我々は何を先日の衆院選で合意したのか?政権交代を選んだのは誰なのか?それは民主党の責任でも自民党の責任でもないはずです。選択した人間が決めた事であり、誰かや何かのせいにした所で意味は無い。自分で選んだのに、民主党に責任があって自分には責任が無いのか?

選択したけど選択肢が無かったからしょうがない?民主党が全部悪い?批判するのはいいでしょうし、文句を言うのも勝手です。そしてもちろん選択肢が無いというのも本当だろうし、民主党の未熟さに問題があるのも正しいでしょう。しかしどんなにその事が正しくても、誰がそれを選んでいるのか?ここを引き受けないと意味は無い。支持した人はそこを絶対に避けては通れない。

どこかに悪者がいるのなら選んだ人間が一番悪いはずです。文句を言う前にまずそのおとしまえを選択した人はつけるのがスジってもんでしょう。選んでしまった以上そいつらの政策が間違っていたり、サブスタンスが無かったりするのは選んだ人間のせいです。自民党を否定しただけだから悪くない?騙されていたから悪くない?それじゃ前大戦から何も学んでいない。悪いのは軍部だ!!国民は騙されていたんだ!!と自らが選択した事をすっ飛ばして被害者面している連中と大差ない。

小泉自民党の頃にこの国は一丸となってイラク戦争を支持しました。その小泉を世論の8割も支持していた。イラク戦争支持の世論もだいたいそんなもんだった。その後ブッシュが不人気になり、小泉が不人気になって行く過程で、支持していた人達は何の責任も感じることもなく、ブッシュの石油が云々、小泉の対米追従が云々、こういう批判をする輩がいっぱい出て来た。自分は、お前らはイラク戦争の引き金を引く事を賛成したじゃないか。小泉のせい?ブッシュのせい?ふざけんじゃねえよ。お前らはイラクの無辜の民をぶっ殺す事を支持したではないか。という事を書いた。支持していたくせにそれをすっ飛ばしてイラク戦争や小泉に文句を言っている奴は最低だと思った。

支持した事の取り返しのつかなさを自覚し、戦争や殺しの片棒を担いでいた過ちを徹底的に反省するのが先であり、それを引き受けもしないで文句を言う資格など無い。それに文句を言うのは、みんなにバカ扱いを受けても、売国奴、反日分子と罵られても、イラク戦争に反対をしてバッシングされていた自分達のような人間がするから、お前らはその前にやる事があるだろうと思った。非常に不愉快な気持ちになった。

取り返しのつかないような過ちだけれど、人は過ちを犯すもの、だから間違えてしまった事に関してはしょうがないと言うしか無い。死んじゃった人達からすれば、しょうがないだと?しょうがないじゃすまねえんだよって怒られてしまうでしょうけれど、取り返しはつかないのだから、反省し、それを何らかの教訓に生かして行くしか、過ちを犯してしまった人間に出来る最大の償いはそれしか無い。自分もそこは責めるつもりは無い。自分だって間違う事はいっぱいありますから。だけど、そこをすっ飛ばして小泉批判やブッシュ批判をするのは、順番が違うだろうと思う。

今それと全く同じ図式で文句を言い出している輩が増えている。これでは何も変わらない。例えどんな理由があるにせよ、自分が選択して何かの暴力性に加担しているという事実をまず認識した方がいい。問題があるのなら最初から支持なんてしなきゃいいわけで、その暴力性に加担しておきながら、何かのせいにし、自分達のせいで政権交代が起こっちゃった事を自覚しないのは卑怯者のする事です。民主党が悪いから支持した我々が無垢である何て考えているようじゃどこの政党を支持したって同じ。

支持した以上すでに何らかの結果は生み出しており、それは何らかの暴力性を生み出している。文句や不満を言うのは自由ですが、支持をしたという事をすっ飛ばすのはみっともない。ものには順番というのがある。梯子を外すのは構わないけれど、それをするのなら、その前に徹底的に自己反省するのが先です。まして、何らかの言論をしたり、ブログなどを書いたりして、人に影響を与えておいて、政権交代の力学に加担しておいて、そこの反省をすっ飛ばして、自分に責任が無いかのような立場に身を置くのはずるい、文句を言うのは民主党を支持しなかった人達に任せればいい。どんな理由があれ政権交代を支持した人は、すでに中立な立場に身を置いていないのだから、そこをまず徹底的に解体し自己反省をした上で、梯子を外すなりなんなりすればいい。そういう最低限の常識もわきまえずにわかったような事を言うのは、元々反対していた人間からすれば不愉快でしょう。それが礼儀ってもんで失礼です。

という風に、梯子を外して責任が無いかのように振る舞っている人にムカついてしまう気持ちはあるのですが、実際問題、文句が言いたくなるのもわかるし、自分だって本音を言えば、民主党を支持して来たというよりも政権交代を支持して来たので、民主党に投票しちゃって政権交代が起こっちゃったから、サブスタンスを求めたり、梯子を外しにならないような批判を書くようにしてますが、実際ムカつく気持ちはわかる。まあマニフェストを無視しろと言うつもりは、これは仕組みの問題なので全くありませんけれど。

誰だって考え方が変わる事はあるわけですから、別に梯子を外したい人が梯子を外したとて、政治家の責任に比べれば遥かに軽い話でもあるし、自分で責任を引き受けろと言ってしまうと、要は自己責任のロジックと一緒になり、政治家を免罪してしまう事にもなるので、権力を牽制するには、そんな固いことを言っていたのでは太刀打ち出来ません。それにマスコミが牽制としても批判としても全く役立たずな現在、そういう梯子外しだってある種の牽制くらいにはなるわけですから、まあ言いたい人が言いたいことを言うのは自由ですので、中身がなくともそういう人が一定数出てくるのは仕方のない事でもある。みんなで翼賛状態よりは健全であると言えます。権力という圧倒的な暴力装置を牽制するのに、常識や筋道なんて気にしてたら、絶対にかないっこない。そもそも圧倒的なリソースを持っている相手に向かって、しかもそれが国の舵取り役の人間に対して、フェアに勝負するよりも、卑怯でも小汚くとも優先させる事はある。

という事で本日は少し視座を変えて、ネガティブな政治参加によって合意が調達出来ない事に関して、日本は市民性が未成熟であるというような言い方を自分も含めてしてしまうわけですが、レヴィ=ストロース氏が死んじゃったので、ちょっと彼の構造主義的な観点から、そういう自分も含めた言い方に対する反省も一応書いておきます。遠回りばかりで申し訳ありませんがそこから新たにまた一つの鍵が見えて来ます。

そもそも市民性が成熟していないというのは、西洋的な民主主義システムや国家像を理想型としているという前提があります。ポジティブな政治参加が良い事であるというのもそうです。西洋型の国家像が優れていて、日本の国家像が劣っていると断定してしまうのは、構造主義的な観点からすると完全なお門違いであり、それこそがある種の抑圧と暴力を含んでいます。

それがある視点から見ると野蛮で前時代的で劣っているように見えたとしても、物事の裏側には実は巧妙で精緻な構造を、伝統や慣習による英知によって守られているという事を、レヴィ=ストロース大先生は思い上がった西洋主義的なお門違いの上から目線の前に突きつけるわけです。くぅーっ、かっこいいじゃないですか。

システムというのは人がコントロール出来ない領域だと書きましたけれど、そういうものを実は長い長い歴史の蓄積によって自然に形成され、例えば日本人的なネガティブな政治参加や、空気支配、自明性の変化によって簡単に覆る価値観と言ったような特性も、何らかの合理的な日本人の英知の残滓であると捉える事も出来るでしょう。だからそれが間違っているとか劣っているというのは勘違いもいい所で、そういう意味ではなくて、そもそも民主主義のような欧米的な仕組みを導入しているからそれはそういう風に見えるだけに過ぎません。

だからどちらが間違っているのかという事には意味は無いと思いますがあえてそれを言うならば、システムを人が設計してなんとか出来ると勘違いしている欧米的な思い上がった近代の国家像そのものがそもそも過ちの原因だと捉える事も出来る。

日本はそもそも江戸時代には250年にも及ぶ繁栄と平和をちゃんと守って来た。それはおそらく今でも日本人的な価値観には残っており、西洋的な上から目線で言えば市民性の未成熟という言い方で否定されるでしょう。しかしその英知があったから、250年にも及ぶ繁栄と平和を守って来れたのだろうし、開国と言われる近代化のスキームにスムーズに適応出来た。

ただ残念なのは、すでにその時に思い上がった西洋的なシステムを人の手でコントロール出来るという勘違いの国家像にシフトしてしまっている。だから日本人的な価値観がそれとバッティングしてしまうわけで、日本は外圧によってその変化を余儀なくされているわけだから、そもそも日本人が悪いわけでもなんでもない。余計な干渉をして、人の庭に踏み込んで来た欧米の暴力性に対抗する為に選択肢が無かったからそうしたわけです。

しかしその事を今更悔いても後戻りは出来ないし、近代の国家システムはこの国にかなりの深度で根ざしてしまっている。それによる恩恵も散々受けたのも事実。元に戻そうと思ってもそれは不可能な事なので、現時点で適応するしか無い。しかし何らかの合理的な必要性があったから、残っているはずの日本人のネガティブな政治参加という行動原理や市民性の未成熟と呼ばれてしまう、いわゆる民度の低さ、お任せ主義、空気支配、抜け駆け意識、悪い言い方ばかりですが、こういう発想を捨てる必要は無い。何らかの合理性があるから残っているのだろうし、必要なければ無くなっているはずです。必ずそれと表裏になった日本人の善き特性もそこには隠れている。

