前回の続きです。

ウルリッヒ・ベックのリスク社会論では、この場合のリスクというのは高度技術社会特有の性質を持つリスクの事で、予測不能、計測不能、収拾不能、という所に特徴がある。事象ごとに確率を割り当てて、主観的に重み付けて、割り当てて、合成して、選択肢を評価して行くって事が出来ない。リスクの質が時代の移り変わりとともに、リスク管理の出来難いタイプのものが増えて来ています。

政策評価のベースになるような評価のコンディションが上手くコンディショニング出来ないようなタイプのリスク。そういうリスクが増えてくると、政治家や役人が正しく理解し、俺たちに任せとけと言えなくなっている。

なのでベックは市民政治という言葉を使って、要はシチズンシップに基づくガバメントを言い出す。早い話が共同体的自己決定のことで、政治家や役人にももうわからないので、市民の皆さんが顔の見える範囲で決めて下さいねと投げる。ある種の能動性に任せる。これは正統性問題が生じやすい政策決定をしなければならない政府にとって都合がいい。追求されなくて済む。分権化によって市民が決める事を増やしてくれという風になる。

道路を作るにしたって、昔はなんだかんだでみんながそこそこ合意できたし必要だと思っていたわけですが、最近は地方であっても、昔からの住人だけではなく、新住民も増えているので、そんなの要するに土建屋あがりの地方議員の利権でしかないだろうという風になっていて合意出来ない。上から道路を作るぞという押しつけの正統性が無くなってしまった。だから自分達の地域の事は自分達で決めるという風にして市民に決めさせる。良いか悪いかは別として、市民が決めないと正統性は得られない。

悪く言えばそれによって新たな分断統治になり、統治権力は批判の矛先をかわす事が出来る、分権化になれば地域間格差は深刻を極め、地方切り捨て図式が益々深刻になる。そういう感じの批判もよくあるのですが、確かにそういう側面はあるけれど、自分達で必要だと思っている事を自分達で考えて、その為にはまともな人を選ぶという風にならないとまともになりっこ無い。

すでにどのように線を引いても恣意性がむき出しで可視化出来てしまう。どのように線を引いても不公平を感じる人が出て来てしまう。何でそこに線を引くんだよと。そういう時代になってしまっているという事が何より大きな問題なのです。

郵政民営化しなきゃしないで叩かれるし、やりゃあやったで叩かれる。この国の場合は明らかにそこには腐敗による恣意性が見えるので批判は当然なんですが、仮に腐敗が無かったとしたって、必ず不満の声が出てくる。郵政民営化の闇は実はああだこうだって話が出てくる。出てくるんだから闇じゃないような気がするのですが、それが本当かどうかはわきにおいて、必ずそういう批判が出て来てしまう。

そして旧来の自民党的決定のような、改革したとも言えるし、していないとも言えると言った感じの曖昧戦術も通用しない時代になっている。そういう曖昧戦術でステークホルダーの利権を守りつつ、みんなを納得させるだけの配分も出来ないので、ステークホルダーの逃げ切り図式に見えてしまうし、情報化によってすぐにボロが出てしまうので白黒ハッキリせんかいと、国民が沸騰してしまう。だから今の政府はクソミソに叩かれる。

派遣村問題を見ているだけでは問題の本質には届かないというのもそうで、我々の労働分配率が下がる原因はグローバル化が背景にある事によって、企業側が雇用コストに敏感になっているからで、雇用を自由に解雇出来なくしてしまうとか、非正規雇用の正社員化を義務づけるとかって事をやってしまえば雇用コストが上がるので基本的には企業は外に逃げて行く。資本を流出させてしまう。

ドイツは過去40年くらいの間に、法人税が占める租税の中での割合が、40%から16%くらいにまで下がった。法人税を下げないと他の国に出て行ってしまうので租税収入を確保する為にはむしろ法人税を下げる必要がある。ところが雇用に関する流動化を促進するような法律をつくるとか、法人税を下げるような措置をとるとか、そういう話になると不人気になるに決まっている。国民は怒りに沸騰する。

でも政策を知っている専門家や、そういう人達からアドバイスを受けている政治家や役人というのは本当は何が合理的かはわかっているけれど、それを言うと不人気になるので言いづらい。なので市民に投げる事によって責任を回避する。わかっている人間から見ると明らかに不合理な要求を市民がしている場合、それに基づいた決定に対して統治権力は責任を負えないので、市民政治で決めてくれという風になる。

日本は元々証券化、直接投資、直接金融を規制する代わりとして、間接金融、護送船団方式と言う手法を取って来た。企業は自由に起債出来ない代わりに、銀行からだけ融資を受けろって事だった。銀行がどこに融資をするのかと言うのは国策によって、まさに護送船団によって国との談合によって決まっているという図式でした。

国がどこに重点を置き、どこに重点を置かないかを方向付けて、国策的に傾斜をつけてその傾斜に従って融資をして行くと言う、傾斜生産方式が国策と結託した金融権力によって高度経済成長を後押しして来たと言われているわけですが、そこは中抜き、談合と癒着まみれのズブズブの関係だったわけで、金融の自由化には問題はあるのは確かですが、かと言ってその頃の手法では正統性は確実に調達出来っこ無い。

上から自由化を押し付けて、しかも恣意性が見えるのでインチキだって話になるわけですが、これを仮に市民に投げたとしたって、談合と癒着まみれの腐った構造を放置しろって話にはならないはずです。だから市民に投げるという事は、同じ政策を取るにしても、市民を経由するかしないかでは、正統性が生まれるか生まれないかの問題に関わる。

日本の場合は本当にインチキな図式が見えたから問題だったと言うのもあるのですが、そういう意味での恣意性ではなく、俺から見た、俺達から見た恣意性というのが、どんなに公平に線を引いたとしても生まれてしまう。それが正統性の困難な時代になっているという事の意味で、であるからこそ、市民性に任せる以外に選択肢が無いという事を意味している。

それは正しいかどうかではなくて、政策が上手く行くかどうかとも別の話で、合意可能性の問題です。政策がどうとかこうとかって話の前に、合意が不可能な社会になっている。いかに合意を不満を少ない形で、変な感情的動員を利用して暴走し、害をまき散らしてあっという間に不人気になってバックフラッシュ、あげく一歩も前に進めずという形にならない方法を取るのかが難しい時代になっている。その上でないと政策論争が機能しない。感情のぶつかり合い、ルサンチマンと奪い合いの連鎖が繰り返されてしまう。

例えば原発です。予測不能、計測不能、収拾不能のリスクが付きまとう。しかし便益もあるし、電気も必要なわけだから、必要性は必要性で全く無いわけではない。しかもそういうものがその地域に出来ればそれなりに金も落ちるので、プラスの効果も間違いなくある。こういう場合、絶対安全ですとは言えないし(言ってますが)、いつ地震が起こるかもわからない。なので上から押し付けると、市民は恐ろしいというのもあるので、勘弁してくれと思う人もいるわけですからそれなりに反発する。

だけど市民の皆さんで決めて下さいという風に市民側に投げれば、それについて考えて金を取るか安全を取るかで悩む。市民はそれによって賢くなれる。悩んで決定すれば、それは政府の責任では無くなる。

もちろんその為には徹底した情報開示も必要ですし、その情報を見てそれなりに決断を下せるような教育や啓蒙も必要です。ただ闇雲に反対意見ばかりとか、プラスの側面ばかりを啓蒙するとかって言うのでは、それこそ責任だけ末端に投げて事実上意のままにコントロール出来るわけですから、政府を追及出来なくなり、もっと最悪な状態になっちゃう。だから注意が必要です。

原発の話なのでこれはリスクが大き過ぎますから、無責任な政府みたいな話に感じるかもしれませんが、そういった問題をクリアー出来れば決定権が市民に無いよりはあった方がマシ。

これをもう少し身近なレイヤーで考えてみると、今よりはだいぶマシな社会が想像出来ると思います。例えばその道路が必要か?とか、その病院が必要か?とか、その建物が必要か?とか、市民が顔の見える範囲よりちょっと広いくらいの範囲で、それぞれが考えて決めるという方向性は無駄と非効率に塗れたお役所の上からの押し付け図式よりはマシに感じるのではないでしょうか。

市民の多数派が反対しているのに無理矢理上から押し付けてあれやれこれやれ、しかも我々の税金が遣われてと言う話であれば尚更冗談じゃねえぜと思うわけですが、多数派が賛成していて市民の合意で決まり、わかっている範囲で透明に税金が遣われると言う話であるのなら、民主的決定と多数決とは本来意味が違うものですが、みんなが反対しているのに一部の利権屋の都合で上から無理矢理押し付けるという事よりはだいぶマシな決定が出来る。税金の遣われ方に対しても、今よりは理解が深まるでしょう。

当然そこには失敗が付きまといますが、それは自分達の決めた事であり、政治家が本当は何が合理的であるのかわかっているにも関わらず、ポピュリズムに媚びて人気主義的な方向性を取り、それを国民も支持していたにもかかわらず、いざとなるとバックフラッシュして結局話が一歩も前に進めないどころか学習効果もないし、自分達は無垢であると思い違いをしてしまう状況よりはだいぶマシな気がする。

今の麻生でさえ就任当時の支持率はそれなりに高かったわけです。何を支持していたのか、何の決定を支持していたのかをちゃんと市民が責任を持つ事によってリテラシーも生まれる。

