さて、何を書いていたのか忘れそうですが、何しろ暇がないもんで、書く時は一気に書いて、毎日適当に区切ってアップするってパターンなのですが、ストックが切れて補充出来ないまま放置しておりました。なので何を書いていたのか思い出しながら続きを書こうと思います。

自分はそもそも民主党を結果的に支持しているので、マニフェストを実行しろと言っていますけれど、政権交代が起こる事が重要だと思っていたので、ここから先ははっきり言ってオマケのようなもんだと考えています。民主党がまともな舵取りが出来るなんてハナっから期待もしちゃいないし、政権交代が起こりうるという状態に持って行く事が出来れば、それだけで初期の目的は達成出来たと。なので本音を言えば、ここから先は別にどうでもいいといえばどうでもいいのです。ただ政権交代の為であるとは言え、民主党に一票入れてしまっているので、自分には責任がある。だからどうでもいいというわけにも行かないと思って、まああれこれ書いているわけです。

これはすでに書いている事ですが、自分は正直政策的なものにはあんまり興味がない。何をどうやろうともいずれ必ず失敗する。それなりにいい事もあるでしょうし、副作用は必ず生じる。失敗しているという事を転換出来る仕組みとして、政権交代によって牽制となり、後から吟味してチェック出来るように担保されている事が重要なのであって、恒久的に完璧な政策なんて打てるわけがないので、時間が経てばどの道何らかの問題が生じる事は避けられないと思う。だから民主党の政策的な部分に共感したから支持したわけでもなんでもないので、所謂世間一般の言い方としての、民主党の政策を指示したわけではない!!!というクリシェ的な批判も正直わからない事もないのです。

選択的夫婦別姓とか、外国人参政権とか、まあ批判している人達みたいな物言いは別に同調する気もさらさらないし、そういうのと一緒にされちゃかなわないのですが、正直こんな政策どうでもいいだろと思っています。別にやるのは構わないのだけれど、今の日本の状況で、こんなどうでもいい政策を優先する前にやる事あんだろと思う。切実な問題がある。こんなものをこの二進も三進もいかない状況の今騒いで、得意げになっているクソみたいな政治家は、本当目障りです。小泉の郵政民営化よりもはるかにどうでもいい政策だと言える。

それ以外でも子供手当しかり、母子加算復活しかり、再配分政策や弱者救済の措置を取るのは別に構わないけれど、結局分配するにもその配るものがないわけで、それをこれからどういう風に確保して行くのか、この国がどうやって飯を食って行くのか?という事の方がどう考えても切実です。今助ける事が出来ても、それを何とかしなくちゃ先行きは真っ暗。いずれ救えなくなる。増税するのがいやだという話なんだろうから、その辺をどうするのかを考えないと、無駄の削減だけでは限界があるでしょう。

再配分すれば多少消費を喚起する事は出来るでしょうけれど、縮小再生産のスパイラルが深刻な状況の今、出口戦略としては、あまりにもショボ過ぎる。

環境問題にコミットする。-25%削減だ!!はわかったけれど、その問題よりも国民にとって切実な問題はあるわけで、このまま一蓮托生で超高齢化、人口減によって経済が縮小再生産の負のスパイラルに歯止めがかからなければ、二酸化炭素がどうこう言っている場合じゃなくなる。生活に困っている人が膨大に増えているのに、環境にコミットしている場合じゃないだろって話になるでしょう。

環境がこれからの経済を牽引するって声も結構あるので、期待出来ない分野ではないと思うのですが、それで多くの国民が恩恵を受ける状況までの道のりは遠く、また壁も果てしなく分厚いので、そこまでこの国が持つのか?って気もするし、突破出来るような勢いも感じない。

アフガンの給油を止めて『別な』方法を、普天間問題も『別な』解決策を、なんでもそうですが、別な何か、見直して決断、言うのはいいけれど、どこかでその『別な』何かを示す必要があるわけで、その決断を遅らせたって問題の先送りにしかならないし、決断すれば確実に問題は生じる。さっさと決断して問題に対処せんかいと思う。それが政治家の仕事だろって話です。

事業仕分け、無駄削減はいい、コストカットして行く事は重要でしょう。これを今までやらずに自動的に金をつけていた事の方がどうかしている。何にどう使われているのか?効果は?そういった事のチェックもなければ、フィージビリティ・スタディなどあるわけもない。だけど、使わないようにケチケチしているだけでは、国の雰囲気がいっこうに明るくならない。みんながもう少し希望を持てるような、何らかのビジョンを示せよと思う。それが無駄削減とか、脱官僚とか、まあ言ってる事は正しいとしても、気持ちがポジティブになるような話では全然無い。

やっている事をいちいち批判するつもりはないけれど、この負のスパイラルからの出口戦略が今一番重要なのではないかと思う。そういう事を考慮すると、自分は高速道路無料化という政策だけは、これからの日本の構造問題に取り組むには、民主党が掲げている政策の中では一番まともな部類に入るのではないかと思えます。

子供手当のように、一部の人たちに配るわけじゃないし、物流の恩恵は誰でも受けている。それに景気対策にもなるし、財政再建策としてもそれなりに有効だと思える。しかも分権化やポスト工業化社会への布石としても結構重要な可能性を秘めた一撃になりうる。

しかもそれを今あるもので賄って何とかなる。これ以外に現状を打破する有効な政策を民主党は掲げていない。比較的損する人が少なく、結構簡単に無料化までは出来る。やる気になればそれから先の国家像も変化させうるし、この国を生き返らせる可能性のある一手になりうるのではないかと思えるのです。

なのでこの政策は比較的自分としてはコミット出来ると思って、民主党を支持した手前書いているのですが、正直みんなが反対するのなら通らなくてもしょうがないと思っています。どんなに合理的な政策であっても、それをみんなが合理的だと思えなければ、政策なんて上手く行くわけないし、合意調達の為に突破してでもというやる気が、民主党にあるとも思えないのでバックアップしなければ頓挫するでしょう。中途半端な骨抜きになる可能性もある。

マスコミの連中もこの政策には当然反対に決まっています。一極集中の中央集権体制が大手マスコミにとって最大の利権なわけで、それを手放す可能性のある政策を支持するわけがない。実験費用として計上した6000億を削るという話を、高速無料化見直しと恣意的に報道している。高速無料化見直しと言えば広い意味ではそういう風に言えない事もないけれど、どうも悪意を感じる。

まあ今更大手マスコミ情報を鵜呑みにして、それが一時影響があるにしろ、何らかの力学を生み出すような時代ではないと思いますけれど、要するに、みんなが反対だと思うのなら、マニフェストを実行するという事が重要だと思えない民度なのですから、これは自分が喚いた所でどうにもならない。みんなが民主制なんて機能しなくて構わないというのであれば、それ以上何も言いようが無いし、それがこの国の運命なんだろうと思うしかない。徹底的な痛みを味わって後悔するまでは、これはどうにもならない。まあせいぜい自分の生活再優先に考えて、手を打っておくしかやりようがない。

それに、この政策の最大の問題は実際に分権化を機能させる為には、国民のコミットメントがもの凄く重要になる。我々にその気がなければ上手く行かない。国民がその気にならないと、逆に一極集中を余計に強めてしまうものでもありうるし、分権化出来たとしても、シャッター商店街ばかりといったような、焼き畑農業的な地域性をぶっ壊す構造に加担する事になりかねない。ようは我々がやる気があるのか、その気がないのか、自分達の問題として引き受けるつもりがあるのかないのかによって大きく結果は異なってくる。

もちろん自分達の問題だと引き受けたからと言って、必ずしも上手く行くわけではないでしょう。だから一時は格差も生まれるだろうし、ヘタすれば分権化なんてするんじゃなかったって話も出てくるに違いない。だけど必ずその中には成功例が出てくる。その成功例を生み出す為に分権化して、それぞれがトライアル&エラーしながら模索するという事が重要で、成功例さえ出てくれば、それをもとにして設計し直せば失敗は克服出来る。いずれにせよ、お任せで何とかならない時代に変化しているわけだから、お任せ出来ないとなれば、自分達で何とかするしかないわけで、自分達で何とかするなら、その権限を地方に渡さないとそれは出来ない。それを引き受ける気がないのなら、これはどうにもなりません。

