皆様、年末も差し迫って来ましたね。いかがお過ごしでしょうか。さぞお忙しい事でしょう。しばらくご無沙汰しておりますが、忙しさにかまけて書けないというだけではなく、世の中の報道や、それに対する反応があまりにもバカバカしく何も書く気が起こらないという次第です。
早くも公約が怪しくなって来ました。マニフェストの公約というのは4年間でやれれば、まあそれはそれで構わないと言えば構わないので、いきなり税収も落ち込んでいるわけなので、出来ないものがあるのは予算を組む時間を考えればしょうがない部分はあります。だから今回の予算では実行出来ない公約があるというくらいならまだ許せますけれど、公約の理念をねじ曲げているものには牽制する必要があるでしょう。子供手当の所得制限という話が出て来ている。これを本気でやるつもりなら子供手当の理念が変わってしまう。所得制限なんか設けるなら止めた方がいい。
子供手当というのは貧困対策ではない。貧困対策なら、子供がいるいないに関わらず所得制限を設けて収入が低くて生活に困窮しているすべての国民に給付するべきです。子供がいる貧困家庭だけ救済するというのは不公平だし、何しろ子供手当の理念からかけ離れてしまう。
なぜ所得制限を設けると理念とかけ離れてしまうのかというと、所得制限なんて設けると無駄にコストがかかるという大前提を脇に置いて書きますが、貧しい家庭の子供も裕福な家庭の子供も、日本の社会が負担して育てるという、子供は親だけが抱え込むのではなく、社会が育むという理念とは無関係な代物になってしまうからです。
現在の日本社会というのは親が子供を抱え込み、学校の先生といえども余計な口は挟めない。まして子供がどのような振る舞いをしていようが、社会の大人達は他人の家庭の子供だからという理由で、見てみない振りをするというか、何か口を挟もうものなら厄介事に巻き込まれそうな風潮が支配している。これはヘタをすると身内の親戚の子供であってもそういう場合があったりする。近所のおっちゃんにぶっ飛ばされるとか、親もろとも怒鳴りつけられるとか、そういう事は皆無になり、むしろそういう事をやった方が悪いような社会になっているのが現在です。
もちろん昔みたいに近所のオヤジが人の子供にげんこつするとか、暴力を振るってしかりとばすとか、ダメ親を子供共々説教するとかまでやる必要は無いだろうけれど、今のような無関心な社会のままで社会の問題を考えても、空洞化しているのだから無意味にしかならない。空洞化してしまった社会を再構築するための、大人は子供達に責任を持ち、子供は大人達に感謝するという最低限の相互扶助の為の政策であったはずです。これが無いから世代間の分断統治が機能してしまう。
エネルギー資源も無く、土地の狭いこの国がここまで成長出来たのは技術力を裏付ける人材力があったからに他なりません。子供というのは次世代を担う人的資源ですから、他人の子供は関係ないという風潮は普通の先進国の基準で考えればあり得ない無責任さだと思う。そして社会に対して子供が迷惑をかけているのに、それに対して何か言おうものなら、他人にとやかく言われる筋合いではない、俺の子供をどう育てようが俺の勝手だ、と言う親も増えている。ダメなものはダメだと社会全体で教育出来るようにする為には、親が全責任を負って育てているのだから他人が口を挟むなという状況を変えなきゃならない。
これを道徳や教育を叫んで自民党や保守の連中はやろうとするわけですが、道徳や教育の中身に国家があれこれ関与するのは、本当は政治がやるべき事ではない。道徳や教育を社会全体で行えるような枠組みを構築するのが政治の仕事です。子供を社会が育てているという認識に変われば他人の子供であるから関係ないという風潮をかえられるし、親も社会の声を無視するわけには行かなくなる。
子供にしても親だけでなく、社会に育ててもらったという事になれば、その恩返しをするのは自然な事だと思えるようになるでしょう。現在のように自分の事しか考えず、逃げ切る事しか頭に無い大人達を見て成長すれば社会へのコミットメントなんて生まれるわけが無い。成功をおさめたとしても自分一人の力で達成したと思い込まずに済むようになる。社会へ還元する事が責務だと言っても説得力がある。そういう精神がNPOなんかを活発化させる事に繋がる。市民が社会へとコミットメントし、社会が個人を支えるような分厚い市民社会。
そういう一番根幹にあった理念が所得制限なんか設けてしまうと無くなってしまう。所得の格差を是正するなら累進制をきつくして取るべきで、裕福な家庭の子供も貧しい家庭の子供であっても社会がバックアップして育てるという子供手当のそもそもの意義をぶちこわしにしかねない。
財源が足りないというならば、来年以降に先延ばしにすればいい。いったん所得制限を設けての子供手当なんていうスキームが出来てしまったら、それを変える事が今度は難しくなりかねない。だいたい貧困対策としてなら、なぜ子供のいる家庭だけなのか?不公平であるし、子供がいなくたって生活に困窮している人はいっぱいいるわけです。
だからこの問題は公約違反云々の批判というだけでは足りない。政権を担当している間に最悪でも公約がはたされれば公約違反にはならないからです。だけど公約の理念が変わってしまっているものを形だけ整えて無理矢理実行しようとしているポピュリズム戦略こそが問題で、子育て支援の意義が失われてしまうようなものを単に貧困対策のバラマキとして行うのなら、それを止めるか、子供がいなくとも貧しい家庭に配れと言うのが批判のスジってもんでしょう。
高校の無償化は所得制限を設けないとの事なので、ただ単に財源が足りないという問題だけではないでしょう。所得制限を設けよ!!というプレッシャーに場当たり的に答えて人気取りに走っているように見える。所得制限を設けるなら高校の無償化にも設けりゃいい。そうすりゃ財源も浮くのだから。だけどそれを半分だけ所得制限を設け、半分所得制限を設けないなんてのは理念もクソも無い妥協の産物に他ならない。選挙対策の弥縫策に過ぎず、そういう下らないポピュリズム的な政策を打つのならやらない方がマシです。そんな事をしていたのでは民主党の自滅も時間の問題でしょう。
個人的な意見を言えば、高校の無償化はどちらかと言えば賛成出来ない政策でもある。義務教育に対して子供手当なり無償化なりすれば、そこから先は完全に能力によって徹底的にふるいにかけて、親の収入とは無関係に優秀な人間だけ優遇して無料で教育を受けさせればいい。大学に行く際も同じように更にその中から選別して大学教育を受けさせればいい。そうすれば無駄な学費に金をかける必要も無くなるわけだから、無駄な高校や大学はすべて淘汰出来る。本当に学力の優秀な人間だけが教育を受ける事が出来、教師も優秀な人間以外は不必要になる。バカに学問を強要するのは時間の無駄です。
人口が減って行くのだから、学力的に才能の無い人間は中学卒業と同時に社会に出して実際に職の訓練を受けてしまった方が、バカな大学出の無能な人間をそれなりの給料で雇うよりは初任給を押さえる事が出来るし、何しろ大卒と同じ年齢になるまでにはいっぱしの社会人として教育する事も出来る。その方がよっぽど実戦では役に立つ人間になるでしょう。学力的には劣っていても、それがその人の全人格を決定するものでは決して無いわけだから、苦手なものに時間を割くよりも中学卒業と同時に実社会に出してしまって食って行く術を叩き込んだ方が役に立つ。早い段階でいっぱしの人間に成長出来れば、結婚して家庭を持つ年齢も若くなり、したがって子供も多く生みやすい環境が整うのだから増えやすくなる。
大学教育まで受ける事の出来た選ばれたエリート達は、国民の税金によってそこまで教育を受けるわけだから、それをきちんと社会に還元するように徹底的に教育する。それがエリートへのリスペクトへと繋がり、エリートはエリートの役割を、学歴ではエリートになれないとしても専門分野のスペシャリティを持った中卒には中卒の役割を、それぞれが担って行く事によって社会が回るようにした方が効率がいいように思う。下らない平等主義よりはよっぽどスッキリするように思うのです。
とまあ常識人からは怒られそうな個人的な見解は脇において、子供手当を所得制限を設けて、高校無償化を所得制限を設けないという政策には、何の理念も見えて来ない。ただ単に金が足りないというだけなら、そんな理念もクソも無い政策を打つ前に他に金を回した方がいい。貧困対策なり景気対策なり、暫定税率廃止なり、いくらでも使い道はあるはずですから。
というように巷の民主党批判やバカマスコミの報道は的を射ておらず、チェックとして機能していない。特に酷いのは直近の話題ですと天皇問題でしょうか?政治利用?実にバカバカしい反応です。
