中川大臣撃沈。前回書いたように、自分はこのヘタレ右翼が大っ嫌いです。みんなに追求されているときのあの泣きそうな顔、弱虫のくせに、脆弱な自尊心を隠す為に、愛国と言う柱にすがる、本来の右翼思想とはもっとも遠い所にいる。ああいうクズが右翼とか保守とか言われる現状に憤りを感じます。どこがタカ派なんだ?何が右で何を保守するというのか?愛国を国民から奪い、国家権力が愛国を纂奪している。権力に媚びる事は愛国とは全く逆の話です。戦前の正統派右翼なら、真っ先にぶち殺される対象になるでしょう。

しかし対応のまずさがあったとは言え、あれだけ叩かれて、ボロクソに追求されている姿を見てしまうと、若干同情してしまう。自分は酒を飲まないので、彼の気持ちはわかりませんが、あんなに調子こいて強気の発言をしていた人間が、実は単なる弱虫で、みんなに攻撃されるともろくも崩れ去る、そういう姿を見ていると気の毒な気がしてしまう。

安倍晋三の時も、散々このブログではボロクソに批判しましたが、最後に泣きそうな顔をしながらボロボロになって辞めて行った様を見たときはちょっと同情してしまった。調子こいてカッコつけていたアホが、鎧をはぎ取られて半泣きしながら没落して行く様は、ざまあみろと切って捨てられなくなってしまう。安倍晋三にしろ、麻生にしろ、総理になると極端に老けるなあとか思っちゃう。

甘いと思う人もいるかもしれませんが、多分それが日本人のスタンダードな感覚なんじゃないかという感じがします。

彼の自宅前でのぶら下がり会見の際、奥さんが旦那である大臣を励ましていました。ああいう姿を見ると、このおたんこなすも、家では旦那であり、父ちゃんなんだなとか思っちゃう。そこには愛があるわけで、あんなにムカついていた気持ちが萎えてしまう。こういう感覚というのは自分は凄く大切な感覚だと思う。最近はやたら厳し過ぎる断固対処が多過ぎる。

ああいうヘタレ右翼のバカは、断固決然野郎なので、断固決然には断固決然だぜという風に思っても、あの姿を見てしまうとちょっと可哀想な気がしてしまう。外国のメディアなんかがあのバカの事をピーチクパーチクほざいていますが、うるせえよと思ってしまう。このバカを断罪するのは日本人の役割であって、てめえらはてめえの国の問題を考えてやがれ、てめえらがとやかく言う筋合いじゃねえぜと思っちゃう。恥?うるせえよって感じがする。日本人がボロクソに言うならまだしも、あのバカの被害にあっているわけでもない野郎がとやかく言うんじゃねえぜと。

それに外国のメディアで取り扱われて日本の恥だとか騒いでいる人もいっぱいいますが、あれは日本人の民度を笑われているのと同じです。あんなバカが大臣に成っちゃう国であると。恥だとか喚いたって、全部事実で、民度は低いし国民はバカなんだから、しょうがねえじゃねえかと思う。悔しかったらああいう恥知らずを政治家にすんなよって話です。バカなんだから、バカって言われた!と騒いだってしょうがない。悔しかったらバカじゃなくなればいい事です。

自分のような中川昭一大っ嫌い男でさえ、そういう風に思っちゃうんだから、あの姿を見た多くの人は、辞めるのは当然だけど、若干可哀想な気もしちゃうのではないかと思うわけです。

何が言いたいのかと言うと、日本人は結構統治権力者に甘い。あそこまで恥さらしな人間に対してでも、弱っちい泣き虫な姿を見ると、気の毒に思ってしまう感覚がある。

だから、帰国していの一番に謝罪して辞意をとっとと表明するとか、ごめんなさい酒飲んじゃいました、酒には強いと思っているのですが、強硬スケジュールと体調不良で、いつもなら大丈夫と思える量で、へべれけになっちゃいましたすんません、とか、いくらでも批判の矛先をかわす方法はあるわけで、中川に限りませんが、最近の統治権力や企業経営者なんかを見ていると、一番不合理な選択をしてボロクソに叩かれるというパターンが多すぎます。

オリックスのかんぽの宿問題なんかも典型ですが、なんでそんなわかりやすい話に飛びつくのか?理解に苦しみます。こういう言い方も変だけど、どうせやるならもうちっと上手くやれねえのかよと思っちゃう。批判のしがいが無い。

消費税増税話もそうで、こんなに不人気な麻生政権で無理矢理そんな話をしたって、余計に増税に対するネガティブな印象を国民に埋め込むだけになってしまう。冷静な増税話が出来なくなっちゃう。よっぽど増税したくないのか?と。

経団連の御手洗なんかがワークシェアリングの話を持ち出したり、派遣を規制されたら、企業が外へ逃げて行くと言ってみたりと、そこに一定の正しさが含まれているとは思いますが、彼がそれを言えば自分達がもっと儲かりたいから言ってんじゃねえのか?と言う風に見られてしまうわけで、言い方があるだろうと思ってしまう。わざわざ火に油を注ぎ自爆というパターンが多すぎます。

