前回の続きです。

権力は頂点で腐敗するという事を西洋的な価値観では学校で真っ先に教えるわけですが、日本の江戸時代のように、権力を牽制する力学が民衆の手に無いにもかかわらず、それほど腐敗しきって圧政を強いるような体制ではなかったというのは(しかも250年)西洋的な政治学では有り得ない話です。

今の権力者に爪のあかを煎じて飲ませたい話ですが、当時の日本の繁栄そして教育の普及、明治時代になぜすぐに近代化出来たのかと言うと、江戸中期以降、すでに近代化を駆動させるだけの豊かさとモラルと教育が普及していたからで、だから開国してあっという間に西洋列強と肩を並べるまでになれたわけで、そのエネルギーはいきなり身に付いたわけじゃない。

そういう事を考えると、今の日本が学ぶべきものがそこにあるような気がする。日本では徳川家康及び、江戸時代への評価がそれほどではない。西郷とか坂本龍馬とか、そのへんと扱いは変わらないと言うかむしろ低い。岡崎の地元に家康の銅像が建っているくらいで、家康の偉大な功績を讃えるような感じは無い。

この国の価値観が近代化の際に何を否定し、何によって作られているのかを示すわかりやすい話ですが、西洋では何といってもこの江戸時代の平和というのが非常に興味深く捉えられている。

そして明治維新にしてもそうですが、革命を行なった主体である武士が自らその既得権を捨て去るという有り得ない決定を受け入れたわけです。そんな話聞いた事無い。それもいきなりその精神が宿ったというわけではない。それはその事がサブズタンシャルであると受け入れたからでもある。そういうものを支える事が出来たメカニズムを見つめ直す必要があるのではないかと思うのです。

エミール・デュルケムによれば、習慣が習慣として機能している間はそれを反省するという事は出来ない。習慣が廃れて初めて反省する事が出来る。日本的エートスが壊れてしまったいま、そのかつてあった日本的エートスを支えていた何ものかが、回らなくなってしまった社会の歯車を動かす鍵になるのではないか?と思います。

モノに欲望しながらあくせく生きる生き方が下らなく感じられるのは、モノにこだわらない生き方があるから、その価値を相対化出来るわけですし、ココロの重要さに気付く事も出来る。しかしココロの問題の中でグルグルループして、ヒューマニズムの中でヒューマニズムを考えていても、全体像は見えない。

ヒューマニズムを肯定するだけではヒューマニズムは肯定出来ない。人が自分一人では自分を肯定出来ないのと同じで、いったんそれを外から眺めてみる為の足場、もしくは外側からの評価を受け止める事が必要なんじゃないかと思います。

それと同時に、これは以前の「反戦平和がただの願望では困る」というエントリーの中で、筑紫徹也氏の話を書いた際にも書いた事なんですが、人を説得する場合、ただ外側からの意見を闇雲にぶつけてみても効果はありません。

小さな政府路線支持者に対して、いかに再配分が必要であるのか、もしくは弱者救済を熱烈に支持している人に対して、経済成長の必要性をぶつけて、ある程度の競争の原理は否定出来ないのだと言う事、要するにその人が信じ込んでいるドグマにカウンターをぶつけてただ単に批判しても、もしくは説得しても話は全く通じない。通じる人なら相対化しているわけで、これこそは絶対的な頭の悪い教条的○○主義者にはならないでしょう。

そういう人に向かって説得するには、例えば弱者救済原理主義者に向かうのであれば、いったん資本主義の問題点、新自由主義的方向性の欺瞞を明らかにし、弱者救済図式を共有して、それはその通りと認める所は認めながら、しかしその弱者の外側にも弱者がいるけれどそれはどうすればいいんだろう?救うには何が必要なんだろう?経済を否定してはたして救えるのだろうか?という風に少しずつ矛盾点を提示して行った方が、上手く行く場合が結構ある。話を聴いてもらえる。

