我々は何を先日の衆院選で合意したのか?政権交代を選んだのは誰なのか?それは民主党の責任でも自民党の責任でもないはずです。選択した人間が決めた事であり、誰かや何かのせいにした所で意味は無い。自分で選んだのに、民主党に責任があって自分には責任が無いのか?
選択したけど選択肢が無かったからしょうがない?民主党が全部悪い?批判するのはいいでしょうし、文句を言うのも勝手です。そしてもちろん選択肢が無いというのも本当だろうし、民主党の未熟さに問題があるのも正しいでしょう。しかしどんなにその事が正しくても、誰がそれを選んでいるのか?ここを引き受けないと意味は無い。支持した人はそこを絶対に避けては通れない。
どこかに悪者がいるのなら選んだ人間が一番悪いはずです。文句を言う前にまずそのおとしまえを選択した人はつけるのがスジってもんでしょう。選んでしまった以上そいつらの政策が間違っていたり、サブスタンスが無かったりするのは選んだ人間のせいです。自民党を否定しただけだから悪くない?騙されていたから悪くない?それじゃ前大戦から何も学んでいない。悪いのは軍部だ!!国民は騙されていたんだ!!と自らが選択した事をすっ飛ばして被害者面している連中と大差ない。
小泉自民党の頃にこの国は一丸となってイラク戦争を支持しました。その小泉を世論の8割も支持していた。イラク戦争支持の世論もだいたいそんなもんだった。その後ブッシュが不人気になり、小泉が不人気になって行く過程で、支持していた人達は何の責任も感じることもなく、ブッシュの石油が云々、小泉の対米追従が云々、こういう批判をする輩がいっぱい出て来た。自分は、お前らはイラク戦争の引き金を引く事を賛成したじゃないか。小泉のせい?ブッシュのせい?ふざけんじゃねえよ。お前らはイラクの無辜の民をぶっ殺す事を支持したではないか。という事を書いた。支持していたくせにそれをすっ飛ばしてイラク戦争や小泉に文句を言っている奴は最低だと思った。
支持した事の取り返しのつかなさを自覚し、戦争や殺しの片棒を担いでいた過ちを徹底的に反省するのが先であり、それを引き受けもしないで文句を言う資格など無い。それに文句を言うのは、みんなにバカ扱いを受けても、売国奴、反日分子と罵られても、イラク戦争に反対をしてバッシングされていた自分達のような人間がするから、お前らはその前にやる事があるだろうと思った。非常に不愉快な気持ちになった。
取り返しのつかないような過ちだけれど、人は過ちを犯すもの、だから間違えてしまった事に関してはしょうがないと言うしか無い。死んじゃった人達からすれば、しょうがないだと?しょうがないじゃすまねえんだよって怒られてしまうでしょうけれど、取り返しはつかないのだから、反省し、それを何らかの教訓に生かして行くしか、過ちを犯してしまった人間に出来る最大の償いはそれしか無い。自分もそこは責めるつもりは無い。自分だって間違う事はいっぱいありますから。だけど、そこをすっ飛ばして小泉批判やブッシュ批判をするのは、順番が違うだろうと思う。
今それと全く同じ図式で文句を言い出している輩が増えている。これでは何も変わらない。例えどんな理由があるにせよ、自分が選択して何かの暴力性に加担しているという事実をまず認識した方がいい。問題があるのなら最初から支持なんてしなきゃいいわけで、その暴力性に加担しておきながら、何かのせいにし、自分達のせいで政権交代が起こっちゃった事を自覚しないのは卑怯者のする事です。民主党が悪いから支持した我々が無垢である何て考えているようじゃどこの政党を支持したって同じ。
支持した以上すでに何らかの結果は生み出しており、それは何らかの暴力性を生み出している。文句や不満を言うのは自由ですが、支持をしたという事をすっ飛ばすのはみっともない。ものには順番というのがある。梯子を外すのは構わないけれど、それをするのなら、その前に徹底的に自己反省するのが先です。まして、何らかの言論をしたり、ブログなどを書いたりして、人に影響を与えておいて、政権交代の力学に加担しておいて、そこの反省をすっ飛ばして、自分に責任が無いかのような立場に身を置くのはずるい、文句を言うのは民主党を支持しなかった人達に任せればいい。どんな理由があれ政権交代を支持した人は、すでに中立な立場に身を置いていないのだから、そこをまず徹底的に解体し自己反省をした上で、梯子を外すなりなんなりすればいい。そういう最低限の常識もわきまえずにわかったような事を言うのは、元々反対していた人間からすれば不愉快でしょう。それが礼儀ってもんで失礼です。
という風に、梯子を外して責任が無いかのように振る舞っている人にムカついてしまう気持ちはあるのですが、実際問題、文句が言いたくなるのもわかるし、自分だって本音を言えば、民主党を支持して来たというよりも政権交代を支持して来たので、民主党に投票しちゃって政権交代が起こっちゃったから、サブスタンスを求めたり、梯子を外しにならないような批判を書くようにしてますが、実際ムカつく気持ちはわかる。まあマニフェストを無視しろと言うつもりは、これは仕組みの問題なので全くありませんけれど。
誰だって考え方が変わる事はあるわけですから、別に梯子を外したい人が梯子を外したとて、政治家の責任に比べれば遥かに軽い話でもあるし、自分で責任を引き受けろと言ってしまうと、要は自己責任のロジックと一緒になり、政治家を免罪してしまう事にもなるので、権力を牽制するには、そんな固いことを言っていたのでは太刀打ち出来ません。それにマスコミが牽制としても批判としても全く役立たずな現在、そういう梯子外しだってある種の牽制くらいにはなるわけですから、まあ言いたい人が言いたいことを言うのは自由ですので、中身がなくともそういう人が一定数出てくるのは仕方のない事でもある。みんなで翼賛状態よりは健全であると言えます。権力という圧倒的な暴力装置を牽制するのに、常識や筋道なんて気にしてたら、絶対にかないっこない。そもそも圧倒的なリソースを持っている相手に向かって、しかもそれが国の舵取り役の人間に対して、フェアに勝負するよりも、卑怯でも小汚くとも優先させる事はある。