まあという事はそういう立場にある人間としては不適格なのかもしれませんが、ある意味権謀術数がない分だけ純粋なんだろうとも思える。

小泉が爆弾発言をして、とっととロシアに逃げちゃった。閣僚なんかが今更とか騒いでおりましたが、だから小泉に勝てねえんだよと思う。何を意味しているのかがわかっていない。このタイミングを狙ってあの人は爆弾を埋め込んでいる。そしてすぐ姿を消し、肝腎の日本の国会は空転、情報飢餓の状態にして、定額給付金の採決は欠席するなんて話をしてみたりする(おかげで中川問題も影が薄くなっちゃった、ある意味自民党全体としてみると、上手くフォーカスをズラしている。援護射撃と言えない事も無い)。

更に恐らくはかえって来てから一言言うのでしょう。実に狡猾な戦略です。何かボソッと一言言うだけかもしれませんが、その事だけで政治的意味を持たせてしまう。中川とか麻生みたいな赤ちゃんに比べると、散々経世会に煮え湯を飲まされ続けて来た経験を生かした、実にムカつくけれど、政治家としては戦略家だと思います。

田中眞紀子を更迭した際なんかを思い出してもそうですが、先ず官房長官が説明をする、小泉は中々何も言わない。やっと一言発したかと思ったら、女の涙は云々かんぬん。それだけ。全く何の関係もないし、更迭した事のいいわけにも説明にもなっていないのに、これで世論を味方につけてしまう。

麻生が漢字が読めないとか言ってボロクソにけなされておりました。最近漢検の取り締まりがありましたが、ああいうのも麻生が漢字が読めないもんだから、漢字の読み書きに権威付けをしている所に、私怨で国策捜査してんじゃねえか?なんて事を揶揄されちゃう。

仮にあれが小泉だったら、多分簡単に切り抜けていたでしょう。最近の漢字は難しいねえとか、最近勉強不足でねえとか、むしろそういうネガティブを人気取りのバネとして使っちゃう。ここ一連の政治家というのは、何かを言われると、ムキになって墓穴を掘るというパターンが多過ぎる。多くを語って自爆するパターンが多過ぎる。

これは外国から恥だと言われて、自分達の恥であると気付かずに大臣をバッシングしている国民性を、そのままダイレクトに反映させているだけだとも言える。バカって言うな!とバカが吹き上がって墓穴を掘る。

それは政治家がある意味ナイーブであるからだとも言える。見た瞬間にバカだとわかるような失敗、そして更にドツボにハマるようなリスクマネジメント、そういうわかりやすい何ものかがあるから、国民は一丸となって叩く。だけどそれが頭の中身はそういう連中と大差ない、理念もたいしたものを持っていないようにしか思えないけれど、ちょっと発言や立ち回りかたが巧みであるとコロッと引っかかる。

恥だと騒ぐけれど、恥だと気付くだけマシだと言える。恥だと気付かされないように丸め込まれていながら、恥の塊みたいな奴が堂々とのさばって、海外で恥をまき散らして、談合メディアが報じない状態であればいいのか?って問題です。

小泉が首相の際アメリカに行ってエルビスの生家かなんかをブッシュとフラフラしていた事がありました。あの後、会見でラブミーテンダーに引っ掛けてしゃべっていた。その時の海外の反応というのは全く報じられていない。

しかも小泉は英語の文法を間違ってしゃべっていたから意味も伝わっていない。更に発音が悪いので別の意味に取り違えられている。外国の記者達が笑っていたのは別の意味で笑っていたわけで、ある意味侮蔑も混じっていた。それがこの国の談合メディアというフィルターにかかると海外の記者に受けていたって話になってしまう。とんでもないあれは半分失笑を買っていたわけです。

今回の中川昭一の問題の会見もしかり。自分はあれを最初に見た時に、ろれつが回らないとか言ってメディアが報じているけれど、そういう場合じゃねえだろと思った。これはただ事じゃないぞと。前回も書きましたが病気なんじゃねえか?と多分多くの人が思ったはずです。

しかしそういう緊張感が報道からは全く無かった。という事は何を意味するのかと言えば、あれは酔っぱらって会見しているという事を、現地の記者達はわかっていた事を意味する。酒の匂いが漂っていたのでしょう。

普通だったら日本の代表な訳で、もっと心配するのがスジだろうと思う。自分みたいにあんな奴消えちまえと思っている人間だって一瞬心配した。だけどそれが全く出て来なかったという事は心配する必要が無いとわかっていたからに他なりません。

要するに海外メディアで取り上げられて、騒ぎが起こったから渋々報じたら、思いのほか破壊力が凄まじく世論も吹き上がったので、マスメディアもポピュリズム的にそこに乗っかった。それだけ。空気を呼んでいるだけで、一歩間違えればしらばっくれていたかもしれない。

マスメディアの役割としては、何であんた酒飲んでんだよとあの会見の時点で追求する事が重要なはずです。が、談合ヘタレメディアにはそれは出来ない。ここまで事が大きくなったから騒いでいるにすぎない。それで追い込まれた麻生政権とか騒いでいる。バカじゃねえかって話です。

それにつられて大騒ぎして引きずり下ろす。一連の朝青龍とか、亀田兄弟とか、沢尻エリカとか、そういった類いの話と根本的に何も変わらない。G7の会合のサブスタンスな部分の話は殆どスルー、どうでもいい枝葉の部分で足の引っ張り合いをしているだけ。中身が何にもない。

麻生政権がどうとかこうとかって前に、何でああいう状態で会見してしまうのか?とか、政府の危機管理はどうなっているのか?とか、談合メディアがキチンと報じないとか、そういう事が問題の本質であって、あのバカがバカだと言ったってしょうがない。そんな事はみんな知っている。麻生政権に打撃とか言ったって、支持率一桁の政権に正統性もクソも無いわけです。

