なんか話がどんどん広がっちゃってますが、気にせず続けます。
モノは所詮モノでしかなく、モノにこだわりすぎてココロを失うというような言い方には一定の真実が含まれているとは思います。だからモノにこだわるのも大概にしてココロを見直す必要があるとか、モノを収集するのも結局ココロを満たす為であるわけだから、モノなんてなくともココロが満たされればいいではないかとか、そういう事は正しいと思う。
だけど、やっぱりモノへのモチベーションがないと、ココロだけを求めても何によってそれを満たすのかというツールが無くなっちゃっているような気がする。モノに偏りすぎてココロをないがしろにするのもよくないし、ココロばかりを推奨して、モノへの欲望を否定しきってしまうのもやっぱりバランスを欠いている。
どちらか?という事ではなくてバランスなんじゃないかと。所詮ココロは目に見えないわけですから、満たされていると思えば満たされていると言えるし、満たされているように見えても、満たされないと思えば満たされない。そうなると際限が無くなる。一神教的なそれを抑制する安全装置みたいなものがない。それが日本的モノへのこだわりにあったのではないのか?と思う。
だいぶ前に流行った映画「マトリックス」で描かれた世界観もまさに、そういう事を言っていたわけで、映画の中で主人公のネオが暮らしていた現実というのは、実は疑似現実空間で実際の現実は荒廃してコンピューターによって制御された世界でした。肉体も管理され夢を見せられていた。そこで主人公は自分が信じていた世界が嘘世界であったという事に目覚めて、現実世界を人間の手に取り戻す戦いに身を投じる。SF的なモチーフにはよく使われる図式です。
しかし現実の荒廃した世界のつまらなさを見てみろと突き付けられる。こんな不毛な世界なら夢でもいいから疑似現実の方がいいじゃないかと。ココロが満たされていれば実在なんて何でもいいじゃないかと。所詮人間なんてのは脳の電気信号によって現実を現実だと認識しているだけの話でしかないわけで、その電気信号が同じであれば、それが疑似だろうが真実だろうが同じではないか?と。情報化の罠、ココロの問題に価値を置く事の危うさみたいなものが描かれていた。
確かにそうです。現実世界なんて不毛でしかないのなら、別に疑似世界だって問題が無い。倫理的にそれを否定する理由は無い。地球の環境が滅茶苦茶になって人が住めなくなったって、疑似現実世界で現実と区別がつかずに気付かないで生活出来るのなら、何の問題も無いような気がする。むしろその方が争いや環境破壊が無くなりそうな気がする。
しかし我々はいや違うだろうという感覚をかろうじてまだ共有しているので、主人公が現実を取り戻す戦いに身を投じる姿に不自然さを感じる事は無い。多分それはココロを満たすというだけでは我々は満たされない不条理な存在であるという事が共通感覚としてあるからです。
例え区別がつかないとしても、それが本当に幸せか?と思える。気付いてしまった以上、知ってしまった以上、区別がつかない状態には戻れないではないかと。いくらそれで満たされていたとしても、満足出来ないのではないか?多くの人が騙されている状態はやっぱり健全ではないではないかと。
アメリカ人的に言えばそう思う根拠みたいなものは多分神なんでしょうけれど、日本人もそれに共感出来るのは、やっぱりココロだけではない何ものかがわかっているからではないかと思う。
モノにこだわるというのは蛸壺の鍔迫り合いに陥る帰結を生み出すのは間違いありません。今の日本もまさにそれによって様々な弊害が出ている。しかし何度も言いますが、にもかかわらず日本の歴史は悲劇の繰り返しというわけではない。むしろ悲劇がないから(あっても共有されず、たまにしか起こらないのですぐ忘れる)近代民主主義や資本主義が根付かないという所もあるわけで、その事が大問題であるものの最悪の事態は回避してきた。
一神教ではネットワークだなんて書きましたが、今でも聖地という土地(モノ)をめぐって終わりなき鬩ぎあいが繰り返されているわけですから、そういった悲劇への帰結は十分承知です。しかし聖地というのはモノであると同時に彼らにとってのココロでもある。
