前回の続きです。
自己責任なんてのは当たり前の話で、自分の事は自分で何とかするしかありませんし、自分の問題の責任は自分で取るしかない。他者責任なんて有り得ない。責任にわざわざ自己なんてくっつけないと、責任がどこにあるのかも自覚出来ない責任感の無い国民性に大きな問題があるのは確かです。
が、この状況を放置したまま自己責任だというのはちょっと違うような気がする。自己責任取れるような選択肢の提示と、そうなれるような啓蒙と教育が重要です。そういうものが担保されていないのに責任だけ取りやがれというのも乱暴な話です。
だいたい責任がどこにあるのか?という事がわかっていて、選択肢もあり、責任の意味もわかっている責任者が責任を放棄しているのに、末端にだけ自己責任を自己責任として取れない部分まで負担させるのは、明らかに悪質な責任者達の責任放棄であり、どう考えても公正であるとは言えません。
自己責任だというのと、救済せよというのは、非常にオーソドックスな枠組みであって、リバタリアニズムとリベラリズムの鬩ぎあいだとも言える。極端な単純化した言い方をすればアメリカなんかはまさにその事を二大政党に別れて綱引きしていると言っても過言ではありません(もちろん例外もいっぱいありますよ)。滅茶苦茶乱暴に言えば自由を重視するのか、平等を重視するのかという、右と左の鬩ぎあいだとも言える。
日本の右左の論議は頭が腐っているのでネオコンが右翼だとか勘違いしている人も多いのですが、自由に対してどういう風にコミットするのか?という発想が日本ではどうも弱いので、救済せよとか、再配分せよなんていうと、すぐに共産主義とか資本主義の否定とか、そういう話になってしまう。
もちろん実際にそういうものを利権化する腐った蛆虫共もいっぱいいるので、腐敗していつまでたっても権益を手放さないという、全体のシステムがぶっ壊れても、島宇宙の権益護持みたいな手段の目的化という本末転倒の帰結が起こる。
実際もうすでに厚労省がこの自己責任と救済の分断の隙間に楔を打ち込んでどんどん権益化している。マスメディアなどもお門違いの弱者救済図式を当てはめて、官僚の圏域拡大の片棒を担ぎ広告塔として大活躍しています。今この状態では厚労省の対応に対して、冷静に判断しようぜなんて言えなくなってしまっている。そんな事を言うと、お前も自己責任論者か!!的扱いを受けかねない。
別に受けてもいいので書きますが、例えば内定取り消し企業に対する公表の問題なんかが騒がれていますが、その権限を厚労省がまんまと手に入れた。間違いなく裁量が生まれるわけですから、そこにはお目こぼしなどの権益が生まれ、必ず腐敗を招く。天下り先の確保にもつながるし、政治家への献金となって政治家も取り込まれる。政官業の癒着構造を国民も積極的に支持している。
最初に書きましたが年金問題なんてどっかに吹っ飛んじゃった。すでに派遣問題対処の世論を利用して権益を潜り込ませている。こういう事に対して牽制の力学が無さ過ぎる所がどうも危うい。
自民党の議員が「本当に真面目に働こうとしている人が集まっているのかな」と発言して血祭りに上げられましたが、そういう事を言うだけでも不遜だというのは言葉狩りです。
実際にこの発言をした議員が牽制として言っているのかどうかはわかりませんし、単なる責任逃れとして言っているだけかもしれませんが、派遣の人達の無垢性を叫んでそっちよりの世論に傾けば必ずバックフラッシュが起こって、救済なんて必要ねえぜ、という風になりかねない。
実際利権化しようとしているのは明々白々なので、やっぱり利権かよとなりかねない。しかも責任は厚労省には向かず、おそらく派遣の方々やNPOの方々に向くでしょう。彼らを担ぎ上げている野党にももちろん。
経団連なんかもワークシェアリングの話を持ち出していますが、あれも議論の俎上に乗せると言っているだけなので、時間もかかるし実現可能かどうかもわかりません。もちろん否定するつもりはありませんが、あれは末端の労働者を思って言っているわけではないに決まっています。
なぜこの時期にこういう話をだしているのかと言えば、世論に媚びるという意味と、責任をパージするという毎度毎度のパターンが繰り返されているに過ぎません。あれを言えば、経営者はワークシェアリングで派遣を救おうと考えている。が、しかし、一般労働者達が納得しないから、導入したいのは山々だけれど導入には踏み切れないと、一般労働者に責任を投げて言い訳出来る体制作りである可能性が高い。
