前回の続きです。
そして日本的エートスの問題、これが重要です。エートスとは習慣とか特徴とか訳されますが、アリストテレスによればエートスには三つのカテゴリーがあって、フロネシス(実践的な技術と知)、アレテー(美徳)、エウノイア(聞き手に対する好意)に分けられます。説得法の三つの条件の一つで、エートスの他には、ロゴス(論理)、パドス(情念)とあります。
社会学ではこれが三つに分かれて、生活態度、心的態度、倫理的態度となります。
ソシアライゼーションした人間が当たり前に身につけている生活の形式。
しかしある行為を繰り返しているからといって、それはエートスにはならない。意識的に主体的選択によって選び出されたものがエートスとなる。
そして何によって選択するのか?という基準が倫理、正しさであり、誰かに言われたからとか、恩賞をちらつかせてとか、罰によって脅してとか、そういう外部からのプレッシャーによって選んだものもエートスとは言えない。これはマックス・ウェーバーが言った事です。
日本というのは沖縄を除いて昔から血縁社会ではありません。養子をとって跡取りとするとか、どら息子よりも番頭さんの方が仕切っているとか、家社会であったわけです。トップダウン的な決定というよりも、共同体に所属する発言力のある人間による合議によって物事を決めて来たというのもそうだし、そのせいで一歩も前に進まなくなっている現状の政治なんかもそれが如実に現れている。これは何を守っているのかと言うと要するにモノを守っていると言える。家(共同体)に蓄積された財を家(共同体)に寄り添っている人間が支え合うという図式です。
家名とか家柄、店の評判と言った感じの、形に表す事の出来ない名誉のようなものも、その共同体の利益に繋がりますのでそれもある種の財であると言える。忠誠心によって結束し、共同体から出てしまった人間に対しては簡単に排除する。
だから人間関係が希薄になったから社会が荒んでいるという、昔は温かかった「オールウェイズ」的なノスタルジーは相当嘘が混じっている。モノではなくココロだという懐古主義はそんな時代だった事は一度もなく、そういう絆が必要な社会に変化しているという事によってみんなが求めているに過ぎません。
大陸系の文化というのは概ねどこでもモノ要するに土地とか金とか、そういう家的なアセットはいざとなれば役に立たないという事を知っている。なぜかと言えばジェノサイドのような悲劇を共有しているからです。ユダヤでも中国でもアセットよりもネットワークを重視するという考え方が根本にある。だから血縁ネットワーク、家族を大切に感じる所に大きな違いがある。日本程家族関係を大切にしない国は無い(それが悪いというわけではありませんよ)。
しかし最近の日本はモノに対する信頼が急速に揺らいでいる。そして教育でもモノではないココロだと教えている。大人もそうやって子供を啓蒙しちゃっている。実際社会も不景気が続き、問題点が是正される可能性も感じられず、金とかモノとかにこだわっていても、何も満たしてくれない時代に変化してしまった。モノが溢れているが故に、モノの輝きが失われている。そういう時代に対応して、子供にしても大人にしてもネットや携帯で必死になって絆を求めネットワークを作ろうとあくせくしている。
モノからココロへという言い方というのは、60年代後半からすでに始まっていて、これはフォード主義からポストフォード主義の流れで、ヨアヒム・ヒルシュ的に言えば消費主義パラダイム、ようするに仕事にやりがいや自己実現を求めましょうという方向性にすでに含まれている。情報化社会のからくりもそこにあって、モノからココロというお題目を利用して資本主義が回るという構造によって散々搾取しつくしてしまって今があると言っても過言ではありません。
金融の世界も実物経済と先物や株式市場を切り離して、モノと情報を切り離してそのギャップを利用して鬩ぎあうという構図ですし、そもそも資本主義という方向性自体、ザインとゾルレンの峻別、ある状態とあるべき状態をわける事によって駆動出来る代物です。
ようするにコンビニの店員にしろ洋服屋の店員にしろ、今ある状態、要するに店に品物が並んでいる状態が目の前にあっても、それが本来誰のものであるべき品物であるのかという事をわかっているから、こういう状態が上手く回る。
