前回の続きです。

流動性を高めるという事は風通しを良くする事なので、労働者の権利を高めるにはむしろ良い事であるはず。最近は会社に忠誠を尽くすとか、仕事とプライベートは仕事を優先するとか、理不尽な事でも我慢するとか、若い世代が昔の社畜みたいになっている。これでは派遣の問題なんか気にするわけもなく。単なる分捕り合戦になってしまう。派遣の人達も就職して安定したいと言う。分け合うパイが減っているからこうなっているのに、安定を求めて奪い合いになってしまいかねない。

自分が職人だから言うわけじゃありませんが、昔の日本的モノ作りみたいな話と、この社畜人生を一緒くたにしてねえか?って感じがする。マジ勘弁って感じです。

選択肢が無くて奴隷になるのと、自分で選択して選ぶのでは、全く意味が違うと思う。勤勉に働く事はいい事だと思いますが、それは会社の奴隷になるという事とは違う。組織の奴隷が多過ぎるので、組織益の為に本末転倒の事態も起こったりするわけです。会社の為に法律を破ったり、省益の為に国民の生活をぶち壊しにしたり、党利党略の為に首相の座に居座り、そういうアホを担いで社会をぶち壊しにしてしまう。

だいたい滅茶苦茶ヒマで週一回、忙しければ月に休みが一度も無いなんてのも当たり前で、一日どんなに最低でも16時間以上は拘束されて、下っ端の給料はサラリーマンに比べたら雀の涙、親方にぶっ飛ばされて、先輩にぶちのめされて、人権もクソも無い働き方が日本的モノ作りなんですけれどって話で、それを自分で好き好んで選択するなら勝手にやればいいと思いますが、そうあるべきだとか、他に選択肢がなくてそうするしか無いとかって言うのは、自分は職人なのでそういう働き方をしてみやがれとは思いますが、万人がそれを選択すべきだみたいな話はどうかしていると思う。

経済成長を続けて行けば、あまりにも残業が酷くて、理不尽な会社であれば辞める選択肢が出来る。今のままではその選択肢は地獄行きの可能性もある。今のような成長を諦めるという方向性だと、辞めた後の選択肢がキツ過ぎて、理不尽でも人間扱いされなくとも、忠誠を誓わずにはいられない奴隷状態で居続けなければならない状態が続いて行くという事にもなる。

一番労働者の権利を主張するのに有効なのは、言うべき事をいい、それが受け入れられなければ辞めるという事、ボイス&イグジットが有効であるはずが、日本の場合それをすると退職金は無くなるし、再就職は難しいし、社会保障からはこぼれちゃうし、という事でハードルが高過ぎる。しかも年金システムがかろうじてこの労働者を社畜として搾取する日本的経営が一番上手く行っていた時代を前提に組まれてしまっている。これが致命的。

景気がよかった時代、日本型雇用、自由の無い社畜的働き方をしていた連中が、自由もあり収入も悪くない新しい働き方が出て来た事に対して、嫉妬して滅茶苦茶叩いた。最近の若者はなっとらんと。そのルサンチマンを利用されて、企業に奴隷として働くのが一番マシな社会に成り果てたわけです。しかもそれは大量にこぼれた人を搾取して回る構造でもある。

新卒一括採用とか終身雇用制度というのは、それくらいいい条件をくっつけないと、人手不足だったからそうだったわけで、低成長時代になってもそれを続けていた事によって極端に流動性をなくしてしまったのが余計派遣のような人達を追い込んでしまった。成長せずに流動性が無くなればどこかを切り捨てるしかない。

フリーター的働き方で、正社員並もしくはそれ以上の収入を得ていた時代、そのフリーターの人達が同じ日本人を搾取をしていたのか?と言えば、今の労働環境での正社員と比べれば断然搾取なんてしていない。当時は多くの人がフリーターの増大によって日本型の働き方の危機みたいな話を言っていたわけですが、結果はこの有様です。搾取の上に成り立つ一部の安定。

自分もその当時は確かにフリーター的働き方が羨ましいなと思いましたが、職人は職人でいたわけだし、安月給でフリーターよりも重い責任を背負っているサラリーマンや正社員というのもいたわけで、日本型の働き方の危機というのは口実で、ようは正社員的競争であくせくして来たのに、それが無意味化するのではないか?と言うルサンチマンで騒いでいただけのような気がする。みんなが裕福になると多様化して行くので、その多様性に恐れを成したというかなんというか。

フリーターみたいな働き方が羨ましく感じ、抜け駆け感を感じたからと言ったって、それはフリーターが悪いわけじゃなかったはずで、正社員なり職人なりを雇っていた企業が労働条件を整えていなかった事に問題があったわけです。むしろフリーターがいた方が、牽制としては重要だったのではないかと思える。もちろん背後には経済成長しているかいないかという差はありますが、このへんなルサンチマンが経済の頭を押さえつける力学として利用されてしまったような気がする。

日本型の雇用慣行で有利にゲームを進める事が出来る連中の為に、その枠内に無理矢理縛り付けた結果、その日本型雇用慣行が搾取を生み出し、経済の足を引っ張り、格差を固定化させ、流動化を失い、日本を機能不全に追い込んでしまった。

個人的には不況になって路頭に迷うようなヘッジの無い働き方をして来た事はそれ自体問題だとは思いますが、今の安定した仕事を得ている人達だって、結局は会社や何らかの技能に依存しているわけで、派遣の人達に怠けて遊んでいるみたいな言い方を言える程立派なのか?というと、安定している方こそ、危機管理してなかったり、遊んでいたりする余裕があるはずで、誰だって一ヶ月真面目に働いて、給料貰ったら、それなりに消費をしたいと思うのはごく自然な話であって、自分が若い頃の事を考えてみても、自分のまわりにいた職人の姿を思い出してみても、技術があるから偉いんだなんて言えるような立派な人なんて一握りしかいない。

多くの人は愚かであって、正社員偉い、派遣愚か、みたいな話にはならない。たかが就職しているくらいで、もしくはちょっと成功したくらいで、派遣の人達に向かって自己責任だとか強者面するのは醜い。奴隷である事を誇ってどうすんだよって感じです。

フリーター的働き方や、別にスキルがなくとも転職も恐くないし、失業もどうって事ない社会であれば、企業への牽制にもなるし、冒険も出来るわけだからイノベーティブな発想も生まれやすい。ちょっとドロップアウトしても復活出来る経路があるわけだから、それなりにプライベートも充実出来たかもしれない。不安が無ければ国家の余計な介入を必要としないわけだし、公共事業なんかも必要な所だけで十分になる。だけどそれじゃ権益が減って困る連中が、日本型雇用慣行で有利にゲームを進めたい、今までそこに人生を費やしてしまった連中のルサンチマンを利用して、社会の構造をがらりと変えてしまった。多分不況の原因はそこにもある。

日本型経営とか言われるけれど、この新卒一括採用、終身雇用制度によって、天寿を全うした世代というのはまだ誰もいない。一人もいない。高度経済成長が起こると奇跡的にワンジェネレーションだけもの凄く得する世代が生まれる。それが日本の場合最も人口の多い団塊世代だったりするわけで、それがあらゆる事を歪めてしまったような気がする。彼らがスタンダードなんじゃなくて、彼らのように得をする世代というのは、非常に稀で50年に一回とか100年に一回とかの宝くじみたいな話。日本型雇用慣行のような無茶なスキームが上手く機能するのは、非常に運がよかっただけで、そこに無理矢理みんなを引き込んじゃったから、二進も三進もいかなくなってしまった。

戦争でいっぱい人が死んで、インフラを根こそぎぶっ壊して、焼け野原になったから、右肩上がりの奇跡的な経済成長と、中流の夢みたいのものを享受出来たわけで、その事が変な中流幻想を生み出してしまっている。例え経済成長路線に方向性を切り替えたとしても、その頃のような日本型雇用慣行が通用した経済成長は基本的に戦争が起こるとか、大災害が起こっていっぱい人が死ぬとか起こらない限り不可能でもある。