という事で本日は少し視座を変えて、ネガティブな政治参加によって合意が調達出来ない事に関して、日本は市民性が未成熟であるというような言い方を自分も含めてしてしまうわけですが、レヴィ=ストロース氏が死んじゃったので、ちょっと彼の構造主義的な観点から、そういう自分も含めた言い方に対する反省も一応書いておきます。遠回りばかりで申し訳ありませんがそこから新たにまた一つの鍵が見えて来ます。
そもそも市民性が成熟していないというのは、西洋的な民主主義システムや国家像を理想型としているという前提があります。ポジティブな政治参加が良い事であるというのもそうです。西洋型の国家像が優れていて、日本の国家像が劣っていると断定してしまうのは、構造主義的な観点からすると完全なお門違いであり、それこそがある種の抑圧と暴力を含んでいます。
それがある視点から見ると野蛮で前時代的で劣っているように見えたとしても、物事の裏側には実は巧妙で精緻な構造を、伝統や慣習による英知によって守られているという事を、レヴィ=ストロース大先生は思い上がった西洋主義的なお門違いの上から目線の前に突きつけるわけです。くぅーっ、かっこいいじゃないですか。
システムというのは人がコントロール出来ない領域だと書きましたけれど、そういうものを実は長い長い歴史の蓄積によって自然に形成され、例えば日本人的なネガティブな政治参加や、空気支配、自明性の変化によって簡単に覆る価値観と言ったような特性も、何らかの合理的な日本人の英知の残滓であると捉える事も出来るでしょう。だからそれが間違っているとか劣っているというのは勘違いもいい所で、そういう意味ではなくて、そもそも民主主義のような欧米的な仕組みを導入しているからそれはそういう風に見えるだけに過ぎません。
だからどちらが間違っているのかという事には意味は無いと思いますがあえてそれを言うならば、システムを人が設計してなんとか出来ると勘違いしている欧米的な思い上がった近代の国家像そのものがそもそも過ちの原因だと捉える事も出来る。
日本はそもそも江戸時代には250年にも及ぶ繁栄と平和をちゃんと守って来た。それはおそらく今でも日本人的な価値観には残っており、西洋的な上から目線で言えば市民性の未成熟という言い方で否定されるでしょう。しかしその英知があったから、250年にも及ぶ繁栄と平和を守って来れたのだろうし、開国と言われる近代化のスキームにスムーズに適応出来た。
ただ残念なのは、すでにその時に思い上がった西洋的なシステムを人の手でコントロール出来るという勘違いの国家像にシフトしてしまっている。だから日本人的な価値観がそれとバッティングしてしまうわけで、日本は外圧によってその変化を余儀なくされているわけだから、そもそも日本人が悪いわけでもなんでもない。余計な干渉をして、人の庭に踏み込んで来た欧米の暴力性に対抗する為に選択肢が無かったからそうしたわけです。
しかしその事を今更悔いても後戻りは出来ないし、近代の国家システムはこの国にかなりの深度で根ざしてしまっている。それによる恩恵も散々受けたのも事実。元に戻そうと思ってもそれは不可能な事なので、現時点で適応するしか無い。しかし何らかの合理的な必要性があったから、残っているはずの日本人のネガティブな政治参加という行動原理や市民性の未成熟と呼ばれてしまう、いわゆる民度の低さ、お任せ主義、空気支配、抜け駆け意識、悪い言い方ばかりですが、こういう発想を捨てる必要は無い。何らかの合理性があるから残っているのだろうし、必要なければ無くなっているはずです。必ずそれと表裏になった日本人の善き特性もそこには隠れている。
例えばコミットメントという言葉をよく使いますけれど、そもそも日本では社会に対するコミットメントが無かったのかというと、そんな事は無くて、お祭りや寄り合いと言ったような、地域への伝統的なコミットメントはあったわけですし、それは制度的な縛りではなく、伝統や慣習によって、めんどくさいけど、無視するわけには行かない、ある種の空気支配の縛りによって参加するような構造があった。
それが近代化の過程で天皇主義を利用した国家へのコミットメントへと人工的に設計したり、戦後はそういう古いコミュニティの縛りのようなものは抑圧なんだと壊してしまったわけですが、結局近代が行き詰まって今何を言っているのかと言えば、政治にコミットしろ、社会にコミットしろ、地域にコミットしろ、と言っているわけです。そもそもあったものを壊しておいて、今更そんなことを言ったって、ちょっとおかしいんじゃねえか?という気がする。こういう所が自分が仕組みにしか興味がわかない所でもあるのです。こっちだあっちだと引っ張りあっちゃいるけれど、どっちが正しいのかなんてのはその時々で変わってしまうし、ある種のトレンドと同じ。仕組みさえ整っていればその上のトレンドや流れなんかはたいした意味は無いのではないかと。
自明性が簡単に覆るようなマインドも、これは意味や自明性からの縛りが比較的軽やかだからなせる技で、その事が例えば西洋的な目線から見ると、ポストモダンに見えたりするわけです。梯子外しという言葉もそうで、何かの合意や決定によって生み出される暴力性に対して、ある種の脱構築機能がそもそも国民の意識に備わっているのですから、小難しい議論でポストモダンなんかを論じるまでもなく、伝統と慣習の中に安全装置が組み込まれているという事も出来る。
