前回の続きです。
ウルリッヒ・ベックのリスク社会論では、この場合のリスクというのは高度技術社会特有の性質を持つリスクの事で、予測不能、計測不能、収拾不能、という所に特徴がある。事象ごとに確率を割り当てて、主観的に重み付けて、割り当てて、合成して、選択肢を評価して行くって事が出来ない。リスクの質が時代の移り変わりとともに、リスク管理の出来難いタイプのものが増えて来ています。
政策評価のベースになるような評価のコンディションが上手くコンディショニング出来ないようなタイプのリスク。そういうリスクが増えてくると、政治家や役人が正しく理解し、俺たちに任せとけと言えなくなっている。
なのでベックは市民政治という言葉を使って、要はシチズンシップに基づくガバメントを言い出す。早い話が共同体的自己決定のことで、政治家や役人にももうわからないので、市民の皆さんが顔の見える範囲で決めて下さいねと投げる。ある種の能動性に任せる。これは正統性問題が生じやすい政策決定をしなければならない政府にとって都合がいい。追求されなくて済む。分権化によって市民が決める事を増やしてくれという風になる。
道路を作るにしたって、昔はなんだかんだでみんながそこそこ合意できたし必要だと思っていたわけですが、最近は地方であっても、昔からの住人だけではなく、新住民も増えているので、そんなの要するに土建屋あがりの地方議員の利権でしかないだろうという風になっていて合意出来ない。上から道路を作るぞという押しつけの正統性が無くなってしまった。だから自分達の地域の事は自分達で決めるという風にして市民に決めさせる。良いか悪いかは別として、市民が決めないと正統性は得られない。
悪く言えばそれによって新たな分断統治になり、統治権力は批判の矛先をかわす事が出来る、分権化になれば地域間格差は深刻を極め、地方切り捨て図式が益々深刻になる。そういう感じの批判もよくあるのですが、確かにそういう側面はあるけれど、自分達で必要だと思っている事を自分達で考えて、その為にはまともな人を選ぶという風にならないとまともになりっこ無い。
すでにどのように線を引いても恣意性がむき出しで可視化出来てしまう。どのように線を引いても不公平を感じる人が出て来てしまう。何でそこに線を引くんだよと。そういう時代になってしまっているという事が何より大きな問題なのです。
郵政民営化しなきゃしないで叩かれるし、やりゃあやったで叩かれる。この国の場合は明らかにそこには腐敗による恣意性が見えるので批判は当然なんですが、仮に腐敗が無かったとしたって、必ず不満の声が出てくる。郵政民営化の闇は実はああだこうだって話が出てくる。出てくるんだから闇じゃないような気がするのですが、それが本当かどうかはわきにおいて、必ずそういう批判が出て来てしまう。
そして旧来の自民党的決定のような、改革したとも言えるし、していないとも言えると言った感じの曖昧戦術も通用しない時代になっている。そういう曖昧戦術でステークホルダーの利権を守りつつ、みんなを納得させるだけの配分も出来ないので、ステークホルダーの逃げ切り図式に見えてしまうし、情報化によってすぐにボロが出てしまうので白黒ハッキリせんかいと、国民が沸騰してしまう。だから今の政府はクソミソに叩かれる。
派遣村問題を見ているだけでは問題の本質には届かないというのもそうで、我々の労働分配率が下がる原因はグローバル化が背景にある事によって、企業側が雇用コストに敏感になっているからで、雇用を自由に解雇出来なくしてしまうとか、非正規雇用の正社員化を義務づけるとかって事をやってしまえば雇用コストが上がるので基本的には企業は外に逃げて行く。資本を流出させてしまう。
ドイツは過去40年くらいの間に、法人税が占める租税の中での割合が、40%から16%くらいにまで下がった。法人税を下げないと他の国に出て行ってしまうので租税収入を確保する為にはむしろ法人税を下げる必要がある。ところが雇用に関する流動化を促進するような法律をつくるとか、法人税を下げるような措置をとるとか、そういう話になると不人気になるに決まっている。国民は怒りに沸騰する。
でも政策を知っている専門家や、そういう人達からアドバイスを受けている政治家や役人というのは本当は何が合理的かはわかっているけれど、それを言うと不人気になるので言いづらい。なので市民に投げる事によって責任を回避する。わかっている人間から見ると明らかに不合理な要求を市民がしている場合、それに基づいた決定に対して統治権力は責任を負えないので、市民政治で決めてくれという風になる。
日本は元々証券化、直接投資、直接金融を規制する代わりとして、間接金融、護送船団方式と言う手法を取って来た。企業は自由に起債出来ない代わりに、銀行からだけ融資を受けろって事だった。銀行がどこに融資をするのかと言うのは国策によって、まさに護送船団によって国との談合によって決まっているという図式でした。
国がどこに重点を置き、どこに重点を置かないかを方向付けて、国策的に傾斜をつけてその傾斜に従って融資をして行くと言う、傾斜生産方式が国策と結託した金融権力によって高度経済成長を後押しして来たと言われているわけですが、そこは中抜き、談合と癒着まみれのズブズブの関係だったわけで、金融の自由化には問題はあるのは確かですが、かと言ってその頃の手法では正統性は確実に調達出来っこ無い。
上から自由化を押し付けて、しかも恣意性が見えるのでインチキだって話になるわけですが、これを仮に市民に投げたとしたって、談合と癒着まみれの腐った構造を放置しろって話にはならないはずです。だから市民に投げるという事は、同じ政策を取るにしても、市民を経由するかしないかでは、正統性が生まれるか生まれないかの問題に関わる。