小沢がこの問題で叩かれている事自体は、大いに結構な事だと思う。天皇を政治利用したか否か、世論やマスコミの反応が適切かどうか、それらは多くの人がいろいろ書いているし、実はたいした問題じゃないので、ここでは脇に置いて書きますけれど、彼は与党の政治家でしかも幹事長であり、闇将軍と揶揄されている存在でもあるわけだから、何かを発言すればそれにレスポンスがかえってくるのは自然な事。権力を握っているのだから大いに批判にさらされてしかるべき立場にありますし、政治は結果ですから、どのような理由があろうが叩かれているのだからそれが結果であり自業自得です。しかしそこの問題ははっきり言えばどうでもいい話でもあるので、そこはすっ飛ばして問題の本質を書きます。
先ずこの問題で根本的な抜け落ちている点があります。この国の制度というか天皇制という制度というのは基本的に皇族には基本的人権や自由は認めていないという大前提が抜け落ちている。特に戦後のこの制度は天皇の人間宣言が根本にありながら、天皇を人間として認めていない。基本的人権が無いのだから人間扱いしていないという事です。
その状態で天皇のお体がどうのこうのという言い回しに国民までもが乗っかっている事の欺瞞性を全く自覚しちゃいない。これがまず鼻持ちならない風潮です。天皇の政治利用をどうたらこうたらいう前に最低限この事は認識しておく必要があります。
本当に天皇家の事を考えるのなら、天皇制なんていう制度は天皇の事を人間扱いしていないのだから止めた方がいいに決まっている。だけどおそらくその事には多くの人が反対するでしょう。伝統あるこの制度を壊す気か!的に吹き上がる人もきっと沢山いる。まあそうですね。4代も続いた(皮肉ですよ)伝統ある制度なんだから守った方がいいのかもしれませんし、そこまで天皇主義的に伝統云々を持ち出さなくとも、普通の国民感情的に天皇は天皇のままであった方がいいと思うという感じが普通の反応かもしれません。
しかし天皇は天皇のままである方がいいという反応は、即ち彼らを人間扱いしていないという事をまず自覚した方がいい。天皇制と言う仕組みを敬い支持しているのであって、天皇家の人々を敬ってのものではない。どんなに敬いの言葉で誤摩化しても、その事は大前提であり、それは全国民が加担もしている。彼らの人間宣言を受け入れていながら、人間として扱おうとしていない。そういう欺瞞の上に成り立っているのが現在の天皇制でもあるわけです。
そして天皇というのはどういう位置づけとして機能して来たのかを振り返ってみますと、天皇というのは常に革命の玉としてレジティマシーの調達装置として機能して来た。直近でわかりやすい所でいうと明治維新がそうでしょう。これも天皇を巡って正統性の奪い合いの果てに、薩長が天皇を担いで錦旗を掲げ官軍となって、賊軍となった幕府軍を蹴散らした。
そもそも徳川慶喜というのは筋金入りの尊王派ですから、まさか自分が朝敵にされるなんて思ってもいない。実際に孝明天皇からの信任も厚かったし。しかしその孝明天皇が死んじゃって(暗殺されちゃったという見方もある)、長州の大村虎之介が明治天皇の替え玉となりなんて説もありますが、いずれにせよ天皇を薩長が握って正統性を得る事が出来た。幕府軍はそもそも尊王を掲げて戦っていたのに、いつの間にか天皇に歯向かう朝敵、賊軍とされてしまったかのだから、あっという間に形勢逆転して負けちゃったというか負けを認めてしまった。というのが明治維新の単純な流れですけれど、この時に時代を動かした官軍の連中というのは尊王思想を掲げていたけれど、天皇の事を尊敬なんてしちゃいなかった。
しかしその明治維新によって時代が変革し、その時に設計された天皇制度が今の我々が伝統だと思っている天皇制度であるわけで、はっきり言えば、この時に作られた天皇制というのは過去の日本の歴史や伝統の蓄積の上に作られた物でもなんでもなくて、近代化の為の中央集権国家を形成する為、各藩の村人でしかなかった人々を、国民化する為の装置として天皇制というのが確立される。伝統的な神道とその際に設計された国家神道とは全く別物ですし、そもそも天皇家自体が仏教徒だったのを無理矢理取り上げて止めさせている。本当に天皇を崇拝していたらそんな事は出来るわけがない。
戊辰戦争の際の会津の強烈な愛郷心に散々手こずった新政府軍は、西南戦争の際に西郷への忠誠心で結束した反政府軍に対しても散々手を焼く、会津や賊軍として痛めつけられた薩摩に恨みのある連中をこれにぶつけて打ち破るわけですが、会津の愛郷心や西郷への忠誠心などによって凄まじい力を発揮する団結力を参考にして、天皇を中心にした愛国心、そして天皇の臣民という国民化へのシステムを構築し、近代化のリソースとします。だから尊王思想がそのまま天皇制へと繋がっているわけでもない。我々武士は将軍家の家来ではない天皇の家来であって将軍だって天皇の家来に過ぎないという事で、将軍より上位の権威によって正統性を調達し、江戸時代の幕藩体制を脱臼させる事が出来る思想だから、当時の武士の間では尊王思想が流行っていましたけれど、天皇なんてそれまでこの国の多くの人々はそれほどちゃんと知らなかったわけですから。
むしろこの後、藩閥政治によって天皇を利用してやりたい放題にやっている薩長の連中に対して、西郷の志を受け継いだ人々が自由民権運動というのを始める。これが日本の右翼の始まりで、天皇陛下万歳とは全く関係がない。この時に天皇を私物化して国家を牛耳っている藩閥どもから、民衆の手によって民主主義を確立する為に、民衆為の天皇であるべしという意味で、右翼と天皇が結びつく。それが本来の意味での右翼的な天皇主義の根本にある。これが広がって行って民主主義と立憲君主制が確立されて、大正デモクラシーなんて習いますけれど、戦前の一時はある意味では今よりもまともなデモクラシーが作動するに至る。
これが昭和に入ると変わってくる。昭和恐慌によって不況がズルズルと続き、あげく世界恐慌によって経済はがたがたになる。その過程で、政治家達は何も手を打てずに時間だけを浪費する。今と全く同じ状況です。これに国民が嫌気をさし始める。民主主義という制度に絶望し始める。そしてその背景で軍部が力を強める。選挙で正統性を得た政治家達よりも、軍人達に任せた方が上手く行くのではないか?という風潮もあって、軍部や官僚が天皇制を利用し始める。マスコミがそれを翼賛し、国民もそれを支持していたわけだから、国民に支持される政治家も次第にその翼賛体制に異議を唱えなくなる。
政治家が天皇主義を掲げ政治利用している段階であれば、政治家というのは選挙で選ばれた人間ですから、それがどんなに愚かな政治利用に見え、どんなに政治家達の私利私欲の為に利用しているように見えたとしても、選挙によって落とす事が出来るのだから民権の為の天皇という意味では十分機能しているので問題は無い。だけど元々民権の為の天皇主義が、民意によってふるいにかける事の出来ない軍部や役人達に奪われて利用されてしまう。民権ではなく国家主義的な意味での天皇となってしまう。その事をマスコミが翼賛し国民も支持をした。そして後戻り不能の泥沼の戦争に突っ走ったわけです。
このときの教訓をふまえるのなら、民主制で選ばれた政治家達が天皇を掲げているうちは、例えばそこに政治利用があったりすれば、選挙によって引きずりおろせば済む話ですが、これを役人が利用し始めると暴走を始めてしまう。ましてその事をチェックするマスコミが翼賛し、国民までもが支持していたのでは民主主義など機能するわけがない。
さてそれが戦後どうなっているのかと言えば、建前上は天皇の政治利用はけしからんという事になっているし、出来ないというコンセンサスがある。しかし実質的には政治利用はされて来た。ただ役人と政治家が一枚岩だったからその事が可視化出来なかった。
実態は完璧に外務省や宮内庁の役人の権益として天皇制は利用(必ずしも悪用という意味ではありませんよ。利用です。)されている。宮内庁長官というのは代々役人の天下りポストのようなもんです(繰り返しますが、天下り=悪と書きたいわけじゃありませんよ念のため)。基本的に政権交代もほぼ起こらずに自民党の独裁体制でそういう状態であったわけですから、天皇を役人が利用して政治家をコントロールするツールとして機能して来たし、政治家も役人の権益護持に加担し、基本的に役人にお任せだったので、そこに何の軋轢も生じる事は無かった。それが戦後のこの国の仕組みだった。
しかし今回政権交代が起こったらこういう問題が表面化し、マスコミが役人のリークを垂れ流し、「天皇のお体」という理由に加担して、与党の政治家を攻撃している。多くの国民もそこに乗っかって政治家批判をしている。これがどういう意味を持つのか?