日本においてはそれがないから争わなかったのか?それともあったけれど争わない叡智があったのか?これは非常に単純に言いきれる話ではないのも百も承知なんですが、日本の神様は至る所に宿っちゃうというのがあったわけで、これこそが真なりという統合や排除みたいなバカ保守やアホリベラル的な話は日本的ではない。
神仏習合や和辻哲郎的に言えば無原則という原則であったとか、ある種の多様性に対する寛容さと、共存する知恵みたいなものがあったような気がする。その鍵になった家社会的システムに必要なメカニズムが消えている。
プロテスタティズムの精神が近代資本主義を駆動させた。というのが一般常識ですが、これはカルヴァンの言った予定説がベースになっている。どんなに真面目に神への信仰を深めても、その人の運命や死後神の国へ行けるかどうかは、すでにあらかじめ神によって決定されているという話です。
これによって、どんなに信仰を深めても満たされない。いくら真面目に頑張っても不安に煽られる。しかし自分は神に選ばれた人間であるはずだという、満たされる事の無い渇望によって勤勉さを獲得し、資本主義がドライブして行くというメカニズムです。
この状態になる事によって、あるべき状態に向かって行く身体性を獲得し、元々あった形式論理学との相乗効果によって、ある状態とあるべき状態を、モノとココロを、法律と正義を、国家と社会を、統治権力と市民を分離し、権利への渇望、自由への希求、様々なあるべき姿へのモチベーションによって近代をドライブさせる事が出来るようになる。
この切り離して分離して行くというのが近代の鍵になるので、その事自体は必要ではあります。その分離によって、本来個人が負担していたものや、身内や仲間が担保していたものが、どんどんアウトソーシングされて、不安を権益化するような事態が起こって来たり、リスク自体が無くなるわけでもリスクが起こる確率が減るわけでもないにも関わらず、リスクを担保していると錯覚出来るようになる。
肝腎なのは物理的に分離するという事ではないという事が近代のからくりです。実体と情報の分離になる。分離すると言っても実体は何も変わらない。経済も金が回ると景気がよくなるという話になるわけですが、よく考えると、金が回っても、金の総量が変わるわけじゃないんだから、様々な価値が生み出されているのだとしても、本当は単なる錯覚であるだけなのかもしれない。これが益々暴走し権利と責任を分離したり、社会からすら個人を分離するような時代になっている。
サブプライム問題のような証券化に生じる問題というのは、価値自体は変わっていないのに、リスクを分散させたり、情報を可視化する事によって逆に情報を隠すという作用が働くようになる。個人に金を貸したとして、その人の情報だけを見るとリスク50%だったりするのに、それを1万人分のリスクをひとまとめにして、1万分割すると、全体としてのリスクになるので、リスクが見えなくなる、そうすると総量としての価値は変わっていないはずなのに変わったように錯覚出来る。
リスクが少なくなったように感じるし、実際に個別的にはそうなっている。それを更にリスクは高いけれどリターンも高い博打的ものや、リスクも低くリターンも低い堅実型のものと、様々なニーズに合わせた証券化商品として組み替え、情報の操作によって無から価値を生み出す。リスクが様々であるはずなのに、一カ所の信頼が破壊されると全体に連鎖して、そのリスクの違いが無効化されてしまう。
分散化しやがってという批判が最近は多いのですが、分散化して、格付けする事によって、誰でもいつでも売れると思える。上場企業の株であればいざという時に売れると思う。どんなに堅実な商品でも、堅実な企業でも、誰も知らなければ売りたい時に売れない。みんなが売れると思うから買える。いつでも売れそうな気がするようにしないと資本主義が駆動しない。
この関係性を分離して行って駆動させるという事が悪いとか言いたいわけじゃなくて、それが根底にあるという事に自覚的になる必要があります。そして何で分離出来るのかと言えば神がいるからで、アリストテレス的な形式論理学というのも、すでにユダヤ教の教えの中にみられるように、西洋的な価値が中心にあるから、関係性をバラバラに解体してもバラバラに分裂しない。