自分は政権交代を常々言っておりますが、それは民主党になればいいと思っているからではありません。民主党というのは安全保障の意味でもそうだし、経済オンチがいっぱいいるので、ハッキリいって自民党と大差ないと思う。それどころか今まで与党が隠し通して来た構造が可視化されるので短期的には間違いなく絶望的な状況になるだろうとまで思っています。

ただ政権交代が起こり得るという状況にしなければ、民主主義も議会制民主主義も機能するわけないと思っているので、政権交代を望んでいるだけです。官僚と政治家の癒着を断ち切るその事だけに意味がある。短期的に不安定になるからと言ってずっと与党に任せていれば、沈没するまで構造は変わらないと思うから、仕方なく政権交代と言っているに過ぎません。

つまり麻生のバカを引きずり下ろしてクビがすげ変わっても、政権交代が起こらなきゃ何も変わらないし、政権交代が起こったとしてもだからすぐに何らかの結果が出るとも思えない。どん詰まりの袋小路にこの国は立たされている。

政権交代が起こるとしても、民主党の経済政策はロクでもないので、自民党の牽制が無いと景気回復なんてありえない。なので政権交代は必要だと思うけれど、それは自民党を叩き潰すという意味ではない。自民は自民として残ってくれないとヤバい。

もちろん今の麻生政権にぶら下がっている連中なんかは一掃しても構わないと思いますし、分裂したって構わないと思うけれど、ちゃんと牽制の役割は果たしてもらわないと、違う意味で民主制じゃなくなる。麻生みたいなカスを打倒したって、たいした話じゃないわけです。

こう言ったお祭り騒ぎはもうウンザリです。もう少しサブスタンスのある話を心から切に願う次第です。サブスタンスのある政治家がいない?

はぁー、確かに。

中川昭一は今回の一件で政治家としては完全に終わりでしょう。おそらくあのバカが表舞台に出てくる事は無い。地元の人達が支持しちゃえば政治家にはなれるかもしれませんが、自民党政権であってもあの人を使うなんて危険を冒すとは思えない。重要なポストには就く事無く窓際に追いやられるのでしょう。あの体たらくをこれだけ国民にすり込んだら、復活のチャンスは無い。

つくづく人間とは、腰を低くして頭を下げて普段から立ち回る事が重要だと思う次第です。ああいう風に政治家の家に生まれたというたったそれだけの事で、自分が特別な存在であるかのように勘違いし、まわりにおだてられてふんぞり返っている事のマヌケぶり、普段からもう少し謙虚さがあれば、あんなに梯子も外されないだろうに。

自分はあの人は嫌いですが、言っている事の中には重要な話も含まれている。例えば核武装を言った事がありました。ああいうプレゼンテーションの仕方は最低だと思いますが、在日米軍を駐留させておいて、核の問題は議論するのもけしからんというのでは賢くなれません。

ちょっと外の圧力で脅威があると狼狽えるお国柄であるわけで、なぜ核武装をしないのか?という事をちゃんと議論しておかないと、なし崩し的に核武装って話が出て来ます。

まあ現実的に出来るか出来ないかと言えば、現状の世界の枠組みから考えればほぼ不可能に近い話ですが、自分は核武装と戦争をするという事は全く別の話だと思いますし、むしろ抑止としては戦争をしない為に核武装をするって選択だってあるわけで、核武装したらオートマティックに戦争になるみたいなバカ左翼みたいな話は勘弁してほしい。そういうお花畑野郎がいるから、中川とか安倍とか麻生みたいなヘタレ右翼が出てくる。

広島や長崎の悲劇を繰り返すなって言うのなら、核を撃たれない為にどうすればいいのかを考える必要があるわけで、普通に考えれば核抑止を使って核攻撃を防ぐというのはそんなにおかしな話ではない。沖縄の悲劇を繰り返すなって言うのなら、敵に上陸されたらマズいわけで、現状では、敵が上陸して来てからいかにして叩くかという事が基本にあるわけで、普通本土に上陸されたらそれは沖縄と同じ状態を意味するわけだから、上陸させない戦略が必要なわけです。

それに一番重要なのは敵が外にいるという脅威を政治に利用されちゃうという事がマズいわけで、それを統治権力に利用させないという意味で考えても、核武装は十分議論するだけでも意味があると思う。

議論もしないでナンセンスだという話こそナンセンスであって、何か脅威があった時に狼狽えたり、政府に利用されたりされない為にも、核武装しないならしないで、なぜそれを国民意志として選択しているのか、いざというときでも狼狽えないぞ、政治に利用させてたまるかという意志の集約が必要だろうと思う。

あの人の振る舞いが最低だったのは確かですが、だから全てナンセンスと言って切って捨ててしまうのは合理的ではない。なぜああいうヘタレ右翼が一定の支持を集めてしまうのか?ネットの中にはあの人を擁護しているバカもいっぱいいます。そういう人が出てくる理由は、あのヘタレ右翼に全部原因があるわけではなくて、それなりに理由があるわけです。その事をちゃんと考えないと、ああいうヘタレを支持するもやし野郎はまだいますので、そういうおバカさんがいる限り、またわけのわからん変な奴が出て来てしまうでしょう。

そして今は小泉路線が不人気なので、出来もしない事を与野党ポピュリズムに媚びて騒いでおりますが、小泉竹中路線というのはアイツらがインチキだったという話なだけであって、事実上流動化を進めないと、パイは分け合えないのが日本の現状である事は確かです。派遣を全部正社員にして、昔の年功序列終身雇用制度には戻れるわけが無い。そういう事を誰も言わなくなっちゃっているというのがもの凄く危険な匂いがする。そこをまたしても小泉に取られたら意味ありません。

麻生政権になった瞬間からずっと終わっていると言って来て、小泉はもう一度総裁選があると睨んでおるぞと言って来て、本当にそんな感じになっております。賢明な選択を望む次第です。

本日はこれにて。
自分は村上春樹さんが大好きです。なので、今回の受賞の際のスピーチはぐっときました。あんた間違いない、男だよ!!