だいたい世論に煽られてあわてて導入するならハナっからやれよって話ですし、そういう事云々はとりあえずおいといて、その前に責任者責任取れよって話です。
いずれにせよ、官の利権にしろ民間の利権にしろ、責任をパージして責任を取らなくても済むように利権の構造が変化している。前時代的な責任の所在がハッキリしてしまうような道路利権とか、厚労省であれば年金関連の利権というのは情報化社会ではリスクが高いので、この切り替え作業が行われている。
それが小泉改革の本質だったわけで、弱者切り捨てと言いながらも、官僚の利権は増え、責任者が責任を取らなくて済むように変化している。そういうまなざしも忘れてはならないと思います。
さて、自由と平等の話に戻りますが、自由は時として自由を掘り崩してしまう事がよくあります。民主主義の問題点ももちろん、サブプライムの問題なんかもそうで、自由に振る舞った結果、不自由を強いられるようになるという事がよくある。なので自由である為に必要なものを守らないと自由は維持出来ない。
リベラリズムというのは自分達が自由を欲する、自由を侵害するなという事だけではなくて、自由に対するコミットメントよりも、みんなが自由に振る舞う為に必要なリソースを配分して平等を担保するとか、自由を支える正義とか、公正さとかに対するコミットメントを優越させるという思想、あるいは自由を支えてくれる制度や価値にコミットメントしろという発想です。なのでリバタリアンから見るとその部分が全体主義的に見える所がある。
しかし全体主義的な態度抜きで自由な社会を貫徹出来るのか?ジェファーソンの独立宣言や権利章典のようなものを、制度として実現し続ける事が出来るのか?という事が大問題であるわけで、ネオコン的な立場というのは自由な社会を維持する為には、みんなが自由に振る舞って好き勝手になってしまえば自由を支える制度がもたなくなるという背後があり、その制度や正義を守る為には強攻策も辞さずという風になる。
ブッシュ政権ではネオコンの思想というのは泥まみれになりましたが、元々はそういう理想が背後にあり、リベラル的な左の思想から出発している。自由によって排除抑圧されている弱者がいるではないかと。それを見過ごすのは正義ではないではないかと。
リバタリアンというのはまず大前提として予定説を信じているというのがあります。つまりこの世の森羅万象は全て神が決めている。したがって自由に振る舞っていても神の思し召しなのだから上手く行くというか受け入れるみたいなのがベースにあり、人々の良心や善意に対するある種の信頼がそれを可能にする。不遜な輩はそんなにはいないだろうという事が前提になっている。
リバタリアンというのは日本では自由放任主義と訳されてしまう事がよくありますが、人々が自由勝手に振る舞っても殺し合ったり弾圧をしたりしないのは、人々が良心を持っているという事が信じられるから可能でもある。プリファランスストラクチャーにある種の利他性であるとか、公共性であるとかがキチンと埋め込まれている事によって初めて可能なもので、それがあればネオリベでも上手く行く。
それが壊れてくると、リバタリアン的発想とかネオリベとかの発想というのは、優勝劣敗の弱肉強食になってしまう。なのでそれをリベラルが埋め合わせる。自由を支える為にコミットしようぜという事です。ニューディーラーのよき部分というのもそういう所にあるわけですが、それが道を誤るとブッシュ的ネオコンになってしまう。
人々の善意と自発性を信頼出来て、悪者と言ってもそれほどとんでもない奴はいないだろうという共通了解があればリバタリアニズムでいいに決まっている。みんな自由でハッピーならばそれで何の問題も無い。だけどそれが機能しなくなり結果的に不自由な状態が蔓延してしまう時、善意や自発性を信頼する事が出来ず、抜け駆けする奴が出て来たり、格差が固定化して搾取や抑圧が支配するようになるとリベラル的なコミットメントが必要になる。
再配分して平等を担保するのは自由が自由を掘り崩さないように自由を守る為であって、リベラル的な制度の維持が本末転倒、手段の目的化が起こり、制度疲労が起こっている時には、今度はリバタリアン的、自由にコミットするという発想が必要になる。だからどちらが正しいかというのは下らない。
