年末年始の強硬スケジュールがたたって、風邪でくたばっていた三日坊主でございます。寝込んで動けないとまでは行きませんでしたが、気が抜けたのかもしれません。油断しておりました。

昔は何とかは風邪引かないの言葉通り、3年に1回くらいしか風邪なんて引かなかったのですが、最近は一年に1回2回は引いてしまうようになってしまいました。風邪を引いても基本的に仕事を休んだ事は今まで一度も無いので、熱が40度を越えていても平気なんですが、風邪を引くペースが若い頃と比べて増えている事には、鍛え方が足らんと反省している次第です。

なんか話が途中のまま放置しちゃいましたが、少し気力が戻って来たので懲りずに続けます。いざ!!

この問題の処方箋というのは簡単ではありません。が、全く無いというわけでもない。派遣切りで切られる事によって、死ぬような状況、もしくは犯罪に陥ってしまうまで追い詰められないような救済という事はまず大前提です。しかし派遣で切られた人々全員を物理的に救済するという事は難しい。法改正によって派遣の問題に対処出来たとしても、負ける人をなくすという事もまた出来ない。格差を無くす事も出来ない。そしてもちろんなくす必要もない。

しかし今回のように横一列で責任者が責任も取らずただ派遣を切り捨てるような話はやり過ぎです。経団連的ものいいで、仕事があるだけありがたく思え的な言い方や、オリックスの宮内なんかが言ってましたが、パートと無職どちらがマシか?みたいな言い方。こういうのはある意味恫喝で服従させている。派遣のような仕事の形態を受け入れなければ、痛い目に合うのはお前らだと言っていたわけです。

例えばそこには一定の真実が含まれているとしても、そういう恫喝で服従させながら、都合が悪くなると横一列で切り捨てるというのでは、もうそれは人として扱っていない。人が人に対して最低限踏まえなければならない常識が欠如している。仮にその人が怠け者であるとしたって人間であるわけです。

受け入れなければ痛い目に合うのはお前らだと恫喝し、それを多くが受け入れた。受け入れたにもかかわらず真っ先に痛い目に合わせる。受け入れなければ痛い目に合い、受け入れてもいざとなれば痛い目に合う。これではどうやったって痛い目に合う人達は逃れられない。

ワークシェアリングなんて話を事ここにいたってようやく出して来ましたが、これからの時代企業が生き残って行く為には何が合理的かという事を普通に合理性計算出来る人間なら、確かに目先の短期的利益を求めて切り捨てるというのは短期的合理性はあるでしょうけれど、そういう事を容赦なく行なえばネガティブなスティグマが企業に張り付いてしまうわけですから、多少目先の利益が目減りしたとしても社会の保全にコミットメントを持っている企業というイメージを宣伝した方が先々を考えれば合理的なんじゃないかと思うわけですが、そういう合理性計算と言うか長期的な生き残り戦略みたいなものが全く感じられなかった。

ようするに短期的な自分が所属する間だけ責任を回避する事が出来れば、先々の事なんて知ったこっちゃないという振る舞いにしか見えない。企業のトップを勤める連中のいちじるしい劣化を感じざるを得ません。

人件費の高いこの国で雇用を創出するのが難しいという事であるとするならば、いかにしてそういう人間を動機付けるような社会を構築し、諦めて絶望しないような受け皿を構築するか?そういう事を考える事とセットであるのが当たり前の話であって、ただ世の中は弱肉強食でジャングルだという事を、政府によって権益を守って貰っているような連中が言う事ではない。

そうなると人間を人間扱い出来ないクズは人間扱いする必要はなしって話になりかねない。どういう事かと言えば、殺せって話になる。人間を人間扱い出来ないムシケラに人間の法を適応する必要は無いという論理がある種の人達のとっては正当性を持ってしまう。

それならまだいい。ぶち殺されるまで行くのは行き過ぎだとは思いますが、そういう連中は自業自得なので、澎湃として怒りの声が沸き起こるのは悪い話ではない。しかしそれが実際権力を握っていて手が届かず、改革される可能性が無いと、例えば全く関係のない所に向くような排外主義とか、保護主義みたいな、非常に危険な道に突っ走って行きかねない。

そういう社会の一歩手前までもう進んでいる。実際クソ保守みたいな頭の悪い連中を支持している人もある時期結構な数いたわけで、一歩手前なんて呑気な事も言ってられないような状況もぼちぼち出て来たりするようにもなっている。

もう無関係の人間をぶち殺すという事件がすでに起こっている。自分達の声を政治的アリーナに乗せる術がないと自覚したとき、暴力によって強引に言説空間を切り開いてでも自分たちの発言を政治的アリーナに乗せようとする手段がテロであるわけで、当人にその意識が無くとも帰結としてはそういう風に見えかねない事件がすでに起こっている。そういう事件に対して共感出来るような人が一定数存在する社会になってしまっている。

