前回の続きです。
流動性を高めるという事は風通しを良くする事なので、労働者の権利を高めるにはむしろ良い事であるはず。最近は会社に忠誠を尽くすとか、仕事とプライベートは仕事を優先するとか、理不尽な事でも我慢するとか、若い世代が昔の社畜みたいになっている。これでは派遣の問題なんか気にするわけもなく。単なる分捕り合戦になってしまう。派遣の人達も就職して安定したいと言う。分け合うパイが減っているからこうなっているのに、安定を求めて奪い合いになってしまいかねない。
自分が職人だから言うわけじゃありませんが、昔の日本的モノ作りみたいな話と、この社畜人生を一緒くたにしてねえか?って感じがする。マジ勘弁って感じです。
選択肢が無くて奴隷になるのと、自分で選択して選ぶのでは、全く意味が違うと思う。勤勉に働く事はいい事だと思いますが、それは会社の奴隷になるという事とは違う。組織の奴隷が多過ぎるので、組織益の為に本末転倒の事態も起こったりするわけです。会社の為に法律を破ったり、省益の為に国民の生活をぶち壊しにしたり、党利党略の為に首相の座に居座り、そういうアホを担いで社会をぶち壊しにしてしまう。
だいたい滅茶苦茶ヒマで週一回、忙しければ月に休みが一度も無いなんてのも当たり前で、一日どんなに最低でも16時間以上は拘束されて、下っ端の給料はサラリーマンに比べたら雀の涙、親方にぶっ飛ばされて、先輩にぶちのめされて、人権もクソも無い働き方が日本的モノ作りなんですけれどって話で、それを自分で好き好んで選択するなら勝手にやればいいと思いますが、そうあるべきだとか、他に選択肢がなくてそうするしか無いとかって言うのは、自分は職人なのでそういう働き方をしてみやがれとは思いますが、万人がそれを選択すべきだみたいな話はどうかしていると思う。
経済成長を続けて行けば、あまりにも残業が酷くて、理不尽な会社であれば辞める選択肢が出来る。今のままではその選択肢は地獄行きの可能性もある。今のような成長を諦めるという方向性だと、辞めた後の選択肢がキツ過ぎて、理不尽でも人間扱いされなくとも、忠誠を誓わずにはいられない奴隷状態で居続けなければならない状態が続いて行くという事にもなる。
一番労働者の権利を主張するのに有効なのは、言うべき事をいい、それが受け入れられなければ辞めるという事、ボイス&イグジットが有効であるはずが、日本の場合それをすると退職金は無くなるし、再就職は難しいし、社会保障からはこぼれちゃうし、という事でハードルが高過ぎる。しかも年金システムがかろうじてこの労働者を社畜として搾取する日本的経営が一番上手く行っていた時代を前提に組まれてしまっている。これが致命的。
景気がよかった時代、日本型雇用、自由の無い社畜的働き方をしていた連中が、自由もあり収入も悪くない新しい働き方が出て来た事に対して、嫉妬して滅茶苦茶叩いた。最近の若者はなっとらんと。そのルサンチマンを利用されて、企業に奴隷として働くのが一番マシな社会に成り果てたわけです。しかもそれは大量にこぼれた人を搾取して回る構造でもある。
新卒一括採用とか終身雇用制度というのは、それくらいいい条件をくっつけないと、人手不足だったからそうだったわけで、低成長時代になってもそれを続けていた事によって極端に流動性をなくしてしまったのが余計派遣のような人達を追い込んでしまった。成長せずに流動性が無くなればどこかを切り捨てるしかない。
フリーター的働き方で、正社員並もしくはそれ以上の収入を得ていた時代、そのフリーターの人達が同じ日本人を搾取をしていたのか?と言えば、今の労働環境での正社員と比べれば断然搾取なんてしていない。当時は多くの人がフリーターの増大によって日本型の働き方の危機みたいな話を言っていたわけですが、結果はこの有様です。搾取の上に成り立つ一部の安定。
自分もその当時は確かにフリーター的働き方が羨ましいなと思いましたが、職人は職人でいたわけだし、安月給でフリーターよりも重い責任を背負っているサラリーマンや正社員というのもいたわけで、日本型の働き方の危機というのは口実で、ようは正社員的競争であくせくして来たのに、それが無意味化するのではないか?と言うルサンチマンで騒いでいただけのような気がする。みんなが裕福になると多様化して行くので、その多様性に恐れを成したというかなんというか。
フリーターみたいな働き方が羨ましく感じ、抜け駆け感を感じたからと言ったって、それはフリーターが悪いわけじゃなかったはずで、正社員なり職人なりを雇っていた企業が労働条件を整えていなかった事に問題があったわけです。むしろフリーターがいた方が、牽制としては重要だったのではないかと思える。もちろん背後には経済成長しているかいないかという差はありますが、このへんなルサンチマンが経済の頭を押さえつける力学として利用されてしまったような気がする。
日本型の雇用慣行で有利にゲームを進める事が出来る連中の為に、その枠内に無理矢理縛り付けた結果、その日本型雇用慣行が搾取を生み出し、経済の足を引っ張り、格差を固定化させ、流動化を失い、日本を機能不全に追い込んでしまった。
個人的には不況になって路頭に迷うようなヘッジの無い働き方をして来た事はそれ自体問題だとは思いますが、今の安定した仕事を得ている人達だって、結局は会社や何らかの技能に依存しているわけで、派遣の人達に怠けて遊んでいるみたいな言い方を言える程立派なのか?というと、安定している方こそ、危機管理してなかったり、遊んでいたりする余裕があるはずで、誰だって一ヶ月真面目に働いて、給料貰ったら、それなりに消費をしたいと思うのはごく自然な話であって、自分が若い頃の事を考えてみても、自分のまわりにいた職人の姿を思い出してみても、技術があるから偉いんだなんて言えるような立派な人なんて一握りしかいない。
多くの人は愚かであって、正社員偉い、派遣愚か、みたいな話にはならない。たかが就職しているくらいで、もしくはちょっと成功したくらいで、派遣の人達に向かって自己責任だとか強者面するのは醜い。奴隷である事を誇ってどうすんだよって感じです。
