前回の続きです。

そして日本的エートスの問題、これが重要です。エートスとは習慣とか特徴とか訳されますが、アリストテレスによればエートスには三つのカテゴリーがあって、フロネシス(実践的な技術と知)、アレテー(美徳)、エウノイア(聞き手に対する好意)に分けられます。説得法の三つの条件の一つで、エートスの他には、ロゴス(論理)、パドス(情念)とあります。

社会学ではこれが三つに分かれて、生活態度、心的態度、倫理的態度となります。

ソシアライゼーションした人間が当たり前に身につけている生活の形式。

しかしある行為を繰り返しているからといって、それはエートスにはならない。意識的に主体的選択によって選び出されたものがエートスとなる。

そして何によって選択するのか?という基準が倫理、正しさであり、誰かに言われたからとか、恩賞をちらつかせてとか、罰によって脅してとか、そういう外部からのプレッシャーによって選んだものもエートスとは言えない。これはマックス・ウェーバーが言った事です。

日本というのは沖縄を除いて昔から血縁社会ではありません。養子をとって跡取りとするとか、どら息子よりも番頭さんの方が仕切っているとか、家社会であったわけです。トップダウン的な決定というよりも、共同体に所属する発言力のある人間による合議によって物事を決めて来たというのもそうだし、そのせいで一歩も前に進まなくなっている現状の政治なんかもそれが如実に現れている。これは何を守っているのかと言うと要するにモノを守っていると言える。家(共同体)に蓄積された財を家(共同体)に寄り添っている人間が支え合うという図式です。

家名とか家柄、店の評判と言った感じの、形に表す事の出来ない名誉のようなものも、その共同体の利益に繋がりますのでそれもある種の財であると言える。忠誠心によって結束し、共同体から出てしまった人間に対しては簡単に排除する。

だから人間関係が希薄になったから社会が荒んでいるという、昔は温かかった「オールウェイズ」的なノスタルジーは相当嘘が混じっている。モノではなくココロだという懐古主義はそんな時代だった事は一度もなく、そういう絆が必要な社会に変化しているという事によってみんなが求めているに過ぎません。

大陸系の文化というのは概ねどこでもモノ要するに土地とか金とか、そういう家的なアセットはいざとなれば役に立たないという事を知っている。なぜかと言えばジェノサイドのような悲劇を共有しているからです。ユダヤでも中国でもアセットよりもネットワークを重視するという考え方が根本にある。だから血縁ネットワーク、家族を大切に感じる所に大きな違いがある。日本程家族関係を大切にしない国は無い(それが悪いというわけではありませんよ)。

しかし最近の日本はモノに対する信頼が急速に揺らいでいる。そして教育でもモノではないココロだと教えている。大人もそうやって子供を啓蒙しちゃっている。実際社会も不景気が続き、問題点が是正される可能性も感じられず、金とかモノとかにこだわっていても、何も満たしてくれない時代に変化してしまった。モノが溢れているが故に、モノの輝きが失われている。そういう時代に対応して、子供にしても大人にしてもネットや携帯で必死になって絆を求めネットワークを作ろうとあくせくしている。

モノからココロへという言い方というのは、60年代後半からすでに始まっていて、これはフォード主義からポストフォード主義の流れで、ヨアヒム・ヒルシュ的に言えば消費主義パラダイム、ようするに仕事にやりがいや自己実現を求めましょうという方向性にすでに含まれている。情報化社会のからくりもそこにあって、モノからココロというお題目を利用して資本主義が回るという構造によって散々搾取しつくしてしまって今があると言っても過言ではありません。

金融の世界も実物経済と先物や株式市場を切り離して、モノと情報を切り離してそのギャップを利用して鬩ぎあうという構図ですし、そもそも資本主義という方向性自体、ザインとゾルレンの峻別、ある状態とあるべき状態をわける事によって駆動出来る代物です。

ようするにコンビニの店員にしろ洋服屋の店員にしろ、今ある状態、要するに店に品物が並んでいる状態が目の前にあっても、それが本来誰のものであるべき品物であるのかという事をわかっているから、こういう状態が上手く回る。

今目の前に自分の手元にあるからと言って自分のものだと主張し始めたら資本主義は駆動しない。それが本来経営者のものであるとか、将来金を払って買ってくれる客のものであるという事が自明であるから回るわけです。

権利を主張してそれが認められなければ著作権にしろ、土地の所有権にしろ、意味がなくなる。貨幣だってそもそも1000円札は1000円分のモノを買える権利であるわけで、札自体に価値があるわけではない。単なる紙であってみんながそれを信頼するから単なる紙が1000円札として機能する。

しかし日本ではそのある状態とあるべき状態の峻別というのが、多分元々ネットワークよりもアセットであった社会というのが関係しているのだと思いますがいまだに上手く峻別出来ていない。だから国民の税金であるはずの金を自分達のものであるかのように勘違いして利権に邁進している役人や政治家が跳梁跋扈して止む事がない。共同体の中で所有したモノは自分のものであるかのように振る舞うし、昔はその為に奉公していたりも出来た。べき論を騒いで話が進まないのもそこに原因があるのかもしれない。金だけじゃないとかいいながら、金にこだわっている輩ばっかりという風になる。繰り返しますが悪いと言っているわけじゃありませんよ。

このモノと情報をわけるという事によって何が可能になるのかと言うと、実体での奪い合いを情報化するので、実体での争いを生み難い構造に変わる事が出来る。自分の手元になくても自分のものだと主張出来るわけですから、それを手元に置く為に鬩ぎあう必要が無くなる。

まあそれでも争いはあるのですが、大きな争いに至らないように権利をめぐっての情報戦になってくる。グローバル化なんかはそういう機能も持っている。本当に世界との物理的距離が縮まっているわけでも、元々人が勝手に引いた恣意的な線である国境が無くなっているわけでもなく、情報化によって近いと錯覚出来たり、元々ありもしないものを障壁が無くなったかのように錯覚させる。

権利を握って実体をコントロールする。情報によって実体を動かす。これはモノにこだわって悲劇を繰り返して来た人類が生み出した一つの叡智であるとも言える。

もちろん悪しき面もある。情報によって実体をコントロールして、バブルにしても冷戦にしても、実際の実体とは関係なく、脅威や不安、そして根拠なき熱狂や失望を利用して搾取する。ようするにココロを情報で支配してコントロールする。