さて日本では変なカルト宗教を崇め奉る困った奴はいますが、まず一般的共通前提として神様はいません。善意と自発性なんてそもそも無い。元々あったのかどうかも怪しい話ですし、社会がこれだけ空洞化してしまえば、信頼しろと言ったって難しい。抜け駆けと疑心暗鬼に支配され、自発性なんてもつと空気が読めないなんて言われる。痛い奴だなんて思われちゃう。国家や所属する企業に依存してりゃ何とかなるだろうという感覚があるので、何かっつうと国家を呼び出して何とかしろって話にすぐになる。人の自由や多様性を恐れ、すぐに断固対処と国家に依存して吹き上がる。こんな状態でリバタリアン的な自由を押し進めれば優勝劣敗主義になるのは当たり前の話です。
かと言ってリベラル的な再配分となると今度は怠け者を救済するのかって話になる。怠けているかどうかではなくて、可哀想かどうかも関係なくて、社会の保全の為に必要な話であって、それを放置すればみんな自由を失い多くの人が不幸になる。だから必要なのであって、怠けているかどうかはハッキリいってどうでもいいし、可哀想かどうかも切り離して考えた方がいい。
しかしこれもやっぱり手段の目的化によって、制度はコラプトしてしまう。もちろん抜け駆け感によって制度の維持へのコミットメントも無い。再配分は簡単に分捕り合戦と変じ、自由が所与のものであると勘違いしている。
リバタリアニズムだけが正しいわけでもなく、リベラリズムだけが正しいわけでもなく、ネオリベが悪いわけでも、ネオコン思想が悪いわけでもない。それを使う人間が、一方を善、一方を悪と線を引き、どちらが正しいかで鍔迫り合いをする。これはどちらも正しく、リバタリアニズムはリベラリズムを補い、リベラリズムはリバタリアニズムを補う。自由か?平等か?ではなくて、自由の為には平等が必要であり、平等の為には自由が必要になる。この二つが鬩ぎあってこそ上手く行く。
もちろん日本はアメリカみたいに自由へのモチベーションが無いので、全く同じ論理で考えるわけには行かないというのは百も承知なんですが、こういう大前提がわかっていて鬩ぎあっているとは到底思えない。
今アメリカでもリベラルの風が吹き、日本でもリベラル的な方向性、左翼的なアジェンダを掲げる事が正統性を調達する為に必要な社会情勢になっているという事もあるので、そういう事が正しくて、ネオリベラル的リバタリアン的方向性は間違っているみたいな感じになっちゃっていますが、これは非常に危ういものを感じます。
日本が戦前のある時期からとった軍国主義と今呼ばれている方向性というのを右翼と勘違いしている人が多いので、このへんは気をつけねばなりません。戦前のある時期から日本がとった方向性は左派的な方向性であり、それはナチスも一緒です。
どちらも共産主義と戦っていたのでややこしいのですが、この頃は右的な方向性、つまりリバタリアン的方向性では社会が持たないという事を世界中の人が大恐慌によって痛感した。政府に何とかせよという風になる。アメリカでもニューディーラーが出て来ました。
社会全体が左派的な方向性に進み、共産主義がそれを握るのか、それとも別の左派的な方向性が握るのかの鬩ぎあいが起こっていたわけで、社会の底抜け感に狼狽えた人々が寄る辺を求めて大戦へと突っ走る事になるわけです。第一次大戦のときも第二インターナショナルなんつってリベラルの風が吹いて、アナキストを排除し大戦へと突っ走る。
戦前の日本の右翼もそうですが、右というのはナショナリズムとかって話になるのですが、それは国家万歳ではなくて、パトリオティズムの事で、国家権力によって抑圧や排除に対して、自由を主張するのが右です。ある種のアナキズムでありインターナショナリズムが出発点にあります。アナキズムと言うと無政府主義で無法地帯みたいな話になりがちですが、中間集団主義の事を言うわけです。国家に余計な事をするなと。
国家の横暴によって苦しんでいる国があるのなら連帯しようじゃないかという事でインターナショナリズムになる。それぞれの国はそれぞれの国の民衆が決めればいい事で、それを抑圧するような国家に対して連帯して声をあげる。