もちろん市民がそこまで賢明か?という話はもちろんあるのですが、その事は後ほど詳しく触れますので、今はちょっとわきにおきます。この場合、政治的な正統性をどうやって調達するのか?って話ですので、先ずそれが無いと政治が機能しない。従来のやり方では正統性が調達出来ない時代になっているという事をとりあえず認識して下さい。

これは新自由主義やグローバル化によってスポイルされてしまった地域性や共同体主義みたいなものを、復活もしくはファンクショナル・イクイヴァレンツ、機能的代替物として再構築する為にも必要な手順でもある。自分達の地域の事は自分達で考えるという風になれば、どんなに個人主義だと言ったって、コミュニケーションを必要とするわけで、それによってセーフティネットの役割にもなる。

元々新自由主義というのはサッチャー政権のもとでダグラス・ハードって人が言い出した事で、政府を小さくする為に社会を大きくしましょうって話だった。ミルトン・フリードマンもそういう事を言っていた。しかし実際に政策を走らせて政府を小さくしたら社会も小さくなっちゃった。地域が空洞化し、共同体が壊れ、優勝劣敗弱肉強食が表面化し、不安が蔓延し、個人に分断されて何かっつうと政府を呼び出す今の日本の現状がまさにそうです。

そこでアンソニー・ギデンズが、ニューレイバー、ブレア政権のブレインとなって、第三の道へと進む、政府が小さくなるプロセスで社会が大きくなるように投資をしようという話になる。社会投資国家の概念。生産性を上げる為には社会の基幹産業の重心をシフトさせなきゃならない。政府が金を使う財政政策ではあるけれど、ケインズ的な意味での財政政策ではなくて、新しい社会に適応したような社会のインフラを整備して、社会全体の経済的生産性を上げる為の措置。

国家は社会の自立を補完する、その為に社会に投資する、しかし投資された社会がどのように反応するのかは、その社会を構成する市民達がちゃんと市民政治を行なって、簡単に政府、政治家、役人に任せておいては済まないような問題について、自分達で是々非々で決定して行ってくださいねって話になる。

オバマは就任演説でfellow citizensとちょっと変わった言い出しで始まりました。普通、fellow Americansって感じじゃないかと思うのですが、いきなり「市民の皆さん」と言いました。そして演説の中でもシチズンシップという言葉が出て来たり、一部の無責任で強欲な人々という言葉で責任者の問題に触れた後、みんなが困難な決定を先延ばしにして来た事によって今の状態を招いている的な事を言いました。

要するに責任者だけでなく、市民の皆さんにも責任はあるぞと。市民の皆さんの協力が必要なんですよと。そしてその後どういう方向性に行くのかって話もしていましたが、明らかに正統性の困難の問題を認識していたような言い方だったと思います。そして方向性はニューレイバー的な方向性。

これはブレアがあまり成功していないので賛否両論あるんですが、小さな政府とか、再配分的な方向性というのは事実上どちらに行っても政策的にも、合意可能性にしても、袋小路が待っていますので、現状では最もまともというか、それしか合意可能性が無いだろうという方向性です。

ずっと言って来たYes, we can的なアジテーションを封印して、割と冷静な演説だったと思います。もちろん正統性の困難を認識し、政治学上有効だと言われる方向性を取ったからと言ったって、それが機能するかどうかはわかりませんし、大失敗に終わる可能性も十分ありますが、少なくとも麻生なんかと比べると、随分と賢くてしかも政治学の常識をわきまえている。

小泉が「痛みに耐えて」と言ったのと似ていますが、小泉はその後、抵抗勢力という敵を設定して動員したのに比べると(小泉と比べるのも酷い話ですが)、なるべく分断線を引かないように、違いがあっても協力出来る人はみんな仲間だ、責任は市民みんなにもある。みんなで善き方向を目指そうという言い方でした。

アメリカはそうじゃなくたって人種的な分断や格差による分断、右と左の分断がもの凄いので、日本と比べてもしょうがないのですが、そういう分断による足の引っ張り合いに絡めとられないような巧妙な言い回しでした。

それに決定的なのは日本にはパブリックを市民が担うというのが殆ど無い。アメリカのような分厚いパブリックを担う市民的伝統も無い。だからそういう意味で、市民性に任せる方向性しか無いとか言ったって、日本人には荷が重い感覚もあるかもしれません。

パブリック、公というのが統治権力が担うものという感覚すらある。これは民度の問題だけではなくて、税制や法律の問題でもあり、教育や啓蒙の問題でもある。官が公を牛耳っている。教育も啓蒙も無い状態で、しかも制度的にも縛っているわけで、国民の民度が低いという事をいいわけにしてしらばっくれて利権を貪っている連中も間違いなくいる。当然ただ権力を叩いても、市民が担うような構造になってなければ空洞化するわけですから、人々が不安になり、更に権力の公の独占を支持してしまう。

そういう日本には日本の条件があるにせよ、抵抗勢力を設定してすぐに袋小路、もしくはバックフラッシュというパターンを繰り返す、自民党のアホ世襲権力者が総理大臣になり続けている現状に絶望すら覚えます。一国の国家元首が、断固民主党を倒さねばなりません!!みたいな国民にとってどうでもいい政局的な事を真っ先に言うんだから救いようが無い。その人が優秀かどうか、理念がどうか、政策的に正しいかどうかの前に、自分達で墓穴を掘って選択肢を狭めてしまってる。

いずれにせよ、正統性を調達する事の難しい現在、いかにしてそれを調達して、合意可能性を生み出すのか?奪い合いをドライブさせても、情報の可視化によってすぐに刃が統治権力にかえって行ってしまう。

断固決然と拳を振り上げる事によって、その事が選択肢を失い次第に自分達を追い込んでしまう。その事に敏感にならないと政策が走らない時代になっている。すぐに梯子を外されてしまう(まあこの国の政治家の場合、政策を走らせるとか、何かを決断して行くという事そのものをやる気もないし、いかに利権を温存するかと言う、分断によって話を前に進まなくして先送りして逃げ切るって言うパターンの繰り返しなのがどうにもならないのですが)。

北朝鮮に威勢良く拳を振り上げているときは、国民も熱狂するので支持率も上がる。バカマスコミもその尻馬に乗って旗ふり役をつとめる。お涙頂戴、断固決然強硬路線が人気を得る。しかし段々それに飽きてくるというか、話が全然進展しないとなると、その効果が薄れてくる。そして威勢のいい事を叫んで大風呂敷を広げた割には何の進展も無いじゃないかと、次第に追い詰められてしまう。

マスコミも手の平をひるがえして最初から批判をしてました的な顔をして批判を始める。国民もしかり。人気にうつつを抜かしていられるのも束の間、哀れお山の大将。そうなるといったん広げた風呂敷を簡単にはたたむ事が出来ない。

断固解決なんて言っちゃっているもんだから、ちょっと発言が変わるとブレたなんて今の麻生みたいに言われちゃう。こうなったら戦争だ!!みたいな話に行かなかったから良かったですが、こういうのは害をまき散らした後、一蓮托生でみんなを犠牲にして一番不合理な方向性に突っ走る事にもなり得る。

日本の事後チェック型の社会、自己責任、自己決定主義というのも実は世界的に大きな流れの中にあってそういう風になっている。誰かが正しき道や正統性を示す事が出来なくなっている。もっとも、日本では責任だけ取らされて決定権が無い。役人が手放さない。決定権も便益も総取りした後の搾りかすを市民に投げ出して責任だけを押し付けて、しかも情報開示は不透明、教育は話にならないし、啓蒙はポピュリズムの状態、よって自己決定出来るように育ち上がるプロセスが無い状態で自己責任と言っているので話になりません。

裁判員制度なんかが典型ですが、卓越主義に任せなきゃマズい分野を市民化してしまう。しかもこれもやっぱり責任だけを背負わせて、結局は決定権は無い。法律の分野というのは明らかに過去の判例の積み重ねや法をキチンと理解しているスペシャリストがいるわけで(最近は怪しいのが増えましたが)、ある程度、正統性も崩れちゃいない。こんな分野を素人に任せてもしょうがない。

決断出来ないような複雑さが生じていて、スペシャリストの決断が恣意的な線引きでしかなくなっている分野とは明らかに違う。法律がちゃんとあって、デュープロセス・オブ・ロウに従っているかいないかが明確に見えるわけだから、そんなもんの責任を末端に押し付けるのはお門違いです。しかも被害者参加制度のようなものまで出てくる。情緒過剰の日本人的特性から考えると、感情の暴走が懸念されます。感情に支配されてしまった人々は感情的なスッキリ感を得たいとも思ってしまう。

また感情の過剰利用は正統性それ自身の危機になってしまう。感情というのは時とともに移り変わってしまう、そうすると判決も都度都度そのときの人々の感情のトレンドによって、同じ事でも重かったり軽かったり、あの時ああだったのに、今回これかよという風になってしまうと、法的裁定の権威、人々が自発的に従う気持ちそのものに傷を付け、法的正統性そのものがいい加減なものに見えるようになる。誰もその事を信じなくなってしまえば、公正感も益々期待出来なくなる。感情的な動員によって敵を設定し正統性を調達した事によって、結果的に選択肢が減って自滅する構図と同じです。感情の政治を暴走させてしまうと媚びなきゃ媚びないで叩かれ、媚びたら媚びたでそのうち梯子を外される。


政治家や役人に任せても解決出来ない領域がこの世界にはすでにある。これは知恵で解決出来るって話じゃなくて、構造的な問題。その時に市民政治、人々の共同体的自己決定に任せる代わりに、政治家が感情の動員をする事によって正統性の調達不可能性を埋めてしまう可能性がある。市民政治とは感情の政治とは違う。

