しつこいようですが続きます。
空気を読んで波風を立てないというのは、多分昔からある発想なので、モノにこだわるが故にそれが芽生えるか?という疑問は確かにあります。モノにこだわっていた時代に芽生えなかった代物なわけですから。しかしモノの価値を否定して、ココロを推奨するのはいいけれど、それを支えるメカニズムが無いまま個の自立とか、ゆとり教育の本義みたいな話を叩き込もうと思っても、実際には難しい所もあるんじゃないか?という気がする。本当にこだわる人間は空気なんて知ったこっちゃないわけで、そういう人が歴史を動かして来た。
従来の日本的作法を否定する事なく取り込んだ方が上手く行くのではないかと思う。それを否定して、まともな社会になっているのかと言えば、資本主義も民主主義もまともに機能しないし、個に分断されているだけで自立とは程遠い。もちろんかつてのような枠組みの再構築という事は出来ないに決まっていますが、日本的エートスを再認識してカスタマイズする必要があるのではないかという風に思うわけです。
勘違いされると困るので一応もう一度書いておきますが、ノスタルジーブーム的イメージの昭和30年代主義とか、一般的な昔がよかった論じゃありませんからね。家社会とは何を守る為に機能していたのか?何を信じる事が出来たから機能したのか?という事を考えると、モノが輝いていたからだという話です。モノへの欲望がある種の日本的エートスを支えていたのではないのか?という話で、それを持ちながらそこそことか、分け与えるという美意識があった。近代化が成熟してモノへの需要がある意味、飽和しきった状態なので、かつてのような輝きを取り戻す事は出来ないというのは百も承知です。
しかし今の我々はモノに対して、そんな時代だった事は一度も無いインチキノスタルジーに煽られて、ある種の欲望を否定するような感覚とか、絆が何によって生まれていたのかを忘れて、大量消費社会とモノへの欲望をある種イコールで結びつけている所がある。結果、モチベーションを生み出すメカニズムが消え、そこそこという美意識が建て前だけで残っている。そこそこでいいじゃないかというのが、経済成長を否定するような言説と結びついてしまっている。
そのへんの話は後で詳しく書きますが、多分日本にあったいい加減さというか、共存、換骨奪胎、無原則という原則、こういう叡智というのは、今の世界にとっても非常に有効なメッセージになると思う。オバマが発したメッセージも何となく似ている。オバマを羨ましがらなくとも、元々あるじゃねえかという気がする。平和憲法を掲げてこれこそは絶対と吹き上がるよりも、よっぽどいいような気がする。これこそは絶対とかいう言い方というのが一番日本的ではない。本来日本はこうあるべきだみたいな強い日本みたいな話を言うおたんこなすより、よっぽど有効なメッセージがあるような気がする。
カザ地区の悲劇なんかを見ていて思うのは、日本に移民すりゃいいのにとか思っちゃう(もちろんテロを起こしたくてウズウズしている人は勘弁してほしいですが、本当はこんな争い勘弁してくれと思っているのに巻き込まれてしまう人達って事です)。最近では何々人だからとか、在日だからとか、反日だからとか、不安と疑心暗鬼に煽られてそういう排除みたいなことを言う頭の弱いバカが増えてますが、それでもまだ、日本は何となく一緒に暮らせば包摂しちゃうようないい加減さは残っていると思う。血が繋がっていようがいまいが、同じ目的を共有出来れば家族以上に親密になれる。
多分そういう所がある国は他にあまり無いんじゃないかと。宗教的な争いも無いし、人種間での争いも無いし、そういう所を打ち出して行った方がよっぽどいい国になるような気がする。まあ朝青龍を虐めて喜んでいる人もいますが、相撲の中継なんかを見ると、朝青龍大人気じゃないですか。あれを見るとホッとする。日本も捨てたもんじゃないと思える。
コジェーヴにしろ、ボードリヤールにしろ、ロラン・バルトなんかもそうでしょう。日本的記号との戯れ方に仰天しているわけです。西洋なんかよりよっぽど進んでいると。もちろん自分は日本人なので、ちょっといいとこ取りなんじゃねえか?という気はしますが、中心がなくエクリチュールに縛られず、多様性を許容して共存するような日本的特性というのがあったから、日本の歴史が血みどろの争いばかりの歴史では無かったわけで、それが自由という価値の最も重要な部分なんじゃないかと思う。
ヨーロッパなんかを見ると、ローマの平和以後の1000年にわたって、10年以上平和だった事は一度も無い。日本が江戸時代の平和を確立した17世紀、ヨーロッパでは戦争が無かったのが4年しか無い。100年の間に4年ですよ。16世紀も10年しか無い。
16世紀は日本も戦争ばっかりやってましたが、江戸時代の平和は250年です。しかも圧政によって虐げていたってわけではない。それは他の国と比べて当時の日本の繁栄を考えれば比較にならないような繁栄と、ただ繁栄しているというだけではなくて、清潔でモラルもしっかりしていた。もちろん分け合えるような国の豊かさというベースがあるかないかの差もあるのでしょうけれど、それだけではないでしょう。