例えばコミットメントという言葉をよく使いますけれど、そもそも日本では社会に対するコミットメントが無かったのかというと、そんな事は無くて、お祭りや寄り合いと言ったような、地域への伝統的なコミットメントはあったわけですし、それは制度的な縛りではなく、伝統や慣習によって、めんどくさいけど、無視するわけには行かない、ある種の空気支配の縛りによって参加するような構造があった。

それが近代化の過程で天皇主義を利用した国家へのコミットメントへと人工的に設計したり、戦後はそういう古いコミュニティの縛りのようなものは抑圧なんだと壊してしまったわけですが、結局近代が行き詰まって今何を言っているのかと言えば、政治にコミットしろ、社会にコミットしろ、地域にコミットしろ、と言っているわけです。そもそもあったものを壊しておいて、今更そんなことを言ったって、ちょっとおかしいんじゃねえか?という気がする。こういう所が自分が仕組みにしか興味がわかない所でもあるのです。こっちだあっちだと引っ張りあっちゃいるけれど、どっちが正しいのかなんてのはその時々で変わってしまうし、ある種のトレンドと同じ。仕組みさえ整っていればその上のトレンドや流れなんかはたいした意味は無いのではないかと。

自明性が簡単に覆るようなマインドも、これは意味や自明性からの縛りが比較的軽やかだからなせる技で、その事が例えば西洋的な目線から見ると、ポストモダンに見えたりするわけです。梯子外しという言葉もそうで、何かの合意や決定によって生み出される暴力性に対して、ある種の脱構築機能がそもそも国民の意識に備わっているのですから、小難しい議論でポストモダンなんかを論じるまでもなく、伝統と慣習の中に安全装置が組み込まれているという事も出来る。

空気支配の構造も悪い事ばかりを自分も含めて言いがちですが、これは自明性が簡単に覆ったり、梯子外しによる視座のずらしのような、ある種の自由な、縛りの軽さに対する安全装置であると捉えれば、それなりに合理性のある特性であるとも言えるでしょう。自由がいい事だからと言ったって、それも度が過ぎれば暴力や抑圧を生み、自由の押し付けや、無軌道で無規範な自由へと堕落してしまう。それが行き過ぎないような共同体の空気による縛りがある種のバランスをもたらしていたとも言えるわけです。

日本は元々血縁社会ではなく、家社会です。血がつながっているかどうかよりも、同じ家共同体の構成員同士の結束の方が強い。だから昔から養子なんかはバンバン普通にあった事だし、いったんそれで共同体内部に組み込まれてしまえば、血なんかつながっていなくとも、正統性は担保されてしまう。今でも企業買収なんかが騒がれると、敵対意識をむきだしにしたりしますけれど、いったん共同体内部に組み込まれてそれなりに合理性があったと自明性が変化してしまうと、それは新たな仲間として協調出来るようになる。ゴーン社長、バレンタイン監督、見捨てないでって話になる。内輪の論理や排他的な共同体主義というのを、自明性の変化のしやすさが簡単に内輪や共同体の定義を変えてしまうので、強固な結束がむしろ寛容な包摂性を担保してしまう。

鬼畜米英がマッカーサー様ありがとうに変化する事に対しては、例えば散々人を死に追いやっておいてふざけんじゃねえよと自分も思ってしまったりするのですが、自明性の変化や空気が変われば一気に変わる、まあ悪く言うと長いものにまかれるとか、態度を豹変させるとか、恥じ知らずとかいくらでも悪く言えてしまいますし、自分もムカつく所はあります。だけど、現実に適応する為には格好つけていてもしょうがないのも事実なわけで、更に人がいっぱい死ぬよりはよっぽどマシだと言えるし、変化を受け入れておきながら、文句を言っていても始まらないのは事実なので、その変化に適応して最適化するというのは、格好は悪いかもしれませんが現実的だと言える。

いつまでも意地を張って文句を言っている人達はスッキリはするかもしれませんけれど、適応が出来なければ置いてけぼりを食らう。空気が変わって一気に態度を豹変する輩がいっぱい出てくれば、置いてけぼりを食ってしまう人達に対して、いつまでも意地を張るなよこっちへおいでというプレッシャーとして機能するだろうし、体面を気にせずに豹変する事への罪悪感を気にせずに、新しいスキームに適応しやすくなる。その方が現実的対応という事を考えれば合理的です。理想じゃ飯は食えない。格好悪くても生活の方が重要ですから。

この国の歴史を見ると、例えば関ヶ原から大坂の陣にかけて、徳川幕府の成立の過程で、豊臣政権の子飼の武将達がまあ情けないほどに空気を読んで態度を豹変させます。しかしその頃のそういう人達というのは、現実的な対応をしていたわけで、武士の対面とか大義とかそういうものよりも、実際の現実に対応した。それは格好悪いかもしれないけれど、人の上に立つ人にとってはそっちを選ぶ人の方が資格はあると思えます。

もちろん最後まで徳川政権に抵抗していた人達はかっこいい。男らしいと思う。明治維新の時もどちらかと言うと速攻で薩長になびくよりも、抗った人達の方が自分はかっこよく見えてしまう。だけど正しさよりも優先させるべき事はあるはずです。情けなくともそれを選択する方が、多くの人にとっては現実的な決定なはずです。

義とか道徳を叫ぶよりも、義や道徳が意味のある社会を構築する為に、それこそありとあらゆる権謀術数を用いて、天下を治めた家康の方が、結果的にそういう世の中を実現している。(自分はどうしても何をなすかよりも何かをなす事の意味のある社会を構築する人の方にシンパシーを感じてしまう)。

島国根性とか、蛸壺的な鍔迫り合いとか、まあいろんな言い方で排他的な内輪の論理に対して否定的な物言いが多いし、自分もそれを言ってしまう。反省すべき点です。蛸壺とか内輪の論理とか言うと悪く聞こえますけれど、各共同体それぞれが、それぞれの価値観を持ち、独立独歩の気風を持っているという言い方をすれば、それは全然悪い話ではないわけで、そういう細かいスフィアが相互牽制によって、時には共同戦線を張って、それぞれが自立して思考するというのは、他でもない分権化の最大のリソースになりうるわけです。地域共同体のコミュニティの復活にとっても非常に有効な思考法でもある。明治以前は例えば会津には会津の薩摩には薩摩隼人の独立独歩の気風があり、それが共同体の縛りや、愛郷心、コミットメント、相互牽制の役目を果たして、上手く機能して来た。

それが欧米からの圧力や近代化によって、薩摩や会津の凄まじい愛郷心をモデルにして、日本の愛国心や天皇主義を人工的に作り上げ、靖国によってそれを国家が吸い上げる中央集権的な仕組みを構築した。西郷は靖国に奉られていない。それを更に最初はよかれと思って亜細亜主義まで押し広めて行って、それが途中で暴走して単なる押しつけだと余計なお世話だという事で反発を招いてしまいましたが、近代化以前の伝統と慣習によって培われていた自然なパトリオティズムまで遡れば、今必要だと言われているものがそのままあるわけで、しかもその頃のマインドはまだ日本人のネガティブ性として批判されがちな精神の中に残っている。

ただそれぞれの蛸壺が中央集権国家であるが故に、権限が無いが故に、リソースも無く自立して思考出来ずに、鍔迫り合いやクレクレ主義、島国根性や内輪の論理での少ないリソースの分捕り合戦、抜け駆け感と悪い側面ばかりが目立ってしまいますけれど、これからの国土あり方や方向性を考えると、そんなに悪い事ばかりではないはずです。

革命によって伝統をぶっ壊し、人工的にシステムが作れると錯覚し、海外にそれを押し付けておきながら、やれポストモダンだの、脱構築だのと、理論付けしないとそう言うものが無くなってしまったスカスカな社会を世界に広めてしまった連中が、勝手に近代が合理的であると錯覚しているだけで、元々伝統や歴史の長い蓄積によって当たり前の慣習の中に、実は複雑な理論や計算に基づいても設計出来ないようなシステムが自然に蓄積されて構築され巧妙に隠れていて、それは短期的且つ人工的に生み出したペラペラのいちいち理論づけしてわざわざ人にコミットを強要しないと回らないような近代のシステムよりも全然合理的であるとも言えるわけです。

だけどそれだけでは近代社会というのは残念ながらドライブ出来ない。人の手でコントロール出来ると勘違いしちゃって、構造をいじくってしまったもんだから、それだけでは足りない構造に変化してしまった。その事を嘆いてももう取り返しはつきません。なので、そういう古い英知も残しつつ、そもそも不可能なシステムのコントロールに挑んでしまったが為に必要になってしまった、西洋的な市民性の成熟というという発想も取り込んで行かねば、変化してしまったシステムは我々を傷つけてしまう。

そしてここが重要なんですが、我々はその過去の英知というのが幸いまだ残っている。その過去の英知によるネガティビティも十分承知している。そして変わってしまった事によって必要な市民参加がなんであるのかも解っている。なのでこれを上手く融合出来れば、欧米的な価値観では見えない所の問題にまで目が向くようになるはずです。近代国家に必要な価値観さえあれば近代化はドライブ出来ます。プラス日本には過去の英知が残っている。それを持っているという事は視座を輻輳させる強力なリソースとなりうる。近代国家の方が優れていて、そこに至っていない国家は遅れているという思い上がった暴力性を脱臼させる事も出来る。もちろんこの二つはバッティングするので、いいとこ取りをして、都合良く使い分けてしまうと、逆にマイナスにしかならないでしょう。多分今の日本が上手くいかない理由もその辺にある。しかしその事を十分認識した上での視座の輻輳であるのなら、日本人にしか見えない視座というのが必ずあるはずです。それは日本だからこそ可能な可能性であり、上手く使えば最大のリソースにだってなりうる。日本は明治維新後の近代化にしろ、戦後の再近代化にしろ、凄まじいスピードでこれを遂げている。にもかかわらずその時に古い価値観を否定して捨てていない。ちゃんとそれは今でも残っている。

例えばこのお話は高速道路のお話なので、そこから例をとりますと、名神や東名を作った時は、アメリカに提示した金額から3割削られても予算内で建設しました。東名なんかは東京から名古屋まで6年で作っている。この考えられないような優秀さは一体なんだったのか?