市民政治をやらせない為に感情の政治をやる可能性が出てくる。司法制度や政府、官僚、政治家、権威そのものが信用出来なくなっているので、市民の感情的な怒りの爆発が出て来やすく、その事が利用するにはもってこいの状態になってしまっている。

霞ヶ関や政治家達の権威が昔のように戻る事があるのか?と言うとそれは絶対にありえない。それは無能かどうかとは関係なくて、グローバル化が進み高度技術社会が進んでしまった事によって、市民政治に任せなければ正統性が調達出来ない領域も広がってしまう。

尚かつ従来の調整国家のように、調整をするのも難しく、国内の人々を丸く治めようと思って調整すると、そこが丸く治まったように見えた瞬間に資本が外に逃げて行く、平等の外側に更なる不平等を作り出すという事が起こってしまう。

他の国がどうであるのか?他の国の国民が、他の国の為替が、そこに資本を投下したときの利益率が、雇用リスクとコストがどの程度であるのか、という事が全て連鎖してしまう。そうなるとそういう事を全部見渡して政治的決定をするという事が出来なくなっている。人の能力を超えてしまっている。なのでそういう事が全部わかる政治家や役人が出てくるという事は無い、いくら教育しても出来ない。誰かに任せておけばどうにかなる時代は終わっている。

アメリカの陪審制度というのはみんなで決めた事が正しいから導入されているわけじゃなくて、そのコストを多くの人間がわかっている。誤判が多いのもわかっている。なぜそれを意志するのかと言うとそれが立憲意志だからで、それは憲法に書いてあるとかそういう事じゃなくて、宗教、政治、法律、これらの正統性を大陸から断絶した形で新しくつくらなきゃならなかったので、民主的手続きに頼るしか無かった。

アングリカンチャーチに抑圧されたピルグリム・ファーザー達が大陸の縛りや伝統から自由を求めてつくった国だから自分達の事は自分達で決める、自分達で決めた事以外は従ってたまるかというのがベースにある。政府や何かの権威が自由を脅かす事に敏感に反応する。だから民主主義を利用して、いかに動員するのかという大統領選のように金を遣い宣伝をし競争がどこよりも激しい。民主制を信じていないけれど民主制を国是としている。正統性が無くなっちゃったから市民性に頼るも何も、ハナっから正統性はそこにしかない。

グローバル化によってアメリカニズムが蔓延しているように感じるのは、正統性が壊れ、民主的決定以外では正統性が無くなっているからアメリカ化していると感じる。何も正統性が調達出来る分野に無理矢理市民性を入れる必要は無い。

民主的な決定というのはそれが正しいから導入するわけではない。それしか合意可能性が無いから導入するって話で、合意可能性もあり、正統性が機能している分野をわざわざ素人を呼んで来て導入する必要はない。市民政治や民主的な決定というのは最悪な正統性の調達手段でしか無いけれど、正統性の無い所ではかろうじて一番マシな正統性の調達手段であるという話でしかない。

陪審制にしろヨーロッパで言えば参審制というのは、徹底的に権力に抑圧されたという地獄を知っているから芽生えている代物で、国家というリヴァイアサンへの牽制としてあるわけです。正統性が調達出来なくなったから市民性を導入するって話とは関係がない。それでしか正統性を得られない。そういう歴史が無い国である日本が、十分機能している分野にわざわざ市民性を導入してしまえば、市民性なんてインチキじゃないか!!みたいな、純粋まっすぐ君的話になってしまう。そんな事は当たり前で、それでもそれしかないから民主制を導入するのがかろうじてマシであるという感覚が理解出来ないでしょう。

次回でフィニッシュです。つづく!!
前回の続きです。

経済成長出来るのか出来ないのかの前に、人々がそれを諦めていたり無理だと思っていたり、有害だと思っていたのでは出来るものも出来ないし、だいたい立ちふさがる壁が多過ぎるわけですから絶対に不可能です。

日本のエートスを支えて来たのはモノへのこだわりにあったのではないか?という事を書いて来ましたが、それは何が言いたいかと言うと、先ず絆やココロの豊かさがあってという話ではなかったはずだという事で、モノを守る為に、モノを手に入れる為に、みんなそれぞれ自分で幸せになろうと頑張った結果だったはずじゃないかと。誰かに幸せにしてもらおうという話じゃなかったはずです。

例えば同じ目的を共有していれば、連帯し、同じ利害関係にあれば協力していただけなんじゃないか?先に絆があって、共同体があってという話じゃなくて、先ず一人一人が幸福になりたいというモチベーションを持っていたから結束出来たのではないかと。

戦後高度経済成長期、総動員態勢が続いていたとか、官僚が頑張ったからというのは嘘だと書きました。この時も、みんなが裕福になりたいと旨い飯を喰いたいと思っていたから、連帯や温かさがあったわけで、何の目的もなくただそこそこでいいんだという、人それぞれの曖昧な価値を、心の中だけでそれぞれが持ってしまっている現在、目的の為の手段でしかなかった連帯や温かさみたいなものを求めても無理がある。みんなそれぞれのそこそこという価値でバラバラになっていれば結束なんて出来ない。日本人がモノへのモチベーションを失うのとリンクして、この手段の目的化による本末転倒によって社会を傷つけるという自体が起こってくる。

自分はバラバラになって結束出来ない状況が不幸だとは思いません。それはそれで重要な価値だと思う。その結束が蛸壺の鍔迫り合いとなって社会を傷つけなかったのは経済が成長していたからで、経済成長が無くなってからというもの、そういう蛸壺的結束は今の企業しかり、ステークホルダーしかり、役人、政治家、社会をぶち壊しにしても組織益みたいになっちゃっているわけですから、経済が停滞している今、個々の価値観で結束なんて気持ち悪いもんは脱構築した方が健全な気がする。

ただその状況に我々は立っているという事を認識しないと、絆が不足や承認不足によってアノミーってパターンになる。そしてバラバラになって結束しないという事は、誰かに迷惑をかけない限り人が何をしていても認めなきゃいけない社会であるはずです。

今世界では、経済が大打撃を受け、そんな状況下で経済成長なんて言っても虚しく感じる人もいるかもしれませんが、奪い合いを越えて分け与える事が出来るようになる為にも成長しなくちゃ弱者問題は手当て出来ない、どんどん出来なくなって行く。景気がよければ、そこそこの生活とか、頑張らない生き方みたいな話も、消費を誘発するネタとして機能する。格差の最下層が貧困で喘いでいる人が増えているのは、景気が悪いからです。

改革したからそうなったみたいに言われますが、改革が悪いわけではない。是正すべき問題点はいっぱいある。にもかかわらず改革悪とステークホルダーの口車に乗せられて旧来の姿に戻っても、ステークホルダーの利権が温存されるだけです。改革が悪のように見えるのは改革が悪なんじゃなくて、改革を失敗している事が問題で、しかもそれが明らかに恣意的だったから問題なのです。

改革対象を是正せよというのも結局俺に分け前をよこせという話じゃないのか?という風に言ってしまえばそりゃそう言えない事も無いのですが、これは俺に分け前が来るかどうかの話じゃなくて、明らかに不合理で、不公正であるように見え、無駄と非効率に塗れ、しかもそれを隠そうとしているわけですから、分け前をよこせとか分断図式とかそういう話の前に、制度的に問題があるわけだから是正せよって話で、是正したからすぐに弱者が救えるとかそういう話ではないからと言って、是正しなくていいという話ではない。そういう所の問題がめぐりめぐってこの国を機能不全に追い込んでいる。是正すべき問題点を放置して、俺に分け前をよこせとやり合っていてもしょうがない。

奪い合いの図式に絡めとられて、もしくはモノの輝きを失って、価値観が多様化しているので結束できなくなっているのだから、モノへのモチベーションを持てなんて抽象的な話ではなくて、その機能的代替物をいかにして再構築し、制度的な問題点を是正して行くのか?という事で、最後はやっぱりこの国の構造問題、統治権力の問題点について書いておかねばならないでしょう。

本当はこのネタはだいたい書き尽くしたので、別にエントリーを立て直そうかとも思いましたが、せっかく続けて来ましたし、関連していますので続行します。


政治があまりにも下らないので、無視してなるべく政治問題をスルーしながら、派遣問題についてダラダラと書いて来たわけですが、この間の統治権力の動向は目眩がするような下らなさです。最後はそのへんから少しこの分断の奪い合いを止揚して、問題点を是正する突破口を探して行くとします。一番の問題点が本当はそこにあるわけで、それこそがこの国の最大の癌です。




例えば先日かんぽの宿でのオリックスじゃありませんが、酷い話です。これだけ経済の底が割れているのに、何やってんだ?ってキレそうです。ピーチクパーチクメディアでも政治家のブタ共も騒いでおりますが、入札価格云々なんてのは別にどうでもいい話です。

何でもそうですがトレンドが下落している時には考えられないような金額で安く買いたたかれる。安過ぎるという意見もわかりますが、日本の構造的な問題からすれば別にそこだけ大騒ぎするような話じゃない。そんな事はありふれている。天下り先に仕事を回して、それを更に丸投げして中抜きをする、今、渡りや天下りを騒いでおりますが、郵政だけの話じゃなくてこの国の利権構造の典型的な話です。表面化するだけマシだと言える。