やはり社会に対しては、例え間違っていても、悪いとしても、弱いものの味方でありたい、これは自分も常々思う事であります。が、中々弱いものの悪い所を見つけては、ついつい断罪してしまいたくなる。

弱い立場だからと言って甘えてんじゃねえよと、その人個人に言う事は重要だと思うのですが、それが社会の問題として弱い立場だからと言って甘えてんじゃねえよと言ってしまうと意味が変わってしまう。

弱い立場だからと言って、無垢であるとは限りませんし、絶対的な善の側だとも限らない。矮小で狡猾で悪辣であるかもしれない。だけど社会全体の問題として、弱い立場の人を断罪してしまえば、それは単なる暴力に変じてしまう。排除や抑圧を生んでしまう。暴力の連鎖につながる。個人に説教するのとは意味が変わる。

それはわかっているけれど、凡人にとってはついついアイツらだって無垢じゃねえんだよとか思っちゃう。

それをあの場で言う覚悟。ピーチクパーチク受賞を辞退すべきだとかほざいていた薄っぺらな連中よりも、よっぽどメッセージとして強烈でした。格好よすぎます。





自分は中川昭一が大っ嫌いです。あのヘタレのくせに偉そうな態度。見ているだけで虫酸が走る。だけど先日の会見を見た時、もしかするとこれは病気なんじゃないか?脳梗塞だったりするんじゃねえか?と言う感じで嫌いではあるけれど、一瞬心配してしまいました。


あーあ心配して損した。返せバカ野郎、俺の気持ち!!あんた間違いない、早く辞めちまえ!!政治家として不適格なんだよ!!




と、言いたい所なんですが、自分はあの状態の人間をあの大事な場で会見に出してしまう日本政府の危機管理能力の欠如が絶望的な感じがします。

何の風邪薬を飲んだんだか知りませんが、まあ普通に考えて酒飲んで泥酔していたのでしょう。だけどその事自体はけしからんとは思いますが、たいした話じゃない。

そしてそれがあの場、世界経済がとんでもない状況になっていて、その打開策を各国のお偉いさんが集まって話している場であるという事も重要なんですが、暴論承知でそれもたいした事じゃない。

あの醜態が世界中に配信されて恥さらしであるというのも、それはそうだと思いますが、あんなバカの一人や二人が世界に報じられたからと言ったって、日本人全体の面目が傷つけられたわけじゃない。そう思いたい外国人は勝手に思ってろと思いますし、アイツがアホだという事をさらしただけですので、それもたいした話じゃない。もちろんこれは暴論ですよ。

だけど、あの状態で会見をやらせちゃうまわりの人間の危機管理能力の問題、風邪でダウンしたとか、調子が悪いので休ませたとか、いくらでもいいわけは出来るわけですし、だいたい、あんなパーは単なる飾りに過ぎません。飾りという価値も無いようなゴミですが、日銀の白川とかがいるんだから、サブスタンシャルな話を聞くなら、あのバカの話なんて聞いたって意味がないわけで、別にいなくてもどうって事ない。

にもかかわらず、あんな状態の人間をあの場で出してしまう政府の危機管理はどうなってんだ?という気がする。それが一番重い。ただ酔っぱらっていただけだから良かった(と言っちゃ何ですが)けれど、あれで病気だったらどうすんだよって話です。

まあアルコールの匂いがプンプンして、まわりの人間も病気じゃないとわかっていたのかもしれませんし、談合記者どもも、実はわかっていたのかもしれません。が、だからと言って病気じゃなかったから良かったという話にはならないわけで、未然に防ぐ手立てがあっただろうと思ってしまう。

表には出て来ませんが、ああいった場ですから、まあ何か理不尽な話があって酒でも飲まなきゃやってられねえよという事があったのかもしれません。だから泥酔するまで飲んじゃったのかもしれませんが、だからと言ってそれが正当化されるわけではないというのは100%正しいですし、泥酔は泥酔で問題ですが、問題は泥酔しちゃったという事よりも、泥酔状態の奴を出しちゃったという事の方が重要なんじゃないかと。

ピーチクパーチク、メディアも野党も、あのアホをクビにしろと騒いでおりますが、あんなアホの一人二人クビにするよりも、もっと深刻な問題です。

ああいう馬鹿でも現状の麻生政権のアホっぷり、小泉以降の政治家の発言の軽さが目立っているという事もあって、責任も取らないでしょうし、どうせすぐに国民も忘れるでしょう。だけど、ああいう時の対処の仕方というのは非常に危ういものを感じます。問題はそこが一番重い気がする。ああいう脳味噌の腐ったゴミと一緒にいると、みんな頭が腐るのか?何であんな対応をしたのかが理解出来ません。まわりで止めろよという風に思う。