戦前のデモクラシーだって、ちょっと前までちょんまげをつけていたのに、誰の手も借りず、日本人自身の知恵と工夫で大正時代にはイギリスなんかに匹敵するような立憲君主制や議会制民主主義を実現している。これは奇跡としか言いようがありません。戦後の日本も随分と時間はかかっちゃいましたが、やっと政権交代可能な構造にシフトし、民主主義がやっと機能し始めて、その第一歩を踏み出した。大正デモクラシーには遠く及びませんけれど、少なくともマスコミのゴミ情報に抗う事は出来るようになっている。これはある意味その頃にはなかったテクノロジーのおかげですが、それが新たなこの国の可能性を開いた。

キリスト教的な神もおらず、アリストテレス的な形式論理学も根付いていないこの国において、地理的な条件や冷戦という特殊な外交事情があったとは言え、問題があるとは言え、亜流とは言え、民主主義と資本主義をドライブさせここまで大国にのし上がった国は他にありません。それは一種の奇跡に近い事でもある。間違いなく自信を持っていい所でしょう。特別な美しさや気高い精神と言ったような道徳や伝統を賛美するよりも、我々の通常性の中にある時に醜く、時にネガティブに批判してしまいがちな慣習や価値観の中に残っている、その奇跡的な可能性は十分自信を持っていい所だと思えます。

今の日本の官僚システムというのは優秀さを、税金をなるべく多く使って、出来るだけ時間をかけて、その金を分配し無駄に使い果たす事に能力を使ってしまっている。しかし自明性さえ変われば、ルールさえ変われば、日本人はその枠の中で最適化する事に長けた民族だと思えます。だから枠組みを考える事は苦手だけれど、ある枠組みでいったん合意して適応したら負けない底力はあると思う。

今のシステムで何が足りないのか?その事は解っているのだから、それを取り込んで枠組みさえ決まってドライブ出来れば、まだまだ日本には復活の経路は残っていると思います。我々は何を先日の衆院選で合意したのか?政権交代を選んだのは誰なのか?その事を自覚すれば何をなせばいいのかもわかる。そして足りないものはなんであるのか?それを見つめ直せば出口はあります。

そしてここが肝腎要の肝なのですが、その我々が捨てなかった価値観こそがこれからの日本の目指す方向性にとって非常に重要な鍵になる。近代化の為に必要な足りないものをそれはそれで取り込んでその枠組みで思考し、古い価値観は価値観でバッティングしないように独立させて思考すれば、その古い価値観こそが今必要なものでもある。それが残っているという事が最大の強みになる可能性があるのです。なぜならこれからの日本に必要な方向性は復古による改革と言えるからです。天皇陛下を中心とした国づくりの尊王思想とかそういう話じゃないですよ、それを次回から見て行きましょうね。

やっと回り道が終わって問題の本質へと向かいます。

つづく!!
鳩山の脱税疑惑で騒いでおります。これはすでにかなり以前の段階でわかっていた事です。それで政権交代しちゃったから、てっきりみんなそれでいいと思っているのかと思っていたのですが、怒っている人も結構いますね。

自分も相当以前のブログで取り上げて、ボロクソの滅多斬りに批判した事があります。政権交代目前に迫っていたのですが、これを放置してしまうと、必ず政権交代出来たとしても民主党の致命的な弱みとなってしまう可能性があったからです。もちろんこういう意見はこの段階では非常に人気がないというのもわかっていましたが、散々クソミソに書いた。詳しくはこちら

これをマスコミがきちんと報じないという事は裏がある。そしてこれが脱税であるのなら、国民に隠蔽していても国税庁にはバレているであろうから、おそらく財務省とはバーター取引がすんでいるだろうし、こういう弱みを抱えてしまっては役人の権益にはおそらく及び腰になるしかないので、何も実行出来なくなるぞと。そしてすでにこの段階で、記者会見開放もないかもしれないよという事も書いている。案の定、平野バカ官房長官のおかげで、官邸の記者会見はあれほど開くと公言していたにもかかわらず、開いていません。もちろん鳩山首相も知らないわけはない。それはすなわちマスコミともバーター取引をしているわけで、というかあの段階ですでにしていたのかもしれない。だからマスコミのこの問題に対する批判も及び腰にしかならないという事まで書いています。

政権交代する前だからこそ、徹底的にぶっつぶしておかないと、政権交代後のサブスタンスは無くなるぞと書いた。というかこれが脱税でないとしても、明らかに問題化される弱みになるに決まっているわけで、鳩山が党首である以上、民主党の改革は何も期待出来なくなるよ。可能性はほぼゼロですよとまで書いた。そしてそうであれば期待するしかない岡田さんに関しても、鳩山よりはクリーンな分だけマシかもしれないけれど、ダメだよあれじゃ、民主党が政権をとっても何も出来ないよとキッパリバッサリ斬り捨てております。

自分は政権交代原理主義者でしたが、この一件が問題になって政権交代が出来なかったらそれはそれで仕方がないと思っていた。政権交代してもサブスタンスがないんじゃ政権交代出来たという意味以外は意味はないし(もちろんそれがない状態よりは民主制の仕組みの構築の為には一歩前進ではありますが)、今潰しておかないと、政権交代後に必ずそれが弱みになって支持率悪化やそれを打開する為の弥縫策というパターンに陥るぞと。だったら一時政権交代を逃したとしても、膿を吐き出した後にリベンジを果たした方が、一気に問題にコミット出来るのではないかという事で。

この時点で、自分のブログを読んでいる方は基本的に民主党を支持している人か、少なくとも自民党はもう支持出来ないと思っている人が、大半を占めているだろうという事は想像出来た。さすがに自民党や麻生ダーイスキ!!という人が自分のブログの読者だったらたいしたもんです。多分いないだろうし、いたら相当胆力がある。そういう人が麻生を支持するとも思えませんので、だから多分読んでいる人がイヤな気分になるだろうなとは思ったけれど、民主党を支持して、もしくは自民党を否定して、政権交代をさせるという事の覚悟を持ってほしいと思ったのでこれを書いたのです。おそらく梯子外しも始まるだろうし、政策的にかなり分厚い壁があるだろうというのも簡単にわかる。だから今(あの時の段階)ならまだ引き返せるよ。おそらく絶対絶望するよ。世論の梯子外しもあっという間だよ。政権交代支持するのならそれを念頭に置いてね。自分で支持をしたという事に責任を持ってね。と。

しかし今は政権交代してしまった。今更この事を叩いても手遅れです。しかもそんな事はすでにわかっていた事であり、政権交代させといて、これを騒いでも何の意味もない。今の状態でいかに意味のある状況に持って行くのか?いかに一歩でも前に進むのかを考えないと時間を浪費するだけです。

今の段階で必要なのは、政権交代に加担してしまった自分も含めた人達にとって重要なのは「ノーベル賞をオバマ大統領にあげちゃった作戦」しかない。つまり改革と言ってしまった民主党政権のたがをはめるという事です。オバマさんは今の段階では別に大した事はしていないし、かなり馬脚を現し始めている。オバマお前もか!!的なブッシュとおんなじじゃんって所も出て来ちゃっているし、演説は上手だったけれど、能力的にはどうなのよ?と多分多くの人が感じ始めてしまっているのではないかと思う。実際アメリカでも支持率はかなり減少している。

そこでノーベル賞になるわけです。実績がないのにおかしいだろ?と多くの人も思っている。オバマさんも偶々ポロっとはずみで言っちゃった演説が、思いのほか評価されちゃって、内心戸惑っているかもしれません。まあラッキーと思っているかもしれませんけれど。しかしこういうものを貰っといて、トーンを弱めるわけには行かなくなる。過大評価だとみんなが思っているのだから、それに見合った事をやらないと汚名になってしまう。別の意味で梯子を外す。ニコニコと賞賛しながら言った事を実行しないわけには行かない状況に追い込むには、非常に効果的な作戦であるとも言えるでしょう。だからこれはオバマさんを援護しているようにも見えますが、実は退路をふさいで後ろから無理矢理押す、言い訳出来ない状況を作り出しているわけでもあるのです。

そして同時にオバマさんの路線を邪魔している連中に対しての牽制にもなる。ノーベル賞を貰っているような問題を大きな声で反対とは言い難い。何も出来ていないではないか!!オバマ大統領はこの受賞に不適切な人だ!!といっても、お前が邪魔しているからだろという風に世論によって牽制させる事も出来るようになる。

