鳩山首相の献金問題が一応一段落しました。個人的にはアウトだと言いたい所です。知らなかった、任せていた、そればかり。知らなかったと言ったって、任せていたのはお前だろって話で、任せるというのは任せた側に責任の一端はあるに決まっているわけで、知っていようがいまいが関係ない。

会見ではわざわざ議員バッチを外し、総理ではなく一私人を装うわざとらしい演出も茶番以外の何者でもないし、質問の答えも結局何も答えていない。だって知らなかった僕んち金持ちなんだもんと言っているだけ。こういうアホな言いわけをほざいているから人気が無くなる。だいたい秘書が議員をスルーして、その親と勝手に金のやり取りをするなんていう話が普通に考えればあるわけない。知らないわけが無いに決まっている。

それに総理大臣なんだから検察の捜査がどのように進展しているのか、法務省を通して、すべて筒抜けであるわけで、そこが筒抜けでないとまた国政なんて出来ない。首相本人の疑惑であるのに、やっぱり制度上そういうものでしかない。だから相当早い段階でどの程度まで検察が問題にするのかはすでに、鳩山は知っていたはずで、その情報を出す事によって検察が鳩山をコントロールしていた。

検察は政府の一機関に過ぎません。それが内閣総理大臣という政府のトップの秘書を起訴するかしないかの権限を持っているわけだけれど、当然その事は内閣が知っていなければならないし、また内閣に断りも無く勝手に検察が動けるわけが無い。何らかの重要な公務が入っている日とかぶってしまうと問題が出て来てしまう。首相の重要な外交日程がある日に、首相の秘書を起訴すれば、その事によって邪魔する事になりかねないわけだから、事前にそういう日程はすり合せをしているに決まっている。という事は内閣総理大臣というのは内閣の最高実力者であるわけだから、当然総理のGOサインが無ければ出来るわけがない。それが政府の仕組みでもある。

検察が仮に本気で鳩山首相を起訴しようとしたとしても、その決定を総理が下すわけだから、こんなに矛盾に満ちた話は無い。総理がそれを止めれば、それは止まる。これが指揮権発動と言って、総理大臣の権限なんですが、鳩山が知らなかったという言い分は嘘に決まっている。だけどその嘘を嘘と知りながら検察が認める事によって、結果的に首相への追求は止まるので、弱い意味での指揮権発動と同じになる。要するにあの会見は茶番以外の何者でもないし、検察は鳩山に捜査情報を必ず漏らしているし、鳩山は指揮権発動をしているわけではないけれど、事実上嘘を認めてもらっているわけだから結果的に指揮権発動しているのと同じ、検察は鳩山に恩を売り、鳩山の弱みをガッチリ握っている事になる。鳩山もその検察のストーリーに乗っかる事によって、何も知らなかった一議員として反省しているそぶりを見せ、一件落着をはかろうという魂胆でしょう。だから脱税云々なんて言うくだらない話よりも、もっとこの問題は根深いものがある。

しかしこの問題というのは結構いろいろなこの国の構造そのものを浮き彫りにしたいい例だったと思います。この問題を叩き斬りたい所なんですが、その前に別の角度からこの問題を眺めると、もう少し立体的に見えてくるでしょう。

小沢の問題から少し見て行きましょう。最近の大手マスコミの報道はキチガイ沙汰で完璧に報道としての牽制の機能を失っている。自分達の利権温存の為に嘘八百を捏造報道している状況は酷すぎます。せめて事実を報道してくれないと選択出来ない。もはや調査報道をする能力も無ければ、その気概も無いのでしょう。役人やステークホルダーと結託して、その自分達の利権温存の為に役人のリークを利用して政治家を叩いている風潮は完全に戦前の二の舞の道を進んでいる。

基本的に今この国の大手メディアが流している報道はすべて嘘だと思った方が間違いない。事態はそれほど酷い状況になっている。普天間問題も嘘ばかり、事業仕分けの報道も殆ど嘘ばかり、特に小沢関連の報道はそれほどこの男を排除したいのか、あまりにも酷すぎます。自分は別に小沢に問題が無いとは思わないけれど、憶測やリークをさも真実であるかのように報じ、それが嘘だったとわかった後でも、全く訂正すらしない。天皇騒動の小沢批判だって、どこまでが本当の話だか怪しいもんです。今回騒いでいる土地関連の疑惑の話もしかり。

前々回天皇の政治利用騒動について書きましたけれど、小沢の批判をするのなら、天皇のお体がどれくらい深刻な状況で、どれくらいの激務を強いているのかとか、過去の国事行為以外の公的行為に照らしてみて、どれくらい今回の一件が逸脱しているのかとか、はたまた中国との関係を結ぶと言っても、それにわざわざ天皇を引っ張り出す必要があったのか無いのか、そういう調査報道をすればいいのに、そういうものはほぼ皆無。単に役人の会見と小沢の会見を垂れ流し定かでもない憶測をさも事実であるかのようにああだこうだと偉そうに報じている。

だいたい宮内庁長官が会見をしたのだって、中国へのカードとして高く売る為にわざとやらせている可能性だってある。メディアが煽り世論に火がつけば火がつくほど、アメリカへの牽制として機能し、中国へ恩を売る為のカードとなる。その全体の構図が即ち政治利用なのであって、小沢の政治利用を批判する事自体が逆効果というか余計政治利用してしまう事に繋がっている構造自体を報じなかったら意味なんか無い。

この小沢叩きと平行して、先日小沢の秘書の公判が始まりました。この冒陳でまたしても検察は、天の声云々、公共工事の賄賂性云々をほざいていて、それをバカマスコミは垂れ流している。小沢に説明責任があるなんて書いている始末。西松社長の公判の際も、小沢の秘書がその場にいるわけでもないのに、完全な欠席裁判といえるような状況で全く同じ冒頭陳述を行っている。談合によって受注出来た工事の一覧表まで添付し、その見返りとして献金されていたのだと。

ところがその際の判決では、検察側の冒頭陳述が示すような事を立証しようとしたにも関わらず、この天の声云々や献金の賄賂性を裁判所は認めていない。寄付が特定の公共工事の見返りとして行われたものではないと、証拠として認められないとハッキリ言っている。公共工事の賄賂ではないと。公共工事と政治献金の対価関係を否定している。

西松建設の公判では司法取引があったのかどうかは脇において書きますけれど、西松側が全面降伏状態で、検察側がどんな供述調書を請求しても何でもかんでも合意して、証拠採用してもらえるような状態であったのに、証拠全体を見ても検察官が主張するような言い分は認められないとハッキリ裁判所は判断している。にもかかわらずその事は全く報道されず、今回の秘書の公判の冒頭陳述でも全く同じような主張を繰り返し、バカメディアがそれを報じている。小沢の秘書は全面的に否認しているのだから、前回の公判で証拠として認められていないようなものが普通に考えれば認められるわけが無い。

なのでこれは公判でその事を認めさせる事を目的としたものではなく、バカマスコミを通して世論に検察の捜査の正統性を宣伝するため、小沢は賄賂を貰っていたという事をすり込む為に利用しているように見える。前回の西松社長の判決の際に検察側の主張が認められなかった事や、そのリークが殆ど嘘だった事を、一社でも報じた大手メディアがあったでしょうか?小沢の秘書が逮捕されたときも、秘書が違法献金である事を認めていると、NHKまでもが検察のリークを報じた。しかしすぐに秘書の弁護士側が、その事実は無いとキッパリ否定していた。にもかかわらずそれを報じたメディアも一社たりとも無かった。今回前回否定されている事を懲りずに出して来た検察の主張に対して無理があるのではないか?と報じている大手メディアが一社でもあるでしょうか?これはどう考えてもフェアではない。

しかも相変わらず背後に西松建設がいる事を知りながらとか、ダミーと知りながらとか報じている。背後に西松建設がいる事を知っていても、直接の寄付者を記載すれば政治資金規制法違反には当たらないし、それはきちんと書いてある。西松側に催促していたとしても、まるでその事が違法であるかのように報じていましたが、これも法律違反にはあたらない。ダミーであるという事を知っていたかどうか、それがダミーであったのかどうかを立証するのは極めて恣意的であり、それを言い出せば全国に1万近くある政治団体の多くがダミーと言えてしまう。名義があって人の名前が揃っていれば実質この法律では違法性は問えないし、そもそも賄賂だったかどうかを追求するものではない。

献金が公共工事の対価である賄賂性を否定しているわけだから、実質この問題は政治資金規正法に照らして違法か合法かが問題の本質であり、政治資金規正法というのは寄付者の名義がきちんと記載されているかどうかを問うものであって、その法律に違反しているわけではないのだから、政治資金をもらう事自体が違法なわけではないのだし、すべて合法の枠のうちで行われている事なので、政治家なんだから疑われたら釈明するのがスジだと言う言い分はわかるけれど、こんな無茶苦茶な法理で無理矢理嫌疑を吹っかけて推定有罪でクソミソに叩いて説明責任があると言うのでは、いくら何でもやり過ぎです。

法律違反と呼べるかどうかも怪しい嫌疑をかけられて、インチキ冒頭陳述を翼賛報道しているバカマスコミ報道が飛び交う。権力者をチェックする事は重要なので、それはやるのは構わないと思うし、権力のリソースが小沢に集中している状況が現にあるので、ヘタをすればかつての経世会的な利権政治と同じ図式に陥りかねないのは確かです。というかそういう風に見えてしまう。だからチェックは必要不可欠でしょう。しかしながらそのやり方が嘘だったり恣意的だったり、フェアではないのであれば、それはやっぱり問題だと思う。それを言っている人が殆どいない。