日本の場合は本当にインチキな図式が見えたから問題だったと言うのもあるのですが、そういう意味での恣意性ではなく、俺から見た、俺達から見た恣意性というのが、どんなに公平に線を引いたとしても生まれてしまう。それが正統性の困難な時代になっているという事の意味で、であるからこそ、市民性に任せる以外に選択肢が無いという事を意味している。
それは正しいかどうかではなくて、政策が上手く行くかどうかとも別の話で、合意可能性の問題です。政策がどうとかこうとかって話の前に、合意が不可能な社会になっている。いかに合意を不満を少ない形で、変な感情的動員を利用して暴走し、害をまき散らしてあっという間に不人気になってバックフラッシュ、あげく一歩も前に進めずという形にならない方法を取るのかが難しい時代になっている。その上でないと政策論争が機能しない。感情のぶつかり合い、ルサンチマンと奪い合いの連鎖が繰り返されてしまう。
例えば原発です。予測不能、計測不能、収拾不能のリスクが付きまとう。しかし便益もあるし、電気も必要なわけだから、必要性は必要性で全く無いわけではない。しかもそういうものがその地域に出来ればそれなりに金も落ちるので、プラスの効果も間違いなくある。こういう場合、絶対安全ですとは言えないし(言ってますが)、いつ地震が起こるかもわからない。なので上から押し付けると、市民は恐ろしいというのもあるので、勘弁してくれと思う人もいるわけですからそれなりに反発する。
だけど市民の皆さんで決めて下さいという風に市民側に投げれば、それについて考えて金を取るか安全を取るかで悩む。市民はそれによって賢くなれる。悩んで決定すれば、それは政府の責任では無くなる。
もちろんその為には徹底した情報開示も必要ですし、その情報を見てそれなりに決断を下せるような教育や啓蒙も必要です。ただ闇雲に反対意見ばかりとか、プラスの側面ばかりを啓蒙するとかって言うのでは、それこそ責任だけ末端に投げて事実上意のままにコントロール出来るわけですから、政府を追及出来なくなり、もっと最悪な状態になっちゃう。だから注意が必要です。
原発の話なのでこれはリスクが大き過ぎますから、無責任な政府みたいな話に感じるかもしれませんが、そういった問題をクリアー出来れば決定権が市民に無いよりはあった方がマシ。
これをもう少し身近なレイヤーで考えてみると、今よりはだいぶマシな社会が想像出来ると思います。例えばその道路が必要か?とか、その病院が必要か?とか、その建物が必要か?とか、市民が顔の見える範囲よりちょっと広いくらいの範囲で、それぞれが考えて決めるという方向性は無駄と非効率に塗れたお役所の上からの押し付け図式よりはマシに感じるのではないでしょうか。
市民の多数派が反対しているのに無理矢理上から押し付けてあれやれこれやれ、しかも我々の税金が遣われてと言う話であれば尚更冗談じゃねえぜと思うわけですが、多数派が賛成していて市民の合意で決まり、わかっている範囲で透明に税金が遣われると言う話であるのなら、民主的決定と多数決とは本来意味が違うものですが、みんなが反対しているのに一部の利権屋の都合で上から無理矢理押し付けるという事よりはだいぶマシな決定が出来る。税金の遣われ方に対しても、今よりは理解が深まるでしょう。
当然そこには失敗が付きまといますが、それは自分達の決めた事であり、政治家が本当は何が合理的であるのかわかっているにも関わらず、ポピュリズムに媚びて人気主義的な方向性を取り、それを国民も支持していたにもかかわらず、いざとなるとバックフラッシュして結局話が一歩も前に進めないどころか学習効果もないし、自分達は無垢であると思い違いをしてしまう状況よりはだいぶマシな気がする。
今の麻生でさえ就任当時の支持率はそれなりに高かったわけです。何を支持していたのか、何の決定を支持していたのかをちゃんと市民が責任を持つ事によってリテラシーも生まれる。
もちろん市民がそこまで賢明か?という話はもちろんあるのですが、その事は後ほど詳しく触れますので、今はちょっとわきにおきます。この場合、政治的な正統性をどうやって調達するのか?って話ですので、先ずそれが無いと政治が機能しない。従来のやり方では正統性が調達出来ない時代になっているという事をとりあえず認識して下さい。
これは新自由主義やグローバル化によってスポイルされてしまった地域性や共同体主義みたいなものを、復活もしくはファンクショナル・イクイヴァレンツ、機能的代替物として再構築する為にも必要な手順でもある。自分達の地域の事は自分達で考えるという風になれば、どんなに個人主義だと言ったって、コミュニケーションを必要とするわけで、それによってセーフティネットの役割にもなる。
元々新自由主義というのはサッチャー政権のもとでダグラス・ハードって人が言い出した事で、政府を小さくする為に社会を大きくしましょうって話だった。ミルトン・フリードマンもそういう事を言っていた。しかし実際に政策を走らせて政府を小さくしたら社会も小さくなっちゃった。地域が空洞化し、共同体が壊れ、優勝劣敗弱肉強食が表面化し、不安が蔓延し、個人に分断されて何かっつうと政府を呼び出す今の日本の現状がまさにそうです。
そこでアンソニー・ギデンズが、ニューレイバー、ブレア政権のブレインとなって、第三の道へと進む、政府が小さくなるプロセスで社会が大きくなるように投資をしようという話になる。社会投資国家の概念。生産性を上げる為には社会の基幹産業の重心をシフトさせなきゃならない。政府が金を使う財政政策ではあるけれど、ケインズ的な意味での財政政策ではなくて、新しい社会に適応したような社会のインフラを整備して、社会全体の経済的生産性を上げる為の措置。
国家は社会の自立を補完する、その為に社会に投資する、しかし投資された社会がどのように反応するのかは、その社会を構成する市民達がちゃんと市民政治を行なって、簡単に政府、政治家、役人に任せておいては済まないような問題について、自分達で是々非々で決定して行ってくださいねって話になる。