しかし一番問題なのは、何でそれをオリックスが入札してんだよって話で、仮に公正な取引で入札しているのだとしても、オリックスの宮内は政府の審議会に入って小泉竹中改革を後押しし、座長まで努めていたわけです。

その小泉竹中改革で行なわれた郵政民営化によって、今回のかんぽの宿問題も浮上したわけですから、仮に何も不正が無いとしたって怪しいと思われても仕方がない。自分達が安く買いたたく為に審議会を利用したのではないか?という風に見られかねない。経営者とか、人の上に立つ人間などが、そういう事に鈍感なバカが増えている。暗澹たる気持ちになって来ます。

普通利権を確保したいと思ってたって、そんなわかりやすい話に行けば誰だって疑わしく思うに決まっているという事を気にしてない。もしくは仮に下心が無くてたまたまでしかないとしても、そこを取りに行けば怪しいと思われかねないという気遣いも無い。完ぺきに劣化しきって腐っている。小学生でもわかる話です。

これと全く同じ話ですが、最近の役人の劣化も酷い。更に拍車がかかっている。もう末期症状です。今不人気の麻生政権でごり押しで勝手に政令をつくって法律違反までして、渡りや天下りを護持しようとしたり(統治権力者があんな見え見えの形で法律違反の犯罪をしちゃお終いです。懲戒免職にして退職金も無しでブタ箱にぶち込めよって話です)、消費税導入を目論んだりすれば、余計正統性を失って叩かれるに決まっているのに、目先の権益を何が何でも護持して一番不合理な選択をする。

他に何か裏があんじゃねえか?って気もしないでもないですが、合理的理由があるとすればよっぽど天下りを根絶したいか、消費税を導入したくないかなら理由はわかるけれど、そんなわけないだろうし、一つ可能性があるとすれば、自民党をぶっ潰す為に民主党に攻撃するネタを提供し、政権交代のあかつきには生き残りをはかるという事なのかもしれませんが、それにしたって、官僚自体が傷ついてしまえば、民主党がどんなにバカだって、官僚政治打破と謳って政権交代を目指しているわけですから、そう簡単に取り込まれてしまえば、国民から不人気になるに決まっているので、ある程度の官僚利権は減るに決まっていると思うし。

もはや恣意性を隠す事も無く堂々と法律違反までやったり、利権の為になりふり構わずという姿を見ていると、役人にしろ企業のトップにしろ恐ろしい劣化を感じます。

そういう蛆虫共がクソだって話や、改革対象はいくらでもある。ミシェル・フーコー的に言えば、権力自体が悪なんじゃなくて、権力が固定化する事が問題を引き起こす。牽制の力学を失う事が腐敗を招き搾取を生む。経済成長するという事は、流動化が生まれるわけですから固定化を弱める事が出来る。政治で言えば同じ政党がずっと牛耳っているから腐る。野党が信用出来るとか出来ないとかなんてのはどうでもよくて、とにかく流動化させないと権力も悪になってしまう。

小泉改革なるものを全部小泉竹中に押し付けて、郵政民営化のバックフラッシュが起こっています。別にそれはたいした話じゃありません、要するに票稼ぎでしかない。アホ総務大臣がカッコつけて威張ってましたが、あのバカが何を意識してやっているのかと言えば、カラッポの脳味噌でせいぜい人気稼ぎに精を出しているだけでしょう。天下りは容認しておいて、そこだけ問題にしてどうすんだよって話です。

小泉改革の後戻りだなんて事をほざいているアホもいますが、小泉改革なんて代物は、所詮末端を流動化して搾取するインチキ改革なのでそんなものはなんのサブスタンスも無いからどうだっていい。所詮権益の鍔迫り合いが起こっているだけでしかない。

自民党はそもそも何の理念もクソもないパーの集まりです。国会答弁なんかを見ていても、役人の二人羽織でぺちゃくちゃぺちゃくちゃサブスタンスの無い事をくっちゃべっている。特にここ最近は、無能、無知のアホの集団でしかない。

民主党への批判も根強いのですが、すでに現段階で考えると、政治家個人の平均的な能力としては、役人頼りでない分だけ民主の方が上回っている。役人なしじゃ満足に日本語もしゃべれない、役人のあやつ入り人形なのでしゃべっても日本語になっていないくるくるパーの集団よりはマシです。

郵政民営化賛成にしろ反対にしろ、そこに理念なんてもんはハナっから無く。その時々の空気を読んで場当たり的に勝ち馬に乗るという話でしかない。結局小泉にしてもそれは同じでした。政局しか頭に無い。

何で小泉が新自由主義的方向性を打ち出したかと言えば、要するに野党潰しの政局に利用したに過ぎません。彼にとっては小さな政府も大きな政府も興味が無く、旧経世会潰しがしたかっただけ。

元々新自由主義的政策は民主党がぶち上げていたものです。小泉のおかげで新自由主義小さな政府的政策は不人気になり、堂々と利権に邁進する構造、無駄に塗れた大きな政府路線に戻る事が出来るようになってしまった。

民主党の政策の柱は今でも新自由主義的小さな政府を前提としたニューレイバー路線ですが、それをどうどうと言えない風潮になっている。だからバラマキに見えてしまい、自民党と変わらないように感じちゃう人も多いのでしょう。小泉竹中的なものはニューレイバーとは程遠い代物でしたが新自由主義ですらもありませんでした。今のオバマの路線もニューレイバー的方向性です。

自民党の戦略というのは基本的に政局しか頭に無い。やりたい事なんて何にもない。民主党もそれは同じだろうという批判も多いのですが、野党なんだから政権取らなきゃ意味ないわけで、従って政局重視にならざるを得ない。しかし政権政党というのは一応国家の意思決定に重大な影響を及ぼせるわけですから、もちろん政局を無視すれば野党に転落するので全く無視するというわけにはいかないにしろ、そればっかりというのではどうにもならない。

自民の基本戦略はほぼ野党案をしらばっくれて自分達が最初から言っていたかのように利用する。件のかんぽの宿の話もしかり。郵政民営化逆行が政局的に有利なんじゃないか?という思惑でそっちの方に舵を切ったら、意外とバッシングされ党内からも声が上がったので急にトーンダウンする。

麻生っつうのはつくづく本当中身が何にもないニワトリ野郎です。郵政には反対だったとかポロッと言っちゃう。そしてすぐに賛成だったとひるがえす。お前は何の選挙で正統性を得た上で総理になってるのか理解してるのか?いくら小泉改革が不人気だとしたって、解散してから言えよって話で、そういう事を言えばどういう反応が来るのかくらい、小学生でもわかる。

埋蔵金の話だってついこの間まで与謝野あたりはそんなものは無いと言っていたわけで、今は平気な顔をして予算に使って、野党が政権を握った時に遣われる前に無駄遣いしちまおうという方向性になっている。あわよくばそれで人気も得ようと。

野党が何か対立軸を出してくると、とりあえずわけもわかっていないくせに、官僚の作文を読んで否定する。しかし段々隠蔽しようとした構造がバレてくると、野党案をあたかも自分達はわかってました的な顔をして取り込んじゃう。ただ取り込むのではなくてボロボロの骨抜き状態にして、事実上何もサブスタンスは変わらない状態にして、野党の対立軸を無効化する。いつもやり口はそうです。教育にしろ環境にしろ、ただ単に野党案を丸呑みするならまだマシですが、そこに役人が抜け穴と利権を潜り込ませてしまう。小泉も要するにそれをやったに過ぎません。

先日の国会でも、民主の前原にやるやる詐欺と突っ込まれてましたが、道路の一般財源化も歳出は今までとほぼ変わらない道路利権に使っても、歳入が一般財源化されとるんだからいいのだというのには怒りを通り越して笑い話です。使い道が変わらなかったら意味ねえだろって話ですが、いつもながら政治家っつうのはつくづくどうにもならないクソ野郎共です。

野党を持ち上げているかのように取られても困るので書いておきますが、それは野党の方が優秀だとか言いたいわけでも何でも無い。

日本の場合は財政赤字の問題とか、役人の利権による腐敗の問題、統治権力の無能さの問題と、小さな政府が是か非かという問題よりも、事実上それしか選択肢が無いという事が大きな問題ではあるのですが、政治学上の話でも、すでに政府が決断して国をコントロールする事の正統性が調達出来ない時代になっているなんて事が言われます。正統性の困難をどう埋めるのかが問われている。

グローバル化が進むと要するにバウンダリー・セッティングがどうしても恣意的になってしまう。誰にとってどう得なのかが自明ではなくなる。どのような政策を打っても、必ずなんでそれが大切なんだとか、何で俺達はそこから除外されるんだとか、線の外側から不満の声が上がる。どうしても恣意的に見えてしまう。

テクノロジーの発達、人々の価値観の多様性、益々政府がこれこそは正しいと拳を振り上げる事が出来なくなっている。なのでオバマも就任演説では「政府が大きいか小さいかではない、機能するかどうかだ」と言ったのはその事を意味しているわけです。彼はその境界線を設けないように、非常に気を使ってずっと戦略を練って来た。なるべく敵を設定しないように、敵を設定して分断する奴が敵だという言い方で、なるべく境界線を引かないように境界線など無いのだと、アメリカがあるだけだと。

オバマ個人がどこまで能力があるのかは未知数ですし、彼がどのように政策を打って行くのかはこれから次第ですが、とりあえず政治を機能させ正統性を調達する方法としては事実上もうそういう方向性しか無いのが今の世界の現状です。誰かさんが叫んだ「抵抗勢力」図式というのはすぐに奪い合いに回収されてしまうので機能しなくなる。