一応勘違いされると困るので書きますけれど、小沢を擁護したくてこんな事を書いているのではない。民主党を擁護したいからでもない。マスコミの報道が酷過ぎるのと、検察のやり口が汚いから書いている。小沢が金に汚いというのは嘘ではないでしょう。実際に前回の衆院選でも小沢は新人議員に一人当たり1000万の金を撒いていると言われている。それだけ金を持っているという事です。しかしそれがあったからこそ政権交代も出来たわけで、政治に金がかかるという現実は今の所どうにもならない。今後民主党が取り組むかどうかが問われる所でもある。だから小沢が金にまつわる何らかの薄汚い構造を抱えているかもしれないとは自分も思う。だけど、その事と今回の問題が法に違反しているか否かは別の話です。

不良がそこにいて、万引き事件が起こったとする。コイツは不良だから怪しいという話で、その不良が疑われている。しかしそいつが不良かどうかと、実際に万引きをしたかどうかは別の話であって、不良だから万引きもやっているはずだとはならない。不良かどうかは全く関係がない話で、万引きをやったかどうかが問われている。万引きをやったかどうかは定かじゃないけれど、コイツは不良だからやっているに決まっているなんて話になったら、実際の学校生活では馬鹿な教師がそういうレッテルはりをするかもしれないけれど、それを司法の場でやられちゃたまらない。そういう単純な当たり前の分離が出来ないアホがこの国には多すぎます。疑われる方にもそれなりの理由があるなんて話に着地する。人に疑われるような、素行に問題があったからと言って冤罪になっても構わないなんて話になったら、法治国家とは言えない。

今回の政権交代によって小沢の権力は強化されているのは事実です。陳情が党本部の小沢に集中する仕組みになっているので、これは田中角栄が利権を配分していた仕組みと同じです。なぜそうなったのかと言うと、族議員へと陳情し族議員が役所にプレッシャーをかけるという癒着構造を政治家それぞれが行っていたのが自民党型の利権配分システムでした。これを放置しておくとあっという間に政治家が利権へと取り込まれてしまう。だからそれを一元的に吸い上げて、優先順位を付けて行く必要があるのだけれど、それをやると結局小沢に権力のリソースが集中してしまう恐れもある。

だからそれを徹底的にチェックしなきゃ意味が無い。まるで小沢の独裁体制であるかのように報じるのは構わないけれど、だからと言って族議員への陳情が役所に降りて行って配分が決まるという、間で殆どが中抜きピンハネされてしまい、末端に配分が届かないような仕組みは是正しなきゃマズいのだから、そういう構造へのバックフラッシュでは意味が無い。だけどマスコミの報道はそこへ戻ろうと必死で国民を煽動している。大手マスコミ自体が国民の権利を独占しその利権を回している構造があるわけだから、こういった構造の変化に対しては敏感なのでしょう。

事業仕分けの報道もしかり。事業仕分けの批判ばかりが紙面を踊り、民主党の横暴であるかのように報じていた。またそれをアホな国民が本気にして横暴だと拳を振り上げていたりするのだからどうにもならない。予算の圧縮として目標に届かなかっただの、財務省主導だのって話になる。バカ言え。

この目的は金の流れの透明化にあるわけで、予算の圧縮が最重要課題ではないと再三再四、民主党の議員は言っている。透明化しないと圧縮もクソも無い。科学技術関連にしろ、文化推進事業にしろ、目的が重要か不要かという話を問うているわけではない。目的が重要なのは十分わかったから、その目的にとってその金の使い方による手段が合理的かどうかを吟味する場でした。科学技術関連云々と名目があって、科学技術は日本の将来の発展の為に必要なんだ!!と叫んでいるひも付きの学者達の声がマスコミを通して不満の雄叫びをあげていた。立花隆のようなクズが自らのバカさを披露していました。

だけどその目的が重要だというのを否定しているわけではない。それは十分わかっているから、なぜその科学技術関連、文化推進事業関連等々、ありとあらゆる事業の下にわけの分からない独法などの天下り団体が何個もぶら下がっていたり、理事が天下りの役人だったりする必要があるのかを問うている。なぜたいして仕事もしていないような連中に云千万の金が流れているのか?なぜファミリー企業で金を回しているのか?なぜテニスコートやプールが必要なのか?それがその目的に必要なのか説明して下さいと事業仕分けチームは言っていたわけで、蓮舫議員が叩かれていましたけれど、あれだってあの人が怒ったのは、なぜその目的にその手段が必要なのかを散々繰り返し聞いているにもかかわらず、女性の地位向上はこれからの社会にとって重要なんだ!!と目的の重要性を繰り返すだけで、手段の合理性なんて全く説明出来ない。考えた事も無いのだから説明出来るわけが無い。何度もそれを繰り返すもんだから呆れ果てて蓮舫議員がキレた所だけを報道で流す。

スパコンの話でも横暴だとか、科学技術の軽視は国益を損なうって話になっていましたが、あれだって科学技術が重要なのはわかっている。それが不要だとか無駄だとか一言も言っていない。その目的の為の手段として合理性があるのかという事を尋ねていた。にもかかわらず科学技術は重要だ、世界一を目指すのだって答えしかかえって来ない。何度も何度もそのやり取りを頑に繰り返すもんだから、なぜ世界一じゃなきゃダメなんですか?二位じゃダメなんですか?と要するに世界一を目指す必要性、目的合理性と手段の合理性を聴く為に、相手の世界一が重要だという根拠を聞き出す為にそういう聞き方をすれば答えやすくなるのではないかという事で誘導して聴いたわけで、これもそこだけ切り取られて報じられ、それに乗せられて拳を振り上げているバカがいっぱいいた。

事業仕分けで明らかになったのは、この国のあらゆる予算すべてに言える事ですけれど、手段の合理性なんて考えた事も無ければ、その必要も今まで無かったという事が露呈した。これじゃ予算が膨らむのも当然です。手段が合理的でなければ当たり前ですが目的が達せられるわけも無い。達せられたとしてもコストはかかるに決まっている。何か崇高な目的を掲げれば、そこに盲目的に予算が振り分けられて来た。それが官僚にお任せだった自民党スキームであり、中抜きピンハネ、キックバックによって利権構造が回っていた。バカメディアに出てくるこれに反対する意見も殆どすべて、目的の重要性しか言っていない。その目的に必要な手段なのかを問うているわけで、目的が重要じゃないなんて一言も言っていないにもかかわらず、素人に何がわかるとか、短時間で横暴だとかって話になる。

独法や天下り、ファミリー企業に金が流れてそこで利権を回す事がその目的にとって重要なのかどうかを説明してくれと聴いているのに、この目的は重要なんだ!!と、ステークホルダーが喚き、マスコミがそれを翼賛し、国民が乗せられて吹き上がる。短時間でわかるわけが無いと、喚いていますけれど、今の今まで全く吟味せずに自動的に予算を振り分けて来たわけだから、今回はそれに比べたら一つ一つちゃんと時間を割いて、手段の合理性を説明して下さいとやっていた。過去最長の時間をかけて吟味したと言える。しかも透明化して。手段の合理性を説明出来ずに、目的合理性しか叫んでいないようなものが圧縮やカットとなったわけで、それだって批判を恐れて随分甘く査定しているように見える。

効果がなかった事にしたいバカメディアが予算圧縮額が目標に届かないと叩いていましたが、たった10日ぐらいで、予算のわずか15%を吟味したにすぎないにもかかわらず、1兆くらいの無駄が可視化したのだから、費用対効果で考えれば凄まじい効果を発揮したと言ってよいと思う。今回の事業仕分けの最大の功労者である「構想日本」が、数年前にまだ事業仕分けを政策棚卸しと言っていた頃の予想では予算は半分に圧縮出来ると出していた。それは大袈裟だとしても3分の1くらいは不合理な予算の振り分け方がまだまだ隠れているというか隠しているでしょう。今回の事業仕分けを批判するのなら甘過ぎると言うのが実情で、これを厳し過ぎるなんて報じてんだからクソもいい所です。

財務省主導という批判も多いのですが、これまたお門違いもいい所です。事業仕分けの議題に上った費目の7割を財務省が出し、残りの3割を民主党主導で出していた。だからそういう風に見れば確かに見える。財務省自体の予算に甘かったという批判は確かかもしれない。だけど7割とは行かないまでも、民主党主導で全部決めさせたって相当かぶるでしょうから、その時間が無かった事を考えれば仕方の無い事でもある。あの時期に総選挙をやったって、もう予算を吟味する時間もない。それは自民党のせいです。

財務省主導であったのはむしろマスコミであって、例えば漢方薬の予算カットとか、まだ決まっていないことが財務省の役人のリークによって紙面を踊る。けしからんと叩き、事業仕分けの横暴さを世論にすり込む。それを本気にした業界団体が反対の声明を出し、長妻大臣までもが懸念を表明したりする。しかしそんな事は決まってもいないし、むしろ漢方薬なんかは対象から外すと議論されていた。つまりここは削らないと。にもかかわらず財務省主導のリークを垂れ流し、それが事実であるかのように世論を誘導し既成事実化しているのはバカマスコミであって、仕分けチームではない。そういうのが何度も何度も繰り返された。

だいたい国の借金が増えるとか、国民一人当たりに換算するとこれこれの借金を背負っている事になるとか、そういう類いの報道ばかりですが、これらも全部財務省主導の報道だと言ってよい。借金が増えるって誰から誰の借金なのか?その事をきちんと報じていない。国民に借金しているのであって、国民が借金しているのではない。予算を圧縮せよというのだって財務省主導の物言いですし、今の日本はデフレなんだから、需給ギャップが大きな問題であるわけで、この場合、需要をいかに増やすのかが問題なんだから、本当は予算圧縮する事自体が必ずしも重要なわけでは本当は無い。むしろ闇雲に圧縮すればデフレはよりいっそう深刻になる。

