前回の続きです。

自己責任なんてのは当たり前の話で、自分の事は自分で何とかするしかありませんし、自分の問題の責任は自分で取るしかない。他者責任なんて有り得ない。責任にわざわざ自己なんてくっつけないと、責任がどこにあるのかも自覚出来ない責任感の無い国民性に大きな問題があるのは確かです。

が、この状況を放置したまま自己責任だというのはちょっと違うような気がする。自己責任取れるような選択肢の提示と、そうなれるような啓蒙と教育が重要です。そういうものが担保されていないのに責任だけ取りやがれというのも乱暴な話です。

だいたい責任がどこにあるのか?という事がわかっていて、選択肢もあり、責任の意味もわかっている責任者が責任を放棄しているのに、末端にだけ自己責任を自己責任として取れない部分まで負担させるのは、明らかに悪質な責任者達の責任放棄であり、どう考えても公正であるとは言えません。

自己責任だというのと、救済せよというのは、非常にオーソドックスな枠組みであって、リバタリアニズムとリベラリズムの鬩ぎあいだとも言える。極端な単純化した言い方をすればアメリカなんかはまさにその事を二大政党に別れて綱引きしていると言っても過言ではありません(もちろん例外もいっぱいありますよ)。滅茶苦茶乱暴に言えば自由を重視するのか、平等を重視するのかという、右と左の鬩ぎあいだとも言える。

日本の右左の論議は頭が腐っているのでネオコンが右翼だとか勘違いしている人も多いのですが、自由に対してどういう風にコミットするのか?という発想が日本ではどうも弱いので、救済せよとか、再配分せよなんていうと、すぐに共産主義とか資本主義の否定とか、そういう話になってしまう。

もちろん実際にそういうものを利権化する腐った蛆虫共もいっぱいいるので、腐敗していつまでたっても権益を手放さないという、全体のシステムがぶっ壊れても、島宇宙の権益護持みたいな手段の目的化という本末転倒の帰結が起こる。

実際もうすでに厚労省がこの自己責任と救済の分断の隙間に楔を打ち込んでどんどん権益化している。マスメディアなどもお門違いの弱者救済図式を当てはめて、官僚の圏域拡大の片棒を担ぎ広告塔として大活躍しています。今この状態では厚労省の対応に対して、冷静に判断しようぜなんて言えなくなってしまっている。そんな事を言うと、お前も自己責任論者か!!的扱いを受けかねない。

別に受けてもいいので書きますが、例えば内定取り消し企業に対する公表の問題なんかが騒がれていますが、その権限を厚労省がまんまと手に入れた。間違いなく裁量が生まれるわけですから、そこにはお目こぼしなどの権益が生まれ、必ず腐敗を招く。天下り先の確保にもつながるし、政治家への献金となって政治家も取り込まれる。政官業の癒着構造を国民も積極的に支持している。

最初に書きましたが年金問題なんてどっかに吹っ飛んじゃった。すでに派遣問題対処の世論を利用して権益を潜り込ませている。こういう事に対して牽制の力学が無さ過ぎる所がどうも危うい。

自民党の議員が「本当に真面目に働こうとしている人が集まっているのかな」と発言して血祭りに上げられましたが、そういう事を言うだけでも不遜だというのは言葉狩りです。

実際にこの発言をした議員が牽制として言っているのかどうかはわかりませんし、単なる責任逃れとして言っているだけかもしれませんが、派遣の人達の無垢性を叫んでそっちよりの世論に傾けば必ずバックフラッシュが起こって、救済なんて必要ねえぜ、という風になりかねない。

実際利権化しようとしているのは明々白々なので、やっぱり利権かよとなりかねない。しかも責任は厚労省には向かず、おそらく派遣の方々やNPOの方々に向くでしょう。彼らを担ぎ上げている野党にももちろん。

経団連なんかもワークシェアリングの話を持ち出していますが、あれも議論の俎上に乗せると言っているだけなので、時間もかかるし実現可能かどうかもわかりません。もちろん否定するつもりはありませんが、あれは末端の労働者を思って言っているわけではないに決まっています。

なぜこの時期にこういう話をだしているのかと言えば、世論に媚びるという意味と、責任をパージするという毎度毎度のパターンが繰り返されているに過ぎません。あれを言えば、経営者はワークシェアリングで派遣を救おうと考えている。が、しかし、一般労働者達が納得しないから、導入したいのは山々だけれど導入には踏み切れないと、一般労働者に責任を投げて言い訳出来る体制作りである可能性が高い。

だいたい世論に煽られてあわてて導入するならハナっからやれよって話ですし、そういう事云々はとりあえずおいといて、その前に責任者責任取れよって話です。

いずれにせよ、官の利権にしろ民間の利権にしろ、責任をパージして責任を取らなくても済むように利権の構造が変化している。前時代的な責任の所在がハッキリしてしまうような道路利権とか、厚労省であれば年金関連の利権というのは情報化社会ではリスクが高いので、この切り替え作業が行われている。

それが小泉改革の本質だったわけで、弱者切り捨てと言いながらも、官僚の利権は増え、責任者が責任を取らなくて済むように変化している。そういうまなざしも忘れてはならないと思います。

さて、自由と平等の話に戻りますが、自由は時として自由を掘り崩してしまう事がよくあります。民主主義の問題点ももちろん、サブプライムの問題なんかもそうで、自由に振る舞った結果、不自由を強いられるようになるという事がよくある。なので自由である為に必要なものを守らないと自由は維持出来ない。

リベラリズムというのは自分達が自由を欲する、自由を侵害するなという事だけではなくて、自由に対するコミットメントよりも、みんなが自由に振る舞う為に必要なリソースを配分して平等を担保するとか、自由を支える正義とか、公正さとかに対するコミットメントを優越させるという思想、あるいは自由を支えてくれる制度や価値にコミットメントしろという発想です。なのでリバタリアンから見るとその部分が全体主義的に見える所がある。

しかし全体主義的な態度抜きで自由な社会を貫徹出来るのか?ジェファーソンの独立宣言や権利章典のようなものを、制度として実現し続ける事が出来るのか?という事が大問題であるわけで、ネオコン的な立場というのは自由な社会を維持する為には、みんなが自由に振る舞って好き勝手になってしまえば自由を支える制度がもたなくなるという背後があり、その制度や正義を守る為には強攻策も辞さずという風になる。

ブッシュ政権ではネオコンの思想というのは泥まみれになりましたが、元々はそういう理想が背後にあり、リベラル的な左の思想から出発している。自由によって排除抑圧されている弱者がいるではないかと。それを見過ごすのは正義ではないではないかと。