要するに中央集権型の国家像というのは、失敗する時も成功する時も一蓮托生になってしまう。散々この国の統治権力は無能無策を続けて来て、失敗を繰り返し、責任も取らない。だからこの国の統治権力は、お任せして国を一元的に管理する能力なんてそもそもない。グローバル化が進み、見通しが益々不透明になってしまった現在、一蓮托生で失敗し続けて行くわけには行かないから、しょうがないから分権化して全員で泥船に乗って沈没しない為の保険としての意味でしかないので、分権化すれば成功するって話じゃありません。ただ全員失敗する事はないだろうという意味と、その中には成功例も出てくるだろうという意味で分権化が必要だという話になる。短期的には格差の拡大も分権化のせいで厳しい地域が出てくる事も、本当は全部織り込み済みの政策でもある。もちろんその事を国民が合意しているとは思えないし、政治家がそれをキチンと言っているようにも見えないけれど、分権化というのはそうであるしかない。

バラマキだと批判されているような政策も、弱者救済措置という側面ばかりに光が当たりますけれど、分権化を前提とすると、スタートラインが揃わない事には始まらない。そしてその上でないと競争もクソもない。一極集中の弱肉強食ではどうやったって地方は斬り捨てられるしか無くなる。しかし競争すれば必ず格差は生まれる。その事まで分権化というのは織り込んだ上での政策です。そこに行かないとただ単にバラまいているだけになる。

無能な連中が牛耳る中央集権体制のままで、ただただ一蓮托生で失敗を繰り返して行く状況で構わない、死なばもろとも泥舟で沈没しようというなら、それはそれで選択肢の一つとしては不毛ですが致し方なし。この泥舟は必ず沈没します。その時間を先送りする事は多少出来るので、逃げ切れる人はいる。だけどこのままでは確実に沈没するのは避けられない。今手を打たないとそこから脱出する方法もなくなる。もうすでに手遅れかもしれません。

地方の政治や行政なんてはっきり言えばもっとたちが悪い上に無能である事の方が多いですし、分権して結局それぞれの政治や行政にお任せでは変わらないどころか悪化するとも言えるので意味がない。引き受ける気があるかどうかが最終的には重要になるでしょう。

地方に権限を渡して任せてしまうと言っても、それぞれの地理的な要因や気候、元々あった地域性、観光地として人を呼べるか否かなど、それぞれに任せても初期手持ち量はバラバラなので、それがパレート最適したとしても勝つ所と負ける所が固定化してしまう。初期手持ち量を多く握っている方が必ず勝ってしまう。これを是正しないと、競争と言う名の弱者斬り捨ての固定化になりかねないので、結局格差は縮小しないだろ、という事になる。第三の道も同じような問題を抱えていて、今は第三の道路線であっても、世界的に見るとかなり厳しい実情があるのは確かでしょう。だから社民的な方向性が力を握ったりしている。結果平等も必要だろと。まあ一番不人気になった原因は、ブレアがブッシュの中東政策にくっついて突っ込んでしまったからなのでしょうけれど、第三の道自体の問題も単なる「思いやりのある保守主義」でしかなく、競争による格差を生む構造は是正していない、なんて特にリベラルサイドから批判もされてしまう。もちろん従来の保守の人からは、リベラル過ぎると批判されるわけですが。

これは例えば高速道路の価格設定までひっくるめて地方に任せてしまえという議論がありますが、それをやってもこの問題は是正出来ないので、無料化も有料化も裁量を地域に任せてしまうのも、いずれにせよ初期手持ち量の格差是正にはなりません。唯一国が優先順位をつけて、値を付ける事だけが、道路の通行料によって地域間格差、初期手持ち量の格差をコントロール出来る。しかしそんな能力はこの国の統治権力にあるわけないので、この案はナンセンスというか事実上無理だし、誰も納得出来ないでしょう。

地域に裁量を移譲して、それぞれの地域事に価格設定をさせるというのも、一見分権化の発想に近いような気がするので、これは悪い話ではないような気がするけれど、道路というのは繋がっているわけですから、ある地域が有料で、ある地域が無料、もしくはかなりお得なお値段という地域が隣り合った場合、価格設定を自分の住んでいる所への政治参加によって、ある程度コントロール出来るとして、無料の方が有利だと思って、もしくは価格が安い方が有利だと思って、地域の政治にコミットして、それなりに自分達にとって有利な条件を引き出せるとしても、例えば隣接する地域の価格設定によって、ある地域が潤うかどうかが、自分達の合意形成とは関係ない所で決まった合意によって、決定的な違いを生み出してしまう。

例えば県境で何らかの商売をやっている人が、自分の住んでいる所へのコミットによって無料化や安い値段設定によって有利に働くと思い変える事が出来たとしても、となりの県で道路がただかどうかによって交通量が変わってしまう。もしくは変わらないとしても、変わっているような気がしてしまう。隣接する地域の価格設定によって、どのような経路で自分の住んでいる地域に車が流れてくるのかも大きく変わってしまう。自分のコントロール出来ない領域の決定によって大きく商売が左右されてしまうというのは、やっぱりそれはそれで不満が出てくるだろうし、それにどういう風に交通をコントロールするのかによって、必ずそれは権益になり、住民の間に分断線を引いてしまう事になる。

だから国が一元的に管理するのが納得は行かなくとも一番マシな正統性があると思えるわけですが、その国の管理が一番信頼出来ないのでそれもダメ。地域性に任せてもやっぱり必ず不満は出てくるわけだから、ある程度の価格是正もひっくるめて有料のままか、基本無料にして国家が例えば都市部をどうするのかとか、ある程度コントロールするしかない。国家の裁量は出来るだけ小さくした方がいいと考えれば、基本無料化にして、どうしても通行量が多く、ただでさえ高速も一般道も混雑しているような地域は有料のままにするという方法が一番納得出来るのではないかと思える。

ただこれだと有料でも無料でも地域性に任せるとしても、初期手持ち量の差というのは是正は出来ません。観光地の多い地域とそうでない地域、地理的な条件によってそもそも地域間の格差というのはあるので、それが固定化してしまうと、新たな人口集中が生じてしまう。関所的な役割として、有料の高い通行料を取り、出入り口を閉めておけば、人口流入を減らせるのではないか?というトンでも論も全くのナンセンス。これは鎖国体制時代なら有効かもしれませんけれど、グローバル化が進んでしまっているのだから、国内に関所を設けて流通のバルブを閉めるような事をしていたのでは、海外に出て行ってしまう。これでは海外に出て行く前に、国内の地方に出て行くという選択肢が生まれて来ない。現時点でも初期手持ち量による格差はすでにある格差で、是正しようと言う動きも全くないし、有料化のままにしていても、問題は全く解決しないので、無料化反対のロジックとしてはズレています。高速道路を無料にすると余計その初期手持ち量の格差を広げて固定化するってわけではないので、ここを混同した議論は意味がない。

高速道路無料化は第三の道への布石になるなんて書いたので、例に出したのですけれど、第三の道という方向性もまさにここに落とし穴があって、第三の道とは新自由主義を発展継承したものですので、新自由主義の問題点にはかなり対処しているのですが、そのまま引き継いでしまっている部分もある。まさにそこが問題になってしまう。

機械の平等をそろえて自己責任というのが新自由主義の方向性だとすれば、第三の道というのはそれを更に進化させ、教育やセーフティネットを充実させ、自己責任取れるようなリソースを徹底的に配分した上で、自己責任で生きて下さいというのが第三の道であると言えます。日経のようなバカ新聞が高速道路無料化を批判しながら、機械の平等をそろえる為の政策をバラマキだと批判していたりしますけれど、分権化されたら困るという事なのでしょう。こんなアホ新聞が経済紙を気取って偉そうにしているから日本の経済はよくならない。機械の平等をそろえなければ競争しても勝つ方は決まっている。だからこういった批判はお門違いもいい所です。問題はそんな表面的な事じゃない。

そこにはどのように担保しようとしても、取り払う事の出来ない初期手持ち量の差というのがある。高速道路で言えば高速道路がに近い所に住む人、遠い所に住む人、それが自分の地域にはない人、すでにそれだけでも差が生じる。我々はみんな違う条件を生きているわけだから当たり前なのですが、その差によってあらかじめ競争の優劣が決まってしまうという事に対して何も第三の道は答えていない。大企業と中小企業のスタートラインをそろえて、様々な手当をして行ったとしても、そもそもマンパワーや資本の差というのはあるので、勝つ方は決まっているではないかという話になる。だから機械の平等というのは担保するのも難しいし、それだけでは足りないのではないか、という事で、結果平等によって競争を中和する必要があるという話が出てくる。だから第三の道がこれからの日本にとって進む道なんだと言っても、日経のような中央集権護持の為のアホな批判は的外れでしかありませんけれど、第三の道にも問題は大有りなのです。