空気支配の構造も悪い事ばかりを自分も含めて言いがちですが、これは自明性が簡単に覆ったり、梯子外しによる視座のずらしのような、ある種の自由な、縛りの軽さに対する安全装置であると捉えれば、それなりに合理性のある特性であるとも言えるでしょう。自由がいい事だからと言ったって、それも度が過ぎれば暴力や抑圧を生み、自由の押し付けや、無軌道で無規範な自由へと堕落してしまう。それが行き過ぎないような共同体の空気による縛りがある種のバランスをもたらしていたとも言えるわけです。
日本は元々血縁社会ではなく、家社会です。血がつながっているかどうかよりも、同じ家共同体の構成員同士の結束の方が強い。だから昔から養子なんかはバンバン普通にあった事だし、いったんそれで共同体内部に組み込まれてしまえば、血なんかつながっていなくとも、正統性は担保されてしまう。今でも企業買収なんかが騒がれると、敵対意識をむきだしにしたりしますけれど、いったん共同体内部に組み込まれてそれなりに合理性があったと自明性が変化してしまうと、それは新たな仲間として協調出来るようになる。ゴーン社長、バレンタイン監督、見捨てないでって話になる。内輪の論理や排他的な共同体主義というのを、自明性の変化のしやすさが簡単に内輪や共同体の定義を変えてしまうので、強固な結束がむしろ寛容な包摂性を担保してしまう。
鬼畜米英がマッカーサー様ありがとうに変化する事に対しては、例えば散々人を死に追いやっておいてふざけんじゃねえよと自分も思ってしまったりするのですが、自明性の変化や空気が変われば一気に変わる、まあ悪く言うと長いものにまかれるとか、態度を豹変させるとか、恥じ知らずとかいくらでも悪く言えてしまいますし、自分もムカつく所はあります。だけど、現実に適応する為には格好つけていてもしょうがないのも事実なわけで、更に人がいっぱい死ぬよりはよっぽどマシだと言えるし、変化を受け入れておきながら、文句を言っていても始まらないのは事実なので、その変化に適応して最適化するというのは、格好は悪いかもしれませんが現実的だと言える。
いつまでも意地を張って文句を言っている人達はスッキリはするかもしれませんけれど、適応が出来なければ置いてけぼりを食らう。空気が変わって一気に態度を豹変する輩がいっぱい出てくれば、置いてけぼりを食ってしまう人達に対して、いつまでも意地を張るなよこっちへおいでというプレッシャーとして機能するだろうし、体面を気にせずに豹変する事への罪悪感を気にせずに、新しいスキームに適応しやすくなる。その方が現実的対応という事を考えれば合理的です。理想じゃ飯は食えない。格好悪くても生活の方が重要ですから。
この国の歴史を見ると、例えば関ヶ原から大坂の陣にかけて、徳川幕府の成立の過程で、豊臣政権の子飼の武将達がまあ情けないほどに空気を読んで態度を豹変させます。しかしその頃のそういう人達というのは、現実的な対応をしていたわけで、武士の対面とか大義とかそういうものよりも、実際の現実に対応した。それは格好悪いかもしれないけれど、人の上に立つ人にとってはそっちを選ぶ人の方が資格はあると思えます。
もちろん最後まで徳川政権に抵抗していた人達はかっこいい。男らしいと思う。明治維新の時もどちらかと言うと速攻で薩長になびくよりも、抗った人達の方が自分はかっこよく見えてしまう。だけど正しさよりも優先させるべき事はあるはずです。情けなくともそれを選択する方が、多くの人にとっては現実的な決定なはずです。
義とか道徳を叫ぶよりも、義や道徳が意味のある社会を構築する為に、それこそありとあらゆる権謀術数を用いて、天下を治めた家康の方が、結果的にそういう世の中を実現している。(自分はどうしても何をなすかよりも何かをなす事の意味のある社会を構築する人の方にシンパシーを感じてしまう)。
島国根性とか、蛸壺的な鍔迫り合いとか、まあいろんな言い方で排他的な内輪の論理に対して否定的な物言いが多いし、自分もそれを言ってしまう。反省すべき点です。蛸壺とか内輪の論理とか言うと悪く聞こえますけれど、各共同体それぞれが、それぞれの価値観を持ち、独立独歩の気風を持っているという言い方をすれば、それは全然悪い話ではないわけで、そういう細かいスフィアが相互牽制によって、時には共同戦線を張って、それぞれが自立して思考するというのは、他でもない分権化の最大のリソースになりうるわけです。地域共同体のコミュニティの復活にとっても非常に有効な思考法でもある。明治以前は例えば会津には会津の薩摩には薩摩隼人の独立独歩の気風があり、それが共同体の縛りや、愛郷心、コミットメント、相互牽制の役目を果たして、上手く機能して来た。
それが欧米からの圧力や近代化によって、薩摩や会津の凄まじい愛郷心をモデルにして、日本の愛国心や天皇主義を人工的に作り上げ、靖国によってそれを国家が吸い上げる中央集権的な仕組みを構築した。西郷は靖国に奉られていない。それを更に最初はよかれと思って亜細亜主義まで押し広めて行って、それが途中で暴走して単なる押しつけだと余計なお世話だという事で反発を招いてしまいましたが、近代化以前の伝統と慣習によって培われていた自然なパトリオティズムまで遡れば、今必要だと言われているものがそのままあるわけで、しかもその頃のマインドはまだ日本人のネガティブ性として批判されがちな精神の中に残っている。
ただそれぞれの蛸壺が中央集権国家であるが故に、権限が無いが故に、リソースも無く自立して思考出来ずに、鍔迫り合いやクレクレ主義、島国根性や内輪の論理での少ないリソースの分捕り合戦、抜け駆け感と悪い側面ばかりが目立ってしまいますけれど、これからの国土あり方や方向性を考えると、そんなに悪い事ばかりではないはずです。