フリーター的働き方や、別にスキルがなくとも転職も恐くないし、失業もどうって事ない社会であれば、企業への牽制にもなるし、冒険も出来るわけだからイノベーティブな発想も生まれやすい。ちょっとドロップアウトしても復活出来る経路があるわけだから、それなりにプライベートも充実出来たかもしれない。不安が無ければ国家の余計な介入を必要としないわけだし、公共事業なんかも必要な所だけで十分になる。だけどそれじゃ権益が減って困る連中が、日本型雇用慣行で有利にゲームを進めたい、今までそこに人生を費やしてしまった連中のルサンチマンを利用して、社会の構造をがらりと変えてしまった。多分不況の原因はそこにもある。
日本型経営とか言われるけれど、この新卒一括採用、終身雇用制度によって、天寿を全うした世代というのはまだ誰もいない。一人もいない。高度経済成長が起こると奇跡的にワンジェネレーションだけもの凄く得する世代が生まれる。それが日本の場合最も人口の多い団塊世代だったりするわけで、それがあらゆる事を歪めてしまったような気がする。彼らがスタンダードなんじゃなくて、彼らのように得をする世代というのは、非常に稀で50年に一回とか100年に一回とかの宝くじみたいな話。日本型雇用慣行のような無茶なスキームが上手く機能するのは、非常に運がよかっただけで、そこに無理矢理みんなを引き込んじゃったから、二進も三進もいかなくなってしまった。
戦争でいっぱい人が死んで、インフラを根こそぎぶっ壊して、焼け野原になったから、右肩上がりの奇跡的な経済成長と、中流の夢みたいのものを享受出来たわけで、その事が変な中流幻想を生み出してしまっている。例え経済成長路線に方向性を切り替えたとしても、その頃のような日本型雇用慣行が通用した経済成長は基本的に戦争が起こるとか、大災害が起こっていっぱい人が死ぬとか起こらない限り不可能でもある。
いい大学を出て、いい会社に入って、思考停止して奴隷になって働けば、超贅沢な中流イメージの家庭を当たり前に持てた世代というのは、もの凄く特殊な、非常に運のいい世代だと言えるわけで、一瞬成立したにすぎない。しかしそういうモデルが終わっているのに、相変わらず終身雇用年功序列システム、新卒一括採用システムを続けて来た事によってしわ寄せを食った世代がある。それがロスジェネだと言える。
その幻想が変な中流意識を植え付けて、当たり前の幸せを得られないみたいなイメージを持っちゃっているような人も結構いて、凄い贅沢な話をそこそこだと思っているようなふしもある。そういうのを望む気持ちはわかるけれど、それを国家とか会社に依存して何とかしてくれみたいな話はちょっと違う。
終身雇用とか言ったって、本当は横での出世競争が激しかったり、社宅でイジメがあったり、単身赴任の悲哀とか、過労死の問題とか、そういう負の側面だっていっぱいあったはずなのに、そういう事をすっかり忘れ去って、都合のいい所ばかり受け取ってしまった結果、本当は手に入れられなかったはずの中流の夢みたいなものが、昭和30年代主義、オールウェイズ的懐古主義なんかと同じで、美化して捉えてしまっているような所がある。そんなの一部の大企業の社員だけの話で、しかもそういうバーター関係の負の部分だっていっぱいあったのに変な下らないイメージのサザエさん的中流の幸せみたいなものが、幻想として残っている。
昭和30年代とか40年代くらいというのは、環境がよかったかのように勘違いしている人もいるかもしれない。一番で環境が悪くて汚かった時代なのに、そういうものが消えた美化だけを歴史に無かったイメージがブーストしているような気がする。
死ぬしか選択肢の無いような環境に叩き込まれている人を救えというのはわかりますが、派遣で切られた人々全てを救うとしても、どうすれば救う事になるのかが共有出来ていない気がする。もう誰もが中流という状態は国家とか企業は保障出来ない。誰かを不平等にしないと成り立たなくなっているのが現状な訳で、派遣の人達が言う当たり前の普通の幸せ、最低限の人間的な幸せの最低限というラインが何を指しているのかが共有出来ていない。
ひょっとするとその最低ラインのイメージが、かつてあった幻想でしかない中流イメージによって歪められて、滅茶苦茶贅沢な話を最低ラインだと思っている可能性がある。最低ラインを保障しても何で俺達の所に当たり前にあるべき普通の幸せが無いんだという話に結局はなりはしないのか?死なない程度に生きられればそれで本当にいいのか?
貧困の問題と格差の問題と派遣労働者の問題を少し切り離して考える必要があると思う。死んじゃうような貧困はそりゃ何とかしなきゃならない。だけどそれでそういう運動系の人達が何を言うのかと言えば、企業に雇用を保障しろと言う。株主への利益還元を止めろと言う。気持ちはわかるけれど、それだと奪い合いだと否定している市場原理主義や新自由主義的な力学に加担する事になるという事に気付いていない。俺に分け前をよこせというのだと、奪い合いの連鎖は止まらない。どうにもならない貧困があると言いながら、派遣をみんな救えという話になってしまう。
もちろんそういう奪い合いを呼び出してしまうという事に敏感な論者もいるので、そういう事を言うのは一部のバカしかいないのは確かです。まともな人は貧困で苦しい環境に叩き込まれた人達が復活出来る経路、援助する仕組みが必要なんだと言う。派遣村のようなのを全国につくるべきだという話だろうと思うのですが、それを国家が介入してやるとなると、どうせ役人の権益になるだけでしかないという事にも敏感になっておかないと、これも結局奪い合いの話に収束してしまう。役人の無駄遣いを止めさせて、俺達に配分しろという議論に。どんなに援助をしようが復活の経路が担保されようが、やっぱり最後はその個人の決断が必要になる。自己責任の部分も出てくる。
そして一般的な風潮で、これ以上経済成長させて何を望む?そこそこでいいじゃないかという言い方も、そもそも、そのそこそこの生活のそこそこのラインがよくわからない。これ以上のこれのラインがわからない。世界標準で考えると滅茶苦茶贅沢な水準をそこそこと言っちゃっているような気がする。住む場所が6畳一間の風呂無しアパートに家族四人で暮らし、心があるから幸せだと思えるか?最低限の暮らしが出来る額、住む場所と食事代さえ何とかなれば満足出来るのか?