今目の前に自分の手元にあるからと言って自分のものだと主張し始めたら資本主義は駆動しない。それが本来経営者のものであるとか、将来金を払って買ってくれる客のものであるという事が自明であるから回るわけです。
権利を主張してそれが認められなければ著作権にしろ、土地の所有権にしろ、意味がなくなる。貨幣だってそもそも1000円札は1000円分のモノを買える権利であるわけで、札自体に価値があるわけではない。単なる紙であってみんながそれを信頼するから単なる紙が1000円札として機能する。
しかし日本ではそのある状態とあるべき状態の峻別というのが、多分元々ネットワークよりもアセットであった社会というのが関係しているのだと思いますがいまだに上手く峻別出来ていない。だから国民の税金であるはずの金を自分達のものであるかのように勘違いして利権に邁進している役人や政治家が跳梁跋扈して止む事がない。共同体の中で所有したモノは自分のものであるかのように振る舞うし、昔はその為に奉公していたりも出来た。べき論を騒いで話が進まないのもそこに原因があるのかもしれない。金だけじゃないとかいいながら、金にこだわっている輩ばっかりという風になる。繰り返しますが悪いと言っているわけじゃありませんよ。
このモノと情報をわけるという事によって何が可能になるのかと言うと、実体での奪い合いを情報化するので、実体での争いを生み難い構造に変わる事が出来る。自分の手元になくても自分のものだと主張出来るわけですから、それを手元に置く為に鬩ぎあう必要が無くなる。
まあそれでも争いはあるのですが、大きな争いに至らないように権利をめぐっての情報戦になってくる。グローバル化なんかはそういう機能も持っている。本当に世界との物理的距離が縮まっているわけでも、元々人が勝手に引いた恣意的な線である国境が無くなっているわけでもなく、情報化によって近いと錯覚出来たり、元々ありもしないものを障壁が無くなったかのように錯覚させる。
権利を握って実体をコントロールする。情報によって実体を動かす。これはモノにこだわって悲劇を繰り返して来た人類が生み出した一つの叡智であるとも言える。
もちろん悪しき面もある。情報によって実体をコントロールして、バブルにしても冷戦にしても、実際の実体とは関係なく、脅威や不安、そして根拠なき熱狂や失望を利用して搾取する。ようするにココロを情報で支配してコントロールする。
日本でのこの図式というのは非常に問題があって、悪しき面はもちろんの事、例えば公私混同という言葉に象徴されるように、仕事とプライベートをわけるという発想の都合のいい所だけを輸入して使っている。責任逃れに使う。政治家なんかがよくほざきますし、総理大臣でさえそういう事を言う始末。麻生にしろ小泉にしろそういう事を言う。靖国問題の時のバカマスコミのように公的か?私的か?と言った下らない図式で切る。
仕事というのが言わば仕事をしている公人であり、本来の状態というのがプライベートであってこれを切り離して責任回避をする。ある状態とあるべき状態の悪用です。公私混同というのは本来私情を仕事に持ち込まないとか、仕事の問題を家庭に持ち込まないとか、そういう類いの話であって、公でも私でもその人はその人であるわけで、仕事の時は仕事の時で、本当の自分はそんなに悪い人間ではないとか、仕事としての失敗でその人個人のパーソナリティまで否定する事はないとか、そういう言葉を利用して責任逃れをする輩が大勢いる。本当の自分が他のどこかにいると錯覚して自分探しをする人が多いのもそこに理由があるかもしれない。
今回のサブプライムに熱狂した金融プレーヤーも仕事という状態にかこつけて責任逃れをして、散々リスクをとったあげくリターンをあげれば莫大な報酬を得るくせに損失すれば会社が潰れるくらいで責任を回避出来てしまう。リスクはただ単に末端を直撃するだけ。こういう悪い所は真似する必要なんてないのに、この国ではそればっかりです。
マネーゲームだと批判して、実体経済に戻れと言う。しかし何を言っているのかと言えば、モノではないココロであると言ってしまう。そこに情報化社会の罠がある。違う。この国で大切なのはヒューマニズムでも絆でもない。そろそろ気付きましょう。モノにこだわれと。この国ではそれ無くしてココロは宿らない。