なので第三の道に進めば成功するとか言いたいわけではありません。必ず問題は出てくるだろうし、不満を持つ人も出てくるでしょう。その事は不可避です。そしてどのような選択肢を選んだとしても、日本の国力を維持する事が出来たとしても、可処分所得が増えて、みんな裕福になれるような時代はおそらくもう二度と来ない。大地震が起こるとか、戦争が起こってインフラが根こそぎぶっ壊されて、人がいっぱい死んでしまうとか、そういう事でも起きない限り、景気が回復したとしても、みんながそれを実感して消費を謳歌するような時代にはならないでしょう。一次産業への方向転換が出来たとしても、食って行くには困らない程度にはなれるかもしれませんけれど、経済成長をみんなが実感出来て、右肩上がりの社会にはなりようがない。グローバル化がある以上絶対に不可能です。少なくとも今後数十年は。

しかし日本の場合、第三の道路線どころか、小さな政府路線ですら、全然進んでいないので、現段階でそこを全く経由しないで、新たな路線を目指すという事が出来るならやればいいと思うけれど、それはかなり難しいと思う。事前チェック型の護送船団裁量行政復活ではどうにもならない事はすでにわかっているのだから、現状で政府の役割をただ大きくして結果平等に対処するとなると、単にその頃に戻るだけになりかねない。ネオリベがあったから、第三の道もあったわけで、第三の道があったから、ポスト第三の道という話になるわけです。

今の日本の状態は、新自由主義的な小さな政府路線を貫徹しているとは言い難いので、第三の道を掲げても大きな政府路線と変わらなくなってしまう可能性がある。民主党への批判もまさにそこにあるわけで、機械の平等をそろえた先にもどうしても揃わない初期手持ち量の格差という所まで問題にするような状況でも無い。だから今の段階で第三の道へと進むにしても、それが単に大きな政府の再配分政策へと堕落しないように小さな政府を守らないと、財政が持たないというチェックは必ず必要なので、そういう意味ではある程度、今の民主党に対するバラマキ批判というのも(もちろん中には的外れもいっぱいありますが)重要な牽制であるとも言えるでしょう。だけどそれを言うなら分権化をとっととやれそれをやらなければ単なるバラマキの大きな政府だろという批判か、分権化する気がないならバラまいても無駄だから止めろという批判であるべきでしょう。分権化する為に必要な政策を打とうとすると文句を言いながら、バラマキも批判するというのでは、両立不可能な要求を突きつけている事を自覚する必要があるでしょう。

90年代から台頭し、後に小泉を支持した「保守」の連中みたいに、サッチャーの小さな政府を翼賛しながら、あえてその負の側面に言及しなかったような言い方はしたくないので、ハッキリ書いておきますが第三の道にも問題はあるし、むしろこの路線も若干どころかかなり遅いともいえる。20年遅れのネオリベと同様、15年遅れのニューレイバーとも言えるでしょう。5年早まっただけでも、進んだともいえるけれど、それはネオリベ路線が不十分である事とも無関係ではない。第三の道にいく為には、第二の道、新自由主義を貫徹していないと難しい。新自由主義を否定して第三の道があるのではなくて、それを発展継承しないと上手くいかない。日本では小泉改革アレルギーが強過ぎるので、新自由主義を否定しないなんて言うと非常にネガティブな反応がかえって来てしまう。

小泉政権のやり方を否定して現政権があるように思っている人が多いと思うのですが、基本的には小泉政権で目指していた方向性を否定する事は出来ない。彼らがハナっからやる気がなかったのか、それともそれなりに頑張ったのだけれど、所詮自民党であるという限界故にそうであるしかなかったのか、今となっては結果は出ているので、それがどちらであっても、彼らは言った事を実行しなかった。理念とはかけ離れた中身のない改革であったという事は間違いない。

しかし実際に走らせた政策の中身に問題はあったけれど、方向性としては正しい方向性を向いていたと思うし、現政権もそれを引き継いでいる。例えば分権化一つをとってもそうでしょう。小泉の改革は責任を地方に押し付けただけの切り捨てだと批判されましたし、自分も散々文句を言った。だけどそれは分権化の発想そのものが間違っているという意味ではない。
そういう風に考えると、分権化して人口分散が進んで地方が地域性を取り戻して、ある程度復活再活性化出来れば、別に郵便局を国の事業としてやる必要は必ずしもないとも言えるので、それを民営化する事も決しておかしな発想ではない。ただ地方を斬り捨てて、分権化も全く進んでいない段階で、いきなり地方の郵便局がブッ潰れかねないなんて煽られれば、僻地に住んでいる人達は不安になるに決まっている。だから反対の声があったのでしょう。

道路公団民営化にしたって、走らせた政策そのものはかなり問題ありまくりなんですけれど、これだって最初の段階ではおそらく無駄な道路建設を止めて、借金返済のスキームを確立し、暫定措置でしかないはずの有料化措置を出来るだけ早く撤廃して、高速道路を無料開放するというのが理念としてはあったはずです。法案の中身は骨を抜かれまくっていて、結局肝腎の道路問題の根幹には手が届いていないし、ここでも法案そのものはインチキであるという事で批判されたわけですが、理念そのものに反対している人は道路族とかそれで飯を食っている人達だけでしょう。一般の国民はそのこと自体は悪い話だとは思っていないはず。それに法案そのものが最終的には高速道路の無料化を謳っている。

これだって分権化して政府の役割を縮小する方向性の一つの手段として、道路の無料開放というのはスジが通っている話でもあるので、方向性自体は今もそれと変わっているわけではない。

今一番徹底しなきゃならないのは、実は小さな政府路線であると言えるかもしれません。が、多分それでは国民がもう納得出来ない。グローバル化がこれだけ進んでしまった現在、今からそこだけを徹底するには遅過ぎる。だから同時に第三の道の方向を取るしか無い。そしてそれらを徹底して、ある程度政府の役割がコンパクトになって、機械の平等がそこそこ担保されて、セーフティネットによって再チャレンジ出来る仕組みを構築し自己責任が取れる環境を整備して、その上でどうしても取り払う事の出来ない初期手持ち量による格差に対処する為に、はじめて結果平等を持ち込むというようにしないと危険が大き過ぎる。そこまで経由して初めて格差の固定化になってしまうという話を持ち出して来ても、従来の腐敗と堕落の裁量行政である大きな政府へとバックフラッシュするのではない結果平等路線を持ち込めるとも言える。

だからここで言う第三の道へ進む為にも高速道路を無料化するのが合理的ではないか?分権化の為にも必要ではないか?という意味は、こういった前提の上で言っている事ですので、それですべてが万事解決ってことでは全くありません。

ただここにはもう一つ処方箋が隠れていて、それは物理的に多様性を担保する社会を構築してしまおうというのも入っています。その地域間に生まれる差こそが日本の最大の弱点である多様性のなさに対する処方箋になりうるのではないか?と。

あんまり話が進みませんでしたが、ならし運転という事で、続く!!
最初に小さな政府を小泉竹中が打出したとき、やっとそういうことを言う人達が自民党の中にも出て来たのかと思った。しかもそれが主導権を握った。このこと自体は画期的だと思えたし、政権交代が起こるにしろ、起こらないにしろ、そういう方向に進むのは不可避だったと思います。

しかし不思議な感じがしたのは保守を自称する連中が、だいたいそんな伝統日本に無いはずなのに、みんなその路線を賞賛していたのがちょっと違和感を感じた。必ず出てくる議論として、同じ議会制民主主義を掲げていて、保守主義者達のご本尊、バーク流の保守主義の伝統を持つイギリスの、サッチャーを例にとって、ゆりかごから墓場までと言われる、過剰な福祉政策によって、イギリスは骨の髄まで腐りきってしまったので、それをサッチャーが立て直したのだという例を出してくる。それは正しいのだけれど、実際それもグローバル化の進んで行く過程で行き詰まって結局ニューレイバーの第三の道路線にその時点ですでに何年も前から進み、しかもそれなりに結果も出しているにもかかわらず、その事には全く触れない。

小泉とか竹中が保守だとはとても思えないのに、言っている事が、保守の連中は小泉竹中と同じことを言っていた。その路線に疑義を唱えていた保守の人達は西部邁さんとか、漫画家の小林よしのり氏くらいなもんで(それだって9.11以降の対米追従がなければどうなっていたかはわからない)、アメリカと違ってリバタリアン的な発想はこの国ではないはずなのに、なんで保守の連中がイギリスのサッチャーを例にとりながら、その失敗は全く触れずに、アメリカのリバタリアン的保守みたいなことを言うのだろうと不思議な感じがした。というよりも日本の保守がネオコン化して見えた。