更にそれを押し進めて、お前の新自由主義は全然新自由主義じゃねえよ、甘過ぎるぜ、新自由主義ってそういう事じゃないんだよ、それでは機会の平等をしらばっくれているステークホルダーに利用されているだけだぜ、とか、弱者救済?そんなヌルいやり方じゃ弱者は救えねえよ、それでは単なるガス抜き装置として、搾取する人間に利用されているぞ、本当の弱者救済の奥義はこれこれだ、とか。

疑似新自由主義には真っ当な新自由主義、疑似弱者救済図式には真っ当な弱者救済図式をといった感じで攻めて行った方が近道の場合がある。カウンターパートへの理論武装はしっかりしていたりするものですが、信じるドグマの神髄からの全然足らねえよ甘過ぎるぜという批判には無防備だったりする。これは昨今のヘタレ右翼やバカ左翼図式には非常に効果があると思う。

新自由主義にしろ、弱者救済的リベラリストにしろ、真っ当な考え方はいずれも正しい。どちらが正しいかではなく、バランスと、ある場面ではこっちの方向性、ある場面ではあっちの方向性という話であるわけで、弱者をないがしろにしてでも新自由主義とか、経済システムや経済成長なんてないがしろにして弱者救済とか、そういうのはいずれも間違っている。にもかかわらずこれこそは絶対と吹き上がっている人には、それなりに伝わる言葉じゃないと説得は出来ません。

あえて新自由主義者として、もしくはあえてリベラリストとして振る舞って、頭の凝り固まった教条的○○主義者を説得するほうが上手く行く場合が多々ある。その時にそういうあえて○○主義者ゲームを演じられるのは、その主義や思想を相対化出来ていないと出来ない。相対化するには外部の足場が不可欠です。

そしてこれも絶対に必要不可欠な話ですが、意見の対立や議論を徹底的にやるのはいい事だと思う。しかし対立しっぱなしというのはマズい。説得する価値も無いようなアホもいますけれど、基本的にそれが社会的分断になってしまうのはマズいわけです。なので修復の作業が不可欠でもある。ルサンチマンを持った人をそのまま放置するようでは、社会がどんどん荒んで行ってしまう。

例えばアメリカの大統領選。徹底的に対立し議論し、分裂して鬩ぎあう。あらゆる争点を徹底的にあぶり出して議論する。しかし大統領の就任式にしろ、民主党にしろ共和党にしろ大統領候補が決まった時には、党をあげて修復の作業に努める。アメリカの大統領選というのは4年に一回、架空の南北戦争を繰り返している。又はエリートと反エリート、もしくは右と左に分かれて徹底的に討議している。どちらが正しいのか?と。どちらのアメリカが正統性があるのか?と。憲法と民主主義がそれを担保する。

しかし徹底的に分断して争ったあとは、仲直りの儀式、就任式のようなものによって、大統領が修復の作業をキチンと演説をぶって行なう。それでいったんは結束し直す。オバマの演説なんかはまさにそうだった。オバマは元々敵を設定するよりも、敵味方図式を作り出して分断している奴が敵なのだと言った感じの、非常に賢明なやり方だったと思いますが、やっぱりそれでも分断はあったわけで、それを何とか修復する所から始まる。もちろんそれでも分断は絶対に無くならないし、敵を作り出さなかったが為に、これから必ず線を引く事になるわけですから、必ず線の外側からの不満は出てくるでしょうけれど、今の時点では賢明な演説だったと思います。

ブッシュが最初に大統領になった時、ゴアとの決戦は相当怪しい所があったわけで、正統性も怪しいし、この修復の作業が上手く行かなかった。これが9.11を千載一遇の好機と捉え(陰謀説はわきにおいときましょう)、結束と修復に利用し、アフガンからイラクまで突っ走ってしまった原因にもなっていると思う。なので修復の作業は非常に重要なのです。

しかし日本の政治は基本的に分断、イデオロギーの対立というより、利権の争奪戦、子供の喧嘩です。しかも修復の作業なんて行なう気もないし、人のせいにする事ばっかりです。官僚のせい、与党のせい、野党のせい、と言った感じで。決断する立場の人間が責任を回避し決断をせず、人のせいにする事しか頭に無い。どうすれば選挙で受かるのかばっかりです。具合が悪くなる。政治が上手く機能しないのは官僚のサボタージュのせいじゃなくて、政治家がバカだからです。どんなに官僚が利権に邁進しようが、サボタージュしようが、政治家が決断すればどうにでもなる。