天皇の政治利用が戦前の暴走を生み出した。だから戦後は天皇の政治利用というのは基本的に出来ないようになっているはず、政治家が天皇を政治利用するなどけしからん、戦前を繰り返す気か!という批判がありますが、こういった批判は歴史を何もわかっちゃいない。戦前天皇を政治利用して暴走させたのは軍部や役人です。戦前の政治家も愚かな、天皇の政治利用や、天皇を掲げながら私利私欲しか頭に無い政治家達も沢山いた。だけど政治家が天皇を掲げて自らの正統性を主張している段階では、この国は立派に民主主義が機能していた。
だけど不況と政治家達の愚かに見える権力闘争に嫌気がさした国民が、軍部や役人が掲げる天皇主義の方を支持し始める。その先頭で旗を振っていたのはマスコミです。朝日、毎日、読売と今でもその連中は残っている。同じように役人のケツをなめ自らの利権温存の為に捏造と歪曲で報道を私物化し国民を煽動している。天皇の政治利用が暴走したのはそこからであって、政治家が政治利用したからそうなったのではない。政治家が政治利用している状態であれば民権が機能しているわけだから問題は無い。民権が届かないレベルで政治利用され始めたら誰もブレーキを踏めなくなる。民権が届かないレベルで政治利用される事をマスコミも国民も望んだ。だからその民意によって選ばれる政治家も、次第に軍部や役人の天皇主義に逆らわなくなる。それが翼賛体制を生み出して暴走したわけです。
あの政治家は天皇を私物化しているけしからん!!と誰が言っているのか?この事に敏感になる必要がある。戦前もそうやってバカマスコミが旗を振って、軍部や役人が政治家を攻撃し、それを民意が支持しているもんだからその尻馬に乗っかって権力闘争に利用していた政治家がいっぱいいた。
政治家が政治利用しているという事、例えば小沢が政治利用したと叩かれておりますけれど、それが適切だったか不適切だったかは脇に置いておいて、それが国民によってジャッジにさらされている状態であれば何の問題も無い。仮に愚かな振る舞いであるのであればそれが見えているという事が最大の価値であって、それを忘れてはならない。小沢を独裁と叩いている人がいっぱいいますけれど、叩けて選挙によって引きずりおろす手段が国民にあるのだから、その手段が我々にあるうちはたいした問題ではない。だいたい選挙で選んだのは他ならぬ国民自身なんですから。
憲法で規定されているのは、天皇の国事行為は国民が選んだ議員が選んだ内閣の助言と承認によって行われるとなっているけれど、正確に言えば、外国の大使及び公使を接受する事が国事行為であって、国家元首やまして中国の副主席と会う事は厳密に言うと国事行為以外の公的行為に当たるわけですが、これに対しては容認する意見もあるし、憲法7条第10号の「儀式を行ふこと」に該当するという考え方もあるし、そういう行為は憲法で認められていないという考え方もあるといったように解釈は分かれている。
この場合憲法というのはどのように運用されて来たのかが重要なので、先日のオバマ大統領なんかと会ったのもそうですし、そういった国事行為以外の公的行為をこれまで天皇は行って来ているわけだから、実質的運用においては事実上、国事行為以外の公的行為はこれまで普通に行われて来た。仮に憲法解釈を問題にするのだとしても、それはまた別の話であって、今回いきなりその事を問題にするのはおかしな話です。これを憲法違反だと言うのなら、一ヶ月ルールもクソも無く、国事行為以外の公的行為はいっさい認めないというなら話はわかるけれども、現にそれを認めて来ているわけだから、それが不適切であれば国民が選挙で判断すべき事です。
役人ごときが天皇を利用している状況をバカマスコミも結託し、それを国民も鵜呑みにして政治家批判をするならまだしも、役人を支持なんてしている。その尻馬に乗っかっているバカな政治家もいる。これは戦前と全く同じ状況です。軍部や役人が天皇を利用して暴走して行った図式と変わらない。軍部や官僚の意向に添った天皇主義以外は天皇主義と認めず、売国奴と排除し、非国民と分断する。そして出口の無い不況も同じ。政治家は国民の代表なんだから政治家が不適切に天皇を利用しているかどうかは国民が決めればいい事で、役人やそのケツをなめるバカマスコミなんぞが判断する事ではない。お門違いもいい所です。こんな事を許していたのでは戦前の二の舞になる。
今回、宮内庁長官が会見を開き、これを支持している人はいっぱいいるけれど、小沢はボロクソに批判されている。小沢を批判するのならそれは民意がチェックしているわけだから構わないのだけれど、同時に宮内庁長官も批判にさらすのが妥当でしょう。役人の分際でわきまえていない。どちらが正しいかではない。どちらにも問題がある。小沢を批判してぶった斬ったその同じ刀で、宮内庁長官も斬り捨て、その尻馬に乗っかって面白おかしく無責任に報じているバカメディアも同時に叩き斬る。ましてこれ幸いとばかりに安倍晋三のようにこれを政治的な権力闘争に利用するような輩は滅多斬りの八つ裂きに批判してこそ、この問題の妥当な批判と呼べるでしょう。
今回の宮内庁長官の言っている事自体はまあわからないでも無いし、あの人自体に悪気は無く宮内庁長官として、本当に「天皇のお体」を心配しての事なのかもしれないけれど、だとしてもです。というか尚更です。だったらなんで政府の申し出をあくまでも突っぱねなかったんだ?という事で、どうしても「天皇のお体」を思うのであれば断固として突っぱねて、自ら腹を切ってでもそういう事は認めるわけには行かないと言い通すのがスジってもんです。職を辞して外から好きなだけ批判して小沢の政治利用を牽制すればよかったはず。
それを役職にしがみつき結局は政府の方針にしたがって、実際天皇は副主席と会ったのだから結局何とかなっている。政治家の天皇の政治利用なんかよりも、役人の天皇の政治利用の方が数百倍危険です。実際それで泥沼の戦争を経験し、原爆まで落とされている。にもかかわらずその事を認識出来ていないバカが沢山いる。
宮内庁長官が本当に政治利用に敏感であるのなら、役人の政治利用と言われかねない発言をしている事を自覚して、職を辞すべきであり、そうであれば彼は本当に「天皇のお体」を心配しての事なのだという事に説得力も出てくる。だけど彼は職を辞す気がないと言っている。という事はそれがどのような力学に利用されてしまうのか?彼がその事に敏感であるのなら、与党の政治家を批判している連中に対しても釘を刺す必要があるはずです。ですがそれをしていない。これだって立派に政治の権力闘争に天皇を利用している。そうならない為には本当に信念があるのなら職を辞めているはずです。
戦前この国が民権の為の天皇を捨て、国家の為の天皇を支持し始めたきっかけ、民主主義に絶望し、軍部や役人に期待し始めたきっかけも、最初の理念は間違っちゃいない正しい理念があった。要するにこの国の政治は腐っている。天皇を私物化し政局の道具に使っている。けしからんじゃないかと。青年将校達が5.15や2.26事件、昭和維新を目指して行動を始める。これは鎮圧されるのだけれど、その心意気を国民は支持したわけです。
しかしその心意気と国民の良心的な支持は翼賛体制に利用されてしまう。それが後戻り不能の泥沼の戦争に突っ走った原因です。最初はみんなそれがよい事だと思っていた事が思わぬ展開に絡めとられてしまう。民権の為の天皇が国権の天皇、亜細亜の天皇とだんだん話が大きくなってしまったのも、民権を守る為には外部からの圧力を先ずは突っぱねなきゃならない。だから民権の為には今は国権が必要である。国権を維持する為には亜細亜を帝国主義から解放しないと列強に包囲されてしまう。だから国権の為には今は亜細亜主義だという事になる。だけどそのすべての基本は民権にあったはずで、亜細亜諸国の民権もそれによって守る事が出来るはずだという理念だった。それぞれの国の民衆が自分達の国をどういう風に操縦しようがそれは自由。だけど列強の脅威にさらされている現在、それは不可能。だから当初の大東亜共栄圏という思想もそういう理念があった。しかし理念は失われ手段が目的化してしまう。
今回の政治家の天皇の政治利用が不適切であったとしても、そんな事はたいした問題じゃないし、実際にこれだけ騒がれたのだから何の問題も無い。そしてそれは国民が選挙で意思表示をすれば済む事です。それを宮内庁長官や民意の尻馬に乗っかって、小沢を売国奴と批判している安倍晋三のようなクズが騒いでいる事の方がよっぽど問題です。お前も政治利用してんじゃねえかよって話です。まさかこのバカがもう一度人気を得るという事は無いと思いたい所ですが。
