前回の続きです!!

成長と我々の生活の乖離に疑問を持ち、成長不要論が出てくるわけですが、普通の人が実感出来ないようなものは経済成長とは言いません。経済成長というのは国民の平均所得、一人当たりGDP増えていく事を言います。

ネガティブなイメージというのは企業がどんどん儲けて、六本木ヒルズみたいなのが出来て、ホリエモンみたいな人が登場するというのがあるわけですが、そういうのは実際の経済成長とはあまり関係なくて、一人当たりの平均所得が上がって行く事が経済成長と言う。

景気がイザナギ越えなんて話が出ていたりしたわけですが、バブル崩壊以降殆ど日本人の平均所得は増えていない。イザナギ越えとか言っても、公的には景気拡大と言っていたわけですが、景気がよかったというわけじゃなくて、実際には殆ど実感出来ないようなプラスかマイナスかで言うと、ほんの僅かにプラスになっているという話でしかない状態をダラダラと続けていたという事でしかない。

実際の景気がよかった時期というのは半年くらいしか無い。経済が実力以上に頑張っているのが好景気、実力を発揮出来ていないのが不景気、とりあえずプラスではあったけれど実力を発揮していたとは言えない。だから好景気とは言えない。したがってあまり実感が無いという風になる。

企業が過去最大とか昨年あたりは言っていたわけで、急に不景気になったら公的資金とか派遣切りとか言っているのでふざけんなよという話になるわけですが、ある程度上が儲けないと下に降りて行かない。ここしばらくは富裕層への減税なんかもやっちゃっているので、余計ネガティブなスティグマが張り付いている。なので国家や企業が経済成長や国益と言う名のインチキにかまけて弱者を食い物にするみたいな図式が流行っちゃう。

企業の活動がどうのこうのという話は実はあまり有効ではない。今回の派遣切りのやり方を見ていると、恥知らずな連中だぜと思うのは確かですが、実際は大企業というのはすでにグローバル企業と化しているわけで、法人税を取れと言えば、国外に行っちゃうし、法人税を安くしても、世界各国でそれをやれば、減税のチキンゲームになっちゃう。だからそこに重きを置いて考えているうちは、派遣のような問題は無くならないし、文句を言えば逃げて行く。この図式は変わらない。個人の所得から中心に考えた方が実のある話になる。

経済成長と国益とか国力とは関係ない。国民の生活を犠牲にするというのは経済成長でも何でもない。国民の生活を豊かにする事が経済成長と言う。だから「痛みに耐えて」とか言っていた人は経済成長などハナっから興味も無かったというのは事実でしょう。

大企業の最高収益とか言っていたのは、これは中国とアメリカの大きな景気に食らいつけたというのが要因で、大企業収益と経済成長というのはあんまり関係ない。グローバル企業はすでに日本企業とは言えない。アメリカ人はソニーをアメリカ企業だと思っているなんて話がありますが、グローバル企業は日本から生まれた企業というだけで、すでに労働者も日本人より外国人の方が多い会社もいっぱいあるわけで、グローバル化した企業が、国際的な景気がよかったというのがあったので、大企業は景気がよかった。日本国内に目を転じると国内企業は元気が無い。中小企業や個人商店は不景気、一人当たりの平均所得が増えているわけではないので、経済成長しているとは言えない。

しかし実際に世間を見回しますと、金持ちばっかり儲かって貧乏人を食い物にしているように見える。この状況は何なんだ?という風になる。人口も減っているし経済成長をすれば解決と言う話を誰も信じていない。

実力を発揮出来ているか否かが重要で、今の非正規雇用の問題なんかは基本的に長期的に景気が悪いという所に原因がある。経済成長がなく流動化の少ない社会というのは、今まで上手い事やって来た奴が、儲かり続ける社会であるわけで、不景気になればなるほど既得権を握っている人達はどんどん有利になって行く。

経済成長が強く起こっている時というのは、産業構造の変化を止めようと思っても止める事は出来ない。どんなに阻止しようとしても無理。それは歴史が示している。今どんなにポケベルの既得権を握って護持していても何の役にも立たない。携帯が出来れば家の電話の価値は下がるし、公衆電話の価値もテレフォンカードの価値も下がる。意味が無くなる。馬車や籠屋は車の便利さには勝てない。

どんなに古い既得権を独占していても産業構造が変わってしまえば意味をなさなくなる。いくら電波を独占し、再販価格制度によって市場を独占していても、ネットの普及がそれを無効化してしまう。そういう状態になってもらっちゃ困る連中がいるわけです。だから経済成長をなんとしても邪魔したい人達がいる。

経済成長を起こす為に産業構造を変えろというのは順番が逆で、事前にそれがわかるならみんなビルゲイツや孫正義になれちゃう。次は何々産業だとか言っている話はだいたいインチキ、もしくは風説の流布の類いと一緒です。本当に儲かると思えば、自分でやった方が儲かるわけで、それをわざわざ他人に儲かるから是非といのは怪しいねずみ講と同じです。

環境政策もこの順番を勘違いしているような所があって、経済成長は環境を破壊するから、環境にやさしい方向性を目指せという事を、景気が停滞している時にいくら言っても変わらない。どんどん経済成長を加速させてバッファを増やし、流動化を増やし、冒険しやすくなる環境を整えて行けば、環境が金になるとわかれば、あっという間に産業構造は変わる。

所詮環境なんて金儲けだろみたいな話を言われると、そんな事無い!!って吹き上がっているから話にならないわけで、中田ヒデじゃありませんがみんながWinWinの関係を築けるようなメカニズムを組み込むには景気が悪くてはどうにもならない。背に腹は変えられないという風になる。

不況の時に全員平等に収入を下げるという選択をすれば、みんなで分かち合うという話になるわけですが、みんな下がりたくないので、どこかを守ればどこかを切り捨てるしか無い。経済成長が無いからそういうスパイラルが続いていて今ここまで来てしまった。バブル崩壊後の空白の10年そして今に至るまで、給料も下がらず、むしろ増えている連中がいます。それが競争した結果そうであるのなら、当然の報酬であると言えるかもしれませんが、競争を免除されそういう恩恵を受けていた奴がいますね。

しかもそういう連中というのは、景気が好いわけでも経済成長をしているわけでもないのに、ちょっと回復の兆しが見えた瞬間にバブルバブルと煽って無能な政府の介入を呼び出し、ホリエモンなり村上ファンドなりその案件が問題であるというだけの話だったはずなのに、不安を煽り、抜け駆けをしている輩が跳梁跋扈していると煽り、コンプライアンスで雁字搦めにして、経済の頭を押さえつけ、流動化を阻止し、不景気にしようとしていた輩がいる。それを国民もまんまと支持して拍手喝采していた。

流動化や経済成長すると既得権を守れなくなるので、経済成長したくないけれど、今までの生活は守りたいという人達がいる。不況の中その人達の生活水準を維持する為にはどこかを切らなきゃならない。

イザナギ越えなんて事を言われて、過去最高益なんて企業がほざいていたのに、全然豊かになっていないし、不況になればあっという間に転落する。どう考えても一部で儲けている奴らが儲かるだけなんじゃないか?という風になりがち。

だから経済成長なんてふざけんなって話になるわけですが、本当は経済成長なんてしていない。そこが問題で、流動化も末端の何の既得権もない人達を流動化しただけ、だから流動化にさらされて切り捨てられている方々を救えという錦の御旗の元、流動化阻止に加担するという事は、結局既得権を護持しようとしている連中に乗せられて手助けしている事になる。当たり前ですがその構造こそがまさに問題であるわけで、その事を自覚しないと出口はありません。