これは国の舵取りが上手く行っている時はいいのですが、危機が可視化出来たり、不況によってみんなが貧乏になったりすると、自由なんて言っていたら危機に対応出来ないではないかという風にシフトして行ってしまう。困っている人を救済せよとなる。
戦前の日本の右翼も最初は下からの民権を言っていて、民権を言っていて国家が滅べば本末転倒なので、民権を守る為に国権、日本一国だけでは西洋列強に抗えないからアジアでの連帯を言い、民権を守る為の国権を守る為に亜細亜主義を掲げたわけです。
しかしこれはそれぞれの国はそれぞれ自由であるべきで、その国の民衆が決めて、それぞれ独立自尊の上で連帯しようじゃないかって話だった。それが段々話がおかしくなっちゃって、亜細亜の天皇になるのだ見たいな全体主義的方向性に危機と不況によって突っ走ってしまう。
カウンターパートである右の牽制が働かなくなった時に、こういった暴走が必ず起こる。それを自覚しないとマズい。日本は右も左もまともな人は殆どいないので、ハナっから牽制もクソも無いのが元々問題だったわけですが、小泉政権の時にちょっとリバタリアン的方向性を打ち出してみんなが支持した。もちろんインチキであった事は間違いありませんが、その風が起こった事によって、組合系の腐敗やリベラル的なものが生み出す腐った構造が可視化されてチェックされたのも事実なので(まあそれが行き過ぎたというのはもちろんあります)、左派にはそこはチェック出来ない。なので世間がリベラル的な方向性に向かっているときこそ、リバタリアン的思考を忘れてはマズい。
オバマ政権もオバマ自身はリベラル的な理想主義者というよりも現実主義者ですが、リベラル的なものを期待されて支持された所もあるわけで、リベラル政権になったから安心なんて思ったら非常に危険です。そこはオバマの現実主義に期待ですが、第二次大戦もベトナム戦争も民主党政権の時に起こっている。
マケインというのはアメリカンヒーロー的、軍人の英雄みたいな人ですが彼は共和党の中では極めてリベラルな方向性を持っている人で一匹狼なんて言われていた。だから正義へのコミットメントも人一倍高く、戦争そのものは決して否定しない。
ブッシュも共和党ですが、ネオコンというのは左翼でしたし、彼自身共和党にしては非常にリベラルな政策を最初の頃は打ち出していて、実際世間の評価もリベラルな大統領だと言われていた。彼の父親もリバタリアンとは真逆の政策をとって、リベラル的な方向性を打ち出した事によって、保守層からお前は保守じゃないじゃないかと総スカンを喰らって一期しか出来なかった。パパブッシュも湾岸戦争を起こしている。
リベラル的な方向性というのは道を誤ると全体主義に突き進んでしまう。この事には十分注意する必要があります。それは抑圧や排除を生む。もちろん今の時代簡単に梯子が外れる時代なので、戦前的動員は事実上不可能だと書きましたが、それはあくまで現状ではそうであるという話でしかないわけで、頭の悪いバカリベラルが副作用も考えず制度をいじくれば、またとんでもない事態が起こりかねない。
もちろん日本のリベラル派の人は反戦も同時に掲げているので、戦争に突っ走る可能性は極めて低いとは思いますが、戦後の日本というのは自民党までひっくるめてリベラル的な方向性でしたので腐敗も凄かったし、リベラル的な制度変革をして何度道を誤り後戻り不能の事態を引き起こしたか数しれません。その事は頭に叩き込んでおく必要がある。
確かに今の時点では、本当に困っている人もいるし、不況になっちゃっているのでリベラル的な方向性に行く事自体は悪い事ではないし、必要な事だろうとも思う。だけど相対化しておかないと、また取り返しのつかない事になりかねない。
日本の左派に対して反日だ!とかまだ言っているバカがいます。そういう危惧は国家権力の奴隷根性の成せる技なので下らないのですが、牽制がそれしか無いとなるとこれも非常に問題がある。牽制が他に無ければそれでも牽制になる事はなりますから利用すればいいのですが、そういう連中は頭が悪過ぎるので今イチ頼りない。
あんまりリベラル的な方向性にノーチェックで突っ込みすぎると、また次の小泉政権的なるものや、安倍晋三のような断固決然バカが出て来そうな気がしますので、冷静にリベラル的なるものへの翼賛ではなくチェックが必要だと思います。
つづく!!