これは今の日本の民主党にも当てはまる効果的な戦法であると言えます。やると言ったからには中途半端なものになって、まだ立ち直っているとは言い難い自民党にバックフラッシュでは、また自民党が人気がなくなってスイングバック、民主党がまたという感じで、梯子外し合戦に陥り、時間だけが浪費されてしまう。もちろん政権交代が繰り返されて行けば少しずつ前には進んで行く事にはなるでしょうけれど、今の段階のレベルで、何の中身もなく、細川政権の時のようにあっという間にバックフラッシュで、また大して変わっていない長期自民党政権なんて話になったら、もう出口はないでしょう。民主党への批判が意味のあるものにする為にも、言った事を実行しないわけには行かない、日本経済を立て直さないわけには行かない、この国の無駄と非効率を徹底的に是正しないわけには行かないというたがをはめてしまうのです。そうすれば批判が単に自民党へのバックフラッシュに利用される事にもなり難くなる。民主党に反対して言う政党であれば、当然政権交代すれば民主党がやると言っていたのにやらなかった事や、やると言っていたのに骨抜きだった事を是正する役割を同時に担う事にもなるからです。まさかそれをやるから反対しているんでしょ?と。つまり民主党以後にも布石が打てるわけです。

だからやがて不人気になって民主党は下野するでしょうけれど、それまでにどれだけ意味のあるものを残せるかは、彼らに任せていたのでは出来るわけがありません。すでに先ほども書きましたが何も期待出来ないというのは政権交代以前からわかっていた事です。それを今更言っても何の意味もない。

だいたい鳩山首相の金の疑惑についてはわかっていた事だし、それにもっと言えば民主党という政党が出来たのも、鳩山が大金持ちだからというのが最大の要素でしょう。それがなかったら政権交代なんて出来なかっただろうし、対抗軸も生まれなかったかもしれない。だから政治は結果なので、どれだけ今の政権にたがをはめて、例えば今後鳩山のような人は絶対に誤摩化せないような仕組みを構築したり、更に金のかからない政治が実現されれば、その手段はなんだって構わない。その為に今必要なのは合意だという事を書いて来たわけです。

しかし現在梯子外しが横行し、公約を守れではなく公約を破れがこの国のスタンダードな政治参加である理由は何か?これを書くといいました。これがわかれば実は処方箋は簡単なのです。簡単すぎてなんだそんな事かという話です。


日本人というのは、自明性に支配され慣れ親しんだものが変更されるとなると、抵抗を感じる。今までそうだったものがそのまま続いて行くはずだと思い込む、それを政治に対しても思っている所があって、丸山眞男は「作為の景気の不在」と言いました。何もしなくてもそれはそのまま続くと。欧米は逆で今あるものが続いて行く為には放置しておいては壊れてしまう。だからコミットメントする必要があると言う事で、投票行動にも何かを変えるとか合理的な政策はこれだという感じでポジティブな意思表示になりやすい。

だから日本では何らかの政策的なものを支持した上で、政党を支持するというポジティブな政治参加よりも、政権党にお灸を据えるという感じの、ネガティブな政治参加の方が動員力になりやすい国です。先の衆院選は、自民党や官僚許せん!!郵政選挙は、抵抗勢力許せん!!そんな感じの参加なので、別に民主党の政策なんて支持していないという話になる。郵政民営化に賛成しているけれど、それは抵抗勢力にムカつくからで、中身は別に気にしちゃいない。だから普段はお任せ無関心だけど、ムカつくと参加する。いずれにせよ空気を読んで何かを反対するというのは動員になりやすい。

もしくは公共的な振る舞いを装いながら、結局俺に分け前をよこせという話でしかない。言っておきますが、自分は民主党の政策で恩恵を受けるものなど殆ど何もありません。高速道路はたまに使う事はあるかもしれませんので、ちょっとは恩恵を受けるとは思えますけれど。まあ強いて言えば景気が回復すれば、株で少し儲けられるかなとは思いますけれど、それならハナっから民主党なんて支持しませんし、小泉竹中を応援していたでしょう。麻生の弥縫策的景気対策も歓迎しているでしょうし、経団連の民主党は成長戦略がないという意見にも賛同したでしょう。別に日本の株価が上がらなくたっていくらでも勝負は出来ますから、どうでもいいといえばどうでもいいのです。だから何らかの嬉しい政策があるから投票したわけではありません。

この、俺に分け前をよこせも、やっぱり自分にとっての今までの慣れ親しみから変化してしまうと、損するのではないかとか、抜け駆けされるのではないかとか、そう言う事ですので、これもネガティブな投票行動に結びつきやすい、あそこに抜け駆け野郎がいる!!俺に分け前が回って来ないように思えるからけしからん!!と言った感じで。

しかしこれに対する処方箋は実は非常に単純で、これは自明性が変化すると、空気も変わるのでそれにいち早く適応するという風に行動原理が変わりやすい。天皇陛下万歳、鬼畜米英だったのが、アメリカさんありがとうに速攻変化する。あれだけ森喜朗をバッシングしていたのに、同じ自民党の小泉による「痛みに耐えて構造改革」にあっという間に適応する。昨日までみんなで持ち上げられていた人が、ある日を境にクソミソにバッシングされる。逆もまたしかり。政権交代と言って来たのに、速攻で俺はわかっていた的に梯子外しをはじめて、わかったような顔をする輩が増大する。逃げ遅れないように先回りして先に梯子を外し、自らは安全地帯から得意げになれる。

という事は国民の声を聞いていたのでは何も変更出来ない。自明性の変化を恐れ、反対の声が必ず上回ってしまうからです。なので、いったん支持を受け、選挙で正統性を調達しマニフェストを掲げているのだから、どんなに反対されようがけなされようが、自明性を変化させてしまえば、速攻空気は変化する。もちろんそれが国民に向いていない政策であれば、自明性なんて変化しませんから、余計バッシングされるでしょうけれど、それが国民に向いた政策であれば、結果は自ずとついてくる。なんだそんなに酷い政策でもなかったと思わせるか、別に損しなかったなと思わせるか、意外といい事あったじゃんと思わせてしまえば勝ちです。すなわちそれが合意調達になる。

これを横暴だと言い出すと、日本では何も変えられない事を意味してしまうわけで、選挙で政権を握った政党はそこを突破して自明性を変化させないと、何も出来ない。それさえ出来れば、必ず合意調達は出来る。今一番必要なものはそれです。簡単な話で、自明性が変化すれば多くの人が納得出来るのでそれは合意になり、自明性が変化しなければ納得いかないので余計文句が出てくる。やりもしないでうだうだしているのならやっちまえば自然にそれに適応して自ずと評価は決まる。これは政権末期に人気回復の為にマニフェストとは関係ない事をやるなんてパターンは許されません。選挙で正統性を得ている政党が、約束した事をこれにそって実行するのは横暴ではない。民主的な手続きを踏んでいるのだから、暴走にはなりません。これの背中を押して退路を塞いでしまうのが、現段階では有効ではないだろうかと思えます。

国民の声を本気で吸い上げて国の舵取りに生かそうとすると、どうしてもある制約がある。だから時には無視すべき局面もある。なぜなら政治は結果ですから。結果がともなえば、それは政治家としては正しい振る舞いであると言えるからです。

例えば北朝鮮問題で拉致被害者がかえって来てからのこの国の盛り上がりは凄かった。自分が小泉元首相が一番凄いと思った瞬間もこの時でした。この時ばかりは拉致被害者家族の人達が北朝鮮から拉致被害者を連れて帰って来た小泉を足りないと批判している姿を見て、気持ちはわかるけどさ、それはいくら何でも酷いじゃないか。言い過ぎだよと、小泉を擁護したくなったほどです。ただこの後がいけません。安倍晋三の路線に乗っかってしまった。国民も断固拳を振り上げて、政治家の人気のリソースとして利用されてしまっている事に気付かずに、みんなで大騒ぎしていた。断固とした措置を!!という感じで。その時に交渉しなきゃ絶対にかえって来ない。強硬措置なんかとったら自爆するだけだ。国交正常化しちまえば、行き来が出来るようになるのだから、その方が見つかる可能性は増えるじゃないか。そんなことを言おうもんなら袋叩きにあう。まあ言いましたけどね散々。

拉致被害者やその家族の苦しみが想像出来ないのか!!(お前は拉致被害者か?もしくはその家族か?赤の他人が知ったような顔するな)、北朝鮮のような無法者国家など、容赦する必要は無いのだ!!ハイハイ解りましたよ、じゃあどうするんですか?と問えば、日米安保を背景にして、断固北に制裁を!!とみんな言っていた。アメリカにお願いして断固何すんだよ?日本人のかわりに北朝鮮と戦争してくれってか?って感じでしらけていましたが、結果どうなったか?皆さんご承知の通り、小泉が連れ帰って来た以後は、誰も帰って来ないどころか、解決のめどは全くたたなくなっちゃった。あげくに核まで開発されちゃった。

拉致被害者救済最優先ならば交渉しなきゃ帰ってくるわけない当たり前ですね。北朝鮮への怒りをぶつける事を優先するなら、拉致被害者は後回しにするしかない。どちらかを優先すればどちらかが後回しになる。同時解決だ!!と叫んでいたわけです。日本中の多くの人が。しかも北朝鮮に怒るのはいいけれど、結局アメリカさんお願いしますって選択肢しか取れないくせに、何を鼻息荒くしてんだよバカじゃないのと半ば死んだ魚のような目になって絶望していたわけです。

