前回の続きです。

この問題は大人やわかっている人間がもっと他人と関われよという所にキモがある。一つの糸口がある。そして日本的エートスに必要なものがなんであるのか?という問題、このへんが鍵になるんじゃないかと。

弱者救済図式や自殺してしまうような人がこれだけいる状態、そして例えばアキバの事件のような問題に関して、政府に何とかしろとかいう前に、何でまわりでわかっている人間がもっと何か言ってやれないのか?

人殺しをするまで追い込まれている人間に、そこまでやっちゃマズいよと言う事を言ってやれる人間や、一緒にそういう状態を分かち合うような人間、そして甘ったれてねえでやる事やれよとビシッと説教するけれど、困っている時には可能な限り助けてくれるような存在がまわりにいないのか?という問題の方が本当は深刻な気がする。

今の生活に勝る価値は無いというプライオリティのつけ方に対して、後で後悔するから考え直せと、その優先順位のつけ方は間違っているから考え直した方がお前の為になるという事を言ってやれる人間がまわりにいるのか?

例えば沖縄なんかは失業率や離婚率がもの凄く高いわけですが、だからって無法地帯になっているってわけじゃない。むしろ本土の人間にとって羨ましいと思えるような包摂があるわけで、貧困が若者を直撃するという言い方に原因を求めるのも間違っていて、沖縄の人達がみんな裕福なのかと言えばむしろ逆であって、貧困であるから幸せになれないという話も本当はちょっと問題点がズレているような気がする。

何で派遣切り捨てのような状況に投げ出されて、しかも孤独に陥っている人がいっぱいいるのか?やっぱりわかっている人間が厄介だと思われようが、うるせえよと思われようが、深く関わり合いを持とうとコミットする事を諦めているという状況も問題じゃなかろうかと思う。

事ここに至れば国家を呼び出して何とかしろと言うしか無いという部分は確かにあります。わかっていると言ったってみんな自分の生活もありますし、それを投げうってまで救済するなんて事が出来る人もいるでしょうけれど、万人に出来る事ではない。しかしその前段階で国家を呼び出して何とかしろと言う前に、当人が切羽詰まる前に、わかっている人間が何か言ってやれよという事です。

せめて自分の目の前にそういう人がいるのであれば、ある程度コミットしてうるせえ奴だと思われても言ってやれよという事です。時には甘い事言ってんじゃねえよと夢を叩き潰してやる事も重要だと思います。

応援していると言っているだけで何も言わないで放置するよりは、場合によっては関わりを持つという事によって、いろんな可能性も生まれる。本当に甘い夢を見て、自分なりに頑張っていると自己満足しているだけで、単なるモラトリアム状態にある人間の目を覚まさせる可能性もまずありますし、そういう事を言われる事によって何クソとブレイクスルーする為のモチベーションにもなるかもしれない。

もちろん夢なんて誰も持ってないんですけれど、というのが今の派遣の実体でもあるわけで、そういう人に甘ったれるななんて言えるのか?という問題があるわけですが、それだって一直線で派遣にまで行き着いたってわけではない人が結構いるはずで、そこに行き着くまでに、はたしてそういう生き方をしていると後々後悔する事になるという事を、人生の様々な選択の場面で誰かが言ってやれたのか?という事に疑問を感じる。

自分は仕事柄、相当跳ねっかいりの厄介者の若造を何人も育てたので思うのですが、学校や家庭から見放されて、何をやっても続かない、警察のお世話になる、見た目もまともには見えない。そんな奴が職人には結構多い。

もちろん辞めちゃう奴や仕事が出来なくて使えない奴といるにはいますけれど、ある程度、諦めずに接していれば比較的言う事を聞くようになるし、数年続けばいっぱしの職人に成長して行けるような糸口も掴む事が出来ていると思う。