小泉も安倍も福田も麻生もあっという間に不人気になっていますが、こういう連中はバカで無能なので当然といえば当然ですけれど、仮にバカでアホという事を差し引いたとしても、これこそは正しいのだという政策を打っても必ず反論されてしまう。日本の政治家が出してくる政策(まあ役人が出してくる政策といったほうがいいかもしれませんが)というのは恣意的ですし穴だらけなので、批判されて当然なのですが、オバマだっておそらくは批判されるようになるでしょう。決断しなけりゃならないわけですから、必ず線は引かざるを得ない。

だから尚更、敵を設定して断固決然みたいな話というのはもう今の社会では上手く行かない。にもかかわらず、麻生とか安倍みたいに、断固決然みたいな方向性を取るというのは単純バカで言っている事が支離滅裂だったという問題ももちろんありますが、どんなに正統性を調達したとしても自滅行為でもあるわけです。必ず梯子を外される。そういう政治学の常識をわきまえてないんだから政治家の資格は無い。

なので地域主権という話になるわけです。政府が一元的に善き方向へ導ける時代では無いので、それぞれの地域で最適化をはかり、どうしても不合理が生じた時に国家がアシストするという風になる。サブシディアリティ、補完性原理と言います。

そうすれば自分達で決めた事という意識も今よりは強くなり、ただ国家を批判するという行動作法も無意味になる。いざという時に助けてもらうわけですから。でもこれって言うのも広い意味で言うと自己責任、自己決定、所謂、自治と補完の原則と言います。

だから地域間格差というのも必然的に生じてしまう。その為のインフラを整えるのが政府の役目になる。教育の環境を整えたり、高速道路を無料化したり要はそういう事です。ETC利権の為に1000円にするって話じゃないですよ。産業全体の生産性を上げて行く、経済の損益分岐点を下げる、その為に個人にバラまくのではなくて社会に投資する、社会投資国家、要するにアンソニー・ギデンズが提唱したニューレイバー、第三の道という方向性です。オバマもそういう方向性を目指すと言っています。ケインズ政策ではない。

麻生のバカのように、日本の不景気が需要サイドにあるかのような、ケインズ的な再配分政策(本当は全然ケインズ的な政策でもありません。ケインズに失礼ですが便宜上そう書きます)で需要を引き起こせるかのような事をほざいていますが、頭が腐っている。役人の無駄遣いの構図とか、特別会計の図式とか、都市部一極集中外需依存型であるとか、生産性が悪く損益分岐点が高過ぎる事が問題なのに、そういう問題を放置してバラまけばどうにかなると思っている。

古い産業構造に既得権益者達がしがみついて新しい産業へとシフトさせない構造も生産性を阻んでいる。天下りも渡りも政府の斡旋を無くすと言っているだけで、天下りも渡りも無くすとは言っていません。むしろそれは出来ないと言っていますので事実上容認するわけです。一度辞めた人間の職業選択の自由とか言ってます。憲法違反になっちゃうと。バカか?って話です。

憲法は誰から誰に向けた覚え書きなんだよって話で、統治権力の権益護持の為に利用するなど、立憲の意味さえわかっていない。パッパラパーです。公僕は憲法を守るべき立場の人間であって、憲法に守って貰う立場の人間じゃない。辞めたからと言ったって、公僕だったという事が消えるわけじゃないのだから、当たり前ですが制約があるに決まっている。再就職と天下りや渡りの区別がつかないわけねえだろって話です。税金が無駄になるわけだから職業選択の自由なんて権利は無い。バカに付ける薬はありません。

あげくもう麻生はやる気が無くて、与謝野の操り人形と化しているみたいですが、財務省の言いなりに消費税とか言っている。どっち道不人気なんだからと開き直って、どうせ政権交代するのなら恐いものは無いとばかりに、公明党なんて知るかとばかりに、やりたい放題になっている。

消費税への道筋をつけたみたいな名を残そうとか思っているみたいですが、本当どうにもならない頭の悪さです。財政を健全化する為の経済の体力が無いのが問題なのに、単にバラまけば回復出来るような話じゃない。産業構造のシフトなんてやる気も無いし、非効率や無駄に塗れた構造を放置して、何の役にも立ちそうも無い彌縫策のバラマキを景気対策とかほざいて、国民生活をぶち壊しにしてもむしり取れって言うのだから、頭が腐っている。あのバカ共に政治をやらせてたら確実に未来は無い。一秒でも早く辞めてくれって感じです。

トドメにどうにもならないのは無利子国債で相続税免除なんて話が出て来たりする。全く頭の中身をかち割ってみてみたい。蛆が湧いてんじゃねえかって感じです。こんなものを導入すれば格差が永久に固定化する、階級制度の復活です。何考えてんだって話です。自分は格差というのはある程度しょうがないと思っております。悪い事だとは思わない。ただそれには条件が二つある。一つは末端が貧困で生きて行けない格差は何が何でも是正すべしという事と、もう一つは格差が固定化してしまうような状況は是正すべしという事です。

今の日本の貧困は看過出来ないレベルに達していますし、格差の固定化も酷い。しかしこの相続税免除なんて言う話というのは、その格差の固定化を更に決定的に動かぬ状態に固定する措置になる。こんなバカな話を平気でするのだから、誰の為に政治をやってんだかよくわかる。金持ちが金持ちなのは、運もあるだろうけれど、それも含めてその人の能力でもあるわけですからしょうがない。だけど生まれという運は、実力は全く関係がない。全く持ってふざけた話です。今の世襲議員の考えそうな話です。

まあ何をほざこうが、どうせ政権交代するわけだし、麻生がどんなに息巻いたってもはや風前の灯なんだから、何のサブスタンスも無い。そんな状態で何を言ったって機能するわけ無いのに、国民の生活なんてどうでもいいとばかりに政権に居座る。とっとと辞めて選挙で正統性を調達してから話を進めないと一歩も前に進めないのに、そうじゃなくたって世界中で不景気だっつってる時に何考えてんだって話です。

与謝野ももう少しまともかと思いましたが、政治家としては下の下、酷過ぎる。景気がよくなったってどうせ消費税なんて先延ばしになるし、今まで先延ばしにして来ているわけだから、この際キチンと道筋をつける事が重要だって事を言ってますが。まるっきり論理が無茶苦茶です。

こんな状況で消費税なんて話をしたってネガティブなイメージを余計すり込むだけにしかならないし、しかるべき優先順位に則って、問題点を是正して、景気が回復したとしても、いったん消費税を議論するとボロクソに負けるというイメージが再びついてしまうと、次に議論するまでに10年くらい時間がかかる。
問題点をとっとと是正して、景気が回復した瞬間に痛みを忘れないうちにスパッと導入しないと導入出来ない。本当に役人の無駄遣い体質を是正すれば消費税の導入の必要が無いという話になるのならいいのですが、是正しても消費税はやっぱり必要だって場合もあるわけで、たとえ正統性を調達しても、今無理矢理ネガティブなイメージをすり込めば、その時に言えない環境を逆に作り出す事になる。

それに例えばスウェーデンなんかが典型ですが、所得の4割以上が税金で持って行かれる。だけど不満を持っている人達は日本から考えると驚く程少ない。むしろ満足している人の方が多い。それはなぜかと言えば、税金が高いか低いかではなくて、その税金が何に使われているのかによって正統性が決まる。その税率に見合ったリターンがあって国民にとって有益であるようなサブスタンスがあれば、高いか低いかは関係ない。日本人の民度が低いからというのも実はミスリードで、低くないとは言いませんが、要は統治権力を信用出来ないから払いたくないわけです。どうせ無駄にするに決まっているし、実際に無駄にして天下りなどによって、官僚の懐に入るという事がわかりきっているから、みんなが反対するわけです。
だったら先ずやる事はその信頼を取り戻すしかないわけで、そこを何もやらないしやる気も無いのに、正統性なんて調達出来るわけが無い。とっとと辞めちまえって話です。

景気がよくなったってどうせ反対する?こういう恥知らずで論理も倫理も無茶苦茶なクズが政治家なんだからどうにもならない。どうやって正統性を得るかも何も、ハナっからそういう意識すら無いんだから、レベルが低過ぎて話にならない。本当にあんなクズ共に税金を使われているのかと思うと目眩がします。派遣の人達に配分した方がよっぽどマシです。

まあ安倍晋三のようなバカが典型的なように、ねじれ国会で憲法改正を企てるというのもありましたが、政治家というのはつくづく頭がどうかしている。正統性というのは叫んだり拳を振り上げても調達出来ねえんだよって事がわかってない。憲法は国民意志の集約であるわけで、多数決で無理矢理通したって、そのプロセスに国民意志が集約されていなければ憲法としての意味をなさない。それが立法とは全く違うものであるという所なのに、そういう事を知らないバカが事もあろうに総理大臣とかになってしまう。

そういうゴミの集まりが今の与党な訳で、正統性の意味がわかってない。正統性をいかに調達するのかというのが今の政治に取って重要な問題であるのに、全くどこ吹く風なんですから政治家としては話にならない。どんな政策を打つかの前に、正統性の困難をまだ認識出来ていない。クソって事です。

最近、円天とかのような、所謂インチキ商法、高いリターンを約束して金を集める類いの詐欺が騒がれております。アメリカでもナスダック元会長のメードフ問題なんかもありました。いつの時代にもこういった類いの詐欺はあるもので、何で騙されんだよって感じもしますが、広い意味で言えば村上ファンドとか、ライブドアなんかも似たような言い方でインチキ錬金術みたいな話で言われたりしてました。ひでえ話だぜって感じで。