確かにサッチャー政権が最初に新自由主義を掲げたときというのは、政府の役割を小さくしても、社会の側が伝統や道徳が機能していると善意を信頼出来るから、それを補うだろうという話なので、だから大丈夫だという話だった。その前提なので道徳や伝統を保守しながら、政府を小さくするというのは合理的な結びつきでもあると言えます。しかし実際は政府の役割を小さくしたら、社会もスカスカになってしまったので、第三の道という話になる。

すでに日本の場合は守るべき伝統や道徳がバブル崩壊後の長い不況によって弱体化していて、そもそも90年代から騒ぎ始めた「保守」が台頭して来たのは、そういう保守すべきものが壊れているではないか、このままでは失ってしまうぞ、という話で吹き上がって来たはずで、もちろん格好付きの「保守」ですけれど、新しい教科書を作る会の運動なんかが盛り上がったのが背景で、それまでの保守とはちょっと様子の違う違和感を感じてしまうような運動でした。

そういう保守すべきものが破壊されているのに、政府の役割を小さくしてしまったら、イギリスだって最終的には上手くいかなくなってしまったというのに、グローバル化は進み、社会が国家の役割を補うような活力も失っている。にもかかわらずそういう不可思議な事をポンツク学者が言い始める。随分スットコドッコイな話を言っている輩が増えちゃったなと違和感を感じた。しかも親米だと。

実情は親米というよりも対米追従を掲げ、イラク戦争も対テロ戦争も支援するべきだと言うし。おまけに北東アジア諸国の中国や韓国なんかとの敵対を煽るような事も言うし、どこが保守で何を保守してんだコイツら?と、とても不思議な現象だと思った。親米保守というのはあくまでも吉田茂的なスキームであって、これは道具として冷戦体制下でのネタとしての話に過ぎず、その中には護憲も含まれていて、アメリカのくれた平和憲法を逆手に取って、とりあえず軍事を安保によって担保し軽軍備で経済復興に傾注する為の手段だったはずです。

その先に対米自立が常識的な保守本流のはずでしたし、冷戦体制がとっくに終わっているのだから、対米追従したってアメリカはもう日本を特別扱いはしていられない状況になるのは目に見えている。グローバル化によって日本の相対的な国力が弱まれば、当然プライオリティは下がるに決まっている。

西側と東側と言う明確な線があって必ず日本を身捨てるわけには行かない時代とは変わっているのに、そういう所は全く何も言わないくせに、改憲とかいきなり言っちゃうし、それじゃ対米追従の戦争のお手伝いの為に改憲したいだけなんじゃないかという、左翼的な「軍靴の足音が聞こえる」的なアホな批判を誘発させるだけにしかならない。

言うならそういう風に反発を招くような言い方や、北東アジアの不満を誘発させるような事を言ってしまっては出来るものも出来なくなっちゃう。本当に改憲したくて言っているというよりも、何となくそういう連中を単なる私怨で貶めたくて言っているだけで、別に何も考えちゃいないのではないか?と見えてしまう。

自虐史観云々、戦前の日本は間違っちゃいなかったというのであれば、普通、欧米列強に抗う為の亜細亜主義のことを言ってんのかなと誰しも思うのに、亜細亜主義がアホな国粋主義者達に歪められてしまった亜細亜政策と亜細亜主義の理念を混同して同じものだと捉えている時点で、常識ねえなコイツら、歴史知ってんのかよ?と普通思う。そういう輩が伝統とか歴史とか言っているのだから、これはもう笑い話にもなりません。

新しい教科書を作る会の運動も最初の頃は、まあ批判する人達の声の大きさの方が圧倒的でしたし、初期の頃に中核となっていた例えば西尾幹二氏なんかだと、彼の書いたニーチェ本なんかが自分は印象に残っていたので、そんなに嫌悪するような人だとは思えなかったし、その頃の本は非常に面白くて、ニーチェに対する理解のしかたの一つのまなざしを提供してくれたと思っているので、さすがにニーチェを誤読したナチスみたいな図式にはならないだろうし、そういう事を徹底的にわかっているに決まっていると思っていたので、その後、彼の評価がどんどん悪くなって行くような印象は最初の頃は自分も持っていなかったし、みんな持っていなかったと思う。

西部さんなんかも嫌々同調していたらしいと後になって話が出て来ましたけれど、彼に対しても、ある種のキャラ的に嫌悪感をどうしても持てないお人だったので、言っている事は無茶苦茶なことを言ってるなと思ってしまう事もしばしばなんですが、どんな事でも食って掛からないと気がすまない、足場を常に批判しないと納得がいかない、分からず屋の頑固ジジイ的キャラクターはノイズであると同時に、そういうノイズがない潔癖主義的な世の中なんて面白くもクソもないわけで、どちらかと言えば、わかった気になっている戦後民主主義の繁栄を享受する我々に対する疑義として、疑いのまなざしを引き受けてこそ近代社会でもあるだろうと思えたので、存在そのものは嫌いにはなれなかった。どちらかと言うと何を言っても批判されそうなので、困ったじいさんだなと思いながら顔が笑っているというか、そういう評価のされ方だったのではなかろうかと思うし、自分もそういう風に見ていた。だから最初その運動が出て来た時は、嫌悪感を持つどころか、おっちゃん達頑張れよという気持ちで見ていた。

話題になって賛否が分かれた、新しい歴史教科書も当時読んでみましたけれど、これが問題になる事の方が問題だろと思った。これのどこが軍国主義賞賛なんだよって感じのいたってF・U・T・U・(普通)の事が書いてある教科書だったし、戦前の日本を美化なんて全然していない。これが軍国主義なんじゃ、どんな教科書で教えてんだよと逆に心配になったくらいです。

自分がガキンチョの頃の教科書も今から考えるとスットコドッコイな事が書いてあった記憶がありますけれど、それと比べたって、別にそれほど過去を翼賛しているようには読みようがないし、むしろ明治から昭和にかけての経緯がかなり細かく書き込まれていて、そこにはちゃんと侵略の歴史を美化するような事も書いてなかったし、しょうがなかった的な必然としても書いていない、あった事をそのまま書いてあったし、日本の北東アジア政策に対して反対された理由も、北東アジア諸国の立場から日本人にわかりやすいようにきちんと書かれていた。歴史を子供が学ぶには結構よく書けた教科書だった。

仮にそれが気に食わないとしたって、それを弾圧まがいの言葉狩りで抹殺するような事こそ、ファシズムじゃねえかよ、それこそ軍国主義と批判している構造そのものじゃないかと、反対している連中こそお門違いではないかと思えたし、最初の頃は言っている事すべてに全面的に賛同はもちろん出来ないけれど、自分はちょっとひいた目線からバランスを重視して考える癖があるので、微笑ましい現象だと思っていたくらいです。

そういう人達が出て来た事によって、間違いなく戦後民主主義に対する新たな論争を巻き起こすきっかけになったわけですから、その事だけでも十分実りはあったでしょうし。映画マトリックスじゃありませんけれど、この世界はマトリックスであるという目線は必要なものでしょう。

しかし、何!!この世界はマトリックスだったのか!!という感じで、雄叫びをあげ拳を振り上げて吹き上がる輩が増えてくる。騙された、インチキだと。国民は軍部に騙されていたというロジックによって戦前を否定している奴らを攻撃する理由が、騙された、インチキだった!!という話なのですから、いやお前らも一緒だよって感じで、だんだんバカバカしく思えて来た。

いや保守が言っている事もマトリックスの一形態に過ぎないからって話で、この世はすべてどのような方向性を取るにしろ、マトリックスにしかならないし、マトリックスを押しのければ何か真実があるかのように思っている連中が増えた事に、困った事になっちゃったなと辟易していた。日本では環境問題に対する懐疑説が非常に人気がありますが(何でも否定したい国民性の現れなのかもしれませんけれど)、それの是非は脇に置いて、言っている人達はそれなりに正論を言っていると思いますが、それを真に受けてしまう人達の図式が非常に違和感を感じる。ここにも「この世はマトリックスなんだ!!真実は一つ!!」みたいなアホらしい図式が見えるので、自分は元々環境問題には懐疑論者だったのですが、最近ではあんまりそれを言うのはよくないような気がするので、本当かどうかなんてたいした問題じゃないんだよという風に論調を変えています。

要するに何かが真実であるという暴力性に対して、それはおかしいのではないか?それこそが暴力であり抑圧ではないかという意味での、牽制として逆の視座から眺めてみるという意味で、この世はマトリックスであるという批判は、非常に重要な目線だし、我々が真実だと思い込む事によって生じる暴力性を相対化して自覚する意味で必要な事だろうと思うけれど、何かの真実性の欺瞞を暴き、新たなそれに取って代わる真実性を絶対視してしまったのでは、何かが真実であるという暴力性の中身が変わるという意味でしかなく、暴力性自体は永続してしまう。これでは意味がありません。