オバマは就任演説でfellow citizensとちょっと変わった言い出しで始まりました。普通、fellow Americansって感じじゃないかと思うのですが、いきなり「市民の皆さん」と言いました。そして演説の中でもシチズンシップという言葉が出て来たり、一部の無責任で強欲な人々という言葉で責任者の問題に触れた後、みんなが困難な決定を先延ばしにして来た事によって今の状態を招いている的な事を言いました。
要するに責任者だけでなく、市民の皆さんにも責任はあるぞと。市民の皆さんの協力が必要なんですよと。そしてその後どういう方向性に行くのかって話もしていましたが、明らかに正統性の困難の問題を認識していたような言い方だったと思います。そして方向性はニューレイバー的な方向性。
これはブレアがあまり成功していないので賛否両論あるんですが、小さな政府とか、再配分的な方向性というのは事実上どちらに行っても政策的にも、合意可能性にしても、袋小路が待っていますので、現状では最もまともというか、それしか合意可能性が無いだろうという方向性です。
ずっと言って来たYes, we can的なアジテーションを封印して、割と冷静な演説だったと思います。もちろん正統性の困難を認識し、政治学上有効だと言われる方向性を取ったからと言ったって、それが機能するかどうかはわかりませんし、大失敗に終わる可能性も十分ありますが、少なくとも麻生なんかと比べると、随分と賢くてしかも政治学の常識をわきまえている。
小泉が「痛みに耐えて」と言ったのと似ていますが、小泉はその後、抵抗勢力という敵を設定して動員したのに比べると(小泉と比べるのも酷い話ですが)、なるべく分断線を引かないように、違いがあっても協力出来る人はみんな仲間だ、責任は市民みんなにもある。みんなで善き方向を目指そうという言い方でした。
アメリカはそうじゃなくたって人種的な分断や格差による分断、右と左の分断がもの凄いので、日本と比べてもしょうがないのですが、そういう分断による足の引っ張り合いに絡めとられないような巧妙な言い回しでした。
それに決定的なのは日本にはパブリックを市民が担うというのが殆ど無い。アメリカのような分厚いパブリックを担う市民的伝統も無い。だからそういう意味で、市民性に任せる方向性しか無いとか言ったって、日本人には荷が重い感覚もあるかもしれません。
パブリック、公というのが統治権力が担うものという感覚すらある。これは民度の問題だけではなくて、税制や法律の問題でもあり、教育や啓蒙の問題でもある。官が公を牛耳っている。教育も啓蒙も無い状態で、しかも制度的にも縛っているわけで、国民の民度が低いという事をいいわけにしてしらばっくれて利権を貪っている連中も間違いなくいる。当然ただ権力を叩いても、市民が担うような構造になってなければ空洞化するわけですから、人々が不安になり、更に権力の公の独占を支持してしまう。
そういう日本には日本の条件があるにせよ、抵抗勢力を設定してすぐに袋小路、もしくはバックフラッシュというパターンを繰り返す、自民党のアホ世襲権力者が総理大臣になり続けている現状に絶望すら覚えます。一国の国家元首が、断固民主党を倒さねばなりません!!みたいな国民にとってどうでもいい政局的な事を真っ先に言うんだから救いようが無い。その人が優秀かどうか、理念がどうか、政策的に正しいかどうかの前に、自分達で墓穴を掘って選択肢を狭めてしまってる。
いずれにせよ、正統性を調達する事の難しい現在、いかにしてそれを調達して、合意可能性を生み出すのか?奪い合いをドライブさせても、情報の可視化によってすぐに刃が統治権力にかえって行ってしまう。
断固決然と拳を振り上げる事によって、その事が選択肢を失い次第に自分達を追い込んでしまう。その事に敏感にならないと政策が走らない時代になっている。すぐに梯子を外されてしまう(まあこの国の政治家の場合、政策を走らせるとか、何かを決断して行くという事そのものをやる気もないし、いかに利権を温存するかと言う、分断によって話を前に進まなくして先送りして逃げ切るって言うパターンの繰り返しなのがどうにもならないのですが)。
北朝鮮に威勢良く拳を振り上げているときは、国民も熱狂するので支持率も上がる。バカマスコミもその尻馬に乗って旗ふり役をつとめる。お涙頂戴、断固決然強硬路線が人気を得る。しかし段々それに飽きてくるというか、話が全然進展しないとなると、その効果が薄れてくる。そして威勢のいい事を叫んで大風呂敷を広げた割には何の進展も無いじゃないかと、次第に追い詰められてしまう。
マスコミも手の平をひるがえして最初から批判をしてました的な顔をして批判を始める。国民もしかり。人気にうつつを抜かしていられるのも束の間、哀れお山の大将。そうなるといったん広げた風呂敷を簡単にはたたむ事が出来ない。
断固解決なんて言っちゃっているもんだから、ちょっと発言が変わるとブレたなんて今の麻生みたいに言われちゃう。こうなったら戦争だ!!みたいな話に行かなかったから良かったですが、こういうのは害をまき散らした後、一蓮托生でみんなを犠牲にして一番不合理な方向性に突っ走る事にもなり得る。
日本の事後チェック型の社会、自己責任、自己決定主義というのも実は世界的に大きな流れの中にあってそういう風になっている。誰かが正しき道や正統性を示す事が出来なくなっている。もっとも、日本では責任だけ取らされて決定権が無い。役人が手放さない。決定権も便益も総取りした後の搾りかすを市民に投げ出して責任だけを押し付けて、しかも情報開示は不透明、教育は話にならないし、啓蒙はポピュリズムの状態、よって自己決定出来るように育ち上がるプロセスが無い状態で自己責任と言っているので話になりません。