地理的要因が大部分の理由であって、日本人が素晴らしいとかそういう話ではないのですが、せっかく地理的要因によって芽生えていた不思議な感覚みたいなものの中に大切なものがあったような気がする。
江戸の街では時代劇的な捕り物なんかは実際は皆無で、治安も非常によかったと言われている。旅行なんかも結構流行っていたみたいだし(通行手形も遊びに行くという名目じゃなければ、要するに建て前で何らかの理由をつけてあれば、本当は遊びであっても日本的いい加減さが機能して出ていた)、貧しく虐げられる農民、みたいな話も相当嘘が混じっていて、意外と裕福だったし、相互扶助もしっかりしていた。
五人組なんかも今はどうかはわかりませんが、自分が学生の頃は戦前の隣組制度と同じような扱いと言うか、密告制度、連帯責任制度、相互監視制度という感じの、どちらかと言えば不自由を押し付けるかのような制度であったという教え方だったわけですが、こういう頭の悪い教育が蔓延っていたわけで、「新しい教科書をつくる会」的なバカの吹き上がりは、自分は好きじゃありませんけれど、そういうのが出て来ないとどうにもならないくらい、いい加減な事を教えていたのは事実だと思う。
普通に考えて、ゲーム理論の囚人のジレンマ的合理性で考えれば、五人組というのはどう考えても相互扶助のメカニズムにしかなりようが無い。これを密告とか監視とか教えていた所にこの国の袋小路の帰結があると思う。もちろん密告とかが無かったとか言いたいわけじゃなくて、普通どういう風に機能していただろうと想像すると、だいぶいい加減な話を吹き込まれていたような気がする。
犯罪を犯した二人の共犯の人間がパクられる、それぞれ別の部屋で尋問されて、それぞれに相手の悪事を素直に言えばお前は無罪にしてやると言われる。この二人が合理的決定をすれば、自分が助かろうと思って相手の事を裏切ってチクる。この裏切りのチクり合いというのは、お互いにとって自分が助かる為にそれぞれ合理的な決定であるわけですが、お互いの罪を認める事となるのでどっちも刑務所にぶち込まれて、一番不合理な選択に行き着く。どちらか一方が裏切れば、裏切っていない方がブタ箱にぶち込まれる。お互いが裏切らないはずだと信用して、相手を裏切り合わない一番両者に取って不合理な選択が、両方とも立件出来ずに釈放という犯罪者に取って一番合理的帰結を生み出す。
五人組のような制度も、お互いが裏切るのではないか?という風に監視し合うような疑心暗鬼であれば、いつ裏切られるかわかったもんじゃないし、ありもしない事を密告されかねない。だからやられる前にやれ的な構造になって結果的に共同体は機能しない。抜け駆けを心配しながら、相手を出し抜くという事をやってしまえば、いつ自分が同じ目にあうかわかったもんじゃない。そんな社会は250年も続くわけない。どう考えても統治するにしては全く合理性がない。
だからそんな制度ではないし、そんな事に眼目を置いていたわけではない。もちろんある程度の相互監視と牽制の意味はあったと思いますが、相手に裏切られないはずだと思えなければ、そんなシステムを維持して社会が機能するわけがない。少なくとも仲間は裏切らないと思えただろうし、仲間が年貢をちょろまかそうとしていれば、そんな事は止めろよとチクる前に言うに決まっている。裏切りと疑心暗鬼に支配されれば、自分がいつその立場に立たされるかわからなくなってしまう。
今年は辛いので、まともに年貢を払ったら食って行けないという人が仲間内にいれば、それを助けようとしたでしょう。そこでアッサリ裏切れば自分が同じ立場に立たされたとき、助けてもらえなくなってしまう。だから一緒にインチキをするか、みんなで助け合うかという選択はあっただろうけれど、チクって自分だけ助かろうという風にはなり難かったのではないかと思う。上手く相互扶助が機能するようなメカニズムが組み込まれていた。ある種の利他性が利己的に振る舞っていても機能するように選考構造に書き込まれていた。
そしてその上に立つ人間もその事を取り締まってふんぞり返っている奴もいただろうし、お目こぼし料を請求するクズもいたでしょうけれど、士道がある程度、そのお目こぼしがシステムを壊さない程度の倫理的価値判断が出来るように内蔵されていたんだろうと思う。だから長い事続いたのでしょう。
そんな昔の話じゃなくたって、部活とか学生の頃のホモソーシャルな共同体というのは、必ず教師に連帯責任を取らされた。だけどみんなが裏切りあってチクり合うという構造には普通あんまりならなかったはずです。お互いを庇い合い、責任を分担して、いざとなれば助けたり一緒にサボタージュしたりと、後から受けるサンクションはわかっているけれど、裏切る方がもっと自分にとって損をする決定になるという事がわかっていた。昔の教師はそういう連帯に免じてわかっているけれど知らん顔をしている人も結構いた。そういうのが単に責任逃れ、連帯して誰も悪くない図式として機能しているので、無前提に支持するわけには行きませんが、必要な所でのそういう身体性は消え、不必要な所でそういうのが残っちゃっている。