問題は適切に金が流れて行かない図式があって、例え金をバラまいても中抜きピンハネ、キックバックによって末端に配分が回らないので需要増につながらない構造が最大の問題です。透明化されていないから、金を配ってもその効果がかえって来ない。ステークホルダーの懐を暖める為のものでしかない。また供給側の供給したいものと、需要する側の需要しているものの乖離があり、ものが売れない。産業構造の転換無くして、ただ需要を増やそうとバラまいた所で意味が無い。そういう意味で予算が的確に流れて行く為に予算の透明化が必要なのであって、予算の圧縮が目的ではない。むしろ予算圧縮のプレッシャーをかけ、公約をやる事がまるで無駄であるかのように散々民意を煽ったのはマスコミです。透明化して無駄に利権を回している構造をぶった切れば、必ずしも予算を圧縮する必要は無い。バラマキだって公共事業だって構わないわけです。目的合理性があって、その為の手段の合理性もあって、そこに的確に予算が配分されれば多少予算を増やしたってどうってことは無い。無駄だから圧縮せよと言っているのであって、圧縮するのが最重要なのではない。そうやって予算圧縮原理主義的に報じているバカマスコミこそ、財務省主導で報道している。

小泉改革のときの識者が仕分けチームに混ざっているとか、利害当事者もいるではないかとか、散々批判されましたけれど、何度も言うように手段の合理性を吟味しているのであって、それがそのまま決定になるわけでもないし、枝野氏のところでかなりのチェックも入っている。それにそれがそのまま上に上がって予算に反映されるわけではなく、そこから先はまた別の議論であるわけで、部外者が口を挟めば知りもしないで横暴だと喚き、詳しい人間が口を挟めば利害当事者ではないかと喚く。仮にそれが竹中改革で行ったようなスキームで、政府の決定に民間の利害当事者の意志が反映されて、その利権をそういう連中が漁るという図式が見えた時に批判するのなら的を射ているかもしれないけれど、現段階でただ手段の合理性を説明させているだけでそれと同じであるかのように報じるのはお門違いもいい所です。仕分けチームには法的拘束力は無いのだから。

これだけ抵抗にあうのを見れば、竹中が自分の息のかかった人間を集めて、利権をちらつかせて協力させたと批判されとりましたが、仕方が無い事だったのかもしれないように見える。なぜならそれを国民が引き受ける民度が無い。バカメディアの報道よろしく、横暴だ!!と喚いているバカが沢山いるのだから。お任せしている以上、お任せされている側が何とかしなきゃならないわけで、そしたら自分の意志を汲み取ってくれる息のかかった人間を連れて来て協力させようとするのは、敵が多ければ多いほどしょうがない側面もある。散々小泉政権でお任せしてきて失敗しているのに、まだ自分の目で情報を吟味する事も出来ないくせに吹き上がっているバカが多すぎます。

と、この話をすると一本ネタが書けそうなのでこの辺にしておきますが、とにかく今のバカマスコミ報道は酷すぎます。自民党というお飾りを政権交代で取っ払ったら、真の壁、本当の敵が見えて来たという感じでしょうか。検察の問題に話を戻します。

福島県の佐藤栄佐久前知事の二審がちょっと前にありましたけれど、あの二審の判決後の報道もほぼすべての大手メディアは二審も有罪と書きました。これもやっぱり検察が佐藤前知事の公共工事にまつわる天の声云々を立証していた。しかしこの判決は実質滅茶苦茶な判決で、佐藤前知事は賄賂を貰っていたという話になっているのですが、その賄賂の金額がゼロ円という話で有罪になっている。ここを報じなきゃ意味が無い。どう考えてもおかしな話です。

前知事の弟が経営する会社が水谷建設に土地を売却した。その売却額が市価よりも一割ほど高いと検察側が主張し、その不当に水増しされた差額が賄賂に当たると。しかし水谷建設はその後その土地を更に高い値段で売却しており、市価よりも不当に高い値段による賄賂という前提は崩れている。

にもかかわらず検察側は「換金の利益」と言って、正当な値段であったとしても、それが「無形の賄賂」にあたると主張し、それを裁判所が認めている。つまり土地の売買が正当な値段で行われていたとしても、その取引自体が賄賂にあたるという話になっている。正当な値段どころか市価よりも安く売っているわけだから、賄賂どころか損しているのに、その取引そのものが賄賂になると。

こんなバカげた話、普通の価値判断が出来る人間なら、どう考えてもおかしいと思うでしょう。だけどこれを報じたマスコミは朝日がかろうじて「換金の利益」と「無形の賄賂」という話は報じていたけれど、それ以外は基本的に二審も有罪としか報じていない。それだけを読むと賄賂を貰っていた前知事が往生際が悪くまだ無罪を主張しているという風になりかねないような報じ方をしている。検察のケツなめ報道も大概にしろよって話です。

この問題はダム工事にまつわる贈収賄というストーリーなのですが、一般競争入札であるにも関わらず、天の声を認定していて、その天の声の証言を行った県の土木部長はすでにその証言が嘘だったという事を前知事に泣いてわびている。検察が何らかの条件を出して土木部長を脅している可能性もある。弟の土地取引から得た利益を前知事が受け取っていない事を認定しながら、前知事を収賄で有罪にしている。何から何まで不可解な話ばかりで、それをバカメディアは翼賛している。本当死ねってんだよ。

この前知事というのはクリーンさが売りの五期も知事を務めていた人で、中央政府にことごとくたてついていた人だった。元々前知事自体は原子力容認派だったのですが、環境派として反対とか、原子力の危険さを反対するとかナイーブな反対ではなく、推進するのは構わないけれど推進するなら妥当な手続きを踏めという、手続き論が間違っていると言う所からロジカルに反対していたので推進派もぐうの音も出なかった。プルサーマル計画を止めたり、地方主権を主張し、政府のインチキ分権化や道州制なんかにことごとく反旗を翻していた。中央政府、電力会社、ゼネコンなどからしてみれば、目の上のたんこぶ的な邪魔な存在だったと言えます。独占構造にあぐらをかき官報を思考停止で垂れ流している大手バカマスコミにとっても邪魔な存在でしょう。電力会社なんかは最大のスポンサーなわけで、電事連の環境保護なんて冗談にもならないようなアホなCMを平気で流しているのですから。恥をしれ。

組織の中の一人一人には悪気は無いという言い方で、例えば役人にしろマスコミ人にしろ、組織の力学として腐っているだけで、その中にいる一人一人は問題は認識しているのだけれど、個人の力ではどうにもならない。と言った類いの弁解があります。しかしこの類いの弁解はいっさい認めるわけには行きません。特にその組織に所属している人間の口からのその言葉は絶対に認めるわけには行かない。なぜならどんなに生活の為であろうが、組織の論理で逆らえなかろうが、その組織で飯を食い、自分も加担しているという事を自覚しながら、それを止める事が出来ないのはその個人の責任に他なりません。そういうわかっているのだけれど、立場的にはどうにもならないという逃げが、要するに前大戦のマジョリティを形成し、暴走に歯止めがかからなくなったりする。それこそがこの社会に巣食うもっとも厄介な癌だと言える。

その組織の振る舞いに問題があるとわかっていながら、その組織にコミットし続けるという事は自分の良心を裏切っている事になる。決定しているのは最終的にその個人に他ならず、そいつに責任があるに決まっている。騙されていた?空気に逆らえなかった?わかってはいるけれど自分の生活には代えられないと、それが暴走を生み出す原動力になる。何も頭に銃を突きつけられているとか、ロープでガチガチに縛られているってわけでもないはず。本当は自由なはずでいくらでも手段はあるでしょう。手段が無いと思い込むのが楽だという話でしかない。

どんなに悪逆非道な振る舞いでも、例えそれが法に違反していたとしても、それを行っている個人に罪の意識が無く、正しいと思う事を実行している場合の方が、よっぽど罪は少ないでしょう。なぜなら正しくないと気付けばそれを止める可能性がこの場合あり得るからです。だけど悪いとわかっているのにそれを止める事が出来ない奴というのは最低の人間だと言える。わかっていてやっているのだからよっぽど罪は重い。組織の論理云々なんてのは、自分の決定の責任を誤摩化す為のいいわけに過ぎません。もはやその程度の事も自覚出来なくなった輩が増えすぎているのかもしれない。

さてそこで鳩山献金問題に戻ります。これまた全くお門違いのチェック能力ゼロの絶望的な報道しか出て来ない。

この問題は一方で脱税疑惑で叩く力学があり、もう一方は贈収賄ではないのだからたいした問題ではないという感じの擁護が主な報道のパターンでした。殆どがこのどちらかであり、全く一体全体どうなってんだよって感じでした。お門違いもいい所です。

この問題は政治資金規正法の精神をいちじるしく反している。だから問題なんであって、脱税があるかどうか、贈収賄があるかどうかは、政治資金規正法とは関係がない。小沢は西松からの献金はちゃんと法律通りに記載してある。西松からのトンネル献金であっても、それを秘書が催促しても、法に違反してはいない。なぜなら政治資金規正法というのは献金の流れを透明化する為のものであり、その意味ではちゃんと法律通り記載してあった。贈収賄があるかどうかは政治資金規正法とは全く無関係であり、そっちを立件するような証拠も何も無い段階で、それがあるかのようなリーク報道を垂れ流し、実際その頃マスコミのバカ共が報じていた報道は殆ど嘘ばかりでした。それが嘘だとわかっている現在も、全く釈明すらしない。政治資金規正法違反でパクりながら、政治資金規正法にはまったく違反していない。

だけど鳩山首相の献金問題というのは完全に政治資金規正法の主旨に反している。透明化をしていないのだから、間違ってであろうが、うっかりしていてであろうが、知らなかったとしたって関係ない。これは国民を欺く行為であるから問題なのであり、脱税がどうとか、贈収賄ではないからどうとか、そういう事以前に大問題なのです。