日本は逆に言えば、アメリカのような人種のるつぼではないので、修復の作業がなくとも、同じ日本人というベースは何となくある。だから何となく不満はあっても回っているのかもしれません。が、そろそろそういう前提も壊れて来ているような気がする。分断は埋める事の出来ない対立の溝になりつつあるし、ルサンチマンを抱えてしまった人達は、そこからの出口も無い。

修復と統合は紙一重だとも言えますので、アホがそれをやると単なる統合になり、統合は新たな排除を生み出し、敵を生み出し、こぼれる人を生み出すという可能性があるので危ないというか、日本では政治家がアホしかいないのでそうなる可能性が高いのですが、修復をこのまま放置しておくと、修復出来ない分断になりかねない。

しょうがないので個人個人がなんとかするしか、しばらくは対処法も無いかもしれません。せめて自分のまわりで理不尽な事が起こらないように。

そしてモノにこだわるという事は、それを確保するために必要な金にもこだわるという風にもなるでしょう。これも何となく悪い事であるかのような感じもある。これも大きな問題です。

自分は金に満足しなきゃ働く気にならない(とは言ってもそんなに高額な報酬を望むわけじゃありませんよ、所詮料理人ごときが貰える金額なんてたかがしれている)。だから文句をぶつぶついう前に勤め人の時はとっとと辞めます。これを言うと金に汚い奴と思う人もいるかもしれませんが、金の為に働いているのでそう思われても何とも思わない。ボランティア活動じゃないんだから、貰うもの貰わなきゃ最善を尽くす気にはなれません。

だけど給料が下がる事を恐れ、同じ所にしがみついていながら、金だけじゃない!!的な事を言う輩の方がよっぽど金に汚いように自分には思える。だったら全額寄付でもすりゃいい。だいたい金だけが全てだとは思っている奴なんているのか?って話でもある。金が大切だと思っているというだけで、金だけなんて本気で思っている人がいたらお目にかかりたいもんです。

自分勝手な奴だと思われるかもしれませんが、それでも一つ自分の中にある鉄則があります。それは卑怯な真似は出来る限りすまいという事です。カッコつけているわけじゃありませんよ、マナーです。汚い辞め方はしないという事です。

条件が折り合わなくても、じゃあすぐに引退って話にはならない。この条件じゃ自分には続ける事は出来ませんから、期限を言って下さい、そこまでは最善を尽くしますという事です。もちろん若い頃はケンカして辞めた事もあるので全くやった事が無いとは言えないのですが、相手が困るだろうという事を逆手に取って交渉はしないという事を決めています。

流れ者というのが外道になるかならないかの境目はそこにあると言っていい。ムカついたから辞めると困るだろうから辞めてやれとか、そういう事はしないという鉄則です。まあ社会人のマナーとして当たり前と言えば当たり前の話ですね。別に偉そうに言う事ではない。

これを若い頃から心に決めているので、自分以外の全員の料理人がいきなり団結して辞めちゃった時でも、自分も経営者のやり口はムカツクし、お世話になった先輩にしたがって辞めたいのも山々だし、残れば辛いに決まっているので、一緒に辞めたいのは山々ですが、そういう辞め方というのは自分の美学に合わないので絶対にやらない。

フェアな状態で交渉してそれが受け入れられないときは辞めますが、今辞めたら困るだろうから吹っかけてやれという事をするのは美しくないと思うのです。カッコつけているのかもしれませんが、これはどうにもならない、損しようが失敗しようがやりたくない。金の亡者であり、文句があればがんがん言い、辞めないで下さいと止められても、ハイさようならをして来た流れ者にとって外道ではないと自己満足したい譲れないこだわりであるわけです。損しようが辛い目に叩き込まれようが変えられない。

