しつこいようですが続きます。

空気を読んで波風を立てないというのは、多分昔からある発想なので、モノにこだわるが故にそれが芽生えるか?という疑問は確かにあります。モノにこだわっていた時代に芽生えなかった代物なわけですから。しかしモノの価値を否定して、ココロを推奨するのはいいけれど、それを支えるメカニズムが無いまま個の自立とか、ゆとり教育の本義みたいな話を叩き込もうと思っても、実際には難しい所もあるんじゃないか?という気がする。本当にこだわる人間は空気なんて知ったこっちゃないわけで、そういう人が歴史を動かして来た。

従来の日本的作法を否定する事なく取り込んだ方が上手く行くのではないかと思う。それを否定して、まともな社会になっているのかと言えば、資本主義も民主主義もまともに機能しないし、個に分断されているだけで自立とは程遠い。もちろんかつてのような枠組みの再構築という事は出来ないに決まっていますが、日本的エートスを再認識してカスタマイズする必要があるのではないかという風に思うわけです。

勘違いされると困るので一応もう一度書いておきますが、ノスタルジーブーム的イメージの昭和30年代主義とか、一般的な昔がよかった論じゃありませんからね。家社会とは何を守る為に機能していたのか?何を信じる事が出来たから機能したのか?という事を考えると、モノが輝いていたからだという話です。モノへの欲望がある種の日本的エートスを支えていたのではないのか?という話で、それを持ちながらそこそことか、分け与えるという美意識があった。近代化が成熟してモノへの需要がある意味、飽和しきった状態なので、かつてのような輝きを取り戻す事は出来ないというのは百も承知です。

しかし今の我々はモノに対して、そんな時代だった事は一度も無いインチキノスタルジーに煽られて、ある種の欲望を否定するような感覚とか、絆が何によって生まれていたのかを忘れて、大量消費社会とモノへの欲望をある種イコールで結びつけている所がある。結果、モチベーションを生み出すメカニズムが消え、そこそこという美意識が建て前だけで残っている。そこそこでいいじゃないかというのが、経済成長を否定するような言説と結びついてしまっている。

そのへんの話は後で詳しく書きますが、多分日本にあったいい加減さというか、共存、換骨奪胎、無原則という原則、こういう叡智というのは、今の世界にとっても非常に有効なメッセージになると思う。オバマが発したメッセージも何となく似ている。オバマを羨ましがらなくとも、元々あるじゃねえかという気がする。平和憲法を掲げてこれこそは絶対と吹き上がるよりも、よっぽどいいような気がする。これこそは絶対とかいう言い方というのが一番日本的ではない。本来日本はこうあるべきだみたいな強い日本みたいな話を言うおたんこなすより、よっぽど有効なメッセージがあるような気がする。

カザ地区の悲劇なんかを見ていて思うのは、日本に移民すりゃいいのにとか思っちゃう(もちろんテロを起こしたくてウズウズしている人は勘弁してほしいですが、本当はこんな争い勘弁してくれと思っているのに巻き込まれてしまう人達って事です)。最近では何々人だからとか、在日だからとか、反日だからとか、不安と疑心暗鬼に煽られてそういう排除みたいなことを言う頭の弱いバカが増えてますが、それでもまだ、日本は何となく一緒に暮らせば包摂しちゃうようないい加減さは残っていると思う。血が繋がっていようがいまいが、同じ目的を共有出来れば家族以上に親密になれる。

多分そういう所がある国は他にあまり無いんじゃないかと。宗教的な争いも無いし、人種間での争いも無いし、そういう所を打ち出して行った方がよっぽどいい国になるような気がする。まあ朝青龍を虐めて喜んでいる人もいますが、相撲の中継なんかを見ると、朝青龍大人気じゃないですか。あれを見るとホッとする。日本も捨てたもんじゃないと思える。

コジェーヴにしろ、ボードリヤールにしろ、ロラン・バルトなんかもそうでしょう。日本的記号との戯れ方に仰天しているわけです。西洋なんかよりよっぽど進んでいると。もちろん自分は日本人なので、ちょっといいとこ取りなんじゃねえか?という気はしますが、中心がなくエクリチュールに縛られず、多様性を許容して共存するような日本的特性というのがあったから、日本の歴史が血みどろの争いばかりの歴史では無かったわけで、それが自由という価値の最も重要な部分なんじゃないかと思う。

ヨーロッパなんかを見ると、ローマの平和以後の1000年にわたって、10年以上平和だった事は一度も無い。日本が江戸時代の平和を確立した17世紀、ヨーロッパでは戦争が無かったのが4年しか無い。100年の間に4年ですよ。16世紀も10年しか無い。

16世紀は日本も戦争ばっかりやってましたが、江戸時代の平和は250年です。しかも圧政によって虐げていたってわけではない。それは他の国と比べて当時の日本の繁栄を考えれば比較にならないような繁栄と、ただ繁栄しているというだけではなくて、清潔でモラルもしっかりしていた。もちろん分け合えるような国の豊かさというベースがあるかないかの差もあるのでしょうけれど、それだけではないでしょう。

地理的要因が大部分の理由であって、日本人が素晴らしいとかそういう話ではないのですが、せっかく地理的要因によって芽生えていた不思議な感覚みたいなものの中に大切なものがあったような気がする。

江戸の街では時代劇的な捕り物なんかは実際は皆無で、治安も非常によかったと言われている。旅行なんかも結構流行っていたみたいだし(通行手形も遊びに行くという名目じゃなければ、要するに建て前で何らかの理由をつけてあれば、本当は遊びであっても日本的いい加減さが機能して出ていた)、貧しく虐げられる農民、みたいな話も相当嘘が混じっていて、意外と裕福だったし、相互扶助もしっかりしていた。

五人組なんかも今はどうかはわかりませんが、自分が学生の頃は戦前の隣組制度と同じような扱いと言うか、密告制度、連帯責任制度、相互監視制度という感じの、どちらかと言えば不自由を押し付けるかのような制度であったという教え方だったわけですが、こういう頭の悪い教育が蔓延っていたわけで、「新しい教科書をつくる会」的なバカの吹き上がりは、自分は好きじゃありませんけれど、そういうのが出て来ないとどうにもならないくらい、いい加減な事を教えていたのは事実だと思う。