日本でのこの図式というのは非常に問題があって、悪しき面はもちろんの事、例えば公私混同という言葉に象徴されるように、仕事とプライベートをわけるという発想の都合のいい所だけを輸入して使っている。責任逃れに使う。政治家なんかがよくほざきますし、総理大臣でさえそういう事を言う始末。麻生にしろ小泉にしろそういう事を言う。靖国問題の時のバカマスコミのように公的か?私的か?と言った下らない図式で切る。

仕事というのが言わば仕事をしている公人であり、本来の状態というのがプライベートであってこれを切り離して責任回避をする。ある状態とあるべき状態の悪用です。公私混同というのは本来私情を仕事に持ち込まないとか、仕事の問題を家庭に持ち込まないとか、そういう類いの話であって、公でも私でもその人はその人であるわけで、仕事の時は仕事の時で、本当の自分はそんなに悪い人間ではないとか、仕事としての失敗でその人個人のパーソナリティまで否定する事はないとか、そういう言葉を利用して責任逃れをする輩が大勢いる。本当の自分が他のどこかにいると錯覚して自分探しをする人が多いのもそこに理由があるかもしれない。

今回のサブプライムに熱狂した金融プレーヤーも仕事という状態にかこつけて責任逃れをして、散々リスクをとったあげくリターンをあげれば莫大な報酬を得るくせに損失すれば会社が潰れるくらいで責任を回避出来てしまう。リスクはただ単に末端を直撃するだけ。こういう悪い所は真似する必要なんてないのに、この国ではそればっかりです。

マネーゲームだと批判して、実体経済に戻れと言う。しかし何を言っているのかと言えば、モノではないココロであると言ってしまう。そこに情報化社会の罠がある。違う。この国で大切なのはヒューマニズムでも絆でもない。そろそろ気付きましょう。モノにこだわれと。この国ではそれ無くしてココロは宿らない。

それはモノにこだわれば消費が増えるので経済が上向きになるなんていうつまらない話じゃありませんよ。日本的エートスの問題です。

先程から悪いと言っているわけではないと繰り返しましたが、日本というのはモノにこだわる家社会であったとも言いました。肝腎なのはそうであるにもかかわらず、ジェノサイドの歴史を繰り返して来たわけではないという事実です。

戦国時代のような時代もありましたが、平和であった時代も結構あったわけです。モノにこだわっていても、争わない叡智があった。分け与えたり、お互い様っていうのがあった。

モノにこだわっているからこそ大切に扱いリサイクルしていた。江戸時代のリサイクル文化なんて凄まじいものを感じます。髪の毛、うんこ、折れた下駄、かけた茶碗、ありとあらゆるものをリサイクルして使い、ゴミなんて殆ど出なかった。僅かなゴミを、当時のゴミ屋は金を払って引き取っていたくらいです。なぜかと言えばその僅かなゴミで埋め立てた埋め立て地が自分の土地になるからです。ちゃんとインセンティブが内蔵されていた。当時の叡智を取り入れればあっという間に日本は環境先進国ブッチギリのナンバーワンになれるでしょう。

だいたい現代社会はどこかで何かを買うとする。それをそのままリサイクルショップに持って行くと、値段は早くも半額ぐらいになっちゃう。買っても売っても搾取される構造です。これではモノを大切にするなんて出来っこ無いのも当然といえば当然で、リサイクルしたってバカバカしいとなる。

元々あった日本的家屋に見られるように、モノを求めて奪い合いのような事態を想定したような作りではない。まわりを信用出来るから無防備な状態で平気の平左だったわけです。それは実際に犯罪が無かったとか言っているのではなくて、少なくとも気を抜くと奪われるという事が無いだろうという信頼がベースにあったんだろうと想像出来る。悪く言えば呑気、よく言えば平和的だったのでしょう。

なんで昭和30年代のノスタルジーブーム的絆があったのかと言えば、みんながモノにこだわってモノが輝いていたからに他なりません。だからそれを確保する為に共同体的温情主義も機能していたし、共同体の中での絆もあった。モノを必要としないのに絆的なものを求めても、目的のなくなってしまった手段でしかない共同体がそれを担保出来なくなってしまったわけです。空洞化空洞化と喚き散らしますが、もちろん流動化によって破壊したという事もあるのですが、一番の理由は目的を失っているからです。

一神教的文化圏や中国のように王朝の交代によって国のレジームが変わり続けて来た国には、天命とかがある。だけど日本の神様はどこに宿るのかと言えば、モノに宿るわけです。天皇がそれを担保していた時代はとっくに終わっている。仏教も元々の姿とは似ても似つかないいい加減というか、寛容と言うか誰もが適当に付き合えるように換骨奪胎してカスタマイズされている。

一神教的神とか天命の無い国で、ネットワーク的な絆を求めてもその絆を担保する信頼みたいなものが消えてしまえば絆にはならない。仕事に対してだって、召命、ベルーフとかコーリングという感覚が一神教であれば可能ですが、それが何もなくなっている国で天職と言っても天の声が聴こえないわけですから、天職もクソもなくいつまでもこれでいいのか的な自分探しが止まらない。

もちろん天職みたいな言い方というのは、非常に危ういものでもあり、同時に階級的な宿命論を受け入れさせる為に利用されているという所もあるので、自分を探す自由があるという事は重要な価値なのですが、何を探しているのか?というと宿命を探しちゃっているような所が今現在もあるわけで、モノにこだわらなくてもいいけれど、何の為に何を探しているのか?それすらもわからないから彷徨うというよりは、何らかの目標に向かって一つ一つ突破して行くモチベーションを持つのにわかりやすいのがモノであるとも言える。

自分の若い頃の話なんかを引き合いに出すのもおこがましい話ですが、自分は最初は料理人なんてちょっと場つなぎくらいにしか考えていなかった。料理なんて全くのド素人でしたし、なんにもわからないし、あんまりやる気はなかったけれど、寮もあるし食事もただだし、着る物(白衣)も靴も支給されるので、とりあえずと思ってやっていた。そしてもちろん欲しいものもいっぱいあった、洋服とか、靴とか、レコードとか、楽器とか、そういうものが欲しいからとりあえず働いていた。