イザナギ越え何つって世間が騒いでいた時、半年くらいは本当に景気がいい時期もあった。その際見られたのはバイトの時給が上がって行くというのが見られた。それはこんな自給じゃ働けねえよと思われちゃ人が雇えないと思えたからで、今派遣で切り捨てられて、復活の経路が閉ざされているような人達を、金積んで動員かけないと、人が集まらないという状況、人が足らないという風にならないと出口は無い。

景気の拡大に伴ってサービスへの需要が復活すれば、サービスというのは人を沢山必要とするので人を沢山集めるには待遇を良くしないと回らないという風になり得る。それによって単純労働や熟練を必要としない労働への需要が増えて行く。

弱者を救うには経済成長をするという事と、再分配という方式がある。しかし金持ち優遇の減税措置をしてあげく、今消費税とかって話になっている。ブッシュと小泉が行なった減税というのは金持ちへの減税ばかりで、景気対策としてはマズい方向性です。手っ取り早いのは貧乏人に金を撒く事で、貧乏な人というのは自分もそうですが欲しいものもいっぱいあるし、必要なものが沢山ある。

欲しいものも無いという人が結構いるので、それ自体で日本って裕福な国なような気もしますが、これは教育や啓蒙によってモノへのモチベーションを持つのはあまりよろしく無いかのような教え方が蔓延っているというのもあると思う。

不安定な雇用状態にあったり、蓄えが無い人というのは欲しいものというか、必要なものがいっぱいあるはずで、それが消費を刺激して行く。生活費、衣食住を満たす為に。消費というと、耐久消費財、テレビとか冷蔵庫とかって話になりやすいけれど、日本の消費というのはサービスへの消費が多い。福祉介護や育児サービスのようなものは、供給が全然追いついていない。

経済成長によって格差が解消されるというのは、サービスへの需要が復活して、人手不足を起こさないといけない。勤労世代が減って行き、景気の改善、構造転換が起こると格差も意味がなくなる。要するに今の派遣のように景気の好し悪しで必要になったり切り捨てられるような不安定な階層の人達が人手不足になるとチャンスがめぐってくる。

例えばちょっと前までのロンドンなんかでは単純労働の需要が多過ぎて、週雇いの労働が週給10万円なんて話になっていた。その状態になれば、むしろ非正規の方が金を貰っているという事もあり得るわけで、あまり意味がなくなるというか、むしろ非正規の方がいろいろ自由になるわけで、正社員なんかよりよっぽど魅力的な職業になる。

日本にも昔はそういう感覚があった。正社員は安定こそしているけれど、自由は無いし給料は安いしと。だから若者がみんなフリーターになるという事態が起こったわけです。景気がよくなるという事は、冒険がしやすくなるという事でもある。途中で失敗しても何とかなるだろうという風になる。

それを若者の怠業批判、バブル崩壊、失われた10年、そしてサブプライムバブル崩壊と時代が移り変わり、非正規がもの凄く不利な仕事で、昔の日本的正社員、社畜がむしろ幸福なんだみたいな風潮に変わっている。派遣は自由じゃないかみたいな事を言う輩はいない。

そうするとなんでバブルが崩壊したのか?なんで派遣社員が今の境遇に叩き込まれたのか?というと、自由で且つ収入も悪くないという働き方が気に食わないと思う人がいるからでもある。誰が得をしたのか?

バブルを叩き潰したのは明らかに当時の大蔵省がトドメを刺していると言えますし、今回のサブプライムバブル崩壊までの数年間、明らかに官製不況の状態にあった。コンプライアンス不況によって、世界の経済から取り残されていた。

確かにサブプライムバブルによって上昇していた所もあったわけですから、バブルにうつつを抜かさなかったという意味で言えば、世界経済に背を向けているというのはある種賢明だったと言えない事もないのですが、日本の場合、サブプライムは蚊に刺された程度なんて事を、自民党のアホ政治家がほざいていたにもかかわらず、関係ある国よりもむしろ株式市場は暴落している。それはサブプライムだけが理由ではないからです。日本という国が成長性のない未来のない市場だからに他なりません。

下らない介入によって、一昨年、先進国の殆どが株式市場でプラス成長をしていたのに、日本は二桁のマイナス、先進国中ビリから2番目だったわけです。経済成長率だって先進国水準から考えると明らかに低過ぎる設定をしていたわけで、どう考えても末端を裕福にさせまいという力学が働いていた。

そして企業もそうです。基本的に労働のイニシアティブが労働者側に無くなっちゃった。企業が全てを握り、お前らを生かすも殺すも俺達の胸三寸だぜと脅せるようになっている。

ケっざけんなよ、辞めてやるぜ、なんて言えない環境を作り出し、給料も据え置きでも文句を言わせないような図式になっている。弱肉強食というのは嘘で、奴隷であるか否かが重要になっている。それって何の競争なんだよ?って話です。

段々問題点が見えて来ましたね。

日本型の経営が云々かんぬんという言い方がなされ、必ず言われる事の一つに、労働者が労働の権利をちらつかせて、真面目に働かず、就職しても続かず、権利ばかりを主張し義務を果たさないという、ある種の昔はそんな事はなかった的なインチキを言うバカがいますが、それはあくまでも経済成長というベースがあって、いつでも労働者は辞めてもびくともしないイニシアティブを握っているにもかかわらず、今まで働いて来た職場に対する愛情だとか、世話になった同僚や上司、そして経営者に対して、裏切るのは義に反するという意味での忠誠心、再就職の当てや、もっと給料だけを言えば報酬アップが可能であるにもかかわらず、その為だけに仕事をしているわけではない的な美しき幻想は、右肩上がりというベースがあっての話です。

それがない時代に当時の行動作法の美化されたいいところだけを騒ぐのはフェアじゃない。いつ切り捨てられるかわからないような環境で、しかも不況によって労働者側のイニシアティブが消えてしまった状況で、トドメに未来には絶望しか見えないような社会情勢で、奴隷になれ、何で奴隷にならないのだ?と言うのは筋が通らない。

言う事を聞かなければクビだ、仕事があるだけありがたく思え的な事をほざく、経団連御手洗的なゴミみたいな経営者に対してそんな気持ちなんて持てるわけがない。そういう所に忠誠心なんて持つ方がよっぽど気持ち悪い。美化されたありもしない、あった事もない幻想を拠り所にして、仕事に対する倫理を騒ぐクズがいっぱいいる。あげくそういう所に奴隷として従う事をむしろ自ら積極的に望んでいないと生き残れないような、労働者の権利もクソもない社会に成り果てた。

この国では必ず経済の調子が良くなると、行政が介入して阻止するという事が行なわれる。それは国民が裕福になっちゃ管理し難くなるからです。不安を沢山抱え、将来にビクビクし、経営者の言う事に逆らう事も無く、いざとなれば統治権力に何とかしてくれとすがる。奴隷として管理するのが一番楽で低コストで済む。その構造が統治権力者、経営者、そして不安を売り物にして金儲けしているゴキブリ、マスメディアに取って一番有利な条件であるからです。しかも流動化を阻止出来れば既得権も護持出来る。