普通に考えて、ゲーム理論の囚人のジレンマ的合理性で考えれば、五人組というのはどう考えても相互扶助のメカニズムにしかなりようが無い。これを密告とか監視とか教えていた所にこの国の袋小路の帰結があると思う。もちろん密告とかが無かったとか言いたいわけじゃなくて、普通どういう風に機能していただろうと想像すると、だいぶいい加減な話を吹き込まれていたような気がする。

犯罪を犯した二人の共犯の人間がパクられる、それぞれ別の部屋で尋問されて、それぞれに相手の悪事を素直に言えばお前は無罪にしてやると言われる。この二人が合理的決定をすれば、自分が助かろうと思って相手の事を裏切ってチクる。この裏切りのチクり合いというのは、お互いにとって自分が助かる為にそれぞれ合理的な決定であるわけですが、お互いの罪を認める事となるのでどっちも刑務所にぶち込まれて、一番不合理な選択に行き着く。どちらか一方が裏切れば、裏切っていない方がブタ箱にぶち込まれる。お互いが裏切らないはずだと信用して、相手を裏切り合わない一番両者に取って不合理な選択が、両方とも立件出来ずに釈放という犯罪者に取って一番合理的帰結を生み出す。

五人組のような制度も、お互いが裏切るのではないか?という風に監視し合うような疑心暗鬼であれば、いつ裏切られるかわかったもんじゃないし、ありもしない事を密告されかねない。だからやられる前にやれ的な構造になって結果的に共同体は機能しない。抜け駆けを心配しながら、相手を出し抜くという事をやってしまえば、いつ自分が同じ目にあうかわかったもんじゃない。そんな社会は250年も続くわけない。どう考えても統治するにしては全く合理性がない。

だからそんな制度ではないし、そんな事に眼目を置いていたわけではない。もちろんある程度の相互監視と牽制の意味はあったと思いますが、相手に裏切られないはずだと思えなければ、そんなシステムを維持して社会が機能するわけがない。少なくとも仲間は裏切らないと思えただろうし、仲間が年貢をちょろまかそうとしていれば、そんな事は止めろよとチクる前に言うに決まっている。裏切りと疑心暗鬼に支配されれば、自分がいつその立場に立たされるかわからなくなってしまう。

今年は辛いので、まともに年貢を払ったら食って行けないという人が仲間内にいれば、それを助けようとしたでしょう。そこでアッサリ裏切れば自分が同じ立場に立たされたとき、助けてもらえなくなってしまう。だから一緒にインチキをするか、みんなで助け合うかという選択はあっただろうけれど、チクって自分だけ助かろうという風にはなり難かったのではないかと思う。上手く相互扶助が機能するようなメカニズムが組み込まれていた。ある種の利他性が利己的に振る舞っていても機能するように選考構造に書き込まれていた。

そしてその上に立つ人間もその事を取り締まってふんぞり返っている奴もいただろうし、お目こぼし料を請求するクズもいたでしょうけれど、士道がある程度、そのお目こぼしがシステムを壊さない程度の倫理的価値判断が出来るように内蔵されていたんだろうと思う。だから長い事続いたのでしょう。

そんな昔の話じゃなくたって、部活とか学生の頃のホモソーシャルな共同体というのは、必ず教師に連帯責任を取らされた。だけどみんなが裏切りあってチクり合うという構造には普通あんまりならなかったはずです。お互いを庇い合い、責任を分担して、いざとなれば助けたり一緒にサボタージュしたりと、後から受けるサンクションはわかっているけれど、裏切る方がもっと自分にとって損をする決定になるという事がわかっていた。昔の教師はそういう連帯に免じてわかっているけれど知らん顔をしている人も結構いた。そういうのが単に責任逃れ、連帯して誰も悪くない図式として機能しているので、無前提に支持するわけには行きませんが、必要な所でのそういう身体性は消え、不必要な所でそういうのが残っちゃっている。

そして今の社会、体育会系なノリとか、五人組なんて制度はありませんが、疑心暗鬼と抜け駆け感が支配している。五人組的連帯責任は不自由だから、個がお互いを尊重し合う自由こそ最上の価値と叩き込んでどうなっているのかと言えば、誰も信用出来ないから、ちょっと何かが起これば警察のようなお上を介入させ、チクり合いになっている。お互いに信頼なんてしちゃいないわけだから、裏切っているという感覚すらない。単なる個の分断になっている。結果的に不自由な監視社会を自ら望むという方向性になる。

もちろん酷い話が無かったとか言いたいわけじゃありませんが、ひょっとすると今よりまともな社会だったんじゃないか?という感じもする。そうじゃなければ250年も続かない。今の政治体制は戦後半世紀ちょっとしかたっていないのにもうどうにもならない袋小路に入り込んでいる。善政を行なっていないのだから当然です。

虐げられる女性、みたいなストーリーも捏造されているので、自由が無かったみたいな現在の価値観に照らした物言いをする頭の悪いジェンダー論者もいますけれど、女性の地位だって男より必ずしも弱かったのか?というとそれもどうも違うような感じですし、これは今でも地方には残っていると思いますが、外面は旦那が威張っていて、一見奥さんが従っているように見えるけれど、実は旦那を威張らせて手の平に乗せてコントロールしているという形がある種日本的家族の典型的な図式なんじゃないかと思う。これが漁師町なんかだと、陸の上の事に男は口を挟むな的な図式も残っている。

もちろん虐げられていた女性がいなかったとか言いたいわけじゃありませんが、その局所的な図式を全体に当てはめて、女性の権利に煽られて、男性と同じ環境に投げ出されてしまい女性の特権を捨てちゃったのではないか?という気がする。女性の男性化によって競争は激化しもちろん男の役割も縮小し、男女ともにあまり幸せになってないような気がする。今の若い女性がむしろ女性の権利なんかよりも、結婚とか出産とか家庭に憧れを持つようになっているのを見ると複雑な感じがする。

そしてその事によって、女性がより多くの富を自分で稼げるようになるという事は、より先進国が搾取すると言う構造は進む、先進国が女性の男性化を認めるという事は国全体で見ると益々裕福になる、それが国際社会での絶望的な構造格差を押し進めたという見方もあるわけです。生物学的に普通に考えればどう考えたって女の方が偉いに決まっている。男なんて単なる消耗品に過ぎないのに。生物の基本形は女性であり、それはどんな生物でもそうです。ある種、男はイレギュラーな存在であるわけで、だいたい役割が終われば死んで行くとか、捨てられるとか、メスに食われちゃう。そしてすぐに死ぬ。