そんなのは別に自分のつまらないこだわりでしかないので、自慢したいわけでも何でもありませんが、短期的に考えるとそのときはもの凄く不合理な選択をしていると思う。だけどそれが多分信用を勝ち取って長期的に見れば自分へのリターンにもなって来たのではないかと思う。実際その話を聞いてお呼びがかかる事もありましたし。

給料は安いけれど、今この職場は非常に困っているように見える。そして経営者もそうでありながら従業員に対して誠実であろうとしているという場合もあるわけで、そういう時は、損したって休みがなくたって蹴落とすような真似はしませんでした。そういう事がめぐりめぐって評判を獲得して、新たな可能性を開く事もある。

目先の損得勘定や合理性計算だけで動いていないからこそ、後から考えれば長期的に見て合理的になる事もよくある話で、自分はやりませんが長期投資だって、目先の損得勘定を封印出来るからこそ、長期的に見れば莫大なリターンをあげる事も出来る。

要するに何が言いたいのかといいますと、長期的には得になるとしても、その時点はそう思って行動しているわけじゃない。少なくとも自分は、ああバカな決定をしたもんだとか、何で変な所にこだわってるんだ俺、とか、その時点ではそれなりに後悔の心も裏腹で存在する。つまり金が大切だと思っていても、その問題とモラルの無い人間というのはイコールにならないし、金金言っている合理主義者であるからと言っても、時に不合理な選択は取るものなのではないかと思うわけです。

金(モノ)にモチベーションを持つ事と、非道な振る舞いをするという事は全く別の話であるにもかかわらず、何となく串刺し化されているような所がある。金にモチベーションを持っている人と、実際に金持ちも別だと思うし、そういう事とその人が非道かどうかは全く別の話であるにもかかわらず、金金言っている奴は、不誠実で狡い人間であるとか、あれだけ金を溜め込んでいるんだ、非道な振る舞いをしているに違いないとか、変なやっかみ根性みたいな抜け駆け意識が実体をねじ曲げて捉えてしまうような啓蒙や教育が溢れているような気がする。

金にモチベーションを持っているからといっても、だからってオートマティックに人でなしになるわけじゃないという事ぐらい、仕事して金貰っている人なら誰でもわかっていると思う。金が大好きと言うと批判される世の中ですが、金にあくせくするのはつまらないという人は批判されない。自分は金が大切だと思いますが、本当に金だけじゃないと思って生きられる人は凄いと思う。たいしたもんだと思います。だけど金だけじゃないと言っている人から、金が大切だと思っている人に向けてのリスペクトというのは聞いた事無い。

経済成長とか、資本主義とか株式市場とか、そういう価値は大切だと思っている人というのは、自分も含めて比較的、それを否定する人のいい分も一理あると思うので、金にあくせくしないという生き方はその人の自由なわけですから、それはそれでいいと思うし、否定する人もあまりいないと思う。農村でスローライフとか言うのも、別にいいんじゃないかと思う。まあ実際、自分は庭で野菜を結構自給自足しているので、ちょっと甘く見てるんじゃないか?という気はしないでもないですが、個人でそれがいいと思う人は大いにやればいいと思う。

しかし逆はどうかと言うと、別に資本主義とか経済成長とか株式市場といった価値を大切だと思う事や、金にあくせくする生き方をするのは自由であるはずなのに、お前らのせいで台無しだ的なクソミソに否定する人が結構いる。確かにそれで不正をやっている輩をけなすのはわかるのですが、それを資本主義や経済成長、株式市場の問題だとすり替えて、そこに価値を置いている人達全てを否定するかのような言い回しをする輩がいる。

これは何でだろうと思うわけです。別に人がどういう価値観を持っていたって関係ねえじゃねえかと思いますが、俺は金には価値は置かないなんて言っているくせに、仕事はしているし、全額寄付しているってわけでもない。しっかり金にあくせくしているのに、そういう部分を突っ込むと、必要な分だけあればいいんだよとかえってくる。欲しいものも特別無いし、なんて言っているかと思えばしっかり貯金していたりするわけで、欲しいモノが無いのならその分寄付でもしてくれれば、助け合いの社会に貢献出来るはずなのに、何にでも変える事が出来る金というモノをしっかりストックしている。

その必要な分って何?