リバタリアンというのはまず大前提として予定説を信じているというのがあります。つまりこの世の森羅万象は全て神が決めている。したがって自由に振る舞っていても神の思し召しなのだから上手く行くというか受け入れるみたいなのがベースにあり、人々の良心や善意に対するある種の信頼がそれを可能にする。不遜な輩はそんなにはいないだろうという事が前提になっている。

リバタリアンというのは日本では自由放任主義と訳されてしまう事がよくありますが、人々が自由勝手に振る舞っても殺し合ったり弾圧をしたりしないのは、人々が良心を持っているという事が信じられるから可能でもある。プリファランスストラクチャーにある種の利他性であるとか、公共性であるとかがキチンと埋め込まれている事によって初めて可能なもので、それがあればネオリベでも上手く行く。

それが壊れてくると、リバタリアン的発想とかネオリベとかの発想というのは、優勝劣敗の弱肉強食になってしまう。なのでそれをリベラルが埋め合わせる。自由を支える為にコミットしようぜという事です。ニューディーラーのよき部分というのもそういう所にあるわけですが、それが道を誤るとブッシュ的ネオコンになってしまう。

人々の善意と自発性を信頼出来て、悪者と言ってもそれほどとんでもない奴はいないだろうという共通了解があればリバタリアニズムでいいに決まっている。みんな自由でハッピーならばそれで何の問題も無い。だけどそれが機能しなくなり結果的に不自由な状態が蔓延してしまう時、善意や自発性を信頼する事が出来ず、抜け駆けする奴が出て来たり、格差が固定化して搾取や抑圧が支配するようになるとリベラル的なコミットメントが必要になる。

再配分して平等を担保するのは自由が自由を掘り崩さないように自由を守る為であって、リベラル的な制度の維持が本末転倒、手段の目的化が起こり、制度疲労が起こっている時には、今度はリバタリアン的、自由にコミットするという発想が必要になる。だからどちらが正しいかというのは下らない。

さて日本では変なカルト宗教を崇め奉る困った奴はいますが、まず一般的共通前提として神様はいません。善意と自発性なんてそもそも無い。元々あったのかどうかも怪しい話ですし、社会がこれだけ空洞化してしまえば、信頼しろと言ったって難しい。抜け駆けと疑心暗鬼に支配され、自発性なんてもつと空気が読めないなんて言われる。痛い奴だなんて思われちゃう。国家や所属する企業に依存してりゃ何とかなるだろうという感覚があるので、何かっつうと国家を呼び出して何とかしろって話にすぐになる。人の自由や多様性を恐れ、すぐに断固対処と国家に依存して吹き上がる。こんな状態でリバタリアン的な自由を押し進めれば優勝劣敗主義になるのは当たり前の話です。

かと言ってリベラル的な再配分となると今度は怠け者を救済するのかって話になる。怠けているかどうかではなくて、可哀想かどうかも関係なくて、社会の保全の為に必要な話であって、それを放置すればみんな自由を失い多くの人が不幸になる。だから必要なのであって、怠けているかどうかはハッキリいってどうでもいいし、可哀想かどうかも切り離して考えた方がいい。

しかしこれもやっぱり手段の目的化によって、制度はコラプトしてしまう。もちろん抜け駆け感によって制度の維持へのコミットメントも無い。再配分は簡単に分捕り合戦と変じ、自由が所与のものであると勘違いしている。

リバタリアニズムだけが正しいわけでもなく、リベラリズムだけが正しいわけでもなく、ネオリベが悪いわけでも、ネオコン思想が悪いわけでもない。それを使う人間が、一方を善、一方を悪と線を引き、どちらが正しいかで鍔迫り合いをする。これはどちらも正しく、リバタリアニズムはリベラリズムを補い、リベラリズムはリバタリアニズムを補う。自由か?平等か?ではなくて、自由の為には平等が必要であり、平等の為には自由が必要になる。この二つが鬩ぎあってこそ上手く行く。

もちろん日本はアメリカみたいに自由へのモチベーションが無いので、全く同じ論理で考えるわけには行かないというのは百も承知なんですが、こういう大前提がわかっていて鬩ぎあっているとは到底思えない。

今アメリカでもリベラルの風が吹き、日本でもリベラル的な方向性、左翼的なアジェンダを掲げる事が正統性を調達する為に必要な社会情勢になっているという事もあるので、そういう事が正しくて、ネオリベラル的リバタリアン的方向性は間違っているみたいな感じになっちゃっていますが、これは非常に危ういものを感じます。

日本が戦前のある時期からとった軍国主義と今呼ばれている方向性というのを右翼と勘違いしている人が多いので、このへんは気をつけねばなりません。戦前のある時期から日本がとった方向性は左派的な方向性であり、それはナチスも一緒です。

どちらも共産主義と戦っていたのでややこしいのですが、この頃は右的な方向性、つまりリバタリアン的方向性では社会が持たないという事を世界中の人が大恐慌によって痛感した。政府に何とかせよという風になる。アメリカでもニューディーラーが出て来ました。

社会全体が左派的な方向性に進み、共産主義がそれを握るのか、それとも別の左派的な方向性が握るのかの鬩ぎあいが起こっていたわけで、社会の底抜け感に狼狽えた人々が寄る辺を求めて大戦へと突っ走る事になるわけです。第一次大戦のときも第二インターナショナルなんつってリベラルの風が吹いて、アナキストを排除し大戦へと突っ走る。

戦前の日本の右翼もそうですが、右というのはナショナリズムとかって話になるのですが、それは国家万歳ではなくて、パトリオティズムの事で、国家権力によって抑圧や排除に対して、自由を主張するのが右です。ある種のアナキズムでありインターナショナリズムが出発点にあります。アナキズムと言うと無政府主義で無法地帯みたいな話になりがちですが、中間集団主義の事を言うわけです。国家に余計な事をするなと。

国家の横暴によって苦しんでいる国があるのなら連帯しようじゃないかという事でインターナショナリズムになる。それぞれの国はそれぞれの国の民衆が決めればいい事で、それを抑圧するような国家に対して連帯して声をあげる。

これは国の舵取りが上手く行っている時はいいのですが、危機が可視化出来たり、不況によってみんなが貧乏になったりすると、自由なんて言っていたら危機に対応出来ないではないかという風にシフトして行ってしまう。困っている人を救済せよとなる。

戦前の日本の右翼も最初は下からの民権を言っていて、民権を言っていて国家が滅べば本末転倒なので、民権を守る為に国権、日本一国だけでは西洋列強に抗えないからアジアでの連帯を言い、民権を守る為の国権を守る為に亜細亜主義を掲げたわけです。