仕事はキツいし、親方は恐ろしいし、何度辞めようかと思ったか数えきれませんでしたが、もちろん辞めると口にすると殺されそうだと思ってビビっていたというのもありますが、欲しいものを買いたいし、お金も欲しいしと思って働いていたら、いつの間にか料理の仕事も悪くないなと思えるようになって、気付いたら職人だった。

その事自体がよかったのか悪かったのかは今の時点ではよくわかりませんが、人間万事塞翁が馬、風が吹けば桶屋が儲かる、禍福はあざなえる縄のごとしじゃあありませんが、何がどう転がって行くか人生はわからない。そのモチベーションとなるのは、神のいないこの国では、モノへのこだわりというのは結構重要なんじゃないかと思えるのです。

それをモノじゃないココロだとか、金にこだわるなとか、仕事よりプライベートとか、そこそこの生活でいいじゃないかとか、仕事にあくせくするのはつまらないとか、もちろんその言葉自体正しいと思いますが、そういうのは金をいっぱい持っていて生活には何も困らない人であるとか、滅茶苦茶仕事に全身全霊を注ぎ込んで、あるとき人生を振り返ってそう思うとか、そういう人がある境地に達して、本当の価値は何か?という事を言うから説得力がある話なわけで、最初からモチベーションを失うような話をあんまり叩き込むのはどうなんだ?という気がする。ヘタすると大学生とか高校生の時点でそう思っちゃっていたりするわけで、もっとガツガツと貪欲に突き進むモチベーションももう少し必要なんじゃないかと。

欲しいモノがなくなるというのは、近代が成熟した証しでもあるので、それは多分どこの国でも近代化を遂げれば避けられない方向性であるのは事実です。それにある程度消費社会が成熟しているのにモノにこだわり続ければ、消費に煽られながら生きるという風になりかねないですし、環境がもてはやされている現在そういう時代に逆行するような方向性にもなりかねない。

大きな物語を失ってしまった現在、モノの消費は単なる動物化したデータベース的記号の消費になっちゃっていますので、そのサイクルにとらわれているが故に中身を失っているという所もある。

しかし現状のモノを否定しココロを推奨する様々なものいいはちょっとズレているような気がする。本当にモノにこだわっている人間は、モノを大切に扱うし、大量消費のサイクルとは別の所に価値観も置いている。環境保護の為に必要な価値観だって、モノへのこだわりには含まれている。

自分はモノにこだわる世代なので、例えば車とか洋服とか、レコードとか、そういうモノの輝きみたいなものを今でも感じる事がある。すげえ!欲しい!!と思うわけです。もっと昔に遡れば自分がガキンチョの頃は、プラモデルを作ったり、モノを収集したりと言った感じで、今で言えばちょっとオタク的要素のある趣味に子供達がみんな熱狂していた(本当はオタクというよりコレクター的趣味だと思いますが、ちなみにもの凄く単純に言うと、モノを収集するのはコレクターで、オタクとはちょっと違う。オタクというのは収集するというのもあるのですが情報で遊ぶ人達)。ロボットとか戦車とか戦闘機とか戦艦とかスーパーカーとか、そういう現実世界から遠いものへの憧れだけではなくて、実際に存在してそのへんを普通に走っている車とかバイクとか、そういうもののプラモデルを作っている人もいっぱいいた。

今はそういったモノにこだわっている人は痛い奴だとか、マニアックでキモいとか、そういう感覚が増えていて、実体よりも情報の方に金も流れている。携帯に凄い金を使っているわりには、実物のモノにはあまり興味を持たない。車も何でもいいし、興味もないというのが増えている。

モノの凄さに感染して、洋服にしろ車にしろこだわるという事は、それに伴うネットワークやコミュニケーションというのが必ず必要になる。古着屋に古着を買いに行けば店員と仲良くなってコミュニケーションするとか、車好きの友達が出来るとか、レコ屋の店員とマニアックな話で盛り上がるとかがあったわけで、ネットで通販とか、そのへんのレンタルショップじゃそういうのは有り得ない。目的がないのに絆だけを求めて、中身が何もないので疑心暗鬼というパターンになるよりは、面倒くさいけれど濃密なコミュニケーションがあるほうがいざという時の安全装置になる。

まだ続く!!
前回の続きです。

この問題は大人やわかっている人間がもっと他人と関われよという所にキモがある。一つの糸口がある。そして日本的エートスに必要なものがなんであるのか?という問題、このへんが鍵になるんじゃないかと。

弱者救済図式や自殺してしまうような人がこれだけいる状態、そして例えばアキバの事件のような問題に関して、政府に何とかしろとかいう前に、何でまわりでわかっている人間がもっと何か言ってやれないのか?

人殺しをするまで追い込まれている人間に、そこまでやっちゃマズいよと言う事を言ってやれる人間や、一緒にそういう状態を分かち合うような人間、そして甘ったれてねえでやる事やれよとビシッと説教するけれど、困っている時には可能な限り助けてくれるような存在がまわりにいないのか?という問題の方が本当は深刻な気がする。

今の生活に勝る価値は無いというプライオリティのつけ方に対して、後で後悔するから考え直せと、その優先順位のつけ方は間違っているから考え直した方がお前の為になるという事を言ってやれる人間がまわりにいるのか?

例えば沖縄なんかは失業率や離婚率がもの凄く高いわけですが、だからって無法地帯になっているってわけじゃない。むしろ本土の人間にとって羨ましいと思えるような包摂があるわけで、貧困が若者を直撃するという言い方に原因を求めるのも間違っていて、沖縄の人達がみんな裕福なのかと言えばむしろ逆であって、貧困であるから幸せになれないという話も本当はちょっと問題点がズレているような気がする。

何で派遣切り捨てのような状況に投げ出されて、しかも孤独に陥っている人がいっぱいいるのか?やっぱりわかっている人間が厄介だと思われようが、うるせえよと思われようが、深く関わり合いを持とうとコミットする事を諦めているという状況も問題じゃなかろうかと思う。

事ここに至れば国家を呼び出して何とかしろと言うしか無いという部分は確かにあります。わかっていると言ったってみんな自分の生活もありますし、それを投げうってまで救済するなんて事が出来る人もいるでしょうけれど、万人に出来る事ではない。しかしその前段階で国家を呼び出して何とかしろと言う前に、当人が切羽詰まる前に、わかっている人間が何か言ってやれよという事です。