しかしちょっと待てよ。高いリターンを約束しているわけではなくとも、金を集めて、その金を何かに投資してって言うのを考えると、銀行なんて全部そうじゃねえかって話です。預金者全員が取り付け騒ぎを起こせば、どの銀行だって破綻する。その理由はその預けた金を誰かに投資しているから全額手元に無いのだって話になるわけです。つまり預けた金を運用しているわけです。

まあそれで本当にリターンをもたらしてくれるならまだしも、投資は焦げ付いて不良債権化し、ヤバくなると公的資金で助けてもらい、そのあげく、ほんの1年、2年くらい前までは最高収益とかほざいていた。にもかかわらず、今回のサブプライム問題で厳しいとか騒いでいる。

銀行を潰すと経済全体が打撃を受けるとか言って、結局税金で助けなきゃならないはめに陥る。オバマは経営者の給料にキャップを設けると言いましたが、それ自体は当たり前だよって話なんですが、これもどちらかと言えば収入が減るとなると、隠すインセンティブが働いてしまうので、その事が問題を隠蔽して先送りし、もっとネガティブな効果を生み出しかねないなんて事が言われたりして、そう簡単に給料を減らせば丸く治まるって話でもなかったりして、何となく経済全体を人質に取られて、しかも給料カットはもっと危険を生み出してしまい、いざとなったらなんだかんだで公的資金で助けないと国民全員が痛い目に合い、空前の収益なんて騒いでいる頃は、高い給料を貰ってまるで自分達の能力でもあるかのような顔をしている。

よく考えなくともわかる話ですが、円天とか、ライブドアとか、村上ファンドとか、そういう小物なんかよりも遥かに悪辣な連中なんじゃねえかって普通は思う。金融なんてインチキじゃねえか!!みたいな話になる。

そう全く同じです。しかしこれが同じだと言い出してしまうと、資本主義は回らなくなる。正統性が消える。なのでアメリカなんかだと、例えばS&Lみたいな事が起こったりすると、徹底的に取り締まる。違法行為がなくとも、ネグリジェンス、過失責任が問われ、財産は没収、酷けりゃ刑務所行きです。

それにフィドゥシアリー・デューティと言って、受託責任が厳しく問われる。要するに社外取締役のような実質上のサブスタンシャルな決定は何もしてない、名義だけを貸しているような人であっても、莫大な罰金に課せられてしまう。膨大な数を刑務所に送り込み、財産を根こそぎ没収し、ことごとく地獄に叩き落とす。

しかも、銀行マンとして何十年も培って来たキャリアも刑務所に送られなくとも二度と同じ仕事にはつけないので、全く関係ないビルの清掃とか、ガードマンみたいな仕事につくしか無くなる。その上財産を根こそぎ持って行かれ、要するに今まで培って来たものを全て根こそぎ取り上げて、徹底的に痛い目に合わせる。地獄を味あわせるわけです。

過失であっても能力の無い人間が決定すべき立場にいる事は悪であり、単に名義を貸していただけだとしても、自分が経営についてわきまえていないのならば名義なんて貸す方が悪であると。知らないじゃ許されねえんだよと。

何でそんなに徹底的に取り締まるのかと言えば、こういう事を野放しにすれば資本主義と言うのはそもそもインチキなので、正統性が消える。だからその正統性を維持する為には、インチキ詐欺と資本主義は違うという事を例え嘘でもハッキリさせなければ誰も資本主義を信じなくなる。だから徹底的に取り締まる。オバマも就任演説の際、市場が善いか悪いかではなくて、正常に機能しているかどうかが問題なのだという事を言いました。システムの問題というよりも一部の恥知らずな連中と批判もした。

日本ではこういったプロセスが全くありません。融資を受けて不正を働いたって話や、小物が騒がれるという事はあっても、何となくトカゲの尻尾切り的な感覚しか残らない。こういう事がキッチリ行なわれた上での自己責任って話ならわかるけれど、弱者ばっかり自己責任だ!!みたいな話に、国民までもが乗っかって叩いている。本当、勘弁してくれよって話です。社会の公正感も無いし、それをキッチリ維持しようと言う統治権力側の意志も感じられない。

それどころか多くの連中は一枚も二枚も噛んでいるわけで、先日の野党からの質問で斡旋以外の天下りは職業選択の自由なんて事を政治家がほざくわけです。明らかにその事によって不公正な仕組みが回っているという事を、今日日老若男女知っている話です。にもかかわらず是正されるような可能性を全く感じない。正統性の調達もクソも無いわけです。

天下りをするのはいいが、その事によって僅かでも税金を無駄にした人間は、過失であろうが悪気が無かろうが、終身刑とか、死刑とか、財産全額没収とか、もの凄く甘くても、二度とそういう類いの仕事にはつけず、再就職先はコンビニの店員になるしか無いとか、料理屋で皿洗いとか、そういうサンクションがあればいくらでも天下りしたっていいわけです。

弱者に対して自己責任バッシングに勤しむような暇があるのなら、こういう連中を血祭りに上げなくちゃしょうがない。しかし何となくこういう問題が起こると必ず出てくるのは、資本主義はインチキだ!!みたいな純粋まっすぐ君的な意見が出て来て、そうじゃなくて不正を働いた奴、もしくは不正を働かなくとも責任者の問題であるだけで、資本主義そのものは壊せないという意見との間に分断線が引かれて、責任者達はまんまと逃げ切れる。純粋まっすぐ君は責任者達の責任を資本主義全体の問題にズラす事に加担しちゃう。

それにアメリカのようなやり方を見ていると、何もそこまでやらなくとも、いくら何でも可哀想じゃねえかという、これは日本人の美徳だと思うのですが、そういう感覚を利用して、悪い人じゃなかったとか、彼だけが悪いんじゃない、資本主義と言うシステムの問題なんだとか、日頃からそういう風にステークホルダーからココロの教育や、お涙頂戴のバカメディアによって育ち上がってしまっているので、資本主義の欺瞞って所に話がスライドしちゃう。

そういう連中が何を隠そうとしてそういう教育や啓蒙をしているのか?そういう風に教育されているのだから、弱者にも同じように手を差し伸べるような話があるのかと思いきや、弱いものには容赦がないらしく自己責任だって話になる。困った話です。

ふうーまとまらん、長くなりすぎちまった、エーイ面倒くせえ、せっかくなので、もう一丁!!
続く。
前回の続きでしゅ。

そもそもクソみたいな昭和30年代主義といいますか、ノスタルジックなクソ映画なんかを見て、昔のそこそこの慎ましやかな生活に憧れを持つみたいな感じもありますが、基本的にそんなに甘い話じゃない。

そこそこでいいとか、頑張らない生き方とか、そういう風に思ってみんなが生きていたわけじゃない。今に比べれば貧乏で、経済的な豊かさもないし、物質的な豊かさもないけれど、心の豊かさがあったではないかという言い方になるわけですが、それはそういう状態だったからそうなだけで、その中でみんな精一杯生きていたわけです。ちょっとでも裕福になろうと。

頑張らない生き方なんてしてないし、そこそこで構わないなんて思っていたわけでもない。犯罪率だって今よりは無茶苦茶高かった。

頑張らない生き方自体は肩の力を抜いて煮詰まらないみたいな意味であるのなら大いに結構な事だと思いますが、誰かが誰かに強要したりそうあるべきみたいな話になるとちょっと意味が違ってくる。現にそういう言い方を旗印にして既得権護持の力学として利用するような輩もいるし、足を引っ張る為のきれい事になっている場合が結構ある。

景気が悪くなるともう欲しいモノが無いという需要飽和論や、価値のあるモノ自体が無いという話が必ず出てくるわけですが、そういう人がじゃあそのあまった金を貧乏人に配ってくれるのかと言えば、そんな事はするわけないので、単に願望として言っているだけなら構わないと思いますが、やろうと思えば出来るわけですから、自分で出来もしない事を人に強要するのはどうかと思う。

そして欲しいモノが無いという言い方も、経済成長がなくて、産業構造もそのままであれば、テクノロジーの発達も既存のモノを進化させた、例えばテレビの映りがよくなるとか、画像が大きくなるとか、そういう付加価値で何とかしようとするわけですが、その付加価値が需要する側と完全にズレている。そんな機能いらねえよという風になる。携帯は電話出来りゃいいんだよという感じになる。要するに飽きる。金使って買う気にならない。欲望を刺激する効きが悪くなっている。やっぱり既存の価値観とは違うものを生み出す為にも、産業構造が変わらないと新たな価値は生まれ難い。

そこそこ安定があればいいというのは、ずっと同じ水準であればいい、去年と今年、10年前と今、そして10年後でも同じ水準でいいと言う意味では無いはずです。それは緩やかかもしれないけれど、右肩上がりである事を望んじゃっているのではないのか?