しかしこれはそれぞれの国はそれぞれ自由であるべきで、その国の民衆が決めて、それぞれ独立自尊の上で連帯しようじゃないかって話だった。それが段々話がおかしくなっちゃって、亜細亜の天皇になるのだ見たいな全体主義的方向性に危機と不況によって突っ走ってしまう。

カウンターパートである右の牽制が働かなくなった時に、こういった暴走が必ず起こる。それを自覚しないとマズい。日本は右も左もまともな人は殆どいないので、ハナっから牽制もクソも無いのが元々問題だったわけですが、小泉政権の時にちょっとリバタリアン的方向性を打ち出してみんなが支持した。もちろんインチキであった事は間違いありませんが、その風が起こった事によって、組合系の腐敗やリベラル的なものが生み出す腐った構造が可視化されてチェックされたのも事実なので(まあそれが行き過ぎたというのはもちろんあります)、左派にはそこはチェック出来ない。なので世間がリベラル的な方向性に向かっているときこそ、リバタリアン的思考を忘れてはマズい。

オバマ政権もオバマ自身はリベラル的な理想主義者というよりも現実主義者ですが、リベラル的なものを期待されて支持された所もあるわけで、リベラル政権になったから安心なんて思ったら非常に危険です。そこはオバマの現実主義に期待ですが、第二次大戦もベトナム戦争も民主党政権の時に起こっている。

マケインというのはアメリカンヒーロー的、軍人の英雄みたいな人ですが彼は共和党の中では極めてリベラルな方向性を持っている人で一匹狼なんて言われていた。だから正義へのコミットメントも人一倍高く、戦争そのものは決して否定しない。

ブッシュも共和党ですが、ネオコンというのは左翼でしたし、彼自身共和党にしては非常にリベラルな政策を最初の頃は打ち出していて、実際世間の評価もリベラルな大統領だと言われていた。彼の父親もリバタリアンとは真逆の政策をとって、リベラル的な方向性を打ち出した事によって、保守層からお前は保守じゃないじゃないかと総スカンを喰らって一期しか出来なかった。パパブッシュも湾岸戦争を起こしている。

リベラル的な方向性というのは道を誤ると全体主義に突き進んでしまう。この事には十分注意する必要があります。それは抑圧や排除を生む。もちろん今の時代簡単に梯子が外れる時代なので、戦前的動員は事実上不可能だと書きましたが、それはあくまで現状ではそうであるという話でしかないわけで、頭の悪いバカリベラルが副作用も考えず制度をいじくれば、またとんでもない事態が起こりかねない。

もちろん日本のリベラル派の人は反戦も同時に掲げているので、戦争に突っ走る可能性は極めて低いとは思いますが、戦後の日本というのは自民党までひっくるめてリベラル的な方向性でしたので腐敗も凄かったし、リベラル的な制度変革をして何度道を誤り後戻り不能の事態を引き起こしたか数しれません。その事は頭に叩き込んでおく必要がある。

確かに今の時点では、本当に困っている人もいるし、不況になっちゃっているのでリベラル的な方向性に行く事自体は悪い事ではないし、必要な事だろうとも思う。だけど相対化しておかないと、また取り返しのつかない事になりかねない。

日本の左派に対して反日だ!とかまだ言っているバカがいます。そういう危惧は国家権力の奴隷根性の成せる技なので下らないのですが、牽制がそれしか無いとなるとこれも非常に問題がある。牽制が他に無ければそれでも牽制になる事はなりますから利用すればいいのですが、そういう連中は頭が悪過ぎるので今イチ頼りない。

あんまりリベラル的な方向性にノーチェックで突っ込みすぎると、また次の小泉政権的なるものや、安倍晋三のような断固決然バカが出て来そうな気がしますので、冷静にリベラル的なるものへの翼賛ではなくチェックが必要だと思います。

つづく!!
前回の続きです。

競争を煽るのはバカバカしいとは思いますが、それ自体が悪であるわけではない。しかし競争する為にせめてスタートラインをなるべく揃えるような努力を怠るのはマズい。

これは絶対に揃わない。しかしだからしょうがないという話ではない。必ず揃わないけれど揃える努力を怠れば資本主義は資本主義ではなくなる。必ず線を引けばこぼれる人が出てくる。だから絶えずその線を疑い、絶えず線を引き直し、こぼれてしまった人が這い上がれるシステムが必要不可欠です。

競争すれば結果が必ず出ます。だけど競争に負けたらお終いというのでは、いくら何でも行き過ぎです。競争というのは必ず勝ち負けが決まる。死ぬまで勝ち続けるなんて出来ないわけですから、殆どの人がどこかで負けを味わう。それ自体はしょうがない。しかしその時に死んじゃうとか、犯罪を犯すしかないとかまで行ってしまうのを放置するようじゃ、それもやり過ぎです。物事にはほどというものがある。

アメリカでオバマが大統領に選ばれたわけですが、そこにはむしろオバマになる事によって増税される層も支持しています。それはネオコン的な舵取りでは、資本主義のプラットフォームそのものも壊れてしまいかねないとみんなが思ったからです。それが壊れてしまえばそのゲームで勝っているプレイヤーにとっても、不合理な社会になりかねない。結果的に痛い目に合うわけです。

もちろんそれは単なるエゴです。しかしこの国ではエゴ=悪という単純バカが多いので厄介なのですが、利己的である為には利他的でなければ結果的に利己的目的も達成出来ないという事が結構世の中にはあります。

そこを上手く利己的目的にそれぞれが閉じて奪い合い結果的に利己的目的も果たせず自由でもなくなってしまう社会に成り下がらないようにアーキテクチャーを設計する必要があるのですが、設計する人間が利権に邁進し、それをコントロールする輩がバカ、そして国民も利己的な目的を遂げる為に必要なものがなんであるのかを知らず、エゴはけしからんという頭の悪い理想をほざく輩がこんなにいっぱいいる社会であるにもかかわらず抜け駆け合戦に陥る。

当然そこに媚びざるを得ないポピュリズムがメディアのくだらんヒューマニズムなどによってブーストされ、設計者やコントロールする人間もそこに媚びるという、悪しきサーキュレーションとなっています。

エゴであっても設計の仕方や啓蒙の仕方で、それはただのエゴではなくなり、まわりもハッピーになる方法があるにもかかわらず、そういう方向には向かわない。

人間のエゴは簡単には無くならない。多くの人間が俗物であるわけです。大切な身近な人には献身的になれても、知らない他人に同じように振る舞う事は中々出来るもんじゃない。みんなが聖人君子にはなれない。みんなが賢明であるという事は実現不可能な理想です。言うのは別に構わないと思いますが、賢明でなければ切り捨てるというのでは話になりません。