裁判員制度なんかが典型ですが、卓越主義に任せなきゃマズい分野を市民化してしまう。しかもこれもやっぱり責任だけを背負わせて、結局は決定権は無い。法律の分野というのは明らかに過去の判例の積み重ねや法をキチンと理解しているスペシャリストがいるわけで(最近は怪しいのが増えましたが)、ある程度、正統性も崩れちゃいない。こんな分野を素人に任せてもしょうがない。
決断出来ないような複雑さが生じていて、スペシャリストの決断が恣意的な線引きでしかなくなっている分野とは明らかに違う。法律がちゃんとあって、デュープロセス・オブ・ロウに従っているかいないかが明確に見えるわけだから、そんなもんの責任を末端に押し付けるのはお門違いです。しかも被害者参加制度のようなものまで出てくる。情緒過剰の日本人的特性から考えると、感情の暴走が懸念されます。感情に支配されてしまった人々は感情的なスッキリ感を得たいとも思ってしまう。
また感情の過剰利用は正統性それ自身の危機になってしまう。感情というのは時とともに移り変わってしまう、そうすると判決も都度都度そのときの人々の感情のトレンドによって、同じ事でも重かったり軽かったり、あの時ああだったのに、今回これかよという風になってしまうと、法的裁定の権威、人々が自発的に従う気持ちそのものに傷を付け、法的正統性そのものがいい加減なものに見えるようになる。誰もその事を信じなくなってしまえば、公正感も益々期待出来なくなる。感情的な動員によって敵を設定し正統性を調達した事によって、結果的に選択肢が減って自滅する構図と同じです。感情の政治を暴走させてしまうと媚びなきゃ媚びないで叩かれ、媚びたら媚びたでそのうち梯子を外される。
政治家や役人に任せても解決出来ない領域がこの世界にはすでにある。これは知恵で解決出来るって話じゃなくて、構造的な問題。その時に市民政治、人々の共同体的自己決定に任せる代わりに、政治家が感情の動員をする事によって正統性の調達不可能性を埋めてしまう可能性がある。市民政治とは感情の政治とは違う。
市民政治をやらせない為に感情の政治をやる可能性が出てくる。司法制度や政府、官僚、政治家、権威そのものが信用出来なくなっているので、市民の感情的な怒りの爆発が出て来やすく、その事が利用するにはもってこいの状態になってしまっている。
霞ヶ関や政治家達の権威が昔のように戻る事があるのか?と言うとそれは絶対にありえない。それは無能かどうかとは関係なくて、グローバル化が進み高度技術社会が進んでしまった事によって、市民政治に任せなければ正統性が調達出来ない領域も広がってしまう。
尚かつ従来の調整国家のように、調整をするのも難しく、国内の人々を丸く治めようと思って調整すると、そこが丸く治まったように見えた瞬間に資本が外に逃げて行く、平等の外側に更なる不平等を作り出すという事が起こってしまう。
他の国がどうであるのか?他の国の国民が、他の国の為替が、そこに資本を投下したときの利益率が、雇用リスクとコストがどの程度であるのか、という事が全て連鎖してしまう。そうなるとそういう事を全部見渡して政治的決定をするという事が出来なくなっている。人の能力を超えてしまっている。なのでそういう事が全部わかる政治家や役人が出てくるという事は無い、いくら教育しても出来ない。誰かに任せておけばどうにかなる時代は終わっている。
アメリカの陪審制度というのはみんなで決めた事が正しいから導入されているわけじゃなくて、そのコストを多くの人間がわかっている。誤判が多いのもわかっている。なぜそれを意志するのかと言うとそれが立憲意志だからで、それは憲法に書いてあるとかそういう事じゃなくて、宗教、政治、法律、これらの正統性を大陸から断絶した形で新しくつくらなきゃならなかったので、民主的手続きに頼るしか無かった。
アングリカンチャーチに抑圧されたピルグリム・ファーザー達が大陸の縛りや伝統から自由を求めてつくった国だから自分達の事は自分達で決める、自分達で決めた事以外は従ってたまるかというのがベースにある。政府や何かの権威が自由を脅かす事に敏感に反応する。だから民主主義を利用して、いかに動員するのかという大統領選のように金を遣い宣伝をし競争がどこよりも激しい。民主制を信じていないけれど民主制を国是としている。正統性が無くなっちゃったから市民性に頼るも何も、ハナっから正統性はそこにしかない。
グローバル化によってアメリカニズムが蔓延しているように感じるのは、正統性が壊れ、民主的決定以外では正統性が無くなっているからアメリカ化していると感じる。何も正統性が調達出来る分野に無理矢理市民性を入れる必要は無い。
民主的な決定というのはそれが正しいから導入するわけではない。それしか合意可能性が無いから導入するって話で、合意可能性もあり、正統性が機能している分野をわざわざ素人を呼んで来て導入する必要はない。市民政治や民主的な決定というのは最悪な正統性の調達手段でしか無いけれど、正統性の無い所ではかろうじて一番マシな正統性の調達手段であるという話でしかない。
陪審制にしろヨーロッパで言えば参審制というのは、徹底的に権力に抑圧されたという地獄を知っているから芽生えている代物で、国家というリヴァイアサンへの牽制としてあるわけです。正統性が調達出来なくなったから市民性を導入するって話とは関係がない。それでしか正統性を得られない。そういう歴史が無い国である日本が、十分機能している分野にわざわざ市民性を導入してしまえば、市民性なんてインチキじゃないか!!みたいな、純粋まっすぐ君的話になってしまう。そんな事は当たり前で、それでもそれしかないから民主制を導入するのがかろうじてマシであるという感覚が理解出来ないでしょう。
次回でフィニッシュです。つづく!!