革命によって伝統をぶっ壊し、人工的にシステムが作れると錯覚し、海外にそれを押し付けておきながら、やれポストモダンだの、脱構築だのと、理論付けしないとそう言うものが無くなってしまったスカスカな社会を世界に広めてしまった連中が、勝手に近代が合理的であると錯覚しているだけで、元々伝統や歴史の長い蓄積によって当たり前の慣習の中に、実は複雑な理論や計算に基づいても設計出来ないようなシステムが自然に蓄積されて構築され巧妙に隠れていて、それは短期的且つ人工的に生み出したペラペラのいちいち理論づけしてわざわざ人にコミットを強要しないと回らないような近代のシステムよりも全然合理的であるとも言えるわけです。
だけどそれだけでは近代社会というのは残念ながらドライブ出来ない。人の手でコントロール出来ると勘違いしちゃって、構造をいじくってしまったもんだから、それだけでは足りない構造に変化してしまった。その事を嘆いてももう取り返しはつきません。なので、そういう古い英知も残しつつ、そもそも不可能なシステムのコントロールに挑んでしまったが為に必要になってしまった、西洋的な市民性の成熟というという発想も取り込んで行かねば、変化してしまったシステムは我々を傷つけてしまう。
そしてここが重要なんですが、我々はその過去の英知というのが幸いまだ残っている。その過去の英知によるネガティビティも十分承知している。そして変わってしまった事によって必要な市民参加がなんであるのかも解っている。なのでこれを上手く融合出来れば、欧米的な価値観では見えない所の問題にまで目が向くようになるはずです。近代国家に必要な価値観さえあれば近代化はドライブ出来ます。プラス日本には過去の英知が残っている。それを持っているという事は視座を輻輳させる強力なリソースとなりうる。近代国家の方が優れていて、そこに至っていない国家は遅れているという思い上がった暴力性を脱臼させる事も出来る。もちろんこの二つはバッティングするので、いいとこ取りをして、都合良く使い分けてしまうと、逆にマイナスにしかならないでしょう。多分今の日本が上手くいかない理由もその辺にある。しかしその事を十分認識した上での視座の輻輳であるのなら、日本人にしか見えない視座というのが必ずあるはずです。それは日本だからこそ可能な可能性であり、上手く使えば最大のリソースにだってなりうる。日本は明治維新後の近代化にしろ、戦後の再近代化にしろ、凄まじいスピードでこれを遂げている。にもかかわらずその時に古い価値観を否定して捨てていない。ちゃんとそれは今でも残っている。
例えばこのお話は高速道路のお話なので、そこから例をとりますと、名神や東名を作った時は、アメリカに提示した金額から3割削られても予算内で建設しました。東名なんかは東京から名古屋まで6年で作っている。この考えられないような優秀さは一体なんだったのか?
戦前のデモクラシーだって、ちょっと前までちょんまげをつけていたのに、誰の手も借りず、日本人自身の知恵と工夫で大正時代にはイギリスなんかに匹敵するような立憲君主制や議会制民主主義を実現している。これは奇跡としか言いようがありません。戦後の日本も随分と時間はかかっちゃいましたが、やっと政権交代可能な構造にシフトし、民主主義がやっと機能し始めて、その第一歩を踏み出した。大正デモクラシーには遠く及びませんけれど、少なくともマスコミのゴミ情報に抗う事は出来るようになっている。これはある意味その頃にはなかったテクノロジーのおかげですが、それが新たなこの国の可能性を開いた。
キリスト教的な神もおらず、アリストテレス的な形式論理学も根付いていないこの国において、地理的な条件や冷戦という特殊な外交事情があったとは言え、問題があるとは言え、亜流とは言え、民主主義と資本主義をドライブさせここまで大国にのし上がった国は他にありません。それは一種の奇跡に近い事でもある。間違いなく自信を持っていい所でしょう。特別な美しさや気高い精神と言ったような道徳や伝統を賛美するよりも、我々の通常性の中にある時に醜く、時にネガティブに批判してしまいがちな慣習や価値観の中に残っている、その奇跡的な可能性は十分自信を持っていい所だと思えます。
今の日本の官僚システムというのは優秀さを、税金をなるべく多く使って、出来るだけ時間をかけて、その金を分配し無駄に使い果たす事に能力を使ってしまっている。しかし自明性さえ変われば、ルールさえ変われば、日本人はその枠の中で最適化する事に長けた民族だと思えます。だから枠組みを考える事は苦手だけれど、ある枠組みでいったん合意して適応したら負けない底力はあると思う。
今のシステムで何が足りないのか?その事は解っているのだから、それを取り込んで枠組みさえ決まってドライブ出来れば、まだまだ日本には復活の経路は残っていると思います。我々は何を先日の衆院選で合意したのか?政権交代を選んだのは誰なのか?その事を自覚すれば何をなせばいいのかもわかる。そして足りないものはなんであるのか?それを見つめ直せば出口はあります。
そしてここが肝腎要の肝なのですが、その我々が捨てなかった価値観こそがこれからの日本の目指す方向性にとって非常に重要な鍵になる。近代化の為に必要な足りないものをそれはそれで取り込んでその枠組みで思考し、古い価値観は価値観でバッティングしないように独立させて思考すれば、その古い価値観こそが今必要なものでもある。それが残っているという事が最大の強みになる可能性があるのです。なぜならこれからの日本に必要な方向性は復古による改革と言えるからです。天皇陛下を中心とした国づくりの尊王思想とかそういう話じゃないですよ、それを次回から見て行きましょうね。
やっと回り道が終わって問題の本質へと向かいます。
つづく!!