当然自由になっていい事はいっぱいあると思います。昔の女性では経験出来ない自由があるのは事実でしょう。自分の事を自分で決める事がほぼ出来るわけで、それで世界が変わるとか価値観が変わるというのもありますから、単に昔がよかった論が言いたいわけじゃありません。何が言いたいかと言うと国家とか社会とか、これこそは絶対という中心軸を必要とせずにいられた身体性というのはある種女性的な感覚ではないかと思っているわけです。家社会というのもどちらかと言えば身近な所を考えて、家を繁栄させ子を育む、血のつながりはなくとも同じ共同体であれば寄り添って支え合うというのは、女性的社会だったのではないかと思う。

女性的価値観社会で回っていたから、男は男らしさを求めないと元々役立たずでしかないわけで、刀をぶら下げたり、腹を切る覚悟を見せたり、ホモソーシャルなものも機能し、所謂体育会系的ノリもそういうものであったかもしれない。昔の軍隊なんかはまさにそういうものの延長線上にあるだろうし、そういうのがあったからある意味男は威張っていられた。偉そうに出来た。それが消えて草食系男子が増えているのは、女性型社会から男性型社会を移行しているからではないかという風にも思える。女性が男性社会に順応し男性化する事によって、男性の役割が消えてしまった。そもそも美学だって男性的な言い訳が出発点であるとも言える。使い捨ての存在である自分達を慰めるためというか何というか。

女性が権力を握っていたかどうかって話ではなくて、元々社会とか国家とか、そういうものはある種のフィクションであり、単なる精子供給装置でしかない役立たずの男性が、精子を供給し、エサを運んでくる以外の役割を捏造して作り上げたのが国家とか社会であるわけです。言い方を変えれば女性をものにしたいというモチベーションによって、俺の方がいいモノを持っているぜと女性の気を引く為に、もしくは女性にエサを運ぶ過程で、全部一気に持って行ってしまうと、また取りに行かされる。だから少しずつ隠しておいて小出しにするとか、そういう女性に捨てられないような言い訳を構築する為に作り上げたのが社会とか国家だと極論すれば言える。

もっと極論すると、家社会というのは実体を守るわけで、ネットワーク社会というのは実体のない信頼を守ると言える。前者がモノであれば、後者は情報。実体のあるモノを守るのは女性的であると言える。逆に情報というのは本当はどうかというよりも、ある種のフィクションを重要視する部分があるわけで、フィクションは男が作り上げた幻想であり、男が自分達の役割があるという事を女性に認めさせる為に捏造したのが社会とか国家であるわけで、情報を重視するというのは男性的であると言える。

現代社会を見渡せば、自分も含めて天下国家を論じる奴は、だいたい男性なわけで、女性からすれば痛い奴という風に見られる。お前がそれを語ったからって何がどうなるっつうんだよと。そんな遠くの話より、今の生活に必要なものを現実的に見ているのは女性的であると言える。

元々日本というのはある種女性的価値観を軸にして回っていたような気がする。男性が作り出した社会とか国家とか、中心軸や宗教的な拠り所よりも、目の前の自分の土地であるとか、自分の一族であるとか、そういう所を重視していた。

将軍様とか藩主様的封建社会も、自分達の生活の延長線上に必要だからみんなが求めていたにすぎないわけで、だから江戸時代から明治時代に変わる際、あっという間にレジーム転換出来たわけです。終わりなき血みどろの内戦状態にはならなかった。上様が簡単に天子様へと価値転換出来る。天皇陛下万歳がマッカーサー様に簡単に変化出来たのも、そういう身体性が残っていたからかもしれない。悪く言えば勝ち馬現象と言いますか、それは今でも残っていますね。男らしくねえよと思っちゃうのもそこに理由があるのかもしれません。

これこそは絶対という旗印を掲げて奪い合うという事は、生活の延長線上というよりも、実際にどうかという事よりも、その中心軸を守らないと生活が立ち行かないのだという男社会の理屈によって争うわけで、そういうものにある程度歯止めをかけるような安全装置が女性的価値観社会にはあったような気がする。中心軸やお題目を追求して生活をないがしろにしてしまわないような安全装置が。

勘違いされると困るので書いておきますが、男性的価値観社会であるからと言っても、男性がすべてを牛耳っているというわけではないし、女性的価値観社会であると言っても女性が牛耳っているという意味ではありません。男性的価値観社会であっても、中心軸に熱狂する女性はいるだろうし、女性的価値観社会であっても男性はみんな表向きは威張っていたわけで、フィクションを重視するか?サブスタンスを重視するか?という違いだと思います。

これもやっぱりバランスなんでしょうけれど、生物学的に考えればサブスタンス重視であるだろうし、人間が社会性を持つ動物であるという事を考えればフィクションも重要となる。だけど人間である前に動物であるわけで、サブスタンスを無視してしまえば、生きて行けなくなっちゃう。それは滅びの道だとも言える。

極論すればサブスタンスさえ何とかなれば、病気で死ぬ事はあっても死ぬ事は無いわけで、もちろんサブスタンスを求めて争って殺し合うという事はありますが、サブスタンスを重要視するのなら、自分達も痛い目に合うと思えばサブスタンシャルじゃなくなる可能性があるわけで、分け与えた方が合理的なのではないかという解決法が成立し得る。サブスタンスじゃなくてフィクションで争い合うのは、何の為かわからなくなってしまう。歯止めが無くなってしまう。

近代化というのは男性が作り出したフィクションへと順応するという事であったのではなかろうかと思う。中心軸を求めて、天下国家を論じ、生活をないがしろにしてでもとか、蛸壺の暴走が全体を破壊してでもとか、その事によって結果的に自分達が痛い目に合うという本末転倒とかが起こりやすくなる。仕事をしていても幸福を感じないとかはまさに、仕事が目的化している事に気付き、おかしいぞ?と思うからそうなるわけで、何の為かが例えば生活のためとか、土地を守る為とか、一族郎党を守る為とかハッキリしていれば迷う必要なんて無い。