欲しいモノがないといったって貯金はするだろうし、全く無いという事もないでしょう。何かしら欲しいモノは出てくるはずで、その時に買えるようにしたいから貯めておくのでしょう。

そこそこでいいという気持ちが変わっていないというだけの話で、実体は成長している。学生の頃と社会人になってから、独り身の時と結婚した後、また子供が出来た後、あるいは収入が300万の人、2千万を越える人、1億を越える人、いろんな状態によって人の欲求構造は変わる。

いきなり年収300万の人が、2000万貰えば、凄い贅沢な気分を味わえるかもしれませんが、ずっと2000万の人はその収入を維持する事が、安定、そこそこであるかもしれない。300万円の頃には想像もつかないものが欲しいと感じるかもしれないし、その事だって当人にしてみればそこそこと思うかもしれない。年収300万で暮らしている人がいるんだからと言ったって、2000万貰っている人が急に300万になれば、もの凄く喪失感を感じるかもしれない。

そこそこでいいかどうかは自分で決める事だし、人に言う事じゃない。ましてそういう生活であるべきだなんて事を誰かが誰かに言うなどは論外です。そんな基準は人によって違う。

そこそこというのは、無いなら無いなりにという感じだと思うけれどそれはプラスである事が前提になっていると思う、マイナスなのにそんな事は言ってられない。そこそこというのは、経済成長の無い状態では、相当気をつけないと足の引っ張り合いとか、抜け駆け批判とか、排除とかそういう変な言い訳に使われてしまう。現に今そうなっている。

経済成長故に失われるもの、経済成長する事によって新たに生まれる欲望、そういうものを知っている我々から見ると、貧しい国に投資が集まって、外資系企業が参入し、ショッピングモールが出来、ゴルフ場、リゾート地、経済発展に向かって行く国を見ると複雑な気持ちがする。それによって失うものを知っているからでもある。そしてそれは取り戻せない。

それは昭和30年代主義的な懐古主義であるのかもしれないけれど、本当に厄介なのは、知るという事の地獄です。もっといい世界がある、もっといい暮らしがあるという事を知らないままでいた方が幸せではないのか?という問題です。

国民幸福度が一番高いといわれている、ブータンなんかを引き合いに出して、我々が忘れてしまったものがそこにある的言い方をする日本人は非常に多い。しかし彼らが幸せそうに見えるのは、彼らが知らないからそうであるわけで、知ってしまっている我々が、彼らに向かって知らない方が幸せだとは言えない。そして知ってしまった以上彼らのような生活は絶対に取り戻せない。その事がわかっていない。

彼らは幸福かもしれない。しかしそれが何に由来しているのかを我々は見落としている。平均寿命から見ても2007年統計で195カ国中133番目です。ちなみに日本は1位です。そしてこれは2004年のデータですが乳児死亡率が1000人あたり60人、日本は3人いかない。妊産婦死亡率10万人あたり255人、日本はわずか4.4人、これが何を意味するのか?

日本人に比べれば病気になれば神に祈るとか死ぬしかない。だけどそれが当たり前だからそれを不幸だとは感じない。これだけ安全な国に住む我々が、不安に煽られている。もっと長生きしたいもっと安全が欲しいと。

独裁国家や北朝鮮の人々が不幸なのか?というと難しい問題がある。ただ彼らが経済成長とは何であるのか、外の世界がどういうものであるのかという事を知ってしまったら、そこから地獄が始まる。そのままでいるのももちろんそうだし、発展してどんどんインフラを整備して、人権を認め、国民一人一人が裕福になって行っても、今の日本人的袋小路が待っているかもしれないわけで、それははたして幸せか?という難しい問題がある。

しかし、泥沼の内戦で殺し合い、エイズが蔓延り、外貨も稼げないような国が幸福か?といえばそういう国は決定的に不幸であるのは間違いないし、その国の人々も幸福だとは思っていない。絶対的な不幸とか絶望というのはあるわけで、そこに我々が手を差し伸べようと思えば、ある程度資本の論理を使わないわけにはいかない。競争の論理を取り入れ先進国の理屈が入らないと上手く行かない。

そこまで行かない国に対しても貧乏でも幸せそうな顔をしているから君達は幸せだとは、我々の立場からは言えないし、経済発展をしても幸せにはなれないかもしれないよとも言えない。

ただ経済成長する事によって経済的な自立と自由が手に入るのも確かではあるので、そこから自由と喪失、欲望のジレンマが始まってしまうものの、やっぱりそれは必要な部分もあるだろうと思う。ただ何を捨て、何を得ているのかという事に自覚的にならないと、日本人のようになってしまう。そこは非常に難しい問題がある。

人間には外的な欲望と、内面的な欲望というのがあります。非常に乱暴に単純に言えば、前者がモノへの欲望、後者がココロの欲望、そして得られるものも全く違う。外的な欲望というのは、安心や安全といった不安を取り除くのに必要な外的な物理的構造を変化させる欲望であり、内面的な欲望は自分を変化させる欲望だと言える。

現代の我々はココロの問題を重視しながら多くの人は不安に煽られ、安定、安心安全を求めて彷徨っていると言える。これは単純な話ですが、自分の内面をいくら変化させても、外的な不安や問題を取り除かないと、安心安全は得られない。ココロの構造を変化させても、外部構造は変わらないわけだから、自分のココロを制御して我慢するなり、欲望の構造を変化させて対応出来ればその外的な問題を乗り越える事は可能かもしれませんが、外部環境は変わらない。外部環境を変えるには外の問題へとコミットしないと、内面のコントロールだけでは限界がある。ココロをいくら大切にしても物理的な構造は変わらない。だから安心安全に煽られて多くの人が生きているのでしょう。

そして外部の問題をどんなに取り除いたとしても、幸せに感じるかどうかは自分の内面の問題なので、安心安全がどんなに担保出来たとしても、自分は何も変わらない。いくらモノで満たされても、いくら金で安全安心を買ったとしても、自分のココロの問題や変化には結びつかない。その事が自覚出来ないと、物欲のテトリス状態になって、満たしても満たしても満たされないという袋小路に陥り、これさえあれば自分が変われる的なマニュアル本の虜になる。自分探しが止まらなくなる。

外的な欲望というのは単純に言うと平等へのモチベーションであると言えるし、内的な欲望というのは自由への欲望と言える。今の自分の置かれている環境が、理想的なラインに引き上げるもしくは維持したいというのが、自分一人では担保出来ないし、自分の欲望だけをブーストさせれば奪い合いになっちゃうので、平等という概念が呼び出される。これはコミュニケーションにおいても重要な概念で、自分の気持ちばっかりぶつけても、独りよがりになるだけですので、相手の話を聞いて、そこにある程度あわせる必要がある。これも広い意味で言えば平等の概念になる。

一方どんなに人間は満足しても、どんなに満たされたとしても、必ずしも幸福になるとは限らない。それでもここではないどこかを求めてしまうし、同じ状態では飽きてしまう。しかしだからと言って好き勝手に振る舞っていればみんなに迷惑をかけてしまう。だからせめて心の中だけは自由にものを考える事が必要になる。同じ状態でもココロが自由であれば感じ方は変わる。

平等と不自由は一歩間違えれば同じものにすり替わるし、そこには抜け駆けが常に裏腹に存在する。自由というのは一歩間違えば無秩序になりかねませんし、簡単に傷つけ合う理由へと変じてしまう。不適切な不自由に変じない程度の平等と、無秩序を生み出さないような理性ある自由、その狭間でバランスを取ってこそ、人は幸福を得られるのではないでしょうか。

現状の派遣の問題というのは、どう考えてもココロで解決出来る類いの話ではない。たいして苦しくもないのに苦しいフリをしている人は、ココロの問題で解決出来るかもしれませんが、仕事が無い、金も無い、住む所も無いというのは、ココロの問題では解決出来ません。彼らに必要なのはモノへのモチベーションでもある。しかしそれだけでは幸せになれないという事も忘れてはマズい。モノへのモチベーションを持ってそれを満たしたにもかかわらず幸せになれない、みたいな感覚になってアノミー化ってパターンもありえますから。

人間扱いされていないとか、部品扱いされていると言ったような感じの、尊厳を傷つけられて承認を得られないという事も問題になっていますので、ココロの問題も重要だろうと思いますが、生活出来ないまでの貧困であればココロじゃ飯は食えません。それに尊厳や承認というのは自分一人のココロの問題では解決出来ない類いの話です。

そこそこでいいじゃないか!という価値観は、みんなそれぞれ違います。みんな価値観がバラバラなんだから当たり前ですが絆の安心感みたいなものは減って行く。何となく帰る場所が消えてしまったという感覚が増えているのは、物理的に消えているというのもあるけれど、多様性によって価値観がばらけてしまったので、帰る場所、即ち何があっても無条件で承認が得られるような空間が消えている。

承認というのは自分一人では出来ませんので、他者性が必要になり即ち外部へのコミットメント、平等の概念、モノへのモチベーションが必要になる。ココロの問題でループしていてもそれを得る事は出来ない。

自分大好き人間が増えているのに、帰る場所を求めるという都合のいい人が増えているのは、この内面の問題と外部の問題を上手く峻別出来無い所にもあると思う。帰る場所への憧れが増え、内面の問題と外部の問題を峻別出来ず、経済成長なんて体験した事も無ければ想像もつかない世代が増えて行くと経済成長へのビジョンは描けなくなって行く。

ここまで景気が悪い状態が続くとスキルを積む機会を奪われている世代が増えていて、この10年以上の停滞によって奪われてしまったものは取り返しがつかない。強引に景気回復の政策を取らないと、戻らなくなっちゃう。

経済成長以外の方法は、みんなの精神性に革命が起こって、貧乏で構わないという風にならないと無理。しかし今の社会はどちらかと言えばそういう価値観が幅をきかせているにもかかわらず、奪い合いが延々と続いている。排除抑圧が続いている。そこそこの生活を送るという事が、すでに弱者を切り捨てないと維持出来ない社会になっている。