ライブドアが騒がれたり、村上ファンドが騒がれたり、外資系ファンドをハゲタカと言ってみたり、今回のサブプライムの問題でもそうですが、金だけじゃないとみんな言っていたのに、実際実体経済に回帰して不景気になった今、例えば定額給付金で言えば、たかがそれっぽっちじゃ屁の足しにもならないとか、どうせ消費税で取られるんだろとか、不景気だなんとかしろ!!等々、結局金金、金金社会全体で言っている。要するに誰かが儲かっているのが気に食わないという話でしかなく、俺に分け前をよこせという事が言いたいだけの話で、そういうのは子供の教育上よくない。見透かされる。

金金騒ぐ事が美しくないという事ばかり言いながら実際には美しくない行動をみんなが取ってしまうという事自体を問題にするよりも、モノへの欲望を持ってもそれが優勝劣敗とならないような社会の構築が必要なんじゃないかと思う。もちろんそれには今の統治権力では全く期待出来ないゼロ%ですが、我々側から少しモノの価値を見つめ直す事によって、可能性への糸口になるのではないかという気がします。何といっても統治権力を選べるわけですから。実は牽制のメカニズムはそこにあるわけで、無いわけじゃない。

人間というのは動物と違い、欲望を持つ存在です。欲求というのは満たせば消える。動物は欲求は持っていますが欲望は無い。動物の中で唯一人間だけが欲望する。欲望は欠乏が満たされても消える事が無い。それが知恵を持つという原罪を背負ってしまった人間の業です。

欲求していなくても欲望する事が出来るようにもなる。今はお腹がいっぱいだけれど、明日も腹が減るだろうから、明日の分を多めに確保してストックしておけるようになる。しかし欲望を持っても、人間は欲望を満たさないという選択も出来る。それが自由という価値だといえる。

ダーウィニズム的な適者生存という図式や、ドーキンスの利己的な遺伝子的な図式のように、何か生物学的にあらかじめ決まった道があるかのよう話というのは、人間には本当は当てはまらない。適者じゃなければ社会がそれを補うという選択もあるし、個人的に手を差し伸べる事も出来る。必ずしも遺伝子を残す為だけに振る舞っているわけでもない。

しかしなぜ自由があるのか?と言えば、それは我々が欲望を持っているからだと言える。欲望を否定してしまえば自由も上手く機能しなくなる。欲望があるからそれを満たさないという自由を選択出来る。自由があるから欲望を持ってしまった我々人間が、欲望を暴走させずに済む安全装置になるわけです。だから自由も大切になる。それを自覚する必要があるのではないかと思うわけです。

そして我々人間がなぜ人間になりえたのか?知恵を獲得し、社会性を獲得し、他の動物とは明らかに違う(優れているかどうかはわかりませんが)存在になったのか?それは我々がモノ(道具)を使い、未来を予想してモノ(財)をストックする事を覚えたからでもある。

だから欲求は欲望になり、欲望を満たさずに明日の分を予想してストックするという自由が生まれたわけです。欲望を持っていてもそれを満たさないという自由、欲求からも自由になった。それは非常に重要な事を示していると思う。

本当は物質文明が欲望を加速させるというのはフェイクで、モノを否定し情報化を加速させる事によって、決して形に残らない情報を求めて欲望をブーストさせるのが近代なのかもしれません。もしかすると欲望を制御する鍵は、モノへの欲望にはあるのかもしれない。そんな事を考えたりもするわけです。もちろんモノに煽られるのはよくない事だというのは百も承知なんですが、少しそういうまなざしを持ってモノへの欲望を見直す時期なのかもしれないと思う次第です。

じゃあそのモノへのモチベーションは何で担保するんだよって話に行き着くわけですが、派遣切り問題に立ち返って、モノへのモチベーションを復活させるという事は難しいとは思いますが、何によってモノへのモチベーションを失っているのか?という問題点を見つめ直す事によって、原因を知りそれを取り除く事が先ず重要な気がします。その話はまたしても次回で!!

つづく!!