そしてサブプライムバブルが崩壊した今、比較的影響が少ないと言っていたはずの日本の経済がここまで落ち込んでいる。新興国は内需に転換してすぐに復活してくるでしょうから、いかにしてそこに食らいつくのか?というのが今後の経済成長を占う分水嶺でもある。

にもかかわらず、中国ももうお終いだ的な啓蒙に溢れ、何とかして不況を維持させようと躍起になっている。大企業がそこに食らいついて利益を上げても経済成長には結びつかないわけだから、好きなだけ儲ける事も出来るし、それを還元しなくて済むようなスキームで回り、経済成長すると権益が減るステークホルダーは、なんとしてもこのチャンスを見過ごすように、統治権力は変なバカが総理に居座って機能不全を起こして政治空白を作り出し、マスメディアは暗い話ばかりを報じる。

続く!!!
前回の続きです。

派遣切りのような問題、貧困の問題、こういうものを解決する手段は先ず最初に結論から書きますが、経済成長、これしか無い。と書いた瞬間にある種アレルギー反応を起こすそこの貴方!!そのアレルギー反応をちょっと我慢して下さい。

何となく経済成長というと、小泉竹中改革のネガティブな側面にばかりスポットが当たり、大企業ばっかりが儲かって、株主はいい思いをし、庶民には恩恵は無い。六本木ヒルズみたいなバブリーな建物が出来たりして、ホリエモンのような不届きな輩が出てくるし、弱肉強食、優勝劣敗、庶民にいい事なんて何にもない。金の亡者がいい思いをして、弱者切り捨て、高齢者は放ったらかし、派遣の問題だって、そもそもそういう構造が生み出した使い捨てじゃないかと。何にもいい事なんて無いじゃないかと。大量消費に塗れ、大事なココロを置き去りにし、冷酷で人間味は無くロクなもんじゃない。一部の奴らがおいしい思いをしているだけなんじゃないかと。

経済成長なんて事にうつつを抜かすよりも、身近な所の絆を大切にして、もういいじゃないかこれ以上何が欲しいんだよ。これ以上何を求めるんだ?だいたい日本は人口も減って行くわけだし、もう経済成長なんてそもそも無理なんだから、経済成長なんてしなくても安定した生活があればそこそこでいいじゃないかと。

まあ、こんな感じのイメージを持っている方々が結構いるのではないかと思います。ヘタしたら政治家や経済学者までこういう事を言うようになっている。それなのに何で今更経済成長が大切だなんて事を言うのかと。

しかし本来弱者を放ったらかしにするかどうか、老人を切り捨てるかどうか、派遣の人達を切り捨てるかどうか、はたまた金持ちばっかりがいい思いをするかどうか、ココロの問題を置き去りにしているかどうか、その他諸々、経済成長によって生じるネガティブな側面だと思っている事の殆どは、冷静に考えればわかる事ですが、経済的に豊かになるという事とは無関係の事です。

そもそも経済成長なんてしなくたって心が豊かならばいいじゃねえかという言い方もおかしな話で、経済成長と心の豊かさの問題は関係ない。経済的に裕福になるという事と幸せになる事とはイコールではない。経済的に豊かになるという事は経済的な豊かさだけが増えるわけで、心の問題は別の話です。

その豊かさが増えたからと言って必ずしも幸福になれるとも言えないし、なれないとも言えない。貧乏だから不幸せとは言えないのと一緒で、ある程度の因果関係は生じる可能性は有り得ますが、経済成長は経済的な豊かさを増やすという話でしか結局の所無いわけで、そのせいで心を置き去りにするようになるとすれば、それは経済的豊かさの問題ではなく、心を置き去りにしてしまった事そのものが問題であるわけです。同じ境遇でも心を大切にしている人はいる。そこを切り離して考えないと変なイメージで経済成長を捉えてしまう。

弱者を切り捨ての問題もそうです。弱者を切り捨てているとすれば、弱者を切り捨てている事そのものが問題なだけで、経済成長とは別の話でもある。早い話が裕福になると弱肉強食になるとか、みんな利己的になるという事を要するに言っているわけですが、裕福になって余裕が生まれた方が、貧乏でカツカツの状態よりは、むしろ分け与えやすいはずで、プラスの効果こそあれ、マイナス効果は普通無いような気がする。経済成長に原因があるという事より、不況に原因がある。

しかしなぜか一般的には逆に捉えているというか、そのへんの区別が出来ていない所があります。経済成長なんて言うとご不満の方もいると思いますが、何によってそう思わされているのか?そのへんを少し切って行こうと思います。

格差問題、今のロスジェネ問題、派遣の問題、正規と非正規の問題、そしてワーキングプアの問題と、貧困の問題が騒がれる昨今、こういった問題の出発点はフリーターの問題から始まっていると思います。当時はどちらかと言えば怠業批判が出発点にあり、若者けしからんというのが元々あった。

これが段々深刻になって来て、今でも怠業批判しているバカもいますが、最近はどちらかと言えば、そういう人達を救うにはどうすればいいのだろう?という問題意識が共有されるようになっているかと思います。正社員の既得権をよこせとか、同一労働同一賃金とか、最低賃金を何とかしろと言った感じの、広い意味でのワークシェアリングに問題はフォーカスが当たっている。

しかし何でそういう人達がいるのだろう?という事を考えますと、そもそも原因となっているのは長い間不況が続いて、ちょっと景気回復したと思ったら再び不況に陥ってどうにもならなくなっている。原因の大本は不況にあるわけですが、不況というのは経済成長をしていないという事であるはずです。であるならば、もちろん不当に貯め込んだ利益をよこせというのはわかるのですが、経済成長しろという話がそういう弱者問題への処方箋としてあったっておかしくないはずなのに、そういう声はあまり出て来ない。実際に不遇な境遇に叩き込まれている方々もあまりそういう事は言わない。

むしろそれは悪い事であるかのような風潮もあるし、小泉竹中路線はインチキであったというのは間違いないのでしょうけれど、上げ潮路線、経済成長重視という風に言っていたわけで、それが全ての元凶だという話に落ちている。でもそれはちょっと違うんじゃねえか?という気がする。

限られたパイをどういう風に配分するかという問題ばかりにスポットが当たり、ジリ貧状態をどうやって打破するのかという話が出て来ない。そのパイを増やせば問題解決には一番手っ取り早いはずなのに。

経済成長にはネガティブな風潮、優勝劣敗弱肉強食的な匂い、それと同時に、人口も減って行くし、もうそもそも無理だよという諦めもある。そうであるとするならば、原因となる不況を克服せずに弱者を救うというのは非常に難しいんじゃないかという気がする。景気がよくても分け与えなかった事を、みんなカツカツになっていて分け与える事が出来るのか?