ウルリッヒ・ベックのリスク社会論では、この場合のリスクというのは高度技術社会特有の性質を持つリスクの事で、予測不能、計測不能、収拾不能、という所に特徴がある。事象ごとに確率を割り当てて、主観的に重み付けて、割り当てて、合成して、選択肢を評価して行くって事が出来ない。リスクの質が時代の移り変わりとともに、リスク管理の出来難いタイプのものが増えて来ています。
政策評価のベースになるような評価のコンディションが上手くコンディショニング出来ないようなタイプのリスク。そういうリスクが増えてくると、政治家や役人が正しく理解し、俺たちに任せとけと言えなくなっている。
なのでベックは市民政治という言葉を使って、要はシチズンシップに基づくガバメントを言い出す。早い話が共同体的自己決定のことで、政治家や役人にももうわからないので、市民の皆さんが顔の見える範囲で決めて下さいねと投げる。ある種の能動性に任せる。これは正統性問題が生じやすい政策決定をしなければならない政府にとって都合がいい。追求されなくて済む。分権化によって市民が決める事を増やしてくれという風になる。
道路を作るにしたって、昔はなんだかんだでみんながそこそこ合意できたし必要だと思っていたわけですが、最近は地方であっても、昔からの住人だけではなく、新住民も増えているので、そんなの要するに土建屋あがりの地方議員の利権でしかないだろうという風になっていて合意出来ない。上から道路を作るぞという押しつけの正統性が無くなってしまった。だから自分達の地域の事は自分達で決めるという風にして市民に決めさせる。良いか悪いかは別として、市民が決めないと正統性は得られない。
悪く言えばそれによって新たな分断統治になり、統治権力は批判の矛先をかわす事が出来る、分権化になれば地域間格差は深刻を極め、地方切り捨て図式が益々深刻になる。そういう感じの批判もよくあるのですが、確かにそういう側面はあるけれど、自分達で必要だと思っている事を自分達で考えて、その為にはまともな人を選ぶという風にならないとまともになりっこ無い。
すでにどのように線を引いても恣意性がむき出しで可視化出来てしまう。どのように線を引いても不公平を感じる人が出て来てしまう。何でそこに線を引くんだよと。そういう時代になってしまっているという事が何より大きな問題なのです。
郵政民営化しなきゃしないで叩かれるし、やりゃあやったで叩かれる。この国の場合は明らかにそこには腐敗による恣意性が見えるので批判は当然なんですが、仮に腐敗が無かったとしたって、必ず不満の声が出てくる。郵政民営化の闇は実はああだこうだって話が出てくる。出てくるんだから闇じゃないような気がするのですが、それが本当かどうかはわきにおいて、必ずそういう批判が出て来てしまう。
そして旧来の自民党的決定のような、改革したとも言えるし、していないとも言えると言った感じの曖昧戦術も通用しない時代になっている。そういう曖昧戦術でステークホルダーの利権を守りつつ、みんなを納得させるだけの配分も出来ないので、ステークホルダーの逃げ切り図式に見えてしまうし、情報化によってすぐにボロが出てしまうので白黒ハッキリせんかいと、国民が沸騰してしまう。だから今の政府はクソミソに叩かれる。
派遣村問題を見ているだけでは問題の本質には届かないというのもそうで、我々の労働分配率が下がる原因はグローバル化が背景にある事によって、企業側が雇用コストに敏感になっているからで、雇用を自由に解雇出来なくしてしまうとか、非正規雇用の正社員化を義務づけるとかって事をやってしまえば雇用コストが上がるので基本的には企業は外に逃げて行く。資本を流出させてしまう。
ドイツは過去40年くらいの間に、法人税が占める租税の中での割合が、40%から16%くらいにまで下がった。法人税を下げないと他の国に出て行ってしまうので租税収入を確保する為にはむしろ法人税を下げる必要がある。ところが雇用に関する流動化を促進するような法律をつくるとか、法人税を下げるような措置をとるとか、そういう話になると不人気になるに決まっている。国民は怒りに沸騰する。
でも政策を知っている専門家や、そういう人達からアドバイスを受けている政治家や役人というのは本当は何が合理的かはわかっているけれど、それを言うと不人気になるので言いづらい。なので市民に投げる事によって責任を回避する。わかっている人間から見ると明らかに不合理な要求を市民がしている場合、それに基づいた決定に対して統治権力は責任を負えないので、市民政治で決めてくれという風になる。
日本は元々証券化、直接投資、直接金融を規制する代わりとして、間接金融、護送船団方式と言う手法を取って来た。企業は自由に起債出来ない代わりに、銀行からだけ融資を受けろって事だった。銀行がどこに融資をするのかと言うのは国策によって、まさに護送船団によって国との談合によって決まっているという図式でした。
国がどこに重点を置き、どこに重点を置かないかを方向付けて、国策的に傾斜をつけてその傾斜に従って融資をして行くと言う、傾斜生産方式が国策と結託した金融権力によって高度経済成長を後押しして来たと言われているわけですが、そこは中抜き、談合と癒着まみれのズブズブの関係だったわけで、金融の自由化には問題はあるのは確かですが、かと言ってその頃の手法では正統性は確実に調達出来っこ無い。
上から自由化を押し付けて、しかも恣意性が見えるのでインチキだって話になるわけですが、これを仮に市民に投げたとしたって、談合と癒着まみれの腐った構造を放置しろって話にはならないはずです。だから市民に投げるという事は、同じ政策を取るにしても、市民を経由するかしないかでは、正統性が生まれるか生まれないかの問題に関わる。