この男性的価値観社会に女性は巻き込まれているような気がする。その事によって男共も本当に役立たずだと気付いちゃった。だから男は戦争でも起こそうぜという風になる。戦争がこの世から無くならないのはそこに原因があるような気がする。日本ではそこまではまだ行きませんが、その事が余計に現代社会の男に不要さを感じさせているような気がする。寂しい男が増えている。

この中心軸を求めて鬩ぎあうという事の帰結に前大戦で気付き、この中心軸を解体するという事が、現代社会の自由の本義ではないかと思える。ヨーロッパなんかでは、いかにして中心軸を解体するのかが問われて来たわけですが、中々解体出来ずにグズグズやっているわけで、世界中が中心軸を掲げ合ってまだ鬩ぎあっている。

日本には元々自由という価値の最も重要な要素があったのに、西洋的な自由であるべきだという権利や価値観によって、表向きは自由だけれど、多様性や共存が消え、中心軸による統合を必要とするような不自由な社会にしてしまったような気がする。自由という価値の一番重要な奥義、一神教的文化では辿り着けない境地をわざわざ捨て去ってしまったのではないかという気がしてならない。元々の生物の基本形態である女性的価値観社会を忘れているような気がする。

確かに不自由な部分はあったのも事実でしょうけれど、表向きの不自由さと一緒に、単に自由にしたからと言っても獲得出来ない自由の神髄、共存の叡智を一緒に捨て去ってしまったのではないか?満たされる事の無いフィクションに追い立てられて右往左往するという図式に落ち込んでいるのではないかと思える。

どうやってまとめるのか?段々不安になって来ましたが、気にしないのが信条。
それでも、しつこくても、続きまする!!
まだ続きます。

モノにこだわらないという事がいい事であるという言い回しも、ちょっとオーバー・シンプリフィケーションになっちゃっているような所があって、厳密に言うと二つに分かれると思う。

モノへのこだわりを知っているからそれにとらわれず自由であろうとするこだわりの無さと、初めからこだわりもクソもなくただ単に空気を読んでいるだけの自由とはかけ離れたこだわりの無さ、この違いは全然違う。前者は空気を読まずに自由であろうとするこだわりの無さであるとすれば、後者はただ流されているだけの不自由を受け入れている。帰結は同じでも行為態度としては全く真逆です。

モノにこだわるという事は、まわりがなんて言おうが自分は自分の価値にコミットするぜという発想な訳ですから、これも空気を読まずに自由であろうとする方向性なので、まわりの雑念にとらわれずに、こだわらない自由にこだわる生き方と方向性は真逆であっても根本にあるものは同じです。したがってモノにこだわるか否かという分け方よりも、自由であろうとするか不自由を受け入れるのかという分け方の方がスッキリするような気がする。

例えば現在の若者の消費なんかで言うと、音楽なんかはYoutubeやiTunes、iPod、ネット配信などによって、過去のコンテンツがデータベース化されてフラット化し細分化しているのと、アマゾンのランキングなんかにみられるように、本や映画なんかはみんなが見ている(読んでいる)ものを消費する、という一見真逆の消費動向に見えるわけですが、これらには共通点があっていずれもコミュニケーションからかけ離れているというベースがある。だから細分化か?ランキング的な人気主義か?みたいな分け方では本質を見誤る。

コミュニケーションからかけ離れているが故に細分化して趣味がばらけているという事も出来るし、コミュニケーションする手段としての個を確立する為に、あえて個性的であろうとする。コミュニケーションからかけ離れているが故に空気を読んで同じであろうとする。いずれにしても自由であろうとする試みではなくて、自由に投げ出された個がコミュニケーションに包摂されようと不自由を求めている。

しかし自由であろうとする自由であるべきだと思って行動するという事もまた、不自由を己に課す事となるわけで、本当の意味での無自覚な自由というのは無規範になってしまう。自由であろうとする事そのものが不自由ではないのか?じゃあ無規範こそが自由と言えるのか?という矛盾が出てくる。自由である為にはどうあるべきかという事を徹底的に突き詰めて行くと、どうしても矛盾が出てくる。そもそも自由とはどうあるべきかという発想自体矛盾している。

自由は意外と苦しいものです。人間は不思議な物で、毎日忙しく拘束されてる時は、その拘束から解放されたいと願ったり、それを捨て去りたいという衝動に駆られたり、そこまでいかなくても、少しまとまった休みを確保してのんびりしたいとか思う物ですが、実際何も拘束される物がなくなると、何をするべきかいろいろ悩んでしまったりして、忙しくてもヒマでも疎外を感じる。

結局自由とは、不自由がなければ確認できないものなのではないかと思います。不自由とは考えなくてすむ方法なのだろうと。せっかく自由になっても、読書や、音楽、映画鑑賞、友人との時間、結局何かしらの不自由を求めてしまう。この世にあるあらゆるもの、国家、法律、道徳、宗教、戦争、平和、仕事、家庭、消費、恋愛、スポーツ、芸術、その他たくさんの、不自由に囲まれていないと我々は生きていけない。それが我々にアイデンティティーを与えてくれる。

結局不自由を選択する自由があるだけで、本来の意味の自由な状態とはあり得ないのかもしれない。あったとしても楽しい物ではないのでしょう。気が狂うのも不自由の選択の一つです。

俺は自由に生きるのだとどんなに鼻息を荒くしても、結局何かを選択したり、何らかの立ち位置を取った瞬間に、それは不自由を選択する事となる。不自由を選択した瞬間から、そこから自由になる事を夢想し、自由になれば何らかの不自由を求めて彷徨う。人間とは何とも厄介な不条理、矛盾を抱えたものです。

そこで必要となるのは、その矛盾を突破する論理を越えた不条理にどうやって向き合うのか?という発想になるわけで、そこでもこだわりを持つ(こだわらない事をこだわる)というのは意味を持つと思う。こだわりを持つという事は美学的生き方につながる所もある。美学とか言うとキザな言い回しですが、日本的に言うとそれが粋であるか?野暮であるか?ただ単に格好つけるというのともちょっと違って、格好悪いのが格好いいという境地もあり得るし、大勢に罵倒されたとしてもあえて悪者としての役割を引き受けて振る舞う事が美しいという事もあり得る。