自己責任なんてのは当たり前の話で、自分の事は自分で何とかするしかありませんし、自分の問題の責任は自分で取るしかない。他者責任なんて有り得ない。責任にわざわざ自己なんてくっつけないと、責任がどこにあるのかも自覚出来ない責任感の無い国民性に大きな問題があるのは確かです。
が、この状況を放置したまま自己責任だというのはちょっと違うような気がする。自己責任取れるような選択肢の提示と、そうなれるような啓蒙と教育が重要です。そういうものが担保されていないのに責任だけ取りやがれというのも乱暴な話です。
だいたい責任がどこにあるのか?という事がわかっていて、選択肢もあり、責任の意味もわかっている責任者が責任を放棄しているのに、末端にだけ自己責任を自己責任として取れない部分まで負担させるのは、明らかに悪質な責任者達の責任放棄であり、どう考えても公正であるとは言えません。
自己責任だというのと、救済せよというのは、非常にオーソドックスな枠組みであって、リバタリアニズムとリベラリズムの鬩ぎあいだとも言える。極端な単純化した言い方をすればアメリカなんかはまさにその事を二大政党に別れて綱引きしていると言っても過言ではありません(もちろん例外もいっぱいありますよ)。滅茶苦茶乱暴に言えば自由を重視するのか、平等を重視するのかという、右と左の鬩ぎあいだとも言える。
日本の右左の論議は頭が腐っているのでネオコンが右翼だとか勘違いしている人も多いのですが、自由に対してどういう風にコミットするのか?という発想が日本ではどうも弱いので、救済せよとか、再配分せよなんていうと、すぐに共産主義とか資本主義の否定とか、そういう話になってしまう。
もちろん実際にそういうものを利権化する腐った蛆虫共もいっぱいいるので、腐敗していつまでたっても権益を手放さないという、全体のシステムがぶっ壊れても、島宇宙の権益護持みたいな手段の目的化という本末転倒の帰結が起こる。
実際もうすでに厚労省がこの自己責任と救済の分断の隙間に楔を打ち込んでどんどん権益化している。マスメディアなどもお門違いの弱者救済図式を当てはめて、官僚の圏域拡大の片棒を担ぎ広告塔として大活躍しています。今この状態では厚労省の対応に対して、冷静に判断しようぜなんて言えなくなってしまっている。そんな事を言うと、お前も自己責任論者か!!的扱いを受けかねない。
別に受けてもいいので書きますが、例えば内定取り消し企業に対する公表の問題なんかが騒がれていますが、その権限を厚労省がまんまと手に入れた。間違いなく裁量が生まれるわけですから、そこにはお目こぼしなどの権益が生まれ、必ず腐敗を招く。天下り先の確保にもつながるし、政治家への献金となって政治家も取り込まれる。政官業の癒着構造を国民も積極的に支持している。
最初に書きましたが年金問題なんてどっかに吹っ飛んじゃった。すでに派遣問題対処の世論を利用して権益を潜り込ませている。こういう事に対して牽制の力学が無さ過ぎる所がどうも危うい。
自民党の議員が「本当に真面目に働こうとしている人が集まっているのかな」と発言して血祭りに上げられましたが、そういう事を言うだけでも不遜だというのは言葉狩りです。
実際にこの発言をした議員が牽制として言っているのかどうかはわかりませんし、単なる責任逃れとして言っているだけかもしれませんが、派遣の人達の無垢性を叫んでそっちよりの世論に傾けば必ずバックフラッシュが起こって、救済なんて必要ねえぜ、という風になりかねない。
実際利権化しようとしているのは明々白々なので、やっぱり利権かよとなりかねない。しかも責任は厚労省には向かず、おそらく派遣の方々やNPOの方々に向くでしょう。彼らを担ぎ上げている野党にももちろん。
経団連なんかもワークシェアリングの話を持ち出していますが、あれも議論の俎上に乗せると言っているだけなので、時間もかかるし実現可能かどうかもわかりません。もちろん否定するつもりはありませんが、あれは末端の労働者を思って言っているわけではないに決まっています。
なぜこの時期にこういう話をだしているのかと言えば、世論に媚びるという意味と、責任をパージするという毎度毎度のパターンが繰り返されているに過ぎません。あれを言えば、経営者はワークシェアリングで派遣を救おうと考えている。が、しかし、一般労働者達が納得しないから、導入したいのは山々だけれど導入には踏み切れないと、一般労働者に責任を投げて言い訳出来る体制作りである可能性が高い。