90年代から台頭して来た「保守」の力学も、そういう風に最初の牽制の時点であれば、それは新たな視座の獲得という意味で重要な目線であるだろうと思えたのですが、それが後に真実化する輩が増え、サクセサー達が追従し始めて牽制というよりも主導権を握り始めてしまったのでだんだんおかしな事になり始める。この国のいつもの現象、ネタがベタになって手段が目的化するというパターンです。

何となくそういう人達というのは、転向左翼みたいな人が多かったので、イデオロギー的に日教組断罪とか、戦後リベラル民主主義断罪の為の自虐史観断罪とか、靖国尊重とか、だからリベラル的な香りのする第三の道は無視したのだろうし、小泉竹中路線が不人気になりイラク政策が不人気になって行く過程で、いつの間にやら小泉竹中を批判し始めて、安倍晋三こそが日本のこれからの救世主であるかのような方向性にシフトする。つまり安倍晋三を通して、小泉竹中を結果的に支持していただけだと微妙に言っている事が変わり始める。

あんまり賢そうにも見えなかった安倍を支えれば操り人形的にコントロール出来ると思ったのかもしれませんけれど、単にイデオロギーに基づいたルサンチマンが最大の彼らにとっての駆動原理だったようにしか見えず、もうすでに弱体化して誰も支持なんかしちゃいないこの国のバカ左翼を敵と旗印を掲げたって、そんな奴はとっくにみんながバカだと思っているので意味がない。結局新自由主義を賞賛し、小泉竹中を支持していたにもかかわらず、それを反省もなく最初から否定していたかのような誤摩化しを言いながら、保守だ、伝統だ、道徳だとほざいたって、そもそも新自由主義と保守は、少なくとも日本では全く関係のない話だし、自分達が言っていた事を簡単に覆しているにもかかわらずその反省もクソもないのだから、そんな奴が掲げる道徳主義なるものは、説得力もあるわけがないので、安倍が失速するのはすでに彼の知恵袋の面々を見れば、最初の段階でちょっと思考力の働く人間なら誰にでもわかる。

経済政策的には小泉竹中を否定しながら、かといってイデオロギー的に気に食わないという事なのか第三の道を掲げる事も出来ない。何がしたいのかもわからずに、ただ文句をいい、べき論を叫び、それが政権与党の方向性を支えていたのでは、経済政策なんて何の合理性も生まれるわけもないので、失速して当然です。

だから民主党は第三の道的な座席が空いていたからそこに座っただけで、対抗軸を示すのなら、もう自民党は小さな政府、新自由主義を掲げて押し切る意外に選択肢はなかったはずなのに、安倍が速攻不人気になり、バカ保守現象もアホの象徴として誰も見向きもしなくなり、不人気に及び腰になり、民主党を批判しながら、第三の道的な方向性を目指しているかのような事を言い始める。もう理念もクソもあったもんじゃない。

第三の道に進む為にはまずは小さな政府の貫徹がなければ、それを前提にした第三の道も難しい。だから今は過渡的な処置として小泉竹中路線は正しいのだと言って、それを貫徹していれば自民党にも正統性は生まれたはずなのに、新自由主義路線を掲げる連中は不人気になり、それほど難しい説得が必要とは思えないのに、そういう話を全然出して来なかった。政府を信用出来なければ、その政府が掲げる弱者救済も信用出来ないではないですかと言えば、そりゃそうだと簡単にわかりそうな話です。

そこを今徹底的に無駄と非効率の是正をやらないと、政権交代して第三の道に進んでも上手く行かないよと言えば、筋は通っていたはずなのに、そもそも無駄と非効率の是正なんて、看板を掲げただけで本気でやろうと思っていなかったという事の現れなのでしょうけれど、どういう方向性を目指しているのかが全く意味不明になっちゃった。本当にその事がわかってないバカもいたんでしょうけれど、ただ単に俗情に媚びて表面的なパフォーマンスで小泉みたいに人気が出ると国民を甘く見たツケでしょう。当然の報いです。

なので民主党は第三の道を掲げながら、同時に新自由主義的な小さな政府も目指さなければならない役割を背負わされてしまっている所が、かなり困難な状況を生み出している。政府の非効率や無駄を減らす、小さな政府路線を推進しながら、小さくなってしまった包摂性のない社会を復活させる為の投資も行わねばならないという、かなりバッティングしてしまう可能性の高い政策を同時に進めなきゃならないジレンマにおっこっちゃっている。

新自由主義、小さな政府がしっかりと貫徹された上で、第三の道という話なら、もっとスムーズにどうにかなる。だけど小さな政府には全然なってないので、第三の道に進もうとすると旧来の大きな政府的再配分に見えてしまう。

小泉政権末期から、サブプライム問題が深刻化するまでの間、日本はかなり不景気な方向性にどんどん進んでいた。それは政府を小さくしたからではなくて、政府を小さくすると言ったにもかかわらず全く逆の方向性を進み始めたから、どんどん不景気に突っ走っていたわけで、もう少し小泉竹中路線のサブスタンスがあれば、少なくとも安倍晋三が不人気になった時点くらいで、自民党が観念して、総選挙を行い政権交代が起こっちゃっていれば(もしくは自民党がちゃんと政府の無駄と非効率を正すと理念を掲げて、リコンファームされて民主党がそこに抗うのが難しい状況になっていれば)、民主党ももっと第三の道を突っ込んで行けたのかもしれませんけれど、安倍の末期、福田の無策、麻生の迷走と、役人の権益を増大させ増税で何とかするかのような、理念のない場当たり主義的なバックフラッシュをグズグズ続けた事によって、もうどん詰まりに行くとこまで行っちゃったので、ただ単に第三の道を進むだけでは足りなくなってしまった。

今の状況で小さな政府を徹底させるというのは、もう国民的にも我慢の限界であるにもかかわらず、役人や国家の非効率や無駄の放置に対しても我慢の限界になっている。これが合意調達を困難な状況にしてしまっている要員の一つではないかと思える。すなわちどのように舵取りをしようとも、全く矛盾する逆の要求を一つの政党に突きつけているのだから、結局不満が出るに決まっている。

薄っぺらな社会に投げ出されてしまった国民生活を立て直す為に何かを手当てしようと思えばバラマキと叩かれ役人に甘いと言われ、役人や国家の無駄と非効率を是正しようと思うと、国民生活をないがしろにしていると言われてしまう。すなわち解決不能の要求を突きつけて且つ政権を支持したにもかかわらずお任せ意識状態なので、バックアップはしないけれど、梯子外しは横行してしまう。

なのでそういう不満を中和しないとどっちも中途半端にならざるを得ない。しかしどっちも大至急やれという要望によって叩かれる。マンパワーも時間も足りない。そうすると表面的なパフォーマンスで誤摩化そうという輩も増えて来てしまうのも当然で、両立するのが極めて難しい要求に突っ込んで自爆するくらいなら、不人気になるのを避ける為に当たり障りのない事で誤摩化した方が、選挙で不利になるよりマシだと思うのを止められない。どうせマニフェストなんか止めちまえと言われてしまっているのだから。

表面的なパフォーマンス云々という言い方をして、例えば事業仕分けを批判する人も増えておりますが、確かにわざとらしいように見えてしまうのは否定しませんけれど、例えわざとらしかろうが人気取りの為のパフォーマンスであろうが、そういう風に国民が国家の行っている事業そのものの必要性をいちいちチェック出来るチャンスが巡って来ている事だけは間違いない。

それを否定しちゃったら、じゃあ密室で役人のいうがままに予算を振り分けて来た旧来の方法が良かったのか?と言えば、それに散々文句を言いまくって、やっと可視化のチャンスを手に入れているというのに、無意味だとか、パフォーマンスだとか、まあそういう制度が当たり前になってしまうと困る連中のネガティブキャンペーンにまんまと乗せられて、あたかも正しいことを言っている気になっている輩が、ブーブー文句を言っている。無駄と非効率を是正せよと言いつつ、その為の仕分けをすればパフォーマンスだと騒ぐ、パフォーマンスに終わらせるかどうかは国民がそれをチェックして、ちゃんとバックアップして是正せよとプレッシャーをかけられるか否かであるのに、ハナっから無意味だと斬り捨てたのでは結局何をしろと言っている事になるのか?要するにここにもお任せ意識が抜けていない。お任せしていれば何とかなると思っている。思っているから何とかならないように見えると文句を言う。