問題はエゴで他人を回復不能な状況にまで傷つけたり、社会が壊れてしまうような状況にまでなってしまうようでは話にならないという事であって、エゴ自体は誰でも持っている。むしろ上手い事インセンティブメカニズムを組み込む事が出来れば、エゴであるからこそ利他的にも振る舞うという社会にもなるわけです。

エゴが悪いわけでも、資本主義が悪いわけでも、市場が悪いわけでもない。インセンティブメカニズムを上手く組み込めない事に問題があるわけです。エゴによって結果的に損していればエゴすらも貫徹出来ないわけですから、それはエゴとは言いません。そういうのは合理性の無い、ただのバカと言います。

エゴを排除すれば社会が上手く行く的な実現不可能な理想論では社会はよくならない。道徳教育が大切だとかほざくバカが総理大臣だった事もありますが、そういうのは不必要だとは言いませんけど、抜け駆け感の蔓延した、エゴがむき出しのエゴのまま社会を切り崩してしまうようなアーキテクチャーのままでそんな事をほざいても、ハッキリ言えば無駄です。道徳や倫理を持つ事によってバカを見るような社会である事が問題なわけで、道徳や倫理を持っていないから問題なんじゃない。道徳や倫理を信じられるような社会でない事が問題なのです。

エゴであるからこそ人はより良い状態になろうと思うわけですし、怠け者であるからこそ合理的に振る舞おうと思い、面倒くさい事をショートカットする為にテクノロジーを編み出して来た。その事自体を否定してもしょうがない。

個人のレベルでエゴを制御し仙人的生き方をするのは別に個人の自由なので、やりたい奴はやればいい。だけどそれを万人が共有するという事は不可能ですし、それを人に強要する事はファシズムと大差ありません。理想はいつでも暴力に変じる危険性がある。教育としてそういう生き方を推奨するのは、別に悪い事ではないとは思いますが、そこに問題の解決は無いという事を自覚する必要があります。

だいたい賢明である方々が賢明であると言っていられるのは、賢明でない方々がいるからに他なりません。賢明でない人が賢明でないままであってくれるから、賢明な人間が賢明であると言えるわけで、相互補完関係でもある。賢明ではない人間を教育して金を貰っている人間の仕事も無くなっちゃうし、賢明ではない人間が例えばプレステのゲームが欲しいとか、車が欲しいとか、洋服が欲しいとか、どうでもいいものを必要以上に欲しいと思う動機を持つから消費が回って経済が動き、真面目に働こうという動機も生まれて経営者も経営者でいられる。みんなが賢くなって奪い合いになれば、賢明な人間が賢明故に享受している分け前は減る事になる。

ちょっと頭がいいとか、金もっているとか、地位をもっているとか、仕事が出来るとか、家柄がいいとか、賢明である側に属する事が出来たからと言ったって、賢明でない人がいなくなれば賢明であると威張っていられなくなる。賢明でない人もいないと困るわけです。みんなが賢明になれば社会が上手く行くというような簡単な話ではないわけです。

そしてこれは異論を感じる人もいるかもしれませんが、競争したくないと思う人が競争しないで依存していても生きられるというのも必要だと思います。そこには病気であったり、家庭の事情であったり、もしくはただ単に競争したくないというだけの話でしかないとしても、何不自由ない生活を保障する必要はないと思いますが、生きて行けずに路頭に迷うしかないというのでは、やっぱりやり過ぎです。

競争しろ!競争しなけりゃ死ね!競争に負けてもやっぱり死ね!これは競争ではない。単なる殺し合いのゲームになってしまう。我々はまがりなりにも文明社会を生きているはずです。働けるのに働かないでクレクレ主義というのでは問題だとは思いますが、最低限出来る範囲でやることやっていれば、せめて死なないでいられるくらいのバッファをみんなで負担しないで、何が社会だと言えるのか。それは共産主義でも何でも無い。むしろ資本主義であるからこそ、尚必要な考え方ではないかと思います。

弱肉強食と言ったって所詮社会というプラットフォームを利用しているから強者は強者でいられるだけの話でしかないわけですから、社会が壊れてしまえば資本主義と言うゲーム自体も壊れてしまう。競争しろよと言うくらいなら別に構いませんが、競争する気になるような社会も同時に保全しなきゃマズい。それは国家を呼び出して何とかしろという言い方だけでは出来ません。我々のコミットメントが重要です。もちろん競争から降りる自由も担保する必要がある。

肝腎なのは競争から降りるにしろ、競争に挑むにしろ、自己決定出来るような状態であるべきであって、自己決定する為には自己決定出来る人間として育ち上がらなければ自己決定も出来ない。自己決定している気になっているだけで、単に搾取されているだけというパターンに陥ってしまっている人間に自己責任だと言っても、自己決定出来るような選択肢があるのか?その選択肢は誰が用意したものなのか?そう言う所にも敏感になる必要がある。

ようするに「三択問題」問題と言うやつです。三つの中から好きなものを選べ、自由だと言われても、何でその三択なのか?誰がその三択を決めているのか?そこで好きなのを選んでもあらかじめ予想出来る範囲でしかなく、自由に振る舞っていると錯覚させて搾取するというパターンです。今のこの国のアーキテクチャーは殆ど全てこのパターンです。

そして自己決定出来る人間として育ち上がっているのか?これも重要な問題です。そういう教育も受ける事なく、選択肢を選ぶ為の知識もない状況で、しかもあらかじめ提示された選択肢を、自分で選択していると思い込まされて搾取されるような状況であってはマズい。

残念ながらこの国の教育は自己決定出来るだけの人間に育ち上がるというよりも、空気を読み服従し、自己決定する為の選択肢も提示されず教育もされないまま、夢を持つ事の重要さや、やりがいの大切さのような美辞麗句を吹き込んで、望めばかなうと自己実現地獄に落とし込んで、本当の自分が何かをする事やどこかに行く事によって見いだせるのではないかと言った感じの、自分探しゲームに叩き込んで搾取するというパターンです。夢を売って自己責任スキーム、レギュラシオンスクール的に言えば消費主義パラダイムと言います。