ここまで与党が不人気になって世論が野党支持に傾いている現在、自分はずっとバカの一つ覚え的に政権交代と喚いて来ましたが、ここまで世論が盛り上がってしまうと、冷や水を浴びせたくなる。つまり与党の擁護の一つもしたくなるのですが、自民党の劣化は想像以上な気がする。批判している連中が何が問題だかわからずに批判しているという問題が先ずあるのですが、中川昭一ごときヘタレ右翼の進退問題よりも、もっと深刻な問題です。危機意識の欠如。

ここまで人気がないのだから危機管理もクソもないのかもしれませんが、自民党ってムカつくけれど、もう少しマシな政党だったような気がする。最近の劣化は酷すぎます。いいところを探そうと思っても無い。

世界的に有名な才能豊かな作家とは言え、一人の個人があれだけ強烈なメッセージを、イスラエルで世界に向けて発信しているのに、かたやローマで日本の政府は何やってんだ?と、絶望的な気持ちになります。

日本で叩かれてもどうせすぐに忘れるし、海外での反応も談合メディアがしらばっくれれば表に出ないとでも思っていたのかもしれませんが、表に出まくっているし、あんなマヌケな会見が何度も何度も流れちゃう。危機意識が無いのでしょう。これだけ経済が落ち込んでいるのに、経済の問題を話し合う場で危機意識が無いんだから、救いようが無い。

社会全体の問題で捉えた場合、どんなに善政を行ない、どんなに正直であったとしても、それが統治権力という強者の問題を語る場合、批判と牽制を忘れてはなりません。個人的にいい人であったとしても、批判と牽制があってこそ民主主義も機能する。彼らは圧倒的な暴力を行使出来る存在であるからです。

だけど今の政府はそういう次元ですらない。批判や牽制をするまでもなく勝手に自爆して支持率一桁です。恐ろしい劣化を感じざるを得ません。

自分も批判をする気も起こりません。散々悪口書いているじゃねえかって?これは批判ではない。罵倒しているだけです。批判するに値しない。

政権交代も確実な感じがしますので、そろそろ民主党への牽制や批判、監視が必要になります。我々はその事にこれから目を光らせねばならない。だけど、自民党があの体たらくでは、牽制の力学が機能しなくなってしまいかねない。中川昭一なんてクズは別にいなくなっても構いませんが、政治の牽制の力学が機能しないとなると暴走を引き起こしかねない。

二つの対照的な海外でのスピーチと会見を見て、一方には喜び、一方には絶望し、つくづく日本って一番の問題は政治家なんでしょうね。選んでる国民?あんなメンツじゃ選びようがありません。まあ村上春樹さんと政治家を比べるのも、村上さんに失礼ですね。そんな事を思った次第です。今日はここまで。
前回の続きです。今日でこのネタも間違いなくフィニッシュです。

さてそうなると仮に市民政治を導入すべき分野だけ導入するとして、前回の問題、市民政治と言うけれど、そこまで我々は賢いのか?という問題にやっぱり降りて来ます。

80年代から正統性の危機が言われるようになって来て、情報化や社会的流動化によって人々が権威を疑うようになってくる。再帰性の増大によって、俺達の伝統とか、俺達の社会の大切な価値みたいなものの合意が出来なくなってくる、疑念を感じるようになる。

教育や啓蒙の問題、制度的な問題と、民度が低い事を良い事に、低いままで管理して搾取するという構造というのが先ずあるので、それは何とかしなきゃならないというのが大前提ですが、仮に何とか出来るとしても、市民性と言うか民主制の限界というのは、小泉の人気、アメリカでのブッシュの911以後の人気、ナチス、ナポレオン、とまあパターンとして、民主的決定によって独裁者を生み出すとか、一番不合理な選択をしてしまうという問題が出てくる。

仮に統治権力が感情の政治をやらずに、市民政治に任せると言ったって、教育しようが啓蒙しようが、やっぱり人間は愚かであり、まして一般市民というのは自分の生活も忙しいわけで、小難しい事を考えているヒマなんて無いわけだし、目先のわかりやすさに飛びついてしまいがちです。

そうなると、例えば統治権力からすると不合理だとわかっているような決定でも市民に任せる事によって、統治権力の批判はかわせても不合理な選択をしてしまえば、自分達が悪いとしたって国民は痛い目に合う。

決定を市民に投げて国家がサポートするつったって、方向性がスットコドッコイであれば、サポートしたってどうにもならない場合だってありえるわけで、そこにはどうしても不安を感じざるを得ない。

それに市民の民主的決定によって自由を放棄し国家の独占的な支配を望むという可能性もあるわけで、統治権力が民主的決定を無視してしまえば、それはリヴァイアサンの暴走と表裏になるし、民主的決定であるが故に、統治権力はそこに従わざるを得ないという矛盾が出てくる。

まあこの場合はウェーバー的に言えば統治権力が時と場合によっては民主的決定や法を無視しても、民主的決定や法を守る事が意味ある社会を護持せよという話になるのでしょうけれど、はたして日本の統治権力がそれを出来るのか?というと、それを望むのは荷が重過ぎるような気がする。それが政治家というものなんでしょうけれど、この国の政治家を見ていると出来そうも無い。

それにこの国の統治権力は己の利権を守る為に民主的決定を利用したり、法を無視したりと、やりたい放題な訳で、そんな統治権力としては風上にもおけないような愚者の群れに期待するだけ無駄だと言える。

論理的にはこうだ、しかし論理的には構築出来ないけれども我々にとってのナチュラルな世界感覚はこうだという事があった場合、論理にコミットするのか、世界感覚にコミットするのかという問題が出てくる。