小沢の秘書を政治資金規正法でバッシングしている時に、その賄賂性の疑いを叩いていたりしていたので、政治資金規正法の主旨がねじ曲げられてバカマスコミも大騒ぎした。賄賂性があるかどうかは別の問題で、政治資金規正法違反であると言うなら、透明化しているかいないかが問題であって、それをしっかり透明化していたのだから小沢の場合は全く問題はなかった。だけど鳩山の献金はそうではない。賄賂性とか、脱税とかの前に、まず透明化していない。これが最大の問題です。これを叩かないと意味が無い。なぜなら透明化こそが選挙で選択する我々にとっては不可欠でもあるからです。

首相本人は会見で決して私腹を肥やす為ではないなんて釈明してましたけれど、私腹を肥やしていたかどうかなんてのは全く関係がないのです。じゃあ私腹を肥やしていなかったら政治資金規正法違反をしてもいいとでも言うのか?バカ言ってんじゃねえよって話で、民主主義を機能させる為には透明化していなければ選択出来ない。もちろんウェーバー的な意味で、鳩山が金持ちである事が民主党を作り、政権交代を実現したのも事実なので、政治は結果ですから全く否定するつもりはないけれど、少なくともそれがバレた場合は、サンクションを受けるのまでひっくるめて政治家の責務なんだから、つまんないいいわけしてんじゃねえよって話です。

どこから献金をどれくらい貰っていて、それによってそういう献金に答えるような政策に関与しているようなそぶりが見えるのなら、選挙で落とせば済む。しかし透明化していなければその判断が出来ない。その判断が出来ないように不透明な状態で選挙で勝ったとしても、それは事実上その選挙は無効であると言えるくらいの重い罪です。もちろん鳩山献金の問題は衆院選の前にすでに発覚しており、その事をバカマスコミは適切に追求していない。それが更に大問題なわけです。多くの国民がわかっていて投票しているはずなのに、今更クソメディアの報道に乗せられてブーブー文句を言っているのは、バカマスコミや特捜なんかが選挙前にキッチリこの問題を追求せずに、選挙後のヘッジとして利用する為に温存しておいたからに他ならない。それを考えれば鳩山のこの罪は非常に重い。

なぜならこの国の大きな問題の一つである司法制度改革や検察改革が事実上出来ない状態になってしまっている。はっきり言えば脱税でパクる事は出来なかったし、政治資金規制法違反と言ったってションベン刑で済むような話でしかない。それに検察が時の内閣総理大臣をパクる事なんて出来るわけないわけで、実際に総理自身は不起訴処分になっている。この言い訳がこれまたとんちんかんなはなしで、悪質性が無いとの事。小沢の秘書の件をなぜ恣意的に立件したのかの言い訳もこっちは悪質性があるからだと。

スットコドッコイもいい所です。政治資金規正法というのは悪質性を問うものではない。透明か不透明かをジャッジするものです。仮に悪質性がなくとも不透明であれば問題であるわけで、悪質性があったとしても透明であれば少なくともこの法律で罰する事は出来ない。それを勝手に検察が恣意的解釈を加えて都合良く利用している。そもそも悪質かどうかは国民が判断する事であり、検察ごときが悪質かどうかを判断する事じゃない。違法かどうかが問題なのです。

これはまぎれも無く政権交代による検察改革プレッシャーに対してのヘッジになってしまっている。鳩山が総理である以上、検察の問題は放置されたままにしかならない。これが一番の大問題なわけです。

こういう問題を抱えているから、記者会見開放も出来ないし、検察ともマスコミともバーター取引済みでしょう。検察独裁体制は続いて行くだろうし、バカマスコミの恣意的な情報操作によって利権温存の力学も放置するしか無くなる。何の為に政権交代したのか意味が無くなってしまう。だから政権交代の前に散々ボロクソに書いた。

確かに財界と癒着して何らかの権益を見返りに提供していたとかって話ではないので、政治にその偽装献金が影響を及ぼしているように直接的には見えない。その部分は鳩山の言っている事は本当なんでしょう。脱税自体に問題はあるにせよ、こちらは贈与税を払ってしまえば、お咎めなしになるんだろうから、それで話は済んでしまうのかもしれない。だけど政治に参加するという意味での民主制を損なうような問題がそこにはある。誰でも平等に政治に参加する権利なんてのは、もちろん本気で信じている国民なんていないかもしれませんが、まさにこういう構造があるから不可能だとみんなが思っている。要するに金持ちのボンボンが世襲でなるものであって、本当に民意を国政に反映させる事なんて出来ないと。

今回の問題は政治資金規正法をあえてザルにしておいた穴がはっきり見えたとも言える。親の資産を贈与したものを政治資金団体に入れればそこにはチェックが入るけれど、自分の政治活動に使う分には全くノーチェックであるという事。要するにある政治家の政治力というのは親の財力で決まってしまう。仮に世襲ではない人間が政治の世界に入ったとしても、結局その中での権力闘争で勝ち残るのは政治力のある人間で、政治力のある人間というのは即ち親の財力によって決まってしまうという構造。もちろん鳩山の事を野党の自民党なんかが批判なんて出来ませんよ。この構造を最大限に利用して来たのは自民党そのものであるし、作ったのも自民党なんだから。自民党の首相も世襲ばかりでしたし。

鳩山は贈与税を払いましたけれど、これを脱税だったと叩くのも重要かもしれませんが、しかしそれよりももっと問題なのは、贈与税を払えばそれでいいのか?という問題です。倫理的な問題を言っているのではありませんよ。脱税の問題は脇において、この贈与された金を自らの政治資金団体に入れれば、そこには領収書を残さなきゃならなかったりするので形式的にはチェック出来るようになっているけれど、その金を自らのポケットから政治活動に直接使う分にはチェックが入らない。鳩山内閣の布陣を見れば明らかですが、官房長官を筆頭にして能力的には無能な連中が半分くらい座席を占めている。要するに鳩山の側近人事なわけですが、なぜ彼らが鳩山を担いでいるのかと言えば、鳩山のポケットからその金がばらまかれているからに他なりません。実際官房長官の平野に1000万寄付しているなんて話も出て来ている。

贈与税で6億って話だから、それを例にとれば6億は鳩山の懐に入っている。それだけ自由に使える金があるという事になる。そういった金が、そのまま鳩山の政治力になり、その政治力を支えている源泉はその金を目的として鳩山にすり寄る政策的には無能な連中が、鳩山を担ぐ事によって懐も温まるし、鳩山がトップに立ったあかつきにはその見返りとして無能であるにもかかわらずポストが約束される。それが能力があっておべんちゃらを使わなくてもやって行ける政治家を出し抜く唯一の方法であるわけです。しかしそれを国民から見れば、非常に迷惑千万な話であり、鳩山の側近人事は殆どことごとくクソしかいません。そいつらがバカ過ぎるので今の民主党政権は行き詰まっていると言っても過言ではない。

だからと言って例えば金銭的な意味での政治力は無いけれど、政策的には有能な人間がトップに立てば丸く収まるのかというと、政党というのは多数決民主主義によって駆動してしまうものですので、これまた上手く回らない。圧倒的多数を占めている無能な議員からすれば面白くないに決まっているわけで、必ず足を引っ張る。現に今の内閣で有能な人間はすでに党の中の無能な連中からのやっかみで足を引っ張られているし、バックアップもされていない。国民からもマスコミからもバックアップは無いので、丸裸で官僚に囲まれて過酷なスケジュールをこなし、もう限界に来ている。顔つきが変わってしまっている。

だからすべてを否定出来るのか?と言うと、そういう鳩山の薄汚い構造無くして、民主党というのはあり得なかったし、政権交代もあり得なかったでしょう。烏合の衆である民主党が何とかまとまって来れた一つの要因であった事は間違いない。したがって綺麗事だけで断罪するわけにも行かない。自民党と一枚岩であったもっと腐りきっていた権力構造に風穴をあけるには、綺麗事だけでは太刀打ち出来なかったのも事実です。綺麗事をほざいていた過去の民主党代表は政権を握っているわけでもないのにことごとく撃沈を繰り返し続けていた。

今回の鳩山の一件は明らかに検察の利権温存の為のヘッジとして利用されているのは間違いない。そこに役人やバカマスコミ、ステークホルダーがバックアップしてそれに国民ものせられて鳩山たたきをしているのは明らかだと思います。なぜならこの問題はすでに選挙前に発覚しており、このブログではハッキリ脱税の疑いがあると書きましたけれど、そこまで具体的でないにしろ、そこに何らかの疑惑がある事くらいは知っていたはずです。にもかかわらず民主党を勝たせているのだから、今更この問題を大騒ぎするのもおかしな話です。
しかしだとしても鳩山の一件はマスコミが騒いでいるような論点とは別に、もっと深刻な問題がある。だから鳩山の罪は重いし、ここまで土がついた以上、もう回復の見込みは無いでしょうから、次の玉を考えておく必要があるでしょう。

小沢が代表から降りた時に民主党の代表選があった際、自分は鳩山でも岡田でもどっちでもいいと思っておりましたが、政権交代最優先に考えるのなら鳩山、政権交代後の政策運営最優先に考えるのなら岡田だろうと思っていた。政権交代しないと政策は出来ないし、政権交代したとしても中身のある政策が出来ないと意味が無いという事で、非常に迷う所でしたが、それでも政権交代しないと始まらないのだから、鳩山がトップになった方がまとまると思えるので、鳩山がトップに立つ事自体は悪い事ではないと思った。しかしもう政権交代は起こっているのだから、鳩山の役割は終わっていると言えます。

そして今回の一件によって、かなり重要な問題点が見えているとも言えるので、これは結構よかったと思えます。今まで自民党と役人、ステークホルダーとバカマスコミが一枚岩だったから見えなかった構造が可視化出来ているとも言える。自民党へのバッシングなんて所詮漢字が読めないと言った下らないバッシングばかりでした。

