さて前回の続きでございます。

聴取に応じるって話ですが、まさか手打ちをしてるのか?そうじゃなければ小沢はかなり不利な立場に立たされるでしょう。まあ小沢が本当にやっているかどうかなんてのはどうでもいいので、引き続き特捜やマスコミの問題を続けます。自分にはどう考えてもこっちの腐った構造の方がプライオリティが高いので。

こんな特捜のようなめんどくさい連中のやり口は法務大臣が指揮権発動してさっさと止めちまえば話が早いのですが、鳩山は指揮権発動に及び腰です。それをやると独裁だと喚く輩が多いだろうし、マスコミが大騒ぎするに決まっているので、ビビっているのでしょうけれど、指揮権発動というのは別に権限としてちゃんと法的に認められている制度ですので、何もビビる必要なんて無いし、それを使う事が独裁であるのなら、こんな制度を持つ必要なんてハナっから無い。なぜそれがあるのかと言えば、まさしく役人が勝手に法を恣意的に利用して、民主主義によって選ばれた意志をねじ曲げる事を抑止する為です。つまり戦前の軍部(官僚)の暴走のような事を止める手段として有効なわけです。

この国は国民主権であるわけで、国民が選挙で選んだ政治家の方が法律よりも上位に位置している。なんと言っても政治家は立法出来るわけで、役人はその法律に従うのが仕事です。だから指揮権発動に文句を言うというのは、民主的決定よりも上位に権力があるものだと錯覚している愚か者です。民主的決定は人を殺す事まで合法化出来る力があるものですので、国民主権という意味は非常に国民にとって重い責務でもある。

この国民主権、民主主義であるからこそ、指揮権発動というのは正当化される。これを独裁とか叩いているバカはお門違いもいい所で、本当勘弁して欲しい。逆だっつうのって話です。そういう輩は指揮権発動が、国民主権、民主主義を貫徹する為の制度である事を理解していない。これを北朝鮮とか中国とかと同列に論じる事がそもそもナンセンスで、指揮権発動に文句を言う構造こそ、国民主権や民主主義より上位の意思決定があるという事を示し、それこそが北朝鮮や中国と同じであるわけで、だからこそこういった権限を政治家に手渡す事になる投票行動は、非常に重い責任が伴う。簡単に選挙に行きましょうなんて啓蒙するのは危険極まりないのです。

だから民主党を支持したくせに、支持した事を棚に上げ政治家批判をするような輩は選挙に行く資格なしとなるのです。それだけ重要な権限を自己決定して政治家に任せている責任が、民主党を支持した有権者にはある。その覚悟が無いのなら、投票なんて行かない方がいい。別に民主党を支持したわけではない、自民党の不支持で投票しただけだといいわけをこくバカがいっぱいいますが、だったら選挙になんか行かなくていいし、前回の衆院選の時点で野党は民主党だけではなかったはずです。こういういいわけをほざき自分の責任を棚に上げて喚いているクズは言論する資格なし。先ず自己反省せよって話です。そういう無責任な権利の行使がこの国の最大の問題である事を知れ。

司法の独立性という錦の御旗を盾に取って、指揮権発動が不当である事かのように喚くたわけがいますが、司法の独立性というのは民主的決定によって絶対的な力を手にする政治権力から、司法は独立しているという意味であって、民主的決定を司法権力が邪魔していいという意味ではない。なぜならばだから指揮権発動というものがある。要するに民主的決定の方が司法権力よりも上位に位置するという意味です。司法が好き勝手に邪魔しようがなんだろうが独立を盾に取ってやりたい放題にする為に司法の独立性というものがあるのではない。それが司法の独立というのであれば指揮権発動などと言う制度は必要ない事になる。それがあるのは、司法の独立であって独裁ではないという意味合いが込められている。あくまでも主権は国民にあるのだと。

この国は三権分立と学校で教えますが、実はこれはデタラメで、二権分立が日本の国家権力の制度です。即ち国会と行政は分立していない。我々が投票した政治家達の多数党が内閣を形成するので、どうしてもそこは分立出来ない。したがって政治権力と司法権力というのが分立している。これが牽制し合ってチェックをしあうのが二権分立となるわけですが、司法権力を発動させ、政治家を好きなように引っ括っても構わないけれど、政治が司法に介入するのは、司法の独立性を損なうという話になってしまえば牽制にはならない。司法のやりたい放題になってしまう。だから無闇に政治権力が司法権力に介入するのはもちろん我々が監視する必要があるけれど、司法権力が無闇に政治介入して来た場合は、政治がそれをチェックする必要があるに決まっている。その為の指揮権発動です。そしてその指揮権発動が適切か不適切であるのかは、我々国民の投票によってジャッジされればよい。マスコミや司法権力がジャッジする事ではない。それが国民主権の意味です。

司法の独立という意味は、例え国民の99%が有罪だと思っていて、そういう意識に基づいて政治家を選び、その世論に媚びて全てのマスコミが推定有罪報道を煽っていたとしても、裁判官が起訴状一本主義と言って、事前に予備知識を入れずに、仮に入れたとしてもそれを脇に置いて、起訴状だけを見て裁判に臨み、検察の証拠、そして弁護人の弁護を公正中立に聴き、まるでゲームの審判のように裁判官が勝ち負けの判定をするというのが、司法の独立性であり、国民の99%が有罪だと思って拳を振り上げ雄叫びをあげていようが、その民意に選ばれた政治家達が政権を運営しようが、マスコミが推定有罪報道で燃え盛っていようが、検察の証拠にわずかでも合理的疑いの差し挟む余地がある場合、もしくは適正手続きにほんのわずかでもミスがあった場合は、どんなに心証が真っ黒で99%有罪にしか見えなくとも無罪と判決を下せという意味が司法の独立性です。

即ち、検察が有罪を立証したストーリー以外に絶対に他のストーリーが成り立つ余地がない。明らかにその人がその事件を犯していると他の可能性がまったくない場合にのみ有罪になる。検察の言っているストーリー以外の別の可能性があるのではないかという疑いがわずかでも残れば無罪。これが法治国家の原則、近代裁判の鉄則で、それを独立してやれというのが司法の独立性です。司法は真実を明らかにする場でもなければ、正義を執行する場でもない。あくまでも裁判官の主観でどう見えているのかという話でしか無く、法を適正手続きに則って遵守する場です。

ところがどうでしょうこの国では有罪率が99.998%検察が起訴すればほぼ間違いなく有罪に持ち込める。5万人に一人しか無罪になりません。世論や政治から独立してもなにもマスコミへのリークを使って世論を操作し、まさに世論をバックに付けてポピュリズム的人気主義によって重罰化、死刑判決を連発している。正義の味方を気取る検察をバカマスコミも国民も翼賛し、推定無罪原則もクソも無く、裁判所は検察のケツなめ判決しかしない。裁判員裁判制度なんかが典型で、一般市民を司法の場に入れて司法に市民の声、民主制を導入しようという始末。これでは司法の独立もへったくれもあったもんじゃない。

マスコミなんかでも世論調査で国民が支持していないのに、指揮権発動するのは民意を無視していると言った感じの牽制を行っておりますが、世論調査で政治家を選ぶのではなく、選挙で政治家を選ぶのが、この国の制度ですので、世論調査のような恣意的な統計には何の権威も無い。あまりにも世論とかけ離れた不人気な内閣が指揮権を発動すれば、次の選挙で自滅するわけですから、マスコミが民意の代表者面して偉そうに何かを言う事を投票した覚えは無い。マスコミは国民の代表者ではない。勝手に民意の代弁者面すんじゃねえよって話です。選挙で国民がジャッジするのだから余計なお世話です。そんな事よりも何が問題なのかキッチリ報じるのがお前らの責務だろって話です。

だいたい世論調査というのは、そもそも質問の立て方がダブルバーレルと言って、統計データにするにはお粗末な手法が用いられています。例えば内閣支持率なんかがそうで、「先日のCOP15では鳩山首相がそれなりに存在感を示しました。鳩山内閣を支持しますか?」とか、「鳩山首相や小沢幹事長の政治とカネの問題が取り沙汰されています。鳩山内閣を支持しますか?」これらの質問の仕方というのは、COP15での鳩山首相の存在感を支持するのか、鳩山内閣そのものを支持するのか。もう一方は政治とカネの問題を抱えている状況を支持するのか、鳩山内閣そのものを支持するのか。と言った感じで、質問に対して二つの意味が生じてしまうような聞き方をする。当然鳩山内閣を支持しますか?の前に来る質問によっては、上がりも下がりもするわけです。

自民党の首相が変わった時なんかに、異様に支持率が高いと感じる事が多々あったと思いますが、多くはこういった恣意的な質問の立て方によってコントロールした数字でもある。「北朝鮮に対して断固とした経済制裁が取られました、安倍内閣を支持しますか?」「洞爺湖サミットが無事成功に終わりました、福田内閣を支持しますか?」「小泉改革による格差拡大を見直す方向に政権は動き始めました、麻生内閣を支持しますか?」、人気が無くなれば「小泉改革による格差拡大が叫ばれています、小泉内閣を支持しますか?」「北朝鮮問題の進展がまったく見られません、安倍内閣を支持しますか?」「漢字の読み間違えなどで失態続きの麻生政権ですが、麻生内閣を支持しますか?」と言った感じで世論に媚びて手のひらを返してデータを取る。

こういう風に質問の前にいろいろな言葉がくっついてとったデータを内閣支持率の推移として、折れ線グラフで表したりしているわけだから、何を聴いている統計なのかもハッキリ言えば意味の分からないデータでしかない。そんなものを振りかざして、民意の代表者面されたのではかないません。

小泉内閣の時に郵政民営化を大騒ぎしました。この時の郵政選挙で大勝ちをした。当時の国民の意識は郵政民営化というのがどういうものなのかはよくわからないけれど、小泉は首相になる前からバカの一つ覚え的に郵政民営化しか殆ど言わない男でしたから、そういう男を担ぎ上げて総裁に据え、それで選挙を戦って来たのに、いざ首相が掲げて来た公約を実行するとなったら、反対する自民党議員というのが不誠実に見えたから、あれだけ大勝をおさめたのだろうと思います。それは小泉を支持するというのよりも、小泉がずっと言って来た事を実行したいという所を支持したのだろうと思う。この時にマスコミがすべき事は、「郵政解散が行われる事が決まりました、小泉政権を支持しますか?」なんて事を世論調査する事ではないはずです。

郵政民営化のメリット、そしてデメリットをキッチリ報じていたかと言えばほぼ皆無、そして選挙というのは郵政民営化の是非だけではなく、その他の争点や問題も様々なものがあるという事を啓蒙していたのもほぼ皆無。殆どが政局報道ばかり、郵便局員が反対集会しているとか、首相がオペラに行ったとか、そういった類いの話は出て来ても、肝腎な問題点の啓蒙が無い。そういうものしか情報が出ていない状況で、世論の動向なんて聴いても無意味でしかない。そもそも記者会見を独占して情報隠蔽してきたのがマスコミそのものでもある。情報を隠蔽して恣意的に加工して流しておいて、国民の世論なんて聴いたって、そんなもんマッチポンプ以外の何者でもない。小沢報道にしたってほぼ真っ黒で、何が問題で何が容疑なのかもキッチリ報じていない。ただの疑惑なのかどうか、検察の捜査の妥当性はどうか、調べれば簡単にわかる事でも調べもしないで騒いでいる。そういう連中が世論の代弁者を気取るなど余計なお世話もいい所です。