歴史の出来事を学び、その結果として得た世界感覚を信頼すべきか?それとも我々はその世界感覚を信頼して何度も失敗している。不自然でもロジカルな方を信頼すべきか?しかし不自然でもロジカルな方を信頼しようという決断そのものも世界観から来ている。

そこで思い出されるのがハーバマス=ルーマン論争です。システムの全面化によって生活世界の空洞化、正統性の困難は重大な問題で、ハーバマスは民主制(というか公共圏におけるコミュニケーション)で埋めろと言う。ルーマンは民主制で埋めれば余計不安定になると言う。

もの凄い高度な論争で一応一般的にはルーマンが勝ったと言われています。民主制もコミュニケーションも生活世界も、所詮システムの生成物に過ぎず、生成物はシステムによって規定されている。コミュニケーションによってシステムを批判しようと思っても、そのコミュニケーションそのものがシステムによって規定されている。しかもコミュニケーションは人が介在するわけだから常に不確実性にさらされている。そういうものに頼れば、不確実なんだから可能性が無い事は無いのかもしれませんが、不安定である事は避けられない。不安定になれば益々人々はそれを信頼しなくなる。恣意的じゃないかと思ってしまう。

だけどそうなると、民主制で埋めるという事そのものが不可能だという事になるわけで、かと言って不安定だから民主制を使うなと言っても、じゃあどうするのかと言えば、すでに時代は複雑化し益々正統性の困難な時代になっている。

ハーバマスもシステムそのものを制御する事は不可能であり、それを無理矢理行なえばシステムそのものを破壊する事になりかねない。だから市民社会における公共圏でのコミュニケーションによって形成され承認されるに至った公的意見を法というメディアに転換する事によって行政権力を間接的に制御し、システムから生じる弊害を除去出来る可能性があるだけという事を後に言っています。

現代は益々、公共圏はマスメディアに取って代わられるようになり、情報化によって個へと分断化されてしまった。したがって都度都度、自分にとって切実な問題へのコミットメントによる、ある立ち位置から見た不合理に対しての共感可能性しか無いわけで、その事を越えて連帯が不可能というわけではないにしろ、市民に任せる以上、そこには必ず分断は無くならない。分断が生じていれば、それは奪い合いへと連鎖する。

そうです。市民性、民主主義に任せると言っても、それは不可能な方法であるわけです。突き詰めて考えるとどう転んでも不可能な制度であると。じゃあ市民政治なんて無理な話なんじゃないか?という事になるわけです。散々市民性に投げるしかないとか言いながら、こんな話で申し訳ありませんが、残念ながら、これが現時点での人間の限界であるわけです。と言ってもここからが肝腎。

そこで重要なのがラディカル・デモクラティズムの発想です。民主制は不可能であると。だから諦めろという事じゃなくて、民主制は不可能であるという事を自覚した上で、民主制をいかに機能させるのか?という話です。

不可能だとわかっていると言っても、だからと言ってそれ以外に適当なものも見当たらない。ならば問題点を理解して使いこなすしか無い。矛盾があったって、そんなのどうって事ない。人間なんてみんな矛盾まみれの生き物です。どうせ死ぬわけですから。

民主主義というのはどうしても多数派による少数派の抑圧というのが生まれる。多数派の暴走が不適切な決定を呼び出す可能性がある。だから多数派の決定に対するマイノリティの意義申し立てを重要視する必要がある。

対立しているからと言って敵視するのではなく、対立の無いみんな仲間の状態を目指すわけでもなく、対立を対立のまま認める社会。もちろん暴力でまわりに迷惑をかけたりするんじゃ何とかしなきゃしょうがありませんが、主張をしている限りにおいては、民主制なんて止めちまえと言っている人であっても、それはそれで認める。話を聞いてみる。対立したまま共存する。

意見が絶対に噛み合ない人でも、話してみたり、一緒に遊んだり、飯でも食ったり、酒でものめば(自分はのめませんが)意外といい奴だったりするかもしれないわけで、共同体の決定に従わないと言っていても排除をしない。それはそれで認めて話してみれば、もしかすると何かの気付きがあるかもしれない。お互いに。仮に気付きが無くたって排除だけはしない。これしか方法は無い。

対立を無くすという事は問題を無くすという事とイコールじゃありません。対立が無くて、みんなわかり合ってたら、政治なんて必要ない。誰も参加しない。したがって問題も解決しない。対立があってわかり合えないから、人間の社会から政治が無くならないわけです。政治があるから問題も解決出来る。争いを回避する知恵でもある。絶望的な対立が可視化出来る今だからこそ、逆にチャンスでもある。

そして民主制も不可能だし、正統性を調達する権威も揺らいでいるわけだから、当然可能性のある方法の一つとしては、もう一つ分権化、これしか無い。一つの正統性で統合出来ないんだから、それぞれに任せるしかない。

全体の決定を民主的動員によって決めるとなると一蓮托生で失敗するけれど、分権化していれば、全部が失敗するって事は無い。全てを理解して上から最適な選択をするという事が出来ない時代であるわけだから、全体で一蓮托生で舵を切れば、全体で失敗する可能性がある。

だから分権化すれば、全部失敗という事にはなり難い。必ず成功例が出てくる。そうなるとこの国のメンタリティとしては、平等じゃない!格差だ!!って話になるわけですが、むしろその格差が必要になる。格差をむしろ目的としている。