今まではそういう構造なんだろうと想像はできましたけれど、ここまではっきりと可視化出来ていなかった。だから今見えている構造が薄汚くてガッカリするものであるとしても、見えているという事が最大の価値であり、それは政治家だけのせいではない。隠して来た構造があり、それを無前提に翼賛していた国民がいるから、それがそのまま今まで温存されて来た。勘違いしてバックフラッシュでは元も子もないので、その辺をわきまえておく必要があるでしょう。

鳩山の釈明会見はフルオープンだったのでフリーの記者の質問で、官邸の記者会見をオープンにすると言っていたのに出来ていないではないかと叩かれておりました。その時に鳩山は来年には開けると言った。今更この男のこの約束を信じるわけにも行きませんが、基本的に会見を記者クラブだけに閉じていたのも、党首討論を避け、国会の延長期間を少なめにして通すべき政策を通さなかったのも、すべてこの鳩山献金問題に対する防御の為だったと言えるわけで、その重しが取れたのだから開放するのに何の問題も無くなったと言えます。

個人的には、それなりにCOP15なんかではそこそこ頑張っていたと思いますが、もう鳩山首相はこれだけネガティブなイメージを国民に焼き付けてしまった以上、時間の問題だと思いますし、今回の献金にまつわる問題の防御の為のまるで政権末期であるかのような最悪の舵取りの罪は重すぎます。政権交代後の舵取りのマズさの責任は首相にあるに決まっているわけで潮時だと思いますが、ここまで追い込まれてしまった以上、権力と一枚岩になって利権温存を護持するか、民主党が掲げていた方向性をきちんと実行するかのどちらかの道に進むしかないでしょう。前者であればマスコミの批判は減り、それに踊らされる国民によってひょっとすると支持率は上がるかもしれない。だからそこは目を光らせておく必要があるでしょう。徹底的に斬り捨てる必要がある。

また、これを機会に重しが取れたという事で、民主党が掲げていた方向性に進むとなれば、よりバッシングは過酷になり、支持率も下がるかもしれない。それでもその方向性にきちんと進むかどうかを見極める指標として、先ずは官邸の記者会見をオープンに出来るかどうかが一つの判断材料になるでしょう。それをやるのであれば、まだ見込みはある。本当は辞めた方がいいとは思いますけれど、鳩山は辞めないと言っているし、自分は民主党に一票入れてしまっているので、それをやれるのであれば、まあもう少し様子を見るかって気持ちになる。自民党にバックフラッシュするわけには行かないのだから、しばらくは民主党にやらせるしか無い。だから適切なバックアップと、容赦のない滅多切りの批判を忘れずにウォッチして行くしか無い。

ただし仮に民主党が掲げていた方向に進むとなると更に半端じゃない過酷なバッシングが続くだろうし、また例によって特捜が何らかのションベン刑の鳩山たたきで騒ぎ出すかもしれない。それがどういう意味なのかキチンと見極めないと、本当の意味でのこの国の問題点には届かないでしょう。

本日はこれにて。
フジファブリックの「打ち上げ花火」で一休み。


忙しさにかまけてて、全然知らなかったのですが、クリスマスイブの日に亡くなってしまってしまったと今日というかもう昨日ですけれど、さっき知りました。

嘘だろ・・・・まだ若いのに・・・・・・いくら何でも早過ぎる・・・・・

あまりにも残念です。

なぜ亡くなったのかはわかりませんが、理由がなんであれ、もう彼らの新曲を志村君のボーカルで聴く事が出来ないというのは・・・・・

メンバーの方々や、ご家族の方々の落胆に比べたら、比べようも無いかもしれませんけれど、残念至極です。

自分は日本の音楽というのはあまり詳しくはないので、ごくわずかしか聴かないのですけれど、フジファブは買ってでも聴こうと思える数少ないバンドの一つでした。

いい年こいたおっさんが若いあんちゃんのロックを聴いているのは、笑われてしまうかもしれませんけれど、昔のロックは昔のロックで素晴らしいけれど、だからと言って、今の音楽は音楽でちゃんと聴いた上で評価したいと思っているので、知りもしないでああだこうだ言うのは好きじゃありません。年齢性別に関係なく、とりあえず聴かないといいか悪いかもわからない。

だから聴いた事があってクソな場合はクソだと言いますし(例えそれがジェネレ-ションギャップであれ)、例えどんなに大御所の新譜であってもダメなものはダメだと言います。
それと同時に、例え若いあんちゃんがやっていようがなんだろうが、いいものはいいと言いたいと思っています。テクニック的に多少未熟だったとしてもロックが鳴っていれば、ロックが鳴らなくなった大御所よりよっぽどカッチョいい。

もちろん若い頃からいろんな音楽を聴いて来たので、フジファブもアラを言い出せばいろいろ言えますけれど、そんな下らない評価をぶっ飛ばすくらい、彼らにしか鳴らせない音を奏でていたと思えます。素晴らしいバンドです。

自分はいい年をした大人ですが、それでもかなりのショックですので、若いファンの方々の失望は相当のものだと思います。

自分が中学生の頃にはじめて大好きだったミュージシャンが死んでしまって、そのときはさすがにしばらくメシものどを通らないくらい落ち込んで以来、音楽をずっと聴いていると時々こういった才能豊かな人が突然という不幸な話が起こります(音楽に限らずどのようなジャンルでもそうですが)。その後も何度もこういう事を経験しましたけれど、こういった話は慣れようがありません。


フジファブで打ち上げ花火




70年代っぽい!!超かっこいい!!更に中盤からのドライブ感は鼻血が出そうになります。これまた超かっこいい。そこに独特の(決して上手いとは言えないかもしれないけれど)志村君のボーカルが乗っかると、これが不思議とクセになる唯一無二のフジファブサウンドになる。

志村君のご冥福をお祈りいたします。


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皆様、年末も差し迫って来ましたね。いかがお過ごしでしょうか。さぞお忙しい事でしょう。しばらくご無沙汰しておりますが、忙しさにかまけて書けないというだけではなく、世の中の報道や、それに対する反応があまりにもバカバカしく何も書く気が起こらないという次第です。

早くも公約が怪しくなって来ました。マニフェストの公約というのは4年間でやれれば、まあそれはそれで構わないと言えば構わないので、いきなり税収も落ち込んでいるわけなので、出来ないものがあるのは予算を組む時間を考えればしょうがない部分はあります。だから今回の予算では実行出来ない公約があるというくらいならまだ許せますけれど、公約の理念をねじ曲げているものには牽制する必要があるでしょう。子供手当の所得制限という話が出て来ている。これを本気でやるつもりなら子供手当の理念が変わってしまう。所得制限なんか設けるなら止めた方がいい。

子供手当というのは貧困対策ではない。貧困対策なら、子供がいるいないに関わらず所得制限を設けて収入が低くて生活に困窮しているすべての国民に給付するべきです。子供がいる貧困家庭だけ救済するというのは不公平だし、何しろ子供手当の理念からかけ離れてしまう。

なぜ所得制限を設けると理念とかけ離れてしまうのかというと、所得制限なんて設けると無駄にコストがかかるという大前提を脇に置いて書きますが、貧しい家庭の子供も裕福な家庭の子供も、日本の社会が負担して育てるという、子供は親だけが抱え込むのではなく、社会が育むという理念とは無関係な代物になってしまうからです。

現在の日本社会というのは親が子供を抱え込み、学校の先生といえども余計な口は挟めない。まして子供がどのような振る舞いをしていようが、社会の大人達は他人の家庭の子供だからという理由で、見てみない振りをするというか、何か口を挟もうものなら厄介事に巻き込まれそうな風潮が支配している。これはヘタをすると身内の親戚の子供であってもそういう場合があったりする。近所のおっちゃんにぶっ飛ばされるとか、親もろとも怒鳴りつけられるとか、そういう事は皆無になり、むしろそういう事をやった方が悪いような社会になっているのが現在です。

もちろん昔みたいに近所のオヤジが人の子供にげんこつするとか、暴力を振るってしかりとばすとか、ダメ親を子供共々説教するとかまでやる必要は無いだろうけれど、今のような無関心な社会のままで社会の問題を考えても、空洞化しているのだから無意味にしかならない。空洞化してしまった社会を再構築するための、大人は子供達に責任を持ち、子供は大人達に感謝するという最低限の相互扶助の為の政策であったはずです。これが無いから世代間の分断統治が機能してしまう。

エネルギー資源も無く、土地の狭いこの国がここまで成長出来たのは技術力を裏付ける人材力があったからに他なりません。子供というのは次世代を担う人的資源ですから、他人の子供は関係ないという風潮は普通の先進国の基準で考えればあり得ない無責任さだと思う。そして社会に対して子供が迷惑をかけているのに、それに対して何か言おうものなら、他人にとやかく言われる筋合いではない、俺の子供をどう育てようが俺の勝手だ、と言う親も増えている。ダメなものはダメだと社会全体で教育出来るようにする為には、親が全責任を負って育てているのだから他人が口を挟むなという状況を変えなきゃならない。

これを道徳や教育を叫んで自民党や保守の連中はやろうとするわけですが、道徳や教育の中身に国家があれこれ関与するのは、本当は政治がやるべき事ではない。道徳や教育を社会全体で行えるような枠組みを構築するのが政治の仕事です。子供を社会が育てているという認識に変われば他人の子供であるから関係ないという風潮をかえられるし、親も社会の声を無視するわけには行かなくなる。

子供にしても親だけでなく、社会に育ててもらったという事になれば、その恩返しをするのは自然な事だと思えるようになるでしょう。現在のように自分の事しか考えず、逃げ切る事しか頭に無い大人達を見て成長すれば社会へのコミットメントなんて生まれるわけが無い。成功をおさめたとしても自分一人の力で達成したと思い込まずに済むようになる。社会へ還元する事が責務だと言っても説得力がある。そういう精神がNPOなんかを活発化させる事に繋がる。市民が社会へとコミットメントし、社会が個人を支えるような分厚い市民社会。

