」と何となく話が着地してしまう。全く中身は無内容。サブスタンスは何もない。裏では陰口を言いまくる。

それが意思の疎通が出来ていたとか、日本的な対立の回避の為の知恵とか、そういう立派なことを言うつもりは毛頭なくて、まともなコミュニケーションが成立していたなんてとてもじゃないけど言えないですし、そこには間違いなくこの国の最大の問題点であるだろう同調圧力や、ディスコミュニケーションがあったと思う。だけど、さすがに誰かを敵扱いして、みんなでよってたかってクソミソにぶっ叩くという事までは、少なくとも政治的な対立の中ではなかったような気がする。

元々この国のコミュニケーションというのは、みんなわかり合えるというナイーヴな感情に支配されていて、実は誰も人の話なんか聞いちゃいない。相手に甘えて気持ちをぶつけておきながら、わかってもらえないとなると、なんでわかってくれないんだ!!みたいな話になってしまったりというのはあったでしょう。同調圧力や意見の違いを曖昧に誤摩化して、問題点をきちんと見つめる事のない、甘えたコミュニケーション故のディスコミュニケーションに支配されて来たと言える。しかしそれは問題だったのだけれど、それをそのまま表面化させて、そのまま投げっぱなしにしてしまったのでは、対立を曖昧にぼやかしていた方が争わないだけマシだとも言える。

せっかく分かり合えなさというの表面化して理解したのだから、なぜ分かり合えないのか、意見の違いが生じてしまうのか、価値観を共有出来ないのか、人はみんな違うという前提に立って、その分かり合えない人間の限界を理解した上で営んで行くのが人間の社会なんだという事まで引き受けなければ意味がない。

ただ表面化した分かり合えなさに対して、人はどうせ分かり合えないと当たり前でしかない前提を分かったような顔をして諦め、分かってもらえなくて結構、お前らは敵だ!!というのでは、せっかく問題が表面化して可視化で来たというのに、表面化しただけでディスコミュニケーションはディスコミュニケーションのまま、正真正銘の対立図式になって、しかもお互いで断罪合戦を、しかも一般国民レベルの政治的な支持のレベルで争っていたのでは何の実りもありゃしない。

統治権力ははそれを利用しているにせよ、一般国民のレベルでは、少なくともみんなよかれと思って言っているに決まっているわけで、それを意見が違うというだけで、敵扱いして、袋叩きにするような事をしたのでは、社会を営む意味なんて無くなってしまう。

自分大好き、自分の気持ち至上主義、自分にとって気持ちのいいもの以外は信用しないというくらいならまだしも、それ以外は全員敵で、どうなろうと知ったこっちゃないし、敵を徹底的に貶めて、それで何が得られるというのだろう。

民主主義というのは多数決ではありません。ほんのちょっと多数派が数で上回っているからと言って、少数派を敵と名指しして、数の論理で何でも決めてしまえば、それはルサンチマンを埋め込むだけにしかならない。おかげで、郵政民営化にしろ、道路公団民営化にしろ、小泉がやった事は、ひっくり返った途端に、すべて巻き戻されてしまっている。これでは行ったり来たりを繰り返すだけで、そこにはサブスタンスは無くなってしまう。

反対する人はいるでしょう。そして説得に応じようとしない人ももちろんいる。それを説得しようと考えたり、納得してもらおうとしたり、そういった努力をした上で、どうしても前に進む為には仕方なしという事はあるでしょう。だけどそれを敵意を煽って、あそこに抵抗勢力がいるぞ!!と、国民を焚き付けて大騒ぎしてしまえば、叩かれた人間はもう恨みしか残らない。

別に戦っているわけでもないし、戦争しているわけでもない。同じ国の同じ民族が、そんな不毛な争いあいをするのなんて愚かです。別にイデオロギー的な違いがあったって、沢山ある個性の一つが違うくらいの意味はあっても、決定的な対立には本当はなるわけがない。

それを思いっきり煽ってくれたせいで、ネットによって匿名による意見の表明が出来るようになったというのも、いい事もいっぱいあるのですが、この問題にはネガティブな側面が災いしてしまって、どこかに敵を見いだして、叩く事が元々大好きな国民性だったという事もあるのでしょうけれど、普通の一般市民の間にも決して理解しあう事の出来ない決定的な政治的分断線をひいてしまった。この事は許し難い。

それを修復するような繋がりをこの国はすでに失ってしまっている。社会は破壊され、個人がむきだしで国家と対峙してしまうような、個人が個人のまま世界に投げ出されてしまうような状況で、こんな事を繰り返していては人は幸せになれません。

続く。