例えばアメリカの今回のイラク戦争の顛末を見ていますと兵士達は徴兵されて戦争に行っているわけではありませんが、動員された兵士の多くがROTC(Reserve Officers' Training Corps、予備役将校訓練過程)と言って大学に進学するときの奨学金を政府から貰うのと引き換えに予備役として登録して、年に何回か行けば奨学金が出るという制度を利用していた人達が戦争に駆り出された。裕福ではないけれど勉強したいと思っている層が、まさか本当に戦争に駆り出されるとは夢にも思っていなかったのに、戦って人を殺さなきゃならない境遇に叩き込まれた。

ネオリベラルをブーストさせすぎた社会であるが故に学費が高くなってしまっている。そして競争によって格差が固定化し、そこから出る為には教育を受けねばならずその為には高い学費を払わなきゃならない。そういう境遇に追い込まれた人達に救いの手を差し伸べているかのような奨学金の制度によって選択させ、そして戦争に利用する。これで自己責任と言ってしまうのは酷な話です。これは徴兵制では無いかもしれませんが、結果的に徴兵制と同じ効果を得る事が出来て、しかも自己責任に投げ出す事も出来る。

日本では小泉竹中路線がアメリカ追従でネオリベだったみたいな言い方がありますが、この方向性は80年代からすでに始まっていて、どんどんアメリカンプラットフォームを受け入れるしかないという状況に無能な政府のバカ共のおかげで追い込まれ続けて来た。

結果貧困層は増え、戦争を待望するかのような空気もあるし、派遣のように明日をもしれないという状況に放り出して、教育費もアホみたいに高くなっている。そして実際にアメリカの戦争のお手伝いをしている。こういう社会になってしまえば、選択肢を選んでいるという事にどれほどの自由が含まれているのか?この事に非常に気をつけなければ危ない時代になってしまった。単に戦争を待望しているゾーンにいる人間に向かってけしからん、自己責任だろ、と言っていてもどうにもならないようなアーキテクチャーによってどんどん我々は追い込まれている。

昔は一人前に人間を教育し、自分で自己決定して選択し、社会に参加出来るよう育てる事を重要視していたわけですが、ここ20年くらいは日本でも、一人前の人間に育てるというのは面倒くさいしコストもかかるので、一人前でなくとも快不快の感覚さえ持っていれば、自動的にアーキテクチャーに従って、しかも自分で自己決定しているつもりになれるよう、アーキテクチャーそのものをいじくってしまおうという方向性に進んでいます。

ネットが普及する事によって新たなる多様性が生まれるのだなあんて言い方も昔はありましたが、ネット環境が普及するにしたがって、非常にマズい事態が起こっている。それは掲示板でどうたらこうたらとか、匿名でどうたらこうたらみたいなつまんない話ではなくて、計算不可能性が消えて行くという事態です。

ヤフーでもグーグルでも何かを検索するとする。自由に選んでいる。が、しかし検索されて出てくるものというのは、ある程度順番が固定化してくる。そうすると自由に選択している気になっていても、実はみんな同じものを見ているという事態が起こってくる。別にそれなら旧来のマスメディアと同じじゃないかとなるのですが、これがそんなに甘い話ではない。

例えば旅行に行くとする。旅行先で何をしようかと、とりあえずネットで調べるとする。しかしみんながその旅行先で検索した結果が同じものを見ているとすると、みんなが同じ所に行って消費するという事態が起こってくる。これも旧来のマスメディアと同じじゃないかとなるわけですが、肝腎なのは自由に選択していると錯覚させて、実はみんな同じ方向性に動機付けるという事が可能な時代になっているという事です。そして旧来のメディアに比べて、いつでも検索可能で、簡単に情報にアクセス出来る。その事がみんな似たような消費行動になるという事が起こってくる。

旅行とは本来想像したものよりよかったり、もしくはガッカリする事も含めて、予測不能のサプライズがあるから楽しいわけですが、みんな似たような所に行き、しかもその場の評価などが事前にある程度調べつくす事も出来てしまう。そうなると予想通りの展開で予想通りのおもてなしを受け、予想通りの感想を持ち予想通りに満足するという、旅の本来の楽しみであった予測不能というのが消えてしまう。検索によってコントロールされた場所に行き、すべて予想通りに楽しんでかえってくるという風になる。そうなるとそれはもう旅とは言えない。単なるお使いになってしまう。

アマゾンなんかで買い物をすると、ランキングにそってアグリゲートされたものが提示され、自分の過去の購入履歴から勝手にオススメを見せられて、何となくそれを購入する。そこには自由意志が殆ど消えている。本屋に行って本を買うとなれば、パラパラとページをめくり何となく面白そうだと思えば、買う気が無かったものでも自分の自由意志で選択するという機会が結構あったのですが、そういう自由意志みたいなものが、自由意志で選んでいるという気分はそのまま残っているにもかかわらず消えて行くという事態が起こる。

アマゾンのようなもので購入する人が増えると、物理現実の本屋もアマゾンみたいにランキングで書棚を作り、話題の作品や目玉の作品の中身の吟味も無いまま、どこに行っても同じようなものが同じように並んでいるという風になる。そうなると物理現実での自由意志も消えてしまう。自由意志がハナっから無くて当たり前、そういう所でしか買った事が無い世代が増えて行き、それがマジョリティになれば、別にそれで何の問題があるのだ?という風になる。便利さを手に入れていると錯覚して、大切な自由を手放す事に違和感を感じないようになっている。

リスクを回避し、安心安全を喚き散らして、全てを予測可能な方向性にどんどん向かっている。予測可能と言っても限界があるわけで、先の事は誰にもわからないのが当たり前だったのですが、段々アーキテクチャーの様々な部分で、人がそうと気付かぬうちに自由を錯覚させてある方向に動機付けるという事が可能になってくると、みんなを同じ方向性にコントロール出来れば消費のニーズに応えるのも比較的簡単になるし、先を予想しやすくなればあらかじめ人の向かう方向性をコントロールして予測を回避するという方向性になる。しかもあっという間に怒濤の流れを作り出す事が出来るので、そこで反論を喚いても益々無力になって行く。

それでも実際に完璧な予測は不可能ですが、ある程度人々の思考が動いて行く方向性は予想しやすくなっている。昔はシステムが完璧であっても、そこに人間という不確定要素がシステムにとって最大のリスクになる、みたいな話がよくあったわけです。しかし人が愚かであるという事は変わらないというかむしろ劣化しているかもしれませんが、不確定要素が段々消えて来ている。何となく悪い事ではないかのような錯覚を感じますが、コントロールがしやすくなっているというのと、自由が消えているというのは非常に危うい。