その時に吹き上がっていた人達は、どう思っているのでしょうか?この問題を政治的な人気のリソースとして活用していた自民党の政治家は許し難いと思いますけれど、それに乗せられて、交渉のカードを自ら捨てる事を翼賛した国民達にも責任の一端はあるはずです。しかしそんな事は多くの国民は自覚もしていないでしょうし、下手すりゃ拉致問題なんて、もう結構報道なんかでは下火になっちゃっているので、たまに思い出したように酷い話だくらいには思っているかもしれませんけれど、解決出来ない政府の無能さを叩いたりしているのではないでしょうか。

北朝鮮が酷い国だと言うのは正しいし、交渉すれば帰ってくるかと言えばそれも可能性としては少ないと言えるかもしれない。だけどそもそもこの問題は何人拉致されていて、何人生きているのかもわからないわけだから、解決のラインがハナっから無い。何人拉致されているのかを把握し、何人生きているのかを把握して、初めて全員返せと言えるわけで、その事を把握しようとしたふしも無い。当然北朝鮮から引き出さないとわかりませんから、その意味でも交渉しなきゃわかるわけが無い。悪者たたきをしたいなら、交渉は出来ません。文句を言って帰ってくるのなら、そもそも拉致なんてしないでしょう。

こういう問題を国民感情を吸い上げて対処しようとすると、上手くいくわけが無いので、国民感情は無視して、弱腰だと罵倒されようが、北と対話なんて非常識だと言われようと、結果を出して自明性を変化させてしまえば、国民の支持は自ずとついてくる。それを国民感情を利用して人気のリソースになんかしてしまうと、いったん振り上げた拳の行き場が無くなって、選択肢を失ってしまう。解決出来ないもんだから、ただ断固断固喚いて、北朝鮮のせいにして誤摩化し続けるしか無くなる。それはもう解決のためというよりも政治家の保身の為でしかなくなる。

これを戦略的にノーベル賞作戦のように、退路を塞いで背中を押すという意味で国民側が北朝鮮問題解決の手段として利用するのならまだわかりますが、そういう場合も、拉致と核問題同時解決、拉致解決なくして交渉なし、みたいな正しいかもしれないけれど解決不能の落としどころのない要求を突きつけてしまうと潰れてしまう。ポピュリズムに走ってくだらない弥縫策で誤摩化そうとするでしょう。だからノーベル賞作戦を取るにしても注意は必要です。

政治家はそれが実行不可能な国民の要求であれば無視すればいいのです。選挙で正統性を得ている政策であれば気にする必要はないし、まだ選挙で問うてない例えば拉致問題に手を付け始めた初期の頃であれば、民意を無視した方が逆に合理的になる。だから支持者はその後押しをする必要があり、民意の無視と言っても、その先に問題の是正に合理的選択とは思えなければそれこそバッシングすればいい。

フランスのミッテランが死刑廃止を導入した当時、フランス世論の6割が死刑制度廃止に反対していた。だけどミッテランは半ば強引に説得して死刑を廃止にしてしまった。すると反対していた人達も自明性が変わり、すなわち死刑を廃止にしても、それほど悪影響も無いし、むしろ死刑にして問題を解決するよりも他の方法の方がいい事なのかもしれないとマインドが変わった。それでも死刑廃止には疑義はあるでしょうけれど、一応今は当たり前の前提になっている。フランスのような日本に比べたら市民性が成熟している国でさえ、自明性に支配されている。

日本のお任せ民度の低さ、空気支配の構造、変わり身の早さを考えれば、暴論言いますよ、選挙で正統性を得ているのだから、約束した事であれば民意なんて無視するのが、この状況を打破する唯一の方法です。反対って言うに決まってるのです。それが合理的かどうかなんてハナっから問題じゃない。反対だと言いたい。それで何か言ったような気になるのが日本人の特性でもある。そういう世論など、無視してやる事をやる。それが唯一の合意調達でもある。

そして今の日本に必要なのは合理的な政策は何か?という事よりも、みんなが合意出来るという事の方が優先事項でもある。どうせ合理的な政策なんていきなり打てっこないのだから、合意さえ何とかなれば、後は自ずと形はついてくる。国民がある程度信用してバックアップしている状態というのは、政治家にとってはもっとも強力なリソースになる。それには官僚も、マスコミも絶対に太刀打ち出来ません。役人やステークホルダーの権益を引っぱがすには、国民の後ろ盾が一番強力な武器になる。民主制というのはそういう仕組みだからです。

官僚の権益が中々是正されないのは、政権交代がなかったというのがまず一点。そしてそれを政治家がやれるとは信用していないのがもう一点。役人や官報垂れ流しの談合マスコミの情報に釣られて、そういう連中の権益護持に加担してしまう点が一点。そして一番重要なのは我々が本気でそれを望んでいないのが最後の一点。役人叩きをしながらお任せ意識はそのまま、ちょっと不安があるとすぐに国家を呼び出して何とかしろと喚き出す。政権から世論の支持が離れればそこに付け入る隙が生まれる。前大戦がなんで止まらなかったのかと言えばそれを国民が支持していたからです。戦争に反対し軍部にたてついた政治家を支持しなかった。どんなに軍部や官僚や軍部寄りの政治家が戦争したいと思っていたとしても、それをバカマスコミが翼賛していたとしても、国民が反対していれば絶対にそれを強引に実行する事は出来ない。逆に支持してしまえば基本的には政治家も役人もそれに従うしか無くなる。マスコミもそういう国民の世論に媚びた報道をするしかない。

合意さえあれば、政策も最適化しやすくなるし、突破出来そうもない利権の解体もやる気になれば出来る。どんなに合理的な政策でも、合意がなくちゃ意味がない。ちょっとぐらい不合理な政策でも、みんなが信用してバックアップ出来れば、そんなのはいくらでもどうにでもなる。抵抗する力学を弱体化させれば、簡単に最適化する事が出来るからです。足の引っ張り合いではない健全なチェックを機能させる為にも、意味の無い批判はぶっ潰さないと機能しません。

そして国民の合意を得て政策を実行出来るようになれば、それは景気へのポジティブな影響も与えやすい。みんなが信用していない状態で、どんなに合理的な政策を打ったって、景気は回復しない。景気が回復するのは明確な理由があるからそうなるのではなくて、みんなが回復出来ると思えるから回復する。みんなが株が上昇すると思えれば株価は自ずと上昇する。その過程で初めて適切な政策もうてるようになる。最初の推進力がないと、今の状況は打破出来ない。そして最初の推進力を生み出す為にはここまで停滞してしまうと、よっぽど強い力で押してやらないと前に進んで行かない。いったん前に進み出せばリソースは増えて行く、それを適切に中抜きを排して分配していけば今の状況は転換出来る。日本の借金は合意を調達してそれを推進力とし、適切な政策を打てる環境が整い、それをある程度的確にうって経済成長出来ればそんなに絶望的な数字ではない。財政再建出来ない事はありません。推進力もない状態で、停滞のまま増税で何とかしようとしたのでは、負のスパイラルは更に加速してしまうでしょう。その推進力を生み出すバックアップとプレッシャーがないから、早い話が政策も合理的な政策がうてない、特定の既得権者に媚びを売るしか無くなる。それを逆回転させる為に今一番必要なのは合意による推進力です。

その時こそ民主党支持者であればこそ徹底的なチェックが必要になる。マニフェストが骨抜きになっちゃいないか?どこかでこぼれ落ちている人を無視していないか?何らかの恣意性や利権へと化しちゃいないか?そして実行してみたものの、やっぱりこれはどう考えても失敗だったと思うのなら、その時こそ、不合理なんだから、とっとと撤回しろと言えばいい。国民にとってマイナスでなんだからブレーキを踏めと。俺たちが支持したマニフェストは間違っていたと。もちろんそれは民主党だけの責任ではなく支持した我々の責任でもある事を引き受ける。優先順位がおかしければそれにもチェックは必要だろうし、政権が長引けば必ず慣れが生じ腐敗もしてくるわけだから、その慣れや腐敗を叩き、場合によっては引きずりおろす事までひっくるめて叩けばいい。

自明性が変わってしまうと小泉の郵政選挙の時の民意のように、支持しているのにマニフェストなんか守るなというか、翼賛体制であるが故に骨抜きを放置して賛成!!という風になりかねないわけだから、言っていた事と政策が違っているぞ、骨抜きになっているじゃないかふざけんな、役人の恣意性は増えているじゃないか、とチェックする。その方がよっぽど実りがあるような気がします。そう言うチェックが働けば、政治家は結局選挙の勝敗には敏感ですので、必ずそこを取りにくるでしょうし、そこを取りに来ずに、先日までの麻生のように、下らん弥縫策で人気取り的ポピュリズムなどにうつつを抜かしているのなら、次の選挙でキッチリ痛い目に合わせればいいのです。

その支持が離れた瞬間が一番役人の付け込む隙にもなるのでその事には目を光らせておく必要がある。景気が回復し始めると、必ず役人はその邪魔をして潰しにかかる。政治への支持が低下した瞬間が一番危険な瞬間です。役人は不安こそが彼らの利権でもあるので、国民を裕福にしてしまえば、管理し難くなる。貧しく不安を抱えた状況である事が役人にとっての最大のリソースになるわけです。マスコミもそうでしょう。その方が政治家のコントロールも楽になる。逆に国民に余裕が生まれてしまうと、政治家も余裕が生まれるので、役人にとって管理し難くなる。ステークホルダーの横やりに政治家もビビらなくなる。