みんなが分け与えればそれで一時は済むかもしれませんが、どんどん縮小してしぼんで行くわけで。仕事が無くなって行くという事がこれからどんどん厳しくなる可能性がある。そこを手当てしないとどうにもならない。だいたい分け与えるような所が全く無くて、持っている人はそれを何とかして護持しようとしているのが今であるわけで、分け与えるのも難しいし、分け与える事が出来たとしても、経済成長を諦めるという前提というのは、諦めながら同じ水準でずっと保つという事は不可能です。どんどん貧乏になって行くのを受け入れるということですから、それでは袋小路な気がする。

このどんどん貧乏になるという感覚が理解出来ない人も多いのかもしれませんが、経済というのは一国の問題ではありませんので、環境や資源の問題なんかを考えると経済成長無しというのですと危険性を感じざるを得ない。経済成長イコール環境が保たない論が結構蔓延っているので厄介なのですが、今新興国もサブプライムの余波によって、壊滅的な打撃を受けたなんて言われていますが、アメリカの打撃とは根本的に話が違う。

まだまだ成長の余地が有り余る程あるわけで、まだまだ公共投資だって必要でしょうからどんどん内需も拡大して行くでしょう。特に中国なんかは積極的にそういう方向性をとると言っている。日本にはその余地もないし金も無い。政治家がバカなので多分10年20年グズグズするんでしょうけれど、それに比べれば比較的早い段階で回復すると思います。

その時に、どんどん裕福になるという事は、停滞している国に比べて、資源の購買力が高まって行く。そうすると需要が増えれば国際価格は上昇する。日本人が今まで買えた値段では資源が買えなくなってくる。あげく日本人の裕福さが下がり、経済がどんどん落ち込んで行けば、給料のうちに食費が占める割合、エネルギーが占める割合が増えて行き、家計を圧迫する。縮小再生産で所得も減って行く中で益々ジリ貧になって行くでしょう。経済成長不要論の危険さはそういう所にもある。そこそこでずっと同じ水準というのは諦めたら保てない。落ちて行く。

それじゃ自給自足なんだって話しに行くわけですが、みんなで自給自足すりゃ何とかなるでしょうけれど、自分は作らないけれど、誰か作ってねというのが殆どの人であるわけです。

そうなるとどっち道買うわけですが、例えば国際価格が倍で、中国やインドの人に売れば倍の値段で売れるものを、国内の人に2分の1で売れという話になったとしたら、それは農家の人だって売りたくなくなるだろうし、モチベーションも下がる。それを強制的に売れという風にするのも話が違う。天然資源に至れば外から買うしかないのが殆どなので更に言うまでもない。

自給率の問題もいろいろと罠があるので単純には言えないのですが、自給率を上げるという事そのものは別に悪い話じゃないと思いますが、それとセットで購買力の問題も考えないとマズい。

貿易というのは凄いもので、ソビエトがアフガンに侵攻したときもアメリカはソ連への輸出を止める事が出来なかった。中国人は日本人のことが大っ嫌いですが、日本製品は大好きですし、日本と韓国もなんだかんだともめますが、ドラマとかは大人気だったりする。経済活動というのは凄いもので、外国との関係性に敵か味方か?という評価とは別に、損か得か?という評価を生み出してくれます。得になると思えば嫌いだけれど仲良くするという選択肢が生まれる。薩摩と長州が憎しみあっていても同盟を結べたのはそれがあったからです。

そういうのが完全に止まってしまうような状況になるとしたら、それは第二次大戦と同等クラスの大戦争が起こる事を意味する。もしくは世界的な資源への需要が、本当の実体供給量を上回ってしまって奪い合いになることを意味する。だからその意味でも世界大戦が起こるという事かもしれませんが、そういう可能性はないとは言えないけれど、起こる可能性は低い。全然足りていてもちょっと不安が起これば大騒ぎするわけで、そのことで金儲けに利用されちゃっているという側面もあるわけです。

世界中の国家元首が麻生みたいなバカしかいないのなら可能性は大ですが、もう少しまともな人が普通なるものですから、一次的に危機は起こるかもしれませんが、壊滅するまで突っ走るという可能性は低いでしょう。仮にそういう事が起こればどっち道お終いですので、可能性は低くとも起こればリスクが高過ぎますから、そういう意味での食料自給率を心配するのも大切なのですが、もっと現実的且つ直近の問題としては買えるかどうか、購買力があるかどうかの方を切実に心配した方がいい。じゃないと国内の農家までも搾取しなくちゃ回らなくなる。

新興国が毎年成長を続けて行けば、そのうち日本よりも間違いなく裕福になり、日本が経済成長を諦めるのなら、追い抜かれればもう二度と追いつくことは出来ないでしょう。そうすればどうしたって、食料の需要は桁違いですし、購買力も持てば、日本人の家計に占める食費の割合は増えて行かざるを得ない。そういうことも含み込みでわかって経済成長を諦めろと言っているのなら話はわかりますが、単なるノスタルジックなクソみたいな感覚で、経済成長害悪論に加担しているのだとしたら、とんでもない話です。

経済成長イコール環境が保たない論も日本は結構環境効率のいい国でもあるので、日本が経済成長したくらいじゃ環境破壊にはたいして影響は無いでしょう。日本のGDPは世界の10%をちょっと切ったくらいであるのと比較すると、CO2の排出量は世界の5%弱ぐらいで、CO2効率のいい国でもあるし、経済発展しても環境負荷が大きくなるようなものは需要していない。需要飽和によって資源をバンバン使っているようなものを欲しがらなくなっている。むしろ環境の問題に効果的なものを開発する余裕が無くなって行く事の方が問題で、そういう問題を解決する為にも、経済成長した方が袋小路に落ちなくて済む。

日本だけ環境を大切にしても、地球は一つですので、新興国が猛烈に経済成長に突っ走れば環境の問題は深刻になる可能性がある。その時にある程度意見を言ったり存在感を示すには、金も無く落ちぶれた衰退国家で、開発力もなく余裕も無い国になってしまえば、誰も聞いてくれない。環境対策がただ貧乏になって我慢しろでは魅力が無さ過ぎる。それでは動員にはならない。

大恐慌を引き合いに出して、資本主義の終わり、アメリカの終焉を言う論調が結構あるわけですが、その時ピークに落ち込んでいたのはだいたい2年くらいで、その後強く回復する。なので恐慌自体が資本主義全体の危機とまで言っちゃうのは言い過ぎです。特に日本人というのは、日本はもうダメだ論、お終いだ論が大好きなので、アメリカ人的楽観論とは随分違う所がある。アメリカ人は2年でバブル崩壊を忘れるなんて言います。

日本の成長出来ない、いらない論というのは、批判的精神であるのならいいのですが、それが主流になってしまうパターンがある、無理矢理にでも旗を振って景気を回復もしくは拡大させるぞというべき政治家が、成長を諦める的な事を本当にバカでポピュリズムに媚びて言っちゃう人も多い。非常に恐い事です。

民主党は決定的に経済政策のセンスが無いし、自民党の幹部の中でもすでに経済成長を諦めようという風に本気で言っている奴らもいるので、非常に危険な状態、何を言っているのかといえば結局増税しか言っていない。

与謝野が景気がよくなったってどうせ先送りするだろうから、今のうちにやっておく的な事を言ってましたが、そういう問題じゃねえんだよって感じです。

国民はどうせ官僚のポケットに入るだけだろうという事を懸念しているわけで、増税が絶対にダメだと思っているわけじゃない。誰だって、増税は必要かもしれないなと思っている。だけどそれが無駄に使われているのではないのか?という事を怒っているわけで、その疑いを全力で晴らすか、キッチリ透明化して役人の懐に入らないようにするのが先であって、この順序は最低限の基本的な常識的話です。逆は有り得ない。

風呂にお湯を溜めるには、風呂桶に栓をしなきゃお湯は溜まらない。栓がしまってないどころかでっかい穴があいているわけで、それを塞がないと、どんなにお湯を汲んだって無駄です。

