まだ続きます。
モノにこだわらないという事がいい事であるという言い回しも、ちょっとオーバー・シンプリフィケーションになっちゃっているような所があって、厳密に言うと二つに分かれると思う。
モノへのこだわりを知っているからそれにとらわれず自由であろうとするこだわりの無さと、初めからこだわりもクソもなくただ単に空気を読んでいるだけの自由とはかけ離れたこだわりの無さ、この違いは全然違う。前者は空気を読まずに自由であろうとするこだわりの無さであるとすれば、後者はただ流されているだけの不自由を受け入れている。帰結は同じでも行為態度としては全く真逆です。
モノにこだわるという事は、まわりがなんて言おうが自分は自分の価値にコミットするぜという発想な訳ですから、これも空気を読まずに自由であろうとする方向性なので、まわりの雑念にとらわれずに、こだわらない自由にこだわる生き方と方向性は真逆であっても根本にあるものは同じです。したがってモノにこだわるか否かという分け方よりも、自由であろうとするか不自由を受け入れるのかという分け方の方がスッキリするような気がする。
例えば現在の若者の消費なんかで言うと、音楽なんかはYoutubeやiTunes、iPod、ネット配信などによって、過去のコンテンツがデータベース化されてフラット化し細分化しているのと、アマゾンのランキングなんかにみられるように、本や映画なんかはみんなが見ている(読んでいる)ものを消費する、という一見真逆の消費動向に見えるわけですが、これらには共通点があっていずれもコミュニケーションからかけ離れているというベースがある。だから細分化か?ランキング的な人気主義か?みたいな分け方では本質を見誤る。
コミュニケーションからかけ離れているが故に細分化して趣味がばらけているという事も出来るし、コミュニケーションする手段としての個を確立する為に、あえて個性的であろうとする。コミュニケーションからかけ離れているが故に空気を読んで同じであろうとする。いずれにしても自由であろうとする試みではなくて、自由に投げ出された個がコミュニケーションに包摂されようと不自由を求めている。
しかし自由であろうとする自由であるべきだと思って行動するという事もまた、不自由を己に課す事となるわけで、本当の意味での無自覚な自由というのは無規範になってしまう。自由であろうとする事そのものが不自由ではないのか?じゃあ無規範こそが自由と言えるのか?という矛盾が出てくる。自由である為にはどうあるべきかという事を徹底的に突き詰めて行くと、どうしても矛盾が出てくる。そもそも自由とはどうあるべきかという発想自体矛盾している。
自由は意外と苦しいものです。人間は不思議な物で、毎日忙しく拘束されてる時は、その拘束から解放されたいと願ったり、それを捨て去りたいという衝動に駆られたり、そこまでいかなくても、少しまとまった休みを確保してのんびりしたいとか思う物ですが、実際何も拘束される物がなくなると、何をするべきかいろいろ悩んでしまったりして、忙しくてもヒマでも疎外を感じる。
結局自由とは、不自由がなければ確認できないものなのではないかと思います。不自由とは考えなくてすむ方法なのだろうと。せっかく自由になっても、読書や、音楽、映画鑑賞、友人との時間、結局何かしらの不自由を求めてしまう。この世にあるあらゆるもの、国家、法律、道徳、宗教、戦争、平和、仕事、家庭、消費、恋愛、スポーツ、芸術、その他たくさんの、不自由に囲まれていないと我々は生きていけない。それが我々にアイデンティティーを与えてくれる。
結局不自由を選択する自由があるだけで、本来の意味の自由な状態とはあり得ないのかもしれない。あったとしても楽しい物ではないのでしょう。気が狂うのも不自由の選択の一つです。