せめて自分の目の前にそういう人がいるのであれば、ある程度コミットしてうるせえ奴だと思われても言ってやれよという事です。時には甘い事言ってんじゃねえよと夢を叩き潰してやる事も重要だと思います。

応援していると言っているだけで何も言わないで放置するよりは、場合によっては関わりを持つという事によって、いろんな可能性も生まれる。本当に甘い夢を見て、自分なりに頑張っていると自己満足しているだけで、単なるモラトリアム状態にある人間の目を覚まさせる可能性もまずありますし、そういう事を言われる事によって何クソとブレイクスルーする為のモチベーションにもなるかもしれない。

もちろん夢なんて誰も持ってないんですけれど、というのが今の派遣の実体でもあるわけで、そういう人に甘ったれるななんて言えるのか?という問題があるわけですが、それだって一直線で派遣にまで行き着いたってわけではない人が結構いるはずで、そこに行き着くまでに、はたしてそういう生き方をしていると後々後悔する事になるという事を、人生の様々な選択の場面で誰かが言ってやれたのか?という事に疑問を感じる。

自分は仕事柄、相当跳ねっかいりの厄介者の若造を何人も育てたので思うのですが、学校や家庭から見放されて、何をやっても続かない、警察のお世話になる、見た目もまともには見えない。そんな奴が職人には結構多い。

もちろん辞めちゃう奴や仕事が出来なくて使えない奴といるにはいますけれど、ある程度、諦めずに接していれば比較的言う事を聞くようになるし、数年続けばいっぱしの職人に成長して行けるような糸口も掴む事が出来ていると思う。

だから大人やわかっている人間がまわりでコミットして嫌われても構わないから受け皿となる事をやっていれば、自分のような人間でさえ何とかなるんじゃねえか?と思えるわけですから、もっと教育のスペシャリストや、人を育てるプロが関わったり、人格者や経験豊かな人、もっと親密な関係性を持つ人が関われば、多くの人はある程度それだけでセーフティネットになるというか、事前の話なのでセーフティネットという言い方もおかしいのですが、結構どうにかなるんじゃないかという気がする。

それで思うのはある程度わかっていない奴には言ってやらないとわからない。言ってもわからない(聞いていない)からといって言わなければ絶対にわかるようにならない。必ずわかっていないのに「わかってるよ」とわかっていない奴は必ず言う。だけどまわりがわからせる事を諦めたら、もうそいつがわかるきっかけを掴むチャンスは無くなってしまう。

学校なんかは簡単に切り捨てて退学させちゃいますが、本当つくづく捨てるなよと思う。もうそういう段階から切り捨てというのは始まっている。内定取り消しを取り消された当人ももちろん、学校関係者なんかが騒いでいますが、その前に学校だって切り捨ててるじゃねえかと思う。

もちろん内定取り消された子はその子に原因があるわけではないので、悪さして退学になる人とは違うというのはそりゃそうなんですが、内定を取り消されるより、学校から排除された子のほうが、多分苦しい展開が待っている。

親とか教師が劣化しているとかそういう話じゃなくて、斜めの関係性が無くなっちゃっている所に問題がある。これは社会が空洞化し、地域性が壊れてしまい、ご近所付き合いも無いし、他人の子供とコミュニケーションしていると犯罪者扱いされちゃうような社会になっちゃっているので、昔のようにというわけにはいかないのはわかるのですが、親や教師以外の大人との接点を持つ機会が減っている所に問題があるような気がする。

いろんな大人にいろんな事を言われれば、いくら話を聞いてなくたってどこかで引っかかる可能性はあるわけで、気付きの機会が少ないなと思う。これは大人と子供の関係でなくとも、先輩後輩の関係でもいいし、音楽好きならば、もっと音楽好きで詳しい人との、わかっていない人とわかっている人との接点でもいいし、友人関係、恋人関係、そういうのが消えている(変わっちゃっている)所に問題もあるような気がする。知識だけならネットで十分ですけれど、コミュニケーションというのは単にそれだけではない安全装置もある。

そして一番肝腎なのは自分が座席に座っているから結局若者の排除に加担しているという事にいかに敏感であるかという所も重要かもしれません。説教するのはいいけれど、お前が邪魔なんだよって話をわかっていない輩も多い。

座席を分けてあげる事をする気もないのに、ただ単に自己責任だと言ってしまうのも狡いし、弱者を救え(自分は譲らないけれどね)というのも狡い。

どう考えたって就職して何年も経っている人間と、何の技術も無い人間では、前者の方が仕事が出来るに決まっているわけで、転職だってやる気になりゃ出来るわけですから、下が育つように座席を譲って、流動化を受け入れて力量で勝負するという選択を取る勇気も必要なんじゃないかと思う。

もしくは基本的に下をある程度育てたら、居座るという事は下の成長を妨げる事になるわけですから、身を引いて新たな場所で勝負する必要があるんじゃないかと。

外に出て勝負する力量が無い人間が、たまたま先に生まれたというたったそれだけの事で、座席に居座って排除に加担しているのだとすれば、それは最悪です。

そういう事を自覚出来る人は、排除に加担しちゃマズい。競争しろなんて絶対に言う資格はない。座席を譲るという事が出来ないのはわかりますが、分け与えるという事を考えないのであればそういう人こそ直ちに切り捨てるべきだろうと思う。

自分は同一労働同一賃金という物言いに対しては結構違和感を感じる男です。多分こういった物言いは、派遣とかバイトとかパートの方々から正社員に向けた物言いなんだろうと思うのですが、そんなわけねえだろと思う。同一労働じゃないに決まってるじゃないかと。背負っている責任も違うだろうし、持っているスキルだって違うに決まっているだろと。

しかし仮に派遣やバイトやパートで間に合っちゃうようなポジションに正社員の待遇で居座っている輩が本当にそんなにいっぱいいるのなら(公的セクターは結構多そうに見える)、非正規の賃金を全部上げるという事が不可能なのだとするならば、これも直ちに非正規化しろよと思う。どう考えてもフェアではない。

競争する為には競争出来る人間にならなきゃ、勝つ方は決まっている。結局社会が空洞化すれば自分の生活だけを守っていてもそれすらも守れなくなる。今の日本の有様はそういう本末転倒野郎が多過ぎるからに他なりません。いずれ社会に助けてもらう時だってあるでしょうから、社会の保全が自分の生活を守る事と不可分であるという事に気付く必要がある。