だから大人やわかっている人間がまわりでコミットして嫌われても構わないから受け皿となる事をやっていれば、自分のような人間でさえ何とかなるんじゃねえか?と思えるわけですから、もっと教育のスペシャリストや、人を育てるプロが関わったり、人格者や経験豊かな人、もっと親密な関係性を持つ人が関われば、多くの人はある程度それだけでセーフティネットになるというか、事前の話なのでセーフティネットという言い方もおかしいのですが、結構どうにかなるんじゃないかという気がする。

それで思うのはある程度わかっていない奴には言ってやらないとわからない。言ってもわからない(聞いていない)からといって言わなければ絶対にわかるようにならない。必ずわかっていないのに「わかってるよ」とわかっていない奴は必ず言う。だけどまわりがわからせる事を諦めたら、もうそいつがわかるきっかけを掴むチャンスは無くなってしまう。

学校なんかは簡単に切り捨てて退学させちゃいますが、本当つくづく捨てるなよと思う。もうそういう段階から切り捨てというのは始まっている。内定取り消しを取り消された当人ももちろん、学校関係者なんかが騒いでいますが、その前に学校だって切り捨ててるじゃねえかと思う。

もちろん内定取り消された子はその子に原因があるわけではないので、悪さして退学になる人とは違うというのはそりゃそうなんですが、内定を取り消されるより、学校から排除された子のほうが、多分苦しい展開が待っている。

親とか教師が劣化しているとかそういう話じゃなくて、斜めの関係性が無くなっちゃっている所に問題がある。これは社会が空洞化し、地域性が壊れてしまい、ご近所付き合いも無いし、他人の子供とコミュニケーションしていると犯罪者扱いされちゃうような社会になっちゃっているので、昔のようにというわけにはいかないのはわかるのですが、親や教師以外の大人との接点を持つ機会が減っている所に問題があるような気がする。

いろんな大人にいろんな事を言われれば、いくら話を聞いてなくたってどこかで引っかかる可能性はあるわけで、気付きの機会が少ないなと思う。これは大人と子供の関係でなくとも、先輩後輩の関係でもいいし、音楽好きならば、もっと音楽好きで詳しい人との、わかっていない人とわかっている人との接点でもいいし、友人関係、恋人関係、そういうのが消えている(変わっちゃっている)所に問題もあるような気がする。知識だけならネットで十分ですけれど、コミュニケーションというのは単にそれだけではない安全装置もある。

そして一番肝腎なのは自分が座席に座っているから結局若者の排除に加担しているという事にいかに敏感であるかという所も重要かもしれません。説教するのはいいけれど、お前が邪魔なんだよって話をわかっていない輩も多い。

座席を分けてあげる事をする気もないのに、ただ単に自己責任だと言ってしまうのも狡いし、弱者を救え(自分は譲らないけれどね)というのも狡い。

どう考えたって就職して何年も経っている人間と、何の技術も無い人間では、前者の方が仕事が出来るに決まっているわけで、転職だってやる気になりゃ出来るわけですから、下が育つように座席を譲って、流動化を受け入れて力量で勝負するという選択を取る勇気も必要なんじゃないかと思う。

もしくは基本的に下をある程度育てたら、居座るという事は下の成長を妨げる事になるわけですから、身を引いて新たな場所で勝負する必要があるんじゃないかと。

外に出て勝負する力量が無い人間が、たまたま先に生まれたというたったそれだけの事で、座席に居座って排除に加担しているのだとすれば、それは最悪です。

そういう事を自覚出来る人は、排除に加担しちゃマズい。競争しろなんて絶対に言う資格はない。座席を譲るという事が出来ないのはわかりますが、分け与えるという事を考えないのであればそういう人こそ直ちに切り捨てるべきだろうと思う。

自分は同一労働同一賃金という物言いに対しては結構違和感を感じる男です。多分こういった物言いは、派遣とかバイトとかパートの方々から正社員に向けた物言いなんだろうと思うのですが、そんなわけねえだろと思う。同一労働じゃないに決まってるじゃないかと。背負っている責任も違うだろうし、持っているスキルだって違うに決まっているだろと。