このタイミングでどうせ不人気なんだからという事で自爆覚悟で増税をちらつかせる経済へ鈍感過ぎる感性も絶望的ですが、経済が停滞してジリ貧になって行けばどんなに増税したとしても、財政再建は出来ない。今の日本の借金であれば実質成長2.5%インフレ率2.5%で5%成長を10年続ければ、たいした額じゃない。しかしゼロ成長で今の借金を返すのは非常に厳しい。

統治権力が国を豊かにする事が出来ないと公言して、普通でいられるという状態は異常です。自らを無能なりと言って平気な顔をしているわけですから。

経済成長というと小泉竹中改革のネガティブ面を取り上げられますが、これも今イチよくわからない。彼らは別に何もやっちゃいない。とてもじゃないけれど経済成長に繋がりそうな政策は打っていない。たいした事は何もしなかった、無策だったわけです。統治権力が余計な事をしなかったから経済が復活して行った。言わば棚ぼた的な話です。

もちろんアメリカとの関係や自衛隊の扱い、政府の審議会に経団連のステークホルダーを入れて、そいつらが儲かりそうな所を改革するぞと旗を立て、責任を民間にパージして統治権力が責任を取らなくて済む構造に変えたというのは確かにそうなんですが、これらは自民党がずっと行なって来た方向性でいつものパターンだっただけの話です。年次改革要望書スキームに従うという。事後チェック型の社会も90年代から着々と進んで来た。

日本経済を外資に売り渡したとか言っていた人もいっぱいいましたが、外資に売り渡すも何も買っても貰えなかったし、もう今ではそんな事を言うのも虚しい状態です。そういう事を言っていた人は、その口を拭う事も反省する事もなく、オバマはユダヤの手先だ的な事を言っています。困ったもんです。まあ本当なのかもしれませんが、せめて自分達が言っていた事くらい反省してから次の話に行けよって感じがする。

問題点はいっぱいあったのは確かですが、少なくとも経済政策はたいした事はしていない。復活する時というのは、どうしても金持っている人とか大企業から先に復活して行くもので、それがトリクルダウンするには時間がかかる。しかしトリクルダウンする前に、小泉のレイムダックとともに大騒ぎして余計な介入が始まって、メディアもバブルバブルと大騒ぎして、国民もそれを喜んで受け入れた。不景気になりたくてなった。わざわざ不況にしたわけです。

そこにトドメとも言えるサブプライム問題が起こるわけですが、その前から官製不況が起こっていた。小泉政権の末期のレイムダックからの官製不況の始まりを問題にするのならわかりますが、そこはむしろホリエモン問題なんかもあったので、国民は拍手喝采している。今でもそれはズルをして儲けた金持ちに対する天罰だ的な、どちらかと言えば小泉的な優勝劣敗、市場原理主義的方向性を食い止めたみたいな感じで言われることがあっても、そこが問題だという話はあまり表には出て来ない。

派遣法の改正だって、そもそも一番の転換期は99年であるわけで、小泉政権の時の話ではない。彼らのせいだというのはちょっと違う。もちろん彼らも法改正はしていますから彼らが悪くないとか言いたいわけじゃありませんが、それは元々の既定路線だと言えるわけで、彼らが諸悪の根源だとまで言ってしまうのは、ちょっと言い過ぎな気がする。自民党が行なって来た路線をそのまま続けていただけです。みんな自民党を支持して来たわけです。

もちろん小泉は金持ち減税をやったりしているので、その事が格差拡大的な感覚を後押ししたのかもしれませんが、郵政公社の名前を変えただけの郵政民営化と、善いか悪いかは別として官邸主導に変えたという変化があったくらいで、経済成長の為には別に何もやってない。

官僚の権益が減っているわけでもないし、小さな政府になったわけでもない。何もやっていないという批判ならわかるけれど、日本経済を散々いじくって滅茶苦茶にしたみたいな言い方はちょっと彼らの評価を見誤っている。何にもやってないから問題なんだというのなら話はわかるけれど、上げ潮路線が足らなかったという話じゃなくて、そのせいでこんなになっちゃったという話になっている。

一番わかりやすい話を言えば、竹中平蔵がメディアに出て来て経済成長の為に自分がやった事として必ず言う事、これはほぼ一つしかありません。不良債権処理これしか言わない。なぜなら他に何も無いからです。たいした事はやっちゃいない。

不良債権処理を竹中は誇っていますが、別に竹中がやったわけじゃないし、海外の景気がよかったのと、円安を放置出来たというのが、ドライブさせた原因で、結果的によかったという話でしかない。経済成長の為に必要な措置は何もしていない。無能な統治権力が何もしなかったからかえって上手く行った。棚ぼたなだけ。

格差の問題も小泉と同じように言われた人物が70年前にいました。だるま宰相こと高橋是清です。暗殺されちゃいましたが、昭和恐慌というのは世界恐慌のようにいきなり来たわけじゃなくて、1920年代から、10以上不況が続いた。その間に広がった格差だったわけですが、格差の実感というのは格差の原因が始まってから暫くたたないと実感出来ない。

経済停滞によって社会が崩壊するまでには結構時間がかかる。イギリスが第二次大戦以降ずっと調子が悪かったけれど、悪くないそこそこだと言っていたら70年代に入って底が抜けたようにどん底状態になる。

小泉政権が棚ぼただったのと逆に、アンラッキーだったのは、格差の原因が始まったバブル崩壊以降、失われた10年の間に無策だったというか、無能な統治権力が余計な事をやって、的確な対策を打たず益々不況になり(放置しといた方が上手く行ったかもしれない、今も財政出動とか言ってますが、失われた10年でいくら使ったか?120兆使っても効果がなかった。しかも120兆使って、借金が800兆です。不況のときの財政出動は変動相場制のもとでは効果がない。これは経済学の基本です。しかしこれは政治家には人気がない。票稼ぎに使えないわけですから。)、出口が見えなかった。それが顕在化して来たから、小泉が全部悪いように見えちゃった。それに金持ち減税なんかしちゃったもんだから余計に悪の権化みたいに見えたのかもしれません。


ある程度の期間経済発展を遂げた国というのは、バッファがあるので不景気になってもクッションの作用を起こして、一気に絶望しないで済む。不況とか経済の長期停滞というのはそのバッファをゆっくり削って行く、日本もだいぶ厳しくなって来ましたが、この状態でもそこそこ暮らせるし、まあ何とかやっているわけだから、経済成長しなくてもいいんじゃないか?という風に今後10年続けていくと、ある時、どうにもならないような底抜けが始まる。いやもう始まっているのかもしれない。

教育もまともに受けられない世代が社会に登場し出すと、もう社会不安とか格差の固定化とかそういう呑気な話じゃなくて、手のつけようが無い状況になってしまう。今はかろうじて話が通じる(通じない人も増えていますが)からどうにかなるし、テレビであったりパソコンであったりと、なんだかんだでみんな持っていますから、それなりに共通前提を作り出す、社会というフィクションを回す共通了解を共有出来るわけですが、それが消えるという事は、もう取り返しがつかない状況になる。浮上する確率がゼロであれば、犯罪を犯すという選択が十分合理的な選択になってしまう。

このまま放置して行けば今のロスジェネのジュニア達が社会に出るまで持たないかもしれない。というかロスジェネには子供を作れないという人もいるでしょうから、そういう所をどうやって引っ張り上げるのかを考えないと、経済成長なんてしなくていいぜなんて呑気なことを言ってる場合じゃなくなる。経済成長も何も社会全体が回らなくなる。そういう事を含み込みで、経済成長無用論をみんなが望んでいるのなら、これはどうにもなりませんが、明らかに選択出来るように選択肢が提示されているようには感じられません。