日本の場合は本当にインチキな図式が見えたから問題だったと言うのもあるのですが、そういう意味での恣意性ではなく、俺から見た、俺達から見た恣意性というのが、どんなに公平に線を引いたとしても生まれてしまう。それが正統性の困難な時代になっているという事の意味で、であるからこそ、市民性に任せる以外に選択肢が無いという事を意味している。
それは正しいかどうかではなくて、政策が上手く行くかどうかとも別の話で、合意可能性の問題です。政策がどうとかこうとかって話の前に、合意が不可能な社会になっている。いかに合意を不満を少ない形で、変な感情的動員を利用して暴走し、害をまき散らしてあっという間に不人気になってバックフラッシュ、あげく一歩も前に進めずという形にならない方法を取るのかが難しい時代になっている。その上でないと政策論争が機能しない。感情のぶつかり合い、ルサンチマンと奪い合いの連鎖が繰り返されてしまう。
例えば原発です。予測不能、計測不能、収拾不能のリスクが付きまとう。しかし便益もあるし、電気も必要なわけだから、必要性は必要性で全く無いわけではない。しかもそういうものがその地域に出来ればそれなりに金も落ちるので、プラスの効果も間違いなくある。こういう場合、絶対安全ですとは言えないし(言ってますが)、いつ地震が起こるかもわからない。なので上から押し付けると、市民は恐ろしいというのもあるので、勘弁してくれと思う人もいるわけですからそれなりに反発する。
だけど市民の皆さんで決めて下さいという風に市民側に投げれば、それについて考えて金を取るか安全を取るかで悩む。市民はそれによって賢くなれる。悩んで決定すれば、それは政府の責任では無くなる。
もちろんその為には徹底した情報開示も必要ですし、その情報を見てそれなりに決断を下せるような教育や啓蒙も必要です。ただ闇雲に反対意見ばかりとか、プラスの側面ばかりを啓蒙するとかって言うのでは、それこそ責任だけ末端に投げて事実上意のままにコントロール出来るわけですから、政府を追及出来なくなり、もっと最悪な状態になっちゃう。だから注意が必要です。
原発の話なのでこれはリスクが大き過ぎますから、無責任な政府みたいな話に感じるかもしれませんが、そういった問題をクリアー出来れば決定権が市民に無いよりはあった方がマシ。
これをもう少し身近なレイヤーで考えてみると、今よりはだいぶマシな社会が想像出来ると思います。例えばその道路が必要か?とか、その病院が必要か?とか、その建物が必要か?とか、市民が顔の見える範囲よりちょっと広いくらいの範囲で、それぞれが考えて決めるという方向性は無駄と非効率に塗れたお役所の上からの押し付け図式よりはマシに感じるのではないでしょうか。
市民の多数派が反対しているのに無理矢理上から押し付けてあれやれこれやれ、しかも我々の税金が遣われてと言う話であれば尚更冗談じゃねえぜと思うわけですが、多数派が賛成していて市民の合意で決まり、わかっている範囲で透明に税金が遣われると言う話であるのなら、民主的決定と多数決とは本来意味が違うものですが、みんなが反対しているのに一部の利権屋の都合で上から無理矢理押し付けるという事よりはだいぶマシな決定が出来る。税金の遣われ方に対しても、今よりは理解が深まるでしょう。
当然そこには失敗が付きまといますが、それは自分達の決めた事であり、政治家が本当は何が合理的であるのかわかっているにも関わらず、ポピュリズムに媚びて人気主義的な方向性を取り、それを国民も支持していたにもかかわらず、いざとなるとバックフラッシュして結局話が一歩も前に進めないどころか学習効果もないし、自分達は無垢であると思い違いをしてしまう状況よりはだいぶマシな気がする。
今の麻生でさえ就任当時の支持率はそれなりに高かったわけです。何を支持していたのか、何の決定を支持していたのかをちゃんと市民が責任を持つ事によってリテラシーも生まれる。
もちろん市民がそこまで賢明か?という話はもちろんあるのですが、その事は後ほど詳しく触れますので、今はちょっとわきにおきます。この場合、政治的な正統性をどうやって調達するのか?って話ですので、先ずそれが無いと政治が機能しない。従来のやり方では正統性が調達出来ない時代になっているという事をとりあえず認識して下さい。
これは新自由主義やグローバル化によってスポイルされてしまった地域性や共同体主義みたいなものを、復活もしくはファンクショナル・イクイヴァレンツ、機能的代替物として再構築する為にも必要な手順でもある。自分達の地域の事は自分達で考えるという風になれば、どんなに個人主義だと言ったって、コミュニケーションを必要とするわけで、それによってセーフティネットの役割にもなる。
元々新自由主義というのはサッチャー政権のもとでダグラス・ハードって人が言い出した事で、政府を小さくする為に社会を大きくしましょうって話だった。ミルトン・フリードマンもそういう事を言っていた。しかし実際に政策を走らせて政府を小さくしたら社会も小さくなっちゃった。地域が空洞化し、共同体が壊れ、優勝劣敗弱肉強食が表面化し、不安が蔓延し、個人に分断されて何かっつうと政府を呼び出す今の日本の現状がまさにそうです。
そこでアンソニー・ギデンズが、ニューレイバー、ブレア政権のブレインとなって、第三の道へと進む、政府が小さくなるプロセスで社会が大きくなるように投資をしようという話になる。社会投資国家の概念。生産性を上げる為には社会の基幹産業の重心をシフトさせなきゃならない。政府が金を使う財政政策ではあるけれど、ケインズ的な意味での財政政策ではなくて、新しい社会に適応したような社会のインフラを整備して、社会全体の経済的生産性を上げる為の措置。
国家は社会の自立を補完する、その為に社会に投資する、しかし投資された社会がどのように反応するのかは、その社会を構成する市民達がちゃんと市民政治を行なって、簡単に政府、政治家、役人に任せておいては済まないような問題について、自分達で是々非々で決定して行ってくださいねって話になる。