例えば株主至上主義だという言い方があります。数年前にあった、JR福知山線の事故の時に株主至上主義の体質がこの大災害を招いたのだという下らない話を言う輩が結構いた。だけどこの事故が起こってから株価が鬼のように下がって株主は損しているのに、株主至上主義って話になる。逆じゃねえか?って感じがするわけですがそういう事を誰も言わない。

この会社が本当に株主に利益を還元するという事を優先させていれば、事故が起これば本末転倒な訳で、それでは株主至上主義というよりも責任を回避しているに過ぎません。こういう本末転倒スキームを間違って解釈している構造がいっぱいある。

資本主義による弱肉強食の暴走にしたって、エゴであるからそうなっているという言い方ばかりですが、エゴとか言ってるけれど、みんな損してるんですけれどって話で、本当にエゴを持って合理性計算すれば、弱者を食い物にして搾取していけば経済は縮小再生産にしかならないわけで、それではエゴも貫徹出来ない。

自分の生活が大事だと言うのはそりゃそうなんですが、それが自分の生活を守る事に繋がっていないではないか?という所に敏感になれるようであれば、社会をぶっ壊しても企業が生き残れば知ったこっちゃないとか、俺が生き残れば派遣なんて知るかとか、そういう考えは通用しない。

それは自分にとっても自殺行為に等しい。この本末転倒状態をわかっている人間が背に腹は変えられないという人達に向かって言ってやれていないというのが今のこの国の問題なんじゃなかろうかと思うわけです。

もちろん人は多くが自分で経験して学ばないと気付かない、後悔しないと学ばない。後悔しても忘れる。後悔しないで済む奴は気付いている奴なわけで、そういう奴には言う必要も無い。

だけど無駄かもしれないけれど、10回言って、1回でも1%でも伝われば、それは全く無駄かと言うとそうとは言えない。そうやって人はずっと社会を営んで来た。最近の若者はなっとらん!大人はわかっちゃいない!!と。

人はあるきっかけによってオルタレーション、翻身するという事がある。今まで口を酸っぱくして同じ事を言っていたのに、全く伝わらなかった人間が、彼女が出来るとか彼氏が出来るとか、心に突き刺さる本を読むとか、仕事の面白さに気付くとか、素敵な景色を見るとか、もっと賢い人に助言を受けるとか、何かのきっかけによって変わるという事が有り得る。

就職すれば一撃で仕事の厳しさを理解出来るわけですし、ちょっと経つと今までいくら言ってもわからなかった人間が、後輩に仕事の厳しさなんかを説教していたりするわけです。自転車の危険性も車に乗れば一撃でわかるし、車が危険だという事も、事故を目にして気付いたりする。

その時にそれまでいろいろ人に言われた事やわからなかった問題の構造が理解出来たりするわけで、100回言って伝わらなくとも、あるときをきっかけにして翻身し、その100回分の物言いが糧になる可能性だってある。

それをするのが大人やわかっている人間の役割なんじゃないかという気がする。最近はそれを放棄している。国家にパターナリズムを求めるよりも、身近な所で煙たがられても、言うべきことを言う。バカ保守みたいな図式で吹き上がっているタコが結構いる割には身近な所はないがしろにして言うべき事を言わない。そして言うからにはキチンとケツを持ってやる事も忘れちゃマズい。言いっぱなしというのが始末が悪い。

M-1というお笑いのイベントがあります。さすがに今年は見ませんでしたが、あれを始めたきっかけを島田紳介が語っていたのが非常に印象に残っています。彼が言うにはもちろん建て前という事なんでしょうけれど、その理由は二つあって、一つは自分が世話になった漫才というものに対して恩返しがしたいというのと、もう一つは諦めろというメッセージを込めていると言ってました。

10年という線を引いて、それで上にあがって残れないようなら、才能が無いのだからその事に気付いて辞めろという事だそうです。才能がある人間は才能が認められる場があれば幸せになれる。才能の無い人間でも才能が無いという事に気付けば次の人生へとシフト出来るので幸せになるチャンスは十分ある。しかし才能がなく気付く事も出来ない人はずっと幸せになれない。そこに何とか伝えたいと思って始めたんだそうです。まあ中々伝わらず簡単な話ではないと言ってましたが、これは非常に重要な事を言っているなあと思ったものです。

まあ才能が無い事に気付かないでいられるという事はある意味本当は幸せであるとは言えますが、生活出来るのか?という現実的な問題を考えればまわりが気付かせてあげないと、あるとき気付いたらもう手遅れでしたという話になってしまいかねない。選択肢をキチンと提示出来ていない状態で自己責任だというのは違うような気がする。どうせ話を聞いていないというのはそりゃそうなんですが、そういう事に諦めてしまっているような気がする。それって社会と呼べるのか?

大人はわかってくれない、これは必ず子供の頃に感じる感覚だと思いますが、最近は物わかりのいい大人やわかっている人間が増え、人と関わる事を避けるような閉じた社会になって来ているというのもあり、自分の親や友達や恋人には深い話はしないけれど、ネット上での匿名の関係性の知らない誰かには相談するという事態が起こっている。その事自体別に悪い事ではないと思いますが、人間関係の希薄さ故に、繋がりを失い個に分断された社会になっている。

幼い頃から子供の尊厳を叩き潰すような事をするのはもちろんマズいと思いますが、ある程度の年齢になった時には、もしくはもうすでにある程度の年齢になっている人間に対しては、わかってくれなくて結構、お前が間違ってんだよ!と嫌われる事も覚悟の上で、うるさく言う必要がある場面もあるのではないかと思うわけです。そしてそれとセットで出来る限り協力をする。

人はどんなに頑張っても自分一人で自分を肯定するという事は出来ません。その事がわかっていないせいか、自己満足が溢れかえっている。自己満足というのは重要なファクターではあります。所詮、何をするのも自己満足だと言っちゃえばそりゃそうです。オシャレするのも勉強するのも、自己満足に過ぎないと言える。

しかし自己満足だけしていても、それは自分の肯定にはつながらない。自己満足だからと言っちゃえば何もかも虚しくなる。俺は俺を肯定するという事は出来ないわけです。もちろん言うのは簡単ですが、自分一人でそれを言っていても虚しいだけです。人に承認されないと自己満足でさえ虚しいだけのものでしかなくなる。虚しいだけのものであるのにモチベーションを保つのは難しい話です。