庭付き一戸建てくらいには住みたいなとか、ネット環境は欲しいとか、車は最低限無いと困るとか、プレステ3とかDSのようなゲーム機ぐらいあったっていいじゃねえかとか、時々外食くらいしたいぜとか、たまに旅行が出来るくらいの余裕は欲しいとか、時々ちょっと贅沢したいとか、そこそこで当たり前とか最低限の暮らしとか、人間らしい生活とかって言い方の中に、そういう欲求も混じってないか?こういうのは貧困問題とは全く別の話です。望むのは大いに結構な事だと思いますが、そういうのは自分で何とかするものです。
しまいには、かわいい奥さんとかわいい子供、そしてペットの犬とで、明るい家族生活みたいな、国家が最低限を保障したとしても、そういうものが手に入るかどうかは別の話なんじゃないか?と思える事まで、そこそことか、最低限とかのラインに含まれちゃったりしている人もいるのではないのか?貧困に喘いでいる人よりは、余裕のある人の方が相対的にそういう環境を手に入れやすいというのは確かにそうかもしれませんが、フランスなんかが典型ですが、貧しいから一緒に暮らすという感覚だってあるわけで、そういうものが手に入りやすい環境まで誰かに何とかしてもらうというのは、生きるか死ぬかの問題とは別問題です。
そしてその環境を仮に担保出来たからと言ったって、そこから先はやっぱり個人の自己責任になるに決まっている。パートナーは自分で見つけるものです。見つからない人はどんなに恵まれた境遇を手に入れたとしても見つからない。
料理人なんかですと、先ず出会いが無い。出会いが何とかなっても大概恋愛関係は上手く行かない。家族生活は上手く行かない。結婚生活も上手く行かない。そういう人がもの凄く多い。それはそこそこ技術を身につければ、家族を養うくらいの金はどうにかなるけれど、家族との時間を確保し難いのですれ違いが起こり、独立して成功でもすれば話は別ですが、だいたい上手く行かなくなる。
もちろん人によっては上手くこなす人も相対的に少ないとは言え、いるのはいますので、結局は仕事がどうだからというのは言い訳なのかもしれませんが、そういうものまで何とかしろとでも言うのだろうか?家族サービスが出来るくらいの金と余裕と時間を国家や誰かに何とかしてもらおうというのはムシのいい話なんじゃないのか?
国家の無駄遣い体質を取り除いて何とか出来るのなら、そりゃ悪い話ではないわけですから結構な事だとは思いますが、例え無駄遣い体質をどうにか出来るにしたって、そこまで何とかするとなると、ちょっと現実的ではない。第一それではモチベーションも生まれない。
仕事が無いとか言ったって、選んでいないか?という批判が出て来て、反論で派遣村での雇用のミスマッチ問題も騒がれましたが、もちろん選ぶ権利くらいはあるわけだから、やりたくない仕事はやりたくないと思うのは勝手だし悪い事ではないと思う。だけど生活出来ないような貧困なんだったら、選んでいるヒマは無いわけで、それが選べるという事はまだ生活出来る余裕がある事を意味している。そういう人が満足するような環境を整えてあげる事と、死ぬしか道がない人を救う事は別の問題です。
夜も寝ないで働いている人もいるし、休みも無く安月給で働いている人もいる。そういう人は我慢出来る人なんだから救う必要はなくて、仕事を選ぶ権利くらいあるはずだと叫んでいる人達は雇用のミスマッチだから救う必要があるとでも言うのだろうか?夜も寝ないで休み無く働いている人が辛くないとでも言うのだろうか?
自分は基本的には救うのであれば全部救うべき問題であるだろうと思う。我慢出来る人は我慢させて、我慢出来ない人は助けてあげるというのは話が違う。我慢している人だって辛いのは同じな訳で、我慢している奴は我慢出来るんだから我慢しろという風になるのだったら、誰も我慢なんてするのがバカらしくなる。国が何とかしてくれるのなら、そんなにおいしい話は無い。
しかし当たり前ですがそういう環境を全て整えて、みんなを救うという事は出来るわけが無い。パイが減って行く現在、全員にそれを担保するのは不可能です。しかし雇用のミスマッチを叫んでいる人達だけを救うとなると、また変なルサンチマンが沸き上がってしまう。運動系を叩き潰す力学に発展する。改革だ!!と拳を振り上げるインチキ野郎が出て来かねない。こんなバカな事を繰り返すのは本当にもう勘弁してほしい。
死なない程度のセーフティネットは必要でしょうけれど、その先は自己責任で何とかするしか無い部分もやっぱりあるわけで、どこまでを何とかしろと言っているのか今イチよくわからない。配分して弱者が金を使うようにならないと経済が復活して行かないというのは間違いないのですが、だからと言って配分をしろという事を言い出すと際限が無くなる。
ある程度の最低限の配分は必要だとは思いますが、そろそろ足の引っ張り合いは止めて、パイを増やす事を考えないとどうにもならない。そういう仕組みを何とかしなくちゃどうにもならない。思考停止的に奴隷になれば、みんな平等に中流の夢を見られた時代は終わっている。格差があっても、最下層の人々が最低限食って行ける社会に変化させる必要がある。それは他人の足を引っ張り合っていたのでは実現不可能です。
能力の有る無しに関係なく、奴隷となって隷属すれば、ある程度平等な生活を享受出来た時代というのは、ある意味いい時代だったんだろうと思う。奴隷と言うと誤解を招くかもしれませんが、ある意味理想的な形だったのかもしれません。だから日本は社会主義国だなんて言われたわけですが、そこには「最も成功した」なんて言う半分皮肉も含まれているのでしょうけれど冠もついていた。