だから本来であれば指揮権発動して、特捜の動きなんて封じ込めればいい。それで小沢の疑惑がうやむやになる事の方が問題だと思う人は選挙でNoと意思表示すればいいし、小沢の問題よりも、山積する問題をキッチリ片付ける事の方が優先させるべき事であると支持出来ると思う人は、選挙でYesと投票すればいい。それだけの事です。それが民主主義というものであり、選挙で選んだ政治家達が何も出来ないように邪魔する事が民主主義だとか国民主権だとかほざくのは勘弁してくれよって話です。民主党政権がどのような舵取りをするにしろ、国民が選んだのだから仕方が無い。マニフェストの実行度合いなどを見れば、どれだけやっているのかは国民にもわかるのだから、それを報じればすむ話です。

例えそれで民主党の舵取りが失敗し、国民が後悔する結果を招いたとしても、民主主義とはそういうものでしかない。それを官僚やマスコミが国民の民意の代表者面して勝手な事をしていたのでは民主主義ではない事を意味する。民主主義によって例え間違った選択をしてしまったとしても、その事を後悔し、我々が民主主義さえ手放さなければ、過ちを正すという決定も民主的決定によって決める事が出来る。民主主義ではない独裁国家である場合、誤った選択を同じようにとったとしても、国民がそれを止めるという決定は出来ない。この違いは決定的です。だから前大戦のブレーキも踏めなかったし、バブル崩壊以降の長引く不況からの脱出も出来ない。それは民主的決定よりも上位の権力が国家を牛耳っているからに他ならない。

だいたい司法権力にしろ、官僚機構にしろ、バカマスコミにしろ、今の今まで自民党政権とベッタリで牽制どころか一枚岩。相互批判も無ければ、バリバリの癒着関係によって利権を貪って来た。たまにそういった権力機構の意志に反した政治家が出て来たときだけ、自民党の政治家であってもクソミソに叩いていただけで、それは国民の為ではなく、強固な権力基盤にちょっかいを出したからぶっ潰す。

それらを全部自民党の責任に押し付けて、政権与党が変わったら、今度は牙をむき出しにして利権温存の為になりふり構わぬ行動に出ている。これで民主党がその権力基盤護持の方向性に変われば、あっという間に民主党を祭り上げて一枚岩の利権を貪り出すに決まっている。散々自民党を利用して来て、自民党が政権政党から落っこちたら、民主党を権力基盤にとって都合がいい言う事を何でも聴く状態にする為に、今大騒ぎしている。その為に野党となった自民党がまだ利用されているのだから哀れというしか無い。

政権政党が変わったのだから、自民党と一枚岩であった腐敗と堕落の構造を白日の下にさらして、退場させるべき連中を退場させなければ、自民党の連中も浮かばれない。所詮自民党の政治家なんてお飾りでしかないわけですから。今の今まで権力と一枚岩であった連中が、今更司法の独立性だとか、言論の自由だとか笑わせるのもいい加減にしろって話です。お前らには何も期待してねえよ。

そういった権力の二重構造を解体して、民主党と、自民党もしくはそれに変わる野党(自民党はもうダメっぽいですね)が、民主主義のもとカチンコで権力闘争をしてこそ、はじめて政治も機能するってもんです。国民主権、民主主義による権力の移動これが確立された上で、司法の独立なり言論の自由なりをきちんと機能させればよい。民主主義を邪魔する為に司法の独立や言論の自由を振りかざす連中を許す必要はありません。

繰り返しますが、それで上手く行くとか言いたいわけじゃありませんよ。前回も書いた通り、日本の疑似民主主義と言うのは官僚あってのシステムでしたから、それは国民のお上依存にも問題があったし、政治家が無能であると言う問題もある。もちろん今の民主党議員も無能である事は同じですので、当然混乱するに決まっている。しかし我々はもう誰も官僚を信用していない。政治家も信用出来ない。つまり今までの日本のシステムは壊れてしまった。壊れたシステムはもう元通りにならないし、それでは上手く回らない。

必ず自らの愚かさの裏返しであると言う事を自覚せずに、政治家のせいにしたり、役人のせいにしたりする輩が出てくる。なので民主的決定に委ねる以外に合意調達出来ない状況になってしまった。これはある意味茨の道だと言える。必ず失敗するだろうし、悲劇も生み出すでしょう。統治権力にお任せして何とかしてもらう時代では無くなってしまった。それは国民が直接痛みを感じなければならないので必ずしもいい事だとは言えない。しかしそれしかないからしょうがない。その事に腹をくくる必要がある。

今回の小沢の疑惑もはっきり言って政治資金規正法違反とは言えません。これにはまったく違反していない。この問題のそもそもの発端は4億のカネを小沢のポケットマネーで立て替えたという話であって、記載していないわけでも虚偽記載でもない。政治資金規正法違反はしていない。政治資金規正法違反の疑いをかけられて捜査されているわけなので、政治資金規正法に乗っ取って処理しているのだから、そこに説明責任など発生するわけも無い。説明責任と言うのは政治資金規制法違反、即ちなぜ記載していないのか、もしくはなぜ虚偽記載をしたのかという疑問に対して発生する。銀行の融資を受ける前の段階で小沢のポケットマネーで立て替えているという話がハッキリわかっていて、4億のカネの流れは記載されているのだから、政治資金規正法違反の容疑に対して説明すべき責任は何も無い。

そもそも容疑というのは疑いをかけている方に説明責任が発生するだけであって、容疑をかけられた側が説明するというのは近代法の原則として不可能な話です。やっていないということは証明出来ない。怪しいと疑う事はいくらでも出来る。怪しいと疑っている側がそれを論理的に説明する義務があっても逆は無い。疑われている側は絶対に無実を証明出来ない。疑い出せばキリが無い。無実を証明するのが当然の責任であるかのように勘違いしているバカが多過ぎる。これは法治国家の基本中の基本の話で、裁判というのは被告をさばくのではなく、検察側の証拠をさばくのが近代裁判の鉄則だからです。

しかし小沢に説明責任がまったくないのかというと、彼は政治家であり権力を握っている政権政党の中枢にいる人間ですから、当然近代裁判の原則が必ずしも当てはまるわけではない。ただし、それは政治資金規制法違反に対してではなく、その4億のポケットマネーがどこから、どういった経緯で発生しているのかという問題でです。ここの所を混同して、政治資金規正法と一緒くたにして叩いているけれど、その4億が何らかの裏金ではないのか?というのは政治資金規正法とはまったく何の関係もない。

ここの所を怪しむ有権者の気持ちは理解出来ます。理解出来ますがそれはあくまで疑惑であって、必ずしも犯罪がそこにあると確定しているわけではない。この疑惑があたかもあるかのように様々な疑惑を報じておりますが、ここに疑惑があろうが無かろうが、政治資金規制法違反の容疑というのは完全な別件捜査で、仮に何らかの裏金であるのだとすれば、その証拠を持ってして取り締まるのがスジであり、何の証拠も無いのに別件で引っ括って何か疑惑が解明出来るかのように騒いでいる。疑惑で人は裁けない。証拠があってはじめて人を裁ける。

その証拠が何も出ていないし、すでに西松建設社長の時の公判でも、小沢への献金と公共工事の対価関係は否定された判決が下っている。この事をまったく大手メディアは報じなかった。当時の小沢は野党だったわけだから、何らかの見返りに献金を渡しているという構図はあまりにも強引であり、かなり無理がある。

ここの所に多くの人は疑問を感じるのかもしれません。何の見返りもないのに献金なんてするわけが無いと。しかし世の中見渡してみると、こういった図式はそこら中にあるでしょう。会社の上司や親戚にお中元なりお歳暮なりを持って行く時、それは見返りを期待しての事ではないし、もちろんまったく何も期待していないわけではなくとも、見返りを最初から勘定に入れてというよりも、人間関係上のめんどくささを引き起こさない為の保険的な意味合いが濃いでしょう。そしてずっと贈って来たものを突然ある年から止めるという事によって、例え少ない可能性でしかなくとも生じるであろう人間関係上のめんどくささというのがあるはずです。したがって合理的な理由がなくとも止める事が出来ない。人間関係というのは必ずしも合理的に説明出来るとは限らない所が多々あるものです。それを実生活において我々はわかっているはず。

しかもこういう問題というのはそれぞれの思惑があるわけで、人によっては見返りを要求している場合もあるだろうし、まったくただのご挨拶の場合もある。「最近何々が好きなんだよ」と言われるだけでも、要求だと感じる人もいるだろうし、単なる世間話だと感じる人もいると言う感じで、これを一方の証言から、要求したと断定する事も出来ないし、言い逃れはいくらでも出来る。合理的ではないし、解釈によって事実が変わってしまうし、よっぽど直接的な要求でもなければ、後からいくらでもいいわけ出来てしまう。微妙な問題です。

政治家への献金と一般市民のお歳暮お中元を同等に扱って考えるなんてナンセンスだという声が聞こえて来そうですが、自分だって確かに何千万ものカネが献金されて、何億ものカネをぽっと出せるような羨ましい美味しい立場に腹立たしく思う所はあります。小沢がキレイなカラダだなんて微塵も思わないし、きっとやましい事の一つ二つはあるだろうという風に本音を言えば思っている。まあ特捜もそれに拍車をかけてまったく信用出来ませんが、本当に証拠があるのなら、特捜もグズグズしてないで、どうぞ逮捕するなりなんなりすればいいだろとも思っています。実際問題何らかの動かぬ証拠が出て来ないとも限らないのだから。

一般市民のご挨拶レベルの話と、政治家の献金の図式は額も違うし、政治家は一般市民とは違うのだから、そういう事に厳格であらねばならないと言いたい人もいるでしょう。しかしこれらは理想や嫉妬、疑惑や想像であって、それと法の話は別の話です。ムカつくなら選挙でその意志を示せばいい。国民にはその権利がある。しかしムカついているという事と、法を執行するという事は峻別して考えるのが法治国家の基本中の基本です。

この国では何か重大犯罪が起こると、必ず重罰化せよ、死刑にせよ!!と喚き散らすバカがいっぱい出て来ますが、ムカついていてぶっ殺したいと思う気持ちはわかるし、被害者の気持ちを考えろというのもわかるけれど、その事と法の執行は別の問題です。我々は被害者ではないし、被害者家族でもない。その事を忘れてはならない。知ったような顔をして赤の他人のくせに被害者面する資格は無い。

例えば先進国では殆どが死刑がありません。OECD加盟国では国全体としてこの制度を保っているのは日本だけです。アメリカは州ごとに違っているし、韓国ですらモラトリアム状態が長く続いて来た。死刑を今でも実行している国というのは先進国の中では珍しくなっている。だから死刑を廃止せよと言いたいわけじゃありませんよ、しかし考えるべき事は、死刑の無い国の国民が、例えば凶悪犯罪が起こったりした時に、感情的に怒りに燃えないのか?と言えば、当たり前ですが、その事に腹を立て、憤り、日本人と同じようにムカつくに決まっているわけです。しかしその感情と法律は別の問題として考えなければ、必ず国家権力がその市民感情を逆手に取って政治的に利用するという事を自覚しているから、それはそれこれはこれとして分離して捉える事が出来ている。