それはモノにこだわれば消費が増えるので経済が上向きになるなんていうつまらない話じゃありませんよ。日本的エートスの問題です。
先程から悪いと言っているわけではないと繰り返しましたが、日本というのはモノにこだわる家社会であったとも言いました。肝腎なのはそうであるにもかかわらず、ジェノサイドの歴史を繰り返して来たわけではないという事実です。
戦国時代のような時代もありましたが、平和であった時代も結構あったわけです。モノにこだわっていても、争わない叡智があった。分け与えたり、お互い様っていうのがあった。
モノにこだわっているからこそ大切に扱いリサイクルしていた。江戸時代のリサイクル文化なんて凄まじいものを感じます。髪の毛、うんこ、折れた下駄、かけた茶碗、ありとあらゆるものをリサイクルして使い、ゴミなんて殆ど出なかった。僅かなゴミを、当時のゴミ屋は金を払って引き取っていたくらいです。なぜかと言えばその僅かなゴミで埋め立てた埋め立て地が自分の土地になるからです。ちゃんとインセンティブが内蔵されていた。当時の叡智を取り入れればあっという間に日本は環境先進国ブッチギリのナンバーワンになれるでしょう。
だいたい現代社会はどこかで何かを買うとする。それをそのままリサイクルショップに持って行くと、値段は早くも半額ぐらいになっちゃう。買っても売っても搾取される構造です。これではモノを大切にするなんて出来っこ無いのも当然といえば当然で、リサイクルしたってバカバカしいとなる。
元々あった日本的家屋に見られるように、モノを求めて奪い合いのような事態を想定したような作りではない。まわりを信用出来るから無防備な状態で平気の平左だったわけです。それは実際に犯罪が無かったとか言っているのではなくて、少なくとも気を抜くと奪われるという事が無いだろうという信頼がベースにあったんだろうと想像出来る。悪く言えば呑気、よく言えば平和的だったのでしょう。
なんで昭和30年代のノスタルジーブーム的絆があったのかと言えば、みんながモノにこだわってモノが輝いていたからに他なりません。だからそれを確保する為に共同体的温情主義も機能していたし、共同体の中での絆もあった。モノを必要としないのに絆的なものを求めても、目的のなくなってしまった手段でしかない共同体がそれを担保出来なくなってしまったわけです。空洞化空洞化と喚き散らしますが、もちろん流動化によって破壊したという事もあるのですが、一番の理由は目的を失っているからです。
一神教的文化圏や中国のように王朝の交代によって国のレジームが変わり続けて来た国には、天命とかがある。だけど日本の神様はどこに宿るのかと言えば、モノに宿るわけです。天皇がそれを担保していた時代はとっくに終わっている。仏教も元々の姿とは似ても似つかないいい加減というか、寛容と言うか誰もが適当に付き合えるように換骨奪胎してカスタマイズされている。
一神教的神とか天命の無い国で、ネットワーク的な絆を求めてもその絆を担保する信頼みたいなものが消えてしまえば絆にはならない。仕事に対してだって、召命、ベルーフとかコーリングという感覚が一神教であれば可能ですが、それが何もなくなっている国で天職と言っても天の声が聴こえないわけですから、天職もクソもなくいつまでもこれでいいのか的な自分探しが止まらない。
もちろん天職みたいな言い方というのは、非常に危ういものでもあり、同時に階級的な宿命論を受け入れさせる為に利用されているという所もあるので、自分を探す自由があるという事は重要な価値なのですが、何を探しているのか?というと宿命を探しちゃっているような所が今現在もあるわけで、モノにこだわらなくてもいいけれど、何の為に何を探しているのか?それすらもわからないから彷徨うというよりは、何らかの目標に向かって一つ一つ突破して行くモチベーションを持つのにわかりやすいのがモノであるとも言える。
自分の若い頃の話なんかを引き合いに出すのもおこがましい話ですが、自分は最初は料理人なんてちょっと場つなぎくらいにしか考えていなかった。料理なんて全くのド素人でしたし、なんにもわからないし、あんまりやる気はなかったけれど、寮もあるし食事もただだし、着る物(白衣)も靴も支給されるので、とりあえずと思ってやっていた。そしてもちろん欲しいものもいっぱいあった、洋服とか、靴とか、レコードとか、楽器とか、そういうものが欲しいからとりあえず働いていた。