だけど企業や経営者や既得権益層が自由を求めた人々に奴隷となれと大量の排除を必要としないと回らなくなってしまった日本的雇用慣行の枠に押し込めて、さらに大量の排除が必要な局面に立たされて、お前の自己責任だと豹変し、奴隷になって従った人々を切り捨てるのと、奴隷から自由になろうと振る舞って、自由が重過ぎるとわかると、今度は奴隷にしてくれ、奴隷にしてくれないのはおかしいと言いだす搾取されている人々も、白か黒かで綱引きするのではなく、オルタナティブを目指さないと、結局改革対象を改革すると弱者が痛い目に合う、もしくはその事を人質にとられて話が進まないのと、だからと言って改革対象を放置したままでも不平等な制度に胡座をかいて利権を貪っている輩が絶えないという現状からは脱却出来ない。
今の問題の切り方で牽制の力学を越えてたとえ派遣の方々の環境を改善出来たとしても、その事によって本当に問題のある制度的な欠陥や不平等に胡座をかき、制度によって守られて利権を貪っている連中が沢山いる状態を是正するという話には結びつかない。新たな派遣労働者的弱者を生み出す事にしかならない。
規制緩和悪、構造改革悪と言っている旧既得権の言っている事と同じことを言ってしまっている。流動化によって利権が減って行く連中と同じ事を言ってしまっている。奪い合いの連鎖に加担してしまっている。
そうすると再び出てくるのは既得権打破を叫び、単に弱者を流動化して食い物にする連中にまた利用されかねない。小泉改革を支持した国民と、小泉改革バッシングしている国民が全く同じ国民であるという事をみても、末端を分断統治して搾取する構造に絡めとられている。不安に叩き込み、安定をちらつかせ分捕り合戦を演出するような統治システムが一番の問題です。
奪い合いの連鎖をアウフヘーベンして、成長を妨げる制度的な欠陥や、勝つ側が勝ち続けるようなインチキ流動化を公正なものに絶えず線を引き直し、不必要な規制に守られた競争を免除された不平等のようなものを是正して、統治権力や経営者、持たざる者から持つ者への牽制を機能させる事によって(あくまでも牽制)、全体的なパイを増やす為に必要な方向性を目指して行く事を考えないと、このままではジリ貧確実です。
一般の人々も、もう欲しいものもあまり無いとか、田舎で農業でもしてのんびり暮らすとか、心の豊かさがあればいいじゃないか、幸せを追求すべきだとか、不安不安と騒ぎ過ぎだぜとか、経済成長はもう無理なんだよとか。勝手にそう思って自分一人で実行してくれるのならいいのですが、そういう人が厄介なのは、他人にそれを強要したり、他人の生き方に干渉したり、人の価値観にケチを付ける人が圧倒的に多い。みんながそうあるべきだと言う。他人の足を引っ張る。金儲け批判をする。金だけじゃないとか言っているくせに抜け駆け批判満々で醜い。そういう境遇にいる事そのものがすでに排除や搾取の構造を生み出しているのに、自分は無罪だと思っている。
これは金儲けにあくせくしている人から、そういう人達に向かって真面目にやれという風に干渉するのと比べると、圧倒的に多い気がする。金儲けにあくせくしている人の多くは、のんびりスローライフ的な生活を否定する人は少ないと思う。そういう人がいてもそれはそれで自由なんだし、ひょっとするとそういう生き方も悪くないよな羨ましいぜと思っている可能性もある。
だいたい自分は庭でちょこっと自分の家で食う野菜を自給自足しているだけですが、農薬を使わずだったりすると結構これが大変です。おいしく出来るようにするには簡単な話じゃない。これで商売なんて話になれば、のんびりってわけにはいかないでしょう。
都会の環境原理主義者なんかがよく言う事で、車社会からの脱却みたいな事を簡単に言う。だけど車なんていらねえよ、と言ったって、我々の生活を支えている流通には車は欠かせないわけで、アマゾンから何かが届くのも、日本全国の書店で同じ本が読めるのも、車の恩恵を受けていない人なんていないわけだから、俺は車なんていらねえよと言ったって意味がない。車に変わる便利さを環境負荷が少ない形で、しかも万人が享受出来る状態にして普及させなくちゃそんな社会になれるわけが無い。それは諦めるとかそこそこでいいじゃねえかなんて言ってたら出来ない。そういうものを生み出すイノベーションと活力が無くちゃ無理です。みんなに不便を強要する事は出来ない。我々は便利さを知ってしまっている。
なるべく仕事は必要なだけして、ある程度食って行けるだけあれば、のんびり出来た方が幸せなんじゃないかという感じ。必要以上に欲しいものも無いし、それなりに稼げればいいのではないか。そういう人が多数派になれば経済成長もしない。そういう人が多数派になって経済成長を諦めるという話なら、別にそれはそれでしょうがない。
しかしそういう意見もありながら、弱者を救えという話もあり、企業の批判は出てくるし、自己責任なんだよっていう話も出てくる。それじゃあ一体どうしたいんだよという方向性がわからなくなっているような気がする。人の事までとやかく言う。こうあるべきだと言う。
便利さや裕福さを知ってしまった人間が全員一致で諦めて貧乏を目指すというのは出来ない。テクノロジーを諦めて、自分の畑を耕していればいいじゃねえかとみんなでそう思う事は出来ない。なぜなら必ず抜け駆けする奴が出てくる。そしてそれを放置出来ない。必ず羨ましがる奴が出てくる。第一その前に、現に今貧困で苦しんでいる人達に向かって、散々搾取したあげく、これからはエコだぜ何つって、もっとコストのかかる生き方を強要するなんてのはある意味暴力です。
そもそもクソみたいな昭和30年代主義といいますか、ノスタルジックなクソ映画なんかを見て、昔のそこそこの慎ましやかな生活に憧れを持つみたいな感じもありますが、基本的にそんなに甘い話じゃない。
そこそこでいいとか、頑張らない生き方とか、そういう風に思ってみんなが生きていたわけじゃない。今に比べれば貧乏で、経済的な豊かさもないし、物質的な豊かさもないけれど、心の豊かさがあったではないかという言い方になるわけですが、それはそういう状態だったからそうなだけで、その中でみんな精一杯生きていたわけです。ちょっとでも裕福になろうと。頑張らない生き方なんてしてないし、そこそこで構わないなんて思っていたわけでもない。犯罪率だって今よりは無茶苦茶多かった。
出来れば次回でフィニッシュに!!つづく!