断っておきますが、戦前のある時期から出て来た天皇陛下万歳の国粋主義者に利用された天皇主義や最近のバカ右翼が騒いでいる天皇主義にはクソの価値もないと思いますけれど、自分は本来的な意味での天皇主義という意味(本来の右翼的な民権の為の天皇であるべしという意味)でも、三島由紀夫的な徹底した近代主義者であるが故に天皇主義者であるような考え方も(近代をドライブさせる必要条件としてプロテスタンティズムの予定説が必要不可欠です。この国の天皇制というのは、その神の代替装置として機能した、神の前での平等ならぬ天皇の前での平等によってこの国は近代化を遂げたわけです。戦後の再近代化がことごとく問題だらけなのは、予定説の神の変わりになる物が無い状態で無理矢理ドライブさせている事に原因がある。だから三島は天皇が人間宣言した事を嘆いている。天皇は現人神であってくれないと日本の近代は駆動しないからです。)肯定したいタイプの人間です。
繰り返しますが革命の玉として天皇というのはこの国ではずっと機能して来た。したがってそれを完璧に国家が囲っている状況ではせいぜい政権交代が起こるくらいの事はあったとしても、国家が覆される可能性は無い。国家はあくまで国民の為のもの、国民生活をないがしろにしているような国家など認める必要は無い。憲法の前文できちんと示されている事でもある。したがってそういう意味でも天皇が人間宣言してしまった事は残念に思うし、その革命の玉を握ってせめぎ合いが起こる可能性が無いという状況こそが、立憲主義や民主主義が機能しない最大の原因です。この制度をドライブさせる為の必要条件には抵抗権としての革命権が不可欠だからです。それがあってこそ初めて統治権力に緊張感も生まれる。ある日、国家権力として権力を行使していた側が、天皇を革命勢力が手にする事によって、いきなり朝敵となり、革命を起こす側にこそ正統性があるとひっくり返る可能性があるという事は重要な牽制の機能になる。それが無いから腐敗もするし緊張感も無い。そういう意味でも天皇主義は肯定したい人間ですし、天皇の戦争責任とか騒いでいるバカ共にはムカつく類いの人間です。戦前の日本は立憲君主国ですから天皇に戦争責任などあるわけも無い。
だけど同時にそういう風に思うという事は天皇というシステムは肯定しているけれど、天皇を人間だとは思っていない事と同義であるという事も自覚しておりますので、今の時代にそういう天皇主義が復活する見込みはゼロだと思っていますから、天皇システムが壊れている以上、今の天皇制度自体を維持する事には何のコミットメントも持てない。人間として解放してあげたらいいじゃないかとも思ってしまう。生まれた瞬間から基本的人権や自由を一切合切剥奪されて、さらし者にされている状態はあまりにも惨過ぎる。天皇のお体云々なんて事を心配するのなら、一刻も早くこんな制度は止めちまった方がいいとさえ思っています。
しかし実際そうは言ってもそういう風にはならないだろうし、従来の意味での天皇システムは機能する事ももはや無いでしょう。国家が天皇を囲い、自由も基本的人権も剥奪したまま虐待を続けて行くのだろうと思う。だから出来る事なら負担は軽くした方がいいに決まっているし、政治利用なんてするべきではない。
そういった前提をふまえて今回の騒動を見て行くと、確かにこの問題は政治利用しているように見える、実際外交のカードとして利用しているのは間違いない。が、完璧に政治利用を排するという事は事実上不可能であり、それをするなら天皇制を廃止しないと出来ない。だから天皇制を廃止しない以上、必ず政治的に利用はされてしまうでしょう。実際今の段階でもすでに民主党だけでなく、野党も官僚もマスコミも国民までも、天皇を権力闘争に引きずり出している。
だけどそれが国民のコントロール可能な領域にある分には何の問題も無い。政治家の政治利用が不適切だと思えばそれを選挙に反映させれば済むからです。しかし役人が政治家をコントロールする為の手段として利用するなど論外です。それがこの国の最大の問題でもある。役人を辞めて外から政権批判をするのならいっこうに構わないけれど、役人が勝手にそういう振る舞いをするという事は遥かに危険な兆候です。それを翼賛しているのだから尚更。
今回の宮内庁長官には悪気は無く、仮に天皇のお体をただただ心配しての事であったとしても、それを利用する連中がいっぱい出て来てしまう。それは非常に危険なものです。野党の政治家が騒いでいるくらいならまだいい。そういうバカは選挙で落とせばいいからです。だけど役人とそういう政治家とバカマスコミが結託して天皇を政治利用しながらアンタッチャブルな存在へと祭り上げるような力学が動き始め、国民がそれを支持し始めるようになったりすると、それはもうどうにもならない。お終いです。今回の一件ではそれが見え始めている。その事に敏感になるべきでしょう。
これはメッセージとしては中国に対しては特例を認めたという意志を示す事になり、それは即ち、中国のプレゼンスが強まっている現在、中国に言われたら要求を飲まないわけにはいかないという事を示してもいる。それが気に食わない人も多いのかもしれませんけれど、実際問題事実として中国のプレゼンスは無視出来なくなっているわけだから、衰退国家の末路としてはそういう隣国をないがしろにするわけには行かないに決まっているわけで、息巻いて吹き上がっても解決出来ない。周到な外交が必要でしょう。アメリカが今後日本の製造業のお得意さんとして復活する見込みは低いのですから、中国の爆発的な消費の伸びが日本経済の命運を握ってもいるわけです。
それはアメリカも同じです。中国がいかに国債を買ってくれるのかがアメリカの命運を握っている。すでにアメリカと中国はガッチリ手を握っているし、対中国の国防を考えた時に、アメリカには何も期待出来ない。仮に中国が日本に核ミサイルを撃ったとしても、アメリカは絶対に撃ち返さないし、日本を守る事なんてあり得ない。実際にそういう風にガイドラインで決まっているという事を脇に置いても、日本と中国をはかりにかければどちらがプライオリティが高いのかは言うまでもないでしょう。それは相手が北朝鮮であっても同じです。背後に中国がいる以上、アメリカの国益にとっては日本も重要だけれど、日本と中国をはかりにかければどちらを優先するか言うまでもない。もちろんアメリカにとっては現時点では日本も大事なパートナーである事には違いないのだから、別にその事を悲観する必要は無くて、中国とも上手く外交して行けばいい。その為の一手として納得出来なければ選挙で意思表示をすればいい。
そしてこれはアメリカへのメッセージにもなりうる。対米依存を少し弱めてアジア外交にシフトしているという風に見えるでしょう。実際に普天間問題で軋轢が生じているとバカマスコミがほざいている現在(これも嘘がいっぱい混じってますけれど)、そういうメッセージに取られても仕方ない。これもやっぱり外交の一手としてマズいと思えば選挙で反映させればいい。
しかしそんな事は別にしらばっくれて、中国との友好上必要なのでそういう措置にしたと言えば、それ以上問題にはならない話であるわけで、これを大騒ぎする事によって生じる副作用の方が何倍も問題です。大騒ぎしてしまうとこれが余計政治問題となってしまう。余計に中国にもアメリカにもメッセージとして機能し、外交のカードとして機能してしまう。国内の軋轢に付け込まれる隙を見せる事にもなる。そういう事を役人は必ず権益に変えて利用しようとする。前大戦だってそれが暴走を引き起こしてもいる。
今のこの問題に対する反応は前大戦の教訓を全く生かしていない。政治家が政治利用する事なんてのはたいした問題ではない。それを批判する力学こそ、前大戦の最大の失敗の始まりであるという事を自覚する必要があるでしょう。多分多くの人はその事を自覚していない。そこに乗っかってしまっている。それは善意かもしれませんけれど、だからこそ危機的な状況にあると言えます。その事に気付く事が出来なければ、もはや痛みを味わうまでどうにもならないかもしれない。手遅れだと言う事でしょう。本日はこれにて。