だいたい世論に煽られてあわてて導入するならハナっからやれよって話ですし、そういう事云々はとりあえずおいといて、その前に責任者責任取れよって話です。
いずれにせよ、官の利権にしろ民間の利権にしろ、責任をパージして責任を取らなくても済むように利権の構造が変化している。前時代的な責任の所在がハッキリしてしまうような道路利権とか、厚労省であれば年金関連の利権というのは情報化社会ではリスクが高いので、この切り替え作業が行われている。
それが小泉改革の本質だったわけで、弱者切り捨てと言いながらも、官僚の利権は増え、責任者が責任を取らなくて済むように変化している。そういうまなざしも忘れてはならないと思います。
さて、自由と平等の話に戻りますが、自由は時として自由を掘り崩してしまう事がよくあります。民主主義の問題点ももちろん、サブプライムの問題なんかもそうで、自由に振る舞った結果、不自由を強いられるようになるという事がよくある。なので自由である為に必要なものを守らないと自由は維持出来ない。
リベラリズムというのは自分達が自由を欲する、自由を侵害するなという事だけではなくて、自由に対するコミットメントよりも、みんなが自由に振る舞う為に必要なリソースを配分して平等を担保するとか、自由を支える正義とか、公正さとかに対するコミットメントを優越させるという思想、あるいは自由を支えてくれる制度や価値にコミットメントしろという発想です。なのでリバタリアンから見るとその部分が全体主義的に見える所がある。
しかし全体主義的な態度抜きで自由な社会を貫徹出来るのか?ジェファーソンの独立宣言や権利章典のようなものを、制度として実現し続ける事が出来るのか?という事が大問題であるわけで、ネオコン的な立場というのは自由な社会を維持する為には、みんなが自由に振る舞って好き勝手になってしまえば自由を支える制度がもたなくなるという背後があり、その制度や正義を守る為には強攻策も辞さずという風になる。
ブッシュ政権ではネオコンの思想というのは泥まみれになりましたが、元々はそういう理想が背後にあり、リベラル的な左の思想から出発している。自由によって排除抑圧されている弱者がいるではないかと。それを見過ごすのは正義ではないではないかと。
リバタリアンというのはまず大前提として予定説を信じているというのがあります。つまりこの世の森羅万象は全て神が決めている。したがって自由に振る舞っていても神の思し召しなのだから上手く行くというか受け入れるみたいなのがベースにあり、人々の良心や善意に対するある種の信頼がそれを可能にする。不遜な輩はそんなにはいないだろうという事が前提になっている。
リバタリアンというのは日本では自由放任主義と訳されてしまう事がよくありますが、人々が自由勝手に振る舞っても殺し合ったり弾圧をしたりしないのは、人々が良心を持っているという事が信じられるから可能でもある。プリファランスストラクチャーにある種の利他性であるとか、公共性であるとかがキチンと埋め込まれている事によって初めて可能なもので、それがあればネオリベでも上手く行く。
それが壊れてくると、リバタリアン的発想とかネオリベとかの発想というのは、優勝劣敗の弱肉強食になってしまう。なのでそれをリベラルが埋め合わせる。自由を支える為にコミットしようぜという事です。ニューディーラーのよき部分というのもそういう所にあるわけですが、それが道を誤るとブッシュ的ネオコンになってしまう。
人々の善意と自発性を信頼出来て、悪者と言ってもそれほどとんでもない奴はいないだろうという共通了解があればリバタリアニズムでいいに決まっている。みんな自由でハッピーならばそれで何の問題も無い。だけどそれが機能しなくなり結果的に不自由な状態が蔓延してしまう時、善意や自発性を信頼する事が出来ず、抜け駆けする奴が出て来たり、格差が固定化して搾取や抑圧が支配するようになるとリベラル的なコミットメントが必要になる。
再配分して平等を担保するのは自由が自由を掘り崩さないように自由を守る為であって、リベラル的な制度の維持が本末転倒、手段の目的化が起こり、制度疲労が起こっている時には、今度はリバタリアン的、自由にコミットするという発想が必要になる。だからどちらが正しいかというのは下らない。