オバマは就任演説でfellow citizensとちょっと変わった言い出しで始まりました。普通、fellow Americansって感じじゃないかと思うのですが、いきなり「市民の皆さん」と言いました。そして演説の中でもシチズンシップという言葉が出て来たり、一部の無責任で強欲な人々という言葉で責任者の問題に触れた後、みんなが困難な決定を先延ばしにして来た事によって今の状態を招いている的な事を言いました。
要するに責任者だけでなく、市民の皆さんにも責任はあるぞと。市民の皆さんの協力が必要なんですよと。そしてその後どういう方向性に行くのかって話もしていましたが、明らかに正統性の困難の問題を認識していたような言い方だったと思います。そして方向性はニューレイバー的な方向性。
これはブレアがあまり成功していないので賛否両論あるんですが、小さな政府とか、再配分的な方向性というのは事実上どちらに行っても政策的にも、合意可能性にしても、袋小路が待っていますので、現状では最もまともというか、それしか合意可能性が無いだろうという方向性です。
ずっと言って来たYes, we can的なアジテーションを封印して、割と冷静な演説だったと思います。もちろん正統性の困難を認識し、政治学上有効だと言われる方向性を取ったからと言ったって、それが機能するかどうかはわかりませんし、大失敗に終わる可能性も十分ありますが、少なくとも麻生なんかと比べると、随分と賢くてしかも政治学の常識をわきまえている。
小泉が「痛みに耐えて」と言ったのと似ていますが、小泉はその後、抵抗勢力という敵を設定して動員したのに比べると(小泉と比べるのも酷い話ですが)、なるべく分断線を引かないように、違いがあっても協力出来る人はみんな仲間だ、責任は市民みんなにもある。みんなで善き方向を目指そうという言い方でした。
アメリカはそうじゃなくたって人種的な分断や格差による分断、右と左の分断がもの凄いので、日本と比べてもしょうがないのですが、そういう分断による足の引っ張り合いに絡めとられないような巧妙な言い回しでした。
それに決定的なのは日本にはパブリックを市民が担うというのが殆ど無い。アメリカのような分厚いパブリックを担う市民的伝統も無い。だからそういう意味で、市民性に任せる方向性しか無いとか言ったって、日本人には荷が重い感覚もあるかもしれません。
パブリック、公というのが統治権力が担うものという感覚すらある。これは民度の問題だけではなくて、税制や法律の問題でもあり、教育や啓蒙の問題でもある。官が公を牛耳っている。教育も啓蒙も無い状態で、しかも制度的にも縛っているわけで、国民の民度が低いという事をいいわけにしてしらばっくれて利権を貪っている連中も間違いなくいる。当然ただ権力を叩いても、市民が担うような構造になってなければ空洞化するわけですから、人々が不安になり、更に権力の公の独占を支持してしまう。
そういう日本には日本の条件があるにせよ、抵抗勢力を設定してすぐに袋小路、もしくはバックフラッシュというパターンを繰り返す、自民党のアホ世襲権力者が総理大臣になり続けている現状に絶望すら覚えます。一国の国家元首が、断固民主党を倒さねばなりません!!みたいな国民にとってどうでもいい政局的な事を真っ先に言うんだから救いようが無い。その人が優秀かどうか、理念がどうか、政策的に正しいかどうかの前に、自分達で墓穴を掘って選択肢を狭めてしまってる。
いずれにせよ、正統性を調達する事の難しい現在、いかにしてそれを調達して、合意可能性を生み出すのか?奪い合いをドライブさせても、情報の可視化によってすぐに刃が統治権力にかえって行ってしまう。
断固決然と拳を振り上げる事によって、その事が選択肢を失い次第に自分達を追い込んでしまう。その事に敏感にならないと政策が走らない時代になっている。すぐに梯子を外されてしまう(まあこの国の政治家の場合、政策を走らせるとか、何かを決断して行くという事そのものをやる気もないし、いかに利権を温存するかと言う、分断によって話を前に進まなくして先送りして逃げ切るって言うパターンの繰り返しなのがどうにもならないのですが)。
北朝鮮に威勢良く拳を振り上げているときは、国民も熱狂するので支持率も上がる。バカマスコミもその尻馬に乗って旗ふり役をつとめる。お涙頂戴、断固決然強硬路線が人気を得る。しかし段々それに飽きてくるというか、話が全然進展しないとなると、その効果が薄れてくる。そして威勢のいい事を叫んで大風呂敷を広げた割には何の進展も無いじゃないかと、次第に追い詰められてしまう。
マスコミも手の平をひるがえして最初から批判をしてました的な顔をして批判を始める。国民もしかり。人気にうつつを抜かしていられるのも束の間、哀れお山の大将。そうなるといったん広げた風呂敷を簡単にはたたむ事が出来ない。
断固解決なんて言っちゃっているもんだから、ちょっと発言が変わるとブレたなんて今の麻生みたいに言われちゃう。こうなったら戦争だ!!みたいな話に行かなかったから良かったですが、こういうのは害をまき散らした後、一蓮托生でみんなを犠牲にして一番不合理な方向性に突っ走る事にもなり得る。
日本の事後チェック型の社会、自己責任、自己決定主義というのも実は世界的に大きな流れの中にあってそういう風になっている。誰かが正しき道や正統性を示す事が出来なくなっている。もっとも、日本では責任だけ取らされて決定権が無い。役人が手放さない。決定権も便益も総取りした後の搾りかすを市民に投げ出して責任だけを押し付けて、しかも情報開示は不透明、教育は話にならないし、啓蒙はポピュリズムの状態、よって自己決定出来るように育ち上がるプロセスが無い状態で自己責任と言っているので話になりません。