仕事はキツいし、親方は恐ろしいし、何度辞めようかと思ったか数えきれませんでしたが、もちろん辞めると口にすると殺されそうだと思ってビビっていたというのもありますが、欲しいものを買いたいし、お金も欲しいしと思って働いていたら、いつの間にか料理の仕事も悪くないなと思えるようになって、気付いたら職人だった。
その事自体がよかったのか悪かったのかは今の時点ではよくわかりませんが、人間万事塞翁が馬、風が吹けば桶屋が儲かる、禍福はあざなえる縄のごとしじゃあありませんが、何がどう転がって行くか人生はわからない。そのモチベーションとなるのは、神のいないこの国では、モノへのこだわりというのは結構重要なんじゃないかと思えるのです。
それをモノじゃないココロだとか、金にこだわるなとか、仕事よりプライベートとか、そこそこの生活でいいじゃないかとか、仕事にあくせくするのはつまらないとか、もちろんその言葉自体正しいと思いますが、そういうのは金をいっぱい持っていて生活には何も困らない人であるとか、滅茶苦茶仕事に全身全霊を注ぎ込んで、あるとき人生を振り返ってそう思うとか、そういう人がある境地に達して、本当の価値は何か?という事を言うから説得力がある話なわけで、最初からモチベーションを失うような話をあんまり叩き込むのはどうなんだ?という気がする。ヘタすると大学生とか高校生の時点でそう思っちゃっていたりするわけで、もっとガツガツと貪欲に突き進むモチベーションももう少し必要なんじゃないかと。
欲しいモノがなくなるというのは、近代が成熟した証しでもあるので、それは多分どこの国でも近代化を遂げれば避けられない方向性であるのは事実です。それにある程度消費社会が成熟しているのにモノにこだわり続ければ、消費に煽られながら生きるという風になりかねないですし、環境がもてはやされている現在そういう時代に逆行するような方向性にもなりかねない。
大きな物語を失ってしまった現在、モノの消費は単なる動物化したデータベース的記号の消費になっちゃっていますので、そのサイクルにとらわれているが故に中身を失っているという所もある。
しかし現状のモノを否定しココロを推奨する様々なものいいはちょっとズレているような気がする。本当にモノにこだわっている人間は、モノを大切に扱うし、大量消費のサイクルとは別の所に価値観も置いている。環境保護の為に必要な価値観だって、モノへのこだわりには含まれている。
自分はモノにこだわる世代なので、例えば車とか洋服とか、レコードとか、そういうモノの輝きみたいなものを今でも感じる事がある。すげえ!欲しい!!と思うわけです。もっと昔に遡れば自分がガキンチョの頃は、プラモデルを作ったり、モノを収集したりと言った感じで、今で言えばちょっとオタク的要素のある趣味に子供達がみんな熱狂していた(本当はオタクというよりコレクター的趣味だと思いますが、ちなみにもの凄く単純に言うと、モノを収集するのはコレクターで、オタクとはちょっと違う。オタクというのは収集するというのもあるのですが情報で遊ぶ人達)。ロボットとか戦車とか戦闘機とか戦艦とかスーパーカーとか、そういう現実世界から遠いものへの憧れだけではなくて、実際に存在してそのへんを普通に走っている車とかバイクとか、そういうもののプラモデルを作っている人もいっぱいいた。
今はそういったモノにこだわっている人は痛い奴だとか、マニアックでキモいとか、そういう感覚が増えていて、実体よりも情報の方に金も流れている。携帯に凄い金を使っているわりには、実物のモノにはあまり興味を持たない。車も何でもいいし、興味もないというのが増えている。
モノの凄さに感染して、洋服にしろ車にしろこだわるという事は、それに伴うネットワークやコミュニケーションというのが必ず必要になる。古着屋に古着を買いに行けば店員と仲良くなってコミュニケーションするとか、車好きの友達が出来るとか、レコ屋の店員とマニアックな話で盛り上がるとかがあったわけで、ネットで通販とか、そのへんのレンタルショップじゃそういうのは有り得ない。目的がないのに絆だけを求めて、中身が何もないので疑心暗鬼というパターンになるよりは、面倒くさいけれど濃密なコミュニケーションがあるほうがいざという時の安全装置になる。
まだ続く!!