経済を後押しするにも、政策を後押しするにも、今の日本は最初の段階は結構強力におもいっきり押してやらないと、前に進んで行きません。だから民主党の政策はバラマキだと批判されておりますが国民に余裕がなければ、推進力を生み出すパワーも生まれない。これだけ高齢化も進み人口も減って行く中では、かなり強烈なインパクトを与えないと壁を突破出来ない。合理的な政策をうつのは前に進んでいる途中でもうてるわけで、止まっている状態で、ああだこうだ足を引っ張りあっていても、前には進んで行きません。時間だけが過ぎ、後押しする人の数も減って行く、とにかく前に進ませて、その過程で出来うる限り合理的な選択をその都度選んで行けば、その推進力は加速し始める。

もちろん失敗はするだろうけれど、今の我々の政治参加というのは、政治家にとっては絶対に失敗出来ないというプレッシャーしか与えていない。失敗するなというプレッシャー自体は必要ではありますが、それも程度の問題で度を超すと逆効果になりかねない。だから何も出来ないし何も進まない。失敗したくないから何もしないで先送りするしか無くなる。何かの決定を下せばそれは失敗はつきものであり、失敗のない政策なんて打てっこない。そういう完璧を求める厳しい目線が政治家の人気取り的な中身のない失敗の恐れのないくだらない上っ面のパフォーマンスを生み出している。すでに民主党もやり始めてます。そういうのに引っかかるほど、国民は愚かではありません。このままでは中身がスッカラカンになってしまうでしょう。叩いてる場合ではない。叩くならケツをひっぱたいた方がいい。とっととやる事やらんかい!!と。

そして日本は政治に対して少し結果を早く求めすぎる所があります。小泉は5年間続きましたけれど、基本的にそこまで続く政権なんて殆どない。アメリカだってヨーロッパだってもう少し長い目で見る。もちろん余裕がないからというのもあるのだろうけれど、その余裕のなさが更なる余裕のなさを生み出してしまっている事を自覚しないと自滅して行くしかない。そんなに簡単に結果は出ないだろうし、何らかの合理的な対策を打っても、その効果が現れるのには時間を要する。まだ一度も予算を組んでもいないのに、もう終わったって言う前に、支持したんだから、ケツを持ってやんないと、お任せ政治は変わらない。もちろんチェックは必要ですけれど、少し性急過ぎるような気がする。日本がずっと何も変えられないのは、そこに大きな原因があると思う。5年も放置しておけとは言いませんけれど、いくら何でも2ヶ月くらいじゃどうにもならないでしょう。

そして自民党の支持者の方はどんどん民主党を批判するのは結構な事だと思うのですけれど、それも大切なんですが、自民党の内部の問題も少しプレッシャーをかけないと、せっかく政権を再び奪取しても、まあ薄汚れた頭の悪い酷い連中がいっぱいいます。その辺のお掃除が出来ないと、結局同じ事が繰り返されるだけになる。民主党を支持した人達が、あれ?自民党って随分いい政党に生まれ変わったんじゃない?と思えるような魅力的な野党になってほしいと思う。前回の衆院選で比例復活して来たような小汚い連中が奥の院を牛耳ってこそこそやっているようでは、せっかく民主党が不人気になったって、それが自民党支持にならずに、単に政治不信になるだけです。やっぱり自民党ってのは底力があるなと思わせるような政党に生まれ変わってほしい。じゃないと政権交代可能な政治システムが機能しない。

まだ続く!!
さて、前回はかなり暴論を書いてしまったので、大丈夫か?コイツ?と思われたかもしれませんけれど、実際半ば真面目にそう思っている所もあって、だから政権交代とずっと言って来た部分もあるわけです。とにかく何が合理的な政策か?何が正統性のある方向性か?そんな事はどうでもいいから政権交代と言って来た。なぜかと言えば、政策的な合理性なんてものは大した問題じゃ無い。要は権力が入れ替わってチェックが常に働き、その事によって政治が国民の目を気にするようになれば、自ずと政治はまともなコントロールが利くようになるはずで、そうすればその都度統治権力の正統性を再確認出来るようになり、国民の信頼も回復出来る。自ずと政策はそれなりに合理性のある方向性を目指せるようになるはずだと。

必ずこれに対しての批判の一つは、政権交代は手段であって目的ではないはずなんだから、何をするか、何をなすかが重要なはずじゃないかという話になる。それは確かにそうなんだけど何かをなす為には牽制が常に機能して、正統性を絶えず再確認出来ないと、それが重要かどうかも判断出来ない。だから何をなすかよりも形がまず重要だと思ってそう言って来た。何かをなす事の出来る仕組みがなければ何も出来ないはずだと。

この事を自覚して戦略を練って行動している政治家は多分一人しかいない。それは好き嫌いのハッキリわかれるお人、小沢一郎その人だと思う。自分はなんだかんだと批判があるのはわかるのですが、どうしても小沢一郎という人物には興味を持ってしまうのもここにある。小沢が素晴らしい政治家だとか思っているわけでは全然ありませんよ。金に汚いというのは本当だろうし、顔も怖いし、説明もしないので何を考えているか解らないという人の気持ちも理解は出来る。ただ発想が少し変わっている人なので、そこに興味を感じてしまうのです。

あの人は政治的な理念が無いとよく言われます。それはある意味正しい。だけどあの人はある信念があるような気がする。それは制度の構築にしか興味が無い。二大政党制による政権交代可能な枠組みを構築し、議会制民主主義を機能させる事。これしか殆ど言いません。ここからあの人の行動原理を見て行くと結構腑に落ちる。それなりに合理性のある行動に見える。

それは何を意味するのかと言えば、人間というのは所詮なんだかんだ言ったってそんなに違いは無いし、能力差も無い、人一人たかがしれている。意見が真っ向から対立していたとしても基本的には善い事だと思っていっているのであれば、双方悪気は無いわけで、腐敗がチェック出来るような仕組みさえあれば、中身は自ずとどうにかなる。という発想です。

要するにハードが整えば、ソフトは後からついてくる。プレステ3のハードも無いのに、いくら例えばグランドセフトオート4がやりたいからと言ったって、グランドセフトオート4だけを買っても何も出来ないのは普通誰でも当たり前だと思うだろうし、そんなやつはいないでしょう。いたら、お前大丈夫か?と思う。やったあグランドセフトオート4買っちゃったぜ、プレステ3(もしくはXBOX360)は持ってないけど!!何てやつがまわりにいたら、君、それじゃ出来ないんですけど・・・・ってなるはずです。

ブルーレイの映像が超きれいだからと言っても、ブルーレイの再生装置も持っていないのに、ブルーレイのソフトを買って、超ウキウキしている奴がいたら、いやそれだけじゃ意味ねえし・・・と思う。ハードも無いのにソフトを買っても意味は無いのと同じで、プレステなのに、XBOXのソフトを買っても意味は無い。ファミコン、PCエンジン、メガドライブ、スーパーファミコン、セガサターン、プレステ、プレステ2 プレステ3 XBOX360、Wii、と進化して来たから中身もそれにともなって充実するわけで、先にソフトが充実して、ハードが後から開発されるという事は無い。

やりたい音楽があったからエレキギターが開発されたわけじゃなくて、エレキギターが開発されたから、それを駆使した音楽が生まれた、ビートルズやツェッペリンが生まれた。ロックがやりたいからエレキギターを開発したわけではない。シンセが生まれたから、それを駆使した音楽が進化した。EL&Pとかイエスとかが生まれた。サンプラーやターンテーブルというテクノロジーを駆使したから、ヒップホップが生まれ進化した。Run-D.M.C.やパブリックエネミーや2PACが生まれた。

これは当たり前の事であり、ハードを先に何とかしないと、ソフトも生まれない。別に普通の事ですよね。誰しもそういう順番で何とかした方が合理的だと思うでしょう。

しかし困った事に、日本人はその辺の順序を理解出来ない人が結構いる。昔あれは確かWindowsの95だったと思うのですが、当時は、革新的だ!!何でも出来るようになる!!!と大騒ぎになった。マックユーザーの自分からすれば、マックのパクリのくせに何が革新的だよ、ざけんなよ、と冷めた目で見ていましたが、滅茶苦茶電気店に行列が出来て、多くの人がそれを買い求めている光景が当時テレビで中継されていました。それを見た時に、へえー随分じいさん、ばあさんまで並んでいて、結構日本ってパソコンが普及したんだな、なんて思っていたら、インタビューでわけもわからず並んでいるから並んで買いに来た人が、「パソコン?いや、持ってないですけれど・・・・」インタビューしている人「・・・・・、いやパソコン無いと使えませんけれど・・・・・」買った人「そうなの・・・・いやなんでも出来るって聞いたもんだから」みたいな冗談かと思えるやり取りが映っていたのですが、よくよく考えると結構笑えないと思えます。