いい大学を出て、いい会社に入って、思考停止して奴隷になって働けば、超贅沢な中流イメージの家庭を当たり前に持てた世代というのは、もの凄く特殊な、非常に運のいい世代だと言えるわけで、一瞬成立したにすぎない。しかしそういうモデルが終わっているのに、相変わらず終身雇用年功序列システム、新卒一括採用システムを続けて来た事によってしわ寄せを食った世代がある。それがロスジェネだと言える。

その幻想が変な中流意識を植え付けて、当たり前の幸せを得られないみたいなイメージを持っちゃっているような人も結構いて、凄い贅沢な話をそこそこだと思っているようなふしもある。そういうのを望む気持ちはわかるけれど、それを国家とか会社に依存して何とかしてくれみたいな話はちょっと違う。

終身雇用とか言ったって、本当は横での出世競争が激しかったり、社宅でイジメがあったり、単身赴任の悲哀とか、過労死の問題とか、そういう負の側面だっていっぱいあったはずなのに、そういう事をすっかり忘れ去って、都合のいい所ばかり受け取ってしまった結果、本当は手に入れられなかったはずの中流の夢みたいなものが、昭和30年代主義、オールウェイズ的懐古主義なんかと同じで、美化して捉えてしまっているような所がある。そんなの一部の大企業の社員だけの話で、しかもそういうバーター関係の負の部分だっていっぱいあったのに変な下らないイメージのサザエさん的中流の幸せみたいなものが、幻想として残っている。

昭和30年代とか40年代くらいというのは、環境がよかったかのように勘違いしている人もいるかもしれない。一番で環境が悪くて汚かった時代なのに、そういうものが消えた美化だけを歴史に無かったイメージがブーストしているような気がする。

死ぬしか選択肢の無いような環境に叩き込まれている人を救えというのはわかりますが、派遣で切られた人々全てを救うとしても、どうすれば救う事になるのかが共有出来ていない気がする。もう誰もが中流という状態は国家とか企業は保障出来ない。誰かを不平等にしないと成り立たなくなっているのが現状な訳で、派遣の人達が言う当たり前の普通の幸せ、最低限の人間的な幸せの最低限というラインが何を指しているのかが共有出来ていない。

ひょっとするとその最低ラインのイメージが、かつてあった幻想でしかない中流イメージによって歪められて、滅茶苦茶贅沢な話を最低ラインだと思っている可能性がある。最低ラインを保障しても何で俺達の所に当たり前にあるべき普通の幸せが無いんだという話に結局はなりはしないのか?死なない程度に生きられればそれで本当にいいのか?

貧困の問題と格差の問題と派遣労働者の問題を少し切り離して考える必要があると思う。死んじゃうような貧困はそりゃ何とかしなきゃならない。だけどそれでそういう運動系の人達が何を言うのかと言えば、企業に雇用を保障しろと言う。株主への利益還元を止めろと言う。気持ちはわかるけれど、それだと奪い合いだと否定している市場原理主義や新自由主義的な力学に加担する事になるという事に気付いていない。俺に分け前をよこせというのだと、奪い合いの連鎖は止まらない。どうにもならない貧困があると言いながら、派遣をみんな救えという話になってしまう。

もちろんそういう奪い合いを呼び出してしまうという事に敏感な論者もいるので、そういう事を言うのは一部のバカしかいないのは確かです。まともな人は貧困で苦しい環境に叩き込まれた人達が復活出来る経路、援助する仕組みが必要なんだと言う。派遣村のようなのを全国につくるべきだという話だろうと思うのですが、それを国家が介入してやるとなると、どうせ役人の権益になるだけでしかないという事にも敏感になっておかないと、これも結局奪い合いの話に収束してしまう。役人の無駄遣いを止めさせて、俺達に配分しろという議論に。どんなに援助をしようが復活の経路が担保されようが、やっぱり最後はその個人の決断が必要になる。自己責任の部分も出てくる。

そして一般的な風潮で、これ以上経済成長させて何を望む?そこそこでいいじゃないかという言い方も、そもそも、そのそこそこの生活のそこそこのラインがよくわからない。これ以上のこれのラインがわからない。世界標準で考えると滅茶苦茶贅沢な水準をそこそこと言っちゃっているような気がする。住む場所が6畳一間の風呂無しアパートに家族四人で暮らし、心があるから幸せだと思えるか?最低限の暮らしが出来る額、住む場所と食事代さえ何とかなれば満足出来るのか?

庭付き一戸建てくらいには住みたいなとか、ネット環境は欲しいとか、車は最低限無いと困るとか、プレステ3とかDSのようなゲーム機ぐらいあったっていいじゃねえかとか、時々外食くらいしたいぜとか、たまに旅行が出来るくらいの余裕は欲しいとか、時々ちょっと贅沢したいとか、そこそこで当たり前とか最低限の暮らしとか、人間らしい生活とかって言い方の中に、そういう欲求も混じってないか?こういうのは貧困問題とは全く別の話です。望むのは大いに結構な事だと思いますが、そういうのは自分で何とかするものです。

しまいには、かわいい奥さんとかわいい子供、そしてペットの犬とで、明るい家族生活みたいな、国家が最低限を保障したとしても、そういうものが手に入るかどうかは別の話なんじゃないか?と思える事まで、そこそことか、最低限とかのラインに含まれちゃったりしている人もいるのではないのか?貧困に喘いでいる人よりは、余裕のある人の方が相対的にそういう環境を手に入れやすいというのは確かにそうかもしれませんが、フランスなんかが典型ですが、貧しいから一緒に暮らすという感覚だってあるわけで、そういうものが手に入りやすい環境まで誰かに何とかしてもらうというのは、生きるか死ぬかの問題とは別問題です。

そしてその環境を仮に担保出来たからと言ったって、そこから先はやっぱり個人の自己責任になるに決まっている。パートナーは自分で見つけるものです。見つからない人はどんなに恵まれた境遇を手に入れたとしても見つからない。

料理人なんかですと、先ず出会いが無い。出会いが何とかなっても大概恋愛関係は上手く行かない。家族生活は上手く行かない。結婚生活も上手く行かない。そういう人がもの凄く多い。それはそこそこ技術を身につければ、家族を養うくらいの金はどうにかなるけれど、家族との時間を確保し難いのですれ違いが起こり、独立して成功でもすれば話は別ですが、だいたい上手く行かなくなる。

もちろん人によっては上手くこなす人も相対的に少ないとは言え、いるのはいますので、結局は仕事がどうだからというのは言い訳なのかもしれませんが、そういうものまで何とかしろとでも言うのだろうか?家族サービスが出来るくらいの金と余裕と時間を国家や誰かに何とかしてもらおうというのはムシのいい話なんじゃないのか?

国家の無駄遣い体質を取り除いて何とか出来るのなら、そりゃ悪い話ではないわけですから結構な事だとは思いますが、例え無駄遣い体質をどうにか出来るにしたって、そこまで何とかするとなると、ちょっと現実的ではない。第一それではモチベーションも生まれない。

仕事が無いとか言ったって、選んでいないか?という批判が出て来て、反論で派遣村での雇用のミスマッチ問題も騒がれましたが、もちろん選ぶ権利くらいはあるわけだから、やりたくない仕事はやりたくないと思うのは勝手だし悪い事ではないと思う。だけど生活出来ないような貧困なんだったら、選んでいるヒマは無いわけで、それが選べるという事はまだ生活出来る余裕がある事を意味している。そういう人が満足するような環境を整えてあげる事と、死ぬしか道がない人を救う事は別の問題です。

夜も寝ないで働いている人もいるし、休みも無く安月給で働いている人もいる。そういう人は我慢出来る人なんだから救う必要はなくて、仕事を選ぶ権利くらいあるはずだと叫んでいる人達は雇用のミスマッチだから救う必要があるとでも言うのだろうか?夜も寝ないで休み無く働いている人が辛くないとでも言うのだろうか?