安心安全というのは重要な要素だとは思いますが、あんまりその事に固執すると我々が本来持っていた自由が消えて行くという事態が起こってしまう。というかすでに起こっている。しかも情報操作だとか捏造だとか、そんなリスクの高い事をする必要も無ければ、誰かに騙されているとコントロールされている側が気付く事も無い。

そういう事に気付けるようなコントロールは別に恐れる必要は無い。気付かない所で相当そういうものが我々の日常を浸食してしまっているという事が問題なのです。それなりに満足し、気持ちよく日常を送り、別にそれでいいじゃねえか便利なんだしという風になる。

そうなるともう人を動員したり動機付けしたりしてこのコントロールされた不自由から脱出せよなんて言ったって、敵は見えないし、それなりに気持ちがいいし、自由だと思えるし別に面倒くせえよとなる。緩やかな環境管理型のアーキテクチャーによって人々はそれと気付かぬうちにコントロールされ家畜化が更に進んで行く。

今の日本が自由を謳歌したあげく、不自由に縛られ何も出来なくなっている人が増え、不自由をむしろ望む人が増えている顛末を見れば、自由である事の暴力性のようなものに敏感でなければ危険です。人は所詮学ばない生き物であり、愚かな存在であるからと言って、自由だと錯覚させ不自由によって縛るという方向性では本末転倒のような気がする。

小泉の郵政選挙での大勝、そして安倍の参院選惨敗、今の麻生政権のあっという間の墜落と、人々が同じ方向性に一斉に、しかもあっという間に動員されて炎上するという事態がもの凄いスピードで繰り返される。祭り上げ引きづり下ろすというサイクルが延々と繰り返され、そのスピードが従来のマスメディア的な動員なんかとは比べ物にならないくらいのスピードで繰り返される。しかもそれなりに自分で情報を選択し、自由に考えた結果、怒りを感じ、正義感に燃え、間違っていると叫ぶ。が、言っている事がみんな同じコピー&ペースト。

この情報のスピードアップによってバカ左翼が叫ぶような昔ながらの軍国主義的わかりやすい動員というのは事実上不可能なので、そんな事が問題なんじゃない。すぐにバックフラッシュし、格好悪くなるのでそれは今の日本の状態から考えるとそれほど恐れる必要は無い。

情報のサイクルの早さという所にキモがあって、そのせいで肝腎の問題点が見えないうちに、あっという間に次の情報に流されて忘れ去られてしまう。その情報に隠れている問題点を吟味しようなんて面倒くさい話にはならず、情報を隠す為には実に都合のいい環境が整っている。価値のある情報と価値の無い情報が等価に並び、あっという間に過去に流されて行く。情報によって情報が隠されて行く。

したがって同じ事が繰り返される。人は益々学ばなくなる。そうすると人は益々問題点などに興味を持てなくなり、益々諦めの感情が支配するようになる。結果国家に更に依存し何とかしろと叫び、国家は権益をむしろ国民に望まれて好きなだけ増大させる事が出来る。もちろんそれは国民の為とかそういう話には絶対にならない。ポーズだけですぐに忘れてくれるわけだから簡単な話です。

つづく!!
皆様お正月はいかがでしたでしょうか?多くの人はもう仕事に戻っていると思いますが、正月ボケは大丈夫でしょうか?
クソ忙しい年末年始が終わり、普段に戻ってホッとしている三日坊主でございます。
今年一発目のネタはと行きたい所ですが、昨年から引っ張っているネタがありますので、初の年をまたいでのネタの続きを書こうと思います。

それではおっぱじめます。

怒りを表明しても、多分それは短期的には変わらないでしょう。だから無駄だではなくて、無駄であっても、ちょっとそれは違うだろと、恥知らずと軽蔑するようなコンセンサスがあるかないかの問題です。

たかがその程度の事とは言え、そのプロセスによって切られた人間を物理的に救済するという事にならなくとも、感情的な公正感は担保出来るはずです。ちゃんとそういう恥知らずな行いをした輩は血祭りに上げられて、責任を取らされる。もしくは責任を取らなければ軽蔑され社会的バッシングを受ける。その過程で多少はスッキリする部分もあるんじゃないかと思うわけです。

アメリカなんかで自動車工場に勤めている人達が連帯する。彼らが現状のまま救済されるという事は無いかもしれませんし、社会的にもいい加減にしろという感じもありますが、ちゃんと経営者が血祭りに上げられる。連帯している人達はそのプロセスを経由する事によって、結果的に負けても連帯して戦ったという行為自体によって救われる部分もあるわけです。

そういう公正感がキチンと担保されているかいないかでは、社会の流れそのものも大きく変わる。そういう制裁が待っているという事になれば、マスメディアも企業も政治家も必ずそれを無視するというわけには行かなくなる。国内で商売をしようと思えば、やっぱりものには限度があるという事を考え直させる為にも、たとえ今の現状を救う事が出来なくとも、後々を考えれば無駄ではないわけです。

そしてこの問題の重要な部分は数が多いという事です。しかも一気に。こういう事をいきなりやれば、社会も混乱するし、益々経済は縮小再生産にしかならない。それじゃ結果的にもっと景気が悪くなって、企業が生き残っても社会の保全にはならねえじゃねえかという事です。こういう事の後遺症は結構引きずるものです。益々社会は空洞化するでしょう。

企業のお偉いさんなんかに、そういう事を言うと、日本から出て行かざるを得ない、雇用があるだけありがたく思え的な言い方をします。こういう輩が仮にも大企業のトップだったりするわけで、そういう恥知らずな会社はとっとと出て行けと言ってやればいい。本当に出て行く気もないくせに。

何でそこで働いている人間がそういう恥さらしなトップがいる事に甘んじているのか?自分達にとっても不名誉な事だと思わないからそういう声も上がらないのでしょうから、不名誉だと思わせるような社会にならなきゃ、ずっと繰り返される。

日本の市場はなんだかんだ言ったって人口も多いわけですから、社会貢献する気が無い国産の企業なら、別に出て行ってくれて結構という事です。どうせ社会貢献する気が無いなら外資だってなんだって同じです。そういう外道企業からシェアを奪う為に、社会保障がしっかりした企業が入ってくるかもしれない。国内の産業が育つ可能性にもつながる。散々外資規制の世論を煽り、新興企業の頭を押さえつけ、自らに都合のいい規制緩和を改革と偽り、あげくにそれじゃ、お前ら一体なんなんだって事です。