なぜなら政治家でその事を自覚している人が殆どいないと思えるし、小沢の行動原理も全く理解されていない。制度の話をすっ飛ばして、感情的なべき論でけんけんがくがくやり合っている光景なんて日常茶飯事。いや仕組みの話をしてるんですけれど・・・・と言ったって、全く通じない。マニフェストをまもらなくてよいと言ってしまう事がどれだけの民主制のコストなのかも理解しておらず、法の問題と感情の問題を区別出来ない人もいっぱいいるし、政権交代と言うと、ずっと民主党のような売国政党になんか任せたら日本は終わりだとか、民主党は何がしたいのかわからないとか、いやそう言う事じゃなくて、民主党を応援するとかそう言う問題でもなくて、政権交代が常に起こりうるというのは仕組みの問題で、それが無いと民主制って機能しないんですが・・・・と言っても、そんな事知るか!!中国や韓国に日本を売り渡す反日政党許すまじ!!みたいな人もいっぱいいた。今もいますね。これは何でも出来ると聞いて、こりゃ便利だ買わなくっちゃと、パソコンも持っていないのにWindowsを並んで買っていた人と大して変わらない。Wiiを持っていないのに、ソフトを買って喜んでいるのと一緒です。

一人一人の政治家の意識を変えると言ったような理想で、合理的な政策を議論し政治を機能させるのだという事を言う人が多いけど、小沢はそれとは全く逆で、仕組みが整えば自ずとその仕組みの中で人はそれなりに育ち、それなりに行動すると考えているであろう所が興味深い。何をするかという事ではなく、仕組みがきちんと整ってあれば人が考える政策は違いはあるだろうけれど、それなりに仕組みの中で最適化した政策が出てくるわけだから、多少違いがあってもそんなに差はない。要するに政治が機能すれば、政策なんてなんだって構わないのだ。どの道、よき事であれば国民に不利益にはならないはずだと考えているように思える。

これと同じ事で、政策的な合理性云々なんてのは、どうせ人が考えて、予測不可能な未来に対して何らかの優先順位をつけて政策をうつしか無い。であればどの道失敗するとも言えるし、合意さえ出来ればどの道どうにかなるとも言える。仕組みが整って政策を走らせれば、問題があれば必ずそれが国民の声になって政治家に直撃する。自ずと国民に向き合わないわけには行かない。

だから新自由主義的なことを言ったり、リベラル的なことを言ったりと、ころころ政策的には一貫性が無い。ただ一つ一貫して変わらないのは仕組みの構築は全くぶれていない。二大政党(この部分は自分は本当は疑義があります。マイノリティの声を吸い上げる少数政党が無くなってしまうのは問題だろうと思えるからです)による議会制民主主義を機能させ、対米自立によって真の独立国を目指すと。これは道半ばで金権政治の権化として叩かれた田中角栄の意志を継いだ、田中派直系の人物としてはただ一人田中の遺志を継承していると思います。

田中にしろ、小沢にしろ、表面的なスティグマに吹き上がって叩く輩はいっぱいいるけれど、彼らが何をなそうとしているのかを分離して捉えるという発想が無い。そんな事知るか!!悪いものは悪いんだ!!みたいな。

田中も小沢の批判と同じような、金と権力を集めて君臨していたところが嫌われる最大の要素なんですが、何をなしたのかを見ると、日本の近代化と同時に地方の弊害を手当てし、均衡ある国土の発展によって、過疎の問題を手当てしようとしていた。対米自立を目指し、アジアや中東との独自外交によってエネルギー政策の安全保障を確立しようとしていた。道路利権で田中の事を批判しましたけれど、彼がそのまま権力の座にいたとしたらどうだったのだろうか?と考えますと、それは想像するしか無いので、腐敗の構造を断ち切れなかったかもしれませんけれど、少なくとも日本の近代化の礎を築いたのは間違いなく、その過程の手段としては集金と集票のシステムが無ければそれも出来なかったわけですから、理念としては、対米自立の夢は潰えますけれど、それだって実現する為の手段の集票と集金であるのなら、それは全然構わない事でもある。

戦後復興というのは地方を空洞化させ、都市部一極集中によって猛烈なスピードで突き進むわけですが、当然地方からは不満の声も上がり置き去りにされてしまっている状況におとしまえをつけなければならなかった。それを田中角栄は金とコンクリートを地方の弱者救済の為に活用し、地方の不満を中和させる為に利用する。これは独自外交路線に打って出る為にも、地方の問題を置き去りにしたまま、外交で経済支援なんかしていたのでは、地方が納得しないので、そういう意味でも地方の不満を中和させないと、対米自立も不可能でした。その後の田中のスキームを継承した連中はそういう理念を失ってしまいましたが、少なくとも田中角栄の念頭にはそれがあった。

こういう事を言うと、目的の為には手段を選ばないというのは許されないのではないか!!と思う方もいるでしょうけれど、一般人の我々にはそういう道徳や遵法精神というのは重要な要素なんですが、政治家という役割を担っている人間にはそういう基準は実は当てはまらないのです。これは古くはマキャベリ、そしてマックス・ウェーバー、カール・シュミット的な政治学の常識で、政治家というのは法や道徳を守っていたのでは、法や道徳を破壊しようという力学には時において太刀打ち出来ない事がある。憲法9条を守って国民が沢山死んでしまえば、政治家としての責務を果たせません。だから時においては脱法してでも、法や道徳が機能すると国民が思える社会を護持するという事まで、実は政治家の責務には含まれるのです。要するに結果がすべてであると。だから憲法も9条と13条は厳密に見るとバッティングしています。ただ目的の為だという風に言い出せば何でもOKになってしまいかねませんので、結果がともなってなかったり、結果がともなっていたとしても脱法行為がバレた場合は、いくら目的の為の手段であっても、そこに国民を守る為の理念があったとしても、法律によって血祭りに上げられる事まで引き受けるのが政治家の責務には含まれるというわけです。まあ今の日本の政治家にその覚悟がある人なんて殆どいませんけれど。せこい利権とみみっちい保身ばかりです。

田中にはたして民主制を健全に機能させる仕組みの構築という事まで理念としてあったのかどうかは、今となってはわかりませんけれど、少なくとも戦後の日本の政治家の中で唯一議会制民主主義を徹底的に理解し使い尽くした、民主主義の天才、デモクラシーの権化であったという事は以前書いた事があります(田中角栄の功績とロッキード事件の問題点は詳しくはこちらまで其の一其の二)。その田中に一番可愛がられた小沢一郎はその薫陶を受けている。要するに天才田中の人心掌握術と民主制の最大のリソースである選挙の勝ち方です。

田中は結局金権政治が墓穴を掘ってしまい、ロッキード事件によって、検察の憲法違反、検察を翼賛するマスコミの大バッシング、それに釣られた国民の憤激によって、葬り去られてしまう。検察の憲法違反をマスコミと国民が一致団結して支持したんですから、田中もいくら自業自得の面があるにせよ不運としか言いようがありません。その憲法違反を犯した当時の特捜部長である堀田力は今でもテレビに出て検察翼賛をかましているし、憲法違反をしている検察を翼賛し田中を叩いたジャーナリストもいまだにいっぱしの知識人面している。立花隆なんかが典型でしょう。このとき検察の憲法違反の方が問題だと田中を擁護した常識ある知識人はことごとく表舞台から追放されている。日本の憲法とジャーナリズムはこれによって完全に死に絶えた。そもそも憲法が死んでいるのだから、その上で何を論じても無意味と言えば無意味です。仕組みの根源が壊れているのですから。

その後田中派は形が変わって、金竹小体制(コンチクショウ体制と言います。金丸、竹下、小沢という意味です)のもと、田中のスキームを継承しますが、結局理念は消え、集金と集票の仕組みだけは残り、その構造によって行き詰まって崩壊する。検察はこの時も憲法違反を犯して金丸を潰している。国民もマスコミも、悪いものは悪いんだ!!と拳を振り上げ、制度の根幹が破壊されている事には無関心。金権政治にまみれた図式は頭にくるのは理解出来るし、自分は金丸なんて全く擁護なんてしたいとも思わないけれど、だからって制度を無視して一人の人間をどうせ悪者に決まっているからという理由で葬り去ってしまったのでは、法治国家とは言えない。立憲国家とも言えない。制度が人を裁くのであって、制度を無視して人を裁いてしまったのでは、それは単なる私的な制裁と変わらない。個人でやれば一発でパクられる振る舞いです。

その事があって小沢は自民党の最大の権力を握っていたのに、割って出てしまう。田中に受けた薫陶、人心掌握術と、政治腐敗による政治の機能不全是正というのが結びついて、適切な制度があれば人はそれに従ってマインドが変わるという彼の行動原理、議会制民主主義を機能させるという理念に結びつく。そして戦後政治のいつの間にか消えてしまった当たり前の理念、対米自立も引き受けて。
小沢は、善きシステムさえあれば、人も善き方向にコントロール出来る。という事で、仕組みの構築にずっと心血を注いで来たように思えるのです。だから理解されない。コントロールしようとしているように見える。目的合理性の為には割って出ちゃったり、手法が強引だと批判もされる。その構築の為であれば、金も権力も必要だろうから、そう言う事にも汚いように見えるけれど、なんでそんな事をしているのだろうと見て行くと、結構一貫した行動原理で実は単純なお人なのです。

おまけにそれを言うと勘違いされるであろうし、そもそもあの人説明が大っ嫌いなので、独断専行に見え、当然まわりの他の政治家は、何をなすかという事を最優先に考えているのだから、小沢の何をなすかなんてどうでもいいかのような考え方にはついて行けず、周りの人もどんどん離れて行ってしまう。田中派の人間達も、田中角栄が腐敗の烙印を押されてからは、どんどん離れて行ってしまうのとも似ている。理念は中々理解してもらえない。今の民主党の面々には特に松下政経塾系の政策大好き、僕ちゃん優秀だもんね軍団が多いので、政策なんて二の次なんだよ的な、まずは仕組みの構築なんだから選挙に勝つ事だ、という政局しか頭に無いかのような小沢の行動原理は煙たがられる。