感情と仕組みの問題を一緒くたにしてしまう事ほど危険な事は無い。法律というのは我々が投票した政治家達が国会で立法する。それは直接的にであれ、間接的にであれ、人を殺せという意味が含まれてしまうものまで立法出来る。死刑にせよ、戦争せよ、という直接的なもの、アメリカの戦争による無辜の民の大虐殺を、アメリカと仲良くしておかないと北朝鮮が恐いからという理由で支持してしまう間接的なもの、地方を斬り捨てて弱者は死ねというのも間接的なものと言えるでしょう。

こういう事は一時の怒りに任せた感情で語ってしまえば様々な副作用を生み出してしまいます。感情は感情として、それを権力が利権拡大の為に利用するような振る舞いを絶えず監視しなきゃならない。これが日本ではまったく根付いていない。国民が拳を振り上げ感情に任せて雄叫びをあげる事によって、それが政治利用されてしまうという事が何度も何度も繰り返されている。

小泉改革で抵抗勢力打倒に国民は感情的に断固決然と拳を振り上げていた、抵抗勢力を許すな!!と。しかし結果的にはそれが自分の首を自分で絞める事になる。感情の政治に利用されたあげく、自分達で支持していたのに、同じ口で格差拡大とか騒ぎ始める。

安倍晋三に首相が変わり、北朝鮮断固許すまじ!!拉致被害者家族の気持ちを考えろ!!と、これまた感情のポピュリズム政治にまたしても国民は利用される。拳を振り上げ断固とした措置を!!と雄叫びをあげる。断固断固って戦争する覚悟があんのかよ?と思っていたら、アメリカさん何とかして下さいって・・・・

結局政権の人気取りとして一時期利用されただけで、問題の解決の糸口さえ無くなり、振り上げた拳の行き場が無くなってしまう。吹き上がってもアメリカなしでは何も出来ない図式、国際的には恥さらしの笑い者でしかない。北朝鮮がムカつくというのはわかるけれど、出来る事と出来ない事があるわけで、日本に出来る事をやるしか無い。

小沢が交渉して経済援助してかわりに返してくれというしかないと発言して、メッタクソに叩かれましたけれど、実際それ以外に出来る事があるのか?北朝鮮が悪いのに、なぜ日本が折れなければならないのだ!!と吹き上がる気持ちはわからないでも無いし、そりゃそうかもしれないけれど、拉致被害者を返してもらうという事が最優先であるのなら、今の日本に出来る方法で考えれば、他に方法が無い。

もちろん拉致被害者が生きていればという前提があっての話ですが、その基本的な何人生きているのかというより、何人拉致されているのかも正確にわかっていないのに、何を持って解決するのかという解決のラインがそもそも無い。何人拉致されて何人生きているのかもわからないのだから、わかるわけありません。何もわからないのに、全員返せと喚くだけではかえってくるわけが無い。

経済制裁なんて日本一国だけでやったって何の意味も無いし。そういう単純な話でさえ感情のポピュリズムに踊らされて頭から湯気を吹き出している連中には通じない。前大戦だってそうです。感情のポピュリズムに踊らされて、それで原爆まで落とされてあれだけ人が死んだというのに、まったくその事を学んでもいない。

見返りのない献金なんて不自然だという問題をもう少し立体的に眺めて行きましょうか。大手新聞社や、大手テレビ局を支える広告収入なんかもしかり。これはすでにバブル崩壊の時点でビジネスモデルとしては終わっている図式であり、ネット広告が普及して以降、そのレスポンスのショボさから、広告の無意味さというのをよりいっそう企業側も気付いている。ネットのようにレスポンスがはっきりするものでさえそうなのだから、もはやマスとしての力を失い、どんぶり勘定でしかなかった、従来の大手マスメディアの広告モデルというのははっきり言って、業績が伸びるようなビジネス上のベネフィットがあるようにも思えない。

しかしこれは企業対企業の話であれば、事は単純なのかもしれないけれど、結局交渉している担当者というのはある程度の人間関係を持ってしまっているものだから、簡単に切る事も出来ない。ビジネス的な繋がりであってもそういった人間関係上の不合理な繋がりというのは実生活に落とし込んで考えてもある話ではないでしょうか。

それにここからが重要なんですが、それは次回といたします。

つづく!!
さて、お久しぶりでございます。今更新年一発目である事に気付いた次第ですが、いろいろと忙しくて更新をさぼってしまいました。という事で、今更ながら、あけましておめでとうございます(遅)。この間世の中はまったく一体全体どうなってんだ?と目眩がする思いです。自分はテレビというのは基本的に殆ど見ないので、新聞とネットでの情報収集が主なんですが、酷い・・・・・何だこりゃ?テレビを観ていたら気絶しているかもしれませんね。久々にぶった斬って行きましょうか。いざ。

さてもさても特捜の傍若無人ぶりにはうんざりです。まあ百歩譲って、例えそれがありもしない特捜及び霞ヶ関の利権温存の為の私利私欲にまみれた恣意的な捜査だとしても、それをジャッジする裁判所、ならびにマスコミ、そして国民が冷静に受け止める事が出来るのなら、無能で役立たずの特捜が暴走したとしてもたいした問題ではないのですが、裁判所と検察は一枚岩、バカマスコミは役人の権益と自らの利権であるクロスオーナーシップや記者クラブなどの護持の為に、特捜のケツなめ報道しかしない。あげくつい先日選挙をしたばかりだというのに、拳を振り上げて喚いている国民。

この不毛なトリニティ、三位一体のケツなめ連鎖の腐りきった構造が何しろ一番絶望的です。小沢とカネの問題というのは昔から騒がれている話であり、今に始まった事ではない。それを十分承知の上で投票しているはずなのに、腐れバカマスコミや役人のケツをなめて、政治家たたきをしている国民という図式。これこそがこの国の最大の問題である事にいい加減気付けないのか?気付く気がないのか?つくづく絶望的な状況です。

こういう事を書くと、すぐさま民主党の擁護とか、小沢の擁護とか短絡する知恵の足らない大バカ者が溢れかえっておりますが、小沢に問題があるかどうかはどうでもいい話で、そんな事は有権者が選挙によってジャッジすればいい事です。こういっちゃあれですが、たかが一人の政治家のカネの問題なんてのは小さな話で、そんな小さな問題よりも遥かに特捜の動きの方が問題です。小沢がカネの疑惑を抱えているというのは有権者に見えているのだから、それが気に食わなければ選挙で意思表示すればよい。しかし特捜が勝手に権力を行使している構造を止める手だてはどこにも無い。

特捜の仕事はあくまでもデュープロセス・オブ・ロウ、適正手続きに乗っ取って権力を行使しているのかどうかが最大の問題であり、民主党を擁護しているのではなくその事を問うている。その権力の発動が法に照らしてみて妥当な手続きを踏んでいるのかどうか?小沢が法律違反をしていると言うのなら、妥当な手続きを踏み、証拠を突きつけて立証すれば何の問題も無い。それが何も無いのに、ありもしない容疑を無理矢理ひねり出して、側近を逮捕したり、強制捜査をしたり、推定有罪でリークを垂れ流してバカマスコミを使って世論操縦をしたりしている事に対して問題だからこういう話を書いている。政治家を相手に推定無罪原則を徹底せよとは言いませんが、いくら何でも酷過ぎる。

政治家が愚かであったり薄汚かったりしても、有権者がそれにNoを突きつければ済む。しかしながら特捜の憲法違反や法律を無視した権力の発動に対して、政治家は逆らえず、裁判所は一枚岩、バカマスコミは牽制の機能なしというのでは政治家がどんなに愚か者である事よりも危険な話です。結局それが前大戦のブレーキが踏めなかった原因であり、戦後も冤罪を生み出している原因でもある。これが所謂1940年体制と言われるものであり、この国をここまで腐らせて来た諸悪の根源です。

まあ特捜は疑惑があればそれを解明しようとするのは一応彼らの仕事ではありますし、そもそも法律上恣意的な国策捜査をするための組織であるわけですから、特捜が問題というよりも、この国の司法制度が問題だと言った方がいいかもしれません。特捜が逮捕しようが立件しようが、裁判所がキッチリジャッジ出来れば何の問題も無いのですが、裁判所にはまったく期待出来ない。そして一番何よりも厄介なのはバカマスコミでしょう。本当死ねっつうの。

特捜の牽制を批判すると、民主党がリソースを握り独裁になるとか騒いでいるバカがいっぱいいますが、本当勘弁してくれよって話で、それが民主主義というものであり、我々がキッチリ監視すれば済む話です。役人ごときが民主的決定を踏み越えて、憲法違反も法律違反もおかまいなしに政治家を引っ括るような事を許していたのでは、国民に主権なんて無いのと同じ、検察独裁国家である事を意味している。

民主主義には失敗がつきものです。だから民主的決定が必ずしも正しいとは言えない。しかしそれが民主主義という制度であり、チャーチルじゃありませんけれど、最悪だけど一番マシな制度という程度の不完全なものでしかありません。その為に国民は不断の努力を必要とされる。常に疑問を持ち、権力チェックしていく必要がある。思考停止して官報垂れ流しメディアの情報操作を真に受けているような状態だから問題なわけです。特定の思想やどこかに敵を設定して、相手の話も聞かないというのも最悪です。そういうバカが多ければ多いほど、国家にとって好都合ですから。

民主的決定というのは愚かであるしか無い我々国民の投票によって決まる事ですので、必ず失敗がつきものです。それは絶対に避けられない。いま大河で坂本龍馬が放送されておりますが、坂本龍馬というのは戦後の日本人にとって英雄的存在でしょう。これは戦後民主主義の英雄という所が重要で、これがある種のこの国の病癖を表してもいます。彼を主人公にして司馬遼太郎が小説を書き、それが大河ドラマになって国民が大好きになって以降、民主主義に対しての文脈が変わる。

坂本龍馬の話というのは、まあどこまでが本当の話なんだか怪しい所もあり、実際土佐藩というのは薩長に比べると、武市瑞山なんかを筆頭にして優秀だった人間がみんな死んじゃった。藩主の山内容堂がバカだったのか、維新後に残ったのはクズばかり。薩長の優秀な人材によって維新後の政府の中枢が握られてしまうと、土佐藩の連中は自分達も回天の一助を担っていたのに、権力を握れない事に苛立つ。そこで出て来たのが土佐藩出身の連中の自慰的な内輪受けの話として、「坂本龍馬のおかげで維新が達成出来た説」であるなんて話もありますが、真意は定かではありませんが少なくとも戦前は比較的マイナーな話でした。

戦後の占領政策以降、国家を翼賛する構造から、民主主義を翼賛する方向へとマスコミも国民もがらりと空気が変わって行く。それのとどめになったのが、坂本龍馬が英雄視される事になる、司馬の小説、そして大河ドラマ化であり、これ以降完全に民主主義の文脈が変わってしまう。今年の大河が再び坂本龍馬だという事の意味を考えておく必要があるでしょう。