裁判員制度なんかが典型ですが、卓越主義に任せなきゃマズい分野を市民化してしまう。しかもこれもやっぱり責任だけを背負わせて、結局は決定権は無い。法律の分野というのは明らかに過去の判例の積み重ねや法をキチンと理解しているスペシャリストがいるわけで(最近は怪しいのが増えましたが)、ある程度、正統性も崩れちゃいない。こんな分野を素人に任せてもしょうがない。
決断出来ないような複雑さが生じていて、スペシャリストの決断が恣意的な線引きでしかなくなっている分野とは明らかに違う。法律がちゃんとあって、デュープロセス・オブ・ロウに従っているかいないかが明確に見えるわけだから、そんなもんの責任を末端に押し付けるのはお門違いです。しかも被害者参加制度のようなものまで出てくる。情緒過剰の日本人的特性から考えると、感情の暴走が懸念されます。感情に支配されてしまった人々は感情的なスッキリ感を得たいとも思ってしまう。
また感情の過剰利用は正統性それ自身の危機になってしまう。感情というのは時とともに移り変わってしまう、そうすると判決も都度都度そのときの人々の感情のトレンドによって、同じ事でも重かったり軽かったり、あの時ああだったのに、今回これかよという風になってしまうと、法的裁定の権威、人々が自発的に従う気持ちそのものに傷を付け、法的正統性そのものがいい加減なものに見えるようになる。誰もその事を信じなくなってしまえば、公正感も益々期待出来なくなる。感情的な動員によって敵を設定し正統性を調達した事によって、結果的に選択肢が減って自滅する構図と同じです。感情の政治を暴走させてしまうと媚びなきゃ媚びないで叩かれ、媚びたら媚びたでそのうち梯子を外される。
政治家や役人に任せても解決出来ない領域がこの世界にはすでにある。これは知恵で解決出来るって話じゃなくて、構造的な問題。その時に市民政治、人々の共同体的自己決定に任せる代わりに、政治家が感情の動員をする事によって正統性の調達不可能性を埋めてしまう可能性がある。市民政治とは感情の政治とは違う。
市民政治をやらせない為に感情の政治をやる可能性が出てくる。司法制度や政府、官僚、政治家、権威そのものが信用出来なくなっているので、市民の感情的な怒りの爆発が出て来やすく、その事が利用するにはもってこいの状態になってしまっている。
霞ヶ関や政治家達の権威が昔のように戻る事があるのか?と言うとそれは絶対にありえない。それは無能かどうかとは関係なくて、グローバル化が進み高度技術社会が進んでしまった事によって、市民政治に任せなければ正統性が調達出来ない領域も広がってしまう。
尚かつ従来の調整国家のように、調整をするのも難しく、国内の人々を丸く治めようと思って調整すると、そこが丸く治まったように見えた瞬間に資本が外に逃げて行く、平等の外側に更なる不平等を作り出すという事が起こってしまう。
他の国がどうであるのか?他の国の国民が、他の国の為替が、そこに資本を投下したときの利益率が、雇用リスクとコストがどの程度であるのか、という事が全て連鎖してしまう。そうなるとそういう事を全部見渡して政治的決定をするという事が出来なくなっている。人の能力を超えてしまっている。なのでそういう事が全部わかる政治家や役人が出てくるという事は無い、いくら教育しても出来ない。誰かに任せておけばどうにかなる時代は終わっている。
アメリカの陪審制度というのはみんなで決めた事が正しいから導入されているわけじゃなくて、そのコストを多くの人間がわかっている。誤判が多いのもわかっている。なぜそれを意志するのかと言うとそれが立憲意志だからで、それは憲法に書いてあるとかそういう事じゃなくて、宗教、政治、法律、これらの正統性を大陸から断絶した形で新しくつくらなきゃならなかったので、民主的手続きに頼るしか無かった。
アングリカンチャーチに抑圧されたピルグリム・ファーザー達が大陸の縛りや伝統から自由を求めてつくった国だから自分達の事は自分達で決める、自分達で決めた事以外は従ってたまるかというのがベースにある。政府や何かの権威が自由を脅かす事に敏感に反応する。だから民主主義を利用して、いかに動員するのかという大統領選のように金を遣い宣伝をし競争がどこよりも激しい。民主制を信じていないけれど民主制を国是としている。正統性が無くなっちゃったから市民性に頼るも何も、ハナっから正統性はそこにしかない。
グローバル化によってアメリカニズムが蔓延しているように感じるのは、正統性が壊れ、民主的決定以外では正統性が無くなっているからアメリカ化していると感じる。何も正統性が調達出来る分野に無理矢理市民性を入れる必要は無い。
民主的な決定というのはそれが正しいから導入するわけではない。それしか合意可能性が無いから導入するって話で、合意可能性もあり、正統性が機能している分野をわざわざ素人を呼んで来て導入する必要はない。市民政治や民主的な決定というのは最悪な正統性の調達手段でしか無いけれど、正統性の無い所ではかろうじて一番マシな正統性の調達手段であるという話でしかない。
陪審制にしろヨーロッパで言えば参審制というのは、徹底的に権力に抑圧されたという地獄を知っているから芽生えている代物で、国家というリヴァイアサンへの牽制としてあるわけです。正統性が調達出来なくなったから市民性を導入するって話とは関係がない。それでしか正統性を得られない。そういう歴史が無い国である日本が、十分機能している分野にわざわざ市民性を導入してしまえば、市民性なんてインチキじゃないか!!みたいな、純粋まっすぐ君的話になってしまう。そんな事は当たり前で、それでもそれしかないから民主制を導入するのがかろうじてマシであるという感覚が理解出来ないでしょう。
次回でフィニッシュです。つづく!!