明治時代に日本は資本主義を駆動させるわけですが、その際、プロテスタンティズムの神はこの国には無い。そこで天皇を使って近代国家を設計する事になる。しかし天皇を利用しても予定説があるわけじゃないし、天皇教が一般国民に広く伝わって来たという伝統があったわけでもないのに、急ごしらえの近代化図式でも近代化出来た。
それはすでに日本的エートスの中に勤勉さを担保する何ものかがあったからで、同時に結束とほどほどというのもあった。しかも蛸壺同士がバラバラでも、不安に煽られるとか、これこそは絶対とか、そういうものを必要としなくとも、そういったメカニズムを担保する何ものかがあった。だから近代化を遂げる事が出来たわけです。
しかし段々近代化が進んでくると、この分離作業が進んで行く。西洋的なメカニズムが元々あって分離するというわけではなく、無理矢理中心軸を作り出して統合し分離して行く、それが天皇であり、戦後はアメリカ、もしくは自民党であったのかもしれません。急に分離したものだから、アノミー化が進み、中心軸への統合も暴走してしまう。戦前の帰結がそれを示している。
天皇はともかくとして、アメリカや自民党が神の代替物になるわけありません。しかしそれでもわりと上手く回っていた。分離して行っても、経済がよかったというのもあっただろうし、戦争によって落ちる所まで落ちたからというのもあったかもしれない。分離作業が中々上手く行かなかったというのもひょっとすると功を奏していたのかもしれない。
しかしその分離作業が隅々まで行き渡るのと反比例して、アメリカへの幻想が壊れ、自民党への信頼が地に落ちて行く。経済も失速し、分離してしまった様々な価値を統合するような中心軸が消え、小泉安倍のような断固決然によって中心軸を握るという争奪戦が始まる。
この国は本当に中心軸を定めて分離して行かないと近代が駆動しなかったのか?これは検証不可能なので考えても無駄ですが、個人的に言えば結構どうにかなったような気がしますが、それでも分離は必要であったろうと思う。社会が複雑化すれば単純に善悪で物事は切れなくなるし、システムが複雑化すればそれを補う為の装置も必要になってしまう。個人の価値観や情報処理では間に合わない。
しかし我々が何を選んで何を捨てようとしていたのかという事に自覚的ではなかったような気がする。戦後ヨーロッパ的な思想哲学というのは、殆どこの中心軸をどうやって解体するのか?どうすれば相対化出来るのか?という事に重きを置いていた。統合が生み出した悲劇をどうすれば避ける事が出来るのかと。
日本には元々その叡智があった。しかもそうでありながらそこそこ勤勉で平和的に暮らす事が出来ていたわけです。しかし捨てる時に何を捨てているのか?何を選択しようとしているのかに無自覚であった為に、何が欠けているのかに中々気付く事が出来ない。
モノにこだわり蛸壺が鍔迫り合いを起こして社会をぶち壊しても組織益みたいな話や、空気を読んで誰かが止めてくれると思った的、戦前の暴走みたいな帰結もあるので、ただ褒めるのは話が違うような気がしないでもないのですが、戦前のある時期からの暴走以降今に至るまで、この蛸壺的鍔迫り合いというのは社会を破壊して来たのは事実です。
しかし江戸時代の幕藩体制なんかに見られるように、上手く蛸壺同士の牽制の力学を組み込んで設計すれば、それぞれの中心軸の相互作用によって上手く作動するような気がする。
もちろん忠臣蔵的蛸壺の結束の忠誠心が、もっと大きな共同体への忠誠心と相反してしまうというような、今の国家の益より組織益的な本末転倒スキームに近い現象もみられますが、肝腎なのはそれによって牽制の力学となり、社会的な公正さは守られる。法は確かに法だろう。しかし立派じゃないかと評価される。
それによって更なる法への厳格さと、社会の公正さは守られる事となる。単なる分捕り合戦で終わらない。もちろん忠臣蔵というのは明治以降の国家への忠義を教育する為に、国家が利用したから、日本人みんなにこれだけ普及しているのでしょうけれど、時に牽制の鍔迫り合いが起こっても、社会を破壊するには至らない安全装置が働いていたような気がする。