そして今の社会、体育会系なノリとか、五人組なんて制度はありませんが、疑心暗鬼と抜け駆け感が支配している。五人組的連帯責任は不自由だから、個がお互いを尊重し合う自由こそ最上の価値と叩き込んでどうなっているのかと言えば、誰も信用出来ないから、ちょっと何かが起これば警察のようなお上を介入させ、チクり合いになっている。お互いに信頼なんてしちゃいないわけだから、裏切っているという感覚すらない。単なる個の分断になっている。結果的に不自由な監視社会を自ら望むという方向性になる。
もちろん酷い話が無かったとか言いたいわけじゃありませんが、ひょっとすると今よりまともな社会だったんじゃないか?という感じもする。そうじゃなければ250年も続かない。今の政治体制は戦後半世紀ちょっとしかたっていないのにもうどうにもならない袋小路に入り込んでいる。善政を行なっていないのだから当然です。
虐げられる女性、みたいなストーリーも捏造されているので、自由が無かったみたいな現在の価値観に照らした物言いをする頭の悪いジェンダー論者もいますけれど、女性の地位だって男より必ずしも弱かったのか?というとそれもどうも違うような感じですし、これは今でも地方には残っていると思いますが、外面は旦那が威張っていて、一見奥さんが従っているように見えるけれど、実は旦那を威張らせて手の平に乗せてコントロールしているという形がある種日本的家族の典型的な図式なんじゃないかと思う。これが漁師町なんかだと、陸の上の事に男は口を挟むな的な図式も残っている。
もちろん虐げられていた女性がいなかったとか言いたいわけじゃありませんが、その局所的な図式を全体に当てはめて、女性の権利に煽られて、男性と同じ環境に投げ出されてしまい女性の特権を捨てちゃったのではないか?という気がする。女性の男性化によって競争は激化しもちろん男の役割も縮小し、男女ともにあまり幸せになってないような気がする。今の若い女性がむしろ女性の権利なんかよりも、結婚とか出産とか家庭に憧れを持つようになっているのを見ると複雑な感じがする。
そしてその事によって、女性がより多くの富を自分で稼げるようになるという事は、より先進国が搾取すると言う構造は進む、先進国が女性の男性化を認めるという事は国全体で見ると益々裕福になる、それが国際社会での絶望的な構造格差を押し進めたという見方もあるわけです。生物学的に普通に考えればどう考えたって女の方が偉いに決まっている。男なんて単なる消耗品に過ぎないのに。生物の基本形は女性であり、それはどんな生物でもそうです。ある種、男はイレギュラーな存在であるわけで、だいたい役割が終われば死んで行くとか、捨てられるとか、メスに食われちゃう。そしてすぐに死ぬ。
当然自由になっていい事はいっぱいあると思います。昔の女性では経験出来ない自由があるのは事実でしょう。自分の事を自分で決める事がほぼ出来るわけで、それで世界が変わるとか価値観が変わるというのもありますから、単に昔がよかった論が言いたいわけじゃありません。何が言いたいかと言うと国家とか社会とか、これこそは絶対という中心軸を必要とせずにいられた身体性というのはある種女性的な感覚ではないかと思っているわけです。家社会というのもどちらかと言えば身近な所を考えて、家を繁栄させ子を育む、血のつながりはなくとも同じ共同体であれば寄り添って支え合うというのは、女性的社会だったのではないかと思う。
女性的価値観社会で回っていたから、男は男らしさを求めないと元々役立たずでしかないわけで、刀をぶら下げたり、腹を切る覚悟を見せたり、ホモソーシャルなものも機能し、所謂体育会系的ノリもそういうものであったかもしれない。昔の軍隊なんかはまさにそういうものの延長線上にあるだろうし、そういうのがあったからある意味男は威張っていられた。偉そうに出来た。それが消えて草食系男子が増えているのは、女性型社会から男性型社会を移行しているからではないかという風にも思える。女性が男性社会に順応し男性化する事によって、男性の役割が消えてしまった。そもそも美学だって男性的な言い訳が出発点であるとも言える。使い捨ての存在である自分達を慰めるためというか何というか。
女性が権力を握っていたかどうかって話ではなくて、元々社会とか国家とか、そういうものはある種のフィクションであり、単なる精子供給装置でしかない役立たずの男性が、精子を供給し、エサを運んでくる以外の役割を捏造して作り上げたのが国家とか社会であるわけです。言い方を変えれば女性をものにしたいというモチベーションによって、俺の方がいいモノを持っているぜと女性の気を引く為に、もしくは女性にエサを運ぶ過程で、全部一気に持って行ってしまうと、また取りに行かされる。だから少しずつ隠しておいて小出しにするとか、そういう女性に捨てられないような言い訳を構築する為に作り上げたのが社会とか国家だと極論すれば言える。
もっと極論すると、家社会というのは実体を守るわけで、ネットワーク社会というのは実体のない信頼を守ると言える。前者がモノであれば、後者は情報。実体のあるモノを守るのは女性的であると言える。逆に情報というのは本当はどうかというよりも、ある種のフィクションを重要視する部分があるわけで、フィクションは男が作り上げた幻想であり、男が自分達の役割があるという事を女性に認めさせる為に捏造したのが社会とか国家であるわけで、情報を重視するというのは男性的であると言える。