そして日本的エートスの問題、これが重要です。エートスとは習慣とか特徴とか訳されますが、アリストテレスによればエートスには三つのカテゴリーがあって、フロネシス(実践的な技術と知)、アレテー(美徳)、エウノイア(聞き手に対する好意)に分けられます。説得法の三つの条件の一つで、エートスの他には、ロゴス(論理)、パドス(情念)とあります。
社会学ではこれが三つに分かれて、生活態度、心的態度、倫理的態度となります。
ソシアライゼーションした人間が当たり前に身につけている生活の形式。
しかしある行為を繰り返しているからといって、それはエートスにはならない。意識的に主体的選択によって選び出されたものがエートスとなる。
そして何によって選択するのか?という基準が倫理、正しさであり、誰かに言われたからとか、恩賞をちらつかせてとか、罰によって脅してとか、そういう外部からのプレッシャーによって選んだものもエートスとは言えない。これはマックス・ウェーバーが言った事です。
日本というのは沖縄を除いて昔から血縁社会ではありません。養子をとって跡取りとするとか、どら息子よりも番頭さんの方が仕切っているとか、家社会であったわけです。トップダウン的な決定というよりも、共同体に所属する発言力のある人間による合議によって物事を決めて来たというのもそうだし、そのせいで一歩も前に進まなくなっている現状の政治なんかもそれが如実に現れている。これは何を守っているのかと言うと要するにモノを守っていると言える。家(共同体)に蓄積された財を家(共同体)に寄り添っている人間が支え合うという図式です。
家名とか家柄、店の評判と言った感じの、形に表す事の出来ない名誉のようなものも、その共同体の利益に繋がりますのでそれもある種の財であると言える。忠誠心によって結束し、共同体から出てしまった人間に対しては簡単に排除する。
だから人間関係が希薄になったから社会が荒んでいるという、昔は温かかった「オールウェイズ」的なノスタルジーは相当嘘が混じっている。モノではなくココロだという懐古主義はそんな時代だった事は一度もなく、そういう絆が必要な社会に変化しているという事によってみんなが求めているに過ぎません。
大陸系の文化というのは概ねどこでもモノ要するに土地とか金とか、そういう家的なアセットはいざとなれば役に立たないという事を知っている。なぜかと言えばジェノサイドのような悲劇を共有しているからです。ユダヤでも中国でもアセットよりもネットワークを重視するという考え方が根本にある。だから血縁ネットワーク、家族を大切に感じる所に大きな違いがある。日本程家族関係を大切にしない国は無い(それが悪いというわけではありませんよ)。
しかし最近の日本はモノに対する信頼が急速に揺らいでいる。そして教育でもモノではないココロだと教えている。大人もそうやって子供を啓蒙しちゃっている。実際社会も不景気が続き、問題点が是正される可能性も感じられず、金とかモノとかにこだわっていても、何も満たしてくれない時代に変化してしまった。モノが溢れているが故に、モノの輝きが失われている。そういう時代に対応して、子供にしても大人にしてもネットや携帯で必死になって絆を求めネットワークを作ろうとあくせくしている。
モノからココロへという言い方というのは、60年代後半からすでに始まっていて、これはフォード主義からポストフォード主義の流れで、ヨアヒム・ヒルシュ的に言えば消費主義パラダイム、ようするに仕事にやりがいや自己実現を求めましょうという方向性にすでに含まれている。情報化社会のからくりもそこにあって、モノからココロというお題目を利用して資本主義が回るという構造によって散々搾取しつくしてしまって今があると言っても過言ではありません。
金融の世界も実物経済と先物や株式市場を切り離して、モノと情報を切り離してそのギャップを利用して鬩ぎあうという構図ですし、そもそも資本主義という方向性自体、ザインとゾルレンの峻別、ある状態とあるべき状態をわける事によって駆動出来る代物です。
ようするにコンビニの店員にしろ洋服屋の店員にしろ、今ある状態、要するに店に品物が並んでいる状態が目の前にあっても、それが本来誰のものであるべき品物であるのかという事をわかっているから、こういう状態が上手く回る。