自分は基本的には救うのであれば全部救うべき問題であるだろうと思う。我慢出来る人は我慢させて、我慢出来ない人は助けてあげるというのは話が違う。我慢している人だって辛いのは同じな訳で、我慢している奴は我慢出来るんだから我慢しろという風になるのだったら、誰も我慢なんてするのがバカらしくなる。国が何とかしてくれるのなら、そんなにおいしい話は無い。

しかし当たり前ですがそういう環境を全て整えて、みんなを救うという事は出来るわけが無い。パイが減って行く現在、全員にそれを担保するのは不可能です。しかし雇用のミスマッチを叫んでいる人達だけを救うとなると、また変なルサンチマンが沸き上がってしまう。運動系を叩き潰す力学に発展する。改革だ!!と拳を振り上げるインチキ野郎が出て来かねない。こんなバカな事を繰り返すのは本当にもう勘弁してほしい。

死なない程度のセーフティネットは必要でしょうけれど、その先は自己責任で何とかするしか無い部分もやっぱりあるわけで、どこまでを何とかしろと言っているのか今イチよくわからない。配分して弱者が金を使うようにならないと経済が復活して行かないというのは間違いないのですが、だからと言って配分をしろという事を言い出すと際限が無くなる。

ある程度の最低限の配分は必要だとは思いますが、そろそろ足の引っ張り合いは止めて、パイを増やす事を考えないとどうにもならない。そういう仕組みを何とかしなくちゃどうにもならない。思考停止的に奴隷になれば、みんな平等に中流の夢を見られた時代は終わっている。格差があっても、最下層の人々が最低限食って行ける社会に変化させる必要がある。それは他人の足を引っ張り合っていたのでは実現不可能です。

能力の有る無しに関係なく、奴隷となって隷属すれば、ある程度平等な生活を享受出来た時代というのは、ある意味いい時代だったんだろうと思う。奴隷と言うと誤解を招くかもしれませんが、ある意味理想的な形だったのかもしれません。だから日本は社会主義国だなんて言われたわけですが、そこには「最も成功した」なんて言う半分皮肉も含まれているのでしょうけれど冠もついていた。

だけど企業や経営者や既得権益層が自由を求めた人々に奴隷となれと大量の排除を必要としないと回らなくなってしまった日本的雇用慣行の枠に押し込めて、さらに大量の排除が必要な局面に立たされて、お前の自己責任だと豹変し、奴隷になって従った人々を切り捨てるのと、奴隷から自由になろうと振る舞って、自由が重過ぎるとわかると、今度は奴隷にしてくれ、奴隷にしてくれないのはおかしいと言いだす搾取されている人々も、白か黒かで綱引きするのではなく、オルタナティブを目指さないと、結局改革対象を改革すると弱者が痛い目に合う、もしくはその事を人質にとられて話が進まないのと、だからと言って改革対象を放置したままでも不平等な制度に胡座をかいて利権を貪っている輩が絶えないという現状からは脱却出来ない。

今の問題の切り方で牽制の力学を越えてたとえ派遣の方々の環境を改善出来たとしても、その事によって本当に問題のある制度的な欠陥や不平等に胡座をかき、制度によって守られて利権を貪っている連中が沢山いる状態を是正するという話には結びつかない。新たな派遣労働者的弱者を生み出す事にしかならない。

規制緩和悪、構造改革悪と言っている旧既得権の言っている事と同じことを言ってしまっている。流動化によって利権が減って行く連中と同じ事を言ってしまっている。奪い合いの連鎖に加担してしまっている。

そうすると再び出てくるのは既得権打破を叫び、単に弱者を流動化して食い物にする連中にまた利用されかねない。小泉改革を支持した国民と、小泉改革バッシングしている国民が全く同じ国民であるという事をみても、末端を分断統治して搾取する構造に絡めとられている。不安に叩き込み、安定をちらつかせ分捕り合戦を演出するような統治システムが一番の問題です。

奪い合いの連鎖をアウフヘーベンして、成長を妨げる制度的な欠陥や、勝つ側が勝ち続けるようなインチキ流動化を公正なものに絶えず線を引き直し、不必要な規制に守られた競争を免除された不平等のようなものを是正して、統治権力や経営者、持たざる者から持つ者への牽制を機能させる事によって(あくまでも牽制)、全体的なパイを増やす為に必要な方向性を目指して行く事を考えないと、このままではジリ貧確実です。

一般の人々も、もう欲しいものもあまり無いとか、田舎で農業でもしてのんびり暮らすとか、心の豊かさがあればいいじゃないか、幸せを追求すべきだとか、不安不安と騒ぎ過ぎだぜとか、経済成長はもう無理なんだよとか。勝手にそう思って自分一人で実行してくれるのならいいのですが、そういう人が厄介なのは、他人にそれを強要したり、他人の生き方に干渉したり、人の価値観にケチを付ける人が圧倒的に多い。みんながそうあるべきだと言う。他人の足を引っ張る。金儲け批判をする。金だけじゃないとか言っているくせに抜け駆け批判満々で醜い。そういう境遇にいる事そのものがすでに排除や搾取の構造を生み出しているのに、自分は無罪だと思っている。

これは金儲けにあくせくしている人から、そういう人達に向かって真面目にやれという風に干渉するのと比べると、圧倒的に多い気がする。金儲けにあくせくしている人の多くは、のんびりスローライフ的な生活を否定する人は少ないと思う。そういう人がいてもそれはそれで自由なんだし、ひょっとするとそういう生き方も悪くないよな羨ましいぜと思っている可能性もある。

だいたい自分は庭でちょこっと自分の家で食う野菜を自給自足しているだけですが、農薬を使わずだったりすると結構これが大変です。おいしく出来るようにするには簡単な話じゃない。これで商売なんて話になれば、のんびりってわけにはいかないでしょう。

都会の環境原理主義者なんかがよく言う事で、車社会からの脱却みたいな事を簡単に言う。だけど車なんていらねえよ、と言ったって、我々の生活を支えている流通には車は欠かせないわけで、アマゾンから何かが届くのも、日本全国の書店で同じ本が読めるのも、車の恩恵を受けていない人なんていないわけだから、俺は車なんていらねえよと言ったって意味がない。車に変わる便利さを環境負荷が少ない形で、しかも万人が享受出来る状態にして普及させなくちゃそんな社会になれるわけが無い。それは諦めるとかそこそこでいいじゃねえかなんて言ってたら出来ない。そういうものを生み出すイノベーションと活力が無くちゃ無理です。みんなに不便を強要する事は出来ない。我々は便利さを知ってしまっている。

なるべく仕事は必要なだけして、ある程度食って行けるだけあれば、のんびり出来た方が幸せなんじゃないかという感じ。必要以上に欲しいものも無いし、それなりに稼げればいいのではないか。そういう人が多数派になれば経済成長もしない。そういう人が多数派になって経済成長を諦めるという話なら、別にそれはそれでしょうがない。

しかしそういう意見もありながら、弱者を救えという話もあり、企業の批判は出てくるし、自己責任なんだよっていう話も出てくる。それじゃあ一体どうしたいんだよという方向性がわからなくなっているような気がする。人の事までとやかく言う。こうあるべきだと言う。

便利さや裕福さを知ってしまった人間が全員一致で諦めて貧乏を目指すというのは出来ない。テクノロジーを諦めて、自分の畑を耕していればいいじゃねえかとみんなでそう思う事は出来ない。なぜなら必ず抜け駆けする奴が出てくる。そしてそれを放置出来ない。必ず羨ましがる奴が出てくる。第一その前に、現に今貧困で苦しんでいる人達に向かって、散々搾取したあげく、これからはエコだぜ何つって、もっとコストのかかる生き方を強要するなんてのはある意味暴力です。

そもそもクソみたいな昭和30年代主義といいますか、ノスタルジックなクソ映画なんかを見て、昔のそこそこの慎ましやかな生活に憧れを持つみたいな感じもありますが、基本的にそんなに甘い話じゃない。