現代社会を見渡せば、自分も含めて天下国家を論じる奴は、だいたい男性なわけで、女性からすれば痛い奴という風に見られる。お前がそれを語ったからって何がどうなるっつうんだよと。そんな遠くの話より、今の生活に必要なものを現実的に見ているのは女性的であると言える。
元々日本というのはある種女性的価値観を軸にして回っていたような気がする。男性が作り出した社会とか国家とか、中心軸や宗教的な拠り所よりも、目の前の自分の土地であるとか、自分の一族であるとか、そういう所を重視していた。
将軍様とか藩主様的封建社会も、自分達の生活の延長線上に必要だからみんなが求めていたにすぎないわけで、だから江戸時代から明治時代に変わる際、あっという間にレジーム転換出来たわけです。終わりなき血みどろの内戦状態にはならなかった。上様が簡単に天子様へと価値転換出来る。天皇陛下万歳がマッカーサー様に簡単に変化出来たのも、そういう身体性が残っていたからかもしれない。悪く言えば勝ち馬現象と言いますか、それは今でも残っていますね。男らしくねえよと思っちゃうのもそこに理由があるのかもしれません。
これこそは絶対という旗印を掲げて奪い合うという事は、生活の延長線上というよりも、実際にどうかという事よりも、その中心軸を守らないと生活が立ち行かないのだという男社会の理屈によって争うわけで、そういうものにある程度歯止めをかけるような安全装置が女性的価値観社会にはあったような気がする。中心軸やお題目を追求して生活をないがしろにしてしまわないような安全装置が。
勘違いされると困るので書いておきますが、男性的価値観社会であるからと言っても、男性がすべてを牛耳っているというわけではないし、女性的価値観社会であると言っても女性が牛耳っているという意味ではありません。男性的価値観社会であっても、中心軸に熱狂する女性はいるだろうし、女性的価値観社会であっても男性はみんな表向きは威張っていたわけで、フィクションを重視するか?サブスタンスを重視するか?という違いだと思います。
これもやっぱりバランスなんでしょうけれど、生物学的に考えればサブスタンス重視であるだろうし、人間が社会性を持つ動物であるという事を考えればフィクションも重要となる。だけど人間である前に動物であるわけで、サブスタンスを無視してしまえば、生きて行けなくなっちゃう。それは滅びの道だとも言える。
極論すればサブスタンスさえ何とかなれば、病気で死ぬ事はあっても死ぬ事は無いわけで、もちろんサブスタンスを求めて争って殺し合うという事はありますが、サブスタンスを重要視するのなら、自分達も痛い目に合うと思えばサブスタンシャルじゃなくなる可能性があるわけで、分け与えた方が合理的なのではないかという解決法が成立し得る。サブスタンスじゃなくてフィクションで争い合うのは、何の為かわからなくなってしまう。歯止めが無くなってしまう。
近代化というのは男性が作り出したフィクションへと順応するという事であったのではなかろうかと思う。中心軸を求めて、天下国家を論じ、生活をないがしろにしてでもとか、蛸壺の暴走が全体を破壊してでもとか、その事によって結果的に自分達が痛い目に合うという本末転倒とかが起こりやすくなる。仕事をしていても幸福を感じないとかはまさに、仕事が目的化している事に気付き、おかしいぞ?と思うからそうなるわけで、何の為かが例えば生活のためとか、土地を守る為とか、一族郎党を守る為とかハッキリしていれば迷う必要なんて無い。
この男性的価値観社会に女性は巻き込まれているような気がする。その事によって男共も本当に役立たずだと気付いちゃった。だから男は戦争でも起こそうぜという風になる。戦争がこの世から無くならないのはそこに原因があるような気がする。日本ではそこまではまだ行きませんが、その事が余計に現代社会の男に不要さを感じさせているような気がする。寂しい男が増えている。
この中心軸を求めて鬩ぎあうという事の帰結に前大戦で気付き、この中心軸を解体するという事が、現代社会の自由の本義ではないかと思える。ヨーロッパなんかでは、いかにして中心軸を解体するのかが問われて来たわけですが、中々解体出来ずにグズグズやっているわけで、世界中が中心軸を掲げ合ってまだ鬩ぎあっている。
日本には元々自由という価値の最も重要な要素があったのに、西洋的な自由であるべきだという権利や価値観によって、表向きは自由だけれど、多様性や共存が消え、中心軸による統合を必要とするような不自由な社会にしてしまったような気がする。自由という価値の一番重要な奥義、一神教的文化では辿り着けない境地をわざわざ捨て去ってしまったのではないかという気がしてならない。元々の生物の基本形態である女性的価値観社会を忘れているような気がする。
確かに不自由な部分はあったのも事実でしょうけれど、表向きの不自由さと一緒に、単に自由にしたからと言っても獲得出来ない自由の神髄、共存の叡智を一緒に捨て去ってしまったのではないか?満たされる事の無いフィクションに追い立てられて右往左往するという図式に落ち込んでいるのではないかと思える。
どうやってまとめるのか?段々不安になって来ましたが、気にしないのが信条。
それでも、しつこくても、続きまする!!