小泉が生み出した格差で重要なのは地方と都市間の格差だったでしょう。日本の場合地方と都市間格差を埋める為にずっと金を使って来た。昔は自分の生まれた、親が住む故郷への再分配という感覚、地方出身者が都会に出て来て発展させる代わりに、地方を空洞化させた事へのオトシ前的感覚があったので機能していたわけですが、段々何も関係ない所で金が回っているという感覚が増えて行く、不況で都市部でも辛い人々が増えているのに、口を開けて公共事業を待っている連中に再配分するのがバカらしくなる。

昔は都市部は裕福、地方は貧乏という図式があったわけですが、もう随分前から都市部にも貧乏人がいるし、地方にも公共事業のような金を回して、利権を貪って裕福な輩がいるようになって来た。都市部の貧乏人から金を撒き上げて、地方の金持ちに金を撒いているという図式に見えるようになって来た。地方の金の無い人達が救われているという事よりも、公共事業の悪弊、一部の既得権が談合を通じて利益を回している構造が目立つようになって行く。中抜きしている連中の利権が多くの国民にとって共有出来るようになる。

これはいきなりそうなったという話ではなくて、昔からそういう図式はあったのだろうと思いますが、なぜそういう事が気になり出したのかといえば不況だったからです。景気がよければ気にならない。不況になると抜け駆けを感じるようになる。こういう図式を見ても経済成長無しで分け合う事の難しさを感じます。

この世代論的なルサンチマンを小泉は上手く拾って動員した。そこに乗っかったのは明らかに国民で、彼があれだけ支持されたのは国民が支持したからで、支持率何%だったか?その事を忘れちゃいけない。その頃規制緩和しろとみんなで吹き上がっていたのに、全く同じ人が再配分を要求したり、構造改革害悪論を唱え、経済成長無用論を唱えたりしている。そこの所を自覚しないとマズい。

つづく!!
前回の続きです。

権力は頂点で腐敗するという事を西洋的な価値観では学校で真っ先に教えるわけですが、日本の江戸時代のように、権力を牽制する力学が民衆の手に無いにもかかわらず、それほど腐敗しきって圧政を強いるような体制ではなかったというのは(しかも250年)西洋的な政治学では有り得ない話です。

今の権力者に爪のあかを煎じて飲ませたい話ですが、当時の日本の繁栄そして教育の普及、明治時代になぜすぐに近代化出来たのかと言うと、江戸中期以降、すでに近代化を駆動させるだけの豊かさとモラルと教育が普及していたからで、だから開国してあっという間に西洋列強と肩を並べるまでになれたわけで、そのエネルギーはいきなり身に付いたわけじゃない。

そういう事を考えると、今の日本が学ぶべきものがそこにあるような気がする。日本では徳川家康及び、江戸時代への評価がそれほどではない。西郷とか坂本龍馬とか、そのへんと扱いは変わらないと言うかむしろ低い。岡崎の地元に家康の銅像が建っているくらいで、家康の偉大な功績を讃えるような感じは無い。

この国の価値観が近代化の際に何を否定し、何によって作られているのかを示すわかりやすい話ですが、西洋では何といってもこの江戸時代の平和というのが非常に興味深く捉えられている。

そして明治維新にしてもそうですが、革命を行なった主体である武士が自らその既得権を捨て去るという有り得ない決定を受け入れたわけです。そんな話聞いた事無い。それもいきなりその精神が宿ったというわけではない。それはその事がサブズタンシャルであると受け入れたからでもある。そういうものを支える事が出来たメカニズムを見つめ直す必要があるのではないかと思うのです。

エミール・デュルケムによれば、習慣が習慣として機能している間はそれを反省するという事は出来ない。習慣が廃れて初めて反省する事が出来る。日本的エートスが壊れてしまったいま、そのかつてあった日本的エートスを支えていた何ものかが、回らなくなってしまった社会の歯車を動かす鍵になるのではないか?と思います。

モノに欲望しながらあくせく生きる生き方が下らなく感じられるのは、モノにこだわらない生き方があるから、その価値を相対化出来るわけですし、ココロの重要さに気付く事も出来る。しかしココロの問題の中でグルグルループして、ヒューマニズムの中でヒューマニズムを考えていても、全体像は見えない。

ヒューマニズムを肯定するだけではヒューマニズムは肯定出来ない。人が自分一人では自分を肯定出来ないのと同じで、いったんそれを外から眺めてみる為の足場、もしくは外側からの評価を受け止める事が必要なんじゃないかと思います。

それと同時に、これは以前の「反戦平和がただの願望では困る」というエントリーの中で、筑紫徹也氏の話を書いた際にも書いた事なんですが、人を説得する場合、ただ外側からの意見を闇雲にぶつけてみても効果はありません。

小さな政府路線支持者に対して、いかに再配分が必要であるのか、もしくは弱者救済を熱烈に支持している人に対して、経済成長の必要性をぶつけて、ある程度の競争の原理は否定出来ないのだと言う事、要するにその人が信じ込んでいるドグマにカウンターをぶつけてただ単に批判しても、もしくは説得しても話は全く通じない。通じる人なら相対化しているわけで、これこそは絶対的な頭の悪い教条的○○主義者にはならないでしょう。

そういう人に向かって説得するには、例えば弱者救済原理主義者に向かうのであれば、いったん資本主義の問題点、新自由主義的方向性の欺瞞を明らかにし、弱者救済図式を共有して、それはその通りと認める所は認めながら、しかしその弱者の外側にも弱者がいるけれどそれはどうすればいいんだろう?救うには何が必要なんだろう?経済を否定してはたして救えるのだろうか?という風に少しずつ矛盾点を提示して行った方が、上手く行く場合が結構ある。話を聴いてもらえる。

更にそれを押し進めて、お前の新自由主義は全然新自由主義じゃねえよ、甘過ぎるぜ、新自由主義ってそういう事じゃないんだよ、それでは機会の平等をしらばっくれているステークホルダーに利用されているだけだぜ、とか、弱者救済?そんなヌルいやり方じゃ弱者は救えねえよ、それでは単なるガス抜き装置として、搾取する人間に利用されているぞ、本当の弱者救済の奥義はこれこれだ、とか。

疑似新自由主義には真っ当な新自由主義、疑似弱者救済図式には真っ当な弱者救済図式をといった感じで攻めて行った方が近道の場合がある。カウンターパートへの理論武装はしっかりしていたりするものですが、信じるドグマの神髄からの全然足らねえよ甘過ぎるぜという批判には無防備だったりする。これは昨今のヘタレ右翼やバカ左翼図式には非常に効果があると思う。

新自由主義にしろ、弱者救済的リベラリストにしろ、真っ当な考え方はいずれも正しい。どちらが正しいかではなく、バランスと、ある場面ではこっちの方向性、ある場面ではあっちの方向性という話であるわけで、弱者をないがしろにしてでも新自由主義とか、経済システムや経済成長なんてないがしろにして弱者救済とか、そういうのはいずれも間違っている。にもかかわらずこれこそは絶対と吹き上がっている人には、それなりに伝わる言葉じゃないと説得は出来ません。