誤解の無いように書いておきますが、自分は司馬の小説は娯楽として好きですので、否定するつもりはありませんからね。司馬の小説では「龍馬」ではなく「竜馬」と表記されていますので、娯楽であり、フィクションであるという事を前提に書かれている。そしてこれも誤解の無いように書きますが、実際の坂本龍馬がどうだっだかという問題を言っているのではなく、坂本龍馬(竜馬)を主人公にしたフィクションが与えた影響の事を言っています。凄い人だったという事に異論はありません。

坂本の物語というのは簡単に言えば階級社会から、身分の違いの無い平等な社会、民主的決定によってみんなで決められる社会の尊さ、即ち民主主義は正しい、素晴らしい制度であるというメッセージがこもっている。ある時期からの日本人は疑う事も無く受け入れ、ある種のマインドコントロールとして機能してしまう。これによってどのような帰結が生まれるのかというと、例えば搦め手から行きますけれど、選挙に行く事が大切な事であるというすり込みがあります。当然ですが投票というのは権利であって義務ではありません。

それに近代国家の原則として政治への自由(民主的な参政権)よりも、政治からの自由(人権)の方が優先される。だから政治に参加する事の自由よりも、参加しなくても構わない事の自由の方が優先される。しかし今の日本のマスコミから知識人まで含めて、選挙に行けと啓蒙します。もちろん行かないよりは行った方がいいとは自分も思っていますのでそういうことを言ってしまったりしますけれど、この国のその事に対する強要ぶりは行き過ぎな気がする。

なぜならばヘタをすると、投票に行かないなんてけしからん、投票に行かない輩は政治に文句を言う資格が無いといった事をいう輩がもの凄く沢山いる。これはまったくとんちんかんな話で、選挙に行こうが行くまいが、統治権力に文句を言う資格はあるに決まっている。もちろん投票した方が直接意見を表明するのと同じですから効果があるのは確かですが、だからと言って、選挙に行かない奴=政治に文句を言う資格なしという図式をほざく輩は、はっきり言ってバカなので、まともに相手にしない方がいいでしょう。特に一般人ならまだしも、知識人層やマスコミの中にもこういったバカはうじゃうじゃいます。そういう連中が言っている事は近代国家の常識も知らないたわけの戯言だと思って割り引いて聴いた方がいいでしょう。こんな基本的常識も知らないで知識人ぶっている人間などたかがしれています。

しかしこの常識的な話がこの国で常識になっているのか?というとまったくなっておらず、選挙に行く事が重要だという事ばかりが喧伝される。選挙に行く事が重要だと言うのに反対するつもりは無いけれど、これは言い方をちゃんと選ばないとかなり危険な啓蒙になってしまいます。この時に引き合いに出されるのが、昔の人が血を流して手に入れた権利を無駄にするなというすり込みがある。これに坂本龍馬の英雄話が非常に効果を上げている。誰もが政治に参加出来る平等な社会を夢見て、道半ばで死んでしまった彼の志を今の我々は忘れてはならないと。

ここから民主主義はいい事、みんなで決めた事は正しい的な、民主主義に対する間違った価値観が広がってしまった。民主的決定は絶対に間違うなぜならば我々が愚かであるからだという基本的な前提が消えてしまっている。これは民主主義という制度を持っている国家であれば基本的な大前提です。

戦前であれ戦後であれ民主主義というのはある種のネタである事を、ある時期までの日本人は常識として知っていたはずです。戦後であればついちょっと前まで戦争していて、天皇陛下万歳だったのが、民主主義万歳へと変化し、翼賛の旗を振って聖戦を煽っていた新聞も、180度方向性が変わり、国家主義的な教育を叩き込んでいた教師達も民主主義翼賛教育を始めるという感じで、がらりと変化しているわけですから、当然当時の人々からすれば胡散臭さを感じていただろうし、民主主義なんてネタだとして受け入れていた。

これがお上依存の今でも続く発想であったわけで、お上依存は今でも根強く残っているけれど、民主主義が所詮ネタであるというのは消えてしまっている。民主主義はネタでしかないわけだから、当然事実上官僚が国政を牛耳り、国家をマニピュレートするしか無い。しかし我々が民主的決定の恐ろしさを忘れ、近代国家の市民として不断の努力を怠っているにもかかわらず、官僚批判はいっちょまえに雄叫びをあげて吹き上がる。

官僚制がまったく機能しなくなってしまっている現在、民主主義はむきだしの暴力となって機能し始めている。その事を自覚しなければ民主主義はこの国を食いつぶすでしょう。小泉政権を世論の8割が支持し、その支持していた事を忘れ、ある時期から猫もしゃくしも小泉批判を喚き出す。イラクの無辜の民をぶっ殺す事に加担していた事や、優勝劣敗弱肉強食は国民自らが望んでいた事であるはずなのに、弱者切り捨てだの、地方切り捨てだのと支持していた連中が拳を振り上げ始める。お前らが支持したんだろって話です。

今回の政権交代もしかり、自分達で民主党を勝たせ、鳩山のカネの問題も小沢のカネの問題も全部選挙前からわかっていた事なのに、支持しておいて、早くも文句を言い始めている。批判と文句は意味がまったく違う。自分達がそれを支持したから、小泉政権や民主党政権が出来たという事を先ず自覚すべきであって、そこをすっ飛ばして批判するのなら、投票なんて行かない方がいい。別に義務ではないのだから。

簡単にいえば投票するという事はそこに責任が生じる。その意味で支持した政党を批判し、徹底的に監視するのは重要です。政策的な疑問点を提示し、徹底的に思考して吟味するのであればこれは何の問題も無い。しかしながら今の小沢批判にしろ、民主党批判にしろ、マニフェスト批判にしろ何にしろ、基本的に民主党議員が言っている事や、やろうとしている事を理解した上で批判しているようには見えません。自分の頭で判断しているようには思えない。自分の頭で判断していると錯覚しているだけのように見える。小沢の疑惑だって本質的な問題をわかって批判している人間がいったいどれだけいるというのか?

自民党支持者ならいくらでもやればいいけれど、特に民主党政権に投票している人間であれば、少なくとも何万分の一かは自分のせいで民主党政権が誕生しているわけだから、自己批判も含めて思考しなければ、政権を誕生させてしまった自己の責任を放棄している事になる。それは卑怯者のする事です。批判するのなら自らの愚かさを先ず自覚し、自己反省し徹底的に自己批判にさらすという事がセットでなければ意味がない。自分で投票しておいて、全部政治家のせいというのでは、悪いのは軍部だ、国民は騙されていたんだ的な昔のバカ左翼が用いるクソみたいなロジックと同じです。騙されていたのはお前が悪いんだよ。

はっきり言えばバカは投票しなくてよい。知らない事は知らないと表明した方が世の中上手く行くに決まっている。バカなくせに知ったような顔をして政治の批判をしているような連中が多ければ多いほど、政治はポピュリズム化するしか無くなる。政治は数だと勘違いした連中が多ければ多いほどマイノリティは無視される。政治は利権の奪い合いだと思っている輩が多ければ多いほど、クレクレ主義に対応した戦略無きバラマキにしかならない。

勘違いされると困るので書いておきますが、バカを蔑んでいるわけではありませんからね。自分もバカだと思ってますので。ただし、少なくとも自分はその事を自覚しています。自分がバカだと自覚しているバカと、その事を自覚出来ていないバカでは天と地の差がある。自分がバカだと自覚している人間であればわからない事はわからないと表明するであろうし、自分がバカであるとわかっているのだからそうでは無くなるように努力をするか、努力を怠るのであればバカだという事を自覚して知ったような顔はしない。その意味でのバカは何の問題も無い。

しかし自分がバカであるという事を自覚していないバカはどうにもならない。そういう連中に選挙に行けと啓蒙するなんてのは、何とかに刃物と一緒で、そういう人は選挙に行かない方がいいと啓蒙するほうが健全でしょう。選挙にいって失敗し、それで何かを学べばまだしも、選挙で支持したくせに何が問題なのかもよくわからずに早くも民主党の梯子を外して何かを批判した気になっているクズがこれだけいっぱいいるのだから、何かを学べてるとはいえないでしょう。そもそも物事を経験し何かを学べる能力があるのなら、バカではないわけですから。

そういう無自覚なバカが知ったような顔して選挙に行くのに比べれば、「政治?難しくてよくわかんなーい」という無関心な若者の方が何百倍もマシです。これは正しい姿勢だといえる。わからないのだから投票なんて行けるわけが無い。偉い。素晴らしい。こういう若者に、無自覚な知ったような顔しているバカな大人が選挙に行け、無関心はけしからんと説教していたりするのだから、世の中滅茶苦茶になる。その大人こそ説教してやるぜ、そこに正座しろって話です。

無関心でわからないという事を自覚している人間であれば、関心を持つ事が出来ればわかる可能性があるけれど、関心があるくせに物事を学ぼうとしないわかったつもりになっているバカであれば、わかる可能性がほぼ無い。しかもその事を自覚していないのだからどうにもなりません。若者の無関心が問題なのではなく、そういうバカが多過ぎる事が最大の問題で、だから若者が関心を持ってそういうバカが生み出す腐った構造から政治を取り戻すという意味で、関心を持てという話なだけで、そもそも若者の無関心が原因なのではない。無関心ではいられないくらいに中途半端に知ったような顔をしているバカが増殖している事が問題なだけです。

昔、森喜朗が首相だった時でしたか、無党派層は眠っていてくれた方がいいと言ったとかで、マスコミなんかにクソミソに叩かれていましたけれど、森が言いたかった意味とは別の意味で、この発言は重要な意味も含まれていると思えます。これに対して一斉にバッシングを始める構造がそもそも民主主義翼賛の気持ち悪い勘違いでしかない。自民党が政権政党であったのは国民が選択していたからそうだったわけで、国民自身のせいです。無党派層がキッチリ判断して情報を精査して投票するのなら、それはそれで構わないのだけれど、その日の気分とか直前に見た番組なんかに影響されて、投票行動をし、投票するだけならまだしも、その事をあっという間に忘れ去り文句を言い出すような状況になるのなら、投票なんて行かない方がいいに決まっている。

だから民主主義なんてダメなんだと言いたいわけじゃありませんよ。そうであったとしても、この国は民主主義という制度で動いている。バカは投票に行くなと言ったって、自覚していないのだから行くに決まっているし、それを無理矢理止める権利は誰にも無い。その人の自由です。だから民主主義は必ず失敗するし、投票して支持した舌の根も乾かぬうちに文句を言い出す奴が増える事も止められない。民主主義というのはそういう制度でしかない。信用出来ない最悪の制度であるけれど、もはや日本でもやっとと言うか、ついに来たというか、疑似民主主義ではなく、民主主義を機能させるべき時が来てしまった。情報の透明化によって、お上を信用出来なくなってしまっている以上、もはやそれでしか合意調達は出来ない。