当時は独立採算の地方自治に任せ、武家も村々の自治にいちいち口出しなんてしなかった。最低限の決まりさえ守れば、それぞれに任せる。そしてお家取り潰しのような流動化もあったし、特に武家に対しては厳罰に処していた。それと同時に腹切って詫びれば、ちゃんと復活の経路もあり、ルサンチマンだけを蓄積させないような安全装置もあった。
将軍家でさえ、尾張、紀州、水戸の御三家、そして吉宗以降の、田安、一橋、清水の御三卿などを牽制させながら、ある程度権力の腐敗を防止する安全機構が上手く設計されていた。今は明治政府が作った歴史のフィクションで教育されているので、参勤交代で幕府が藩を苦しめていたみたいな話になっちゃったりするわけですが、これは戦争するよりはよっぽど平和的な公共投資であったわけで、戦争よりもコストは安いしリスクも低い、人も死ななかったわけだから全然マシな話だったはずです。
蛸壺の鍔迫り合いに陥ってしまうような行動作法はかなり昔から見られていますが、蛸壺同士の牽制の力学によって、藩は善政を行なわねばというモチベーションもあっただろうし、それが無ければ取り潰されるわけだから、所属する武家も悪い奴もいたでしょうけれど、一般的には倫理が上手くはたらくように選考構造にインセンティブメカニズムが内蔵されていた。
武家の教育も徹底した思想教育を成人するまで叩き込んで、専門的な知識なんかはむしろ町人とか専門職の人の方が詳しくて、思想をしっかり持った成人であれば専門的な知識なんてのは、その役食に就いた時にスペシャリストから学べばあっという間に身に付く、その前に人の上に立つ人間としての振る舞いが出来るように徹底的に教育する。それが鬩ぎあうから相互に牽制の作用を及ぼす。武家の教育は専門家を育てるのではなくて、人を育てていた。
こういう事を引き合いに出して、アホな政治家や頭の腐っているバカ保守なんかが道徳教育すべしなんて事をほざいたりしますが、なんにもわかっちゃいない。くるくるパーです。こういうバカが人の上に立っているから世の中乱れる。
人の上に立つ輩が腐っているのに末端の人間に道徳的であれとか、売国奴ばかりで利権しか頭に無いようなクズみたいな統治権力者が跳梁跋扈している状態で、愛国心を持てなんて言ったって、お前らが先ずやれよって話です。
企業のトップにしたって、常識も無い頭も悪い、責任感なんて微塵も無い。そういう所が問題な訳で、普通の市井の人々は別に道徳なんて学ばなくていい。最低限の事は生活してりゃ普通に身に付くし、大人が教えてやればそれで何の問題も無い。生活に必要な専門知識を身につければいい。人の上に立つ人間が規範を示せば、黙ってたって下がついてくる。善政を行なえば信頼も持つ。政がなんであるのかがわかっちゃいない。上が腐っていて悪政を強いているから人心が荒廃し乱れる。
先ず上の綱紀粛正が先であって、規範を示してから下にとやかく言えよって話です。腐ったブタ共が偉そうに言う事じゃない。消費税の話なんかもそうで、先ずやる事があるだろって話です。そういう単純な優先順位もわきまえず、穴の開いたバケツで水を汲む事ばかりやっている。それで溜まらない溜まらないと言っている。バカか?穴を塞げよって話です。
だから、蛸壺が鬩ぎあうから社会がぶっ壊れるという話も実は違うわけで、蛸壺が鬩ぎあっても社会が壊れないようなアーキテクチャーであれば何の問題も無いわけです。
もちろん流動化や情報化、そしてグローバライゼーションといった現代の様々な環境の変化で、はたしてそういう設計が出来るのか?という問題はあるにはありますし、設計なんて出来る奴いねえだろというのはそりゃそうなんですが、日本人に元々あるような特質みたいなものがネガティブに働いてしまうような社会設計である現在、それを否定しても特質みたいなものは簡単には無くなりませんので、上手く生かす方向性も考えた方がいいのではないかと思うのです。
天皇システムだって、昔から常にレジティマシーの調達装置の玉として、いざという時に牽制の力学となってもの凄い威力を発揮して来たわけです。天皇にその機能残っていれば、今の政府がここまで腐敗する事も無かったような気がする。
まだ続く!!