あえて新自由主義者として、もしくはあえてリベラリストとして振る舞って、頭の凝り固まった教条的○○主義者を説得するほうが上手く行く場合が多々ある。その時にそういうあえて○○主義者ゲームを演じられるのは、その主義や思想を相対化出来ていないと出来ない。相対化するには外部の足場が不可欠です。

そしてこれも絶対に必要不可欠な話ですが、意見の対立や議論を徹底的にやるのはいい事だと思う。しかし対立しっぱなしというのはマズい。説得する価値も無いようなアホもいますけれど、基本的にそれが社会的分断になってしまうのはマズいわけです。なので修復の作業が不可欠でもある。ルサンチマンを持った人をそのまま放置するようでは、社会がどんどん荒んで行ってしまう。

例えばアメリカの大統領選。徹底的に対立し議論し、分裂して鬩ぎあう。あらゆる争点を徹底的にあぶり出して議論する。しかし大統領の就任式にしろ、民主党にしろ共和党にしろ大統領候補が決まった時には、党をあげて修復の作業に努める。アメリカの大統領選というのは4年に一回、架空の南北戦争を繰り返している。又はエリートと反エリート、もしくは右と左に分かれて徹底的に討議している。どちらが正しいのか?と。どちらのアメリカが正統性があるのか?と。憲法と民主主義がそれを担保する。

しかし徹底的に分断して争ったあとは、仲直りの儀式、就任式のようなものによって、大統領が修復の作業をキチンと演説をぶって行なう。それでいったんは結束し直す。オバマの演説なんかはまさにそうだった。オバマは元々敵を設定するよりも、敵味方図式を作り出して分断している奴が敵なのだと言った感じの、非常に賢明なやり方だったと思いますが、やっぱりそれでも分断はあったわけで、それを何とか修復する所から始まる。もちろんそれでも分断は絶対に無くならないし、敵を作り出さなかったが為に、これから必ず線を引く事になるわけですから、必ず線の外側からの不満は出てくるでしょうけれど、今の時点では賢明な演説だったと思います。

ブッシュが最初に大統領になった時、ゴアとの決戦は相当怪しい所があったわけで、正統性も怪しいし、この修復の作業が上手く行かなかった。これが9.11を千載一遇の好機と捉え(陰謀説はわきにおいときましょう)、結束と修復に利用し、アフガンからイラクまで突っ走ってしまった原因にもなっていると思う。なので修復の作業は非常に重要なのです。

しかし日本の政治は基本的に分断、イデオロギーの対立というより、利権の争奪戦、子供の喧嘩です。しかも修復の作業なんて行なう気もないし、人のせいにする事ばっかりです。官僚のせい、与党のせい、野党のせい、と言った感じで。決断する立場の人間が責任を回避し決断をせず、人のせいにする事しか頭に無い。どうすれば選挙で受かるのかばっかりです。具合が悪くなる。政治が上手く機能しないのは官僚のサボタージュのせいじゃなくて、政治家がバカだからです。どんなに官僚が利権に邁進しようが、サボタージュしようが、政治家が決断すればどうにでもなる。

日本は逆に言えば、アメリカのような人種のるつぼではないので、修復の作業がなくとも、同じ日本人というベースは何となくある。だから何となく不満はあっても回っているのかもしれません。が、そろそろそういう前提も壊れて来ているような気がする。分断は埋める事の出来ない対立の溝になりつつあるし、ルサンチマンを抱えてしまった人達は、そこからの出口も無い。

修復と統合は紙一重だとも言えますので、アホがそれをやると単なる統合になり、統合は新たな排除を生み出し、敵を生み出し、こぼれる人を生み出すという可能性があるので危ないというか、日本では政治家がアホしかいないのでそうなる可能性が高いのですが、修復をこのまま放置しておくと、修復出来ない分断になりかねない。

しょうがないので個人個人がなんとかするしか、しばらくは対処法も無いかもしれません。せめて自分のまわりで理不尽な事が起こらないように。

そしてモノにこだわるという事は、それを確保するために必要な金にもこだわるという風にもなるでしょう。これも何となく悪い事であるかのような感じもある。これも大きな問題です。

自分は金に満足しなきゃ働く気にならない(とは言ってもそんなに高額な報酬を望むわけじゃありませんよ、所詮料理人ごときが貰える金額なんてたかがしれている)。だから文句をぶつぶついう前に勤め人の時はとっとと辞めます。これを言うと金に汚い奴と思う人もいるかもしれませんが、金の為に働いているのでそう思われても何とも思わない。ボランティア活動じゃないんだから、貰うもの貰わなきゃ最善を尽くす気にはなれません。

だけど給料が下がる事を恐れ、同じ所にしがみついていながら、金だけじゃない!!的な事を言う輩の方がよっぽど金に汚いように自分には思える。だったら全額寄付でもすりゃいい。だいたい金だけが全てだとは思っている奴なんているのか?って話でもある。金が大切だと思っているというだけで、金だけなんて本気で思っている人がいたらお目にかかりたいもんです。

自分勝手な奴だと思われるかもしれませんが、それでも一つ自分の中にある鉄則があります。それは卑怯な真似は出来る限りすまいという事です。カッコつけているわけじゃありませんよ、マナーです。汚い辞め方はしないという事です。

条件が折り合わなくても、じゃあすぐに引退って話にはならない。この条件じゃ自分には続ける事は出来ませんから、期限を言って下さい、そこまでは最善を尽くしますという事です。もちろん若い頃はケンカして辞めた事もあるので全くやった事が無いとは言えないのですが、相手が困るだろうという事を逆手に取って交渉はしないという事を決めています。

流れ者というのが外道になるかならないかの境目はそこにあると言っていい。ムカついたから辞めると困るだろうから辞めてやれとか、そういう事はしないという鉄則です。まあ社会人のマナーとして当たり前と言えば当たり前の話ですね。別に偉そうに言う事ではない。

これを若い頃から心に決めているので、自分以外の全員の料理人がいきなり団結して辞めちゃった時でも、自分も経営者のやり口はムカツクし、お世話になった先輩にしたがって辞めたいのも山々だし、残れば辛いに決まっているので、一緒に辞めたいのは山々ですが、そういう辞め方というのは自分の美学に合わないので絶対にやらない。

フェアな状態で交渉してそれが受け入れられないときは辞めますが、今辞めたら困るだろうから吹っかけてやれという事をするのは美しくないと思うのです。カッコつけているのかもしれませんが、これはどうにもならない、損しようが失敗しようがやりたくない。金の亡者であり、文句があればがんがん言い、辞めないで下さいと止められても、ハイさようならをして来た流れ者にとって外道ではないと自己満足したい譲れないこだわりであるわけです。損しようが辛い目に叩き込まれようが変えられない。

そんなのは別に自分のつまらないこだわりでしかないので、自慢したいわけでも何でもありませんが、短期的に考えるとそのときはもの凄く不合理な選択をしていると思う。だけどそれが多分信用を勝ち取って長期的に見れば自分へのリターンにもなって来たのではないかと思う。実際その話を聞いてお呼びがかかる事もありましたし。

給料は安いけれど、今この職場は非常に困っているように見える。そして経営者もそうでありながら従業員に対して誠実であろうとしているという場合もあるわけで、そういう時は、損したって休みがなくたって蹴落とすような真似はしませんでした。そういう事がめぐりめぐって評判を獲得して、新たな可能性を開く事もある。