繰り返しますが、日本の民主主義というのは戦前から今までずっとそうでしたが、ある意味ネタで実態は北朝鮮や中国と何ら変わらない。本当に民主主義であったわけではなく、国民の愚かさに先ず問題があったとは言えますが、役人が勝手に政治家をコントロールし、談合マスコミが官報を垂れ流し、民意がそれにコントロールされるという図式。これはある意味では民主的決定の不完全さを穴埋めする為にはしょうがない側面もあったでしょう。しかしこの構造がすでに腐りきっている。役人にお任せして来て、この国はここまで疲弊してしまっている。もちろんそれは国民の民度の低さと表裏一体ですので役人だけを批判するわけには行きませんが、何しろ彼らを信用出来なくなってしまっているし、実際に腐りきっているのも間違いない。そして何しろバカマスコミの世論操作に乗せられて来たせいで、ここまでこの国はどうにもならない構造を抱えてしまっている。この期に及んで検察の正義や、バカマスコミの言論の自由なんていう何の役にも立たないものを信用していたのでは未来は無い。

不完全で信用ならない制度でしかない民主主義以外の合意調達の方法を人類は残念ながら生み出していない。そうである以上、この制度の恐ろしさを十分理解した上で徹底的に使い尽くすしか無い。そういう時期に坂本龍馬のお話なんてのは百害あって一利無し、NHKにどんな意図があってこれを放送しているのかは知りませんし、偶々かもしれませんけれど、坂本龍馬というフィクションで描かれる理想というのは、それと同時に、我々が自覚してその理想の恐ろしさや暴力性を徹底的に理解する必要がある。

その意味でいえば、民主的決定が例え間違う可能性があったとしても、それをバカマスコミや役人ごときが勝手に民主的決定をねじ曲げるなど言語道断、余計なお世話であり、マスコミは恣意的なバイアスをかけずにキッチリ情報公開をして、役人は法にのっとって仕事をし、後は国民が判断してそれで失敗するのだとしても、民主主義というのはそういうものでしかない。それで学ばなければ何一つ前に進まない。それが民主主義を機能させるという意味でもある。

龍馬の話ついでにここは余談ですが、この話には戦後民主主義の平和の理念も重なってしまっている。坂本龍馬が本当はどういう人間だったのかは脇において、物語で出てくる龍馬というのはほぼ例外無く、争いを好まない人間として描かれる。今の大河の福山龍馬(老け過ぎだよ)もそういう文脈で描かれています。しかし坂本龍馬の英雄話にのっとってこの事を見て行っても、彼は平和主義だから争いを好まなかったのではなく、攘夷の為に日本人同士で争っている場合ではないという意味でしかなかったはずで、結論を言えば戦争して、諸外国をぶっ飛ばす為に日本人がまとまる必要があるという意味で国内での争いを避けていたのであって、平和主義者だからではないはずです。

開国も同じで攘夷の為の開国であるはずで、戦争する気があったかどうかはともかく、日本を強い国にしていつでも戦争出来る準備を整えて、外国と対等に外交するというのがあったわけで、場合によっては武力を使ってでも日本を守るというのが根底にあったはずです。これも何となく、今的なメッセージである争いは何も生まない的なクソみたいなメッセージが込められるようになっちゃった。

争いは何も生まないのは確かだけど、厳然として世界には争いがある。その争いを止める為には、争いでは何も生まないなんて寝言を言っていたのでは止まりません。厳然としてそこにある暴力が人の命を奪い、町並みを焼き、伝統や文化を破壊している。それを止める手だては暴力しか無い。しかし暴力は暴力を生むだけで何も生み出さない。というどうにもならない袋小路、矛盾に引き裂かれているのが人間の不条理であるわけで、これは生まれた瞬間から人が背負わねばならない業です。

そこの所の不条理をまったく引き受ける事もなく、争いでは何も生まないというお為ごかし的な綺麗事が世の中に蔓延ってしまっている。それを言うのはいい。しかしそれは同時に現に今ある暴力に対して、どうするのか?知らん顔を決め込むのか?という矛盾や不条理を引き受けて徹底的に自己批判しなければ、それを言う資格なんて無い。戦後の平和を享受してきた裏側では、アメリカのケツをなめ、膨大な搾取と虐殺の上にこの国の平和は成り立っているという事を直視しないで、反戦平和を掲げるお花畑野郎共的価値観と表裏一体のクソみたいな理想論であるという事を自覚させない為にも、龍馬のお話というのは機能してしまっている。

と、坂本龍馬の話がしたいわけではないので元に戻しますよ、個人的には「坂本龍馬とはナベツネである説」とか、大変不人気な自説があったりするのですが、それはまた別の機会という事にして、小沢問題に話を戻します。

小沢のカネが裏金であるとか、見返りに便宜供与しているとか、そういった事の証拠が仮にあるのだとすれば、政治資金規正法違反なんていうありもしない別件捜査のションベン刑でこんなに大騒ぎする必要なんて何もない。本当に虚偽記載だけで騒いでいるのだとしたら、特捜も終わっています。こんなものは記載ミスで話が終わってしまう程度の下らない話でしかありません。証拠が無いから強制捜査をしたり、別件で逮捕して身柄をとったりしているわけで、証拠も無く完全な見込み捜査で、バカマスコミと特捜が結託して政治家に釘を刺して利権温存に利用しようとしている。これはいくら何でもやり過ぎです。こんな腐りきった図式を翼賛しているバカがいっぱいいるのだから、この国ももうダメかもしれませんね。

小沢のポケットマネーが何によって生じているのか?それは親の財産の相続かもしれないし、子供の頃からのお年玉などを貯金して来たカネかもしれないし、ゼネコンからの裏金なのかもしれないし、それは今の所わからない。カネに色がついているわけではないので、仮にそれが違法な裏金であるのだとしても、よっぽどのバカでもない限り、そんな証拠なんて残っているわけが無い。

であればなぜこのような無理スジの別件の見込み捜査をこの時期にやっているのか?と考えれば、これは極めて政治的な意図を持って権力を行使しているか、その意図はなくとも帰結において同じ意味を持ってしまう。要するに民主党政権に役人側からの釘を刺す力学として機能してしまう。それが最大の問題です。そして従来掲げて来た霞ヶ関改革、検察改革、特捜の廃止、大手マスコミの独占構造の解体と言ったような民主党の政策を実行するとなると、政治が司法の世界や言論の自由に対して手を突っ込んでいるように、少なくとも民主党に投票したくせに早くも拳を振り上げているバカな連中にとっては見えてしまうでしょう。当然野党もそこに突っ込みを入れるだろうし、大マスコミも大騒ぎするに決まっている。というかそれを阻止する為に、そもそも小沢問題を大騒ぎしているのだから、民主党がやると言って来た事を実行すると、火に油を注ぐ結果を招きかねない。

今回の一件で小沢が西松事件の際に検察と取引していると思っていたのですが、そうではなかった事が今見えている状況の根源にあると言っていいと思います。その事が唯一救いかもしれません。役人及びバカマスコミが小沢叩きをしているという事は、即ち、この男がこのまま権力を握っていたのではマスコミや霞ヶ関にとって都合が悪いという事でしょう。あくまでも大手マスコミや霞ヶ関官僚にとってであって国民にとってではないという事が重要です。少なくとも国民はこんな話は織り込み済みで民主党に投票しているはずです。それで問題だと思えば、参院選なり次回の衆院選なりの投票で意思表示すれば国民にとっては何の問題も無い。鳩山首相にしろ、閣僚のうちの数人は、もうすでに検察、及び霞ヶ関、そしてバカマスコミの手に半ば落ちていると言える。後は小沢を排除すれば、民主党政権と言っても役人やバカマスコミの権力構造には手出し出来なくなるという事なんでしょう。

逆に言えば、小沢を立件出来るかどうかも怪しいようないい加減な容疑で叩いているという事は、この国最大の権力構造である役人とバカマスコミが作り出す壁を突破する希望がまだ残っていると言える。今現在、バカマスコミの独占構造を解体するための法の準備も進んでいるし、役人から国政を政治家を通して、市民の手に取り戻す為の法律の準備も進んでいる。それがまだ骨を抜かれちゃいないというか、骨抜きに十分ではないという事でしょう。

このバカマスコミと役人が結託して作り出している強固な権力構造が、この国を牛耳っている間は政権交代も無意味だし、問題の本質には届かない。この支配を断ち切らなければ政権交代出来たとは言えない。もちろんその権力構造を解体したとて、すぐに上手く行くなんて話にはなりませんけれど、いい加減この権力構造の下ではこの国はどうにもならないほどに腐りきってしまっている。その事を国民が自覚出来なければ未来は無い。

民主党の掲げる政策でも重要な位置を示しているのが、司法及び検察改革、そして大手マスコミの独占構造の解体で、この二つはかなり重要な柱です。この国のもっとも腐りきった戦前から続く問題の根源であると言えます。前大戦の原因も、バブル後の長引く不況も、コイツらが勝手に権力を牛耳っているからに他ならない。小沢に問題が無いとは言いませんが、その改革対象であるバカマスコミと検察が騒いでいるという事だけはよくよく頭に叩き込んでおく必要があると言えるでしょう。政治家は選挙で落とす事が出来ますが、バカマスコミの独占構造や検察独裁、官僚独裁の構造は我々市民の投票ではどうにも出来ない。小沢がカネをちゃんと記載したかどうか、もしくは仮に裏金を貰っているのだとしても、バカマスコミや検察の腐った構造の方が遥かにこの国にとっての癌だと言える。プライオリティでいえばどう考えても小沢の問題なんてのはどうでもいい話です。

何度も言いますがバカマスコミを擁護する気持ちは一ミリもありませんが、役人達に責任を押し付けて彼らを悪者視するのは間違っています。確かに特捜の余計なお世話ではありますが、なぜ役人が牛耳って来たのかと言えば、国民に民主主義をドライブさせる民度が無かったからに他ならない。だから役人の勝手な振る舞いや政治家の無能さというのは、我々の愚かさの裏返しの帰結でもある。そこをすっ飛ばして単なる権力批判などをしても意味が無い。

役人からすればこの民度の低い我々が民主主義をドライブさせ、政治家をコントロールし、国家を操縦なんて出来るわけがないと思っているに違いない。確かに余計なお世話なんですが、ある意味それは真実でもある。しかし残念な事にいったん国民が疑問を持ってしまったシステムというのは、もう元通りにはならない。疑問を持った時点でシステムは壊れている。官僚を信用出来ない以上、後戻りは出来ません。民主主義を機能させるしか道はない。

まあこれはあり得ないと思いますけど、一応言っている人もいますから書いておきますが、仮に特捜が何らかの理念を持ち、正義に燃えて権力を行使しているのだとしても、それを認めてしまえば歴史は繰り返すしか無くなる。戦前2.26青年将校達の志を正当化した時点から、この国は泥沼の戦時体制へ突っ走って行った。民主的決定を役人(軍人)ごときが口を挟むなと言えていれば、あれほど絶望的な敗戦までブレーキが踏めなくなるという事は無かったと言える。仮に正義と理念に燃えて権力を行使しているのだとしても、余計なお世話だと突っぱねてこそ民主主義と言える。それが自由というものです。自由を邪魔する奴は敵だ、誰であろうと許さねえぞ、これが重要ではないかと思います。