さて日本では変なカルト宗教を崇め奉る困った奴はいますが、まず一般的共通前提として神様はいません。善意と自発性なんてそもそも無い。元々あったのかどうかも怪しい話ですし、社会がこれだけ空洞化してしまえば、信頼しろと言ったって難しい。抜け駆けと疑心暗鬼に支配され、自発性なんてもつと空気が読めないなんて言われる。痛い奴だなんて思われちゃう。国家や所属する企業に依存してりゃ何とかなるだろうという感覚があるので、何かっつうと国家を呼び出して何とかしろって話にすぐになる。人の自由や多様性を恐れ、すぐに断固対処と国家に依存して吹き上がる。こんな状態でリバタリアン的な自由を押し進めれば優勝劣敗主義になるのは当たり前の話です。
かと言ってリベラル的な再配分となると今度は怠け者を救済するのかって話になる。怠けているかどうかではなくて、可哀想かどうかも関係なくて、社会の保全の為に必要な話であって、それを放置すればみんな自由を失い多くの人が不幸になる。だから必要なのであって、怠けているかどうかはハッキリいってどうでもいいし、可哀想かどうかも切り離して考えた方がいい。
しかしこれもやっぱり手段の目的化によって、制度はコラプトしてしまう。もちろん抜け駆け感によって制度の維持へのコミットメントも無い。再配分は簡単に分捕り合戦と変じ、自由が所与のものであると勘違いしている。
リバタリアニズムだけが正しいわけでもなく、リベラリズムだけが正しいわけでもなく、ネオリベが悪いわけでも、ネオコン思想が悪いわけでもない。それを使う人間が、一方を善、一方を悪と線を引き、どちらが正しいかで鍔迫り合いをする。これはどちらも正しく、リバタリアニズムはリベラリズムを補い、リベラリズムはリバタリアニズムを補う。自由か?平等か?ではなくて、自由の為には平等が必要であり、平等の為には自由が必要になる。この二つが鬩ぎあってこそ上手く行く。
もちろん日本はアメリカみたいに自由へのモチベーションが無いので、全く同じ論理で考えるわけには行かないというのは百も承知なんですが、こういう大前提がわかっていて鬩ぎあっているとは到底思えない。
今アメリカでもリベラルの風が吹き、日本でもリベラル的な方向性、左翼的なアジェンダを掲げる事が正統性を調達する為に必要な社会情勢になっているという事もあるので、そういう事が正しくて、ネオリベラル的リバタリアン的方向性は間違っているみたいな感じになっちゃっていますが、これは非常に危ういものを感じます。
日本が戦前のある時期からとった軍国主義と今呼ばれている方向性というのを右翼と勘違いしている人が多いので、このへんは気をつけねばなりません。戦前のある時期から日本がとった方向性は左派的な方向性であり、それはナチスも一緒です。
どちらも共産主義と戦っていたのでややこしいのですが、この頃は右的な方向性、つまりリバタリアン的方向性では社会が持たないという事を世界中の人が大恐慌によって痛感した。政府に何とかせよという風になる。アメリカでもニューディーラーが出て来ました。
社会全体が左派的な方向性に進み、共産主義がそれを握るのか、それとも別の左派的な方向性が握るのかの鬩ぎあいが起こっていたわけで、社会の底抜け感に狼狽えた人々が寄る辺を求めて大戦へと突っ走る事になるわけです。第一次大戦のときも第二インターナショナルなんつってリベラルの風が吹いて、アナキストを排除し大戦へと突っ走る。
戦前の日本の右翼もそうですが、右というのはナショナリズムとかって話になるのですが、それは国家万歳ではなくて、パトリオティズムの事で、国家権力によって抑圧や排除に対して、自由を主張するのが右です。ある種のアナキズムでありインターナショナリズムが出発点にあります。アナキズムと言うと無政府主義で無法地帯みたいな話になりがちですが、中間集団主義の事を言うわけです。国家に余計な事をするなと。
国家の横暴によって苦しんでいる国があるのなら連帯しようじゃないかという事でインターナショナリズムになる。それぞれの国はそれぞれの国の民衆が決めればいい事で、それを抑圧するような国家に対して連帯して声をあげる。