オウム事件でも、神戸の酒鬼薔薇事件でもいいですが、00年代に入る前は少なくとも理解出来ない、なぜこのような事が?みたいな共通感覚というのがあったはずですが、ここ10年くらいで急速に共感出来なくとも、例え間違っていたとしても、なぜそういう事が起こるのかがある程度わかってしまうようになってしまった。

9.11のときの構図だって、起こった直後は、なぜそこまでして?みたいな感覚が一般的に残っていたと思いますが、もうすでにアメリカなるものへのルサンチマンみたいなものが、かなり共感可能になってしまっているという事もあって、あの事件が起こった図式も多くの人が理解出来るようになっている。

これは情報を知って賢くなってそうなったという話であるのなら、それは悪い事ではないとは思いますが、それももちろんあるのでしょうけれど、理解出来るように境遇や環境が変化してしまっているせいでもある。他人事ではなくなっている。

他人事的にしらばっくれているような感覚というのは間違いなく問題ですので、問題意識を持つ事は重要かもしれませんが、厄介なのは処方箋がないと言うかあったとしても不可能性を感じざるを得ない状況な訳で、問題があってわかっているのに、それを何とかする事が出来ない。ようするに自分達の声や共感覚が政治的アリーナに乗せる術がない。このままでは非常にマズい展開になっている。

しかし派遣法を改正すれば解決するのかと言えば、企業が国際競争に生き残る為に、利益を追求する事は否定出来ない。それを考えず一律に俗情に媚びて派遣法改正という話に落ちてしまえば結果的にもっと資本が海外に逃げて行ってしまい、もっと悲惨な状態になりかねない。外貨を稼ぐという事がいかに重要な事であるのか?外貨を稼げない国々を見渡せば一目瞭然です。

そういう意味でも俗情に媚びた横一列の派遣切り捨て内定取り消し可哀想報道は酷過ぎます。ワークシェアリングなんて話も本当にそういう方向に行ければまあそれはそれで結構な話ですが、収入が減って困る人達も確実にいるわけで、コミットメントの度合いの低いこの国で、はたして合意形成出来るのか?出来たとしても時間がかかりそうな気もする。だから弱者救済図式などに当てはめて、騒ぐのは別にいいとしても、具体的な救済策が何もない状況になってしまわないように、慎重に吟味しなきゃ危ない。

ここに困っている人がいるではないか!それを放置しておいて、何が正義だ!!と言った感じで誰もが正しい道だと思っても、じゃあどうすればその正義が貫徹出来るのかと言うと、前回の大恐慌の時には戦争になっちゃったわけで、それでは話になりません。

自由だと言ったって、ただ単に優勝劣敗弱肉強食になってしまい、本当にそれならまだしも、制度による不公正があり、それが是正される余地もないという現在の有様もやっぱり話にならない。

この鬩ぎあいというのは常に旗印として使われるものの、必ず権益に絡めとられている事に敏感にならないとマズい。政府に何とかしてくれという言い方だけでは必ずそういう問題が出てくる。

今回の派遣問題で盛り上がった派遣村の方々も数年前に彼らの活動を知ったとき、そしてロスジェネ論壇なんかの物言いを聞いたり、新しい運動を起こしている若者の姿を見ていて、希望のようなものが感じられた。

従来の古い運動系や組合系の経営者側とのなあなあの体質や、排除して連帯し実現不可能な理想を吹き上がっている頭の悪い旧来のリベラル左翼的な所とは別な所から、新しいムーブメントみたいなのが起こって来るという事に凄い希望を感じた。

しかしそれが何となく今回の顛末をみていると相当危ういものが感じられる。旧来のバカリベラルや役人の権益に絡めとられてしまっている。政治的アリーナに乗せるには動員が必要で動員する為には、ポピュリズムを使い汚れた連中であってもそれが動員になれば言説空間を切り取る事が出来る。そういう意味で手段として必要なのはわかる。政治家を使わなきゃ上手く行くわけがない。

しかし利用してしまった旧来の左翼的動員というのは非常に頭も悪いし、多くの人がもう懲りている。一時動員出来たとしてもそれがあっという間にトレンドは下落して行く。所詮組合系だろと忘れ去ってしまいかねない。

自己責任を取れという事は、自分でリスク管理しろという事ですが、リスクというのはそもそも何らかの科学的根拠があって、その規模がどのくらいのものであり、確率論的にどれくらいのものであるのか?という事である何ものかであるわけですが、それを事前に取り除きましょうという話が、ようするにリスク管理って事になるのでしょう。