選択したけど選択肢が無かったからしょうがない?民主党が全部悪い?批判するのはいいでしょうし、文句を言うのも勝手です。そしてもちろん選択肢が無いというのも本当だろうし、民主党の未熟さに問題があるのも正しいでしょう。しかしどんなにその事が正しくても、誰がそれを選んでいるのか?ここを引き受けないと意味は無い。支持した人はそこを絶対に避けては通れない。
どこかに悪者がいるのなら選んだ人間が一番悪いはずです。文句を言う前にまずそのおとしまえを選択した人はつけるのがスジってもんでしょう。選んでしまった以上そいつらの政策が間違っていたり、サブスタンスが無かったりするのは選んだ人間のせいです。自民党を否定しただけだから悪くない?騙されていたから悪くない?それじゃ前大戦から何も学んでいない。悪いのは軍部だ!!国民は騙されていたんだ!!と自らが選択した事をすっ飛ばして被害者面している連中と大差ない。
小泉自民党の頃にこの国は一丸となってイラク戦争を支持しました。その小泉を世論の8割も支持していた。イラク戦争支持の世論もだいたいそんなもんだった。その後ブッシュが不人気になり、小泉が不人気になって行く過程で、支持していた人達は何の責任も感じることもなく、ブッシュの石油が云々、小泉の対米追従が云々、こういう批判をする輩がいっぱい出て来た。自分は、お前らはイラク戦争の引き金を引く事を賛成したじゃないか。小泉のせい?ブッシュのせい?ふざけんじゃねえよ。お前らはイラクの無辜の民をぶっ殺す事を支持したではないか。という事を書いた。支持していたくせにそれをすっ飛ばしてイラク戦争や小泉に文句を言っている奴は最低だと思った。
支持した事の取り返しのつかなさを自覚し、戦争や殺しの片棒を担いでいた過ちを徹底的に反省するのが先であり、それを引き受けもしないで文句を言う資格など無い。それに文句を言うのは、みんなにバカ扱いを受けても、売国奴、反日分子と罵られても、イラク戦争に反対をしてバッシングされていた自分達のような人間がするから、お前らはその前にやる事があるだろうと思った。非常に不愉快な気持ちになった。
取り返しのつかないような過ちだけれど、人は過ちを犯すもの、だから間違えてしまった事に関してはしょうがないと言うしか無い。死んじゃった人達からすれば、しょうがないだと?しょうがないじゃすまねえんだよって怒られてしまうでしょうけれど、取り返しはつかないのだから、反省し、それを何らかの教訓に生かして行くしか、過ちを犯してしまった人間に出来る最大の償いはそれしか無い。自分もそこは責めるつもりは無い。自分だって間違う事はいっぱいありますから。だけど、そこをすっ飛ばして小泉批判やブッシュ批判をするのは、順番が違うだろうと思う。
今それと全く同じ図式で文句を言い出している輩が増えている。これでは何も変わらない。例えどんな理由があるにせよ、自分が選択して何かの暴力性に加担しているという事実をまず認識した方がいい。問題があるのなら最初から支持なんてしなきゃいいわけで、その暴力性に加担しておきながら、何かのせいにし、自分達のせいで政権交代が起こっちゃった事を自覚しないのは卑怯者のする事です。民主党が悪いから支持した我々が無垢である何て考えているようじゃどこの政党を支持したって同じ。
支持した以上すでに何らかの結果は生み出しており、それは何らかの暴力性を生み出している。文句や不満を言うのは自由ですが、支持をしたという事をすっ飛ばすのはみっともない。ものには順番というのがある。梯子を外すのは構わないけれど、それをするのなら、その前に徹底的に自己反省するのが先です。まして、何らかの言論をしたり、ブログなどを書いたりして、人に影響を与えておいて、政権交代の力学に加担しておいて、そこの反省をすっ飛ばして、自分に責任が無いかのような立場に身を置くのはずるい、文句を言うのは民主党を支持しなかった人達に任せればいい。どんな理由があれ政権交代を支持した人は、すでに中立な立場に身を置いていないのだから、そこをまず徹底的に解体し自己反省をした上で、梯子を外すなりなんなりすればいい。そういう最低限の常識もわきまえずにわかったような事を言うのは、元々反対していた人間からすれば不愉快でしょう。それが礼儀ってもんで失礼です。
という風に、梯子を外して責任が無いかのように振る舞っている人にムカついてしまう気持ちはあるのですが、実際問題、文句が言いたくなるのもわかるし、自分だって本音を言えば、民主党を支持して来たというよりも政権交代を支持して来たので、民主党に投票しちゃって政権交代が起こっちゃったから、サブスタンスを求めたり、梯子を外しにならないような批判を書くようにしてますが、実際ムカつく気持ちはわかる。まあマニフェストを無視しろと言うつもりは、これは仕組みの問題なので全くありませんけれど。
誰だって考え方が変わる事はあるわけですから、別に梯子を外したい人が梯子を外したとて、政治家の責任に比べれば遥かに軽い話でもあるし、自分で責任を引き受けろと言ってしまうと、要は自己責任のロジックと一緒になり、政治家を免罪してしまう事にもなるので、権力を牽制するには、そんな固いことを言っていたのでは太刀打ち出来ません。それにマスコミが牽制としても批判としても全く役立たずな現在、そういう梯子外しだってある種の牽制くらいにはなるわけですから、まあ言いたい人が言いたいことを言うのは自由ですので、中身がなくともそういう人が一定数出てくるのは仕方のない事でもある。みんなで翼賛状態よりは健全であると言えます。権力という圧倒的な暴力装置を牽制するのに、常識や筋道なんて気にしてたら、絶対にかないっこない。そもそも圧倒的なリソースを持っている相手に向かって、しかもそれが国の舵取り役の人間に対して、フェアに勝負するよりも、卑怯でも小汚くとも優先させる事はある。