モノは所詮モノでしかなく、モノにこだわりすぎてココロを失うというような言い方には一定の真実が含まれているとは思います。だからモノにこだわるのも大概にしてココロを見直す必要があるとか、モノを収集するのも結局ココロを満たす為であるわけだから、モノなんてなくともココロが満たされればいいではないかとか、そういう事は正しいと思う。
だけど、やっぱりモノへのモチベーションがないと、ココロだけを求めても何によってそれを満たすのかというツールが無くなっちゃっているような気がする。モノに偏りすぎてココロをないがしろにするのもよくないし、ココロばかりを推奨して、モノへの欲望を否定しきってしまうのもやっぱりバランスを欠いている。
どちらか?という事ではなくてバランスなんじゃないかと。所詮ココロは目に見えないわけですから、満たされていると思えば満たされていると言えるし、満たされているように見えても、満たされないと思えば満たされない。そうなると際限が無くなる。一神教的なそれを抑制する安全装置みたいなものがない。それが日本的モノへのこだわりにあったのではないのか?と思う。
だいぶ前に流行った映画「マトリックス」で描かれた世界観もまさに、そういう事を言っていたわけで、映画の中で主人公のネオが暮らしていた現実というのは、実は疑似現実空間で実際の現実は荒廃してコンピューターによって制御された世界でした。肉体も管理され夢を見せられていた。そこで主人公は自分が信じていた世界が嘘世界であったという事に目覚めて、現実世界を人間の手に取り戻す戦いに身を投じる。SF的なモチーフにはよく使われる図式です。
しかし現実の荒廃した世界のつまらなさを見てみろと突き付けられる。こんな不毛な世界なら夢でもいいから疑似現実の方がいいじゃないかと。ココロが満たされていれば実在なんて何でもいいじゃないかと。所詮人間なんてのは脳の電気信号によって現実を現実だと認識しているだけの話でしかないわけで、その電気信号が同じであれば、それが疑似だろうが真実だろうが同じではないか?と。情報化の罠、ココロの問題に価値を置く事の危うさみたいなものが描かれていた。
確かにそうです。現実世界なんて不毛でしかないのなら、別に疑似世界だって問題が無い。倫理的にそれを否定する理由は無い。地球の環境が滅茶苦茶になって人が住めなくなったって、疑似現実世界で現実と区別がつかずに気付かないで生活出来るのなら、何の問題も無いような気がする。むしろその方が争いや環境破壊が無くなりそうな気がする。
しかし我々はいや違うだろうという感覚をかろうじてまだ共有しているので、主人公が現実を取り戻す戦いに身を投じる姿に不自然さを感じる事は無い。多分それはココロを満たすというだけでは我々は満たされない不条理な存在であるという事が共通感覚としてあるからです。
例え区別がつかないとしても、それが本当に幸せか?と思える。気付いてしまった以上、知ってしまった以上、区別がつかない状態には戻れないではないかと。いくらそれで満たされていたとしても、満足出来ないのではないか?多くの人が騙されている状態はやっぱり健全ではないではないかと。
アメリカ人的に言えばそう思う根拠みたいなものは多分神なんでしょうけれど、日本人もそれに共感出来るのは、やっぱりココロだけではない何ものかがわかっているからではないかと思う。
モノにこだわるというのは蛸壺の鍔迫り合いに陥る帰結を生み出すのは間違いありません。今の日本もまさにそれによって様々な弊害が出ている。しかし何度も言いますが、にもかかわらず日本の歴史は悲劇の繰り返しというわけではない。むしろ悲劇がないから(あっても共有されず、たまにしか起こらないのですぐ忘れる)近代民主主義や資本主義が根付かないという所もあるわけで、その事が大問題であるものの最悪の事態は回避してきた。
一神教ではネットワークだなんて書きましたが、今でも聖地という土地(モノ)をめぐって終わりなき鬩ぎあいが繰り返されているわけですから、そういった悲劇への帰結は十分承知です。しかし聖地というのはモノであると同時に彼らにとってのココロでもある。