流動性を高めるという事は風通しを良くする事なので、労働者の権利を高めるにはむしろ良い事であるはず。最近は会社に忠誠を尽くすとか、仕事とプライベートは仕事を優先するとか、理不尽な事でも我慢するとか、若い世代が昔の社畜みたいになっている。これでは派遣の問題なんか気にするわけもなく。単なる分捕り合戦になってしまう。派遣の人達も就職して安定したいと言う。分け合うパイが減っているからこうなっているのに、安定を求めて奪い合いになってしまいかねない。
自分が職人だから言うわけじゃありませんが、昔の日本的モノ作りみたいな話と、この社畜人生を一緒くたにしてねえか?って感じがする。マジ勘弁って感じです。
選択肢が無くて奴隷になるのと、自分で選択して選ぶのでは、全く意味が違うと思う。勤勉に働く事はいい事だと思いますが、それは会社の奴隷になるという事とは違う。組織の奴隷が多過ぎるので、組織益の為に本末転倒の事態も起こったりするわけです。会社の為に法律を破ったり、省益の為に国民の生活をぶち壊しにしたり、党利党略の為に首相の座に居座り、そういうアホを担いで社会をぶち壊しにしてしまう。
だいたい滅茶苦茶ヒマで週一回、忙しければ月に休みが一度も無いなんてのも当たり前で、一日どんなに最低でも16時間以上は拘束されて、下っ端の給料はサラリーマンに比べたら雀の涙、親方にぶっ飛ばされて、先輩にぶちのめされて、人権もクソも無い働き方が日本的モノ作りなんですけれどって話で、それを自分で好き好んで選択するなら勝手にやればいいと思いますが、そうあるべきだとか、他に選択肢がなくてそうするしか無いとかって言うのは、自分は職人なのでそういう働き方をしてみやがれとは思いますが、万人がそれを選択すべきだみたいな話はどうかしていると思う。
経済成長を続けて行けば、あまりにも残業が酷くて、理不尽な会社であれば辞める選択肢が出来る。今のままではその選択肢は地獄行きの可能性もある。今のような成長を諦めるという方向性だと、辞めた後の選択肢がキツ過ぎて、理不尽でも人間扱いされなくとも、忠誠を誓わずにはいられない奴隷状態で居続けなければならない状態が続いて行くという事にもなる。
一番労働者の権利を主張するのに有効なのは、言うべき事をいい、それが受け入れられなければ辞めるという事、ボイス&イグジットが有効であるはずが、日本の場合それをすると退職金は無くなるし、再就職は難しいし、社会保障からはこぼれちゃうし、という事でハードルが高過ぎる。しかも年金システムがかろうじてこの労働者を社畜として搾取する日本的経営が一番上手く行っていた時代を前提に組まれてしまっている。これが致命的。
景気がよかった時代、日本型雇用、自由の無い社畜的働き方をしていた連中が、自由もあり収入も悪くない新しい働き方が出て来た事に対して、嫉妬して滅茶苦茶叩いた。最近の若者はなっとらんと。そのルサンチマンを利用されて、企業に奴隷として働くのが一番マシな社会に成り果てたわけです。しかもそれは大量にこぼれた人を搾取して回る構造でもある。
新卒一括採用とか終身雇用制度というのは、それくらいいい条件をくっつけないと、人手不足だったからそうだったわけで、低成長時代になってもそれを続けていた事によって極端に流動性をなくしてしまったのが余計派遣のような人達を追い込んでしまった。成長せずに流動性が無くなればどこかを切り捨てるしかない。
フリーター的働き方で、正社員並もしくはそれ以上の収入を得ていた時代、そのフリーターの人達が同じ日本人を搾取をしていたのか?と言えば、今の労働環境での正社員と比べれば断然搾取なんてしていない。当時は多くの人がフリーターの増大によって日本型の働き方の危機みたいな話を言っていたわけですが、結果はこの有様です。搾取の上に成り立つ一部の安定。
自分もその当時は確かにフリーター的働き方が羨ましいなと思いましたが、職人は職人でいたわけだし、安月給でフリーターよりも重い責任を背負っているサラリーマンや正社員というのもいたわけで、日本型の働き方の危機というのは口実で、ようは正社員的競争であくせくして来たのに、それが無意味化するのではないか?と言うルサンチマンで騒いでいただけのような気がする。みんなが裕福になると多様化して行くので、その多様性に恐れを成したというかなんというか。
フリーターみたいな働き方が羨ましく感じ、抜け駆け感を感じたからと言ったって、それはフリーターが悪いわけじゃなかったはずで、正社員なり職人なりを雇っていた企業が労働条件を整えていなかった事に問題があったわけです。むしろフリーターがいた方が、牽制としては重要だったのではないかと思える。もちろん背後には経済成長しているかいないかという差はありますが、このへんなルサンチマンが経済の頭を押さえつける力学として利用されてしまったような気がする。
日本型の雇用慣行で有利にゲームを進める事が出来る連中の為に、その枠内に無理矢理縛り付けた結果、その日本型雇用慣行が搾取を生み出し、経済の足を引っ張り、格差を固定化させ、流動化を失い、日本を機能不全に追い込んでしまった。
個人的には不況になって路頭に迷うようなヘッジの無い働き方をして来た事はそれ自体問題だとは思いますが、今の安定した仕事を得ている人達だって、結局は会社や何らかの技能に依存しているわけで、派遣の人達に怠けて遊んでいるみたいな言い方を言える程立派なのか?というと、安定している方こそ、危機管理してなかったり、遊んでいたりする余裕があるはずで、誰だって一ヶ月真面目に働いて、給料貰ったら、それなりに消費をしたいと思うのはごく自然な話であって、自分が若い頃の事を考えてみても、自分のまわりにいた職人の姿を思い出してみても、技術があるから偉いんだなんて言えるような立派な人なんて一握りしかいない。
多くの人は愚かであって、正社員偉い、派遣愚か、みたいな話にはならない。たかが就職しているくらいで、もしくはちょっと成功したくらいで、派遣の人達に向かって自己責任だとか強者面するのは醜い。奴隷である事を誇ってどうすんだよって感じです。