もちろんそれは自己満足と紙一重なので、危険は間違いなくあるのですが、ちょっとそういう価値を見直すくらいなら必要な考え方ではないかと感じる。

徹底的に論理的に思考して突き詰めて行っても、人間である以上死ぬ。これは避けられない。所詮、人はどこまでいっても不条理な存在でしかない。その不条理を乗り越える時に必要なモチベーションとなるのが美学ではないかと思う。ようするにそれが合理的なのはわかるけれど、美しくないぜと思えるかどうか。粋じゃねえよ、野暮だぜと思うかどうか。

それは論理が不必要だと言う事ではない。自分を動機付ける為にも、外野の梯子はずしをはねつける為にも徹底的に論理で考えて、最後に残った残余の部分は格好いいと思えるかどうか?美しいかどうか?雑音に対してもそんな事は百も承知だぜと撥ね付ける為にも、論理は必要で、そんな事はわかっているけど、美しくねえよと言えるかどうか。

短期的合理性を追求していても、それがめぐりめぐって合成の誤謬に陥ってしまうとか、部分部分は最適化しているのに全体を見ると不合理な状態になるという事がよくあると書きましたが、人間である以上、やっぱり目先の損得勘定からは簡単には逃れる事は出来ない。合理的だと思えば飛びついてしまう。しかしちょっと待て、それはそうかもしれねえけれど、美しくねえじゃねえかと撥ね付ける事が出来るのは、多分論理では不可能な部分もあると思う。

もちろん賢い人が長期的合理性を計算して論理で突破するという事は可能かもしれませんが、それを多くの人に求めるのは難しい。賢明ではない我々が、目先の損得勘定や論理を撥ね付け、人を説得するのに有効な手段は、美学的かどうか、格好いいかどうかは重要な気がする。それが人にミメーシスを起こし、感染の輪が広がり、ムーブメントを起こす。時代を変える。まあもちろんムーブメントは新たな排除と統合を生むわけですから、堂々巡りなんですが、美学的であるという事が多分統合や不自由、ようするに安全に胡座をかかずに脱構築して行く為のモチベーションにもなると思う。

まあ美学なんて言ってられるのは、余裕があるやつの話であって、実際美学もクソも無いような、尊厳が引きはがれてしまっているような境遇に立っている人に、美学を求めよなんて言えないというのもあるでしょう。だから美学的に生きられるかどうかというのも、結局格差なんだよという話に降りてくるかもしれない。もちろんそれはそうかもしれません。余裕がある人の方が美学的に生きられるかもしれない。

ただこれは余裕と比例しているとは言えない部分もあります。余裕があるのに美しくない輩はいっぱいいますし、余裕が無いけれど、格好いい生き様の人もいる。美学的に生きて、やせ我慢したあげく死んじゃうとか、ハナっから論理もクソもなく、美学を掲げて討ち死に覚悟、玉砕覚悟の独りよがり、もしくは集団的暴走とか、そういう話では行き過ぎ本末転倒だと思いますが(結構この国ではそれが多いから問題なんだというのも事実だとは思います)、何かを判断する時の判断基準に、多少でも合理性の枠の外側から眺めるまなざしを持つ事によって、合理や論理の袋小路を突破する鍵があるような気がする。合成の誤謬を回避するようなまなざしを持つ事が出来るような気がする。

日本人には唯一無二の独特な、世界でも他に類をみない美意識、現実を切る取る感覚がある。だからこそ少し違ったこの国ならではの止揚するまなざしを持つ事だって出来るはずです。

ロゴス(論理)と対比される言葉にミュトスというのがある。これは神話、もしくはロゴスが論証する言葉であり、ミュトスは物語る言葉という風になる。人は昔から神話や物語に感染し、論理だけでは世の中割り切れないという事を遥か昔のギリシャの時代からわかっていた。

エートスを支える概念にエピステーメー(専門的な意見や知識)というのがあります。フーコーによれば、時代知とかメタ知なんて言われる。人はどんなに自由に振る舞っても、時代(メタ構造)から逃れる事が出来ない、しかし時代(歴史)を作るのは人間の力による所もあるわけで、エピステーメーを変化させる事は可能なはずです。

しかし洋服にこだわると言っても、空気を読まず自由に振る舞うと言っても、この時代の日本に暮らしているという事によって、決定的に我々はメタ構造に規定されている。そこからは逃れられない。いきなり紋付袴で仕事場に行ったらみんな驚くだろうし、そんな格好で電車に乗れば、じろじろ見られる。ちょんまげを結うとか、月代を剃るとか、もちろんふざけてやろうと思えば出来ますが、ネタじゃなくて本気でそういう事は出来ない。

どこかの部族がつけている飾りやペイントをほどこして、同じような格好でそのへんをフラフラするという事も出来ない。警察に職質されるでしょう。どんなにそれが彼らにとって格好よくて、イケているとしても、それを理解する事も出来ない。格好いいとかオシャレだとは思えない。

この国の今の時代というメタ構造に我々は規定されている。自由と言ってもその範囲でしかない。だからエピステーメーを根底から覆すという事もまた出来ない。ならば日本という場所に住んでいるというメタ構造にフィットする叡智を過去から学び、同時代性を外部から学ぶという事が重要なんでしょう。

それと同じで、人間は生まれた場所や、生まれた家庭、性別等々、ほぼ殆ど生まれた瞬間にある限界や制約を受け、決定的にその事に規定されてしまう。法律で手の届く範囲での公正さ、制度で担保出来る範囲での機会へのチャンス、どうしてもそれだけでは支えきれない所がある(もちろんこの国のそれはお粗末過ぎて話になりませんが)。論理だけでは越えられない壁を抱えている。

その壁と対峙したとき、論理を越える思考法が多分それに向き合う事を可能にし、場合によってはそれを乗り越えたり、手を差し伸べたり出来るものなのではないかと。

メタ構造に規定されて我々はモラルとかコモンセンスを持っているので、そこからひねり出す美意識だってある程度はそこからは逃れられません。しかし神話の時代からずっと貫かれた人としての変わらぬ美意識というのもあるわけで、それはメタ構造が何であれ、美しいと感じて来たから語り継がれて来たわけです。

メタ構造というのは時代が変われば変わって行く。しかしある種の美意識は変わらないものがある。メタ構造から、ほんの少しだけ自由になる力が、そこにはあるのではないかと思う。だから神話や芸術を必要として来たわけだし、ミュトスがロゴスの対概念として用いられたのではないかと。