こういう連中のこけ脅しをはねつける必要がある。何を守ろうとしてそういう事を言っているのか見極めるリテラシーも重要でしょう。

だいたいなんでどこかが派遣切りを始めたら、それに便乗して空気を読んでお手手繋いで仲良く談合派遣切りという状況になるのか?気持ち悪りいんだよって感じです。相当どうかしている。この隙に一緒にやっちまえみたいなのを見ると、恥ずかしくねえのかよと思う。恥ずかしくないんでしょうね。おそらくは。

他の企業が業績不振の言い訳としてコストカットをしていますとアピールしているのに、なんでお前の所はコストカットしねえんだよという市場からのプレッシャーもあるでしょう。しかしそういう時に矢面に立つ為に責任者は高い金を貰ってるんじゃねえのかよと思う。短期的にはリスクを取って、長期的リターンをあげてこそ優秀な経営者と言える。アッサリクビを切って、自らは反省どころか恥にも感じていないようなクズみたいな奴が、何で人の上に立ってんだか不思議でしょうがない。人をクビにしてコストカットするなんてバカでも出来る。誰でも出来る。

そんな事しか出来ないような能無し野郎が人の上になんて立っちゃダメです。ある意味犯罪です。それこそ高い報酬をそんなクズに払うくらいならそのポジションも派遣にしろよって感じです。クビにして言い訳を言えばいいだけなら、学生バイトでも可能なんじゃねえかと思う。まあ政治家なんか犯罪どころか死刑並のクズばかりなので、どこを見回しても指導者たるべき器でない輩ばかりでうんざりします。おまけに頭まで悪い。一般常識も知らない。手に負えません。

現状のアホ報道のように派遣労働者の無垢性を叫び、無実の人間を救えという話だと、必ず、怠け者を救う必要なんて無いじゃねえか!みたいな話が一方で起こる。怠け者だとか無垢だとかいうのは関係ない。無垢な人間なんていない。みんな汚い側面を持ち、みんな弱いわけです。

確かに派遣の人間が全員無垢で悪くないという事は無い。彼らの人生なんだから、彼らが決めている事だし、スキルを身につけるプロセスを怠ったというのもあるかもしれない。別にそれほど酷い境遇で働いているという風にも見えないし、追い込まれて死ぬ気になれば仕事が全く無いというわけでもない。だけど、いくら何でもほどがあるだろ、という話に持って行って連帯する事が重要なのではないかと思うわけです。

そういうプロセスが全く無いまま、結果的に行政が介入して、住む所が何とかなったとか、何とか年が越せたと言った感じで何とかする所だけしか機能しないとなると、永久に行政と企業がアメとムチを使って民衆をコントロールして搾取し、利権化するという構図からは出られない。

それに怠け者とか言える程、みんな真面目に働いているのかよ?という風にも感じる。誰だって怠けたいと思う事はあるじゃねえかと思う。仕事中に余計な事を考える事だって誰しも経験があるはずです。ちなみに料理人でそれをやると、だいたいパターンとして手を切ったり、火傷したりという風に自分にかえってくる。必ず手を切った後は、何となくやりそうな予感があったと後悔するもんです。それは気が抜けていると自分でもわかっているからです。

今回の派遣村の顛末も、何となく国が頑張って何とかしました的な話に落ちかねない。アメリカの大統領が代わり、経済も多少は上向きになるかもしれない、実体経済はしばらく立ち直れないとは思いますが、少なくとも株式市場はある程度短期的には買われるでしょう。ここまで安売りしてりゃ拾う人がいっぱいいると思います。そうすれば株価も若干は値を戻すでしょう。もちろん昨年の最初の頃の水準に戻るには時間がかかるでしょうが、ほんのちょっと値を戻した時、バカ麻生あたりが、自分の手柄の如くほざくに決まってます。多少痛みが和らぐと、あっという間に忘れる。

派遣村問題の対処なんて言うのは当たり前の話であって、何もしないとなれば憲法違反の疑いがあるわけで、あんな事を何かやりましたなんて言わせては絶対にマズい。というかそう言う所を利用して利権化し無駄な金が流れていないか?キチンと見て行く必要がある。

そんな当たり前の話じゃなくて、どうやってこの国を舵取りして、経済を回復させるのか?という事に対してどれだけサブスタンスがあるのかだけを見て行く必要がある。派遣の人達の問題をキチンと対処出来ているのかどうかを見極める必要がある。

実際今回の年末の派遣村報道なんかを見ていると、「今日程人の暖かみをありがたく思った事は無い」的な、一部の派遣村の人々の文脈を切り離してワンフレーズだけ発言を取り上げ、まるで国家権力の手柄であるかのような報じ方をするバカメディアまである始末。

あれはNPOの「もやい」の人達が頑張っているからここまで問題化する事が出来たという話であって、マスメディアだって国家権力だって、散々知らん顔して来たわけで、「もやい」の方々が今叫び始めたというわけではない。何年も前からずっとこの問題に取り組んで来ている。

だいたいサブプライム問題が顕在化してから、随分と時間もあったし散々放置して来たわけで、企業だって大丈夫だなんて昨年の初頭には経営者達がみんなほざいていた。その責任すら誰も取らない。全部アメリカのせいだという話で終わってしまう。

企業が目先の合理性を考えて最適化するという事はある意味仕方の無い所もある。そして同じ釜の飯を喰っていても、派遣を切れば自分達が助かるという境遇にいる人が無関心を決め込むというのも短期的合理性で考えれば確かに合理性が無いとは言えない。しかし常に合理的選択をしていても、時間が経つと後戻り不能の合成の誤謬に陥る事がよくある。部分部分が最適化をしていても、全体を見ると合成の誤謬によって二進も三進もいかないというパターンもよくある。今の日本の病はまさにそこにある。

自動車が国内で売れなくなって来ているという原因を生み出しているのは、他ならない、企業が自分で自分の首を絞めているわけです。派遣でいつ切られるかわからない人であれば、車なんて買おうとは思わない。将来に希望がなくなれば、安い車で十分だぜという風になるに決まっている。車に乗るという事がそれほど合理的ではないという事にみんなが気付いてしまった。

派遣を切り捨てるような会社に勤めていれば明日は我が身であるという事を自覚した方がいい。派遣の人達の境遇を一緒に考えて改善するという事が結果的に自分達の防衛にもなる。自分は派遣の人に対して可哀想だと思うわけじゃありませんし、職種も全く違いますが、明日は我が身だと思う。病気になるかもしれないし、事故って困る事だってあるかもしれない。そういう可能性は誰でも持っていて、そうなったら後は自己責任で勝手にしろというのでは社会はどんどん荒んで行ってしまう。