そこそこでいいとか、頑張らない生き方とか、そういう風に思ってみんなが生きていたわけじゃない。今に比べれば貧乏で、経済的な豊かさもないし、物質的な豊かさもないけれど、心の豊かさがあったではないかという言い方になるわけですが、それはそういう状態だったからそうなだけで、その中でみんな精一杯生きていたわけです。ちょっとでも裕福になろうと。頑張らない生き方なんてしてないし、そこそこで構わないなんて思っていたわけでもない。犯罪率だって今よりは無茶苦茶多かった。

出来れば次回でフィニッシュに!!つづく!
前回の続きです。

既得権を再分配するにも直接持っている奴らから引きはがしてそれを貧しい人達に配れという方法と、持っている事に意味がなくなる方法と二通りある。今この国での格差問題や派遣問題で脚光を浴びているのはすべて広い意味で言えば前者の議論に収束していると思います。

再配分せよというのも、ワークシェアリングにしろ、企業を叩きにしろ、株主たたきにしろ、俺に分け前をよこしやがれという話です。そしてそれに対して自己責任だろという事にしろ、単なる役人の権益になっているだけだという話にしろ、怠け者を甘やかすなという言い方にしろ、早い話がお前に配分してたまるか、お前は配分されるべき人間じゃない、分け前は俺のもんだという事を言っているだけで、要するに両者とも広い意味でいえば同じ話をしているだけ。

あそこに不当に金を貯め込んでいる奴がいる、あそこに怠け者がいる、こういう話は市場原理主義と呼ばれる構造や、ブッシュ小泉的な新自由主義的方向性に回収されてしまう。既得権批判がブーメランになって弱者を傷つけるという構造です。だから気をつけないと危険です。

市場によって経済を回す方向性がどんどん進んで行くと、自分だけは抜け駆け出来ると錯覚するので、そういうシステムに賛成してしまう。だけど殆どの人は抜け駆け出来ないわけで、そうなると経営者に怒りの矛先が向くはずなんですが、日本ではそれが弱過ぎる。自分だけは何とかなるとか、そんな運動にかまけている暇があれば俺は出し抜くぜという風になっている。奪い合いが始まってしまう。

自己責任だと言っている人も、弱者を救えと言っている人も、要は同じ事を言っているわけですから、牽制という意味において重要であるという話だけで、実際にどちらが正しいかというのはあまり意味がない。

今目の前で苦しんでいる人がいるではないか!!目の前で怠け者が能能と不平等な配分を得ているではないか!!こういうのは目の前のその問題が問題であるという話であって、だから弱者を全部救え、もしくは弱者面をした怠け者を全部許すな、という風に飛躍してしまうと、牽制の意味を越えてしまう。

どちらが正しいかが重要なのではなくそれぞれの言い分が表に出て来て、どういう風に最適化するのが一番合理的であるのか?という事を考えないと奪い合いの連鎖は終わりが無くなる。

冷静な所での再配分政策としては累進課税がゆるゆるになっている事も問題かもしれません。金持ちというのは政治的影響力が強いので取りづらいという事が大前提としてあります。累進課税をゆるくすると経済が不安定になるというのが経済学上の定理にあって、経済を安定させたかったら累進をキツくした方がいい。クリントン政権の財政再建が上手く行ったのは徹底的に累進をキツくしたからに他ならない。ブッシュや小泉のような連中が金持ち優遇という風に見えちゃうのは、グローバル化とかそういう理由ではなくて、単に金持ちを減税したからという見方もある。

金持ちを減税すると資本主義において能力があるから金持ちな訳で、そういう人のやる気を促進すれば、もっと金が回るようになるというリレバンシーの無い話がよく言われます。これは金利の上げ下げの問題の時に出てくる議論と一緒くたにしているような所があって、金を貯める人と、金を借りる人、どちらの方が経済にとってプラスの効果があるのかと言えば、金借りてまで事業をしたいと思っている人の方が経済効果があるだろうというのがあって金利を下げた方が経済が復活するという話なわけで、それは金持ちかどうかというのはあまり関係がない。

金持ちと言ったって、今の無能な世襲議員を見てもそうだし、コネで就職して競争の無い構造で利益を回している連中も沢山いるわけで、そういう連中が例え消費して経済効果を生み出すとしても雇用を生み出しているとしても、明らかにスタートラインは不平等なわけで、上に立つべき能力も自覚も無い、その構造が搾取や排除を生み出すわけだから、どちらかと言えばマイナスの効果の方がでかい。だから累進課税というのは経済効果を萎縮させるというのは勝つ奴が勝ち続ける社会を維持させる為の方便でもある。

しかし今は増税イコール消費税という感じになっている。消費税と言うと平等だって話になってしまうのですが、みんな平等というのは大きな間違いでおかしな話です。金持ちも貧乏人も同じく取られるというのは平等とは言わない。だけど何となく今の構造で増税されるのは勘弁してほしいけれど、ある程度役人の懐に入って無駄遣いされないのであればしょうがないかもしれないなという感覚があるのではないでしょうか。

積極的に人手を増やすというと公共事業という話が出てくる。これは非常に不人気です。しかし公共事業がなぜ出来ないかと言うと、中抜きが起こるからで、公共事業自体に問題があるわけではないのですが、公共事業すら出来ない構造的な問題を抱えているからどうにもならない。したがって選択肢が限られる。どうせバラマキをやるのなら、ただ単に金を撒くだけでも効果がある。要するにベーシック・インカム。

これは左は比較的賛成でしょうけれど、右もある種の人は支持している事で、まあ左は弱者救済、仕事をしなくても人間には最低限の生きる権利が保障されているはずだという図式で言うのと、右的な最低限の金はやるから、後は自己責任で生きてくれ、という図式に利用されたりもするので、単純な話ではないのですが、働くモチベーションを失うというのが批判として出てくるわけですが、モチベーションを失わない程度に金を撒くというのが現実的な話になる。

現実的な話としては社会保障を数年間ただにするとかの方がいいかもしれません。これは金持ちも貧乏人にも平等な措置な訳ですが、これも消費税と同じで平等ではない。しかし消費税は払うという方の平等なので、金持ちと貧乏人で同じ金額を払うとなると、貧乏人の方が負担を感じる。しかし払わなくて済むという話の平等であれば、金持ちは別にたいして嬉しくないだろうけれど、同じ金額払わなくて済むのなら貧乏人の方が得をするように感じる。

こういう措置や、ベーシックインカム的なものを実施するとなると、必ず出てくるのが、全員平等にやるって金持ちも優遇するのかよって話になる。麻生に定額給付金を使うのか?って話になる。もっと必要な所に使えとなる。

しかし全員に平等に撒くというのは中抜きが出来難いから公的セクターのコストを低く抑える事も出来るし、不正も起き難い。これをいろんな規制の網をかけたりすると、不正を防ぐ為に監督官庁を置き、更にその監督官庁の不正を防ぐ為にお手盛りの第三者委員会が調査をするという図式に絡めとられてしまうと役人の権益になるだけになってしまう。

再配分というのは誰を?誰から?どのラインで?どういう風に?と実に様々な角度から相当気をつけて論じないと、それは新たな不平等や排除、抑圧を生む事につながります。今の派遣問題の論じ方というのは非常に危険な匂いを感じる。

世の中不景気になると、下の方はどんどん落ちて行っているのに、上の方でしがみついている奴らがいる。ロスジェネの問題で言われるのは上の方でしがみついている奴らから既得権をはぎ取って、それを撒けば話が早い、いつまでしがみついてんだよ。みたいな話に落ちる。経済成長するとかしないではなくて、今持っている奴がいるんだからそれをよこせという風になる。凄く気持ちはわかるのだけれど結局既得権がその権益を手放すのか?というとどうもそういう風にはなり難い。実際に手放すわけが無い。