その為には他者性がなくちゃ出来ない。人と関わらないと本当の肯定感は得られない。別に何とも思ってないのに面倒くさいから口だけで承認を与えていても、それは内輪受けのの島宇宙にひきこもって承認合戦を繰り返し、君は凄いと慰め合っているようなもんで、拒絶される可能性があるからこそ承認された時には自己肯定も出来る。いつでも口だけで承認されるとわかっていれば、それは無視されているのと大差ない。

つづく!!
年末年始の強硬スケジュールがたたって、風邪でくたばっていた三日坊主でございます。寝込んで動けないとまでは行きませんでしたが、気が抜けたのかもしれません。油断しておりました。

昔は何とかは風邪引かないの言葉通り、3年に1回くらいしか風邪なんて引かなかったのですが、最近は一年に1回2回は引いてしまうようになってしまいました。風邪を引いても基本的に仕事を休んだ事は今まで一度も無いので、熱が40度を越えていても平気なんですが、風邪を引くペースが若い頃と比べて増えている事には、鍛え方が足らんと反省している次第です。

なんか話が途中のまま放置しちゃいましたが、少し気力が戻って来たので懲りずに続けます。いざ!!

この問題の処方箋というのは簡単ではありません。が、全く無いというわけでもない。派遣切りで切られる事によって、死ぬような状況、もしくは犯罪に陥ってしまうまで追い詰められないような救済という事はまず大前提です。しかし派遣で切られた人々全員を物理的に救済するという事は難しい。法改正によって派遣の問題に対処出来たとしても、負ける人をなくすという事もまた出来ない。格差を無くす事も出来ない。そしてもちろんなくす必要もない。

しかし今回のように横一列で責任者が責任も取らずただ派遣を切り捨てるような話はやり過ぎです。経団連的ものいいで、仕事があるだけありがたく思え的な言い方や、オリックスの宮内なんかが言ってましたが、パートと無職どちらがマシか?みたいな言い方。こういうのはある意味恫喝で服従させている。派遣のような仕事の形態を受け入れなければ、痛い目に合うのはお前らだと言っていたわけです。

例えばそこには一定の真実が含まれているとしても、そういう恫喝で服従させながら、都合が悪くなると横一列で切り捨てるというのでは、もうそれは人として扱っていない。人が人に対して最低限踏まえなければならない常識が欠如している。仮にその人が怠け者であるとしたって人間であるわけです。

受け入れなければ痛い目に合うのはお前らだと恫喝し、それを多くが受け入れた。受け入れたにもかかわらず真っ先に痛い目に合わせる。受け入れなければ痛い目に合い、受け入れてもいざとなれば痛い目に合う。これではどうやったって痛い目に合う人達は逃れられない。

ワークシェアリングなんて話を事ここにいたってようやく出して来ましたが、これからの時代企業が生き残って行く為には何が合理的かという事を普通に合理性計算出来る人間なら、確かに目先の短期的利益を求めて切り捨てるというのは短期的合理性はあるでしょうけれど、そういう事を容赦なく行なえばネガティブなスティグマが企業に張り付いてしまうわけですから、多少目先の利益が目減りしたとしても社会の保全にコミットメントを持っている企業というイメージを宣伝した方が先々を考えれば合理的なんじゃないかと思うわけですが、そういう合理性計算と言うか長期的な生き残り戦略みたいなものが全く感じられなかった。

ようするに短期的な自分が所属する間だけ責任を回避する事が出来れば、先々の事なんて知ったこっちゃないという振る舞いにしか見えない。企業のトップを勤める連中のいちじるしい劣化を感じざるを得ません。

人件費の高いこの国で雇用を創出するのが難しいという事であるとするならば、いかにしてそういう人間を動機付けるような社会を構築し、諦めて絶望しないような受け皿を構築するか?そういう事を考える事とセットであるのが当たり前の話であって、ただ世の中は弱肉強食でジャングルだという事を、政府によって権益を守って貰っているような連中が言う事ではない。

そうなると人間を人間扱い出来ないクズは人間扱いする必要はなしって話になりかねない。どういう事かと言えば、殺せって話になる。人間を人間扱い出来ないムシケラに人間の法を適応する必要は無いという論理がある種の人達のとっては正当性を持ってしまう。

それならまだいい。ぶち殺されるまで行くのは行き過ぎだとは思いますが、そういう連中は自業自得なので、澎湃として怒りの声が沸き起こるのは悪い話ではない。しかしそれが実際権力を握っていて手が届かず、改革される可能性が無いと、例えば全く関係のない所に向くような排外主義とか、保護主義みたいな、非常に危険な道に突っ走って行きかねない。

そういう社会の一歩手前までもう進んでいる。実際クソ保守みたいな頭の悪い連中を支持している人もある時期結構な数いたわけで、一歩手前なんて呑気な事も言ってられないような状況もぼちぼち出て来たりするようにもなっている。

もう無関係の人間をぶち殺すという事件がすでに起こっている。自分達の声を政治的アリーナに乗せる術がないと自覚したとき、暴力によって強引に言説空間を切り開いてでも自分たちの発言を政治的アリーナに乗せようとする手段がテロであるわけで、当人にその意識が無くとも帰結としてはそういう風に見えかねない事件がすでに起こっている。そういう事件に対して共感出来るような人が一定数存在する社会になってしまっている。

オウム事件でも、神戸の酒鬼薔薇事件でもいいですが、00年代に入る前は少なくとも理解出来ない、なぜこのような事が?みたいな共通感覚というのがあったはずですが、ここ10年くらいで急速に共感出来なくとも、例え間違っていたとしても、なぜそういう事が起こるのかがある程度わかってしまうようになってしまった。

9.11のときの構図だって、起こった直後は、なぜそこまでして?みたいな感覚が一般的に残っていたと思いますが、もうすでにアメリカなるものへのルサンチマンみたいなものが、かなり共感可能になってしまっているという事もあって、あの事件が起こった図式も多くの人が理解出来るようになっている。

これは情報を知って賢くなってそうなったという話であるのなら、それは悪い事ではないとは思いますが、それももちろんあるのでしょうけれど、理解出来るように境遇や環境が変化してしまっているせいでもある。他人事ではなくなっている。