実際事業仕分けも、見えている所はパフォーマンスっぽく見えてしまうのはそれなりに理由があって、元々仕分けチームがを最初に役所から人選が決められていて、それを後からお手盛りの仕分けチームでは意味ないわけで、政治主導で沢山いる中に何人か役所のひもがついていない人をギリギリ入れる事が出来た。役所のお手盛りの仕分けチームは、役人の痛い所に突っ込んで行くなんて事はするわけないので、民主党から指令を受けて仕分けしている人達が声を大きくして、多少パフォーマンスっぽく見えたとしても声を上げないと、数で言えば圧倒的にお手盛り人事の方が多いので太刀打ち出来なくなる。だからわざとらしいかもしれないけれど、声を上げないわけには行かないのが実情です。

それをバックアップするどころか、梯子外しの批判をしてわかったような顔している連中が多すぎます。だったら役人のお手盛り人事に任せりゃいいのかよ?って話です。細かいところでせめぎ合いが起こっているわけで、それの梯子を外す事がチェックだと思っているのなら、勘違いもいい所です。そういう連中が多すぎるから、この国の政治は変わらない。そういうのは批判とは言いません。

それと全く同じ図式で、やれ官僚を使いこなせとか、官僚を叩くだけではダメだとか、わかったような事をほざいている連中もいっぱいいる。それは確かにそうなんだけど、官僚を使いこなす為の制度がない。たった3人とか4人くらいで、役所に入って行って、役人のタクティクスをすべてコントロールして、国民の為の政策に移行するなど出来るわけがない。そういう事を全く考慮に入れもしないで、というか知りもしないで、使いこなせとか、役人に取り込まれたとか、さも知ったような事をほざいている輩が多過ぎる。それは国民がバックアップしなきゃ出来るわけがない。

国民の理解もバックアップがなければ、役人の口車に乗った方が楽だという事で、大臣も結構な人が事業仕分けの過程を見ていると、省庁に取り込まれてしまっている図式もすでに見て取れる。肝腎の記者会見開放も記者クラブの既得権護持が影響を及ぼしてしまっているので、現在開いている省庁の会見は、大臣が開いてくれているというイニシアティブを握られてしまっているので、開いている意味が殆どなく、オープンを政治家のリソースとして利用されてしまっている。これでは開いてもチェックなんて出来ない。もちろん記者クラブの連中にはチェック能力はゼロなので、閉じている所は閉じている所で全く機能していない。閉じたままを放置してくれるという事で、こっちも政治家にイニシアティブを握られている。

記者クラブのゴミ野郎共が観念して会見を開けば少なくとも政治家にイニシアティブを握られる事もないのだけれど、談合マスコミは公共性を装いながら、国民益なんてどうでもいいと思っている己の権益しか興味のない無能なクズの集まりなので、そんなマインドはかけらもない。そのおかげでこの事がディバイド&ルールとして利用されちゃっている。

すでに民主党はアフガン支援策もはっきり言って最悪の選択をしているし、沖縄の基地問題もかなりヘタを打っている。この問題は外交問題というよりも国内の問題です。岡田大臣と副大臣の福ちゃんが、名護市長選前に判断を下すと言ったのは、かろうじてこの問題をこじらせない為のもの凄く意味のある決断です。名護市長選まで様子を見て、仮にノーと答えを出したら、もう手の施しようが無くなる。その前に政治決断で決着させるしか事実上この問題の着地点はありません。アメリカに対しても、一歩間違えれば顔に泥を塗る事になる。これを閣内不一致とか言って叩いているバカもいっぱいいる。困った話です。

外国人参政権なんかも沸騰しています。日本を乗っ取られるとか、売国政策であるとか、表に出てくるこれの批判の中身はクソみたいな話なので、バカは放っておけばいいけれど、実際問題参政権が切実な問題なのかというと、どうもズレているような気もする。そういう問題じゃない。

参政権なんて貰ったって所詮マイノリティであるしかない人達が、意志を反映させる事なんて出来るわけないので、ないよりあった方が嬉しいと思う人もいるかもしれないけれど、問題は永住外国人であれば生活保護を受ける権利があるはずなのに、外国人であるという事で受けられないとか、義務教育を受ける権利があるのに、生活にいっぱいいっぱいで子供にそれを受けさせる事が出来ないとか、より切実な問題がある。それに比べれば参政権なんてただみたいなもんなので、貰ったって飯の種にもならないわけで、貰っても大して嬉しくないものを、反対している連中がいっぱいいるにもかかわらず、それを断行したという事で、何かをやったような顔をされたんじゃたまんないし、そんな優先度の低い事を断行して不人気になり、他の切実な政策を打つ事が出来なくなったのでは、これまた本末転倒です。

政権の舵取りが上手くいかないので、どんどん迷走し始めているのが現状なので、このままただ文句を言うだけ、もしくは無関心、いずれにしても中身のない上っ面だけの時間だけを無駄にする方向性で終わってしまう事になる。これでは政権交代しないよりした方が制度的な意味はあったとしても、実質その制度が確立出来ても、政権交代自体が無意味な儀式化してしまう。

さてこの状況を打破する為には、とりあえず景気を何とかするしかない。多少上向きになれば国民に余裕が生まれますので、多少説明しやすくなる。しかし景気対策と言っても、バラマキだと批判する人も多いので、それも中々うてないし、やらなきゃやらないで文句が出てくる。もちろん麻生のようなクソみたいな景気対策なんてもってのほか。

今までの大企業優遇の景気対策を打っても、それがダイレクトに国民生活を裕福にしない構造に変化し、第三の道的な方向性に進むにはむしろそういった景気対策は邪魔にしかならない。余計に企業に頼ってしまうメンタリティを増幅させてしまう。頼っても昔のような役割を大企業は担えない。だけど現段階では景気対策をしようと思えば、大企業をバックアップしない事にはいきなり第三の道に瞬間的にシフト出来るわけがないので、先を見通した先行投資にはならないし、日本の構造問題の是正には全く効果がないどころか延命にしかならないのだけれど、大企業に頼らないとどうにもならない構造がまだ今の時点では根深く日本経済の命運を握ってもいる。したがってここでもバッティングするしかないジレンマに陥ってしまう状況を前にしている。

なので今の局面は非常に難しく、意味のない批判なんてしてる場合では本当はないのです。この解決不能のジレンマ状態、役人の権益を減らし、第三の道的方向性の布石も同時に打ち、尚かつ景気対策になるような方法を打つ必要がある。という難関に対する答えの一つ。それがやっと出て来ましたよ。自分が高速道路無料化に賛成する理由でもあるのです。

現段階のマニフェストの政策の中で言えば、それがもっとも有効で合理的な方法の一つではないかと思えます。それはマニフェストで謳っている事なので、やるのが当然であってむしろやらない事の方が本当は大問題なんですが、今のままだと逆になってしまう。それが当然であるかのように騒いでいる連中が多過ぎるので、このままだとこれを貫徹出来ない。

やっと高速道路無料化に話が戻って来た所で、続きは次回で。
もう一度先の衆院選で何を合意したのか確認しましょう。小泉竹中流の小さな政府というのは皆さん否定したんでしょ?

この路線はサッチャーとかレーガンとかが行って来た事で、成立させる為には条件がある。政府を小さくしても人々のコミットメントによってそれを補う社会が充実しているという前提です。

80年代までは確かに非常に合理的な政策だった。なぜならグローバル化が進んでなかったからです。資本も労働力も国内にとどまっていた。ロシアはソ連であったし、中国はもっとバリバリの共産主義国家で貧しかった。インドも貧しかった。つまり先進国しか豊かではなかった。なのでいくらアメリカと日本が競争をしても、労働が外に出て行く事は無かったから、経済が潤って企業が儲かれば国民も政府も三位一体で豊かになった。

国はなるべく余計な事はせず、行政のまかなう分野をコンパクトにして、後は企業を優遇してなるべく民間の活力に任せ、規制緩和によって戦いやすい環境を整えてあげれば、国民も裕福になるし、裕福になって余裕があれば、行政がコンパクトであっても市民性が社会を補う。企業という共同体が同時に社会としての人々の生活の一部になりそれを支え、また労働者もその企業共同体という小さな社会を支える。労働と社会参加と生活と国家へのコミットメントが、全部企業を優遇するだけで殆ど補えてしまった。

日本ではこの頃は新自由主義路線とは呼べるような状態には遠かったと思いますけれど、この段階で、小泉竹中改革をやっていれば、もっとスムーズに出来たかもしれないし、誰もそれに対して文句は言わなかったかもしれない。まあ役人は国家を小さくすれば権益は減るので反対するでしょうから、出来なかったと思いますけど。

ところが90年代以降グローバル化が進み、放っておくと企業は外に出て行ってしまうようになる。その事によって新興国は飛躍的に裕福になったので、グローバル化をただ否定するわけにもいかないのですが、その事が先進国、特に日本のように加工貿易による外需中心の国家にとってはかなり厳しい状態を余儀なくされてしまっている。

そういう企業は海外に進出すればコストは減りますから儲かるのですが、肝腎の国内が困った事になってしまう。グローバル企業だけが儲かって、政府も貧しくなり、国民も生活水準が下がる。その状態で政府の役割を小さくしてしまうと、企業が担っていた共同体として社会参加や生活を支えていた部分も消えているので、国民は貧しくなるだけでなく、精神的にも寄る辺が無くなる(だから保守化し国家主義的な愛国を叫び柱にすがりたい奴が増え、またそれを利用する輩が出てくる)。それを2000年代を超えて、グローバル化が益々進んでいるのに、その方向を見事に助長したのが小泉竹中改革であったと言える。だからみんな文句を言ったのでしょ?