そういう一番根幹にあった理念が所得制限なんか設けてしまうと無くなってしまう。所得の格差を是正するなら累進制をきつくして取るべきで、裕福な家庭の子供も貧しい家庭の子供であっても社会がバックアップして育てるという子供手当のそもそもの意義をぶちこわしにしかねない。

財源が足りないというならば、来年以降に先延ばしにすればいい。いったん所得制限を設けての子供手当なんていうスキームが出来てしまったら、それを変える事が今度は難しくなりかねない。だいたい貧困対策としてなら、なぜ子供のいる家庭だけなのか?不公平であるし、子供がいなくたって生活に困窮している人はいっぱいいるわけです。

だからこの問題は公約違反云々の批判というだけでは足りない。政権を担当している間に最悪でも公約がはたされれば公約違反にはならないからです。だけど公約の理念が変わってしまっているものを形だけ整えて無理矢理実行しようとしているポピュリズム戦略こそが問題で、子育て支援の意義が失われてしまうようなものを単に貧困対策のバラマキとして行うのなら、それを止めるか、子供がいなくとも貧しい家庭に配れと言うのが批判のスジってもんでしょう。

高校の無償化は所得制限を設けないとの事なので、ただ単に財源が足りないという問題だけではないでしょう。所得制限を設けよ!!というプレッシャーに場当たり的に答えて人気取りに走っているように見える。所得制限を設けるなら高校の無償化にも設けりゃいい。そうすりゃ財源も浮くのだから。だけどそれを半分だけ所得制限を設け、半分所得制限を設けないなんてのは理念もクソも無い妥協の産物に他ならない。選挙対策の弥縫策に過ぎず、そういう下らないポピュリズム的な政策を打つのならやらない方がマシです。そんな事をしていたのでは民主党の自滅も時間の問題でしょう。

個人的な意見を言えば、高校の無償化はどちらかと言えば賛成出来ない政策でもある。義務教育に対して子供手当なり無償化なりすれば、そこから先は完全に能力によって徹底的にふるいにかけて、親の収入とは無関係に優秀な人間だけ優遇して無料で教育を受けさせればいい。大学に行く際も同じように更にその中から選別して大学教育を受けさせればいい。そうすれば無駄な学費に金をかける必要も無くなるわけだから、無駄な高校や大学はすべて淘汰出来る。本当に学力の優秀な人間だけが教育を受ける事が出来、教師も優秀な人間以外は不必要になる。バカに学問を強要するのは時間の無駄です。

人口が減って行くのだから、学力的に才能の無い人間は中学卒業と同時に社会に出して実際に職の訓練を受けてしまった方が、バカな大学出の無能な人間をそれなりの給料で雇うよりは初任給を押さえる事が出来るし、何しろ大卒と同じ年齢になるまでにはいっぱしの社会人として教育する事も出来る。その方がよっぽど実戦では役に立つ人間になるでしょう。学力的には劣っていても、それがその人の全人格を決定するものでは決して無いわけだから、苦手なものに時間を割くよりも中学卒業と同時に実社会に出してしまって食って行く術を叩き込んだ方が役に立つ。早い段階でいっぱしの人間に成長出来れば、結婚して家庭を持つ年齢も若くなり、したがって子供も多く生みやすい環境が整うのだから増えやすくなる。

大学教育まで受ける事の出来た選ばれたエリート達は、国民の税金によってそこまで教育を受けるわけだから、それをきちんと社会に還元するように徹底的に教育する。それがエリートへのリスペクトへと繋がり、エリートはエリートの役割を、学歴ではエリートになれないとしても専門分野のスペシャリティを持った中卒には中卒の役割を、それぞれが担って行く事によって社会が回るようにした方が効率がいいように思う。下らない平等主義よりはよっぽどスッキリするように思うのです。

とまあ常識人からは怒られそうな個人的な見解は脇において、子供手当を所得制限を設けて、高校無償化を所得制限を設けないという政策には、何の理念も見えて来ない。ただ単に金が足りないというだけなら、そんな理念もクソも無い政策を打つ前に他に金を回した方がいい。貧困対策なり景気対策なり、暫定税率廃止なり、いくらでも使い道はあるはずですから。

というように巷の民主党批判やバカマスコミの報道は的を射ておらず、チェックとして機能していない。特に酷いのは直近の話題ですと天皇問題でしょうか?政治利用?実にバカバカしい反応です。

小沢がこの問題で叩かれている事自体は、大いに結構な事だと思う。天皇を政治利用したか否か、世論やマスコミの反応が適切かどうか、それらは多くの人がいろいろ書いているし、実はたいした問題じゃないので、ここでは脇に置いて書きますけれど、彼は与党の政治家でしかも幹事長であり、闇将軍と揶揄されている存在でもあるわけだから、何かを発言すればそれにレスポンスがかえってくるのは自然な事。権力を握っているのだから大いに批判にさらされてしかるべき立場にありますし、政治は結果ですから、どのような理由があろうが叩かれているのだからそれが結果であり自業自得です。しかしそこの問題ははっきり言えばどうでもいい話でもあるので、そこはすっ飛ばして問題の本質を書きます。

先ずこの問題で根本的な抜け落ちている点があります。この国の制度というか天皇制という制度というのは基本的に皇族には基本的人権や自由は認めていないという大前提が抜け落ちている。特に戦後のこの制度は天皇の人間宣言が根本にありながら、天皇を人間として認めていない。基本的人権が無いのだから人間扱いしていないという事です。

その状態で天皇のお体がどうのこうのという言い回しに国民までもが乗っかっている事の欺瞞性を全く自覚しちゃいない。これがまず鼻持ちならない風潮です。天皇の政治利用をどうたらこうたらいう前に最低限この事は認識しておく必要があります。

本当に天皇家の事を考えるのなら、天皇制なんていう制度は天皇の事を人間扱いしていないのだから止めた方がいいに決まっている。だけどおそらくその事には多くの人が反対するでしょう。伝統あるこの制度を壊す気か!的に吹き上がる人もきっと沢山いる。まあそうですね。4代も続いた(皮肉ですよ)伝統ある制度なんだから守った方がいいのかもしれませんし、そこまで天皇主義的に伝統云々を持ち出さなくとも、普通の国民感情的に天皇は天皇のままであった方がいいと思うという感じが普通の反応かもしれません。

しかし天皇は天皇のままである方がいいという反応は、即ち彼らを人間扱いしていないという事をまず自覚した方がいい。天皇制と言う仕組みを敬い支持しているのであって、天皇家の人々を敬ってのものではない。どんなに敬いの言葉で誤摩化しても、その事は大前提であり、それは全国民が加担もしている。彼らの人間宣言を受け入れていながら、人間として扱おうとしていない。そういう欺瞞の上に成り立っているのが現在の天皇制でもあるわけです。

そして天皇というのはどういう位置づけとして機能して来たのかを振り返ってみますと、天皇というのは常に革命の玉としてレジティマシーの調達装置として機能して来た。直近でわかりやすい所でいうと明治維新がそうでしょう。これも天皇を巡って正統性の奪い合いの果てに、薩長が天皇を担いで錦旗を掲げ官軍となって、賊軍となった幕府軍を蹴散らした。

そもそも徳川慶喜というのは筋金入りの尊王派ですから、まさか自分が朝敵にされるなんて思ってもいない。実際に孝明天皇からの信任も厚かったし。しかしその孝明天皇が死んじゃって(暗殺されちゃったという見方もある)、長州の大村虎之介が明治天皇の替え玉となりなんて説もありますが、いずれにせよ天皇を薩長が握って正統性を得る事が出来た。幕府軍はそもそも尊王を掲げて戦っていたのに、いつの間にか天皇に歯向かう朝敵、賊軍とされてしまったかのだから、あっという間に形勢逆転して負けちゃったというか負けを認めてしまった。というのが明治維新の単純な流れですけれど、この時に時代を動かした官軍の連中というのは尊王思想を掲げていたけれど、天皇の事を尊敬なんてしちゃいなかった。

しかしその明治維新によって時代が変革し、その時に設計された天皇制度が今の我々が伝統だと思っている天皇制度であるわけで、はっきり言えば、この時に作られた天皇制というのは過去の日本の歴史や伝統の蓄積の上に作られた物でもなんでもなくて、近代化の為の中央集権国家を形成する為、各藩の村人でしかなかった人々を、国民化する為の装置として天皇制というのが確立される。伝統的な神道とその際に設計された国家神道とは全く別物ですし、そもそも天皇家自体が仏教徒だったのを無理矢理取り上げて止めさせている。本当に天皇を崇拝していたらそんな事は出来るわけがない。

戊辰戦争の際の会津の強烈な愛郷心に散々手こずった新政府軍は、西南戦争の際に西郷への忠誠心で結束した反政府軍に対しても散々手を焼く、会津や賊軍として痛めつけられた薩摩に恨みのある連中をこれにぶつけて打ち破るわけですが、会津の愛郷心や西郷への忠誠心などによって凄まじい力を発揮する団結力を参考にして、天皇を中心にした愛国心、そして天皇の臣民という国民化へのシステムを構築し、近代化のリソースとします。だから尊王思想がそのまま天皇制へと繋がっているわけでもない。我々武士は将軍家の家来ではない天皇の家来であって将軍だって天皇の家来に過ぎないという事で、将軍より上位の権威によって正統性を調達し、江戸時代の幕藩体制を脱臼させる事が出来る思想だから、当時の武士の間では尊王思想が流行っていましたけれど、天皇なんてそれまでこの国の多くの人々はそれほどちゃんと知らなかったわけですから。