空気を読んで波風を立てないというのは、多分昔からある発想なので、モノにこだわるが故にそれが芽生えるか?という疑問は確かにあります。モノにこだわっていた時代に芽生えなかった代物なわけですから。しかしモノの価値を否定して、ココロを推奨するのはいいけれど、それを支えるメカニズムが無いまま個の自立とか、ゆとり教育の本義みたいな話を叩き込もうと思っても、実際には難しい所もあるんじゃないか?という気がする。本当にこだわる人間は空気なんて知ったこっちゃないわけで、そういう人が歴史を動かして来た。
従来の日本的作法を否定する事なく取り込んだ方が上手く行くのではないかと思う。それを否定して、まともな社会になっているのかと言えば、資本主義も民主主義もまともに機能しないし、個に分断されているだけで自立とは程遠い。もちろんかつてのような枠組みの再構築という事は出来ないに決まっていますが、日本的エートスを再認識してカスタマイズする必要があるのではないかという風に思うわけです。
勘違いされると困るので一応もう一度書いておきますが、ノスタルジーブーム的イメージの昭和30年代主義とか、一般的な昔がよかった論じゃありませんからね。家社会とは何を守る為に機能していたのか?何を信じる事が出来たから機能したのか?という事を考えると、モノが輝いていたからだという話です。モノへの欲望がある種の日本的エートスを支えていたのではないのか?という話で、それを持ちながらそこそことか、分け与えるという美意識があった。近代化が成熟してモノへの需要がある意味、飽和しきった状態なので、かつてのような輝きを取り戻す事は出来ないというのは百も承知です。
しかし今の我々はモノに対して、そんな時代だった事は一度も無いインチキノスタルジーに煽られて、ある種の欲望を否定するような感覚とか、絆が何によって生まれていたのかを忘れて、大量消費社会とモノへの欲望をある種イコールで結びつけている所がある。結果、モチベーションを生み出すメカニズムが消え、そこそこという美意識が建て前だけで残っている。そこそこでいいじゃないかというのが、経済成長を否定するような言説と結びついてしまっている。
そのへんの話は後で詳しく書きますが、多分日本にあったいい加減さというか、共存、換骨奪胎、無原則という原則、こういう叡智というのは、今の世界にとっても非常に有効なメッセージになると思う。オバマが発したメッセージも何となく似ている。オバマを羨ましがらなくとも、元々あるじゃねえかという気がする。平和憲法を掲げてこれこそは絶対と吹き上がるよりも、よっぽどいいような気がする。これこそは絶対とかいう言い方というのが一番日本的ではない。本来日本はこうあるべきだみたいな強い日本みたいな話を言うおたんこなすより、よっぽど有効なメッセージがあるような気がする。
カザ地区の悲劇なんかを見ていて思うのは、日本に移民すりゃいいのにとか思っちゃう(もちろんテロを起こしたくてウズウズしている人は勘弁してほしいですが、本当はこんな争い勘弁してくれと思っているのに巻き込まれてしまう人達って事です)。最近では何々人だからとか、在日だからとか、反日だからとか、不安と疑心暗鬼に煽られてそういう排除みたいなことを言う頭の弱いバカが増えてますが、それでもまだ、日本は何となく一緒に暮らせば包摂しちゃうようないい加減さは残っていると思う。血が繋がっていようがいまいが、同じ目的を共有出来れば家族以上に親密になれる。
多分そういう所がある国は他にあまり無いんじゃないかと。宗教的な争いも無いし、人種間での争いも無いし、そういう所を打ち出して行った方がよっぽどいい国になるような気がする。まあ朝青龍を虐めて喜んでいる人もいますが、相撲の中継なんかを見ると、朝青龍大人気じゃないですか。あれを見るとホッとする。日本も捨てたもんじゃないと思える。
コジェーヴにしろ、ボードリヤールにしろ、ロラン・バルトなんかもそうでしょう。日本的記号との戯れ方に仰天しているわけです。西洋なんかよりよっぽど進んでいると。もちろん自分は日本人なので、ちょっといいとこ取りなんじゃねえか?という気はしますが、中心がなくエクリチュールに縛られず、多様性を許容して共存するような日本的特性というのがあったから、日本の歴史が血みどろの争いばかりの歴史では無かったわけで、それが自由という価値の最も重要な部分なんじゃないかと思う。
ヨーロッパなんかを見ると、ローマの平和以後の1000年にわたって、10年以上平和だった事は一度も無い。日本が江戸時代の平和を確立した17世紀、ヨーロッパでは戦争が無かったのが4年しか無い。100年の間に4年ですよ。16世紀も10年しか無い。
16世紀は日本も戦争ばっかりやってましたが、江戸時代の平和は250年です。しかも圧政によって虐げていたってわけではない。それは他の国と比べて当時の日本の繁栄を考えれば比較にならないような繁栄と、ただ繁栄しているというだけではなくて、清潔でモラルもしっかりしていた。もちろん分け合えるような国の豊かさというベースがあるかないかの差もあるのでしょうけれど、それだけではないでしょう。