この20年間で企業の対外純資産、海外に持ち出した金は200兆も増えているにもかかわらず、国民の一家族あたりの可処分所得は100万円減っている。年金資産も減った。税収も全然増えない。

その中で財界の要求は教育に金を使うな、医療に金を使うな、小さな政府、規制緩和で人の首を切りやすくしてフリーターに変えろ、勤労者としての国民の所得水準は下がり、格差が増えて、日本の唯一の競争力の源泉であった人材力が低下し、地方には仕事を3分の2押し付け、財源は3分の1しかあげない。負のスパイラルはとどまる所を知らず、このままではジリ貧確実。それが自民党の政策なんだと、小泉竹中が最後のトドメを刺して見事に失敗して今があるんだと。そういう風に多くの国民が怒りを表明していた。この手のロジックで文句を言う自称知識人もいっぱいいた。そういう風に合意したから、先の衆院選で自民党を否定したのでしょ?自分が言っているわけじゃありませんよ。そういう合意でしょという事です。

80年代の終わりまでは過密と過疎の一極集中型の国家像でも何の問題もなかった。なぜならば太平洋ベルト地帯に人も金もモノも集中して、そこで作ったものをアメリカに売って外貨を獲得するというモデルが成功モデルとして機能していたからです。

それを国土の均衡ある発展の為にバラまいて地方を潤すという過密と過疎によって回す仕組みで上手く回っていた。まさにそれが自民党の国家モデルであり、それでみんながそこそこいい思いが出来ていた。

グローバル化によって集中していたトヨタやホンダやキャノンの工場が中国に出て行ってしまい、売り上げの半分以上は海外になり、雇用も海外では伸びて国内では減らして行く方向性に変わった。太平洋ベルト地帯に頼ってはいられない時代に変化してしまった。その上、東京や太平洋ベルト地帯は凄まじい高齢化によって限界に近づいている。これも大きく先行きに重くのしかかっている。それほど先の話ではなくすでに始まっている。

金がないので地方には配らない。そして自由もあげないというのでは、地方も疲弊してしまい、だから地方が反乱をし始めて、先の衆院選での流れを生み出した。結局自民党は下野するに至る。それは都会に住んでいる人もこのモデルには限界を薄々感じて来ているから、都市部の無党派層もその流れに乗ったのでしょう。今の東京の発想は100年前に出来た都市デザインで、その時の平均寿命が45歳。今は80年とか生きて行く時代であるわけで、これから都市部では更に強烈な超高齢化社会を迎える事に対して考えないとどうにもなりません。東京の人の一時間以上も片道にかかる満員の通勤電車という発想は、現役世代型の街の発想で、そういう所を転換して行かないと、都市部でもこれからは厳しくなる。ここまでは皆さん合意していますよね。

もちろんそこには官僚の無駄遣いやステークホルダーで金を回している構造、自民党の無能ぶりと無責任さ、そういった事に対する怒りの憤激がその結果に結びついたのでしょうけれど、そのベースにはこういった前提があってそれに適切に政策を打てていない、利権に勤しんでいる姿に激怒して先の結果に結びついた。自分がそう思っているかどうかではなくて、そういう風に合意して自民党に制裁を下したように見えるという事です。違いますか?

この構造を転換させる為には方法は一つしか無い。戦後の経済成長モデルを逆回転させて行く事です。すなわち集中から分散への転換、外需中心から内需への転換、ポスト工業化社会への変化です。分権化に皆さんが合意したのもこういう事を実感しているからでしょう。それはすなわち何を意味するのかというと復古による改革でもある。

工場が中心であった時代は、一次産業をないがしろにしていても、外から買ってくれば賄う事が出来た。

工場が海外に出て行き、そのうち新興国から工業製品も輸入するのが更に当たり前になってくるでしょう。新興国は工業化によって一次産業は相対的に減って行きますので、外に売る分は減って行き、また新興国がその事によって裕福になれば価格も上昇してくる。日本の外貨獲得が減り相対的に貧しくなれば、それは家計を直撃する。だから自給率を騒いでいるのでしょ?

それはエネルギー自給率にも同じような所があって、自然エネルギーが騒がれるようになった背景もそういう所がある。石油というのは環境に悪いとうことでダメだという人も多いのですが、その事よりも厄介なのは、どんどん価格が上昇して行く可能性があるという事です。どんどん減って行くのだから、当然価格上昇のプレッシャーは強まり、新興国が裕福になれば益々その圧力は高まってくる。

それに対して太陽光にしろ風力にしろ、その機械は高コストですが、エネルギー源そのものはただで基本的に減らない。そして石油と違ってどこにでもある。なのでいかに現段階では高コストであるしかない発電設備を普及させてコストを下げていけるか、テクノロジーの進歩によってコストを下げて行くのか、その辺が問われている。普通に予想を立てれば、石油は値段が上がって行き、自然エネルギーは価格が下がる。いずれそれは交差して、コストが逆転する。それをグリットパリティと言って、それをいかに早く進めるのかを今いろいろ模索しているのが世界の流れでもあるでしょう。

本当は食料自給率の問題もエネルギーの問題もいろいろ疑義があるのですが、それはひとまず脇において、食料の問題も農業の重要性が今騒がれているのも価格の上昇圧力の可能性と、工業製品の加工貿易の限界から、産業構造の転換の必要性に迫られて、そういう話になっている。

しかしそれだけで問題は解決しない。そのまま放置しておけばいずれ国力も新興国に抜かれてしまう。つまり一次産業品を日本人に売るよりも外国に売った方が儲かる場合、それを日本人だけに売れというのもおかしな話です。農家もその方が儲かって裕福になれるのなら、それを目指す事を禁じるのはいい事とは思えません。外国に売れば工業製品での外貨獲得が相対的に減って行く穴埋めとしての外貨の獲得につながるし、だから農業の自由化の問題の必要性も迫られている。海外のマーケットに出て行く為には、国内のマーケットを閉じているわけにもいきませんから。

そうなるとそういった一次産業へのシフトとともに、それを日本国内で賄ってそれを海外に売って外貨を獲得し国力を維持する、やがて新興国に抜かれる可能性のある加工貿易による現在の産業構造からの産業転換をしないと回らなくなってくる。工業製品主体の製造業はグローバル競争に生き残る為には海外に拠点を移した方が合理的ですから、そういう企業にとっても国内の労働者に気を使わねばならない現状よりは、純粋に勝負も出来るようになるし、もちろん全部海外に移転するという事はあり得ませんので、その事がそういう企業に勤めている方々にとっての、雇用と賃金を安定させる為にも効果的なはずです。その為の構造転換が必要なのです。

農林水産業、観光業といったような産業というのは、地方中心で、空間と人手を必要とする。そういう産業は気候や地理的な条件に制約を受けるので、集中出来ませんから分散化するしか無い。その為に分権化という話が必要になっているというのは皆さんも承知の上での事でしょう。だから自民党ですら分権化と言っていますし、地方の首長もそれを言っています。東京の人はそれで地方への負担をしなくて済むと思って賛成しているのかもしれませんが、都会の人だって無関係ではない危機ですから、もちろん長期的な視野に立ってみればそういう方向性しかないという事で合意しているのだろうと思う。

いずれにせよ、この方向は一歩間違えると斬り捨てになる可能性も十分ありますし、一時的には産業構造転換の過程で余計に都市部への一極集中を加速させる事もあり得る。地域間格差は必ず出てくる。問題は全部一次産業中心、サービス業中心の産業構造にいきなり移行は出来ないので、そこをどうするのかがいろいろ問題になるわけです。もちろん企業が都市部に集中する事なく、地方に分散していくようになるのが更に理想的な形なので、その辺をどうするのかも課題になる。