俺は自由に生きるのだとどんなに鼻息を荒くしても、結局何かを選択したり、何らかの立ち位置を取った瞬間に、それは不自由を選択する事となる。不自由を選択した瞬間から、そこから自由になる事を夢想し、自由になれば何らかの不自由を求めて彷徨う。人間とは何とも厄介な不条理、矛盾を抱えたものです。
そこで必要となるのは、その矛盾を突破する論理を越えた不条理にどうやって向き合うのか?という発想になるわけで、そこでもこだわりを持つ(こだわらない事をこだわる)というのは意味を持つと思う。こだわりを持つという事は美学的生き方につながる所もある。美学とか言うとキザな言い回しですが、日本的に言うとそれが粋であるか?野暮であるか?ただ単に格好つけるというのともちょっと違って、格好悪いのが格好いいという境地もあり得るし、大勢に罵倒されたとしてもあえて悪者としての役割を引き受けて振る舞う事が美しいという事もあり得る。
もちろんそれは自己満足と紙一重なので、危険は間違いなくあるのですが、ちょっとそういう価値を見直すくらいなら必要な考え方ではないかと感じる。
徹底的に論理的に思考して突き詰めて行っても、人間である以上死ぬ。これは避けられない。所詮、人はどこまでいっても不条理な存在でしかない。その不条理を乗り越える時に必要なモチベーションとなるのが美学ではないかと思う。ようするにそれが合理的なのはわかるけれど、美しくないぜと思えるかどうか。粋じゃねえよ、野暮だぜと思うかどうか。
それは論理が不必要だと言う事ではない。自分を動機付ける為にも、外野の梯子はずしをはねつける為にも徹底的に論理で考えて、最後に残った残余の部分は格好いいと思えるかどうか?美しいかどうか?雑音に対してもそんな事は百も承知だぜと撥ね付ける為にも、論理は必要で、そんな事はわかっているけど、美しくねえよと言えるかどうか。
短期的合理性を追求していても、それがめぐりめぐって合成の誤謬に陥ってしまうとか、部分部分は最適化しているのに全体を見ると不合理な状態になるという事がよくあると書きましたが、人間である以上、やっぱり目先の損得勘定からは簡単には逃れる事は出来ない。合理的だと思えば飛びついてしまう。しかしちょっと待て、それはそうかもしれねえけれど、美しくねえじゃねえかと撥ね付ける事が出来るのは、多分論理では不可能な部分もあると思う。
もちろん賢い人が長期的合理性を計算して論理で突破するという事は可能かもしれませんが、それを多くの人に求めるのは難しい。賢明ではない我々が、目先の損得勘定や論理を撥ね付け、人を説得するのに有効な手段は、美学的かどうか、格好いいかどうかは重要な気がする。それが人にミメーシスを起こし、感染の輪が広がり、ムーブメントを起こす。時代を変える。まあもちろんムーブメントは新たな排除と統合を生むわけですから、堂々巡りなんですが、美学的であるという事が多分統合や不自由、ようするに安全に胡座をかかずに脱構築して行く為のモチベーションにもなると思う。
まあ美学なんて言ってられるのは、余裕があるやつの話であって、実際美学もクソも無いような、尊厳が引きはがれてしまっているような境遇に立っている人に、美学を求めよなんて言えないというのもあるでしょう。だから美学的に生きられるかどうかというのも、結局格差なんだよという話に降りてくるかもしれない。もちろんそれはそうかもしれません。余裕がある人の方が美学的に生きられるかもしれない。
ただこれは余裕と比例しているとは言えない部分もあります。余裕があるのに美しくない輩はいっぱいいますし、余裕が無いけれど、格好いい生き様の人もいる。美学的に生きて、やせ我慢したあげく死んじゃうとか、ハナっから論理もクソもなく、美学を掲げて討ち死に覚悟、玉砕覚悟の独りよがり、もしくは集団的暴走とか、そういう話では行き過ぎ本末転倒だと思いますが(結構この国ではそれが多いから問題なんだというのも事実だとは思います)、何かを判断する時の判断基準に、多少でも合理性の枠の外側から眺めるまなざしを持つ事によって、合理や論理の袋小路を突破する鍵があるような気がする。合成の誤謬を回避するようなまなざしを持つ事が出来るような気がする。