地理的要因が大部分の理由であって、日本人が素晴らしいとかそういう話ではないのですが、せっかく地理的要因によって芽生えていた不思議な感覚みたいなものの中に大切なものがあったような気がする。
江戸の街では時代劇的な捕り物なんかは実際は皆無で、治安も非常によかったと言われている。旅行なんかも結構流行っていたみたいだし(通行手形も遊びに行くという名目じゃなければ、要するに建て前で何らかの理由をつけてあれば、本当は遊びであっても日本的いい加減さが機能して出ていた)、貧しく虐げられる農民、みたいな話も相当嘘が混じっていて、意外と裕福だったし、相互扶助もしっかりしていた。
五人組なんかも今はどうかはわかりませんが、自分が学生の頃は戦前の隣組制度と同じような扱いと言うか、密告制度、連帯責任制度、相互監視制度という感じの、どちらかと言えば不自由を押し付けるかのような制度であったという教え方だったわけですが、こういう頭の悪い教育が蔓延っていたわけで、「新しい教科書をつくる会」的なバカの吹き上がりは、自分は好きじゃありませんけれど、そういうのが出て来ないとどうにもならないくらい、いい加減な事を教えていたのは事実だと思う。
普通に考えて、ゲーム理論の囚人のジレンマ的合理性で考えれば、五人組というのはどう考えても相互扶助のメカニズムにしかなりようが無い。これを密告とか監視とか教えていた所にこの国の袋小路の帰結があると思う。もちろん密告とかが無かったとか言いたいわけじゃなくて、普通どういう風に機能していただろうと想像すると、だいぶいい加減な話を吹き込まれていたような気がする。
犯罪を犯した二人の共犯の人間がパクられる、それぞれ別の部屋で尋問されて、それぞれに相手の悪事を素直に言えばお前は無罪にしてやると言われる。この二人が合理的決定をすれば、自分が助かろうと思って相手の事を裏切ってチクる。この裏切りのチクり合いというのは、お互いにとって自分が助かる為にそれぞれ合理的な決定であるわけですが、お互いの罪を認める事となるのでどっちも刑務所にぶち込まれて、一番不合理な選択に行き着く。どちらか一方が裏切れば、裏切っていない方がブタ箱にぶち込まれる。お互いが裏切らないはずだと信用して、相手を裏切り合わない一番両者に取って不合理な選択が、両方とも立件出来ずに釈放という犯罪者に取って一番合理的帰結を生み出す。
五人組のような制度も、お互いが裏切るのではないか?という風に監視し合うような疑心暗鬼であれば、いつ裏切られるかわかったもんじゃないし、ありもしない事を密告されかねない。だからやられる前にやれ的な構造になって結果的に共同体は機能しない。抜け駆けを心配しながら、相手を出し抜くという事をやってしまえば、いつ自分が同じ目にあうかわかったもんじゃない。そんな社会は250年も続くわけない。どう考えても統治するにしては全く合理性がない。
だからそんな制度ではないし、そんな事に眼目を置いていたわけではない。もちろんある程度の相互監視と牽制の意味はあったと思いますが、相手に裏切られないはずだと思えなければ、そんなシステムを維持して社会が機能するわけがない。少なくとも仲間は裏切らないと思えただろうし、仲間が年貢をちょろまかそうとしていれば、そんな事は止めろよとチクる前に言うに決まっている。裏切りと疑心暗鬼に支配されれば、自分がいつその立場に立たされるかわからなくなってしまう。
今年は辛いので、まともに年貢を払ったら食って行けないという人が仲間内にいれば、それを助けようとしたでしょう。そこでアッサリ裏切れば自分が同じ立場に立たされたとき、助けてもらえなくなってしまう。だから一緒にインチキをするか、みんなで助け合うかという選択はあっただろうけれど、チクって自分だけ助かろうという風にはなり難かったのではないかと思う。上手く相互扶助が機能するようなメカニズムが組み込まれていた。ある種の利他性が利己的に振る舞っていても機能するように選考構造に書き込まれていた。
そしてその上に立つ人間もその事を取り締まってふんぞり返っている奴もいただろうし、お目こぼし料を請求するクズもいたでしょうけれど、士道がある程度、そのお目こぼしがシステムを壊さない程度の倫理的価値判断が出来るように内蔵されていたんだろうと思う。だから長い事続いたのでしょう。
そんな昔の話じゃなくたって、部活とか学生の頃のホモソーシャルな共同体というのは、必ず教師に連帯責任を取らされた。だけどみんなが裏切りあってチクり合うという構造には普通あんまりならなかったはずです。お互いを庇い合い、責任を分担して、いざとなれば助けたり一緒にサボタージュしたりと、後から受けるサンクションはわかっているけれど、裏切る方がもっと自分にとって損をする決定になるという事がわかっていた。昔の教師はそういう連帯に免じてわかっているけれど知らん顔をしている人も結構いた。そういうのが単に責任逃れ、連帯して誰も悪くない図式として機能しているので、無前提に支持するわけには行きませんが、必要な所でのそういう身体性は消え、不必要な所でそういうのが残っちゃっている。