早くも公約が怪しくなって来ました。マニフェストの公約というのは4年間でやれれば、まあそれはそれで構わないと言えば構わないので、いきなり税収も落ち込んでいるわけなので、出来ないものがあるのは予算を組む時間を考えればしょうがない部分はあります。だから今回の予算では実行出来ない公約があるというくらいならまだ許せますけれど、公約の理念をねじ曲げているものには牽制する必要があるでしょう。子供手当の所得制限という話が出て来ている。これを本気でやるつもりなら子供手当の理念が変わってしまう。所得制限なんか設けるなら止めた方がいい。
子供手当というのは貧困対策ではない。貧困対策なら、子供がいるいないに関わらず所得制限を設けて収入が低くて生活に困窮しているすべての国民に給付するべきです。子供がいる貧困家庭だけ救済するというのは不公平だし、何しろ子供手当の理念からかけ離れてしまう。
なぜ所得制限を設けると理念とかけ離れてしまうのかというと、所得制限なんて設けると無駄にコストがかかるという大前提を脇に置いて書きますが、貧しい家庭の子供も裕福な家庭の子供も、日本の社会が負担して育てるという、子供は親だけが抱え込むのではなく、社会が育むという理念とは無関係な代物になってしまうからです。
現在の日本社会というのは親が子供を抱え込み、学校の先生といえども余計な口は挟めない。まして子供がどのような振る舞いをしていようが、社会の大人達は他人の家庭の子供だからという理由で、見てみない振りをするというか、何か口を挟もうものなら厄介事に巻き込まれそうな風潮が支配している。これはヘタをすると身内の親戚の子供であってもそういう場合があったりする。近所のおっちゃんにぶっ飛ばされるとか、親もろとも怒鳴りつけられるとか、そういう事は皆無になり、むしろそういう事をやった方が悪いような社会になっているのが現在です。
もちろん昔みたいに近所のオヤジが人の子供にげんこつするとか、暴力を振るってしかりとばすとか、ダメ親を子供共々説教するとかまでやる必要は無いだろうけれど、今のような無関心な社会のままで社会の問題を考えても、空洞化しているのだから無意味にしかならない。空洞化してしまった社会を再構築するための、大人は子供達に責任を持ち、子供は大人達に感謝するという最低限の相互扶助の為の政策であったはずです。これが無いから世代間の分断統治が機能してしまう。
エネルギー資源も無く、土地の狭いこの国がここまで成長出来たのは技術力を裏付ける人材力があったからに他なりません。子供というのは次世代を担う人的資源ですから、他人の子供は関係ないという風潮は普通の先進国の基準で考えればあり得ない無責任さだと思う。そして社会に対して子供が迷惑をかけているのに、それに対して何か言おうものなら、他人にとやかく言われる筋合いではない、俺の子供をどう育てようが俺の勝手だ、と言う親も増えている。ダメなものはダメだと社会全体で教育出来るようにする為には、親が全責任を負って育てているのだから他人が口を挟むなという状況を変えなきゃならない。
これを道徳や教育を叫んで自民党や保守の連中はやろうとするわけですが、道徳や教育の中身に国家があれこれ関与するのは、本当は政治がやるべき事ではない。道徳や教育を社会全体で行えるような枠組みを構築するのが政治の仕事です。子供を社会が育てているという認識に変われば他人の子供であるから関係ないという風潮をかえられるし、親も社会の声を無視するわけには行かなくなる。
子供にしても親だけでなく、社会に育ててもらったという事になれば、その恩返しをするのは自然な事だと思えるようになるでしょう。現在のように自分の事しか考えず、逃げ切る事しか頭に無い大人達を見て成長すれば社会へのコミットメントなんて生まれるわけが無い。成功をおさめたとしても自分一人の力で達成したと思い込まずに済むようになる。社会へ還元する事が責務だと言っても説得力がある。そういう精神がNPOなんかを活発化させる事に繋がる。市民が社会へとコミットメントし、社会が個人を支えるような分厚い市民社会。
そういう一番根幹にあった理念が所得制限なんか設けてしまうと無くなってしまう。所得の格差を是正するなら累進制をきつくして取るべきで、裕福な家庭の子供も貧しい家庭の子供であっても社会がバックアップして育てるという子供手当のそもそもの意義をぶちこわしにしかねない。
財源が足りないというならば、来年以降に先延ばしにすればいい。いったん所得制限を設けての子供手当なんていうスキームが出来てしまったら、それを変える事が今度は難しくなりかねない。だいたい貧困対策としてなら、なぜ子供のいる家庭だけなのか?不公平であるし、子供がいなくたって生活に困窮している人はいっぱいいるわけです。
だからこの問題は公約違反云々の批判というだけでは足りない。政権を担当している間に最悪でも公約がはたされれば公約違反にはならないからです。だけど公約の理念が変わってしまっているものを形だけ整えて無理矢理実行しようとしているポピュリズム戦略こそが問題で、子育て支援の意義が失われてしまうようなものを単に貧困対策のバラマキとして行うのなら、それを止めるか、子供がいなくとも貧しい家庭に配れと言うのが批判のスジってもんでしょう。
高校の無償化は所得制限を設けないとの事なので、ただ単に財源が足りないという問題だけではないでしょう。所得制限を設けよ!!というプレッシャーに場当たり的に答えて人気取りに走っているように見える。所得制限を設けるなら高校の無償化にも設けりゃいい。そうすりゃ財源も浮くのだから。だけどそれを半分だけ所得制限を設け、半分所得制限を設けないなんてのは理念もクソも無い妥協の産物に他ならない。選挙対策の弥縫策に過ぎず、そういう下らないポピュリズム的な政策を打つのならやらない方がマシです。そんな事をしていたのでは民主党の自滅も時間の問題でしょう。
個人的な意見を言えば、高校の無償化はどちらかと言えば賛成出来ない政策でもある。義務教育に対して子供手当なり無償化なりすれば、そこから先は完全に能力によって徹底的にふるいにかけて、親の収入とは無関係に優秀な人間だけ優遇して無料で教育を受けさせればいい。大学に行く際も同じように更にその中から選別して大学教育を受けさせればいい。そうすれば無駄な学費に金をかける必要も無くなるわけだから、無駄な高校や大学はすべて淘汰出来る。本当に学力の優秀な人間だけが教育を受ける事が出来、教師も優秀な人間以外は不必要になる。バカに学問を強要するのは時間の無駄です。
人口が減って行くのだから、学力的に才能の無い人間は中学卒業と同時に社会に出して実際に職の訓練を受けてしまった方が、バカな大学出の無能な人間をそれなりの給料で雇うよりは初任給を押さえる事が出来るし、何しろ大卒と同じ年齢になるまでにはいっぱしの社会人として教育する事も出来る。その方がよっぽど実戦では役に立つ人間になるでしょう。学力的には劣っていても、それがその人の全人格を決定するものでは決して無いわけだから、苦手なものに時間を割くよりも中学卒業と同時に実社会に出してしまって食って行く術を叩き込んだ方が役に立つ。早い段階でいっぱしの人間に成長出来れば、結婚して家庭を持つ年齢も若くなり、したがって子供も多く生みやすい環境が整うのだから増えやすくなる。
大学教育まで受ける事の出来た選ばれたエリート達は、国民の税金によってそこまで教育を受けるわけだから、それをきちんと社会に還元するように徹底的に教育する。それがエリートへのリスペクトへと繋がり、エリートはエリートの役割を、学歴ではエリートになれないとしても専門分野のスペシャリティを持った中卒には中卒の役割を、それぞれが担って行く事によって社会が回るようにした方が効率がいいように思う。下らない平等主義よりはよっぽどスッキリするように思うのです。
とまあ常識人からは怒られそうな個人的な見解は脇において、子供手当を所得制限を設けて、高校無償化を所得制限を設けないという政策には、何の理念も見えて来ない。ただ単に金が足りないというだけなら、そんな理念もクソも無い政策を打つ前に他に金を回した方がいい。貧困対策なり景気対策なり、暫定税率廃止なり、いくらでも使い道はあるはずですから。
というように巷の民主党批判やバカマスコミの報道は的を射ておらず、チェックとして機能していない。特に酷いのは直近の話題ですと天皇問題でしょうか?政治利用?実にバカバカしい反応です。