その過程では過渡的にはどうしても移動手段は自動車に頼らざるを得ない地域が圧倒的になるでしょう。鉄道のような移動手段はある程度集約化されていないと、逆に非効率になる。鉄道だから環境に優しいというのは、ある程度の人数がある程度の頻度で利用しているという事が前提になって初めて意味のある話で、その移行期には必ず自動車が主役の社会にならざるを得ない。

だからハイブリットとか電気自動車の普及も進んでいるのだろうし、国策としてそういうものを推進しないと分権化しても移動手段が無い。あっても環境を著しく悪化させてしまうのではマズいという事で。ここまでは民主党か自民党かというのは関係なく、みんなそういう風にするべきだと言っていますので、国民もそれはある程度納得しているでしょうし、納得出来なくともそういう風になっているというのは理解しているでしょう。これは自分が言っているわけじゃありませんからね。一応そういう前提を共有している。

同じような事がイギリスのサッチャー政権で起きた時に、ブレア政権が生まれて第三の道へとシフトした。グローバル化は不可避、企業がその中で競争するのもこれもしょうがない。その事を悪く言う事は出来ない。

しかしその事を企業に任せて放置しておくと、国民は貧しくなり、社会が壊れてしまうので、教育や医療や生活や農業のような、製造業でない、ポスト工業化社会の産業に成長させる為にどんどん投資する事によって、イギリスは16年も成長を続けた。そういう方向性がグローバル化後の先進国の合理的な成功モデルの一つでしょう。今の第三の道の方向性は結構正念場にさしかかっているとも言えるので、その路線を取れば必ず成功出来るなんて言うつもりはありませんけれど、事実上、日本では旧来の大きな政府的再配分や小さな政府路線を否定しているので、それしか選択肢はないとも言える。少なくとも現段階においては。

なので2000年代に入ったにも関わらず、小さな政府路線を打ち出した小泉竹中改革は時期としては10年以上遅かった。もっと早くそういう方向にシフトしていればもう少しサブスタンスもあったのでしょうけれど、バブル崩壊以降長い事構造転換出来ずに放置されてしまった地方経済にはとてもそれを耐えるようなバッファは無くなってしまっていたし、都市部で働く人も相対的には地方に比べれば高い賃金とは言ったって、都市部の物価や賃貸料に比べると、安い賃金と劣悪な労働環境を耐えていたので、希望を見いだしたものの、それが直接自分達の生活を向上させるものではないという事にたいして怒り始めてしまう。なので中途半端なものにしかならなかった。

自分は小さな政府とか、新自由主義とか、市場重視の方向性というのは、確かに遅かったとは思っていますけれど、小泉竹中路線のように小さな政府に一回シフトしないと、第三の道へのモチベーションも生まれなかったのでしょうがないとも言えると思っています。選択肢もそれしかなかっただろうし、遅すぎたとは言ってもそこを経由しないと先に進まない。ただ自民党にそれが出来るとは思えなかったので批判していた。

小泉竹中だけでなく、小沢だってにたようなことを言っていましたし、民主党だってずっとその路線を主張していた。それはなぜかと言えば政府の非効率は是正される見通しが全く立たず、事後チェック型の構造転換も進んで行かなかった。そこを手当てせずに、いきなり第三の道を言い出しても国民は絶対に納得しなかっただろうし、事前チェック型の利権、国家の再配分政策にぶら下がる構造が全く手のつけられない状況であったわけで、そういう事を放置したまま、弱者救済なんて言ったって、あの当時の空気から考えると、絶対に合意は調達出来ないに決まっていた。ご存知の通り自己責任という言葉を、まあありとあらゆる所で老若男女が雄叫びをあげていたわけで、抵抗勢力をとにかく叩かないと気が済まない鬱憤が溜まっていたのでしょう。

それに80年代は小さな政府が合理的だと言ったって、役人は抵抗するに決まっているので、そう簡単な話ではなかっただろうし、00年代に入って20年遅れのネオリベ路線に一応舵が切れたのは、国民が役人の腐れっぷりにいい加減我慢の限界が来ていたからでもある。

ただ繰り返しますがこの路線はすでに遅すぎたので、やるならスピードが重要だったし、徹底的にやらないとみんなは納得出来ません。末端を斬り捨てて、ステークホルダーの利権は温存では、納得出来るはずもない。末端を切るのは簡単ですが、ステークホルダーの利権というのは政治家にとっても中々突っ込みづらい所でもあるので、そう簡単には突破出来ない。突破出来なければ当然騙された感が広まってしまいますので、ステークホルダーの利権温存の為にそういう不満を利用されてしまう。結果的にステークホルダーと派遣で苦しんでいる人が同じ主張になっちゃったりする。

自分はそこの順番が逆だろと言ったり、小さな政府?どこがだよ、天下りは増えてんじゃねえかよ、特殊法人も増えてるぞ、郵政民営化も道路公団民営化も、肝腎要の部分は骨抜きじゃねえか、それは小さな政府じゃなくて、権限も中央が握ったまま責任だけ末端に押し付ける、インチキ改革じゃないか!!という感じで批判していましたけれど、基本的に新自由主義や小さな政府、市場重視の方向性に文句を言っていたわけではありません。その方向性自体を批判した事も無い。本当はそこに問題があるわけではないという事を解っているのに、まるでそれが悪であるかのような小泉批判が横行し、小泉を支持した連中までもが、それに拳を振り上げていた、そしてそれはステークホルダーの利権温存にとっても都合のいい力学として利用されてしまうので、絶対に加担してたまるかと、むしろ何度も何度も新自由主義にしろ小さな政府路線にしろ、市場原理主義と言われて忌み嫌われるものも、小泉のはインチキだけど、それ自体が悪ではないと繰り返した。自民党支持者じゃないのに。

自分が言ったのは、やるなら早くやれというのと、それが全然足りないということを言っていた。それ以前に所詮自民党に出来るわけがない。小泉が人気を得るという事はその裏に隠れている自民党の薄汚い連中の延命になってしまうので、小泉を批判していた一番の理由は政権交代最優先だったからです。そもそも合理的な政策がなんであるのかという問題よりも、その政策を走らせる仕組みが無ければ意味が無いからです。これはすでに書きましたね。

それをふまえると今回のマニフェストで民主党の打ち出した方向性というのは、家庭や生活者、国民個人へ政府が金を分配すると言っているので、今までの企業優遇の社会や個人は放置の方向性から考えれば、企業に頼らないと社会が回らないような状況を手当する意味で、第三の道の方向性に向かいつつあると言える。ポスト工業化社会の分権化を前提とし、個人の生活を重視した経済政策であるとも言えるので、最初の一歩としては間違った方向は向いていないと言えます。それに第三の道を掲げたイギリスというのはバーク流の保守主義の伝統の国でもあるので、前回書いたような日本のネガティブだとされる前近代を引きずったマインドを持っているという事が、逆に上手く作用する可能性もある。日本にとっても比較的可能な方向性なのではないかと思える。

それに農業技術にしろ、環境技術にしろ日本は世界トップクラスの技術力を持っており、それが最大のリソースに化ける可能性を更に生かす方向性でもあるし、なんだかんだで日本は自動車大国であり、先進国トップクラスの道路大国でもあるわけで、分権化の過程で自動車が主役になったとしても、ちゃんと活用出来るような(例えば、このネタのテーマにもなっているような)政策を打てば十分対応出来るだけのものをすでに持っている。観光産業にしたって、まだまだ日本には人を呼べるだけのものが沢山ありますので、それを生かせば、十分復活出来るだろうし、むしろ使い尽くしていないのが現状ではないかと思える。これらを生かす事が出来さえすれば、比較的スムーズにその路線にシフトしやすいと言える。

問題はそれを貫徹出来るか否かであり、どれだけ充実させるのかでもある。そこがだいぶ怪しくなって来ている。なぜならそこには大きな落とし穴があるからです。これは第三の道に進む為の前提条件である小さな政府路線が中途半端でしかなかった事にも起因している。もちろん民主党の能力不足や準備不足、そしてそもそもその気がなかったのではないかと思えるような閣僚もちらほら見え始めている。おまけにマニフェストなんて無視しろって話も膨らんでいるし、このまま放置しておくと次の参院選にはかなり高い確立で梯子を外されて、それこそ本当に何も出来なくなる。すぐに引きずりおろせればまだしも、その後の衆院選まではまだまだ時間があるわけで、いずれにせよ選んでしまったからにはそう簡単に引きずりおろす事も出来ないので、何とか無駄に時間を浪費させないような方向性へとプレッシャーをかけないと、益々復活の経路は閉ざされてしまう。

更につづく!!