しかし仮に派遣やバイトやパートで間に合っちゃうようなポジションに正社員の待遇で居座っている輩が本当にそんなにいっぱいいるのなら(公的セクターは結構多そうに見える)、非正規の賃金を全部上げるという事が不可能なのだとするならば、これも直ちに非正規化しろよと思う。どう考えてもフェアではない。

競争する為には競争出来る人間にならなきゃ、勝つ方は決まっている。結局社会が空洞化すれば自分の生活だけを守っていてもそれすらも守れなくなる。今の日本の有様はそういう本末転倒野郎が多過ぎるからに他なりません。いずれ社会に助けてもらう時だってあるでしょうから、社会の保全が自分の生活を守る事と不可分であるという事に気付く必要がある。

例えば株主至上主義だという言い方があります。数年前にあった、JR福知山線の事故の時に株主至上主義の体質がこの大災害を招いたのだという下らない話を言う輩が結構いた。だけどこの事故が起こってから株価が鬼のように下がって株主は損しているのに、株主至上主義って話になる。逆じゃねえか?って感じがするわけですがそういう事を誰も言わない。

この会社が本当に株主に利益を還元するという事を優先させていれば、事故が起これば本末転倒な訳で、それでは株主至上主義というよりも責任を回避しているに過ぎません。こういう本末転倒スキームを間違って解釈している構造がいっぱいある。

資本主義による弱肉強食の暴走にしたって、エゴであるからそうなっているという言い方ばかりですが、エゴとか言ってるけれど、みんな損してるんですけれどって話で、本当にエゴを持って合理性計算すれば、弱者を食い物にして搾取していけば経済は縮小再生産にしかならないわけで、それではエゴも貫徹出来ない。

自分の生活が大事だと言うのはそりゃそうなんですが、それが自分の生活を守る事に繋がっていないではないか?という所に敏感になれるようであれば、社会をぶっ壊しても企業が生き残れば知ったこっちゃないとか、俺が生き残れば派遣なんて知るかとか、そういう考えは通用しない。

それは自分にとっても自殺行為に等しい。この本末転倒状態をわかっている人間が背に腹は変えられないという人達に向かって言ってやれていないというのが今のこの国の問題なんじゃなかろうかと思うわけです。

もちろん人は多くが自分で経験して学ばないと気付かない、後悔しないと学ばない。後悔しても忘れる。後悔しないで済む奴は気付いている奴なわけで、そういう奴には言う必要も無い。

だけど無駄かもしれないけれど、10回言って、1回でも1%でも伝われば、それは全く無駄かと言うとそうとは言えない。そうやって人はずっと社会を営んで来た。最近の若者はなっとらん!大人はわかっちゃいない!!と。

人はあるきっかけによってオルタレーション、翻身するという事がある。今まで口を酸っぱくして同じ事を言っていたのに、全く伝わらなかった人間が、彼女が出来るとか彼氏が出来るとか、心に突き刺さる本を読むとか、仕事の面白さに気付くとか、素敵な景色を見るとか、もっと賢い人に助言を受けるとか、何かのきっかけによって変わるという事が有り得る。

就職すれば一撃で仕事の厳しさを理解出来るわけですし、ちょっと経つと今までいくら言ってもわからなかった人間が、後輩に仕事の厳しさなんかを説教していたりするわけです。自転車の危険性も車に乗れば一撃でわかるし、車が危険だという事も、事故を目にして気付いたりする。

その時にそれまでいろいろ人に言われた事やわからなかった問題の構造が理解出来たりするわけで、100回言って伝わらなくとも、あるときをきっかけにして翻身し、その100回分の物言いが糧になる可能性だってある。