小沢がこの問題で叩かれている事自体は、大いに結構な事だと思う。天皇を政治利用したか否か、世論やマスコミの反応が適切かどうか、それらは多くの人がいろいろ書いているし、実はたいした問題じゃないので、ここでは脇に置いて書きますけれど、彼は与党の政治家でしかも幹事長であり、闇将軍と揶揄されている存在でもあるわけだから、何かを発言すればそれにレスポンスがかえってくるのは自然な事。権力を握っているのだから大いに批判にさらされてしかるべき立場にありますし、政治は結果ですから、どのような理由があろうが叩かれているのだからそれが結果であり自業自得です。しかしそこの問題ははっきり言えばどうでもいい話でもあるので、そこはすっ飛ばして問題の本質を書きます。
先ずこの問題で根本的な抜け落ちている点があります。この国の制度というか天皇制という制度というのは基本的に皇族には基本的人権や自由は認めていないという大前提が抜け落ちている。特に戦後のこの制度は天皇の人間宣言が根本にありながら、天皇を人間として認めていない。基本的人権が無いのだから人間扱いしていないという事です。
その状態で天皇のお体がどうのこうのという言い回しに国民までもが乗っかっている事の欺瞞性を全く自覚しちゃいない。これがまず鼻持ちならない風潮です。天皇の政治利用をどうたらこうたらいう前に最低限この事は認識しておく必要があります。
本当に天皇家の事を考えるのなら、天皇制なんていう制度は天皇の事を人間扱いしていないのだから止めた方がいいに決まっている。だけどおそらくその事には多くの人が反対するでしょう。伝統あるこの制度を壊す気か!的に吹き上がる人もきっと沢山いる。まあそうですね。4代も続いた(皮肉ですよ)伝統ある制度なんだから守った方がいいのかもしれませんし、そこまで天皇主義的に伝統云々を持ち出さなくとも、普通の国民感情的に天皇は天皇のままであった方がいいと思うという感じが普通の反応かもしれません。
しかし天皇は天皇のままである方がいいという反応は、即ち彼らを人間扱いしていないという事をまず自覚した方がいい。天皇制と言う仕組みを敬い支持しているのであって、天皇家の人々を敬ってのものではない。どんなに敬いの言葉で誤摩化しても、その事は大前提であり、それは全国民が加担もしている。彼らの人間宣言を受け入れていながら、人間として扱おうとしていない。そういう欺瞞の上に成り立っているのが現在の天皇制でもあるわけです。
そして天皇というのはどういう位置づけとして機能して来たのかを振り返ってみますと、天皇というのは常に革命の玉としてレジティマシーの調達装置として機能して来た。直近でわかりやすい所でいうと明治維新がそうでしょう。これも天皇を巡って正統性の奪い合いの果てに、薩長が天皇を担いで錦旗を掲げ官軍となって、賊軍となった幕府軍を蹴散らした。
そもそも徳川慶喜というのは筋金入りの尊王派ですから、まさか自分が朝敵にされるなんて思ってもいない。実際に孝明天皇からの信任も厚かったし。しかしその孝明天皇が死んじゃって(暗殺されちゃったという見方もある)、長州の大村虎之介が明治天皇の替え玉となりなんて説もありますが、いずれにせよ天皇を薩長が握って正統性を得る事が出来た。幕府軍はそもそも尊王を掲げて戦っていたのに、いつの間にか天皇に歯向かう朝敵、賊軍とされてしまったかのだから、あっという間に形勢逆転して負けちゃったというか負けを認めてしまった。というのが明治維新の単純な流れですけれど、この時に時代を動かした官軍の連中というのは尊王思想を掲げていたけれど、天皇の事を尊敬なんてしちゃいなかった。
しかしその明治維新によって時代が変革し、その時に設計された天皇制度が今の我々が伝統だと思っている天皇制度であるわけで、はっきり言えば、この時に作られた天皇制というのは過去の日本の歴史や伝統の蓄積の上に作られた物でもなんでもなくて、近代化の為の中央集権国家を形成する為、各藩の村人でしかなかった人々を、国民化する為の装置として天皇制というのが確立される。伝統的な神道とその際に設計された国家神道とは全く別物ですし、そもそも天皇家自体が仏教徒だったのを無理矢理取り上げて止めさせている。本当に天皇を崇拝していたらそんな事は出来るわけがない。
戊辰戦争の際の会津の強烈な愛郷心に散々手こずった新政府軍は、西南戦争の際に西郷への忠誠心で結束した反政府軍に対しても散々手を焼く、会津や賊軍として痛めつけられた薩摩に恨みのある連中をこれにぶつけて打ち破るわけですが、会津の愛郷心や西郷への忠誠心などによって凄まじい力を発揮する団結力を参考にして、天皇を中心にした愛国心、そして天皇の臣民という国民化へのシステムを構築し、近代化のリソースとします。だから尊王思想がそのまま天皇制へと繋がっているわけでもない。我々武士は将軍家の家来ではない天皇の家来であって将軍だって天皇の家来に過ぎないという事で、将軍より上位の権威によって正統性を調達し、江戸時代の幕藩体制を脱臼させる事が出来る思想だから、当時の武士の間では尊王思想が流行っていましたけれど、天皇なんてそれまでこの国の多くの人々はそれほどちゃんと知らなかったわけですから。
むしろこの後、藩閥政治によって天皇を利用してやりたい放題にやっている薩長の連中に対して、西郷の志を受け継いだ人々が自由民権運動というのを始める。これが日本の右翼の始まりで、天皇陛下万歳とは全く関係がない。この時に天皇を私物化して国家を牛耳っている藩閥どもから、民衆の手によって民主主義を確立する為に、民衆為の天皇であるべしという意味で、右翼と天皇が結びつく。それが本来の意味での右翼的な天皇主義の根本にある。これが広がって行って民主主義と立憲君主制が確立されて、大正デモクラシーなんて習いますけれど、戦前の一時はある意味では今よりもまともなデモクラシーが作動するに至る。
これが昭和に入ると変わってくる。昭和恐慌によって不況がズルズルと続き、あげく世界恐慌によって経済はがたがたになる。その過程で、政治家達は何も手を打てずに時間だけを浪費する。今と全く同じ状況です。これに国民が嫌気をさし始める。民主主義という制度に絶望し始める。そしてその背景で軍部が力を強める。選挙で正統性を得た政治家達よりも、軍人達に任せた方が上手く行くのではないか?という風潮もあって、軍部や官僚が天皇制を利用し始める。マスコミがそれを翼賛し、国民もそれを支持していたわけだから、国民に支持される政治家も次第にその翼賛体制に異議を唱えなくなる。
政治家が天皇主義を掲げ政治利用している段階であれば、政治家というのは選挙で選ばれた人間ですから、それがどんなに愚かな政治利用に見え、どんなに政治家達の私利私欲の為に利用しているように見えたとしても、選挙によって落とす事が出来るのだから民権の為の天皇という意味では十分機能しているので問題は無い。だけど元々民権の為の天皇主義が、民意によってふるいにかける事の出来ない軍部や役人達に奪われて利用されてしまう。民権ではなく国家主義的な意味での天皇となってしまう。その事をマスコミが翼賛し国民も支持をした。そして後戻り不能の泥沼の戦争に突っ走ったわけです。
このときの教訓をふまえるのなら、民主制で選ばれた政治家達が天皇を掲げているうちは、例えばそこに政治利用があったりすれば、選挙によって引きずりおろせば済む話ですが、これを役人が利用し始めると暴走を始めてしまう。ましてその事をチェックするマスコミが翼賛し、国民までもが支持していたのでは民主主義など機能するわけがない。
さてそれが戦後どうなっているのかと言えば、建前上は天皇の政治利用はけしからんという事になっているし、出来ないというコンセンサスがある。しかし実質的には政治利用はされて来た。ただ役人と政治家が一枚岩だったからその事が可視化出来なかった。
実態は完璧に外務省や宮内庁の役人の権益として天皇制は利用(必ずしも悪用という意味ではありませんよ。利用です。)されている。宮内庁長官というのは代々役人の天下りポストのようなもんです(繰り返しますが、天下り=悪と書きたいわけじゃありませんよ念のため)。基本的に政権交代もほぼ起こらずに自民党の独裁体制でそういう状態であったわけですから、天皇を役人が利用して政治家をコントロールするツールとして機能して来たし、政治家も役人の権益護持に加担し、基本的に役人にお任せだったので、そこに何の軋轢も生じる事は無かった。それが戦後のこの国の仕組みだった。
しかし今回政権交代が起こったらこういう問題が表面化し、マスコミが役人のリークを垂れ流し、「天皇のお体」という理由に加担して、与党の政治家を攻撃している。多くの国民もそこに乗っかって政治家批判をしている。これがどういう意味を持つのか?