過去のどの国を見ても、経済成長が起こると産業構造が変わるという事態が起こる。トレンドの変化、テクノロジーの発達の変化によって、持っている権益がどんなにトップシェアだろうが何だろうが意味が無くなってくる事がある。いくら手放さないと踏ん張っていても、それを持っている事によって生じる便益が減ってくる。

が、現状は既得権益層が産業構造まで変えさせないというのがある。様々な規制によって既存の構造を維持する。既得権なんて関係ないぜとイノベーティブな発想を発揮して既存の産業構造の枠の外側から何かをするという事はそんなに出来るものじゃないし、不景気なので冒険も出来ない。それに実際にそういう人が出る杭は打たれる的に引きずり下ろされている様を見れば、そんなモチベーションも出て来ない。

経済成長してトリクルダウンがいいと言っても、既得権が既得権を手放さず、税制まで不平等税制を引くわけだから具体策が無い。こういった閉塞感にこの国は支配されているので、負のスパイラルからの出口が見えない。この減って行くパイを奪い合うという連鎖に加担していたのでは、破滅するまでこのスパイラルからは逃れられない。これを逆回転させるには、どこかでこの負の連鎖をいったん断ち切らないとどうにもならない。

90年代の既得権というのはNTTとか官僚とか小泉が騒いでいた時に改革の本丸なんて言われていた人達の事を指して来た言葉だった。不当に税金を無駄にしたり、利益を溜め込んでいるので、これを解放して庶民の所に届けなければダメなんだという話でした。自民党もマニフェストなんかに盛り込んでいた。

この既得権批判の既得権の指す範囲がどんどん広がっていてロスジェネとか、ワーキングプアとかが広がって行く中で、教員も既得権になっているし、組合とか、あげく正社員まで既得権と呼ぶようになっている。昔は既得権とは言われなかったポジションまでもが、就職している人達とかが既得権だと言われるようになっている。アイツらの持っている不当な利益を吐き出させて俺達の所によこせという風になっている。気持ちはわかるけれどこれでは何も解決しない。

元々既得権批判というのは不当に利益を溜め込んでいる連中がいるからそれを吐き出させて分配しろって話だったわけですが、これはみんなの平等を言っているのではなくて、既得権を奪った人達の平等でしかない。別の人を不平等にして蹴落としてでも俺達が平等を得るという現在のシステムに加担してしまう。

もうすでに不当な利益を貯め込んで、弱者を虐げている人達以外にまでターゲットが行っているという事は、裏を返せば普通にそこそこの生活を送っていると思っている人達、自分の学歴や経歴、今までの自分の働きに対して当然当たり前だと自覚している安定ですら、誰かを排除しないと維持出来ない社会になっている。それを望む事がすでに派遣の排除に加担してしまっている。無関心という罪がどんどん重くなっている。

この構造が問題な訳で、このゲームに参加したのでは、解決にはならない。仮にそこで俺達によこせと、俺達の平等を得られたとしても、それが新たな既得権に見られてしまう。後から来た人間にとって打破すべき既得権になる。この繰り返しのサイクルから逃れられなくなる。

とは言え、今現在派遣で苦しんでいる人、希望の無いロスジェネ、ワーキングプアの方々にとってはそんな事言っている場合ではない。今すぐ奪って俺達を平等にしろ、というのもわかるし、緊急事態なのでしょうがないというのはわかるのですが、非常に危険と紙一重になる。死にそうな環境に叩き込まれている人を救うという問題と、格差で苦しんでいる人達の問題をすこしわけて考えた方がいい。

既得権批判というのが小泉改革を後押ししてみんなで拍手喝采していたわけですが、気をつけなければいけないのは、俺達によこせ、お前に貰う資格があるのかよ、あそこに不平等がある、それをちゃんと分配しないのは不公平じゃないか!!というのが、なるほどその通り、競争を免除されて能力が無いのに既得権に居座っているのは確かにおかしい、能力があるのにチャンスが無いのは不公正だ、だから平等に競争しようぜという話にすり替わる。

新自由主義が出てくる、スタートラインは平等(なように見せかけて)にして競争した後の、結果の不平等は容認するという方向性を呼び出してしまう。それがまさに今問題になっている事で自己責任問題へと堂々巡りになる。この事に派遣村の問題や弱者救済を叫んでいる人達は自覚的ではないように見える。

新卒一括採用スキームにしろ、一度レールから外れたら復活するようなセーフティネットの無さとか、そういうものがあるから排除を生み出しているのは事実なので流動化自体必要だという話は正しい。しかしそれは新たな貧困層を生み出すという話でしかないわけで、問題の解決にはならない。

要するに、頑張ってもいないのに既得権に居座っている人間がいて、能力があるのに参加出来ない人間がいる。これはおかしいだろというのは正しい。しかし流動化をせき止めて既得権益に守られている不平等よりは、平等に競争をして、結果的な不平等を受け入れる方があきらめがつくというのは確かにそうなので、それ自体は正しいけれど、その不平等を受け入れると言う事は、自己責任を認めて、貧困を受け入れるとか、復活の無さを受け入れるとか、幸福を諦めるという事なので、そういう層にいる人達を救うという話とは関係がない。パイを増やすという話がセットにならないと、ただ単に弱者を流動化して搾取する現在のシステムを肯定するだけになる。

俺達も競争に参加させろというのは、参加したとしても、だから平等が待っているとか、普通の幸せが待っているという話じゃない。勝てばそりゃいいかもしれないけれど、負ければあきらめがつくかどうかの違いはあるし、実際それが大きいという問題もあるのですが、そういうものから溢れてしまった人達をどうするのかという事には繋がらない。それを国家が最低限の補償をするだけでいいのか?満足するのか?諦めがつくか?という問題が解決出来ない。

特に日本はそのセーフティネットが無い。そういう事を全く政府は考えもしていない。諦めたらそこでお終いというのが、今の日本の現状なわけで、みんなが少しマシな暮らしがしたいなと思っても、平等にしろよってやり方だと、確実に一定の人がそこからこぼれ落ちる。

そしてこぼれ落ちた人達を、それなりに自己満足させる為、自分で納得させる為に働いている仕組みが、ココロを重要視しろというスキームであるわけです。生き甲斐やそこそこという諦める言い訳を与える。

しかしそのスキームでみんな幸せになれているのか?というと、抜け駆け感と疑心暗鬼は加速し、人の足を引っ張る輩が溢れている。他人を羨ましがり、金だけではないといいながらしっかり貯め込んでいる。このスキームから目を覚ませという意味を込めて、モノにこだわれと言って来たわけです。

企業に就職出来たとしてもだからと言ってそれで何もかも解決って話じゃなくて、そこから競争が始まって奪い合いになるわけで、単に能力による競争だけではなく、コネや忠誠心という名の奴隷競争が始まる事を意味する。そこから自由になりたかったはずじゃなかったか?それが解決の手段だという話は違うような気がする。

また、小泉構造改革の際に抵抗勢力と指差されていた人達と、切り捨てられている人達の言っている事が規制緩和悪、流動化悪、自由化反対という感じで、同じになっている。それもやっぱり俺達の権益を奪われてたまるかという奪い合いの力学に加担する事となるわけで、それでもやっぱり解決出来ない。

流動化というのは格差を固定化させない為に、既得権者達が常に勝ち続けて搾取するような社会から脱却するには重要な概念ではあると思いますが、だからと言って貧困の問題が無くなるという話じゃありません。

そして貧困の解決の為にどのように配分をしたとしても限られたパイをどこにどのように配るのかという話である以上、必ず恣意的な線の外側からは不満の声が上がる。平等ではないじゃないかと。だからこれも結局格差を固定化させないという意味でしか無く、貧困の問題をどうするのか?という答えにはならない。

派遣問題での顛末も、結局就職させろという話が出てくる。チャンスをくれ、平等に競争させろと。小泉竹中改革を批判しながら、結局彼らが押し進めて来た方向性に参加させろという事を言ってしまっている。それなのに貧困を救えと言っている。牽制としての役割という意味においては非常に重要だと思うのですが、どうにも戦略が稚拙過ぎて頭を抱えてしまいます。何を批判したいのかが、彼らもわかっていない。