今目の前に自分の手元にあるからと言って自分のものだと主張し始めたら資本主義は駆動しない。それが本来経営者のものであるとか、将来金を払って買ってくれる客のものであるという事が自明であるから回るわけです。
権利を主張してそれが認められなければ著作権にしろ、土地の所有権にしろ、意味がなくなる。貨幣だってそもそも1000円札は1000円分のモノを買える権利であるわけで、札自体に価値があるわけではない。単なる紙であってみんながそれを信頼するから単なる紙が1000円札として機能する。
しかし日本ではそのある状態とあるべき状態の峻別というのが、多分元々ネットワークよりもアセットであった社会というのが関係しているのだと思いますがいまだに上手く峻別出来ていない。だから国民の税金であるはずの金を自分達のものであるかのように勘違いして利権に邁進している役人や政治家が跳梁跋扈して止む事がない。共同体の中で所有したモノは自分のものであるかのように振る舞うし、昔はその為に奉公していたりも出来た。べき論を騒いで話が進まないのもそこに原因があるのかもしれない。金だけじゃないとかいいながら、金にこだわっている輩ばっかりという風になる。繰り返しますが悪いと言っているわけじゃありませんよ。
このモノと情報をわけるという事によって何が可能になるのかと言うと、実体での奪い合いを情報化するので、実体での争いを生み難い構造に変わる事が出来る。自分の手元になくても自分のものだと主張出来るわけですから、それを手元に置く為に鬩ぎあう必要が無くなる。
まあそれでも争いはあるのですが、大きな争いに至らないように権利をめぐっての情報戦になってくる。グローバル化なんかはそういう機能も持っている。本当に世界との物理的距離が縮まっているわけでも、元々人が勝手に引いた恣意的な線である国境が無くなっているわけでもなく、情報化によって近いと錯覚出来たり、元々ありもしないものを障壁が無くなったかのように錯覚させる。
権利を握って実体をコントロールする。情報によって実体を動かす。これはモノにこだわって悲劇を繰り返して来た人類が生み出した一つの叡智であるとも言える。
もちろん悪しき面もある。情報によって実体をコントロールして、バブルにしても冷戦にしても、実際の実体とは関係なく、脅威や不安、そして根拠なき熱狂や失望を利用して搾取する。ようするにココロを情報で支配してコントロールする。
日本でのこの図式というのは非常に問題があって、悪しき面はもちろんの事、例えば公私混同という言葉に象徴されるように、仕事とプライベートをわけるという発想の都合のいい所だけを輸入して使っている。責任逃れに使う。政治家なんかがよくほざきますし、総理大臣でさえそういう事を言う始末。麻生にしろ小泉にしろそういう事を言う。靖国問題の時のバカマスコミのように公的か?私的か?と言った下らない図式で切る。
仕事というのが言わば仕事をしている公人であり、本来の状態というのがプライベートであってこれを切り離して責任回避をする。ある状態とあるべき状態の悪用です。公私混同というのは本来私情を仕事に持ち込まないとか、仕事の問題を家庭に持ち込まないとか、そういう類いの話であって、公でも私でもその人はその人であるわけで、仕事の時は仕事の時で、本当の自分はそんなに悪い人間ではないとか、仕事としての失敗でその人個人のパーソナリティまで否定する事はないとか、そういう言葉を利用して責任逃れをする輩が大勢いる。本当の自分が他のどこかにいると錯覚して自分探しをする人が多いのもそこに理由があるかもしれない。
今回のサブプライムに熱狂した金融プレーヤーも仕事という状態にかこつけて責任逃れをして、散々リスクをとったあげくリターンをあげれば莫大な報酬を得るくせに損失すれば会社が潰れるくらいで責任を回避出来てしまう。リスクはただ単に末端を直撃するだけ。こういう悪い所は真似する必要なんてないのに、この国ではそればっかりです。
マネーゲームだと批判して、実体経済に戻れと言う。しかし何を言っているのかと言えば、モノではないココロであると言ってしまう。そこに情報化社会の罠がある。違う。この国で大切なのはヒューマニズムでも絆でもない。そろそろ気付きましょう。モノにこだわれと。この国ではそれ無くしてココロは宿らない。