モノへのこだわりを本当に取り戻す事が出来れば共同体的結束の復活は可能だと思います。そういう関係性によって承認が得られるようになれれば、絆不足に煽られる必要もなくなる。むしろその共同体から逃れる為に外へ向かって力学が作用する。

とは言うものの、モノの消費は単なる記号の消費へと変容しモノ自体にはすでに神は宿らない現在、もちろん昔のようなモノの輝きは取り戻す事は出来ないでしょうし、情報化の流れは止められない。かつてのような共同体の復活は難しいでしょう。そして資本主義である以上、ある状態とあるべき状態の峻別も不可欠でもある。それに今の日本の状況から考えれば、小さな政府の方向性は不可避だと思いますし、更なる流動化も必要だと思う。

しかし今の日本の有様は西洋的な価値観によって資本主義を駆動させる事ばかりに躍起になっていて、肝腎の日本的エートスみたいなものを支えるのに必要なものがなんであるのかを見失っている。

それは資本主義が悪いわけじゃないし、西洋的な価値観が悪いわけでもない。流動化が悪いわけでも、小さな政府が悪いわけでもない。日本人は日本人に合わせてカスタマイズするのが得意であったはずなのに、それを支えていたものもやっぱり、日本人的モノへのこだわりであったわけで、それも出来なくなって来てしょうがないからただ受け入れて合わせているけれど、それを支える神様もいないし、ネットワークへの信頼みたいなものが生まれるメカニズムが消えている。

何にもなくてスッカラカンだからバカ保守みたいに日本はいい国であるみたいな事をほざくクソが出てくる。道徳だとか喚くスットコドッコイが登場する。

一応補足しておきます。モノという言い方をしていますがそれは目標と置き換えてもいい。一神教的神のいないこの国での行動作法というか選考構造には、どう考えてもココロを推奨してもそれをバックアップするようなメカニズムが成立しようがない。

そうするとモノや目標にこだわる生き方とか、美学的生き方とか、そういうのが無いと何の為のネットワークなのかが明確にならないような気がする。道徳とか倫理とか、そういうべき論ばかりではなくて、何かを欲しいとか成し遂げたいと思う欲望や、格好よく生きたいというモチベーションを上手く否定する事なく利用した方が上手く行くような気がする。今更天皇主義を掲げるよりはよっぽどまともな気がする。

しつこいかもしれませんが、それでもつづく!!
なんか話がどんどん広がっちゃってますが、気にせず続けます。

モノは所詮モノでしかなく、モノにこだわりすぎてココロを失うというような言い方には一定の真実が含まれているとは思います。だからモノにこだわるのも大概にしてココロを見直す必要があるとか、モノを収集するのも結局ココロを満たす為であるわけだから、モノなんてなくともココロが満たされればいいではないかとか、そういう事は正しいと思う。

だけど、やっぱりモノへのモチベーションがないと、ココロだけを求めても何によってそれを満たすのかというツールが無くなっちゃっているような気がする。モノに偏りすぎてココロをないがしろにするのもよくないし、ココロばかりを推奨して、モノへの欲望を否定しきってしまうのもやっぱりバランスを欠いている。

どちらか?という事ではなくてバランスなんじゃないかと。所詮ココロは目に見えないわけですから、満たされていると思えば満たされていると言えるし、満たされているように見えても、満たされないと思えば満たされない。そうなると際限が無くなる。一神教的なそれを抑制する安全装置みたいなものがない。それが日本的モノへのこだわりにあったのではないのか?と思う。

だいぶ前に流行った映画「マトリックス」で描かれた世界観もまさに、そういう事を言っていたわけで、映画の中で主人公のネオが暮らしていた現実というのは、実は疑似現実空間で実際の現実は荒廃してコンピューターによって制御された世界でした。肉体も管理され夢を見せられていた。そこで主人公は自分が信じていた世界が嘘世界であったという事に目覚めて、現実世界を人間の手に取り戻す戦いに身を投じる。SF的なモチーフにはよく使われる図式です。

しかし現実の荒廃した世界のつまらなさを見てみろと突き付けられる。こんな不毛な世界なら夢でもいいから疑似現実の方がいいじゃないかと。ココロが満たされていれば実在なんて何でもいいじゃないかと。所詮人間なんてのは脳の電気信号によって現実を現実だと認識しているだけの話でしかないわけで、その電気信号が同じであれば、それが疑似だろうが真実だろうが同じではないか?と。情報化の罠、ココロの問題に価値を置く事の危うさみたいなものが描かれていた。

確かにそうです。現実世界なんて不毛でしかないのなら、別に疑似世界だって問題が無い。倫理的にそれを否定する理由は無い。地球の環境が滅茶苦茶になって人が住めなくなったって、疑似現実世界で現実と区別がつかずに気付かないで生活出来るのなら、何の問題も無いような気がする。むしろその方が争いや環境破壊が無くなりそうな気がする。

しかし我々はいや違うだろうという感覚をかろうじてまだ共有しているので、主人公が現実を取り戻す戦いに身を投じる姿に不自然さを感じる事は無い。多分それはココロを満たすというだけでは我々は満たされない不条理な存在であるという事が共通感覚としてあるからです。

例え区別がつかないとしても、それが本当に幸せか?と思える。気付いてしまった以上、知ってしまった以上、区別がつかない状態には戻れないではないかと。いくらそれで満たされていたとしても、満足出来ないのではないか?多くの人が騙されている状態はやっぱり健全ではないではないかと。

アメリカ人的に言えばそう思う根拠みたいなものは多分神なんでしょうけれど、日本人もそれに共感出来るのは、やっぱりココロだけではない何ものかがわかっているからではないかと思う。

モノにこだわるというのは蛸壺の鍔迫り合いに陥る帰結を生み出すのは間違いありません。今の日本もまさにそれによって様々な弊害が出ている。しかし何度も言いますが、にもかかわらず日本の歴史は悲劇の繰り返しというわけではない。むしろ悲劇がないから(あっても共有されず、たまにしか起こらないのですぐ忘れる)近代民主主義や資本主義が根付かないという所もあるわけで、その事が大問題であるものの最悪の事態は回避してきた。