という事で本日は少し視座を変えて、ネガティブな政治参加によって合意が調達出来ない事に関して、日本は市民性が未成熟であるというような言い方を自分も含めてしてしまうわけですが、レヴィ=ストロース氏が死んじゃったので、ちょっと彼の構造主義的な観点から、そういう自分も含めた言い方に対する反省も一応書いておきます。遠回りばかりで申し訳ありませんがそこから新たにまた一つの鍵が見えて来ます。
そもそも市民性が成熟していないというのは、西洋的な民主主義システムや国家像を理想型としているという前提があります。ポジティブな政治参加が良い事であるというのもそうです。西洋型の国家像が優れていて、日本の国家像が劣っていると断定してしまうのは、構造主義的な観点からすると完全なお門違いであり、それこそがある種の抑圧と暴力を含んでいます。
それがある視点から見ると野蛮で前時代的で劣っているように見えたとしても、物事の裏側には実は巧妙で精緻な構造を、伝統や慣習による英知によって守られているという事を、レヴィ=ストロース大先生は思い上がった西洋主義的なお門違いの上から目線の前に突きつけるわけです。くぅーっ、かっこいいじゃないですか。
システムというのは人がコントロール出来ない領域だと書きましたけれど、そういうものを実は長い長い歴史の蓄積によって自然に形成され、例えば日本人的なネガティブな政治参加や、空気支配、自明性の変化によって簡単に覆る価値観と言ったような特性も、何らかの合理的な日本人の英知の残滓であると捉える事も出来るでしょう。だからそれが間違っているとか劣っているというのは勘違いもいい所で、そういう意味ではなくて、そもそも民主主義のような欧米的な仕組みを導入しているからそれはそういう風に見えるだけに過ぎません。
だからどちらが間違っているのかという事には意味は無いと思いますがあえてそれを言うならば、システムを人が設計してなんとか出来ると勘違いしている欧米的な思い上がった近代の国家像そのものがそもそも過ちの原因だと捉える事も出来る。
日本はそもそも江戸時代には250年にも及ぶ繁栄と平和をちゃんと守って来た。それはおそらく今でも日本人的な価値観には残っており、西洋的な上から目線で言えば市民性の未成熟という言い方で否定されるでしょう。しかしその英知があったから、250年にも及ぶ繁栄と平和を守って来れたのだろうし、開国と言われる近代化のスキームにスムーズに適応出来た。
ただ残念なのは、すでにその時に思い上がった西洋的なシステムを人の手でコントロール出来るという勘違いの国家像にシフトしてしまっている。だから日本人的な価値観がそれとバッティングしてしまうわけで、日本は外圧によってその変化を余儀なくされているわけだから、そもそも日本人が悪いわけでもなんでもない。余計な干渉をして、人の庭に踏み込んで来た欧米の暴力性に対抗する為に選択肢が無かったからそうしたわけです。
しかしその事を今更悔いても後戻りは出来ないし、近代の国家システムはこの国にかなりの深度で根ざしてしまっている。それによる恩恵も散々受けたのも事実。元に戻そうと思ってもそれは不可能な事なので、現時点で適応するしか無い。しかし何らかの合理的な必要性があったから、残っているはずの日本人のネガティブな政治参加という行動原理や市民性の未成熟と呼ばれてしまう、いわゆる民度の低さ、お任せ主義、空気支配、抜け駆け意識、悪い言い方ばかりですが、こういう発想を捨てる必要は無い。何らかの合理性があるから残っているのだろうし、必要なければ無くなっているはずです。必ずそれと表裏になった日本人の善き特性もそこには隠れている。
例えばコミットメントという言葉をよく使いますけれど、そもそも日本では社会に対するコミットメントが無かったのかというと、そんな事は無くて、お祭りや寄り合いと言ったような、地域への伝統的なコミットメントはあったわけですし、それは制度的な縛りではなく、伝統や慣習によって、めんどくさいけど、無視するわけには行かない、ある種の空気支配の縛りによって参加するような構造があった。
それが近代化の過程で天皇主義を利用した国家へのコミットメントへと人工的に設計したり、戦後はそういう古いコミュニティの縛りのようなものは抑圧なんだと壊してしまったわけですが、結局近代が行き詰まって今何を言っているのかと言えば、政治にコミットしろ、社会にコミットしろ、地域にコミットしろ、と言っているわけです。そもそもあったものを壊しておいて、今更そんなことを言ったって、ちょっとおかしいんじゃねえか?という気がする。こういう所が自分が仕組みにしか興味がわかない所でもあるのです。こっちだあっちだと引っ張りあっちゃいるけれど、どっちが正しいのかなんてのはその時々で変わってしまうし、ある種のトレンドと同じ。仕組みさえ整っていればその上のトレンドや流れなんかはたいした意味は無いのではないかと。
自明性が簡単に覆るようなマインドも、これは意味や自明性からの縛りが比較的軽やかだからなせる技で、その事が例えば西洋的な目線から見ると、ポストモダンに見えたりするわけです。梯子外しという言葉もそうで、何かの合意や決定によって生み出される暴力性に対して、ある種の脱構築機能がそもそも国民の意識に備わっているのですから、小難しい議論でポストモダンなんかを論じるまでもなく、伝統と慣習の中に安全装置が組み込まれているという事も出来る。