それはモノにこだわれば消費が増えるので経済が上向きになるなんていうつまらない話じゃありませんよ。日本的エートスの問題です。
先程から悪いと言っているわけではないと繰り返しましたが、日本というのはモノにこだわる家社会であったとも言いました。肝腎なのはそうであるにもかかわらず、ジェノサイドの歴史を繰り返して来たわけではないという事実です。
戦国時代のような時代もありましたが、平和であった時代も結構あったわけです。モノにこだわっていても、争わない叡智があった。分け与えたり、お互い様っていうのがあった。
モノにこだわっているからこそ大切に扱いリサイクルしていた。江戸時代のリサイクル文化なんて凄まじいものを感じます。髪の毛、うんこ、折れた下駄、かけた茶碗、ありとあらゆるものをリサイクルして使い、ゴミなんて殆ど出なかった。僅かなゴミを、当時のゴミ屋は金を払って引き取っていたくらいです。なぜかと言えばその僅かなゴミで埋め立てた埋め立て地が自分の土地になるからです。ちゃんとインセンティブが内蔵されていた。当時の叡智を取り入れればあっという間に日本は環境先進国ブッチギリのナンバーワンになれるでしょう。
だいたい現代社会はどこかで何かを買うとする。それをそのままリサイクルショップに持って行くと、値段は早くも半額ぐらいになっちゃう。買っても売っても搾取される構造です。これではモノを大切にするなんて出来っこ無いのも当然といえば当然で、リサイクルしたってバカバカしいとなる。
元々あった日本的家屋に見られるように、モノを求めて奪い合いのような事態を想定したような作りではない。まわりを信用出来るから無防備な状態で平気の平左だったわけです。それは実際に犯罪が無かったとか言っているのではなくて、少なくとも気を抜くと奪われるという事が無いだろうという信頼がベースにあったんだろうと想像出来る。悪く言えば呑気、よく言えば平和的だったのでしょう。
なんで昭和30年代のノスタルジーブーム的絆があったのかと言えば、みんながモノにこだわってモノが輝いていたからに他なりません。だからそれを確保する為に共同体的温情主義も機能していたし、共同体の中での絆もあった。モノを必要としないのに絆的なものを求めても、目的のなくなってしまった手段でしかない共同体がそれを担保出来なくなってしまったわけです。空洞化空洞化と喚き散らしますが、もちろん流動化によって破壊したという事もあるのですが、一番の理由は目的を失っているからです。
一神教的文化圏や中国のように王朝の交代によって国のレジームが変わり続けて来た国には、天命とかがある。だけど日本の神様はどこに宿るのかと言えば、モノに宿るわけです。天皇がそれを担保していた時代はとっくに終わっている。仏教も元々の姿とは似ても似つかないいい加減というか、寛容と言うか誰もが適当に付き合えるように換骨奪胎してカスタマイズされている。
一神教的神とか天命の無い国で、ネットワーク的な絆を求めてもその絆を担保する信頼みたいなものが消えてしまえば絆にはならない。仕事に対してだって、召命、ベルーフとかコーリングという感覚が一神教であれば可能ですが、それが何もなくなっている国で天職と言っても天の声が聴こえないわけですから、天職もクソもなくいつまでもこれでいいのか的な自分探しが止まらない。
もちろん天職みたいな言い方というのは、非常に危ういものでもあり、同時に階級的な宿命論を受け入れさせる為に利用されているという所もあるので、自分を探す自由があるという事は重要な価値なのですが、何を探しているのか?というと宿命を探しちゃっているような所が今現在もあるわけで、モノにこだわらなくてもいいけれど、何の為に何を探しているのか?それすらもわからないから彷徨うというよりは、何らかの目標に向かって一つ一つ突破して行くモチベーションを持つのにわかりやすいのがモノであるとも言える。
自分の若い頃の話なんかを引き合いに出すのもおこがましい話ですが、自分は最初は料理人なんてちょっと場つなぎくらいにしか考えていなかった。料理なんて全くのド素人でしたし、なんにもわからないし、あんまりやる気はなかったけれど、寮もあるし食事もただだし、着る物(白衣)も靴も支給されるので、とりあえずと思ってやっていた。そしてもちろん欲しいものもいっぱいあった、洋服とか、靴とか、レコードとか、楽器とか、そういうものが欲しいからとりあえず働いていた。