一神教ではネットワークだなんて書きましたが、今でも聖地という土地(モノ)をめぐって終わりなき鬩ぎあいが繰り返されているわけですから、そういった悲劇への帰結は十分承知です。しかし聖地というのはモノであると同時に彼らにとってのココロでもある。

日本においてはそれがないから争わなかったのか?それともあったけれど争わない叡智があったのか?これは非常に単純に言いきれる話ではないのも百も承知なんですが、日本の神様は至る所に宿っちゃうというのがあったわけで、これこそが真なりという統合や排除みたいなバカ保守やアホリベラル的な話は日本的ではない。

神仏習合や和辻哲郎的に言えば無原則という原則であったとか、ある種の多様性に対する寛容さと、共存する知恵みたいなものがあったような気がする。その鍵になった家社会的システムに必要なメカニズムが消えている。

プロテスタティズムの精神が近代資本主義を駆動させた。というのが一般常識ですが、これはカルヴァンの言った予定説がベースになっている。どんなに真面目に神への信仰を深めても、その人の運命や死後神の国へ行けるかどうかは、すでにあらかじめ神によって決定されているという話です。

これによって、どんなに信仰を深めても満たされない。いくら真面目に頑張っても不安に煽られる。しかし自分は神に選ばれた人間であるはずだという、満たされる事の無い渇望によって勤勉さを獲得し、資本主義がドライブして行くというメカニズムです。

この状態になる事によって、あるべき状態に向かって行く身体性を獲得し、元々あった形式論理学との相乗効果によって、ある状態とあるべき状態を、モノとココロを、法律と正義を、国家と社会を、統治権力と市民を分離し、権利への渇望、自由への希求、様々なあるべき姿へのモチベーションによって近代をドライブさせる事が出来るようになる。

この切り離して分離して行くというのが近代の鍵になるので、その事自体は必要ではあります。その分離によって、本来個人が負担していたものや、身内や仲間が担保していたものが、どんどんアウトソーシングされて、不安を権益化するような事態が起こって来たり、リスク自体が無くなるわけでもリスクが起こる確率が減るわけでもないにも関わらず、リスクを担保していると錯覚出来るようになる。

肝腎なのは物理的に分離するという事ではないという事が近代のからくりです。実体と情報の分離になる。分離すると言っても実体は何も変わらない。経済も金が回ると景気がよくなるという話になるわけですが、よく考えると、金が回っても、金の総量が変わるわけじゃないんだから、様々な価値が生み出されているのだとしても、本当は単なる錯覚であるだけなのかもしれない。これが益々暴走し権利と責任を分離したり、社会からすら個人を分離するような時代になっている。

サブプライム問題のような証券化に生じる問題というのは、価値自体は変わっていないのに、リスクを分散させたり、情報を可視化する事によって逆に情報を隠すという作用が働くようになる。個人に金を貸したとして、その人の情報だけを見るとリスク50%だったりするのに、それを1万人分のリスクをひとまとめにして、1万分割すると、全体としてのリスクになるので、リスクが見えなくなる、そうすると総量としての価値は変わっていないはずなのに変わったように錯覚出来る。

リスクが少なくなったように感じるし、実際に個別的にはそうなっている。それを更にリスクは高いけれどリターンも高い博打的ものや、リスクも低くリターンも低い堅実型のものと、様々なニーズに合わせた証券化商品として組み替え、情報の操作によって無から価値を生み出す。リスクが様々であるはずなのに、一カ所の信頼が破壊されると全体に連鎖して、そのリスクの違いが無効化されてしまう。

分散化しやがってという批判が最近は多いのですが、分散化して、格付けする事によって、誰でもいつでも売れると思える。上場企業の株であればいざという時に売れると思う。どんなに堅実な商品でも、堅実な企業でも、誰も知らなければ売りたい時に売れない。みんなが売れると思うから買える。いつでも売れそうな気がするようにしないと資本主義が駆動しない。

この関係性を分離して行って駆動させるという事が悪いとか言いたいわけじゃなくて、それが根底にあるという事に自覚的になる必要があります。そして何で分離出来るのかと言えば神がいるからで、アリストテレス的な形式論理学というのも、すでにユダヤ教の教えの中にみられるように、西洋的な価値が中心にあるから、関係性をバラバラに解体してもバラバラに分裂しない。

明治時代に日本は資本主義を駆動させるわけですが、その際、プロテスタンティズムの神はこの国には無い。そこで天皇を使って近代国家を設計する事になる。しかし天皇を利用しても予定説があるわけじゃないし、天皇教が一般国民に広く伝わって来たという伝統があったわけでもないのに、急ごしらえの近代化図式でも近代化出来た。

それはすでに日本的エートスの中に勤勉さを担保する何ものかがあったからで、同時に結束とほどほどというのもあった。しかも蛸壺同士がバラバラでも、不安に煽られるとか、これこそは絶対とか、そういうものを必要としなくとも、そういったメカニズムを担保する何ものかがあった。だから近代化を遂げる事が出来たわけです。

しかし段々近代化が進んでくると、この分離作業が進んで行く。西洋的なメカニズムが元々あって分離するというわけではなく、無理矢理中心軸を作り出して統合し分離して行く、それが天皇であり、戦後はアメリカ、もしくは自民党であったのかもしれません。急に分離したものだから、アノミー化が進み、中心軸への統合も暴走してしまう。戦前の帰結がそれを示している。

天皇はともかくとして、アメリカや自民党が神の代替物になるわけありません。しかしそれでもわりと上手く回っていた。分離して行っても、経済がよかったというのもあっただろうし、戦争によって落ちる所まで落ちたからというのもあったかもしれない。分離作業が中々上手く行かなかったというのもひょっとすると功を奏していたのかもしれない。

しかしその分離作業が隅々まで行き渡るのと反比例して、アメリカへの幻想が壊れ、自民党への信頼が地に落ちて行く。経済も失速し、分離してしまった様々な価値を統合するような中心軸が消え、小泉安倍のような断固決然によって中心軸を握るという争奪戦が始まる。

この国は本当に中心軸を定めて分離して行かないと近代が駆動しなかったのか?これは検証不可能なので考えても無駄ですが、個人的に言えば結構どうにかなったような気がしますが、それでも分離は必要であったろうと思う。社会が複雑化すれば単純に善悪で物事は切れなくなるし、システムが複雑化すればそれを補う為の装置も必要になってしまう。個人の価値観や情報処理では間に合わない。