当然成功した所は、ロールズの正義論じゃありませんが、次は失敗するかもしれないわけですから、失敗した連中なんて知るか!ってわけにはいかない。明日は我が身です。そして失敗した所はなぜ失敗したのかが、格差によって成功例を知れば理解出来る。だからそれを学べば成功出来る。

民主制では全員一致が良い事だという勘違いが起こります。分断は悪い事、奪い合いの連鎖を引き起こすと。しかし対立があるという事が、本当は民主制に取って重要な価値であるわけで、対立が無ければ問題点が見えない。

民主制の問題点は敵を無くそうとする事です。一つは対立の無い社会が善い社会であるとする事、もう一つは敵を排除して対立を無くそうとする事。みんな同じであれば誰も何も学ばなくなる。対立があってわかり合えないから、そこから学ぼうとする。なぜわかり合えないのか考えるようになる。それはわかり合う事や説得する事が重要なんじゃなくて、わかり合えなくとも説得出来なくとも、不満があるという事を認識する事が重要になる。

敵を無くそうとする行為が民主主義をダメにするとなれば、敵は敵のまま対立軸は対立軸のまま、わかり合えなくとも排除せず、いかにしてその不満を中和させるのかという事を考える必要がある。

派遣は自己責任だという人達と、派遣を救うべしという人達が、どちらが正しいかで争うのではなくて、それぞれ自己責任論者と弱者救済論者の意見の対立は対立のままであっても、相互がいかに納得出来るような道を考えるかという事を重視する。

みんな仲間でも、争うという意味でも、それは広い意味では敵の排除になる。どちらも正しいと思っているわけで、どちらが正しいのかが重要なのではなく、お互い自分達が正しい、相手が間違っていると思ったままでもいいから、敵を排除せず納得解を探す。そうなればおのずと選択肢は見えてくる。

民主主義は意見の違う相手の為に何が出来るのかが重要なのです。それは覚悟の問題でもある。それでも永久にわかり合う事は出来ないかもしれない。だけどわかり合えないからわかり合おうと思う事も出来る。わかり合えないという事を認識出来なければわかり合おうと出来ない。

そして分権化によって生じる格差と同じで、個人の格差が生じる事自体は避けられないし、悪い事ではない。それが可視化出来るという事は重要な事です。見えなければ気付かないわけだから是正されるわけが無い。

だけどそれを放置するという事は善くない。自己責任なんだよと思っていても良いけれど、そうじゃないと思っている人達を排除すれば、自分もいつかは排除される。自分の価値が正しいと思っていても排除されたくないのであれば、違う価値も認めなきゃ不公正です。

違う価値を理解出来なくとも認めるとなれば、何をすればいいのかも見えてくる。格差に喘いで生きて行けないような状態は是正しないと、弱者救済を叫んでいる人達と共存出来ない。競争の結果生まれる格差を平等にしろということを言って、自己責任論者を排除してしまえば自己責任論者と共存も出来ない。

意見の対立があっても、同じであれと圧力をかける事も、排除される恐れも無ければ、自分の意見を言う事が出来る。意見が出てくれば問題点を認識出来る。人の意見を聞く事が出来れば、その人の言い分を理解出来るかもしれない。是正したとしても、失敗するかもしれない。だけどまた線を引き直す事も出来る。

安定が誰かの不安定の上に成り立っているのであれば、それは排除と同じです。線を引き直す事によって安定した人を不安定にしてしまうかもしれない。そしたらまたそれを是正すべく線を引き直す。

グローバル化是か非かみたいな話もそうで、現にグローバル化は起こっているし、その状況で是か非か論じても実りが無い。鎖国化出来るわけも無いし、グローバル化によって外貨を稼ぐ事が出来るようになった国もある。だけどだからと言ってグローバル化が問題が無いというわけではない。問題は山ほどある。ならばグローバル化か、アンチグローバル化かという対立軸を止揚して、納得解を導き出さねばならない。

スーザン・ジョージの言うオルタ・グローバライゼーション。グローバル化をむしろ積極的に利用して、グローバル化の生み出す問題点を是正しようという話になる。

グローバル化によって、グローバル化による痛みを感じている人々というのは世界中にいる。ネグリ&ハートで言えば「帝国」、それは帝国主義時代の意味での帝国ではなくて、従来の国家単位の権力ではなく、グローバル化や情報化によって、敵がどこかにいるという類いの権力ではなくて、脱領土化した中心軸を持たない、金融権力、軍産複合体、様々に複雑に絡み合った権力の出現によって、脱領土化した、男であるとか女であるとか、何々人であるとか、子供、老人、移民、難民、亡命者と、労働者も実に多様性を増している。それはマルチチュード、同時に多様性を内包したままでの共感可能性が「帝国」の出現によって可能な時代になった事を意味する。

先進諸国では政治的主体はこのマルチチュードが担っているわけで、多様な人々が共感可能性を持つという事は、これによって連帯の可能性も同時に生まれている事になる。

もちろんそんな甘い話では無いのは間違いありませんが、こういった前提を共有すればハーバマス的なコミュニケーションによってシステムの弊害を除去する事も不可能ではないかもしれない。政治をコントロールする事も民主制も全く希望がないというわけでもない。打開策はある。

ナショナリズムというと、この国では右翼とか国粋主義という感じのネガティブなイメージが付きまといますが、パトリオティズムという意味でのナショナリズム、国家権力に忠誠を誓うという意味ではない、国民や郷土に対する関心やコミットメントという意味でのナショナリズムを、最近は左翼の人達なんかも言うようになっています。