他人事的にしらばっくれているような感覚というのは間違いなく問題ですので、問題意識を持つ事は重要かもしれませんが、厄介なのは処方箋がないと言うかあったとしても不可能性を感じざるを得ない状況な訳で、問題があってわかっているのに、それを何とかする事が出来ない。ようするに自分達の声や共感覚が政治的アリーナに乗せる術がない。このままでは非常にマズい展開になっている。

しかし派遣法を改正すれば解決するのかと言えば、企業が国際競争に生き残る為に、利益を追求する事は否定出来ない。それを考えず一律に俗情に媚びて派遣法改正という話に落ちてしまえば結果的にもっと資本が海外に逃げて行ってしまい、もっと悲惨な状態になりかねない。外貨を稼ぐという事がいかに重要な事であるのか?外貨を稼げない国々を見渡せば一目瞭然です。

そういう意味でも俗情に媚びた横一列の派遣切り捨て内定取り消し可哀想報道は酷過ぎます。ワークシェアリングなんて話も本当にそういう方向に行ければまあそれはそれで結構な話ですが、収入が減って困る人達も確実にいるわけで、コミットメントの度合いの低いこの国で、はたして合意形成出来るのか?出来たとしても時間がかかりそうな気もする。だから弱者救済図式などに当てはめて、騒ぐのは別にいいとしても、具体的な救済策が何もない状況になってしまわないように、慎重に吟味しなきゃ危ない。

ここに困っている人がいるではないか!それを放置しておいて、何が正義だ!!と言った感じで誰もが正しい道だと思っても、じゃあどうすればその正義が貫徹出来るのかと言うと、前回の大恐慌の時には戦争になっちゃったわけで、それでは話になりません。

自由だと言ったって、ただ単に優勝劣敗弱肉強食になってしまい、本当にそれならまだしも、制度による不公正があり、それが是正される余地もないという現在の有様もやっぱり話にならない。

この鬩ぎあいというのは常に旗印として使われるものの、必ず権益に絡めとられている事に敏感にならないとマズい。政府に何とかしてくれという言い方だけでは必ずそういう問題が出てくる。

今回の派遣問題で盛り上がった派遣村の方々も数年前に彼らの活動を知ったとき、そしてロスジェネ論壇なんかの物言いを聞いたり、新しい運動を起こしている若者の姿を見ていて、希望のようなものが感じられた。

従来の古い運動系や組合系の経営者側とのなあなあの体質や、排除して連帯し実現不可能な理想を吹き上がっている頭の悪い旧来のリベラル左翼的な所とは別な所から、新しいムーブメントみたいなのが起こって来るという事に凄い希望を感じた。

しかしそれが何となく今回の顛末をみていると相当危ういものが感じられる。旧来のバカリベラルや役人の権益に絡めとられてしまっている。政治的アリーナに乗せるには動員が必要で動員する為には、ポピュリズムを使い汚れた連中であってもそれが動員になれば言説空間を切り取る事が出来る。そういう意味で手段として必要なのはわかる。政治家を使わなきゃ上手く行くわけがない。

しかし利用してしまった旧来の左翼的動員というのは非常に頭も悪いし、多くの人がもう懲りている。一時動員出来たとしてもそれがあっという間にトレンドは下落して行く。所詮組合系だろと忘れ去ってしまいかねない。

自己責任を取れという事は、自分でリスク管理しろという事ですが、リスクというのはそもそも何らかの科学的根拠があって、その規模がどのくらいのものであり、確率論的にどれくらいのものであるのか?という事である何ものかであるわけですが、それを事前に取り除きましょうという話が、ようするにリスク管理って事になるのでしょう。

社会が複雑化し、多くの場合が合成の誤謬であったりトレードオフの関係であったりという事態が起こって来て、単にリスクを取り除けばそれでハッピーかと言えば、そのリスクは取り除けてもそのおかげで副作用が連鎖しもっと取り返しのつかない事態が起こってくる。現状のグローバライゼーションによる様々な帰結の問題もそうでしょうし、サブプライムバブルなんてのは典型的な話です。

昔は物事の裏側には悪者がいてとか、どう考えても制度的な不合理があってとか、そういうものを取り除けばまともな社会になるのではないかという幻想が生きていましたし、実際に社会の複雑さも流動性が低い状況でもあったので、エントロピーの増大をある程度低く保てたという事もあって、比較的何とかなった部分もあったわけですが、それが段々社会が複雑性を増し、単純にどこかに悪者がいるから何とかしろという言い方では解決出来ない類いの問題が増えて来ている(にもかかわらず、相変わらず昔の強者弱者図式で騒いでいる日本の野党も困った連中ですが、まあそれはまた別の話なので今日の所は突っ込みません。そこに突っ込むと終わらなくなっちゃいます)。

昔の図式であれば政治的な問題に興味を持ってコミットしろといえたわけです。社会的な不合理を正せと。しかし社会が複雑になってしまった現状においては、日本の問題点を解決出来たとしても、それは遠いどこかの貧しい国にとって、致命的な決定になってしまったりもする。そんなに遠い話ではなくとも、アメリカで何らかの政策的な決定や変更が起こるとそれがめぐりめぐって日本の末端の派遣の人達へと帰結してしまう。

こうなると日本政府を叩こうが、要人を暗殺しようが、どうにもならない複雑さがあるわけで、こういう状態で政治的にコミットしても、単なる分断統治に利用されてしまうようになってしまった。社会のシステムそのものに深く絡み付いてしまった様々な制度は、取り除く事が不可能になってしまっている。

最適化をはかると言っても誰にとっての最適化なのか?という風に万人にとっての最適化ではなくなってしまっている。取り除くという事は即ちサブプライムバブル崩壊にみられるように、全く関係のない末端の人々にまで被害が広がってしまう。もしくは最適化をはかって合理的選択をしてリスク回避をしたあげく合成の誤謬によって暴走してしまう。サブプライムもそもそもそういう性質のものでもある。

サブプライムは今から考えればどう考えても年率18%とかの金利を、年収300万の人が返せるわけがねえだろとか、リスクを初めからわかっていたぜ的物言いばかりですし、資本主義による優勝劣敗の弱者を食い物にするけしからん話だって所に落ちてしまいがちですが、最初の頃は貧しい人達に平等にチャンスを与えるからいいことなんだ的な、どちらかと言えばリベラル的な再配分になるという考え方や、レバレッジを駆使した金融にしたって、弱者が機会の平等を得る為には必要な措置であるなんて事が言われていたわけです。