こういう問題を格差論から読み込んで行くというのは、ハッキリ言えば問題の本質がぼやける。格差自体はしょうがない。人それぞれ選択する自由がある以上、それによって生まれる帰結に差がでるのは避けられない。そしてたまたま生まれた場所や、生まれた家庭によって、最初からある程度の格差が出来てしまうというのも、これもなくせるものならなくせればいいとは思いますが、中々難しい問題でもある。

国家が再配分政策を打つなりなんなりして機会の平等を担保する必要があるわけですが、これがこの国のバカ統治権力者共なんかでは出来そうもないし、どうせ利権化するに決まっている。恣意性と裁量を抱えコラプションを起こすに決まっている。それがまさにこの国の大問題の根幹でもある。預けてた年金がなくなっちゃうドロボー国家であるわけです。

何かをさせるとなるとロクな事をしないので、国家が抱えている権益を手放して、収入の格差や住んでいる場所による格差を埋めるような政策を打つのも重要なんですが、そう簡単に権益は手放さないだろうし、高コスト構造を是正させるとしてもそう簡単には話は進まないでしょうから、しばらく時間がかかってしまう。

それに誰がそれを決めるのか?という問題もあり、線を引く以上どうしても恣意的にならざるを得ない。まして今の無能な統治権力の体たらくを見ていれば、そもそもそういう能力が無いからこういう状況に陥っている。そうすると必ず分捕り合戦に陥ってしまう。これもまさにこの国の大問題でもある。日本国外まで視野を広げれば、日本に生まれているというだけで、すでに持つものの側に属している人が大半でもあるわけです。

だから格差があるのは現状ではしょうがない。すぐにどうにかするというのは難しい。問題はそこではない。格差の最低ラインが生きられないまでの貧困であるとすれば、それはいくら何でもやり過ぎです。それでは何の為に社会を営んでんだかわからなくなっちゃう。そこが問題の本質であって、それを放置するというのなら、だったら本当に弱肉強食にしなくちゃ不公平です。

社会というプラットフォームにいるおかげで、法律があるおかげで強者であると勘違いして生きられる連中がいるわけです。少なくとも最下層ではないゾーンにいる人間も沢山いる。本当に弱肉強食になれば、格差の底辺にいる人間が這い上がるチャンスはいくらでもある。ぶち殺して持っている奴から奪えばいいだけの話です。

だけど法律や社会というプラットフォームがあるおかげで、そういう暴力による競争の負担を免除されているわけで、社会に生きている以上、誰しもそういう負担の軽減を享受している。生まれながらの機会の不平等に胡座をかいて搾取しているゾーンでシステムの恩恵を享受している。

国家に感謝なんてする必要は微塵もありませんが、社会を生きる構成員である以上、享受しているだけじゃなくて、社会を維持する為に必要なラインを守らなければそれは権利を主張するだけで義務を果たしていないのと一緒です。

よく年金払ってない若者に対してとか、モンスターペアレンツ化する親とかに対して、今回の派遣の方々に対しても、権利ばっかり主張しやがって義務を果たしやがれと、偉そうに言う輩がおりますが、そういう連中に文句を言う前に、お前はどうなんだよという話です。社会というプラットフォームがあるおかげで、弱者から搾取し、貧困を傍観していられるという事がわかってそれを言っているのか?政府の責任に全て押し付け、脱社会化した人間に断固対処重罰化では公平じゃないじゃないかと。

貧困に叩き込まれた人間が選択肢を失い結果的に犯罪を犯してしまった部分だけを断固対処、死刑にしろと言う話には簡単になりますが、そういう境遇に追い込んでいる権力者達を死刑にしろと言う話にはならない。無関心によってそういう状況を放置するどころか、自分のポジションを守る為に、怠け者は自己責任だといった感じで、積極的に排除抑圧している人間がこんなに沢山いる状況であるにもかかわらず、そういう連中を有罪にしろと言う話にはならない。

どんな理由があったって、犯罪を犯してしまえばサンクションを受けるのは当然です。しかしそういうものを生み出す原因と言うものもやっぱりあるわけで、何かをするには多くの場合それなりに理由があるわけです。そこの問題も考えないで放置しておけば社会は益々機能しなくなる。

社会というのは自然物ではありませんので、元々あるものでも何でも無い。人が作ったものです。だから壊れます。壊れれば社会の恩恵を受けている人々全てに被害が広がってしまう。これだけ脱社会化してしまった人間が増え、昨年のアキバ事件じゃありませんが、繋がりを失ってしまった人が増え、そして貧困によって絶望に叩き込まれえている人々が増えている。社会が壊れている。

今必要なのは断固対処ではなくて、壊れてしまった社会を再生させるという方向性ではなかろうかと思います。その為にはまず関心を持たなきゃ始まらない。可哀想と言う話に落ちて政府に何とかしろでは繰り返される。それが結果的に断固対処なんかよりも一番処方箋になる。セーフティネットにもなる。景気の浮揚にもつながる。不安を煽って利権化する下らない連中にとって都合がいい社会では、お先真っ暗です。

社会というのは人が作ったものです。当然その構成員である我々市民によってつくり変える事も再生する事も出来る。我々がその気になれば壊すのも簡単です。社会を保全する為に国家がサポートするという事は重要ですが、我々にその意志が無いのに、国家にお任せで保全してもらってただ乗りするというパターンでは益々社会は疲弊する。日本の社会がここまでスッカラカンになったのは全てここに原因がある。

ハーバマスではありませんが公共性というのを国家が握るのか?我々の市民性によって担保するのか?その鬩ぎあいを忘れてはマズい。もちろん事は二元論的に単純に切れる話ではないのは百も承知ですが、国家にとって都合のいい公共空間の独占であって、我々にとっての公共性で無くなってしまう危険がいつでも裏表で存在する。

この国の統治権力というのは完璧に終わっている。国民の信頼なんてもう微塵も無い。しかしかと言って国家に信頼が無いと言っても無くす事も出来ない。国家は常に存在するし、また存在しないと社会が上手く回らないのも事実です。国家という問答無用の暴力装置が無ければ解決出来ない次元の話もある。必要だけど野放しにするのも危険という厄介な存在をいかに上手く機能させて、我々の社会を保全する為の装置として使いこなすか、それは我々次第です。

そして市民性を盲信するのもまた危険です。そこには民主主義によって民主主義をぶち壊しにする危険があるからです。ヒトラーの例をだすまでもなく、ネオコンだって世論の90%にも支持されていた。小泉にしろ安倍にしろ福田にしろ、麻生でさえ、最初は支持している人がそれなりに存在したわけです。卓越主義的リベラリズムに任せるべき領域も必ずある事を知っておく必要もあります。

つづく!!