ヨーロッパなんかでも経済的パトリオティズムなんてのが出て来ています。従来の図式ではなく、経済問題にもキチンと立脚したうえでの郷土愛を取り込まないと旧来の左のやり方ではグローバル経済には対処出来ない、食って行けないからです。

国民的な連帯が無いと、問題を是正出来ないし、国家権力にナショナリズムを纂奪されて、安倍晋三的バカ右翼図式では洒落にならない。厳しい環境に叩き込まれている人達が増えて行けば、その受け皿になってしまう。

旧来の思考停止のバカ左翼図式でナショナリズムは良くないとか言っていても、希望が無く寄る辺も無い人々は支えが必要なのも確かなわけで、最近ではそういう事に気付いたのか、上手くナショナリズムに立脚した国民的連帯を左の思想も取り込むようになっています。

同時にそれは危険と表裏でもある。全体主義というのはみんなでそれを望むからそうなるものであって、誰もが善い事をしていると思っていながら道を誤っていくものだからです。その事を見失わなければ、かつてとは違った可能性もあるかもしれません。

安心安全、安定を永続的に求めるというのは個人の理想としては自由だと思いますが、実際にそういう状態というのは、家畜になるのと変わらない。学びも無い、悩みも無い、厄介事も、痛みも、不安も、恐怖も無い、安定を目指すという事はそういう事です。そういう風に困難を取り除き、安定や安全、安心を社会規模で担保しようとする現代社会は、集中治療室の中で、管だらけになって、生命維持装置を付け、呼吸器を付け、植物状態になっている状態と同義の状態を作り出す営みとも言える。

当然我々は生きてるし、もちろん植物状態ではありませんので、どんなに安心安全を求めても欠落を感じる。だから人々は欠落を埋めようと彷徨っている。足りないものは安心や安全では本当は無い。人々を集中治療室から解放しないと、問題の解決にはならないのかもしれません。もっとも、集中治療室から出たくないというのが多くの人々の感覚なのかもしれませんが。

集中治療室から飛び出したくなるような状況にならないと、俺も集中治療室に入れてくれ!!という不毛な奪い合いの連鎖も無くなりません。

不安定や危険があるから、それを取り除こうとするし、対立があって問題点が存在するから、それを是正しようとも思う。不安定や危険が永続するという状態がマズいというだけの話で、そういうものが可視化出来るという事はそれを是正出来るチャンスでもある。しかし可視化に恐れ、排除によって生まれる安定を求め、問題点を見ないで済むきれい事で満足していれば、問題は解決される事無く放置され、やがてそれは我々の社会に刃となってかえってくるでしょう。その時になってからじゃ取り返しがつかない。

とまあそうは言っても壁が多過ぎるので、中々可能性を感じないという人もいるかもしれませんが、少なくとも自己責任、弱者救済でどちらが正しいのかでもめても、何も解決出来ない。それに自己責任だ!なんて言っていられるような状態ではどんどん無くなって来ている。どんどん不景気になっている。なのでこれは非常に痛みを伴ってしまいますが、同時に変われるチャンスでもある。

統治権力の無能さと利権システム、マスメディアの不安を煽る人気主義、そして思考停止的に分断統治に引っかかる市民、このトリニティ状態というのがどうにもならないと絶望するのは簡単ですが、我々が変わればこの不毛な連鎖を逆回転させる事は可能です。

派遣切りの問題で引かれた線から見て行くと、非常に今の時代にとって重要な問題が見えて来ます。マスメディアは相変わらずの救いの無い切り方しかしていませんが、多くの人は派遣の人々の問題も深刻だけど、彼らに配分したからと言ってどうにかなる問題じゃないのではないか?という事を直感的に感じているのではないでしょうか。

同じようにだからと言って自己責任だと言ってしまうのも違和感を感じる。改革だ!というのも、小泉改悪!というのも、何となく一般的な感覚としてはどちらもズレているように感じているのではないかと。

その違和感こそが、現状の問題を打開する一つのきっかけになるのではないかと思います。すでに気付いていないだけで、多くの自己責任論者も、多くの弱者救済論者も、何を批判して、何を成そうとしているのかが迷走しているように見えます。それはそこには答えが無いからです。

最初はちょこっとだけ書こうと思って始まったネタでしたが、あまりにも政治家の反応や、マスメディアの反応がスットコドッコイなので、ついつい長々と書いてしまいました。いつもながら短くまとまらない文章力の無さを反省しながら、この話題はこれにてEN・・・・

の前に、小泉元総理が麻生を批判したとか何とか騒いでおりますね。本気かどうかは知りませんが、問題を自民党内の改革派と改革反対派という所にフォーカスをズラす為の作戦である事は間違いありません。

小泉は政局の鬼です。小沢に対抗出来るのは自民党では彼しかいない。麻生じゃ相手にならない。このままで行けば政権交代確実なわけで、それを阻止する為の布石を打っている。劇場型政治を狙い、与党対野党の対立軸を無効化する作戦です。当たり前ですが自民党内のもめ事なんて何のサブスタンスも無い。まあ引っかかる人もいないと思うのですが。

ネットのニュースしか見ていないので、テレビでどこまでどのように報じているのか詳しくは知りませんが、何となくバカメディアは見事に踊っているに見えます。本当学習能力の無い連中で困ってしまいますが、国民が踊らない事を祈って、このネタはここまでで。