天皇の政治利用が戦前の暴走を生み出した。だから戦後は天皇の政治利用というのは基本的に出来ないようになっているはず、政治家が天皇を政治利用するなどけしからん、戦前を繰り返す気か!という批判がありますが、こういった批判は歴史を何もわかっちゃいない。戦前天皇を政治利用して暴走させたのは軍部や役人です。戦前の政治家も愚かな、天皇の政治利用や、天皇を掲げながら私利私欲しか頭に無い政治家達も沢山いた。だけど政治家が天皇を掲げて自らの正統性を主張している段階では、この国は立派に民主主義が機能していた。
だけど不況と政治家達の愚かに見える権力闘争に嫌気がさした国民が、軍部や役人が掲げる天皇主義の方を支持し始める。その先頭で旗を振っていたのはマスコミです。朝日、毎日、読売と今でもその連中は残っている。同じように役人のケツをなめ自らの利権温存の為に捏造と歪曲で報道を私物化し国民を煽動している。天皇の政治利用が暴走したのはそこからであって、政治家が政治利用したからそうなったのではない。政治家が政治利用している状態であれば民権が機能しているわけだから問題は無い。民権が届かないレベルで政治利用され始めたら誰もブレーキを踏めなくなる。民権が届かないレベルで政治利用される事をマスコミも国民も望んだ。だからその民意によって選ばれる政治家も、次第に軍部や役人の天皇主義に逆らわなくなる。それが翼賛体制を生み出して暴走したわけです。
あの政治家は天皇を私物化しているけしからん!!と誰が言っているのか?この事に敏感になる必要がある。戦前もそうやってバカマスコミが旗を振って、軍部や役人が政治家を攻撃し、それを民意が支持しているもんだからその尻馬に乗っかって権力闘争に利用していた政治家がいっぱいいた。
政治家が政治利用しているという事、例えば小沢が政治利用したと叩かれておりますけれど、それが適切だったか不適切だったかは脇に置いておいて、それが国民によってジャッジにさらされている状態であれば何の問題も無い。仮に愚かな振る舞いであるのであればそれが見えているという事が最大の価値であって、それを忘れてはならない。小沢を独裁と叩いている人がいっぱいいますけれど、叩けて選挙によって引きずりおろす手段が国民にあるのだから、その手段が我々にあるうちはたいした問題ではない。だいたい選挙で選んだのは他ならぬ国民自身なんですから。
憲法で規定されているのは、天皇の国事行為は国民が選んだ議員が選んだ内閣の助言と承認によって行われるとなっているけれど、正確に言えば、外国の大使及び公使を接受する事が国事行為であって、国家元首やまして中国の副主席と会う事は厳密に言うと国事行為以外の公的行為に当たるわけですが、これに対しては容認する意見もあるし、憲法7条第10号の「儀式を行ふこと」に該当するという考え方もあるし、そういう行為は憲法で認められていないという考え方もあるといったように解釈は分かれている。
この場合憲法というのはどのように運用されて来たのかが重要なので、先日のオバマ大統領なんかと会ったのもそうですし、そういった国事行為以外の公的行為をこれまで天皇は行って来ているわけだから、実質的運用においては事実上、国事行為以外の公的行為はこれまで普通に行われて来た。仮に憲法解釈を問題にするのだとしても、それはまた別の話であって、今回いきなりその事を問題にするのはおかしな話です。これを憲法違反だと言うのなら、一ヶ月ルールもクソも無く、国事行為以外の公的行為はいっさい認めないというなら話はわかるけれども、現にそれを認めて来ているわけだから、それが不適切であれば国民が選挙で判断すべき事です。
役人ごときが天皇を利用している状況をバカマスコミも結託し、それを国民も鵜呑みにして政治家批判をするならまだしも、役人を支持なんてしている。その尻馬に乗っかっているバカな政治家もいる。これは戦前と全く同じ状況です。軍部や役人が天皇を利用して暴走して行った図式と変わらない。軍部や官僚の意向に添った天皇主義以外は天皇主義と認めず、売国奴と排除し、非国民と分断する。そして出口の無い不況も同じ。政治家は国民の代表なんだから政治家が不適切に天皇を利用しているかどうかは国民が決めればいい事で、役人やそのケツをなめるバカマスコミなんぞが判断する事ではない。お門違いもいい所です。こんな事を許していたのでは戦前の二の舞になる。
今回、宮内庁長官が会見を開き、これを支持している人はいっぱいいるけれど、小沢はボロクソに批判されている。小沢を批判するのならそれは民意がチェックしているわけだから構わないのだけれど、同時に宮内庁長官も批判にさらすのが妥当でしょう。役人の分際でわきまえていない。どちらが正しいかではない。どちらにも問題がある。小沢を批判してぶった斬ったその同じ刀で、宮内庁長官も斬り捨て、その尻馬に乗っかって面白おかしく無責任に報じているバカメディアも同時に叩き斬る。ましてこれ幸いとばかりに安倍晋三のようにこれを政治的な権力闘争に利用するような輩は滅多斬りの八つ裂きに批判してこそ、この問題の妥当な批判と呼べるでしょう。
今回の宮内庁長官の言っている事自体はまあわからないでも無いし、あの人自体に悪気は無く宮内庁長官として、本当に「天皇のお体」を心配しての事なのかもしれないけれど、だとしてもです。というか尚更です。だったらなんで政府の申し出をあくまでも突っぱねなかったんだ?という事で、どうしても「天皇のお体」を思うのであれば断固として突っぱねて、自ら腹を切ってでもそういう事は認めるわけには行かないと言い通すのがスジってもんです。職を辞して外から好きなだけ批判して小沢の政治利用を牽制すればよかったはず。
それを役職にしがみつき結局は政府の方針にしたがって、実際天皇は副主席と会ったのだから結局何とかなっている。政治家の天皇の政治利用なんかよりも、役人の天皇の政治利用の方が数百倍危険です。実際それで泥沼の戦争を経験し、原爆まで落とされている。にもかかわらずその事を認識出来ていないバカが沢山いる。
宮内庁長官が本当に政治利用に敏感であるのなら、役人の政治利用と言われかねない発言をしている事を自覚して、職を辞すべきであり、そうであれば彼は本当に「天皇のお体」を心配しての事なのだという事に説得力も出てくる。だけど彼は職を辞す気がないと言っている。という事はそれがどのような力学に利用されてしまうのか?彼がその事に敏感であるのなら、与党の政治家を批判している連中に対しても釘を刺す必要があるはずです。ですがそれをしていない。これだって立派に政治の権力闘争に天皇を利用している。そうならない為には本当に信念があるのなら職を辞めているはずです。
戦前この国が民権の為の天皇を捨て、国家の為の天皇を支持し始めたきっかけ、民主主義に絶望し、軍部や役人に期待し始めたきっかけも、最初の理念は間違っちゃいない正しい理念があった。要するにこの国の政治は腐っている。天皇を私物化し政局の道具に使っている。けしからんじゃないかと。青年将校達が5.15や2.26事件、昭和維新を目指して行動を始める。これは鎮圧されるのだけれど、その心意気を国民は支持したわけです。
しかしその心意気と国民の良心的な支持は翼賛体制に利用されてしまう。それが後戻り不能の泥沼の戦争に突っ走った原因です。最初はみんなそれがよい事だと思っていた事が思わぬ展開に絡めとられてしまう。民権の為の天皇が国権の天皇、亜細亜の天皇とだんだん話が大きくなってしまったのも、民権を守る為には外部からの圧力を先ずは突っぱねなきゃならない。だから民権の為には今は国権が必要である。国権を維持する為には亜細亜を帝国主義から解放しないと列強に包囲されてしまう。だから国権の為には今は亜細亜主義だという事になる。だけどそのすべての基本は民権にあったはずで、亜細亜諸国の民権もそれによって守る事が出来るはずだという理念だった。それぞれの国の民衆が自分達の国をどういう風に操縦しようがそれは自由。だけど列強の脅威にさらされている現在、それは不可能。だから当初の大東亜共栄圏という思想もそういう理念があった。しかし理念は失われ手段が目的化してしまう。