これは国の舵取りが上手く行っている時はいいのですが、危機が可視化出来たり、不況によってみんなが貧乏になったりすると、自由なんて言っていたら危機に対応出来ないではないかという風にシフトして行ってしまう。困っている人を救済せよとなる。
戦前の日本の右翼も最初は下からの民権を言っていて、民権を言っていて国家が滅べば本末転倒なので、民権を守る為に国権、日本一国だけでは西洋列強に抗えないからアジアでの連帯を言い、民権を守る為の国権を守る為に亜細亜主義を掲げたわけです。
しかしこれはそれぞれの国はそれぞれ自由であるべきで、その国の民衆が決めて、それぞれ独立自尊の上で連帯しようじゃないかって話だった。それが段々話がおかしくなっちゃって、亜細亜の天皇になるのだ見たいな全体主義的方向性に危機と不況によって突っ走ってしまう。
カウンターパートである右の牽制が働かなくなった時に、こういった暴走が必ず起こる。それを自覚しないとマズい。日本は右も左もまともな人は殆どいないので、ハナっから牽制もクソも無いのが元々問題だったわけですが、小泉政権の時にちょっとリバタリアン的方向性を打ち出してみんなが支持した。もちろんインチキであった事は間違いありませんが、その風が起こった事によって、組合系の腐敗やリベラル的なものが生み出す腐った構造が可視化されてチェックされたのも事実なので(まあそれが行き過ぎたというのはもちろんあります)、左派にはそこはチェック出来ない。なので世間がリベラル的な方向性に向かっているときこそ、リバタリアン的思考を忘れてはマズい。
オバマ政権もオバマ自身はリベラル的な理想主義者というよりも現実主義者ですが、リベラル的なものを期待されて支持された所もあるわけで、リベラル政権になったから安心なんて思ったら非常に危険です。そこはオバマの現実主義に期待ですが、第二次大戦もベトナム戦争も民主党政権の時に起こっている。
マケインというのはアメリカンヒーロー的、軍人の英雄みたいな人ですが彼は共和党の中では極めてリベラルな方向性を持っている人で一匹狼なんて言われていた。だから正義へのコミットメントも人一倍高く、戦争そのものは決して否定しない。
ブッシュも共和党ですが、ネオコンというのは左翼でしたし、彼自身共和党にしては非常にリベラルな政策を最初の頃は打ち出していて、実際世間の評価もリベラルな大統領だと言われていた。彼の父親もリバタリアンとは真逆の政策をとって、リベラル的な方向性を打ち出した事によって、保守層からお前は保守じゃないじゃないかと総スカンを喰らって一期しか出来なかった。パパブッシュも湾岸戦争を起こしている。
リベラル的な方向性というのは道を誤ると全体主義に突き進んでしまう。この事には十分注意する必要があります。それは抑圧や排除を生む。もちろん今の時代簡単に梯子が外れる時代なので、戦前的動員は事実上不可能だと書きましたが、それはあくまで現状ではそうであるという話でしかないわけで、頭の悪いバカリベラルが副作用も考えず制度をいじくれば、またとんでもない事態が起こりかねない。
もちろん日本のリベラル派の人は反戦も同時に掲げているので、戦争に突っ走る可能性は極めて低いとは思いますが、戦後の日本というのは自民党までひっくるめてリベラル的な方向性でしたので腐敗も凄かったし、リベラル的な制度変革をして何度道を誤り後戻り不能の事態を引き起こしたか数しれません。その事は頭に叩き込んでおく必要がある。
確かに今の時点では、本当に困っている人もいるし、不況になっちゃっているのでリベラル的な方向性に行く事自体は悪い事ではないし、必要な事だろうとも思う。だけど相対化しておかないと、また取り返しのつかない事になりかねない。
日本の左派に対して反日だ!とかまだ言っているバカがいます。そういう危惧は国家権力の奴隷根性の成せる技なので下らないのですが、牽制がそれしか無いとなるとこれも非常に問題がある。牽制が他に無ければそれでも牽制になる事はなりますから利用すればいいのですが、そういう連中は頭が悪過ぎるので今イチ頼りない。
あんまりリベラル的な方向性にノーチェックで突っ込みすぎると、また次の小泉政権的なるものや、安倍晋三のような断固決然バカが出て来そうな気がしますので、冷静にリベラル的なるものへの翼賛ではなくチェックが必要だと思います。
つづく!!