社会が複雑化し、多くの場合が合成の誤謬であったりトレードオフの関係であったりという事態が起こって来て、単にリスクを取り除けばそれでハッピーかと言えば、そのリスクは取り除けてもそのおかげで副作用が連鎖しもっと取り返しのつかない事態が起こってくる。現状のグローバライゼーションによる様々な帰結の問題もそうでしょうし、サブプライムバブルなんてのは典型的な話です。

昔は物事の裏側には悪者がいてとか、どう考えても制度的な不合理があってとか、そういうものを取り除けばまともな社会になるのではないかという幻想が生きていましたし、実際に社会の複雑さも流動性が低い状況でもあったので、エントロピーの増大をある程度低く保てたという事もあって、比較的何とかなった部分もあったわけですが、それが段々社会が複雑性を増し、単純にどこかに悪者がいるから何とかしろという言い方では解決出来ない類いの問題が増えて来ている(にもかかわらず、相変わらず昔の強者弱者図式で騒いでいる日本の野党も困った連中ですが、まあそれはまた別の話なので今日の所は突っ込みません。そこに突っ込むと終わらなくなっちゃいます)。

昔の図式であれば政治的な問題に興味を持ってコミットしろといえたわけです。社会的な不合理を正せと。しかし社会が複雑になってしまった現状においては、日本の問題点を解決出来たとしても、それは遠いどこかの貧しい国にとって、致命的な決定になってしまったりもする。そんなに遠い話ではなくとも、アメリカで何らかの政策的な決定や変更が起こるとそれがめぐりめぐって日本の末端の派遣の人達へと帰結してしまう。

こうなると日本政府を叩こうが、要人を暗殺しようが、どうにもならない複雑さがあるわけで、こういう状態で政治的にコミットしても、単なる分断統治に利用されてしまうようになってしまった。社会のシステムそのものに深く絡み付いてしまった様々な制度は、取り除く事が不可能になってしまっている。

最適化をはかると言っても誰にとっての最適化なのか?という風に万人にとっての最適化ではなくなってしまっている。取り除くという事は即ちサブプライムバブル崩壊にみられるように、全く関係のない末端の人々にまで被害が広がってしまう。もしくは最適化をはかって合理的選択をしてリスク回避をしたあげく合成の誤謬によって暴走してしまう。サブプライムもそもそもそういう性質のものでもある。

サブプライムは今から考えればどう考えても年率18%とかの金利を、年収300万の人が返せるわけがねえだろとか、リスクを初めからわかっていたぜ的物言いばかりですし、資本主義による優勝劣敗の弱者を食い物にするけしからん話だって所に落ちてしまいがちですが、最初の頃は貧しい人達に平等にチャンスを与えるからいいことなんだ的な、どちらかと言えばリベラル的な再配分になるという考え方や、レバレッジを駆使した金融にしたって、弱者が機会の平等を得る為には必要な措置であるなんて事が言われていたわけです。

元々の出発点がなんであったのか?という事をコロッと忘れ去って、リベラル的な介入が必要なんだって話に落ちてしまう。そもそもそれが原因を作り出したんじゃないのか?という疑義がない。特に日本では資本主義への疑義ばかりで、資本主義経済を回す我々への疑義がない。

バブルはけしからんとか、市場原理主義けしからんと言った感じで騒いで、そういう社会はよくないから、実体経済の地に足の着いた状況に戻すべきであると、それがその通りになった。言わば願いがかなった。にもかかわらず地に足をつけたらそこは穴の底だったという状況になり、しかもすでに出口も塞がっている。梯子もない。多くの人が不幸になってしまっている。

そんな事ならバブルでもマネーゲームでもいいから、みんなが幸せに感じていられる社会を守った方がよかったのではないか?という感じもする。

実体に戻って地に足をつけたら、実体に反映する領土的な鬩ぎあいが起こって来そうな気配もすでにあちらこちらで沸き起こっている。これで戦争が起こるのだったら、バブルの方が全然マシだって話になる。バブルで幸せになる人と戦争で幸せになる人の数、というよりバブルで不幸になる人と戦争で不幸になる人の数と度合いを考えれば言うまでもありません。もちろんバブルがはじければ多くの人が不幸になる事は確かですが、多くの人が殺し合うような事態ってわけではない。

キャンサーキャピタリズムなんて言われたりもしますが、問題点があっても取り除く事が出来ない。取り除くと困る人が膨大に出て来てしまうし、ヘタすると社会とかシステムそのものまでぶっ壊れかねないような状況に陥っている。したがって合意形成が出来ない。