今回の政治家の天皇の政治利用が不適切であったとしても、そんな事はたいした問題じゃないし、実際にこれだけ騒がれたのだから何の問題も無い。そしてそれは国民が選挙で意思表示をすれば済む事です。それを宮内庁長官や民意の尻馬に乗っかって、小沢を売国奴と批判している安倍晋三のようなクズが騒いでいる事の方がよっぽど問題です。お前も政治利用してんじゃねえかよって話です。まさかこのバカがもう一度人気を得るという事は無いと思いたい所ですが。
断っておきますが、戦前のある時期から出て来た天皇陛下万歳の国粋主義者に利用された天皇主義や最近のバカ右翼が騒いでいる天皇主義にはクソの価値もないと思いますけれど、自分は本来的な意味での天皇主義という意味(本来の右翼的な民権の為の天皇であるべしという意味)でも、三島由紀夫的な徹底した近代主義者であるが故に天皇主義者であるような考え方も(近代をドライブさせる必要条件としてプロテスタンティズムの予定説が必要不可欠です。この国の天皇制というのは、その神の代替装置として機能した、神の前での平等ならぬ天皇の前での平等によってこの国は近代化を遂げたわけです。戦後の再近代化がことごとく問題だらけなのは、予定説の神の変わりになる物が無い状態で無理矢理ドライブさせている事に原因がある。だから三島は天皇が人間宣言した事を嘆いている。天皇は現人神であってくれないと日本の近代は駆動しないからです。)肯定したいタイプの人間です。
繰り返しますが革命の玉として天皇というのはこの国ではずっと機能して来た。したがってそれを完璧に国家が囲っている状況ではせいぜい政権交代が起こるくらいの事はあったとしても、国家が覆される可能性は無い。国家はあくまで国民の為のもの、国民生活をないがしろにしているような国家など認める必要は無い。憲法の前文できちんと示されている事でもある。したがってそういう意味でも天皇が人間宣言してしまった事は残念に思うし、その革命の玉を握ってせめぎ合いが起こる可能性が無いという状況こそが、立憲主義や民主主義が機能しない最大の原因です。この制度をドライブさせる為の必要条件には抵抗権としての革命権が不可欠だからです。それがあってこそ初めて統治権力に緊張感も生まれる。ある日、国家権力として権力を行使していた側が、天皇を革命勢力が手にする事によって、いきなり朝敵となり、革命を起こす側にこそ正統性があるとひっくり返る可能性があるという事は重要な牽制の機能になる。それが無いから腐敗もするし緊張感も無い。そういう意味でも天皇主義は肯定したい人間ですし、天皇の戦争責任とか騒いでいるバカ共にはムカつく類いの人間です。戦前の日本は立憲君主国ですから天皇に戦争責任などあるわけも無い。
だけど同時にそういう風に思うという事は天皇というシステムは肯定しているけれど、天皇を人間だとは思っていない事と同義であるという事も自覚しておりますので、今の時代にそういう天皇主義が復活する見込みはゼロだと思っていますから、天皇システムが壊れている以上、今の天皇制度自体を維持する事には何のコミットメントも持てない。人間として解放してあげたらいいじゃないかとも思ってしまう。生まれた瞬間から基本的人権や自由を一切合切剥奪されて、さらし者にされている状態はあまりにも惨過ぎる。天皇のお体云々なんて事を心配するのなら、一刻も早くこんな制度は止めちまった方がいいとさえ思っています。
しかし実際そうは言ってもそういう風にはならないだろうし、従来の意味での天皇システムは機能する事ももはや無いでしょう。国家が天皇を囲い、自由も基本的人権も剥奪したまま虐待を続けて行くのだろうと思う。だから出来る事なら負担は軽くした方がいいに決まっているし、政治利用なんてするべきではない。
そういった前提をふまえて今回の騒動を見て行くと、確かにこの問題は政治利用しているように見える、実際外交のカードとして利用しているのは間違いない。が、完璧に政治利用を排するという事は事実上不可能であり、それをするなら天皇制を廃止しないと出来ない。だから天皇制を廃止しない以上、必ず政治的に利用はされてしまうでしょう。実際今の段階でもすでに民主党だけでなく、野党も官僚もマスコミも国民までも、天皇を権力闘争に引きずり出している。
だけどそれが国民のコントロール可能な領域にある分には何の問題も無い。政治家の政治利用が不適切だと思えばそれを選挙に反映させれば済むからです。しかし役人が政治家をコントロールする為の手段として利用するなど論外です。それがこの国の最大の問題でもある。役人を辞めて外から政権批判をするのならいっこうに構わないけれど、役人が勝手にそういう振る舞いをするという事は遥かに危険な兆候です。それを翼賛しているのだから尚更。
今回の宮内庁長官には悪気は無く、仮に天皇のお体をただただ心配しての事であったとしても、それを利用する連中がいっぱい出て来てしまう。それは非常に危険なものです。野党の政治家が騒いでいるくらいならまだいい。そういうバカは選挙で落とせばいいからです。だけど役人とそういう政治家とバカマスコミが結託して天皇を政治利用しながらアンタッチャブルな存在へと祭り上げるような力学が動き始め、国民がそれを支持し始めるようになったりすると、それはもうどうにもならない。お終いです。今回の一件ではそれが見え始めている。その事に敏感になるべきでしょう。
これはメッセージとしては中国に対しては特例を認めたという意志を示す事になり、それは即ち、中国のプレゼンスが強まっている現在、中国に言われたら要求を飲まないわけにはいかないという事を示してもいる。それが気に食わない人も多いのかもしれませんけれど、実際問題事実として中国のプレゼンスは無視出来なくなっているわけだから、衰退国家の末路としてはそういう隣国をないがしろにするわけには行かないに決まっているわけで、息巻いて吹き上がっても解決出来ない。周到な外交が必要でしょう。アメリカが今後日本の製造業のお得意さんとして復活する見込みは低いのですから、中国の爆発的な消費の伸びが日本経済の命運を握ってもいるわけです。
それはアメリカも同じです。中国がいかに国債を買ってくれるのかがアメリカの命運を握っている。すでにアメリカと中国はガッチリ手を握っているし、対中国の国防を考えた時に、アメリカには何も期待出来ない。仮に中国が日本に核ミサイルを撃ったとしても、アメリカは絶対に撃ち返さないし、日本を守る事なんてあり得ない。実際にそういう風にガイドラインで決まっているという事を脇に置いても、日本と中国をはかりにかければどちらがプライオリティが高いのかは言うまでもないでしょう。それは相手が北朝鮮であっても同じです。背後に中国がいる以上、アメリカの国益にとっては日本も重要だけれど、日本と中国をはかりにかければどちらを優先するか言うまでもない。もちろんアメリカにとっては現時点では日本も大事なパートナーである事には違いないのだから、別にその事を悲観する必要は無くて、中国とも上手く外交して行けばいい。その為の一手として納得出来なければ選挙で意思表示をすればいい。
そしてこれはアメリカへのメッセージにもなりうる。対米依存を少し弱めてアジア外交にシフトしているという風に見えるでしょう。実際に普天間問題で軋轢が生じているとバカマスコミがほざいている現在(これも嘘がいっぱい混じってますけれど)、そういうメッセージに取られても仕方ない。これもやっぱり外交の一手としてマズいと思えば選挙で反映させればいい。
しかしそんな事は別にしらばっくれて、中国との友好上必要なのでそういう措置にしたと言えば、それ以上問題にはならない話であるわけで、これを大騒ぎする事によって生じる副作用の方が何倍も問題です。大騒ぎしてしまうとこれが余計政治問題となってしまう。余計に中国にもアメリカにもメッセージとして機能し、外交のカードとして機能してしまう。国内の軋轢に付け込まれる隙を見せる事にもなる。そういう事を役人は必ず権益に変えて利用しようとする。前大戦だってそれが暴走を引き起こしてもいる。
今のこの問題に対する反応は前大戦の教訓を全く生かしていない。政治家が政治利用する事なんてのはたいした問題ではない。それを批判する力学こそ、前大戦の最大の失敗の始まりであるという事を自覚する必要があるでしょう。多分多くの人はその事を自覚していない。そこに乗っかってしまっている。それは善意かもしれませんけれど、だからこそ危機的な状況にあると言えます。その事に気付く事が出来なければ、もはや痛みを味わうまでどうにもならないかもしれない。手遅れだと言う事でしょう。本日はこれにて。