そして今の社会、体育会系なノリとか、五人組なんて制度はありませんが、疑心暗鬼と抜け駆け感が支配している。五人組的連帯責任は不自由だから、個がお互いを尊重し合う自由こそ最上の価値と叩き込んでどうなっているのかと言えば、誰も信用出来ないから、ちょっと何かが起これば警察のようなお上を介入させ、チクり合いになっている。お互いに信頼なんてしちゃいないわけだから、裏切っているという感覚すらない。単なる個の分断になっている。結果的に不自由な監視社会を自ら望むという方向性になる。
もちろん酷い話が無かったとか言いたいわけじゃありませんが、ひょっとすると今よりまともな社会だったんじゃないか?という感じもする。そうじゃなければ250年も続かない。今の政治体制は戦後半世紀ちょっとしかたっていないのにもうどうにもならない袋小路に入り込んでいる。善政を行なっていないのだから当然です。
虐げられる女性、みたいなストーリーも捏造されているので、自由が無かったみたいな現在の価値観に照らした物言いをする頭の悪いジェンダー論者もいますけれど、女性の地位だって男より必ずしも弱かったのか?というとそれもどうも違うような感じですし、これは今でも地方には残っていると思いますが、外面は旦那が威張っていて、一見奥さんが従っているように見えるけれど、実は旦那を威張らせて手の平に乗せてコントロールしているという形がある種日本的家族の典型的な図式なんじゃないかと思う。これが漁師町なんかだと、陸の上の事に男は口を挟むな的な図式も残っている。
もちろん虐げられていた女性がいなかったとか言いたいわけじゃありませんが、その局所的な図式を全体に当てはめて、女性の権利に煽られて、男性と同じ環境に投げ出されてしまい女性の特権を捨てちゃったのではないか?という気がする。女性の男性化によって競争は激化しもちろん男の役割も縮小し、男女ともにあまり幸せになってないような気がする。今の若い女性がむしろ女性の権利なんかよりも、結婚とか出産とか家庭に憧れを持つようになっているのを見ると複雑な感じがする。
そしてその事によって、女性がより多くの富を自分で稼げるようになるという事は、より先進国が搾取すると言う構造は進む、先進国が女性の男性化を認めるという事は国全体で見ると益々裕福になる、それが国際社会での絶望的な構造格差を押し進めたという見方もあるわけです。生物学的に普通に考えればどう考えたって女の方が偉いに決まっている。男なんて単なる消耗品に過ぎないのに。生物の基本形は女性であり、それはどんな生物でもそうです。ある種、男はイレギュラーな存在であるわけで、だいたい役割が終われば死んで行くとか、捨てられるとか、メスに食われちゃう。そしてすぐに死ぬ。
当然自由になっていい事はいっぱいあると思います。昔の女性では経験出来ない自由があるのは事実でしょう。自分の事を自分で決める事がほぼ出来るわけで、それで世界が変わるとか価値観が変わるというのもありますから、単に昔がよかった論が言いたいわけじゃありません。何が言いたいかと言うと国家とか社会とか、これこそは絶対という中心軸を必要とせずにいられた身体性というのはある種女性的な感覚ではないかと思っているわけです。家社会というのもどちらかと言えば身近な所を考えて、家を繁栄させ子を育む、血のつながりはなくとも同じ共同体であれば寄り添って支え合うというのは、女性的社会だったのではないかと思う。
女性的価値観社会で回っていたから、男は男らしさを求めないと元々役立たずでしかないわけで、刀をぶら下げたり、腹を切る覚悟を見せたり、ホモソーシャルなものも機能し、所謂体育会系的ノリもそういうものであったかもしれない。昔の軍隊なんかはまさにそういうものの延長線上にあるだろうし、そういうのがあったからある意味男は威張っていられた。偉そうに出来た。それが消えて草食系男子が増えているのは、女性型社会から男性型社会を移行しているからではないかという風にも思える。女性が男性社会に順応し男性化する事によって、男性の役割が消えてしまった。そもそも美学だって男性的な言い訳が出発点であるとも言える。使い捨ての存在である自分達を慰めるためというか何というか。
女性が権力を握っていたかどうかって話ではなくて、元々社会とか国家とか、そういうものはある種のフィクションであり、単なる精子供給装置でしかない役立たずの男性が、精子を供給し、エサを運んでくる以外の役割を捏造して作り上げたのが国家とか社会であるわけです。言い方を変えれば女性をものにしたいというモチベーションによって、俺の方がいいモノを持っているぜと女性の気を引く為に、もしくは女性にエサを運ぶ過程で、全部一気に持って行ってしまうと、また取りに行かされる。だから少しずつ隠しておいて小出しにするとか、そういう女性に捨てられないような言い訳を構築する為に作り上げたのが社会とか国家だと極論すれば言える。
もっと極論すると、家社会というのは実体を守るわけで、ネットワーク社会というのは実体のない信頼を守ると言える。前者がモノであれば、後者は情報。実体のあるモノを守るのは女性的であると言える。逆に情報というのは本当はどうかというよりも、ある種のフィクションを重要視する部分があるわけで、フィクションは男が作り上げた幻想であり、男が自分達の役割があるという事を女性に認めさせる為に捏造したのが社会とか国家であるわけで、情報を重視するというのは男性的であると言える。