民主党が本当にその改革をする気があるのか?という問題はあるでしょう。そこは徹底的に見て行く必要がある。それを信用出来ないと思う人がいるのはしょうがないかもしれません。そしてその事を邪魔する意味とはまったく無関係に小沢の問題を騒ぎ立てているのだと検察やマスコミは言うでしょう。しかしそこの所を詳しく見て行くと、今回の騒ぎはかなり怪しいニオイがプンプンして来ます。それは次回。

つづく!!
今年も残す所わずかになってまいりましたね。思えばいろいろあった年でした。なかでもこのブログでもずっとテーマとして扱って来た政権交代が起こったのは画期的な事だったと思います。その割にはスッキリしないまま年末をむかえたわけですが、このスッキリしなさこそが、この国の抱えている問題の重さでもあるのだろうと思えます。政権交代した所でそう簡単にどうにかなるものではないとも書いて来ましたが、来年はこのどうにもならなさに対する立ち方が問われる年になるだろうと思います。それが今後のこの国を占う意味も含まれるでしょう。

公約違反?マスコミや自民のカス共が騒いでおりましたね。笑ってしまいました。ちょっと前まで、民主党の公約を支持したわけではない!!とか言ってバカマスコミも騒いでいたような気がするのですが、公約を実行するなと散々叩いて、実際に実行しないとなると公約違反と叩く。本当死ねよって感じです。

だいたい自民党がグズグズ解散を引き延ばし、政権交代しても予算を組み直す時間を与えない為にあの時期に解散したわけですから、民主党に文句を言いたい有権者の気持ちはわかるけれど、自民党のカス共がほざく事じゃない。お前らのせいでもあるだろって話です。

公約というのは政権を握っている間に果たすと有権者に約束したものですので、今年実行出来なかった事を遅いとか、早くやれと来年やらなかったら次はねえぞと圧力をかける事は重要なんですが、公約違反とまで言ってしまうのは言い過ぎでしょう。

例えば後期高齢者の問題に手を付けていない事を持ってして叩いているアホがいっぱいいますけれど、選挙の前に3年くらいかかりますと、民主党の議員は言っていた。いったん制度を変えてしまってそれが実際走ってしまっているものだから、それを元に戻す事に意外と手間がかかるのだと。それに比べると例えば母子加算復活なんかは元に戻すと言っても結構簡単に出来るので真っ先に手を付けますと選挙の前から言っている。これを報じなかったのはバカマスコミであって、民主党はそれなりにアナウンスしていた。公約違反と叩く前に、何を公約していたのか自覚していないのに文句を言っている人が多すぎます。こんな状態では来年もろくでもない年になりそうな予感です。

しかしそうは言っても、民主党は舵取りと国民への伝え方に失敗している。鳩山首相も何考えてんだか今イチよくわからないし、叩かれるのも無理は無い。やろうとしている事がいちいち整合性が無いように見えてしまう。何を考えてんだ?お前らバカか?と見えてしまう。

例えば外国人参政権の問題なんかを叩いている連中がいっぱいいます。この問題ははっきり言えば地方参政権であるし、人口の1%ちょっとの話でしかないわけだから、危機を煽っている人がいますけれど、たいした問題ではない。その1%が全部同じように思考して同じ投票をするとは限らないわけで、さほど問題にするような事ではないと思う。それと同時にこんな権利を貰う事が永住外国人にとって重要な事だとも思えず、それよりも優先させるべき事があるようにも思われる。ちゃんと生活保護を受ける事が出来るとか、教育を受ける機会が与えられるとか、切実な問題があるはずです。だからはっきり言って興味が無い。

だけどこれを民主党政権がやろうとするのは別に構わないとは思うのだけれど、例えば沖縄の基地問題で答えを先延ばしにしていますが、来年の沖縄の地方選挙を経てからの決定になれば、どっちに転がっても問題は残るわけで、沖縄の人達に決定を委ねるのではなくて、政治家なんだから決断するのが政治家の仕事だろという事を脇において、外国人参政権の地方参政権によって中央政府の決定に影響を及ぼしてしまうという事を言いたい人達にとって、まさしくその主張がそれなりに合理性があるように聞こえてしまうような状況を自ら生み出している。バカじゃないのと思えてしまう。沖縄の地方選挙の結果を考慮なんかしたら、それこそつけ込まれて叩かれるに決まっている。衆院選の結果によって地方の意志を吸い上げれば、後は外交なんだから中央政府が決断すればいい話です。これをみすみす外国人参政権の危うさを喧伝するような決定の先送りをしている。

ぼちぼちポスト鳩山を視野に入れておく必要があるかもしれませんが、とは言っても民主党の中にはその人材もいない。自民党にいたってはクソしか残っていないので論外ですし。

前回代表選で健闘した国民に人気の岡田大臣も忙しい割には政治的には蚊帳の外である外務大臣に追いやられているし、かなりハードなスケジュールに振り回されて顔つきが変わって来ている。沖縄基地問題なんかでも外務省のインチキ情報を相対化するような外部からのインプットが全く入らないくらい疲労困憊、朦朧としながら仕事している。長妻大臣なんかもそうかもしれません。もう限界でしょう。

政治主導にすると言っていたのに、その仕組みが全く整っていないのでただ単に大臣と副大臣、政務官の3人で何とかしようとしている。何千人もいる省庁の役割をこの少ない人間だけで全部に目を光らせてカバーするなんて出来るわけない。嘘情報とサボタージュで役人が足を引っ張り、それをバカメディアが翼賛し、国民が吹き上がっているのだから尚更無理に決まっている。真面目にやっている人は憔悴しきっているし、元気に見える連中は要するに全く仕事をしていない。役人に操られて自民党の時の大臣と同じ。真面目にやっている連中も役人主導のスケジュールに振り回されて、余裕を失っており結果的にそっちもほぼ機能していない。

無駄削減という事と政治主導の為の必要な人員という事をおそらく有権者もわけて考える事が出来ないだろうし、マスコミも無駄削減と言いながら!!と叩くに決まっているので、それに乗せられる国民も出てくるでしょうから、その改革をやらないと政治主導になんて出来るわけないのだけれど、不人気を恐れて中々それが出て来ない。

来年しょっぱなにこの改革をやるって話ですけれど、はたしてどこまで出来るのか?骨抜きはされていないか?そして役人、マスコミ共々半端じゃない抵抗が予想されますので、それに釣られて国民が拳を振り上げているようだと頓挫するでしょう。これが頓挫したり骨抜きになるという事は、もう民主党政権には全く期待出来ないと言ってよいと思います。要するに民主的な決定で政治に意志を反映させても、この国の構造は何一つ変わらず、真の問題点は手つかずのまま、逃げ切り戦略で逃げ切れる連中が圧倒的多数である間はどうにもならない。相当落ちる所まで落ちて、みんなで痛い目にあわないと気付かないのかもしれない。

この国会法の改正というのは役人が勝手にやりたい放題に振る舞っている現在の構造を変える為のものですが、かといって政治家にリソースが集中するわけだから、本当の意味で国民が民主制を機能させないと、牽制する力学が無くなってしまう。今までのこの国の官僚制というのは、国民がお任せ民主主義を貪っていた事の裏返しの帰結でもあるわけで、官僚のチェックによって政治家を牽制する仕組みでもあった。

しかしその官僚制は腐りきって、政治家の劣化も激しい。だからしょうがないから国民が引き受ける意外の選択肢が無いという話なだけで、民主主義というのは必ず失敗する不完全な制度ですので、国民にその気が無ければもっとどうにもならなくなるでしょう。

例えば外務官僚であれば特命全権大使であるとか、検察官であれば検事総長、検事長であるとか、先日大騒ぎした宮内庁長官もそうでしょう。天皇からの認証を受けるのですが、ここに本質的な意味がある。即ちたかが民主的決定によって選ばれたような政治家ごときが、例えば人気のために選挙の為の弥縫策で下らない政策をやられたり、とんでもない方向性への舵取りをされれば国益を損なう。バカな国民がとんでもない代表者を選んでしまう危険性がある。なのでより上位の天皇から認証を受けている官僚達が、政治家の無能さや国民の民度の低さをカバーする為に、官僚制がその穴埋めをするというのが日本の仕組みであり、国民には民主的決定権があると思わせながら、実は国の舵取りは官僚が行って、政治家は単なるお飾り、これがこの国の民主主義の正体でした。

自分はその事が悪い事だとは思っていません。我々の社会が例えば民主的決定が意味があると思える社会を護持する為には、民主的決定に従っていたのでは時に出来なくなる可能性もある。法を守る為には法に従っていたのでは法をバイオレートする事を何とも思わない連中と渡り合う事なんて出来ない。だから法や民主主義、この国のアーキテクチャーが正常に作動していると思える社会を護持するため、時には法の枠の外に出ることもいとわない。それが本来の政治家の役割なんですが、そういう政治家はいませんし、そういう政治家を選ぶ民度も無い。したがって天皇から任されている官僚達がその穴埋めをする。だから時には脱法行為も憲法違反もしていたりする。その正統性は天皇が担保している。

しかしこの仕組みがどうにもならないまでに劣化してしまった。官僚達は自分達の権益にのみ勤しみ、そこには国益もクソも無い。民度が低い事をいい事に、民主制が作動していると国民に思わせる為の補助システムであったものが、官僚独裁制の様相を帯びている。その事によって、前大戦では原爆まで落とされているにもかかわらず、同じ轍を踏もうとしている。戦後その仕組みはそのまま温存され、もはやそういう志は地に落ちて、懐を温める事しか能がない連中が勝手に国政を牛耳っている。それに世界は複雑多様化してしまい、どんなに優れた人が予想したとしても、予想しきれない。みんなが納得いくような政策は打てない。だからこの仕組みではもうどうにもならないから、それを変えるという話になっている。

しかしそれは代えれば上手く行くというものではなく、よりいっそうの問題が吹き出てくるでしょう。政治家は無能だし、国民の民度も絶望的、マスコミに関して言えば、もはやどうにもならないくらいに終わっている。

そういう変化が必要になっているにもかかわらず、現段階ですでにこの変化に対しては半ば絶望的な状態になっている。役人は権益護持の為にもうなりふり構っちゃいられないという事で、益々勝手な振る舞いをしていますし、バカマスコミがそれを翼賛し、国民も自分達で投票して政権交代を起こしたという事をしらばっくれて、政治家のせいにして何かを批判した気になっている。

あれほど大騒ぎして政権交代したものの、わずか3ヶ月ちょっとで早くも政権は行き詰まっている。政権が変わったって、今の日本に打開策なんて簡単に無い事くらい織り込み済みの人にとっては予想の範囲内であろうかと思いますが、そうでない人達にとってはガッカリ、こんなはずじゃないという感じなのかもしれません。たかが政権党を入れ替えたくらいでは日本の構造問題にはまだまだ分厚い壁があります。チェックとバックフラッシュを混同せぬよう、国民は腹をくくる必要があるでしょう。政権交代しても基本的に行政を行うのは大部分が官僚、報じているバカメディアもそのまま、国民の民度の低さは相変わらず、と基本的な部分は何も変わらないので、ガッカリするのは当たり前と言えば当たり前です。全部政治家のせいにして話が終わってしまうようでは同じ事が繰り返されて行くだけです。

そしてこのお任せから引き受ける方向性への変化というのは、今の世界の変化ともリンクしています。その事を自覚する必要があるでしょう。この変化が何を意味しているのか自覚出来ないと、お先真っ暗と言うしか無い。