フリーター的働き方や、別にスキルがなくとも転職も恐くないし、失業もどうって事ない社会であれば、企業への牽制にもなるし、冒険も出来るわけだからイノベーティブな発想も生まれやすい。ちょっとドロップアウトしても復活出来る経路があるわけだから、それなりにプライベートも充実出来たかもしれない。不安が無ければ国家の余計な介入を必要としないわけだし、公共事業なんかも必要な所だけで十分になる。だけどそれじゃ権益が減って困る連中が、日本型雇用慣行で有利にゲームを進めたい、今までそこに人生を費やしてしまった連中のルサンチマンを利用して、社会の構造をがらりと変えてしまった。多分不況の原因はそこにもある。
日本型経営とか言われるけれど、この新卒一括採用、終身雇用制度によって、天寿を全うした世代というのはまだ誰もいない。一人もいない。高度経済成長が起こると奇跡的にワンジェネレーションだけもの凄く得する世代が生まれる。それが日本の場合最も人口の多い団塊世代だったりするわけで、それがあらゆる事を歪めてしまったような気がする。彼らがスタンダードなんじゃなくて、彼らのように得をする世代というのは、非常に稀で50年に一回とか100年に一回とかの宝くじみたいな話。日本型雇用慣行のような無茶なスキームが上手く機能するのは、非常に運がよかっただけで、そこに無理矢理みんなを引き込んじゃったから、二進も三進もいかなくなってしまった。
戦争でいっぱい人が死んで、インフラを根こそぎぶっ壊して、焼け野原になったから、右肩上がりの奇跡的な経済成長と、中流の夢みたいのものを享受出来たわけで、その事が変な中流幻想を生み出してしまっている。例え経済成長路線に方向性を切り替えたとしても、その頃のような日本型雇用慣行が通用した経済成長は基本的に戦争が起こるとか、大災害が起こっていっぱい人が死ぬとか起こらない限り不可能でもある。
いい大学を出て、いい会社に入って、思考停止して奴隷になって働けば、超贅沢な中流イメージの家庭を当たり前に持てた世代というのは、もの凄く特殊な、非常に運のいい世代だと言えるわけで、一瞬成立したにすぎない。しかしそういうモデルが終わっているのに、相変わらず終身雇用年功序列システム、新卒一括採用システムを続けて来た事によってしわ寄せを食った世代がある。それがロスジェネだと言える。
その幻想が変な中流意識を植え付けて、当たり前の幸せを得られないみたいなイメージを持っちゃっているような人も結構いて、凄い贅沢な話をそこそこだと思っているようなふしもある。そういうのを望む気持ちはわかるけれど、それを国家とか会社に依存して何とかしてくれみたいな話はちょっと違う。
終身雇用とか言ったって、本当は横での出世競争が激しかったり、社宅でイジメがあったり、単身赴任の悲哀とか、過労死の問題とか、そういう負の側面だっていっぱいあったはずなのに、そういう事をすっかり忘れ去って、都合のいい所ばかり受け取ってしまった結果、本当は手に入れられなかったはずの中流の夢みたいなものが、昭和30年代主義、オールウェイズ的懐古主義なんかと同じで、美化して捉えてしまっているような所がある。そんなの一部の大企業の社員だけの話で、しかもそういうバーター関係の負の部分だっていっぱいあったのに変な下らないイメージのサザエさん的中流の幸せみたいなものが、幻想として残っている。
昭和30年代とか40年代くらいというのは、環境がよかったかのように勘違いしている人もいるかもしれない。一番で環境が悪くて汚かった時代なのに、そういうものが消えた美化だけを歴史に無かったイメージがブーストしているような気がする。
死ぬしか選択肢の無いような環境に叩き込まれている人を救えというのはわかりますが、派遣で切られた人々全てを救うとしても、どうすれば救う事になるのかが共有出来ていない気がする。もう誰もが中流という状態は国家とか企業は保障出来ない。誰かを不平等にしないと成り立たなくなっているのが現状な訳で、派遣の人達が言う当たり前の普通の幸せ、最低限の人間的な幸せの最低限というラインが何を指しているのかが共有出来ていない。
ひょっとするとその最低ラインのイメージが、かつてあった幻想でしかない中流イメージによって歪められて、滅茶苦茶贅沢な話を最低ラインだと思っている可能性がある。最低ラインを保障しても何で俺達の所に当たり前にあるべき普通の幸せが無いんだという話に結局はなりはしないのか?死なない程度に生きられればそれで本当にいいのか?
貧困の問題と格差の問題と派遣労働者の問題を少し切り離して考える必要があると思う。死んじゃうような貧困はそりゃ何とかしなきゃならない。だけどそれでそういう運動系の人達が何を言うのかと言えば、企業に雇用を保障しろと言う。株主への利益還元を止めろと言う。気持ちはわかるけれど、それだと奪い合いだと否定している市場原理主義や新自由主義的な力学に加担する事になるという事に気付いていない。俺に分け前をよこせというのだと、奪い合いの連鎖は止まらない。どうにもならない貧困があると言いながら、派遣をみんな救えという話になってしまう。
もちろんそういう奪い合いを呼び出してしまうという事に敏感な論者もいるので、そういう事を言うのは一部のバカしかいないのは確かです。まともな人は貧困で苦しい環境に叩き込まれた人達が復活出来る経路、援助する仕組みが必要なんだと言う。派遣村のようなのを全国につくるべきだという話だろうと思うのですが、それを国家が介入してやるとなると、どうせ役人の権益になるだけでしかないという事にも敏感になっておかないと、これも結局奪い合いの話に収束してしまう。役人の無駄遣いを止めさせて、俺達に配分しろという議論に。どんなに援助をしようが復活の経路が担保されようが、やっぱり最後はその個人の決断が必要になる。自己責任の部分も出てくる。
そして一般的な風潮で、これ以上経済成長させて何を望む?そこそこでいいじゃないかという言い方も、そもそも、そのそこそこの生活のそこそこのラインがよくわからない。これ以上のこれのラインがわからない。世界標準で考えると滅茶苦茶贅沢な水準をそこそこと言っちゃっているような気がする。住む場所が6畳一間の風呂無しアパートに家族四人で暮らし、心があるから幸せだと思えるか?最低限の暮らしが出来る額、住む場所と食事代さえ何とかなれば満足出来るのか?