経済成長とは安定化の事であり、潜在的成長率で安定成長を遂げて行けば経済問題はあまり重要な話では無くなる。

経済成長是か非かという言い方も経済成長していないから言える事だし、経済成長不要論も経済成長していない現在を肯定する言い訳のようなものです。別にそんなのどっちでもいいと思えるような状態、どっちがいいかで、もめないような状態、個人的な経済成長を諦める自由を行使しても別に生きて行けるような社会、金儲けにあくせくしても、誰かをけおとしたり騙したりする状態を減らす為にも、経済成長というのは重要な価値。

安定した家族生活を送りたいという夢が、誰かの夢を叩き潰さないと出来ない状態というのは不健全です。みんながより裕福になりたいと思った結果達成された平等と、みんなで足を引っ張り合って平等になった状態では、その平等の意味も見える世界も違う。

経済成長イコール弱肉強食の奪い合いみたいな、みんなが競争して争い合って金金言っているみたいなイメージというのは全く逆の話であり、そういう鬩ぎあいを無効化する為に必要なのは成長でもある。自由ややりたい事を得る為に必要なのも経済成長であると言える。

戦後の高度経済成長というのが何で上手く行ったかというと、40年体制だなんて言う人がいて、要するに戦前の総動員態勢であるという事を言う人がいる。そういう感覚というのがある種、経済成長に対するネガティブな反応も生み出していると思う。御国の為に滅私奉公みたいな。

しかしそれは大きな間違いで、戦争で人がいっぱい死んで焼け野原になったという事から来る究極の流動化と冷戦体制という血塗られた非常に運のいい外部環境があったとは言え、みんなが自分の為に頑張ったから、成長出来たわけで、それはモノへのモチベーションが核になっていたので、何となく昔からある日本型家社会的結束も可能だった。それはあくまで国家の総動員態勢とは無関係で、国家に奉仕していたわけでも何でも無い。

個人個人が自分の欲望の為に、自分の所属する集団への忠誠がその欲望を満たす為に重要だったからそうだったわけで、その欲望はモノが輝いていたからに他ならない。だから絆もあった。官僚のおかげなんかじゃない。むしろ、戦後の高度経済成長は官僚が余計な事をやらなかったから上手く行ったという事も出来る。

余計な事をやったものは殆ど失敗している。バブルにトドメを刺したのも役人です。官僚が頑張ったから戦後の日本の復活が出来たというのは嘘です。そういうフィクションをいつの間にか国民にすり込むのは彼らのいつものテクニックです。頑張ってないとは言いませんが、みんな頑張ってたわけだし、それが仕事なんだから偉そうに言う事じゃない。

経済のゲームというのは何となくゼロサム的な、弱肉強食、優勝劣敗的な物言いが多い。誰かが勝つという事は誰かが負けるという事だという感じで。確かにある意味それはそうなのですが、全体的なパイが増えて行けば、必ずしもゼロサムではなくなって行くわけで、経済成長の無い状態でもしくは下降している状態で、経済ゲームをして行けば、それはゼロサムになってしまうわけですが、経済成長させる事によって、みんながちょっとずつ裕福になるという方向性も不可能な話ではない。経済を諦めて縮小再生産の中奪い合いをするよりは、よっぽど希望がある。

経済が下降し、アイツらの既得権を俺によこせ、金を儲けている奴は気に食わねえという感じで、それぞれを旗印にして奪い合い、メディアのインチキ報道によって抜け駆け感をブーストされ、政治家の動員の草狩り場として利用され、役人の権益装置として利用され、社会は全然回らず、経済も停滞し、みんな痛い目に合うという方向性に向かっている。それでも俺は出し抜けると思っている。

仮に出し抜いたとしても、経済成長しながら出し抜くのと対して変わらないというか、むしろ減っている可能性だってありうるわけで、そこに向かわず現状のままだと、もうすでに誰かを蹴落とさないと自分の経済的安定すら維持出来ない社会になっている。派遣の切り捨てなんていい例です。あげく怠け者とか批判しているバカもいる。そういう問題じゃないという事もわかっていない。

経済成長をするという事は他人の足を引っ張っている暇があれば自分の事をやった方が儲かるようになるわけで、奪い合いの図式はむしろ和らいで行く。弱肉強食の戦争状態になっちゃうかのような言い方というのは、全然違う。

モノにこだわらず、経済成長を諦めてそこそこなんて言っていると、弱肉強食優勝劣敗の奪い合いに行き着く。必ず抜け駆けする奴や、他人の足を引っ張る奴が出てくる。みんなで貧乏になろうという方向性に向かうのは不可能です。第一もうすでに人を蹴落とさないと自分の生活が守れなくなっている。商売敵ならいざ知らず、同じ釜の飯を喰っているにもかかわらずです。

経済を復活させて安定成長を続けて行く為の可能性は至る所に転がっている。新興国の増え続けて行く需要、環境問題のビジネスチャンス、国内のサービスへの需要、農業、漁業、観光、外需依存型の都市部一極集中を多少見直せば、地方分権して経済の損益分岐点を下げ、同じ収入、同じ業績でも、今よりは裕福に感じられる方法だってある。いくらでも宝の山は眠っている。

もっと単純に言えば金を刷って撒けばいい。一枚20円で一万円なるわけです。なんて事を言うと嫌悪感を示す人もいるかもしれませんが、もうある程度無理矢理にでもインフレにもって行かないと、回復しないような気がする。

経済成長を続けて行くと、やがて破滅の道が待っているみたいな、環境へのネガティブな感覚や、食料の足らなさや、水、資源、人口増大に対するネガティブな感覚というのはわかるけれど、このまま経済成長を諦めて、宝の山を眠らせたまま流動化をせき止めて経済の頭を押さえつけ縮小再生産を続けて行くのだとすれば、環境破壊で破滅するとか資源不足で破滅する前に、人間同士の奪い合いで日本の社会は滅茶苦茶になってしまうかもしれません。これからのこの国はしばらくはどんどん人口バランス的にも苦しくなる。今目覚めないと復活する経路は益々苦しくなって行く。

地球が抱えている様々な問題にコミットして行く為にも、先ず人間同士が奪い合って足の引っ張り合いを破滅するまで止められないような状況から脱却しない事にはその先は無い。今食って行く事に勝る価値は無いと、環境なんて知ったこっちゃない、未来の地球が破滅したって関係ないという感覚に支配されない為には、ある程度みんなが余裕無くちゃ、背に腹は変えられないを越えられない。

環境問題を前進させたかったら、貧困問題を是正しないと絶対に解決出来ません。先進国と後進国の南北間格差どころか、同じ国の中での同胞同士が奪い合いをやってたんじゃ話は進まない。結局は経済成長にうつつを抜かし、コミットすべき問題をスルーしたままという状態になってしまうかどうかは我々次第ですが、環境ビジネスが雇用を生み出し、経済成長の後押しをする方法だってあるわけですし、バブル崩壊以降の負の連鎖によって我々は相当多くの事を学ぶチャンスに巡り会えたと言えます。これを無駄にするかどうかはわかりませんが、経済成長無しの状態でいるよりは経済成長をした方が選択肢はあるでしょう。

それでも経済成長しなくていいじゃないか論を言う人はいると思いますが、その人がそう思うのは自由なので何の問題もないと思いますが、誰かに経済成長なんて良くないと強要する筋合いは無い。持っている財産を寄付して、自給自足で暮らせば済むはずです。経済成長というのは国家で目指せとかそういう話じゃなくて、みんな一人一人今よりちょっとずつ経済的な安定成長を遂げられた方がいいんじゃないか?という話でしかありませんので、したくないと思う人がいるのは自由ですが、したいと思う人がいるのも自由であるはずです。

経済成長を諦めろというのなら、自分の全財産を寄付するとか、先ず貧困問題や弱者問題をどうするのかを示さなきゃ人にとやかく言う資格は無い。貧乏でいいじゃないかという資格は無い。そういう境遇に生きられるという事がすでに格差に加担しているという事を自覚した方がいい。搾取しているから可能であるという事を。現に今貧困で苦しんでいる人達にこれからはエコだから貧困は良い事だなんて言えるわけない。

経済成長したくないと思うのは別にやる気になればすぐ出来ます。月7万あれば可能なんですから。だけどしたいと思う人がいる以上、国家や誰かが無理矢理諦めろというのはおかしい。したいと思う人が出来るような経路をキチンと確保する必要が統治権力の責務には含まれているはずです。それは月7万ずつ配れって話じゃなくて、制度的な問題点や経済成長を妨げる様々な問題点はあるはずで、それを諦めて一蓮托生という未来しか無いのであれば、もうこの国の復活する経路は無いと言えます。

ずっと経済成長一辺倒という事を世界中の国々でやってたら、やがて世界は破滅する、なんて言う言い方もありますが、ある程度のバッファを確保しないと、その前に人間同士が争って世界が破滅してしまう。貧困問題を克服しない事には、その先のオルタナティブへの合意も出て来ない。

日本が昭和30年代くらいの頃、滅茶苦茶環境が悪くて小汚い状態だったのに、今はある程度の環境先進国になれたのは、高度経済成長によってバッファがあったからです。だから利権まみれだったとは言え、貧困国に対してODAで莫大な金も使えた。バブル崩壊してからもしばらくはバンバン金使っていたわけです。それはバッファがあったからです。

ゲッ!!終わらん。次回で必ず。祈りを込めて、つづく!!