こういう社会システムがおかしいと疑問に感じて世捨て人的に自給自足で生活すると言って、電気も使わない、ガスも水道も使わないという「北の国から」の「五郎さん」的生活に憧れるような感じもあったりしますが、それを万人が選択するという事は出来るわけがないし、五郎さんでさえ金に翻弄されて苦い思いをしたりしていたわけで、貨幣システムから逃れて生きるとなれば、それはもう無人島で生活するとか、そういうレベルまで行かないと必ず制度やシステムに誰もが巻き込まれている。

風が吹くと桶屋が儲かるじゃあありませんが、思わぬ所で思わぬ人達が副作用を受けて不合理にさらされるという事態が起こってしまう。

巻き込まれていれば制度を変更するとなると、困る人、得をする人と出てくるわけだから単純に善いか悪いかを言えなくなってしまっている。

単にステークホルダーであるとか、権力者であるとか、そういう理由で制度の恩恵を受けているという話じゃなくて、普通の一般市民が自分の生活を守る為にある制度を支持もしくは不支持することによって、新たな不幸が生まれてしまう。ようするに人それぞれであるという感じになる。

もちろんその背後でその恩恵によって利権を貪る蛆虫共がいるのは間違いありませんが、そういう連中が蛆虫であるというだけでは片付かない次元の問題が出て来ている。

そこに万人が共有出来る危険が選択の有無とは無関係にあるのなら、例えば毒があるとか、底なし沼があるとか、崖があるとか、水害が起こりそうな状況が放置されているとか、そういうものであればそれを取り除くという事は出来るわけですが、それすらもそこで最適化をはかって生活してしまうと取り除けない前提条件になってしまう。

ようするに例えば原発にしろ狂牛病にしろ、車にしろ飛行機にしろ、携帯電話にしろ、パソコンにしろ、それでリスクがあるという事は誰もがわかっているけれど、いったんそれで社会が回ってしまうと簡単には取り除けなくなる。そうすると社会的リスクというのも人によって違っているのも重なって、個人の選択に委ねるしか無くなる。個人個人がリスク回避をするしか無くなる。

社会のバッファがなくなってしまっているにもかかわらず新自由主義的自己責任原則、優勝劣敗、弱肉強食の方向性に進んでしまう所の原因の一つはそこにもあるわけです。そういう風にするしかないという所もある。どういう風に線を引いても恣意的にならざるを得ない。なぜその線なのか?と。切り捨てだと。必ずその線の外側から不満が出てくる。なので政策決定というの非常に難しくなっている。

個人でリスクを回避するという自己責任になると、プライオリティの問題が重要になる。ようするに背に腹は変えられないという問題は越えられなくなる。理想もわかるし、それが重要だという事もわかる。だけど俺も生活しなきゃなんねえんだよってな感じで。

体に悪いというのはわかるけれど、安いという事に勝る価値は無いと添加物てんこもりの食材を利用したり、カーボンニュートラル?温暖化?知らねえよそんな事!と言った感じで、環境問題よりも生活だぜという風になってしまう。先々を考えればというのはわかるけれど、今食う事に勝る価値は無いという風になる。

リスクというのは多くの場合その選択肢を選ぶ事によって、どれくらいの確率で不利益が生じるのかという事な訳ですが、選択するにしてもその選択にどれだけのリスクが生じるのか?という事がわかっていない状況、隠されている状況、学ばないという事は個人の選択ですから、それによって生じる帰結であればそれも含めて選択しているという事になるわけですが、学ばないという選択肢を選んでいる際に、学ぶという選択肢が本当にキチンと提示されているのか?という事に敏感にならないと、自己責任だろと言い切れない部分はあるわけです。

まして隠されている、啓蒙や教育をしていない等の、作為、もしくは不作為という作為(本当にその事に気付かないという意味で不作為であったとしても設計する人間の能力の問題であるわけでそういう人間に設計させているというのもまた作為になる)によってという話であれば尚更です。

こういう状態を回避するには先ず徹底した情報公開と啓蒙活動が必要であって、それをないがしろにしたままとりあえず何とかしろという話になっていて、おそらくとりあえず何とかなったら、多分問題は先送り間違いなしでしょうし、ようするに利権の草狩り場として利用されちゃっている。

なのでリバタリアン的思考とリベラル的思考のバランスによって社会を保全すると言っても、動員合戦になるだけで話が前に進んで行く気配がない。八方塞がりの様相を呈しておりますが、こういう問題というのは時間がかかりますが、政治にコミットして行くしか方法も無いわけで、そういう意味での問題点の解決という話をすると暗くなってくる。なのでこれを我々の側からどうにかするという所を少し考えてみます。

つづく!!