庭付き一戸建てくらいには住みたいなとか、ネット環境は欲しいとか、車は最低限無いと困るとか、プレステ3とかDSのようなゲーム機ぐらいあったっていいじゃねえかとか、時々外食くらいしたいぜとか、たまに旅行が出来るくらいの余裕は欲しいとか、時々ちょっと贅沢したいとか、そこそこで当たり前とか最低限の暮らしとか、人間らしい生活とかって言い方の中に、そういう欲求も混じってないか?こういうのは貧困問題とは全く別の話です。望むのは大いに結構な事だと思いますが、そういうのは自分で何とかするものです。
しまいには、かわいい奥さんとかわいい子供、そしてペットの犬とで、明るい家族生活みたいな、国家が最低限を保障したとしても、そういうものが手に入るかどうかは別の話なんじゃないか?と思える事まで、そこそことか、最低限とかのラインに含まれちゃったりしている人もいるのではないのか?貧困に喘いでいる人よりは、余裕のある人の方が相対的にそういう環境を手に入れやすいというのは確かにそうかもしれませんが、フランスなんかが典型ですが、貧しいから一緒に暮らすという感覚だってあるわけで、そういうものが手に入りやすい環境まで誰かに何とかしてもらうというのは、生きるか死ぬかの問題とは別問題です。
そしてその環境を仮に担保出来たからと言ったって、そこから先はやっぱり個人の自己責任になるに決まっている。パートナーは自分で見つけるものです。見つからない人はどんなに恵まれた境遇を手に入れたとしても見つからない。
料理人なんかですと、先ず出会いが無い。出会いが何とかなっても大概恋愛関係は上手く行かない。家族生活は上手く行かない。結婚生活も上手く行かない。そういう人がもの凄く多い。それはそこそこ技術を身につければ、家族を養うくらいの金はどうにかなるけれど、家族との時間を確保し難いのですれ違いが起こり、独立して成功でもすれば話は別ですが、だいたい上手く行かなくなる。
もちろん人によっては上手くこなす人も相対的に少ないとは言え、いるのはいますので、結局は仕事がどうだからというのは言い訳なのかもしれませんが、そういうものまで何とかしろとでも言うのだろうか?家族サービスが出来るくらいの金と余裕と時間を国家や誰かに何とかしてもらおうというのはムシのいい話なんじゃないのか?
国家の無駄遣い体質を取り除いて何とか出来るのなら、そりゃ悪い話ではないわけですから結構な事だとは思いますが、例え無駄遣い体質をどうにか出来るにしたって、そこまで何とかするとなると、ちょっと現実的ではない。第一それではモチベーションも生まれない。
仕事が無いとか言ったって、選んでいないか?という批判が出て来て、反論で派遣村での雇用のミスマッチ問題も騒がれましたが、もちろん選ぶ権利くらいはあるわけだから、やりたくない仕事はやりたくないと思うのは勝手だし悪い事ではないと思う。だけど生活出来ないような貧困なんだったら、選んでいるヒマは無いわけで、それが選べるという事はまだ生活出来る余裕がある事を意味している。そういう人が満足するような環境を整えてあげる事と、死ぬしか道がない人を救う事は別の問題です。
夜も寝ないで働いている人もいるし、休みも無く安月給で働いている人もいる。そういう人は我慢出来る人なんだから救う必要はなくて、仕事を選ぶ権利くらいあるはずだと叫んでいる人達は雇用のミスマッチだから救う必要があるとでも言うのだろうか?夜も寝ないで休み無く働いている人が辛くないとでも言うのだろうか?
自分は基本的には救うのであれば全部救うべき問題であるだろうと思う。我慢出来る人は我慢させて、我慢出来ない人は助けてあげるというのは話が違う。我慢している人だって辛いのは同じな訳で、我慢している奴は我慢出来るんだから我慢しろという風になるのだったら、誰も我慢なんてするのがバカらしくなる。国が何とかしてくれるのなら、そんなにおいしい話は無い。
しかし当たり前ですがそういう環境を全て整えて、みんなを救うという事は出来るわけが無い。パイが減って行く現在、全員にそれを担保するのは不可能です。しかし雇用のミスマッチを叫んでいる人達だけを救うとなると、また変なルサンチマンが沸き上がってしまう。運動系を叩き潰す力学に発展する。改革だ!!と拳を振り上げるインチキ野郎が出て来かねない。こんなバカな事を繰り返すのは本当にもう勘弁してほしい。
死なない程度のセーフティネットは必要でしょうけれど、その先は自己責任で何とかするしか無い部分もやっぱりあるわけで、どこまでを何とかしろと言っているのか今イチよくわからない。配分して弱者が金を使うようにならないと経済が復活して行かないというのは間違いないのですが、だからと言って配分をしろという事を言い出すと際限が無くなる。
ある程度の最低限の配分は必要だとは思いますが、そろそろ足の引っ張り合いは止めて、パイを増やす事を考えないとどうにもならない。そういう仕組みを何とかしなくちゃどうにもならない。思考停止的に奴隷になれば、みんな平等に中流の夢を見られた時代は終わっている。格差があっても、最下層の人々が最低限食って行ける社会に変化させる必要がある。それは他人の足を引っ張り合っていたのでは実現不可能です。
能力の有る無しに関係なく、奴隷となって隷属すれば、ある程度平等な生活を享受出来た時代というのは、ある意味いい時代だったんだろうと思う。奴隷と言うと誤解を招くかもしれませんが、ある意味理想的な形だったのかもしれません。だから日本は社会主義国だなんて言われたわけですが、そこには「最も成功した」なんて言う半分皮肉も含まれているのでしょうけれど冠もついていた。