現代社会を見渡せば、自分も含めて天下国家を論じる奴は、だいたい男性なわけで、女性からすれば痛い奴という風に見られる。お前がそれを語ったからって何がどうなるっつうんだよと。そんな遠くの話より、今の生活に必要なものを現実的に見ているのは女性的であると言える。
元々日本というのはある種女性的価値観を軸にして回っていたような気がする。男性が作り出した社会とか国家とか、中心軸や宗教的な拠り所よりも、目の前の自分の土地であるとか、自分の一族であるとか、そういう所を重視していた。
将軍様とか藩主様的封建社会も、自分達の生活の延長線上に必要だからみんなが求めていたにすぎないわけで、だから江戸時代から明治時代に変わる際、あっという間にレジーム転換出来たわけです。終わりなき血みどろの内戦状態にはならなかった。上様が簡単に天子様へと価値転換出来る。天皇陛下万歳がマッカーサー様に簡単に変化出来たのも、そういう身体性が残っていたからかもしれない。悪く言えば勝ち馬現象と言いますか、それは今でも残っていますね。男らしくねえよと思っちゃうのもそこに理由があるのかもしれません。
これこそは絶対という旗印を掲げて奪い合うという事は、生活の延長線上というよりも、実際にどうかという事よりも、その中心軸を守らないと生活が立ち行かないのだという男社会の理屈によって争うわけで、そういうものにある程度歯止めをかけるような安全装置が女性的価値観社会にはあったような気がする。中心軸やお題目を追求して生活をないがしろにしてしまわないような安全装置が。
勘違いされると困るので書いておきますが、男性的価値観社会であるからと言っても、男性がすべてを牛耳っているというわけではないし、女性的価値観社会であると言っても女性が牛耳っているという意味ではありません。男性的価値観社会であっても、中心軸に熱狂する女性はいるだろうし、女性的価値観社会であっても男性はみんな表向きは威張っていたわけで、フィクションを重視するか?サブスタンスを重視するか?という違いだと思います。
これもやっぱりバランスなんでしょうけれど、生物学的に考えればサブスタンス重視であるだろうし、人間が社会性を持つ動物であるという事を考えればフィクションも重要となる。だけど人間である前に動物であるわけで、サブスタンスを無視してしまえば、生きて行けなくなっちゃう。それは滅びの道だとも言える。
極論すればサブスタンスさえ何とかなれば、病気で死ぬ事はあっても死ぬ事は無いわけで、もちろんサブスタンスを求めて争って殺し合うという事はありますが、サブスタンスを重要視するのなら、自分達も痛い目に合うと思えばサブスタンシャルじゃなくなる可能性があるわけで、分け与えた方が合理的なのではないかという解決法が成立し得る。サブスタンスじゃなくてフィクションで争い合うのは、何の為かわからなくなってしまう。歯止めが無くなってしまう。
近代化というのは男性が作り出したフィクションへと順応するという事であったのではなかろうかと思う。中心軸を求めて、天下国家を論じ、生活をないがしろにしてでもとか、蛸壺の暴走が全体を破壊してでもとか、その事によって結果的に自分達が痛い目に合うという本末転倒とかが起こりやすくなる。仕事をしていても幸福を感じないとかはまさに、仕事が目的化している事に気付き、おかしいぞ?と思うからそうなるわけで、何の為かが例えば生活のためとか、土地を守る為とか、一族郎党を守る為とかハッキリしていれば迷う必要なんて無い。
この男性的価値観社会に女性は巻き込まれているような気がする。その事によって男共も本当に役立たずだと気付いちゃった。だから男は戦争でも起こそうぜという風になる。戦争がこの世から無くならないのはそこに原因があるような気がする。日本ではそこまではまだ行きませんが、その事が余計に現代社会の男に不要さを感じさせているような気がする。寂しい男が増えている。
この中心軸を求めて鬩ぎあうという事の帰結に前大戦で気付き、この中心軸を解体するという事が、現代社会の自由の本義ではないかと思える。ヨーロッパなんかでは、いかにして中心軸を解体するのかが問われて来たわけですが、中々解体出来ずにグズグズやっているわけで、世界中が中心軸を掲げ合ってまだ鬩ぎあっている。
日本には元々自由という価値の最も重要な要素があったのに、西洋的な自由であるべきだという権利や価値観によって、表向きは自由だけれど、多様性や共存が消え、中心軸による統合を必要とするような不自由な社会にしてしまったような気がする。自由という価値の一番重要な奥義、一神教的文化では辿り着けない境地をわざわざ捨て去ってしまったのではないかという気がしてならない。元々の生物の基本形態である女性的価値観社会を忘れているような気がする。
確かに不自由な部分はあったのも事実でしょうけれど、表向きの不自由さと一緒に、単に自由にしたからと言っても獲得出来ない自由の神髄、共存の叡智を一緒に捨て去ってしまったのではないか?満たされる事の無いフィクションに追い立てられて右往左往するという図式に落ち込んでいるのではないかと思える。
どうやってまとめるのか?段々不安になって来ましたが、気にしないのが信条。
それでも、しつこくても、続きまする!!