むしろこの後、藩閥政治によって天皇を利用してやりたい放題にやっている薩長の連中に対して、西郷の志を受け継いだ人々が自由民権運動というのを始める。これが日本の右翼の始まりで、天皇陛下万歳とは全く関係がない。この時に天皇を私物化して国家を牛耳っている藩閥どもから、民衆の手によって民主主義を確立する為に、民衆為の天皇であるべしという意味で、右翼と天皇が結びつく。それが本来の意味での右翼的な天皇主義の根本にある。これが広がって行って民主主義と立憲君主制が確立されて、大正デモクラシーなんて習いますけれど、戦前の一時はある意味では今よりもまともなデモクラシーが作動するに至る。

これが昭和に入ると変わってくる。昭和恐慌によって不況がズルズルと続き、あげく世界恐慌によって経済はがたがたになる。その過程で、政治家達は何も手を打てずに時間だけを浪費する。今と全く同じ状況です。これに国民が嫌気をさし始める。民主主義という制度に絶望し始める。そしてその背景で軍部が力を強める。選挙で正統性を得た政治家達よりも、軍人達に任せた方が上手く行くのではないか?という風潮もあって、軍部や官僚が天皇制を利用し始める。マスコミがそれを翼賛し、国民もそれを支持していたわけだから、国民に支持される政治家も次第にその翼賛体制に異議を唱えなくなる。

政治家が天皇主義を掲げ政治利用している段階であれば、政治家というのは選挙で選ばれた人間ですから、それがどんなに愚かな政治利用に見え、どんなに政治家達の私利私欲の為に利用しているように見えたとしても、選挙によって落とす事が出来るのだから民権の為の天皇という意味では十分機能しているので問題は無い。だけど元々民権の為の天皇主義が、民意によってふるいにかける事の出来ない軍部や役人達に奪われて利用されてしまう。民権ではなく国家主義的な意味での天皇となってしまう。その事をマスコミが翼賛し国民も支持をした。そして後戻り不能の泥沼の戦争に突っ走ったわけです。

このときの教訓をふまえるのなら、民主制で選ばれた政治家達が天皇を掲げているうちは、例えばそこに政治利用があったりすれば、選挙によって引きずりおろせば済む話ですが、これを役人が利用し始めると暴走を始めてしまう。ましてその事をチェックするマスコミが翼賛し、国民までもが支持していたのでは民主主義など機能するわけがない。

さてそれが戦後どうなっているのかと言えば、建前上は天皇の政治利用はけしからんという事になっているし、出来ないというコンセンサスがある。しかし実質的には政治利用はされて来た。ただ役人と政治家が一枚岩だったからその事が可視化出来なかった。

実態は完璧に外務省や宮内庁の役人の権益として天皇制は利用(必ずしも悪用という意味ではありませんよ。利用です。)されている。宮内庁長官というのは代々役人の天下りポストのようなもんです(繰り返しますが、天下り=悪と書きたいわけじゃありませんよ念のため)。基本的に政権交代もほぼ起こらずに自民党の独裁体制でそういう状態であったわけですから、天皇を役人が利用して政治家をコントロールするツールとして機能して来たし、政治家も役人の権益護持に加担し、基本的に役人にお任せだったので、そこに何の軋轢も生じる事は無かった。それが戦後のこの国の仕組みだった。

しかし今回政権交代が起こったらこういう問題が表面化し、マスコミが役人のリークを垂れ流し、「天皇のお体」という理由に加担して、与党の政治家を攻撃している。多くの国民もそこに乗っかって政治家批判をしている。これがどういう意味を持つのか?

天皇の政治利用が戦前の暴走を生み出した。だから戦後は天皇の政治利用というのは基本的に出来ないようになっているはず、政治家が天皇を政治利用するなどけしからん、戦前を繰り返す気か!という批判がありますが、こういった批判は歴史を何もわかっちゃいない。戦前天皇を政治利用して暴走させたのは軍部や役人です。戦前の政治家も愚かな、天皇の政治利用や、天皇を掲げながら私利私欲しか頭に無い政治家達も沢山いた。だけど政治家が天皇を掲げて自らの正統性を主張している段階では、この国は立派に民主主義が機能していた。

だけど不況と政治家達の愚かに見える権力闘争に嫌気がさした国民が、軍部や役人が掲げる天皇主義の方を支持し始める。その先頭で旗を振っていたのはマスコミです。朝日、毎日、読売と今でもその連中は残っている。同じように役人のケツをなめ自らの利権温存の為に捏造と歪曲で報道を私物化し国民を煽動している。天皇の政治利用が暴走したのはそこからであって、政治家が政治利用したからそうなったのではない。政治家が政治利用している状態であれば民権が機能しているわけだから問題は無い。民権が届かないレベルで政治利用され始めたら誰もブレーキを踏めなくなる。民権が届かないレベルで政治利用される事をマスコミも国民も望んだ。だからその民意によって選ばれる政治家も、次第に軍部や役人の天皇主義に逆らわなくなる。それが翼賛体制を生み出して暴走したわけです。

あの政治家は天皇を私物化しているけしからん!!と誰が言っているのか?この事に敏感になる必要がある。戦前もそうやってバカマスコミが旗を振って、軍部や役人が政治家を攻撃し、それを民意が支持しているもんだからその尻馬に乗っかって権力闘争に利用していた政治家がいっぱいいた。

政治家が政治利用しているという事、例えば小沢が政治利用したと叩かれておりますけれど、それが適切だったか不適切だったかは脇に置いておいて、それが国民によってジャッジにさらされている状態であれば何の問題も無い。仮に愚かな振る舞いであるのであればそれが見えているという事が最大の価値であって、それを忘れてはならない。小沢を独裁と叩いている人がいっぱいいますけれど、叩けて選挙によって引きずりおろす手段が国民にあるのだから、その手段が我々にあるうちはたいした問題ではない。だいたい選挙で選んだのは他ならぬ国民自身なんですから。

憲法で規定されているのは、天皇の国事行為は国民が選んだ議員が選んだ内閣の助言と承認によって行われるとなっているけれど、正確に言えば、外国の大使及び公使を接受する事が国事行為であって、国家元首やまして中国の副主席と会う事は厳密に言うと国事行為以外の公的行為に当たるわけですが、これに対しては容認する意見もあるし、憲法7条第10号の「儀式を行ふこと」に該当するという考え方もあるし、そういう行為は憲法で認められていないという考え方もあるといったように解釈は分かれている。

この場合憲法というのはどのように運用されて来たのかが重要なので、先日のオバマ大統領なんかと会ったのもそうですし、そういった国事行為以外の公的行為をこれまで天皇は行って来ているわけだから、実質的運用においては事実上、国事行為以外の公的行為はこれまで普通に行われて来た。仮に憲法解釈を問題にするのだとしても、それはまた別の話であって、今回いきなりその事を問題にするのはおかしな話です。これを憲法違反だと言うのなら、一ヶ月ルールもクソも無く、国事行為以外の公的行為はいっさい認めないというなら話はわかるけれども、現にそれを認めて来ているわけだから、それが不適切であれば国民が選挙で判断すべき事です。

役人ごときが天皇を利用している状況をバカマスコミも結託し、それを国民も鵜呑みにして政治家批判をするならまだしも、役人を支持なんてしている。その尻馬に乗っかっているバカな政治家もいる。これは戦前と全く同じ状況です。軍部や役人が天皇を利用して暴走して行った図式と変わらない。軍部や官僚の意向に添った天皇主義以外は天皇主義と認めず、売国奴と排除し、非国民と分断する。そして出口の無い不況も同じ。政治家は国民の代表なんだから政治家が不適切に天皇を利用しているかどうかは国民が決めればいい事で、役人やそのケツをなめるバカマスコミなんぞが判断する事ではない。お門違いもいい所です。こんな事を許していたのでは戦前の二の舞になる。

今回、宮内庁長官が会見を開き、これを支持している人はいっぱいいるけれど、小沢はボロクソに批判されている。小沢を批判するのならそれは民意がチェックしているわけだから構わないのだけれど、同時に宮内庁長官も批判にさらすのが妥当でしょう。役人の分際でわきまえていない。どちらが正しいかではない。どちらにも問題がある。小沢を批判してぶった斬ったその同じ刀で、宮内庁長官も斬り捨て、その尻馬に乗っかって面白おかしく無責任に報じているバカメディアも同時に叩き斬る。ましてこれ幸いとばかりに安倍晋三のようにこれを政治的な権力闘争に利用するような輩は滅多斬りの八つ裂きに批判してこそ、この問題の妥当な批判と呼べるでしょう。

今回の宮内庁長官の言っている事自体はまあわからないでも無いし、あの人自体に悪気は無く宮内庁長官として、本当に「天皇のお体」を心配しての事なのかもしれないけれど、だとしてもです。というか尚更です。だったらなんで政府の申し出をあくまでも突っぱねなかったんだ?という事で、どうしても「天皇のお体」を思うのであれば断固として突っぱねて、自ら腹を切ってでもそういう事は認めるわけには行かないと言い通すのがスジってもんです。職を辞して外から好きなだけ批判して小沢の政治利用を牽制すればよかったはず。

それを役職にしがみつき結局は政府の方針にしたがって、実際天皇は副主席と会ったのだから結局何とかなっている。政治家の天皇の政治利用なんかよりも、役人の天皇の政治利用の方が数百倍危険です。実際それで泥沼の戦争を経験し、原爆まで落とされている。にもかかわらずその事を認識出来ていないバカが沢山いる。

宮内庁長官が本当に政治利用に敏感であるのなら、役人の政治利用と言われかねない発言をしている事を自覚して、職を辞すべきであり、そうであれば彼は本当に「天皇のお体」を心配しての事なのだという事に説得力も出てくる。だけど彼は職を辞す気がないと言っている。という事はそれがどのような力学に利用されてしまうのか?彼がその事に敏感であるのなら、与党の政治家を批判している連中に対しても釘を刺す必要があるはずです。ですがそれをしていない。これだって立派に政治の権力闘争に天皇を利用している。そうならない為には本当に信念があるのなら職を辞めているはずです。