グローバル化の現在、そこそこという言い訳によって諦めて下に落ちて行った人間は、もっと安い賃金で働く労働者と競争しなきゃならなくなる。どんどん苦しくなって行く。

エリートもエリートで自己啓発し自分を高め続けながら、世界で通用する人間にならねばという強迫観念に急き立てられる。そういう風に世界の構造が変わっている。安定化とかそこそこという中流イメージを保つ事が出来ない。正社員になれば安泰とか、そういうスキームは終わっている。これは今に始まった事じゃない。70年代くらいから着々と進んで来た方向性で、やっと日本人が気付き出したという話でしかない。

別にそれが悪い話ばかりだというわけでもないとも思う。日本の問題だけを見ると、苦しい環境に叩き込まれている人が増えているのでしょうけれど、それは同時に貧困に喘いでいた人々が裕福になれるチャンスが生まれている事を意味するわけで、公正さという意味で言えば悪い話ではない。

そしてアキバ事件なんかで見られるような、寂しさの問題、孤独による承認不足の問題というのも、確かに過剰な流動性や入れ替え可能な誰でもいい存在としてしか必要とされていない現在の経済のスキームに問題があるのは間違いないでしょう。しかし就職出来たらそれが解消されるのか?というとそれはまた別の話であって、孤独の問題が無くなるわけじゃないし、承認されるかどうかは結局どうやって他者とコミュニケーションによって関わるのか?という問題でしかない。経済的に最低限を保障されればそういうものが自動的に手に入るわけじゃない。

国の保障が必要だと言うのは大前提ですが、それはあくまで最低限という話でしかないわけで、最低限はどこかという問題はありますが、変な中流意識で芽生えたような、当たり前の幸せ、みたいなものは絶対に保障出来ない。しかしそれで我慢出来るのか?といえば、それはやっぱり求めてしまうもので、その部分はやっぱり自分で何とかするしかない。自己責任の部分もやっぱり認めないわけにはいかない。

今の日本の社会というのは消費社会にどっぷり浸かっていて、飼いならされている状態は良くないのではないか?若者は政治に興味が無いし、デモもやらないし、みたいな感じの批判がある。自分もよく言ってしまう。

しかし既得権批判のルーツというのはカウンターカルチャーから始まっていて、それが今に至っている。今その現状を冷静に見ると、かつてあったカウンター性みたいなものが上手くシステムに絡めとられてしまい、分断として利用されてしまうような構造に変化している。

消費社会を否定して、昭和30年代主義的な生き方を求めようとするならば、やる気になればすぐに出来る。だけどそれじゃあ誰も我慢出来ない。なぜなら我々は消費社会の贅沢にどっぷり浸かっているからで、知ってしまっている。そこにカウンターを当てても、結果的に自分達が不幸せになるような構造に加担するだけになってしまっている。相当気をつけないと危ない。

昭和30年代の30代半ばの高卒正社員と同じ生活をしたいと思ったら、今の価値に換算すると東京でも月7万円で行ける、風呂無し共同トイレのアパートに住み、自炊して暮らせば何とかなる。しかも当時よりは間違いなく働く時間は少なくて済むわけだから、自由な時間は間違いなくあるし、精神的には豊かになるかもしれない、けどそれが出来るか?といわれれば、多くの人は無理なわけで、昭和30年代主義みたいなものに憧れているのは、そういう事に憧れているわけではないのでしょうけれど、そういう現実も見極めなきゃ変な話になる。

実際派遣の人達だってそれよりは絶対に貰っていたはずだし、普通に正社員で暮らしている人はその何倍も貰っているわけだから、自分達が感じているそこそこという基準がどういうものなのかを見極めないと、単に人の足を引っ張って、自己責任論に加担しているだけになる。最低を保障しろの最低のラインが何であるのか?

国家の経済成長とか、マクロな経済成長とか言われると、どうせ企業が儲かってるだけだろ論が出てくるわけですが、個人の経済成長というので考えれば、ちょっとずつ収入が増えた方がいいに決まっているわけで、それを広げて行くと自然と国家の経済成長になる。どこかから奪い取って何とかしろって話じゃなくて、分け合う為にも全体的なパイをいかに増やして行くのか?そのへんの問題を考えないと出口が無い。

もう少し!!つづく!!!
前回の続きです。

マスメディアがこの不況の煽りを食って赤字だとかほざいていますが、日本語という壁に守られて、しかも統治権力から独占を許されて、競争のない状態で、広告費を独占し、記者クラブ制度、再販価格制度、クロスオーナーシップという特権を認めてもらいながら、テレビにいたっては考えられないような安い電波使用量(これは我々国民の資産です)、固定資産税免除、安価での国有地の払い下げ、書き出すのもアホらしくなるような独占構造を許されていながら、赤字ってどういう事だよ?って話です。どうやって経営すればそうなるんだ?よっぽどバカか、無駄遣いをしているとしか考えられない。

日本の予算一般会計が80兆、国会で審議する事無く役人のポケットに入って行く特別会計と合わせると212兆、それが公的セクターで天下り先、ファミリー企業や独法、三セクなんかで利益を回している。それが年間グロスで668兆にも及ぶ。これは日本のGDPを100兆以上上回っている。不景気だっつってんのにありえない構造です。権益と非効率と無駄に塗れた構造に、それだけ国民の血税を使って垂れ流されている。こういう所を放置して消費税とかほざいているわけです。

これと全く同じ図式が大手マスメディアにも見られる。独占によって利益を回し、明らかに無駄と非効率に塗れた高コスト構造で回っている。入社3年目で平均年収が1000万を越すといわれる考えられないような人件費、制作費、そしてコネ入社、末端の制作会社を搾取して、偽装請け負いや、いまの派遣問題と全く変わらないような構造で回っている。

これが競争によって得られた結果であるのなら千歩譲ってしょうがないと思いますが、独占を許されて、しかも非効率且つ高コスト構造を放置して来て赤字とはどういう事だ?って話です。これは日本の財政が借金まみれになっている構造と全く同じ構造です。こういう構造を放置して来て、赤字で苦しいとか言っている。バカじゃねえかって話です。

そういう所で不景気であるにもかかわらず金を回して利益を貪っているわけですから、当然そいつらの利益を守ろうとすれば、誰かが痛い目に合わなきゃならなくなる。その構造に気付かれちゃ困るから、経済成長害悪説、経済成長出来ない論、ココロが満たされればいいじゃないか論、のんびりスローライフ論、その他様々な経済成長をさせまいとする啓蒙をまるで幸せはそこにあるかのようにほざいているわけです。

ハッキリ言って彼らは彼らの特権を守る事以外は興味も無いに決まってます。少なくとも意思決定出来る立場にいる人間は、逃げ切れれば知ったこっちゃないからです。そしてそれに従っている人間も現状でおいしい汁が吸えているうちは問題があるのは百も承知だけれど自浄作用なんて働くはずも無い。たまに自己満足の為に反省しているフリを見せる程度で、派遣の人間が野たれ死にするとしたって何とも思っちゃいないでしょう。面白いネタが出来たぐらいにしか。

赤字経営だからといっても、独占が解除されなければ結局何も変わらない。反省する事もないだろうし、自浄作用なんて働くはずもない。官僚にしろ自民党のクズ共にしろ、自分達で自分達の構造を解体出来ないのと一緒で、自浄作用なんて期待するだけ無駄です。

内部から構造を変えるという事にはどうしても限界が生じます。なぜならその人も内部の構造をつくっている一部であるからです。ソ連が崩壊したときもゴルバチョフがペレストロイカ、グラスノスチと騒いでいたけれど、結局彼は解体するまで出来なかった。解任されて共産党を追い出されていたエリツィンが再び外から復活してバラバラに共産党をぶっ壊した。小泉もそう、自民党をぶっ壊すと言ってましたが、彼自身が自民党の一部であるわけで、彼が存在するという事が即ち自民党の存続と生き残りになる。したがって相も変わらずバカ丸出しのクズ政党として残っている。