日本においてはそれがないから争わなかったのか?それともあったけれど争わない叡智があったのか?これは非常に単純に言いきれる話ではないのも百も承知なんですが、日本の神様は至る所に宿っちゃうというのがあったわけで、これこそが真なりという統合や排除みたいなバカ保守やアホリベラル的な話は日本的ではない。
神仏習合や和辻哲郎的に言えば無原則という原則であったとか、ある種の多様性に対する寛容さと、共存する知恵みたいなものがあったような気がする。その鍵になった家社会的システムに必要なメカニズムが消えている。
プロテスタティズムの精神が近代資本主義を駆動させた。というのが一般常識ですが、これはカルヴァンの言った予定説がベースになっている。どんなに真面目に神への信仰を深めても、その人の運命や死後神の国へ行けるかどうかは、すでにあらかじめ神によって決定されているという話です。
これによって、どんなに信仰を深めても満たされない。いくら真面目に頑張っても不安に煽られる。しかし自分は神に選ばれた人間であるはずだという、満たされる事の無い渇望によって勤勉さを獲得し、資本主義がドライブして行くというメカニズムです。
この状態になる事によって、あるべき状態に向かって行く身体性を獲得し、元々あった形式論理学との相乗効果によって、ある状態とあるべき状態を、モノとココロを、法律と正義を、国家と社会を、統治権力と市民を分離し、権利への渇望、自由への希求、様々なあるべき姿へのモチベーションによって近代をドライブさせる事が出来るようになる。
この切り離して分離して行くというのが近代の鍵になるので、その事自体は必要ではあります。その分離によって、本来個人が負担していたものや、身内や仲間が担保していたものが、どんどんアウトソーシングされて、不安を権益化するような事態が起こって来たり、リスク自体が無くなるわけでもリスクが起こる確率が減るわけでもないにも関わらず、リスクを担保していると錯覚出来るようになる。
肝腎なのは物理的に分離するという事ではないという事が近代のからくりです。実体と情報の分離になる。分離すると言っても実体は何も変わらない。経済も金が回ると景気がよくなるという話になるわけですが、よく考えると、金が回っても、金の総量が変わるわけじゃないんだから、様々な価値が生み出されているのだとしても、本当は単なる錯覚であるだけなのかもしれない。これが益々暴走し権利と責任を分離したり、社会からすら個人を分離するような時代になっている。
サブプライム問題のような証券化に生じる問題というのは、価値自体は変わっていないのに、リスクを分散させたり、情報を可視化する事によって逆に情報を隠すという作用が働くようになる。個人に金を貸したとして、その人の情報だけを見るとリスク50%だったりするのに、それを1万人分のリスクをひとまとめにして、1万分割すると、全体としてのリスクになるので、リスクが見えなくなる、そうすると総量としての価値は変わっていないはずなのに変わったように錯覚出来る。
リスクが少なくなったように感じるし、実際に個別的にはそうなっている。それを更にリスクは高いけれどリターンも高い博打的ものや、リスクも低くリターンも低い堅実型のものと、様々なニーズに合わせた証券化商品として組み替え、情報の操作によって無から価値を生み出す。リスクが様々であるはずなのに、一カ所の信頼が破壊されると全体に連鎖して、そのリスクの違いが無効化されてしまう。
分散化しやがってという批判が最近は多いのですが、分散化して、格付けする事によって、誰でもいつでも売れると思える。上場企業の株であればいざという時に売れると思う。どんなに堅実な商品でも、堅実な企業でも、誰も知らなければ売りたい時に売れない。みんなが売れると思うから買える。いつでも売れそうな気がするようにしないと資本主義が駆動しない。
この関係性を分離して行って駆動させるという事が悪いとか言いたいわけじゃなくて、それが根底にあるという事に自覚的になる必要があります。そして何で分離出来るのかと言えば神がいるからで、アリストテレス的な形式論理学というのも、すでにユダヤ教の教えの中にみられるように、西洋的な価値が中心にあるから、関係性をバラバラに解体してもバラバラに分裂しない。