この変化が如実に現れているのは、最近のニュースで気になったのですと、COP15でしょうか。これには絶望したくなりましたね。絶望って言っても会議の中身そのものではありませんよ。この国の報道のレベルの低さにです。今回の合意の意味をちゃんと伝えた大手メディアは一つもない。今回の合意は国際的な枠組みを作って合意をするという事が不可能であるという事を合意したと言えると思います。コンセンサスからプロセスへの変化。即ち何らかの議定書を作って、数値目標を決めて合意し、それを上から下ろして行って各々がコミットするという形ではなくなった。京都議定書以降の枠組みが変わった。

目標を決めて合意するという事自体、簡単な話ではないと思ってはいましたが、話し合いで外交問題が解決出来ないとなれば、力で解決するしか無くなる。単なる弱肉強食へと逆戻りしてしまいます。今の世界でそれを行えば、人類は破滅の道に突っ走るしか無くなる。だからそういう愚かな決定を選択するわけには行かない。しかし実際問題、新興国の台頭によって先進国のプレゼンスが相対的に弱まり、発展途上国と言ってももはや中国のような国とツバルのような国では、全く温暖化に対するプライオリティが違ってくる。先進国と言ったって、実際我が国なんかが典型ですが、ケツに火がついていてもはや余裕も無い。複雑多様化してしまい、従来の意味での合意などとてもじゃないけれど調達出来ない。

だから数値目標を決めて何らかの枠組みを合意して下におろして行くというのが不可能なので、そういった数値目標を決めたり枠組みを決める事に重点を置くのではなく、実際にコミット出来る範囲で各国、各自治体でそれぞれコミットし、それを吸い上げて各国のコミットの度合いによって、今後のイニシアティブが決まって行くという形に変化した。

数値目標を決めたって実際それを守らない国もあるわけだし、京都議定書に批准している、例えば日本のような国だって全然目標なんて守っちゃいない。合意したにもかかわらず守っていないのに、どこそこの国が入っていないから不公平だと喚いていたりする。だから数値を決める事自体に時間をかけていても、いつになっても合意は出来ないので、かえってその事が温暖化問題に対してサボタージュするという帰結につながっている。決めたとしてもそれを守らない国があるのだから結局時間をかけても無意味になる。

という事で、国際的な合意の枠組みを決める事に時間を割くのではなく、各国それぞれが目標を定めて出来る所からコミットして行きましょうという事を合意したと言える。そのコミットの度合いによって、必然的にただ単に数値目標を掲げているだけなのか、実際にサブスタンスのある結果を出す事が出来ているのかによって、各国の取り組みがどこまで本気なのかも自明になる。やる気が無い国は当然国際的なピアプレッシャーによってバッシングを受けるようになるし、キチンと結果を残している国は当然発言権が強まる。チームワークを重視するというよりも、個人プレーの結果としてのチームワークという形。

この変化は日本にとっては結構厳しい変化だと言える。なぜならお任せの民度、改革は常に外圧によってなされて来た。国際的な枠組みがこれこれだから、仕方なくみんなでコミットしようとなってはじめて、日本の力が発揮されて来た。枠組みを決めてその中での競争というのに比較的日本人は強かったと思いますし、その反面、枠組み自体を創造して自分達で決め、それに向かって改革するという事が苦手です。それを考えると今回の合意の意味は日本に取ってかなり難しいと思わざるを得ない。

前回鳩山首相をボロクソに批判しましたけれど、この環境問題に関しての鳩山首相はそこそこ頑張っていると思います。COP15でも結構それなりに頑張っていたと思う。自民党のバカ共じゃなくなって本当によかったと思う。麻生なんかが今回のCOP15に出席していたら、どうなっていたかと思うと背筋が冷たくなります。しかし鳩山がそれなりに存在感を示せたのも日本が25%削減を打出していたから今回認めてもらったようなもので、これが今後中身がそれにともなうか否かによって、よりイニシアティブを握る事も出来るかもしれないし、国際的に無視されてバッシングされまくる図式に変化するかもしれない。今までのように中国やアメリカが合意をしていないといういいわけは通用しなくなる可能性が大です。

何しろ、この問題での日本の状況はかなり分厚い壁がある。小沢は小沢でも環境大臣の小沢がこれまたどうにもならないアホですし、経済産業大臣もアホ。はっきり言ってそれだけでも絶望的なんですけれど、何しろ国内的な合意が選挙で勝ったというのに無いという不思議な状況がこれから大きな壁となるでしょう。

中国にしろアメリカにしろ、国際的な枠組みには合意しなくとも、国内的にはある程度温暖化へのコミットのスキームが整っている。インドでさえそうです。それに比べて、日本は目標を掲げただけ。国内の合意はほど遠いし、マスコミからステークホルダー達の抵抗も激しく、また懐疑説が人気がある。電力会社がほざく環境保護なんて笑い話にもならない冗談が、ネットの広告でもあちらこちらで目につくのだから絶望的な状況でもある。お前らが一番の癌なんだよって話です。この問題はすでに国内で片のつく問題ではないので、外交問題に影響を及ぼしてしまいます。国際的な枠組みが無いので問題を先送りしている間に置いてけぼりを食らうってパターンもあり得ますので、その辺の注意が必要でしょう。

この世界の変化というのに、日本の政権交代は無関係ではない。即ちお任せから引き受ける政治、クレクレ主義からコミットメントの社会というのは、要するに今回のCOP15の合意の変化そのものと全く同じ変化でもある。これは民主党の政策云々では無く、これからしばらくの間は不可避の流れでもある。分権化によって、それぞれの自治に任せるというのもそうです。トップダウンではなく、ボトムアップ型の集約が結果的に経済成長なり、環境保護なりの結果をもたらすような構造の変化。

それは即ち行政官僚達に頼り引っ張ってってもらうのではなく、市民自らのコミットメントによって社会を護持するという変化です。子供手当しかり、高速道路無料化しかり、その為に必要な変化のプレッシャーによってこれらの政策が出て来ている。この期に及んで行政に期待する民度ではどうにもなりません。何かをしてもらう事に期待するのではなく、出来るだけ中抜きを排除して、末端が自己責任を取れる環境を整え、それをボトムアップして集約したものが政府のリソースとなる。外交のリソースになる。そういう風にゲームのルールが変わった。だからそういう変化を必要としたわけです。

これはテクノロジーの変化ともリンクしている。即ち、オバマ大統領がネットでの選挙戦略で成功したのと同様に、誰もが直接意見を世界に向けて表明するテクノロジーを手にした。上からのトップダウンの情報であったり、マスコミの恣意的な情報操作によって出てくるような情報も、ネットで匿名の個人が発信する情報も等価でフラットに並ぶ時代になっている。その事が上から降りてくる情報を相対化させ、その情報の持つパワー自体も弱まっている。複雑多様化してしまった個人の複合体であるネットの情報網を見れば明らかですが、もうコンセンサスを形成出来るような状況ではない。だからそれぞれの細かいスフィアに分かれて、それぞれがそれぞれに重要だと思える事柄にコミットして行くような事でしか物事を前に進めなくなっている。そのバッティングする部分の調停機能を国家が担うくらいの役割でしか、国家に何も望めなくなってしまった。

この変化というのは、すでに京都議定書と同時期に行われた、対人地雷問題のオスロプロセスのあたりからすでに始まっている流れで、これはそれなりに結果を出している。そのプロセスに乗りたくないとだだをこねていても、結局国際社会のピアプレッシャーには逆らえなくなり、また兵器を作っても売れなくなるので結局批准するしか無くなる。

例えば9.11の同時多発テロの際に、何らかの組織による組織的なテロではなく、イスラムのジ・ハードに共感する緩やかな連帯によって指揮系統なしで個人が個別に判断し各国でテロを起こすという構造に世界が驚愕したわけですが、これもある意味、ボトムアップ型のコミットメントだと言える。結局アメリカはこれに勝てなかった。

今回のCOP15でのアコードも、政権交代による日本の変化も、こういった流れの延長線上にあり、それは不可避の流れでもある。国家の弱体化が起こっている。国家の弱体化という流れは、必然的にそれを強化せねばならないという逆バネが作用してしまう。だからブッシュ政権も生まれたし、日本では小泉純一郎があれだけ人気を博した。その国家の弱体化に対抗する為の強化も要するにトップダウン型の枠組みでしかないので、結局は上手く行かない事を悟り、今ようやくこの変化を受け入れる方向性に世界が動いた。

しかしこの変化というのは非常に危うい変化でもある。もちろん日本に照らして考えれば言うに及ばずでしょう。あれだけ大騒ぎして政権交代したにもかかわらず、すでに政治家のせいにしてしらばっくれている国民が激増している。引き受けるどころか、相も変わらずクレクレ主義の醜い鍔迫り合いの間隙を縫って、役人やバカマスコミに利用されてしまっている。それに対して腰砕けの与党の政治家達は、当初の理念を見失いかけている。自らのコミットメントによって引き受ける覚悟など無く、何か政策を打てば景気が簡単に回復すると思っている人も沢山いる。これではどうにもならない。

世界で見てもそれはやっぱり同じです。今回のCOP15ではオバマという希有なリーダーがいたというのが非常に大きかったし、実際に今回の合意の立役者はオバマでしょう。まさに独壇場の素晴らしい大活躍でした。それに先進各国比較的リベラルな首相達だったというのも幸いして、今回の結果につながった。日本のバカメディアはお門違いの報道をしておりましたが、鳩山首相もここは褒めてあげていいと思います。中国も今後は途上国面は出来難くなるでしょう。

しかし偶々奇跡的にそういった諸条件が重なったから上手く言ったわけで、逆に言えばわずかでもこの条件が狂えば、この方向性も相当危ういものでしかなくなる。そして今後二度とこのような奇跡的な諸条件が揃うという事は無いでしょう。今回の合意で相当困難である事も同時にわかってしまった。

この変化には人々のディーセンシーが求められる方向性です。ディーセントである事が重要で、他人の抜け駆け感を気にしたり、疑心暗鬼をお互いに持っていれば上手くいかない。日本のような何の影響力も無い国であれば、国際社会から無視されてボロクソにバッシングされて終わりですけれど、例えばアメリカなり中国なり、先進国にせよ、新興国にせよ、それなりに影響力のある国で、他人の抜け駆け感を煽り、それを動員のリソースにするようなブッシュとか麻生みたいな指導者が出て来て、それが人気を得たりすると、途端にこういった方向性は立ち行かなくなる。

国際的な何らかの目標を合意する事を諦め、各々のコミットメントの集約によって結果的に目標を達成するというのは、要するに各国それぞれが好き勝手に行動しても、よき方向に行くと言う前提があってはじめて上手く回る。武力をちらつかせ、エネルギー利権を背景にして、コミットしていない事を正当化するような指導者が登場すると、合意が無いわけだから各国好き勝手に行動するようになってしまう。覇権主義へとつながりかねない。

だから国内的には国際的な枠組みが無い事をいい事に、問題を先送りしサボタージュする方向性に進むようであれば、やがてメッタクソにバッシングされる事を覚悟しておいた方がいい。自らが生み出した原因によって国際的に無視されているにもかかわらず、それを不当な事であるかのように煽って人気のリソースにかえようとする指導者が必ず出てくるでしょう。それこそ日本の民主主義が試される事となる。