仕事はキツいし、親方は恐ろしいし、何度辞めようかと思ったか数えきれませんでしたが、もちろん辞めると口にすると殺されそうだと思ってビビっていたというのもありますが、欲しいものを買いたいし、お金も欲しいしと思って働いていたら、いつの間にか料理の仕事も悪くないなと思えるようになって、気付いたら職人だった。
その事自体がよかったのか悪かったのかは今の時点ではよくわかりませんが、人間万事塞翁が馬、風が吹けば桶屋が儲かる、禍福はあざなえる縄のごとしじゃあありませんが、何がどう転がって行くか人生はわからない。そのモチベーションとなるのは、神のいないこの国では、モノへのこだわりというのは結構重要なんじゃないかと思えるのです。
それをモノじゃないココロだとか、金にこだわるなとか、仕事よりプライベートとか、そこそこの生活でいいじゃないかとか、仕事にあくせくするのはつまらないとか、もちろんその言葉自体正しいと思いますが、そういうのは金をいっぱい持っていて生活には何も困らない人であるとか、滅茶苦茶仕事に全身全霊を注ぎ込んで、あるとき人生を振り返ってそう思うとか、そういう人がある境地に達して、本当の価値は何か?という事を言うから説得力がある話なわけで、最初からモチベーションを失うような話をあんまり叩き込むのはどうなんだ?という気がする。ヘタすると大学生とか高校生の時点でそう思っちゃっていたりするわけで、もっとガツガツと貪欲に突き進むモチベーションももう少し必要なんじゃないかと。
欲しいモノがなくなるというのは、近代が成熟した証しでもあるので、それは多分どこの国でも近代化を遂げれば避けられない方向性であるのは事実です。それにある程度消費社会が成熟しているのにモノにこだわり続ければ、消費に煽られながら生きるという風になりかねないですし、環境がもてはやされている現在そういう時代に逆行するような方向性にもなりかねない。
大きな物語を失ってしまった現在、モノの消費は単なる動物化したデータベース的記号の消費になっちゃっていますので、そのサイクルにとらわれているが故に中身を失っているという所もある。
しかし現状のモノを否定しココロを推奨する様々なものいいはちょっとズレているような気がする。本当にモノにこだわっている人間は、モノを大切に扱うし、大量消費のサイクルとは別の所に価値観も置いている。環境保護の為に必要な価値観だって、モノへのこだわりには含まれている。
自分はモノにこだわる世代なので、例えば車とか洋服とか、レコードとか、そういうモノの輝きみたいなものを今でも感じる事がある。すげえ!欲しい!!と思うわけです。もっと昔に遡れば自分がガキンチョの頃は、プラモデルを作ったり、モノを収集したりと言った感じで、今で言えばちょっとオタク的要素のある趣味に子供達がみんな熱狂していた(本当はオタクというよりコレクター的趣味だと思いますが、ちなみにもの凄く単純に言うと、モノを収集するのはコレクターで、オタクとはちょっと違う。オタクというのは収集するというのもあるのですが情報で遊ぶ人達)。ロボットとか戦車とか戦闘機とか戦艦とかスーパーカーとか、そういう現実世界から遠いものへの憧れだけではなくて、実際に存在してそのへんを普通に走っている車とかバイクとか、そういうもののプラモデルを作っている人もいっぱいいた。
今はそういったモノにこだわっている人は痛い奴だとか、マニアックでキモいとか、そういう感覚が増えていて、実体よりも情報の方に金も流れている。携帯に凄い金を使っているわりには、実物のモノにはあまり興味を持たない。車も何でもいいし、興味もないというのが増えている。
モノの凄さに感染して、洋服にしろ車にしろこだわるという事は、それに伴うネットワークやコミュニケーションというのが必ず必要になる。古着屋に古着を買いに行けば店員と仲良くなってコミュニケーションするとか、車好きの友達が出来るとか、レコ屋の店員とマニアックな話で盛り上がるとかがあったわけで、ネットで通販とか、そのへんのレンタルショップじゃそういうのは有り得ない。目的がないのに絆だけを求めて、中身が何もないので疑心暗鬼というパターンになるよりは、面倒くさいけれど濃密なコミュニケーションがあるほうがいざという時の安全装置になる。
まだ続く!!