明治時代に日本は資本主義を駆動させるわけですが、その際、プロテスタンティズムの神はこの国には無い。そこで天皇を使って近代国家を設計する事になる。しかし天皇を利用しても予定説があるわけじゃないし、天皇教が一般国民に広く伝わって来たという伝統があったわけでもないのに、急ごしらえの近代化図式でも近代化出来た。
それはすでに日本的エートスの中に勤勉さを担保する何ものかがあったからで、同時に結束とほどほどというのもあった。しかも蛸壺同士がバラバラでも、不安に煽られるとか、これこそは絶対とか、そういうものを必要としなくとも、そういったメカニズムを担保する何ものかがあった。だから近代化を遂げる事が出来たわけです。
しかし段々近代化が進んでくると、この分離作業が進んで行く。西洋的なメカニズムが元々あって分離するというわけではなく、無理矢理中心軸を作り出して統合し分離して行く、それが天皇であり、戦後はアメリカ、もしくは自民党であったのかもしれません。急に分離したものだから、アノミー化が進み、中心軸への統合も暴走してしまう。戦前の帰結がそれを示している。
天皇はともかくとして、アメリカや自民党が神の代替物になるわけありません。しかしそれでもわりと上手く回っていた。分離して行っても、経済がよかったというのもあっただろうし、戦争によって落ちる所まで落ちたからというのもあったかもしれない。分離作業が中々上手く行かなかったというのもひょっとすると功を奏していたのかもしれない。
しかしその分離作業が隅々まで行き渡るのと反比例して、アメリカへの幻想が壊れ、自民党への信頼が地に落ちて行く。経済も失速し、分離してしまった様々な価値を統合するような中心軸が消え、小泉安倍のような断固決然によって中心軸を握るという争奪戦が始まる。
この国は本当に中心軸を定めて分離して行かないと近代が駆動しなかったのか?これは検証不可能なので考えても無駄ですが、個人的に言えば結構どうにかなったような気がしますが、それでも分離は必要であったろうと思う。社会が複雑化すれば単純に善悪で物事は切れなくなるし、システムが複雑化すればそれを補う為の装置も必要になってしまう。個人の価値観や情報処理では間に合わない。
しかし我々が何を選んで何を捨てようとしていたのかという事に自覚的ではなかったような気がする。戦後ヨーロッパ的な思想哲学というのは、殆どこの中心軸をどうやって解体するのか?どうすれば相対化出来るのか?という事に重きを置いていた。統合が生み出した悲劇をどうすれば避ける事が出来るのかと。
日本には元々その叡智があった。しかもそうでありながらそこそこ勤勉で平和的に暮らす事が出来ていたわけです。しかし捨てる時に何を捨てているのか?何を選択しようとしているのかに無自覚であった為に、何が欠けているのかに中々気付く事が出来ない。
モノにこだわり蛸壺が鍔迫り合いを起こして社会をぶち壊しても組織益みたいな話や、空気を読んで誰かが止めてくれると思った的、戦前の暴走みたいな帰結もあるので、ただ褒めるのは話が違うような気がしないでもないのですが、戦前のある時期からの暴走以降今に至るまで、この蛸壺的鍔迫り合いというのは社会を破壊して来たのは事実です。
しかし江戸時代の幕藩体制なんかに見られるように、上手く蛸壺同士の牽制の力学を組み込んで設計すれば、それぞれの中心軸の相互作用によって上手く作動するような気がする。
もちろん忠臣蔵的蛸壺の結束の忠誠心が、もっと大きな共同体への忠誠心と相反してしまうというような、今の国家の益より組織益的な本末転倒スキームに近い現象もみられますが、肝腎なのはそれによって牽制の力学となり、社会的な公正さは守られる。法は確かに法だろう。しかし立派じゃないかと評価される。
それによって更なる法への厳格さと、社会の公正さは守られる事となる。単なる分捕り合戦で終わらない。もちろん忠臣蔵というのは明治以降の国家への忠義を教育する為に、国家が利用したから、日本人みんなにこれだけ普及しているのでしょうけれど、時に牽制の鍔迫り合いが起こっても、社会を破壊するには至らない安全装置が働いていたような気がする。