ただし内部から変化させるというのは長期的に見るとありえる。結局小泉が自民党的統治システムはぶっ壊したと言える。だけど自民党自体はしばらく残ってしまう。バラバラに崩壊するまで、まわりに害をまき散らして存続しようとなりふり構わず振る舞って、まわりをズタズタにしてしまう。

ゆっくりと構造を変化させた方が上手く行く場合もありますが、害をまき散らしているようなマスメディアにしろ、統治権力にしろ、被害の大きい存在は、やっぱり内部からチマチマ構造を変えるなんて事をしている間に、人はどんどん死んで行く。外部から引導を渡してやらないと自滅するまでまわりが被害を被ってしまう。

少し前のエントリーでマスメディアが底を打ったような感じがするという事を書きました。が、それはマスコミが心を入れ替えてまともになるという話ではなく、今の報道なんかをみる限り独力では無理な感じがします。今回の派遣報道なんかもそうで、強者弱者の二元論、弱者救済、格差是正の単純な図式、ポピュリズムに媚び媚びの頭の悪過ぎる報じ方で報道に力なんて入れたら(テレビなんかは今年から各社力を入れるみたいですが)自殺行為に近いものがある。なので既存のマスメディア的なものをボロクソに炎上させるようなネットの梯子はずしとセットでないと、今のマスメディアの力量では報道なんて出来ないでしょう。

なんでマスメディアが底を打ったと感じたのかと言うと、広告収入が激減しているという状況があり、パチンコやサラ金の広告ばっかりになっているという事からもわかるように、ダンピングしているわけで、現状の高コスト構造はどう考えてもビジネスモデルとしては完全に終わっている。

なので変えなければ立ち行かない。それと外部からの牽制の手段がネットによって担保されている。大手マスコミの広告主を撤退させるという力学まで生み出しているので、今のやり方では完全にマスとしては終わっている。本気でみているのは団塊世代以上しかいない蛸壺の一つとして消費されるだけになるでしょう。

そういう外部環境が整ったという事が9割くらいで、心を入れ替えたかどうかは全く期待出来ない。心を入れ替えなくとも変わるしかないというわけで、そうなれば人は知恵を絞るようになる。だから底を打ったように見えるという話でしかない。

全部自業自得、啓蒙の意味を忘れ、ポピュリズムに媚び、身から出た錆です。国民が喜ぶ?必ずそういう事をほざきますが、何の為に独占してんだ?って話です。単純な商業の論理に絡めとられない為に公器として機能する為に、独占を誰も許したわけじゃありませんが、勝手に統治権力と結託して許してもらっているわけです。

悪者はどこにもいないとか、結局は我々自身に問題があるという書き方をいつもするわけですが、それは改革対象がないという話ではありません。改革すべき所や是正すべき制度的欠陥はいくらでもある。そして間違いなく合成の誤謬をいい事に利権を貪っている連中というのも間違いなくいる。結局我々の問題なんだよという落とし方を利用して先送りしている問題点は沢山ありますので、そういう所を是正するという事は悪者かどうかの問題ではなくて必要不可欠でもある。

その為には先ず我々がその事を自覚しないと始まらない。自覚したって、そう簡単にはどうにかなるような構造ではないし、ただ単にぶっ潰せば済むって問題でもない。しかし自覚しない事にはどうにもならない。

そしてこれも重要な事ですが自分は何もマスメディアが悪者だからぶっ潰せとか、官僚こそが諸悪の根源だとか、政治家こそが問題なんだとか、経営者が悪辣だとか、旧左翼的などこかに悪者がいてそいつらを打破しろという事が言いたいわけでもない。

それぞれが自分にとって得になるような合理的選択が、合成の誤謬に陥ってしまう事もやっぱりあるし、狡い考えがあるわけじゃなくて素朴に組織の中でロールをこなしていたら、いつの間にか排除に加担しているという事もあるだろうし、自分の生活を守るために普通に生きている事が、どこかの誰かに取って不合理になってしまうという事もある。そして本当に狡猾で悪辣な己の欲望以外知ったこっちゃねえぜと利己的に振る舞っているのだとしても、それが相互に牽制し合うような仕組みが組み込まれていれば、個人として問題はあってもシステムは上手く作動するわけです。

要するに三権分立とか、日本で言えば二権分立みたいな仕組みが上手く作動すれば、それぞれが狡猾であっても歯止めがかかる。しかしそういう歯止めが働かないように社会が動いてしまう所に問題がある。

例えばネットの問題なんかが騒がれて、何となく規制やむなしみたいな話を言う人もいます。でもそんな事をしてしまえば牽制としての仕組みを失う。問題もあるだろうし、理不尽も生じるかもしれない。しかし牽制が無くなる事の方がもっと理不尽を生み出すという事に自覚的でなさ過ぎる所がある。目の前の理不尽にオタオタ狼狽え、感情的に反応して牽制の仕組みを国民自ら加担してぶっ壊して来た。

アメリカ人が何で銃を手放さないのか?そりゃ銃によって人も死ぬし、理不尽も沢山生まれる。しかしそれが統治権力に対する牽制として必要だと思っているから彼らは手放さない。いざという時には統治権力と刺し違えてでも自分達の自由を守るというのが根本にある。

自分は散々マスメディアの問題点を書きましたが別に無くなってほしいとは思っちゃいない。個人的には全く困らないとは思いますが、例えばネットが僅かとは言え既存のマスメディア的なものへ対する牽制の役割を果たせるのは、マスメディアが愚かであってくれるからでもある。

その事によってそれをネタにするからリテラシーも生まれるし、ネットが単なる蛸壺的コミュニケーションの場として消費され尽くされないヘッジにもなっていると思う。それが無ければネットなんてすでに誰も見向きもしない空間へと落ちぶれていたかもしれない。感情のゴミバケツとしての機能しか無くなってしまっていたかもしれない。

経済成長をして流動化を高めて行くという事は、ある種牽制にもなるわけです。流動化すると多様化するので、理不尽も起こるだろうし、問題も出てくるでしょう。しかしそこに狼狽えて、牽制を失ってしまえばもっと理不尽な社会が待っている。その事に日本人は多少なりとも気付いているはずです。その原因は牽制の無さにある。談合体質にある。その多様性に狼狽える所にある。

派遣村での顛末には批判も多いのですが、左派運動が盛り上がらないから、経営者を増長させてしまうという所があるわけで。早くもどちらかと言えば経営者の手先であるかのような事をほざく輩が結構いますが、ああいった運動は必要だし無いと困る。ただ牽制であるという事を忘れて行きすぎると、新たな排除の始まりにもなるので、そこは気をつけないといけない、それこそがまさにこの国の左派運動、弱者救済図式の大問題だったわけですから。

ケインズの所得再分配論の大本は、革命が起きるよりはマシだろうというのがベースになっている。革命で滅茶苦茶になるんだったら、再分配して弱者から救って行かないとならんという話だったわけです。それはガルブレイスも言っていた。

ソ連が健在だった頃はドミノセオリーなんて話が言われていて、共産主義革命が輸出されて行くという恐れがあった。だから西側諸国も社会主義的再配分政策を取らないと、国内で革命が起こったり、同盟国がそうなっちゃったら大変だから、弱者をないがしろにするのはマズいという発想があったわけです。しかしそれが消え、左派運動はやれば批判される。そうなると段々やりたい放題になってしまったから、今の帰結を招いているとも言える。

ベルリンの壁崩壊が89年、第一次戦略兵器削減条約、所謂STARTに米ソが調印して、事実上冷戦体制が崩壊したのが91年。日本のバブル景気が終わったのも91年。共産主義が完全に葬り去られて、革命への正統性が完全に消える。左派運動が正統性を失ってしまう。