しかし我々が何を選んで何を捨てようとしていたのかという事に自覚的ではなかったような気がする。戦後ヨーロッパ的な思想哲学というのは、殆どこの中心軸をどうやって解体するのか?どうすれば相対化出来るのか?という事に重きを置いていた。統合が生み出した悲劇をどうすれば避ける事が出来るのかと。

日本には元々その叡智があった。しかもそうでありながらそこそこ勤勉で平和的に暮らす事が出来ていたわけです。しかし捨てる時に何を捨てているのか?何を選択しようとしているのかに無自覚であった為に、何が欠けているのかに中々気付く事が出来ない。

モノにこだわり蛸壺が鍔迫り合いを起こして社会をぶち壊しても組織益みたいな話や、空気を読んで誰かが止めてくれると思った的、戦前の暴走みたいな帰結もあるので、ただ褒めるのは話が違うような気がしないでもないのですが、戦前のある時期からの暴走以降今に至るまで、この蛸壺的鍔迫り合いというのは社会を破壊して来たのは事実です。

しかし江戸時代の幕藩体制なんかに見られるように、上手く蛸壺同士の牽制の力学を組み込んで設計すれば、それぞれの中心軸の相互作用によって上手く作動するような気がする。

もちろん忠臣蔵的蛸壺の結束の忠誠心が、もっと大きな共同体への忠誠心と相反してしまうというような、今の国家の益より組織益的な本末転倒スキームに近い現象もみられますが、肝腎なのはそれによって牽制の力学となり、社会的な公正さは守られる。法は確かに法だろう。しかし立派じゃないかと評価される。

それによって更なる法への厳格さと、社会の公正さは守られる事となる。単なる分捕り合戦で終わらない。もちろん忠臣蔵というのは明治以降の国家への忠義を教育する為に、国家が利用したから、日本人みんなにこれだけ普及しているのでしょうけれど、時に牽制の鍔迫り合いが起こっても、社会を破壊するには至らない安全装置が働いていたような気がする。

当時は独立採算の地方自治に任せ、武家も村々の自治にいちいち口出しなんてしなかった。最低限の決まりさえ守れば、それぞれに任せる。そしてお家取り潰しのような流動化もあったし、特に武家に対しては厳罰に処していた。それと同時に腹切って詫びれば、ちゃんと復活の経路もあり、ルサンチマンだけを蓄積させないような安全装置もあった。

将軍家でさえ、尾張、紀州、水戸の御三家、そして吉宗以降の、田安、一橋、清水の御三卿などを牽制させながら、ある程度権力の腐敗を防止する安全機構が上手く設計されていた。今は明治政府が作った歴史のフィクションで教育されているので、参勤交代で幕府が藩を苦しめていたみたいな話になっちゃったりするわけですが、これは戦争するよりはよっぽど平和的な公共投資であったわけで、戦争よりもコストは安いしリスクも低い、人も死ななかったわけだから全然マシな話だったはずです。

蛸壺の鍔迫り合いに陥ってしまうような行動作法はかなり昔から見られていますが、蛸壺同士の牽制の力学によって、藩は善政を行なわねばというモチベーションもあっただろうし、それが無ければ取り潰されるわけだから、所属する武家も悪い奴もいたでしょうけれど、一般的には倫理が上手くはたらくように選考構造にインセンティブメカニズムが内蔵されていた。

武家の教育も徹底した思想教育を成人するまで叩き込んで、専門的な知識なんかはむしろ町人とか専門職の人の方が詳しくて、思想をしっかり持った成人であれば専門的な知識なんてのは、その役食に就いた時にスペシャリストから学べばあっという間に身に付く、その前に人の上に立つ人間としての振る舞いが出来るように徹底的に教育する。それが鬩ぎあうから相互に牽制の作用を及ぼす。武家の教育は専門家を育てるのではなくて、人を育てていた。

こういう事を引き合いに出して、アホな政治家や頭の腐っているバカ保守なんかが道徳教育すべしなんて事をほざいたりしますが、なんにもわかっちゃいない。くるくるパーです。こういうバカが人の上に立っているから世の中乱れる。

人の上に立つ輩が腐っているのに末端の人間に道徳的であれとか、売国奴ばかりで利権しか頭に無いようなクズみたいな統治権力者が跳梁跋扈している状態で、愛国心を持てなんて言ったって、お前らが先ずやれよって話です。

企業のトップにしたって、常識も無い頭も悪い、責任感なんて微塵も無い。そういう所が問題な訳で、普通の市井の人々は別に道徳なんて学ばなくていい。最低限の事は生活してりゃ普通に身に付くし、大人が教えてやればそれで何の問題も無い。生活に必要な専門知識を身につければいい。人の上に立つ人間が規範を示せば、黙ってたって下がついてくる。善政を行なえば信頼も持つ。政がなんであるのかがわかっちゃいない。上が腐っていて悪政を強いているから人心が荒廃し乱れる。

先ず上の綱紀粛正が先であって、規範を示してから下にとやかく言えよって話です。腐ったブタ共が偉そうに言う事じゃない。消費税の話なんかもそうで、先ずやる事があるだろって話です。そういう単純な優先順位もわきまえず、穴の開いたバケツで水を汲む事ばかりやっている。それで溜まらない溜まらないと言っている。バカか?穴を塞げよって話です。

だから、蛸壺が鬩ぎあうから社会がぶっ壊れるという話も実は違うわけで、蛸壺が鬩ぎあっても社会が壊れないようなアーキテクチャーであれば何の問題も無いわけです。

もちろん流動化や情報化、そしてグローバライゼーションといった現代の様々な環境の変化で、はたしてそういう設計が出来るのか?という問題はあるにはありますし、設計なんて出来る奴いねえだろというのはそりゃそうなんですが、日本人に元々あるような特質みたいなものがネガティブに働いてしまうような社会設計である現在、それを否定しても特質みたいなものは簡単には無くなりませんので、上手く生かす方向性も考えた方がいいのではないかと思うのです。

天皇システムだって、昔から常にレジティマシーの調達装置の玉として、いざという時に牽制の力学となってもの凄い威力を発揮して来たわけです。天皇にその機能残っていれば、今の政府がここまで腐敗する事も無かったような気がする。

まだ続く!!