それをするのが大人やわかっている人間の役割なんじゃないかという気がする。最近はそれを放棄している。国家にパターナリズムを求めるよりも、身近な所で煙たがられても、言うべきことを言う。バカ保守みたいな図式で吹き上がっているタコが結構いる割には身近な所はないがしろにして言うべき事を言わない。そして言うからにはキチンとケツを持ってやる事も忘れちゃマズい。言いっぱなしというのが始末が悪い。

M-1というお笑いのイベントがあります。さすがに今年は見ませんでしたが、あれを始めたきっかけを島田紳介が語っていたのが非常に印象に残っています。彼が言うにはもちろん建て前という事なんでしょうけれど、その理由は二つあって、一つは自分が世話になった漫才というものに対して恩返しがしたいというのと、もう一つは諦めろというメッセージを込めていると言ってました。

10年という線を引いて、それで上にあがって残れないようなら、才能が無いのだからその事に気付いて辞めろという事だそうです。才能がある人間は才能が認められる場があれば幸せになれる。才能の無い人間でも才能が無いという事に気付けば次の人生へとシフト出来るので幸せになるチャンスは十分ある。しかし才能がなく気付く事も出来ない人はずっと幸せになれない。そこに何とか伝えたいと思って始めたんだそうです。まあ中々伝わらず簡単な話ではないと言ってましたが、これは非常に重要な事を言っているなあと思ったものです。

まあ才能が無い事に気付かないでいられるという事はある意味本当は幸せであるとは言えますが、生活出来るのか?という現実的な問題を考えればまわりが気付かせてあげないと、あるとき気付いたらもう手遅れでしたという話になってしまいかねない。選択肢をキチンと提示出来ていない状態で自己責任だというのは違うような気がする。どうせ話を聞いていないというのはそりゃそうなんですが、そういう事に諦めてしまっているような気がする。それって社会と呼べるのか?

大人はわかってくれない、これは必ず子供の頃に感じる感覚だと思いますが、最近は物わかりのいい大人やわかっている人間が増え、人と関わる事を避けるような閉じた社会になって来ているというのもあり、自分の親や友達や恋人には深い話はしないけれど、ネット上での匿名の関係性の知らない誰かには相談するという事態が起こっている。その事自体別に悪い事ではないと思いますが、人間関係の希薄さ故に、繋がりを失い個に分断された社会になっている。

幼い頃から子供の尊厳を叩き潰すような事をするのはもちろんマズいと思いますが、ある程度の年齢になった時には、もしくはもうすでにある程度の年齢になっている人間に対しては、わかってくれなくて結構、お前が間違ってんだよ!と嫌われる事も覚悟の上で、うるさく言う必要がある場面もあるのではないかと思うわけです。そしてそれとセットで出来る限り協力をする。

人はどんなに頑張っても自分一人で自分を肯定するという事は出来ません。その事がわかっていないせいか、自己満足が溢れかえっている。自己満足というのは重要なファクターではあります。所詮、何をするのも自己満足だと言っちゃえばそりゃそうです。オシャレするのも勉強するのも、自己満足に過ぎないと言える。

しかし自己満足だけしていても、それは自分の肯定にはつながらない。自己満足だからと言っちゃえば何もかも虚しくなる。俺は俺を肯定するという事は出来ないわけです。もちろん言うのは簡単ですが、自分一人でそれを言っていても虚しいだけです。人に承認されないと自己満足でさえ虚しいだけのものでしかなくなる。虚しいだけのものであるのにモチベーションを保つのは難しい話です。

その為には他者性がなくちゃ出来ない。人と関わらないと本当の肯定感は得られない。別に何とも思ってないのに面倒くさいから口だけで承認を与えていても、それは内輪受けのの島宇宙にひきこもって承認合戦を繰り返し、君は凄いと慰め合っているようなもんで、拒絶される可能性があるからこそ承認された時には自己肯定も出来る。いつでも口だけで承認されるとわかっていれば、それは無視されているのと大差ない。

つづく!!