当時は独立採算の地方自治に任せ、武家も村々の自治にいちいち口出しなんてしなかった。最低限の決まりさえ守れば、それぞれに任せる。そしてお家取り潰しのような流動化もあったし、特に武家に対しては厳罰に処していた。それと同時に腹切って詫びれば、ちゃんと復活の経路もあり、ルサンチマンだけを蓄積させないような安全装置もあった。
将軍家でさえ、尾張、紀州、水戸の御三家、そして吉宗以降の、田安、一橋、清水の御三卿などを牽制させながら、ある程度権力の腐敗を防止する安全機構が上手く設計されていた。今は明治政府が作った歴史のフィクションで教育されているので、参勤交代で幕府が藩を苦しめていたみたいな話になっちゃったりするわけですが、これは戦争するよりはよっぽど平和的な公共投資であったわけで、戦争よりもコストは安いしリスクも低い、人も死ななかったわけだから全然マシな話だったはずです。
蛸壺の鍔迫り合いに陥ってしまうような行動作法はかなり昔から見られていますが、蛸壺同士の牽制の力学によって、藩は善政を行なわねばというモチベーションもあっただろうし、それが無ければ取り潰されるわけだから、所属する武家も悪い奴もいたでしょうけれど、一般的には倫理が上手くはたらくように選考構造にインセンティブメカニズムが内蔵されていた。
武家の教育も徹底した思想教育を成人するまで叩き込んで、専門的な知識なんかはむしろ町人とか専門職の人の方が詳しくて、思想をしっかり持った成人であれば専門的な知識なんてのは、その役食に就いた時にスペシャリストから学べばあっという間に身に付く、その前に人の上に立つ人間としての振る舞いが出来るように徹底的に教育する。それが鬩ぎあうから相互に牽制の作用を及ぼす。武家の教育は専門家を育てるのではなくて、人を育てていた。
こういう事を引き合いに出して、アホな政治家や頭の腐っているバカ保守なんかが道徳教育すべしなんて事をほざいたりしますが、なんにもわかっちゃいない。くるくるパーです。こういうバカが人の上に立っているから世の中乱れる。
人の上に立つ輩が腐っているのに末端の人間に道徳的であれとか、売国奴ばかりで利権しか頭に無いようなクズみたいな統治権力者が跳梁跋扈している状態で、愛国心を持てなんて言ったって、お前らが先ずやれよって話です。
企業のトップにしたって、常識も無い頭も悪い、責任感なんて微塵も無い。そういう所が問題な訳で、普通の市井の人々は別に道徳なんて学ばなくていい。最低限の事は生活してりゃ普通に身に付くし、大人が教えてやればそれで何の問題も無い。生活に必要な専門知識を身につければいい。人の上に立つ人間が規範を示せば、黙ってたって下がついてくる。善政を行なえば信頼も持つ。政がなんであるのかがわかっちゃいない。上が腐っていて悪政を強いているから人心が荒廃し乱れる。
先ず上の綱紀粛正が先であって、規範を示してから下にとやかく言えよって話です。腐ったブタ共が偉そうに言う事じゃない。消費税の話なんかもそうで、先ずやる事があるだろって話です。そういう単純な優先順位もわきまえず、穴の開いたバケツで水を汲む事ばかりやっている。それで溜まらない溜まらないと言っている。バカか?穴を塞げよって話です。
だから、蛸壺が鬩ぎあうから社会がぶっ壊れるという話も実は違うわけで、蛸壺が鬩ぎあっても社会が壊れないようなアーキテクチャーであれば何の問題も無いわけです。
もちろん流動化や情報化、そしてグローバライゼーションといった現代の様々な環境の変化で、はたしてそういう設計が出来るのか?という問題はあるにはありますし、設計なんて出来る奴いねえだろというのはそりゃそうなんですが、日本人に元々あるような特質みたいなものがネガティブに働いてしまうような社会設計である現在、それを否定しても特質みたいなものは簡単には無くなりませんので、上手く生かす方向性も考えた方がいいのではないかと思うのです。
天皇システムだって、昔から常にレジティマシーの調達装置の玉として、いざという時に牽制の力学となってもの凄い威力を発揮して来たわけです。天皇にその機能残っていれば、今の政府がここまで腐敗する事も無かったような気がする。
まだ続く!!