目先の損得勘定や合理性計算だけで動いていないからこそ、後から考えれば長期的に見て合理的になる事もよくある話で、自分はやりませんが長期投資だって、目先の損得勘定を封印出来るからこそ、長期的に見れば莫大なリターンをあげる事も出来る。

要するに何が言いたいのかといいますと、長期的には得になるとしても、その時点はそう思って行動しているわけじゃない。少なくとも自分は、ああバカな決定をしたもんだとか、何で変な所にこだわってるんだ俺、とか、その時点ではそれなりに後悔の心も裏腹で存在する。つまり金が大切だと思っていても、その問題とモラルの無い人間というのはイコールにならないし、金金言っている合理主義者であるからと言っても、時に不合理な選択は取るものなのではないかと思うわけです。

金(モノ)にモチベーションを持つ事と、非道な振る舞いをするという事は全く別の話であるにもかかわらず、何となく串刺し化されているような所がある。金にモチベーションを持っている人と、実際に金持ちも別だと思うし、そういう事とその人が非道かどうかは全く別の話であるにもかかわらず、金金言っている奴は、不誠実で狡い人間であるとか、あれだけ金を溜め込んでいるんだ、非道な振る舞いをしているに違いないとか、変なやっかみ根性みたいな抜け駆け意識が実体をねじ曲げて捉えてしまうような啓蒙や教育が溢れているような気がする。

金にモチベーションを持っているからといっても、だからってオートマティックに人でなしになるわけじゃないという事ぐらい、仕事して金貰っている人なら誰でもわかっていると思う。金が大好きと言うと批判される世の中ですが、金にあくせくするのはつまらないという人は批判されない。自分は金が大切だと思いますが、本当に金だけじゃないと思って生きられる人は凄いと思う。たいしたもんだと思います。だけど金だけじゃないと言っている人から、金が大切だと思っている人に向けてのリスペクトというのは聞いた事無い。

経済成長とか、資本主義とか株式市場とか、そういう価値は大切だと思っている人というのは、自分も含めて比較的、それを否定する人のいい分も一理あると思うので、金にあくせくしないという生き方はその人の自由なわけですから、それはそれでいいと思うし、否定する人もあまりいないと思う。農村でスローライフとか言うのも、別にいいんじゃないかと思う。まあ実際、自分は庭で野菜を結構自給自足しているので、ちょっと甘く見てるんじゃないか?という気はしないでもないですが、個人でそれがいいと思う人は大いにやればいいと思う。

しかし逆はどうかと言うと、別に資本主義とか経済成長とか株式市場といった価値を大切だと思う事や、金にあくせくする生き方をするのは自由であるはずなのに、お前らのせいで台無しだ的なクソミソに否定する人が結構いる。確かにそれで不正をやっている輩をけなすのはわかるのですが、それを資本主義や経済成長、株式市場の問題だとすり替えて、そこに価値を置いている人達全てを否定するかのような言い回しをする輩がいる。

これは何でだろうと思うわけです。別に人がどういう価値観を持っていたって関係ねえじゃねえかと思いますが、俺は金には価値は置かないなんて言っているくせに、仕事はしているし、全額寄付しているってわけでもない。しっかり金にあくせくしているのに、そういう部分を突っ込むと、必要な分だけあればいいんだよとかえってくる。欲しいものも特別無いし、なんて言っているかと思えばしっかり貯金していたりするわけで、欲しいモノが無いのならその分寄付でもしてくれれば、助け合いの社会に貢献出来るはずなのに、何にでも変える事が出来る金というモノをしっかりストックしている。

その必要な分って何?

ライブドアが騒がれたり、村上ファンドが騒がれたり、外資系ファンドをハゲタカと言ってみたり、今回のサブプライムの問題でもそうですが、金だけじゃないとみんな言っていたのに、実際実体経済に回帰して不景気になった今、例えば定額給付金で言えば、たかがそれっぽっちじゃ屁の足しにもならないとか、どうせ消費税で取られるんだろとか、不景気だなんとかしろ!!等々、結局金金、金金社会全体で言っている。要するに誰かが儲かっているのが気に食わないという話でしかなく、俺に分け前をよこせという事が言いたいだけの話で、そういうのは子供の教育上よくない。見透かされる。

金金騒ぐ事が美しくないという事ばかり言いながら実際には美しくない行動をみんなが取ってしまうという事自体を問題にするよりも、モノへの欲望を持ってもそれが優勝劣敗とならないような社会の構築が必要なんじゃないかと思う。もちろんそれには今の統治権力では全く期待出来ないゼロ%ですが、我々側から少しモノの価値を見つめ直す事によって、可能性への糸口になるのではないかという気がします。何といっても統治権力を選べるわけですから。実は牽制のメカニズムはそこにあるわけで、無いわけじゃない。

人間というのは動物と違い、欲望を持つ存在です。欲求というのは満たせば消える。動物は欲求は持っていますが欲望は無い。動物の中で唯一人間だけが欲望する。欲望は欠乏が満たされても消える事が無い。それが知恵を持つという原罪を背負ってしまった人間の業です。

欲求していなくても欲望する事が出来るようにもなる。今はお腹がいっぱいだけれど、明日も腹が減るだろうから、明日の分を多めに確保してストックしておけるようになる。しかし欲望を持っても、人間は欲望を満たさないという選択も出来る。それが自由という価値だといえる。

ダーウィニズム的な適者生存という図式や、ドーキンスの利己的な遺伝子的な図式のように、何か生物学的にあらかじめ決まった道があるかのよう話というのは、人間には本当は当てはまらない。適者じゃなければ社会がそれを補うという選択もあるし、個人的に手を差し伸べる事も出来る。必ずしも遺伝子を残す為だけに振る舞っているわけでもない。

しかしなぜ自由があるのか?と言えば、それは我々が欲望を持っているからだと言える。欲望を否定してしまえば自由も上手く機能しなくなる。欲望があるからそれを満たさないという自由を選択出来る。自由があるから欲望を持ってしまった我々人間が、欲望を暴走させずに済む安全装置になるわけです。だから自由も大切になる。それを自覚する必要があるのではないかと思うわけです。

そして我々人間がなぜ人間になりえたのか?知恵を獲得し、社会性を獲得し、他の動物とは明らかに違う(優れているかどうかはわかりませんが)存在になったのか?それは我々がモノ(道具)を使い、未来を予想してモノ(財)をストックする事を覚えたからでもある。

だから欲求は欲望になり、欲望を満たさずに明日の分を予想してストックするという自由が生まれたわけです。欲望を持っていてもそれを満たさないという自由、欲求からも自由になった。それは非常に重要な事を示していると思う。

本当は物質文明が欲望を加速させるというのはフェイクで、モノを否定し情報化を加速させる事によって、決して形に残らない情報を求めて欲望をブーストさせるのが近代なのかもしれません。もしかすると欲望を制御する鍵は、モノへの欲望にはあるのかもしれない。そんな事を考えたりもするわけです。もちろんモノに煽られるのはよくない事だというのは百も承知なんですが、少しそういうまなざしを持ってモノへの欲望を見直す時期なのかもしれないと思う次第です。

じゃあそのモノへのモチベーションは何で担保するんだよって話に行き着くわけですが、派遣切り問題に立ち返って、モノへのモチベーションを復活させるという事は難しいとは思いますが、何によってモノへのモチベーションを失っているのか?という問題点を見つめ直す事によって、原因を知りそれを取り除く事が先ず重要な気がします。その話はまたしても次回で!!

つづく!!