戦前この国が民権の為の天皇を捨て、国家の為の天皇を支持し始めたきっかけ、民主主義に絶望し、軍部や役人に期待し始めたきっかけも、最初の理念は間違っちゃいない正しい理念があった。要するにこの国の政治は腐っている。天皇を私物化し政局の道具に使っている。けしからんじゃないかと。青年将校達が5.15や2.26事件、昭和維新を目指して行動を始める。これは鎮圧されるのだけれど、その心意気を国民は支持したわけです。

しかしその心意気と国民の良心的な支持は翼賛体制に利用されてしまう。それが後戻り不能の泥沼の戦争に突っ走った原因です。最初はみんなそれがよい事だと思っていた事が思わぬ展開に絡めとられてしまう。民権の為の天皇が国権の天皇、亜細亜の天皇とだんだん話が大きくなってしまったのも、民権を守る為には外部からの圧力を先ずは突っぱねなきゃならない。だから民権の為には今は国権が必要である。国権を維持する為には亜細亜を帝国主義から解放しないと列強に包囲されてしまう。だから国権の為には今は亜細亜主義だという事になる。だけどそのすべての基本は民権にあったはずで、亜細亜諸国の民権もそれによって守る事が出来るはずだという理念だった。それぞれの国の民衆が自分達の国をどういう風に操縦しようがそれは自由。だけど列強の脅威にさらされている現在、それは不可能。だから当初の大東亜共栄圏という思想もそういう理念があった。しかし理念は失われ手段が目的化してしまう。

今回の政治家の天皇の政治利用が不適切であったとしても、そんな事はたいした問題じゃないし、実際にこれだけ騒がれたのだから何の問題も無い。そしてそれは国民が選挙で意思表示をすれば済む事です。それを宮内庁長官や民意の尻馬に乗っかって、小沢を売国奴と批判している安倍晋三のようなクズが騒いでいる事の方がよっぽど問題です。お前も政治利用してんじゃねえかよって話です。まさかこのバカがもう一度人気を得るという事は無いと思いたい所ですが。

断っておきますが、戦前のある時期から出て来た天皇陛下万歳の国粋主義者に利用された天皇主義や最近のバカ右翼が騒いでいる天皇主義にはクソの価値もないと思いますけれど、自分は本来的な意味での天皇主義という意味(本来の右翼的な民権の為の天皇であるべしという意味)でも、三島由紀夫的な徹底した近代主義者であるが故に天皇主義者であるような考え方も(近代をドライブさせる必要条件としてプロテスタンティズムの予定説が必要不可欠です。この国の天皇制というのは、その神の代替装置として機能した、神の前での平等ならぬ天皇の前での平等によってこの国は近代化を遂げたわけです。戦後の再近代化がことごとく問題だらけなのは、予定説の神の変わりになる物が無い状態で無理矢理ドライブさせている事に原因がある。だから三島は天皇が人間宣言した事を嘆いている。天皇は現人神であってくれないと日本の近代は駆動しないからです。)肯定したいタイプの人間です。

繰り返しますが革命の玉として天皇というのはこの国ではずっと機能して来た。したがってそれを完璧に国家が囲っている状況ではせいぜい政権交代が起こるくらいの事はあったとしても、国家が覆される可能性は無い。国家はあくまで国民の為のもの、国民生活をないがしろにしているような国家など認める必要は無い。憲法の前文できちんと示されている事でもある。したがってそういう意味でも天皇が人間宣言してしまった事は残念に思うし、その革命の玉を握ってせめぎ合いが起こる可能性が無いという状況こそが、立憲主義や民主主義が機能しない最大の原因です。この制度をドライブさせる為の必要条件には抵抗権としての革命権が不可欠だからです。それがあってこそ初めて統治権力に緊張感も生まれる。ある日、国家権力として権力を行使していた側が、天皇を革命勢力が手にする事によって、いきなり朝敵となり、革命を起こす側にこそ正統性があるとひっくり返る可能性があるという事は重要な牽制の機能になる。それが無いから腐敗もするし緊張感も無い。そういう意味でも天皇主義は肯定したい人間ですし、天皇の戦争責任とか騒いでいるバカ共にはムカつく類いの人間です。戦前の日本は立憲君主国ですから天皇に戦争責任などあるわけも無い。

だけど同時にそういう風に思うという事は天皇というシステムは肯定しているけれど、天皇を人間だとは思っていない事と同義であるという事も自覚しておりますので、今の時代にそういう天皇主義が復活する見込みはゼロだと思っていますから、天皇システムが壊れている以上、今の天皇制度自体を維持する事には何のコミットメントも持てない。人間として解放してあげたらいいじゃないかとも思ってしまう。生まれた瞬間から基本的人権や自由を一切合切剥奪されて、さらし者にされている状態はあまりにも惨過ぎる。天皇のお体云々なんて事を心配するのなら、一刻も早くこんな制度は止めちまった方がいいとさえ思っています。

しかし実際そうは言ってもそういう風にはならないだろうし、従来の意味での天皇システムは機能する事ももはや無いでしょう。国家が天皇を囲い、自由も基本的人権も剥奪したまま虐待を続けて行くのだろうと思う。だから出来る事なら負担は軽くした方がいいに決まっているし、政治利用なんてするべきではない。

そういった前提をふまえて今回の騒動を見て行くと、確かにこの問題は政治利用しているように見える、実際外交のカードとして利用しているのは間違いない。が、完璧に政治利用を排するという事は事実上不可能であり、それをするなら天皇制を廃止しないと出来ない。だから天皇制を廃止しない以上、必ず政治的に利用はされてしまうでしょう。実際今の段階でもすでに民主党だけでなく、野党も官僚もマスコミも国民までも、天皇を権力闘争に引きずり出している。

だけどそれが国民のコントロール可能な領域にある分には何の問題も無い。政治家の政治利用が不適切だと思えばそれを選挙に反映させれば済むからです。しかし役人が政治家をコントロールする為の手段として利用するなど論外です。それがこの国の最大の問題でもある。役人を辞めて外から政権批判をするのならいっこうに構わないけれど、役人が勝手にそういう振る舞いをするという事は遥かに危険な兆候です。それを翼賛しているのだから尚更。

今回の宮内庁長官には悪気は無く、仮に天皇のお体をただただ心配しての事であったとしても、それを利用する連中がいっぱい出て来てしまう。それは非常に危険なものです。野党の政治家が騒いでいるくらいならまだいい。そういうバカは選挙で落とせばいいからです。だけど役人とそういう政治家とバカマスコミが結託して天皇を政治利用しながらアンタッチャブルな存在へと祭り上げるような力学が動き始め、国民がそれを支持し始めるようになったりすると、それはもうどうにもならない。お終いです。今回の一件ではそれが見え始めている。その事に敏感になるべきでしょう。

これはメッセージとしては中国に対しては特例を認めたという意志を示す事になり、それは即ち、中国のプレゼンスが強まっている現在、中国に言われたら要求を飲まないわけにはいかないという事を示してもいる。それが気に食わない人も多いのかもしれませんけれど、実際問題事実として中国のプレゼンスは無視出来なくなっているわけだから、衰退国家の末路としてはそういう隣国をないがしろにするわけには行かないに決まっているわけで、息巻いて吹き上がっても解決出来ない。周到な外交が必要でしょう。アメリカが今後日本の製造業のお得意さんとして復活する見込みは低いのですから、中国の爆発的な消費の伸びが日本経済の命運を握ってもいるわけです。

それはアメリカも同じです。中国がいかに国債を買ってくれるのかがアメリカの命運を握っている。すでにアメリカと中国はガッチリ手を握っているし、対中国の国防を考えた時に、アメリカには何も期待出来ない。仮に中国が日本に核ミサイルを撃ったとしても、アメリカは絶対に撃ち返さないし、日本を守る事なんてあり得ない。実際にそういう風にガイドラインで決まっているという事を脇に置いても、日本と中国をはかりにかければどちらがプライオリティが高いのかは言うまでもないでしょう。それは相手が北朝鮮であっても同じです。背後に中国がいる以上、アメリカの国益にとっては日本も重要だけれど、日本と中国をはかりにかければどちらを優先するか言うまでもない。もちろんアメリカにとっては現時点では日本も大事なパートナーである事には違いないのだから、別にその事を悲観する必要は無くて、中国とも上手く外交して行けばいい。その為の一手として納得出来なければ選挙で意思表示をすればいい。

そしてこれはアメリカへのメッセージにもなりうる。対米依存を少し弱めてアジア外交にシフトしているという風に見えるでしょう。実際に普天間問題で軋轢が生じているとバカマスコミがほざいている現在(これも嘘がいっぱい混じってますけれど)、そういうメッセージに取られても仕方ない。これもやっぱり外交の一手としてマズいと思えば選挙で反映させればいい。

しかしそんな事は別にしらばっくれて、中国との友好上必要なのでそういう措置にしたと言えば、それ以上問題にはならない話であるわけで、これを大騒ぎする事によって生じる副作用の方が何倍も問題です。大騒ぎしてしまうとこれが余計政治問題となってしまう。余計に中国にもアメリカにもメッセージとして機能し、外交のカードとして機能してしまう。国内の軋轢に付け込まれる隙を見せる事にもなる。そういう事を役人は必ず権益に変えて利用しようとする。前大戦だってそれが暴走を引き起こしてもいる。

今のこの問題に対する反応は前大戦の教訓を全く生かしていない。政治家が政治利用する事なんてのはたいした問題ではない。それを批判する力学こそ、前大戦の最大の失敗の始まりであるという事を自覚する必要があるでしょう。多分多くの人はその事を自覚していない。そこに乗っかってしまっている。それは善意かもしれませんけれど、だからこそ危機的な状況にあると言えます。その事に気付く事が出来なければ、もはや痛みを味わうまでどうにもならないかもしれない。手遅れだと言う事でしょう。本日はこれにて。