そして国際的にはこれから益々困難な状況が待っているとも言えますので、その事に腹をくくる必要がある。

以前の話でも書いたようにというか、時々書く事なんですけれど、今の政治状況というのは戦前に酷似していると書いています。それは昭和恐慌の長引く不況から世界恐慌によってトドメを刺された経済状況と、バブル崩壊から長引く不況でサブプライム問題で更に大打撃という経済状況も似ていますし、マスコミの報道が翼賛の旗を振っているのも同じ。政治家が無能なのも同じだし、役人が暴走しているのも同じ。民度の低さは言うまでもない。

そしてそういう国内的な問題だけでなく、グローバル化が壁にぶち当たっているという意味でも同じです。戦前の事を帝国主義の時代であったとよく言われるわけですが、それは即ち、それまで不可能であった海上の移動がより可能な時代になり、通信や出版が発達して、情報が国家の垣根を越えて、人もものも移動可能な時代によりシフトした事からくる帰結でもあったわけです。

それが世界恐慌によって帝国主義というグローバル化の不可能性に直面する。帝国主義がすでに終わっているにもかかわらず、日本はそこから更に帝国主義へと暴走します。すでに終わっているわけだから時すでに遅しなんですが、その事によって原爆まで落とされる。ゲームのルールが変わっている事に鈍感だった故に、ブレーキを踏めなかったと言えます。

よくこのブログの中でも合意調達の問題を書きますが、非常にその事が切実な時代に変化していると思えるから書いているのです。合意調達が困難な時代へと。今回のCOP15ではとうとう国際的な合意を諦めてしまった。今回はそれでもポジティブな結果を得ましたけれど、一歩間違えると合意の不可能性というのは致命的な問題に直結する。

即ちそれは国内的に合意を必要としない制度が戦時体制であり、外交的に合意を必要としないという事は覇権主義になり戦争へとつながる。前大戦も結局は合意調達の不可能性に直面し(それは国内的な民主主義の不可能性、国際的な帝国主義のもとでの折り合い)、つまりそれはグローバル化の挫折が引き起こしている。民主制の不可能性、政権交代に絶望し始めている現在、その事を自覚しておく必要があります。ゲームのルールが変わっていると言う事を自覚出来ないとまた暴走が始まり、ブレーキを踏めなくなる。

そしてグローバル化の不可能性にも直面している、経済的には世界恐慌で金融の中心がロンドンからウォール街へと移ったのと同様に、サブプライム問題によって今後アメリカの一極支配体制は益々崩れて行くでしょう。中国の台頭はもはや止められない。現在のグローバル化の大問題である環境問題でも、COP15を観ていると、今回は何とか切り抜けられたとは言え、先々を見るとかなり絶望的な壁が立ちふさがっています。これは綺麗事や理想論ではどうにもなりませんので、困難ではあるけれど、不可能性に折れない事が重要でしょう。

もちろん過去の戦争と同じような事態を引き起こせば、そのときは世界はお終いでしょうから、そういう愚かな選択は取らないだろうとも思えますが、だからこそ大問題でもある。すごくイヤな書き方をしますので、話半分で聞いて下さいね。戦争が出来ない構造がソリューションを困難にもしている。戦争というのはいつの時代にも起こって来たもので、人間の歴史=戦争と言っても過言ではないとよく言われます。これはある種の真理であり、それは非常に残念な事なのですけれど、それが現実でもある。なぜ止められないのかと言えば、それを必要だと思う人達が出て来てしまうからでもある。

そしてなぜそのように思うのかと言うと、戦争でしかソリューションを得られないと思うからに他ならず、その事が袋小路に陥ったシステムを強制終了させて、再起動させる機能を持っていたと思えます。責任を外部の何かに責任転嫁して敵を設定する事によってソリューションを得られないのはその敵のせいだと。勝てば収奪によって配分調整をまかない、負ければ痛みを伴いますが、少なくとも責任を外部化する事は出来る。恨みを外部に向けられる。もちろんそれで収奪されて虐殺されたりすれば本末転倒もいい所なんですが、特に日本のように論理が上手く作動しない国では要注意でもある。一度痛い目に会っているにもかかわらず論理性が芽生えてないのだから。

解決出来ない諸々の課題が山積してしまっている現在、多分それを劇的に解決する手だては無い。国内政治でさえいちいち合意して行く事の困難さに直面しているのですから、世界という枠で考えればそれがどれほど困難な事であるか推して知るべしという感じでしょう。

そういう時に人類が使って来た戦争という強制終了&再起動のコードは、兵器の近代化を経て核を手にした現在、二度と使う事が出来ない。だから核によって世界は平和になったという言い方はムカつきますが嘘じゃないわけです。戦争を使う事が出来ない状態になってしまった人類は、山積する課題を一つ一つ合意して、一つ一つ解決して行くしか無いのですが、多分それは不可能ですし、それらを一気に何とかする戦争以外の手だてを人類は知らない。だからもちろん戦争という行為自体は自分はいやですし解決というより破壊してしまって解決もクソも無い状態になるだけなので、ソリューションとは言えません否定しますが、戦争が出来ないという問題、というか戦争以外の手段を知らないという問題は、山積する解決不能、合意不能の諸問題がそのまま蓄積されて行き、これは解決したり合意するよりも、問題が増大する方が早いに決まっている。

これが多分どんどん増大して行く、中国なんかは要注意です。これから世界屈指の経済大国へと成長したりすれば、覇権主義的になる可能性は高い。国内の格差も広がっているし、バブルもそのうち崩壊するだろうから、必ず敵を外に設定して不満を中和するでしょう。反日カードを切ってくる可能性が高い。その時に軍備を整えておく事も重要かもしれませんけれど、それよりも何よりも、そういった危機に便乗して人気を得ようとする政治家や、それを利権の草狩り場として利用する役人やステークホルダーに踊らされないように、腹をくくっておく必要がある。多少脅されたくらいでおたおたしない構えが必要でしょう。売り言葉に買い言葉で吹き上がっているようでは喧嘩する前に負けていると言っていい。

アメリカなんかもこのまま相対的に影響力が弱まって行けば、ポストオバマでまた敵を外に設定して動員する輩が出てくるかもしれない。国内的にも解決出来ない問題は山積みのままであるだろうし、産業構造の変化が進まないとなると、景気の回復も一時的なものしかあり得ない。経済成長もしばらくは無理。もうどうにもならないと言う事で、産業構造を変化させ、分権化させればさせるで、地方の政治なんて中央政府よりも遥かに腐っていますから、よりいっそう問題は吹き出てくるに決まっている。一時的には更なる絶望を覚悟しておかなきゃならない。

エントロピーは常に増大するわけだから、これは絶対に止められない。ただでさえ止められないのに、人類の営みそのものはエントロピーの増大を更に加速させてしまう側面がある。生物の中で唯一人間だけがエントロピーを縮減させる事が出来ると唯一無秩序から秩序を作り出す事が出来ると錯覚している。確かにある側面だけを見るとエントロピーは縮減しているかに見える。だけどその事によってより膨大なエントロピーの増大をまき散らす事になる。

人類はテクノロジーを生み出す。車にしろパソコンにしろ携帯にしろ、そのテクノロジーによって便利になったと錯覚する。ある側面では確かに便利になる。しかし車を開発する事によって環境の問題、事故の問題、道路利権と様々なレイヤーで人が考えなければならない無秩序は増える。車を開発し、車を整備し、エネルギーを確保し、ガソリンスタンドが必要になり、車の部品やパーツを開発する事が必要となり、保険が必要になり・・・・・と言ったように、徒歩で移動していた時から比べれば、膨大に人が関わらなければならない仕事は増えて行く、無秩序を放置しない為にはそれらの増えた仕事をそれぞれが役割を担い秩序を作り出さなければならない。だけどまたそこで秩序を作り出してしまうと、そのまわりに更に膨大な無秩序が広がって行く。

パソコンや携帯を生み出した事によってある側面では便利になっているし、これまで不可能だと思われていた可能性も広がったけれど、その事によって人類が対応しなければならない無秩序は増えている。一日の時間も人の一生にも限界があるわけだから、このエントロピーの増大を打ち消して行く戦いは絶望的な勝ち目の無い営みであると言える。

繰り返しますが戦争はやらない方がいいに決まっているという大前提を脇において、戦争の善悪を考えなければ、戦後半世紀以上平和な時代を謳歌していると今の日本は言えるけれど、それで実際にどうなっているのかと言うと、解決出来ない問題は山積み、無秩序は増大し、その無秩序に怯え、更に安心安全にという秩序を求めて更なる無秩序をバラまく。戦争と言う手段が使えないという事は、この無秩序の増大に腹をくくって、解決出来ない増え続けて行く難問におたおたしない心構えが必要なんですが、そういう風に思っていない人が圧倒的大多数。簡単な出口は無い。誰も救う事は出来ない。表面上救えてもそれが更なる無秩序を増大させ、更に痛みをバラまく事になる。これは人の理性や善意や知恵で解決出来るレベルの話ではありません。絶対に動かす事の出来ない物理法則です。

数百年単位でなら常にエントロピーの増大が同時に打ち消される定常状態を保つ事も出来るでしょう。今は情報化によって時代のスピードが加速されてしまっているので数百年は無理かもしれませんけれど、過去を振り返れば、実際に一つの国なり王朝なりが長ければ数百年単位で続いて来たわけですから。日本でも権力構造が数百年単位で入れ替わって来た(ただし日本の場合、基本的に天皇が政治から分離されていた為に、天皇を巡っての権力の奪い合いだったので、権力構造が入れ替わっても、基本的に日本という国の構造そのものがラディカルに変化して来たわけではない。一応天皇がずっと続いて来たという話になっているわけだから、その天皇を巡って常に復古による改革だったと言える。これが日本の特徴で、見かけが変わったような気がするのだけれど、使えるリソースは基本的には何も変わらないので、あっという間に腐敗する。見かけと空気が変わるだけなので、すぐにこんなはずじゃないという話になる)。
そしてそこには必ず血が流されて来た。それが人の歴史でもある。殺戮と破壊によっていったんエントロピーの増大をリセットして来た。今後世界は重要な局面にたたされていると言えます。即ちこのエントロピーの増大、合意の不可能性、解決不能の問題の山積、世界の多様化、こういった事に怯えずにいられるかどうかが、歴史を繰り返すか否かの瀬戸際であると言えます。歴史が繰り返されるのはある種の法則であり、かならず繰り返されて来た。我々がその事を肝に銘じてしっかりと腹をくくる必要がある。

そして繰り返す事がもはや不可能であるとも言える。過去の歴史と同じように争ってしまえば、それはそのまま人類にとって壊滅的な痛みを伴うものになりかねない。だからこそ、繰り返せないし、このエントロピーの増大、解決不能の無秩序の増大にどう折り合いをつけて行くのかが繰り返しの歴史を超える為に必要な作法でもある。それは人類初のチャレンジかもしれない。これを超える事が出来れば、人類は一つ壁を突破出来たと言えます。

今年はこれで最後かもしれませんので、一応、皆様よいお年を。