空気支配の構造も悪い事ばかりを自分も含めて言いがちですが、これは自明性が簡単に覆ったり、梯子外しによる視座のずらしのような、ある種の自由な、縛りの軽さに対する安全装置であると捉えれば、それなりに合理性のある特性であるとも言えるでしょう。自由がいい事だからと言ったって、それも度が過ぎれば暴力や抑圧を生み、自由の押し付けや、無軌道で無規範な自由へと堕落してしまう。それが行き過ぎないような共同体の空気による縛りがある種のバランスをもたらしていたとも言えるわけです。
日本は元々血縁社会ではなく、家社会です。血がつながっているかどうかよりも、同じ家共同体の構成員同士の結束の方が強い。だから昔から養子なんかはバンバン普通にあった事だし、いったんそれで共同体内部に組み込まれてしまえば、血なんかつながっていなくとも、正統性は担保されてしまう。今でも企業買収なんかが騒がれると、敵対意識をむきだしにしたりしますけれど、いったん共同体内部に組み込まれてそれなりに合理性があったと自明性が変化してしまうと、それは新たな仲間として協調出来るようになる。ゴーン社長、バレンタイン監督、見捨てないでって話になる。内輪の論理や排他的な共同体主義というのを、自明性の変化のしやすさが簡単に内輪や共同体の定義を変えてしまうので、強固な結束がむしろ寛容な包摂性を担保してしまう。
鬼畜米英がマッカーサー様ありがとうに変化する事に対しては、例えば散々人を死に追いやっておいてふざけんじゃねえよと自分も思ってしまったりするのですが、自明性の変化や空気が変われば一気に変わる、まあ悪く言うと長いものにまかれるとか、態度を豹変させるとか、恥じ知らずとかいくらでも悪く言えてしまいますし、自分もムカつく所はあります。だけど、現実に適応する為には格好つけていてもしょうがないのも事実なわけで、更に人がいっぱい死ぬよりはよっぽどマシだと言えるし、変化を受け入れておきながら、文句を言っていても始まらないのは事実なので、その変化に適応して最適化するというのは、格好は悪いかもしれませんが現実的だと言える。
いつまでも意地を張って文句を言っている人達はスッキリはするかもしれませんけれど、適応が出来なければ置いてけぼりを食らう。空気が変わって一気に態度を豹変する輩がいっぱい出てくれば、置いてけぼりを食ってしまう人達に対して、いつまでも意地を張るなよこっちへおいでというプレッシャーとして機能するだろうし、体面を気にせずに豹変する事への罪悪感を気にせずに、新しいスキームに適応しやすくなる。その方が現実的対応という事を考えれば合理的です。理想じゃ飯は食えない。格好悪くても生活の方が重要ですから。
この国の歴史を見ると、例えば関ヶ原から大坂の陣にかけて、徳川幕府の成立の過程で、豊臣政権の子飼の武将達がまあ情けないほどに空気を読んで態度を豹変させます。しかしその頃のそういう人達というのは、現実的な対応をしていたわけで、武士の対面とか大義とかそういうものよりも、実際の現実に対応した。それは格好悪いかもしれないけれど、人の上に立つ人にとってはそっちを選ぶ人の方が資格はあると思えます。
もちろん最後まで徳川政権に抵抗していた人達はかっこいい。男らしいと思う。明治維新の時もどちらかと言うと速攻で薩長になびくよりも、抗った人達の方が自分はかっこよく見えてしまう。だけど正しさよりも優先させるべき事はあるはずです。情けなくともそれを選択する方が、多くの人にとっては現実的な決定なはずです。
義とか道徳を叫ぶよりも、義や道徳が意味のある社会を構築する為に、それこそありとあらゆる権謀術数を用いて、天下を治めた家康の方が、結果的にそういう世の中を実現している。(自分はどうしても何をなすかよりも何かをなす事の意味のある社会を構築する人の方にシンパシーを感じてしまう)。
島国根性とか、蛸壺的な鍔迫り合いとか、まあいろんな言い方で排他的な内輪の論理に対して否定的な物言いが多いし、自分もそれを言ってしまう。反省すべき点です。蛸壺とか内輪の論理とか言うと悪く聞こえますけれど、各共同体それぞれが、それぞれの価値観を持ち、独立独歩の気風を持っているという言い方をすれば、それは全然悪い話ではないわけで、そういう細かいスフィアが相互牽制によって、時には共同戦線を張って、それぞれが自立して思考するというのは、他でもない分権化の最大のリソースになりうるわけです。地域共同体のコミュニティの復活にとっても非常に有効な思考法でもある。明治以前は例えば会津には会津の薩摩には薩摩隼人の独立独歩の気風があり、それが共同体の縛りや、愛郷心、コミットメント、相互牽制の役目を果たして、上手く機能して来た。
それが欧米からの圧力や近代化によって、薩摩や会津の凄まじい愛郷心をモデルにして、日本の愛国心や天皇主義を人工的に作り上げ、靖国によってそれを国家が吸い上げる中央集権的な仕組みを構築した。西郷は靖国に奉られていない。それを更に最初はよかれと思って亜細亜主義まで押し広めて行って、それが途中で暴走して単なる押しつけだと余計なお世話だという事で反発を招いてしまいましたが、近代化以前の伝統と慣習によって培われていた自然なパトリオティズムまで遡れば、今必要だと言われているものがそのままあるわけで、しかもその頃のマインドはまだ日本人のネガティブ性として批判されがちな精神の中に残っている。
ただそれぞれの蛸壺が中央集権国家であるが故に、権限が無いが故に、リソースも無く自立して思考出来ずに、鍔迫り合いやクレクレ主義、島国根性や内輪の論理での少ないリソースの分捕り合戦、抜け駆け感と悪い側面ばかりが目立ってしまいますけれど、これからの国土あり方や方向性を考えると、そんなに悪い事ばかりではないはずです。