それ以前は、弱者への配分というのが不可欠だったわけで、その為には既得権者が既得権を護持する為だけに振る舞うわけにもいかなかったし、配分するには経済成長しないと配分出来なくなる。したがって既得権護持の為には、経済成長の足を引っ張るという事が自滅する恐れがあったわけです。

もちろん経済成長しても権益を護持出来るような規制で国家と結託して守っていたというのもあるのですが、経済成長と再配分と規制によって弱者も守るというこの構造を支えていたものが、左派的な牽制にあったわけです。

マルクスは労働者への搾取や失業のような問題を無くすためには、資本主義をなくさなければならないと言いましたが、資本主義を無くせば、搾取や失業が無くなるとは言ってません。つまり搾取や失業を無くすためには資本主義を無くす事が必要条件であると言っていただけで、十分条件だとは言っていない。多くの共産主義政党や共産主義者が勘違いしていたのはここの所で、共産主義国が失敗したのもここに原因がある。

つまり共産主義にしても失業や貧困は無くならない。しかし共産主義になれば無くなるはずだと勘違いしている。必要条件でしかないという事を見失い、共産主義になった以上、失業も貧困も無い事にしなきゃ正統性が揺らぐとなり、無理矢理失業が無い状態や貧困が無い状態を作り出した。出来もしない事を無理矢理続ければ、必ずそのしわ寄せがでてくる。あげく共産主義が崩壊したかのように見えてしまった。

だから本来的な意味での共産主義国家は一つもなかったと言える。マルクスは資本主義を経由してウンザリしてから共産主義革命という事を言っていたわけで、資本主義を経由してウンザリする前に共産主義体制を取った国しか無いわけで、そういう意味でも共産主義が死んだわけではない。一度も実現された事が無いまま葬られたといった方がいいかもしれない。だいたいマル経というのは、資本主義の経済学であって共産主義の経済学ではありません。

とは言うもののもちろん本気で共産主義になってしまうというのも困った話ですし、資本主義に替わる体制は今後おそらくしばらくは出て来ない。しかし日本の左派というのは基本的にマルクスもろくすっぽ理解してなかったのでインチキだったのは間違いないのですが、牽制としての役割はバカに出来ない所があった。その牽制が失われた事によって暴走が始まる。

経済成長をして配分をする必要性が消える。そもそも経済成長というのは既得権を無効化してしまう一番有効な手段であるわけで、配分する理由が消えれば経済成長なんてしない方が既得権護持にはいいに決まっている。それプラス日本ではガチガチに縛られた規制が更に既得権が勝ち続けるシステムを担保していたので、強力に経済成長をするモチベーションが消える。

経済成長イコール心の豊かさを失うみたいな紋切り型のキャンペーンで国民を洗脳し、実際に経済成長で猛烈に働く事に疲れ、バブルの狂騒にウンザリしていたというのもあるのでしょうけれど、新たな権益システム、事後チェック型のスキームがガッチリハマってしまった。

あまりにも経済が停滞しすぎているので、規制緩和なんて話を拳を振り上げて言う奴が出て来たりしましたが、経済成長の無い状態でこれからはこっちの方向が儲かりますという風に旗を立てても、中々流動化は起こらない。

しかしそれでも携帯の普及とかネットの普及のように規制緩和が既得権を脅かすような構造が出てくる。競争を避ける為に経済を停滞させているので、そもそも競争力も失ってしまっている。

そこで規制緩和悪、というすり込みや、緩和しやすい所だけを流動化して誤摩化す即ち弱者だけを流動化に叩き込む、自分達が儲かりそうなところを政府の審議会に入って緩和して権益を貪る。

格差の問題が出て来て、弱者にルサンチマンが溜まれば、尚更流動化害悪説を上手く流布させる事が出来るようになり権益護持出来る。ルサンチマンが溜まった人間には、官僚悪説や、中国脅威論、北朝鮮への断固対処論、嫌韓、アメリカニズムへのルサンチマン、正規と非正規、男と女、世代間、地域間、犯罪者への怒り、死刑の是非、実に様々な分断の線を引き分断統治に利用する。ガス抜きとして利用する。

不安こそが統治権力の最大の権益です。国民がみんな裕福になって不満が無くなれば統治権力は無駄遣いが出来なくなる。政治家は税金をバラまいて票を買う事が出来なくなる。敵を設定して動員出来なくなってしまう。その事が何しろ問題なのです。

規制があるという事は規制に守られている人にとっては安定的だけれど、そこからはじかれている人にとってはチャンスのない状態を意味する。規制を緩和するということはそのチャンスをみんなに与える事が出来る。しかし規制に守られていた安定していた人達にとっては厄介な代物なので、反対するに決まっている。

しかし元々独占して来たという事は、普通に考えれば明らかにリソースを多く持っているわけだから、規制緩和を言い訳にして、結局勝つ方は変わらないという事態も起こる。だから無意味に見えたりもする。これはどちらがいいのか単純には言えない事だけれど、要はバランスが肝腎。

こういった構造を何とかしようと思ったら、選挙で意思表示するという話に行き着くわけですが、選挙に行くといっても、選ぶ所が無いんですけどというのが一般的に選挙権を持っている人のリアリティだと思う。虚しく感じる人はいっぱいいるでしょう。

だからそういう意味でも派遣の人達が立ち上がって吹き上がるという事は意味があるわけです。俺達にとって有効な政策のバリエーションを増やせよ!!これが普通この国では殆ど無い。それこそが問題であるとも言える。

どこもロクな政党がねえよと言いながら、政策を口開けて待っていても、政治家はバカだし、役人は利権しか頭に無いし、メディアは面白くないと取り上げもしないわけだから、ああやってわざとらしかろうが何だろうが実際に声を上げて行くというのは非常に効果的であるわけです。

何も自分は彼らの言い分が正しいとか言いたいわけじゃない。彼らを救えるかどうかというのと、それが実際に可能なのかと言えば、ちょっと難しい矛盾した要求を突き付けていると思いますし、実際流動化を阻止しようという方向性なので、それじゃあんたら救われないよと思うのですが、言っている内容は賛同出来ないけれど、ああいう牽制の力学が働く事によって、問題が表面化する、みんなが考えるようになるという意味では、必要な事なんだろうと思う。

流動化を阻止出来たとしても、配分するだけのものが無ければ、一般の労働者が我慢しろって話に行き着くわけですが、それじゃ一般労働者だって納得はいかないでしょう。したがって牽制が上手く働くようになれば経営者の意識もパイを増やすという方向性に意識が向いて行くかもしれない。世の中も経済成長はやっぱり必要だろうという風になるかもしれない。何かが揺り動かす事によって、問題を問題として認識出来るようになる。それだけでももの凄く重要だと思う。

彼らを切り捨てて何とも思わない社会にいるのに、ちょっとそれでズルして配分して貰っている奴がいたからって、怠け者を甘やかすなって話は違うと思う。彼らがそういう風に不満を持って、わけのわからない政党を支持してもしくは、変な役人の権益でしかない弱者救済政策をやらせない為にも、普段からそういう問題に敏感になっておかないと、分断統治に利用されてしまう。

一般的な労働者も、派遣の問題について考える事が、経営者の行動原理を変えさせる可能性を生み出し、結果的に自分達もより良い環境で働けるようになるかもしれない。そういう風に歯車が回り出して、既得権を護持する為に、経済成長の足を引っ張るとか、誰かを切り捨てるなんて事が出来難くなれば、既得権を持っている連中も失いたくはないでしょうから、頭を使って社会的責任を果たさねばという意識も働くようになる。単に分断統治として利用され続ければ、この良い方向にサイクルが回り出すという可能性は無いと思いますが、先ずは問題を認識しないと何も始まらない。そのきっかけとしてはいい事だろうと思う。

そして声をあげるという事が重要であると同時に、それはあくまでも牽制の手段であるという事を自覚しないと、結局は誰かを蹴落として自分達がその権益を得るという構造に加担する事になる。その事も忘れちゃマズいでしょう。

しつこく、まだ続く!!