元々の出発点がなんであったのか?という事をコロッと忘れ去って、リベラル的な介入が必要なんだって話に落ちてしまう。そもそもそれが原因を作り出したんじゃないのか?という疑義がない。特に日本では資本主義への疑義ばかりで、資本主義経済を回す我々への疑義がない。

バブルはけしからんとか、市場原理主義けしからんと言った感じで騒いで、そういう社会はよくないから、実体経済の地に足の着いた状況に戻すべきであると、それがその通りになった。言わば願いがかなった。にもかかわらず地に足をつけたらそこは穴の底だったという状況になり、しかもすでに出口も塞がっている。梯子もない。多くの人が不幸になってしまっている。

そんな事ならバブルでもマネーゲームでもいいから、みんなが幸せに感じていられる社会を守った方がよかったのではないか?という感じもする。

実体に戻って地に足をつけたら、実体に反映する領土的な鬩ぎあいが起こって来そうな気配もすでにあちらこちらで沸き起こっている。これで戦争が起こるのだったら、バブルの方が全然マシだって話になる。バブルで幸せになる人と戦争で幸せになる人の数、というよりバブルで不幸になる人と戦争で不幸になる人の数と度合いを考えれば言うまでもありません。もちろんバブルがはじければ多くの人が不幸になる事は確かですが、多くの人が殺し合うような事態ってわけではない。

キャンサーキャピタリズムなんて言われたりもしますが、問題点があっても取り除く事が出来ない。取り除くと困る人が膨大に出て来てしまうし、ヘタすると社会とかシステムそのものまでぶっ壊れかねないような状況に陥っている。したがって合意形成が出来ない。

こういう社会システムがおかしいと疑問に感じて世捨て人的に自給自足で生活すると言って、電気も使わない、ガスも水道も使わないという「北の国から」の「五郎さん」的生活に憧れるような感じもあったりしますが、それを万人が選択するという事は出来るわけがないし、五郎さんでさえ金に翻弄されて苦い思いをしたりしていたわけで、貨幣システムから逃れて生きるとなれば、それはもう無人島で生活するとか、そういうレベルまで行かないと必ず制度やシステムに誰もが巻き込まれている。

風が吹くと桶屋が儲かるじゃあありませんが、思わぬ所で思わぬ人達が副作用を受けて不合理にさらされるという事態が起こってしまう。

巻き込まれていれば制度を変更するとなると、困る人、得をする人と出てくるわけだから単純に善いか悪いかを言えなくなってしまっている。

単にステークホルダーであるとか、権力者であるとか、そういう理由で制度の恩恵を受けているという話じゃなくて、普通の一般市民が自分の生活を守る為にある制度を支持もしくは不支持することによって、新たな不幸が生まれてしまう。ようするに人それぞれであるという感じになる。

もちろんその背後でその恩恵によって利権を貪る蛆虫共がいるのは間違いありませんが、そういう連中が蛆虫であるというだけでは片付かない次元の問題が出て来ている。

そこに万人が共有出来る危険が選択の有無とは無関係にあるのなら、例えば毒があるとか、底なし沼があるとか、崖があるとか、水害が起こりそうな状況が放置されているとか、そういうものであればそれを取り除くという事は出来るわけですが、それすらもそこで最適化をはかって生活してしまうと取り除けない前提条件になってしまう。

ようするに例えば原発にしろ狂牛病にしろ、車にしろ飛行機にしろ、携帯電話にしろ、パソコンにしろ、それでリスクがあるという事は誰もがわかっているけれど、いったんそれで社会が回ってしまうと簡単には取り除けなくなる。そうすると社会的リスクというのも人によって違っているのも重なって、個人の選択に委ねるしか無くなる。個人個人がリスク回避をするしか無くなる。

社会のバッファがなくなってしまっているにもかかわらず新自由主義的自己責任原則、優勝劣敗、弱肉強食の方向性に進んでしまう所の原因の一つはそこにもあるわけです。そういう風にするしかないという所もある。どういう風に線を引いても恣意的にならざるを得ない。なぜその線なのか?と。切り捨てだと。必ずその線の外側から不満が出てくる。なので政策決定というの非常に難しくなっている。

個人でリスクを回避するという自己責任になると、プライオリティの問題が重要になる。ようするに背に腹は変えられないという問題は越えられなくなる。理想もわかるし、それが重要だという事もわかる。だけど俺も生活しなきゃなんねえんだよってな感じで。

体に悪いというのはわかるけれど、安いという事に勝る価値は無いと添加物てんこもりの食材を利用したり、カーボンニュートラル?温暖化?知らねえよそんな事!と言った感じで、環境問題よりも生活だぜという風になってしまう。先々を考えればというのはわかるけれど、今食う事に勝る価値は無いという風になる。

リスクというのは多くの場合その選択肢を選ぶ事によって、どれくらいの確率で不利益が生じるのかという事な訳ですが、選択するにしてもその選択にどれだけのリスクが生じるのか?という事がわかっていない状況、隠されている状況、学ばないという事は個人の選択ですから、それによって生じる帰結であればそれも含めて選択しているという事になるわけですが、学ばないという選択肢を選んでいる際に、学ぶという選択肢が本当にキチンと提示されているのか?という事に敏感にならないと、自己責任だろと言い切れない部分はあるわけです。

まして隠されている、啓蒙や教育をしていない等の、作為、もしくは不作為という作為(本当にその事に気付かないという意味で不作為であったとしても設計する人間の能力の問題であるわけでそういう人間に設計させているというのもまた作為になる)によってという話であれば尚更です。

こういう状態を回避するには先ず徹底した情報公開と啓蒙活動が必要であって、それをないがしろにしたままとりあえず何とかしろという話になっていて、おそらくとりあえず何とかなったら、多分問題は先送り間違いなしでしょうし、ようするに利権の草狩り場として利用されちゃっている。

なのでリバタリアン的思考とリベラル的思考のバランスによって社会を保全すると言っても、動員合戦になるだけで話が前に進んで行く気配がない。八方塞がりの様相を呈しておりますが、こういう問題というのは時間がかかりますが、政治にコミットして行くしか方法も無いわけで、そういう意味での問題点の解決という話をすると暗くなってくる。なのでこれを我々の側からどうにかするという所を少し考えてみます。

つづく!!