だけど企業や経営者や既得権益層が自由を求めた人々に奴隷となれと大量の排除を必要としないと回らなくなってしまった日本的雇用慣行の枠に押し込めて、さらに大量の排除が必要な局面に立たされて、お前の自己責任だと豹変し、奴隷になって従った人々を切り捨てるのと、奴隷から自由になろうと振る舞って、自由が重過ぎるとわかると、今度は奴隷にしてくれ、奴隷にしてくれないのはおかしいと言いだす搾取されている人々も、白か黒かで綱引きするのではなく、オルタナティブを目指さないと、結局改革対象を改革すると弱者が痛い目に合う、もしくはその事を人質にとられて話が進まないのと、だからと言って改革対象を放置したままでも不平等な制度に胡座をかいて利権を貪っている輩が絶えないという現状からは脱却出来ない。
今の問題の切り方で牽制の力学を越えてたとえ派遣の方々の環境を改善出来たとしても、その事によって本当に問題のある制度的な欠陥や不平等に胡座をかき、制度によって守られて利権を貪っている連中が沢山いる状態を是正するという話には結びつかない。新たな派遣労働者的弱者を生み出す事にしかならない。
規制緩和悪、構造改革悪と言っている旧既得権の言っている事と同じことを言ってしまっている。流動化によって利権が減って行く連中と同じ事を言ってしまっている。奪い合いの連鎖に加担してしまっている。
そうすると再び出てくるのは既得権打破を叫び、単に弱者を流動化して食い物にする連中にまた利用されかねない。小泉改革を支持した国民と、小泉改革バッシングしている国民が全く同じ国民であるという事をみても、末端を分断統治して搾取する構造に絡めとられている。不安に叩き込み、安定をちらつかせ分捕り合戦を演出するような統治システムが一番の問題です。
奪い合いの連鎖をアウフヘーベンして、成長を妨げる制度的な欠陥や、勝つ側が勝ち続けるようなインチキ流動化を公正なものに絶えず線を引き直し、不必要な規制に守られた競争を免除された不平等のようなものを是正して、統治権力や経営者、持たざる者から持つ者への牽制を機能させる事によって(あくまでも牽制)、全体的なパイを増やす為に必要な方向性を目指して行く事を考えないと、このままではジリ貧確実です。
一般の人々も、もう欲しいものもあまり無いとか、田舎で農業でもしてのんびり暮らすとか、心の豊かさがあればいいじゃないか、幸せを追求すべきだとか、不安不安と騒ぎ過ぎだぜとか、経済成長はもう無理なんだよとか。勝手にそう思って自分一人で実行してくれるのならいいのですが、そういう人が厄介なのは、他人にそれを強要したり、他人の生き方に干渉したり、人の価値観にケチを付ける人が圧倒的に多い。みんながそうあるべきだと言う。他人の足を引っ張る。金儲け批判をする。金だけじゃないとか言っているくせに抜け駆け批判満々で醜い。そういう境遇にいる事そのものがすでに排除や搾取の構造を生み出しているのに、自分は無罪だと思っている。
これは金儲けにあくせくしている人から、そういう人達に向かって真面目にやれという風に干渉するのと比べると、圧倒的に多い気がする。金儲けにあくせくしている人の多くは、のんびりスローライフ的な生活を否定する人は少ないと思う。そういう人がいてもそれはそれで自由なんだし、ひょっとするとそういう生き方も悪くないよな羨ましいぜと思っている可能性もある。
だいたい自分は庭でちょこっと自分の家で食う野菜を自給自足しているだけですが、農薬を使わずだったりすると結構これが大変です。おいしく出来るようにするには簡単な話じゃない。これで商売なんて話になれば、のんびりってわけにはいかないでしょう。
都会の環境原理主義者なんかがよく言う事で、車社会からの脱却みたいな事を簡単に言う。だけど車なんていらねえよ、と言ったって、我々の生活を支えている流通には車は欠かせないわけで、アマゾンから何かが届くのも、日本全国の書店で同じ本が読めるのも、車の恩恵を受けていない人なんていないわけだから、俺は車なんていらねえよと言ったって意味がない。車に変わる便利さを環境負荷が少ない形で、しかも万人が享受出来る状態にして普及させなくちゃそんな社会になれるわけが無い。それは諦めるとかそこそこでいいじゃねえかなんて言ってたら出来ない。そういうものを生み出すイノベーションと活力が無くちゃ無理です。みんなに不便を強要する事は出来ない。我々は便利さを知ってしまっている。
なるべく仕事は必要なだけして、ある程度食って行けるだけあれば、のんびり出来た方が幸せなんじゃないかという感じ。必要以上に欲しいものも無いし、それなりに稼げればいいのではないか。そういう人が多数派になれば経済成長もしない。そういう人が多数派になって経済成長を諦めるという話なら、別にそれはそれでしょうがない。
しかしそういう意見もありながら、弱者を救えという話もあり、企業の批判は出てくるし、自己責任なんだよっていう話も出てくる。それじゃあ一体どうしたいんだよという方向性がわからなくなっているような気がする。人の事までとやかく言う。こうあるべきだと言う。
便利さや裕福さを知ってしまった人間が全員一致で諦めて貧乏を目指すというのは出来ない。テクノロジーを諦めて、自分の畑を耕していればいいじゃねえかとみんなでそう思う事は出来ない。なぜなら必ず抜け駆けする奴が出てくる。そしてそれを放置出来ない。必ず羨ましがる奴が出てくる。第一その前に、現に今貧困で苦しんでいる人達に向かって、散々搾取したあげく、これからはエコだぜ何つって、もっとコストのかかる生き方を強要するなんてのはある意味暴力です。
そもそもクソみたいな昭和30年代主義といいますか、ノスタルジックなクソ映画なんかを見て、昔のそこそこの慎ましやかな生活に憧れを持つみたいな感じもありますが、基本的にそんなに甘い話じゃない。
そこそこでいいとか、頑張らない生き方とか、そういう風に思ってみんなが生きていたわけじゃない。今に比べれば貧乏で、経済的な豊かさもないし、物質的な豊かさもないけれど、心の豊かさがあったではないかという言い方になるわけですが、それはそういう状態だったからそうなだけで、その中でみんな精一杯生きていたわけです。ちょっとでも裕福になろうと。頑張らない生き方なんてしてないし、そこそこで構わないなんて思っていたわけでもない。犯罪率だって今よりは無茶苦茶多かった。
出来れば次回でフィニッシュに!!つづく!