敵が多かったり人が離れてしまうというのは、ある意味では日本の空気支配の構造から考えると、妥協をしないとか、まわりに媚びないとか、空気を無視するようなところがあるのだろうと思えるのですけれど、それは本当は人の上に立つ人間としては必要な素養でもあると思える。まわりに媚びて空気を読んで妥協の産物ばかりというのでは何も決まらないし、まわりのお友達を納得させる事は出来ても、組織を運営するという意味では邪魔になるものも多かろうと思う。もちろんバランスをかねた人が最高の人なんだろうけれど、そのバランスの無い不器用さが逆に金に汚くて顔も怖くて人付き合いも巧みには見えないけれど、小沢一郎を心底憎めない所でもある。天才だった田中の人心掌握術も選挙での圧倒的な強さも何となく不器用に受け継いでいる。多分自民党が復活出来ずに民主党が自民党の変わりになって牛耳るようになるのであれば、小沢は党を割りたいと思うでしょう。実際年齢的にも体力的にも厳しいと思いますけれど、あの人の行動原理を見ていると、そう思っても不思議ではないと思う。

そういう事を念頭に置くと、きちんと結果は出ている。小沢がやろうとして来た事は着実に実を結んでいます。

現在政権交代可能な政治制度が整ったおかげで、小泉の郵政選挙の顛末も、その後の安倍の大敗した参院選も、先日の民主党による政権交代も、政治に大きなうねりが出てくるようになっている。当然無能な奴はどんどん目立つようになって来たし、腐敗も見えるようになって来た。その事によって政治家のマインドも変わりつつある。自民党だって金丸や竹下や小沢が君臨していた頃から比べると、考えられないくらいクリーンになったし、逆に民主党の中の方が脇の甘い輩が多いかもしれない。与党も野党も一昔前から比べると、かなり金の面では健全になって来ている。そして無能さが目立つようになった。それは可視化されている事を意味します。

もう一つ批判としては、民主主義というのはそもそも欠陥のある制度なので、国民の声に耳を傾けすぎると、ポピュリズムに政治が堕落するのではないか?というのもある。これは確かにそうで、実際小泉自民党のポピュリズム戦略によって民意が一気に拳を振り上げる現象が起こってしまった。しかしその事に辟易して、安倍の参院選大敗、先日の衆院選のように、ちゃんとその欺瞞を国民は見抜いて、判断を下した。麻生のマヌケなポピュリズム戦略に騙される事無く、ちゃんと制裁を下した。そして今、民主党のバラマキ戦略というネガティブキャンペーンによって、国民は下した判断が適切であったのかどうか、若干戸惑っているのだろうと思う。また騙されちゃったかな?と。

しかしこれも民主党が下らないポピュリズムで中身ゼロの弥縫策しかうてなければ、当然制裁が下るでしょうし、どんなにネガティブキャンペーンで騒いでも、そんなものは情報化の今、何の効力も無いわけで、それなりにサブスタンシャルであれば、自ずと支持はついてくるでしょう。ただ、今は過渡期なので、梯子外しをして退路を確保して高みの見物をしている人が出て来ていますが、それがいっぱい増えればその刃は国民に必ず返って来ますので、時間はかかるでしょうけれど、これも学習の契機かもしれない。ようは慣れの問題だろうと。

ただ問題は時間がない。日本がここまでくるのに時間をかけすぎてしまったせいで、リソースも限られてしまっているのが非常に難しい所です。なので、前回は少し支持するという事の責任の問題を考えてみたわけです。

なので今日は批判についても少し考えてみます。基本的に何を言おうと自由ではありますから、それは人それぞれ好きにすればいい事だと思いますけれど、批判の意味をなさないものはいうのはいいけれど、あまり建設的でもありませんので、再び小泉政権を例にとって考えます。この国の批判の構造を見て行くと、ある共通点が見えて来ます。それと同時に処方箋も見えてくる。

まず自分は散々小泉政権に文句を言いましたけれど、よくよく振り返ってみると、結構おかしな構造だったと思えます。なぜなら自分は公約をきちんと守れとしか殆ど言っていない。支持したわけでもないのにおかしな批判をしていたもんだと思いますけれど、実際郵政選挙の時も、小泉の言っている郵政民営化のそもそもの必要であるというロジックからかけ離れた政策ではないか?それでは公約を守れないのではないか?という批判だった。それに対して郵政民営化賛成と拳を振り上げていた人達は、その内容もよく吟味せずに、何となく賛成していた人が多かったと思うのですが、要するに郵政民営化の名前さえ整えば公約なんかどうだっていいんだ!!と吹き上がっていた人が大多数だったように見える。

それは道路公団民営化にしろ、小さな政府路線にしろ、官から民へにしろ、とにかく言っている事に文句はありましたけれど、公約が実現されるのであれば、それはみんなが支持した事なんだし、選挙で負けてるわけだから、どうにもならないわけで、道路公団民営化って実は公約からかけ離れてはいないか?小さな政府になっていないじゃないか、官から民へと言っているけれど、責任だけ民になすり付けるのではなく、きちんと権限も渡せ、そんな末端ばかりを流動化に追い込むのなら、まず流動化すべき構造があるじゃないか、順番が逆だろ、と言った感じで、基本的に流動化そのものや官から民へや小さな政府にしろ、言っている事とやっている事がかけ離れている、やるならフェアにやれという感じで批判して来たので、公約をまもるなと言っていたわけではない。自分は反対だけれど、みんなで合意しちゃってそうしたいというのだから、公約を実現するならまだ許せるけれど、それをまもっていないじゃないかと。

なのに、小泉支持者からは抵抗勢力扱いというか、既得権益擁護みたいな話で攻撃された。なんかおかしくねえか?と思っていた。構造改革をする事自体は別にみんなで決めた事なんだからしょうがないので、構造改革するならちゃんとやれと言うと、何もわかっていない無知な輩と罵られる。

反対している人間が公約をきちんと守らんかい!!と批判し、賛成している人が公約なんてどうでもいいんだ!!と雄叫びをあげ拳を振り上げて応援している。不思議な現象です。そして小泉竹中路線がだんだん不人気になり、自己責任は酷いとか格差拡大とか、そういう論点で、自ら支持した事を棚に上げてこれまた、多くの国民が郵政選挙での自民党の方向性である小さな政府路線を批判し、公約を破れと批判をし始める。

自分は自己責任だと言いながら自己責任取れるような状況を構築していないではないかと批判しましたけれど、そういう風に空気が変わってからは、その事は逆に言うのを止めた。だってみんなでそれを支持していたのに、今更批判して、公約を破れというのはおかしな話で、公約を破るのなら選挙で問うのが先であり、それをせずに勝手に郵政選挙で掲げた理念をねじ曲げる事は許されないと思ったので、公約を守れ、守らないなら選挙だ、小泉改革を引き継ぐ気がないのなら、お前ら自民党に正統性は無いとずっと言って来た。それが民主制の原理原則です。

そうすると今度は小泉竹中擁護の売国奴って話になる。お前は市場原理主義者だとか、外資の手先だとか、アメリカの犬とか、おかしいなあ?なんでかなあ?つくづく腑に落ちない。あんたらが支持したんだよね?自分イラク戦争にも反対していたんだけど、アメリカの犬って、お前らそれを賛成していたじゃないか。どっちが犬なんだよ。勘弁しろよ。って感じでした。

それに格差拡大という紋切り型の言い方では一度も批判した事もありません。なぜなら格差が拡大していると感じるのは、小泉竹中路線のせいではなく、バブル崩壊後のツケがゆっくり日本人のバッファを削り取ってしまったからで、それは自民党をずっと支持して来たツケであるとも言えるからです。自業自得なんだよと。むしろ小泉竹中は派遣を認めているからと批判もされますけれど、失業率も下がっていましたので、厳密に言えば格差縮小をしていると言えますので、彼らのせいだというのは的外れもいい所です。格差拡大は彼らだけのせいではない。もちろん格差拡大よりも、貧困で生きて行けないような状況こそが問題なだけで、そこに適切に政策を打っていない事が問題なだけです。格差拡大というのは論点をぼやかすので適切な批判ではないと感じましたので、それに乗っかる事はしませんでした。

それを考えれば今の現象も要するに何も変わらないだけだと捉える事が出来るかもしれません。結局公約なんてどうでもいいというのはずっと一貫しているからです。それに対して自民党時代にしろ、今にしろ、公約は守れと自分は言い続けている。おかしな話です。

もちろん公約の中でも実行不可能なものもあるし、優先順位で後回しになるものがあるのはしょうがない。実際公約を守れないような外交上の問題とか、例えば今のアフガン情勢なんかが典型ですけれど、リスクが変化してしまった場合、公約を守る事がどう考えても不合理であれば、それは政権党としては公約を破らないわけには行かないし、国民だってそんなものを律儀に守って危機増大ではかないませんので、もちろん公約を破る必要があるものも当然出てくる事はあります。だけど基本的には公約を守れと言うのが普通なんじゃないかと思えるのですが、公約を破れというのがこの国のスタンダードな政治参加なのかもしれません。その理由はなぜか?それは次回で!!

つづく!!