革命によって伝統をぶっ壊し、人工的にシステムが作れると錯覚し、海外にそれを押し付けておきながら、やれポストモダンだの、脱構築だのと、理論付けしないとそう言うものが無くなってしまったスカスカな社会を世界に広めてしまった連中が、勝手に近代が合理的であると錯覚しているだけで、元々伝統や歴史の長い蓄積によって当たり前の慣習の中に、実は複雑な理論や計算に基づいても設計出来ないようなシステムが自然に蓄積されて構築され巧妙に隠れていて、それは短期的且つ人工的に生み出したペラペラのいちいち理論づけしてわざわざ人にコミットを強要しないと回らないような近代のシステムよりも全然合理的であるとも言えるわけです。
だけどそれだけでは近代社会というのは残念ながらドライブ出来ない。人の手でコントロール出来ると勘違いしちゃって、構造をいじくってしまったもんだから、それだけでは足りない構造に変化してしまった。その事を嘆いてももう取り返しはつきません。なので、そういう古い英知も残しつつ、そもそも不可能なシステムのコントロールに挑んでしまったが為に必要になってしまった、西洋的な市民性の成熟というという発想も取り込んで行かねば、変化してしまったシステムは我々を傷つけてしまう。
そしてここが重要なんですが、我々はその過去の英知というのが幸いまだ残っている。その過去の英知によるネガティビティも十分承知している。そして変わってしまった事によって必要な市民参加がなんであるのかも解っている。なのでこれを上手く融合出来れば、欧米的な価値観では見えない所の問題にまで目が向くようになるはずです。近代国家に必要な価値観さえあれば近代化はドライブ出来ます。プラス日本には過去の英知が残っている。それを持っているという事は視座を輻輳させる強力なリソースとなりうる。近代国家の方が優れていて、そこに至っていない国家は遅れているという思い上がった暴力性を脱臼させる事も出来る。もちろんこの二つはバッティングするので、いいとこ取りをして、都合良く使い分けてしまうと、逆にマイナスにしかならないでしょう。多分今の日本が上手くいかない理由もその辺にある。しかしその事を十分認識した上での視座の輻輳であるのなら、日本人にしか見えない視座というのが必ずあるはずです。それは日本だからこそ可能な可能性であり、上手く使えば最大のリソースにだってなりうる。日本は明治維新後の近代化にしろ、戦後の再近代化にしろ、凄まじいスピードでこれを遂げている。にもかかわらずその時に古い価値観を否定して捨てていない。ちゃんとそれは今でも残っている。
例えばこのお話は高速道路のお話なので、そこから例をとりますと、名神や東名を作った時は、アメリカに提示した金額から3割削られても予算内で建設しました。東名なんかは東京から名古屋まで6年で作っている。この考えられないような優秀さは一体なんだったのか?
戦前のデモクラシーだって、ちょっと前までちょんまげをつけていたのに、誰の手も借りず、日本人自身の知恵と工夫で大正時代にはイギリスなんかに匹敵するような立憲君主制や議会制民主主義を実現している。これは奇跡としか言いようがありません。戦後の日本も随分と時間はかかっちゃいましたが、やっと政権交代可能な構造にシフトし、民主主義がやっと機能し始めて、その第一歩を踏み出した。大正デモクラシーには遠く及びませんけれど、少なくともマスコミのゴミ情報に抗う事は出来るようになっている。これはある意味その頃にはなかったテクノロジーのおかげですが、それが新たなこの国の可能性を開いた。
キリスト教的な神もおらず、アリストテレス的な形式論理学も根付いていないこの国において、地理的な条件や冷戦という特殊な外交事情があったとは言え、問題があるとは言え、亜流とは言え、民主主義と資本主義をドライブさせここまで大国にのし上がった国は他にありません。それは一種の奇跡に近い事でもある。間違いなく自信を持っていい所でしょう。特別な美しさや気高い精神と言ったような道徳や伝統を賛美するよりも、我々の通常性の中にある時に醜く、時にネガティブに批判してしまいがちな慣習や価値観の中に残っている、その奇跡的な可能性は十分自信を持っていい所だと思えます。
今の日本の官僚システムというのは優秀さを、税金をなるべく多く使って、出来るだけ時間をかけて、その金を分配し無駄に使い果たす事に能力を使ってしまっている。しかし自明性さえ変われば、ルールさえ変われば、日本人はその枠の中で最適化する事に長けた民族だと思えます。だから枠組みを考える事は苦手だけれど、ある枠組みでいったん合意して適応したら負けない底力はあると思う。
今のシステムで何が足りないのか?その事は解っているのだから、それを取り込んで枠組みさえ決まってドライブ出来れば、まだまだ日本には復活の経路は残っていると思います。我々は何を先日の衆院選で合意したのか?政権交代を選んだのは誰なのか?その事を自覚すれば何をなせばいいのかもわかる。そして足りないものはなんであるのか?それを見つめ直せば出口はあります。
そしてここが肝腎要の肝なのですが、その我々が捨てなかった価値観こそがこれからの日本の目指す方向性にとって非常に重要な鍵になる。近代化の為に必要な足りないものをそれはそれで取り込んでその枠組みで思考し、古い価値観は価値観でバッティングしないように独立させて思考すれば、その古い価値観こそが今必要なものでもある。それが残っているという事が最大の強みになる可能性があるのです。なぜならこれからの日本に必要な方向性は復古による改革と言えるからです。天皇陛下を中心とした国づくりの尊王思想とかそういう話じゃないですよ、それを次回から見て行きましょうね。
やっと回り道が終わって問題の本質へと向かいます。
つづく!!