日本人には唯一無二の独特な、世界でも他に類をみない美意識、現実を切る取る感覚がある。だからこそ少し違ったこの国ならではの止揚するまなざしを持つ事だって出来るはずです。
ロゴス(論理)と対比される言葉にミュトスというのがある。これは神話、もしくはロゴスが論証する言葉であり、ミュトスは物語る言葉という風になる。人は昔から神話や物語に感染し、論理だけでは世の中割り切れないという事を遥か昔のギリシャの時代からわかっていた。
エートスを支える概念にエピステーメー(専門的な意見や知識)というのがあります。フーコーによれば、時代知とかメタ知なんて言われる。人はどんなに自由に振る舞っても、時代(メタ構造)から逃れる事が出来ない、しかし時代(歴史)を作るのは人間の力による所もあるわけで、エピステーメーを変化させる事は可能なはずです。
しかし洋服にこだわると言っても、空気を読まず自由に振る舞うと言っても、この時代の日本に暮らしているという事によって、決定的に我々はメタ構造に規定されている。そこからは逃れられない。いきなり紋付袴で仕事場に行ったらみんな驚くだろうし、そんな格好で電車に乗れば、じろじろ見られる。ちょんまげを結うとか、月代を剃るとか、もちろんふざけてやろうと思えば出来ますが、ネタじゃなくて本気でそういう事は出来ない。
どこかの部族がつけている飾りやペイントをほどこして、同じような格好でそのへんをフラフラするという事も出来ない。警察に職質されるでしょう。どんなにそれが彼らにとって格好よくて、イケているとしても、それを理解する事も出来ない。格好いいとかオシャレだとは思えない。
この国の今の時代というメタ構造に我々は規定されている。自由と言ってもその範囲でしかない。だからエピステーメーを根底から覆すという事もまた出来ない。ならば日本という場所に住んでいるというメタ構造にフィットする叡智を過去から学び、同時代性を外部から学ぶという事が重要なんでしょう。
それと同じで、人間は生まれた場所や、生まれた家庭、性別等々、ほぼ殆ど生まれた瞬間にある限界や制約を受け、決定的にその事に規定されてしまう。法律で手の届く範囲での公正さ、制度で担保出来る範囲での機会へのチャンス、どうしてもそれだけでは支えきれない所がある(もちろんこの国のそれはお粗末過ぎて話になりませんが)。論理だけでは越えられない壁を抱えている。
その壁と対峙したとき、論理を越える思考法が多分それに向き合う事を可能にし、場合によってはそれを乗り越えたり、手を差し伸べたり出来るものなのではないかと。
メタ構造に規定されて我々はモラルとかコモンセンスを持っているので、そこからひねり出す美意識だってある程度はそこからは逃れられません。しかし神話の時代からずっと貫かれた人としての変わらぬ美意識というのもあるわけで、それはメタ構造が何であれ、美しいと感じて来たから語り継がれて来たわけです。
メタ構造というのは時代が変われば変わって行く。しかしある種の美意識は変わらないものがある。メタ構造から、ほんの少しだけ自由になる力が、そこにはあるのではないかと思う。だから神話や芸術を必要として来たわけだし、ミュトスがロゴスの対概念として用いられたのではないかと。
モノへのこだわりを本当に取り戻す事が出来れば共同体的結束の復活は可能だと思います。そういう関係性によって承認が得られるようになれれば、絆不足に煽られる必要もなくなる。むしろその共同体から逃れる為に外へ向かって力学が作用する。
とは言うものの、モノの消費は単なる記号の消費へと変容しモノ自体にはすでに神は宿らない現在、もちろん昔のようなモノの輝きは取り戻す事は出来ないでしょうし、情報化の流れは止められない。かつてのような共同体の復活は難しいでしょう。そして資本主義である以上、ある状態とあるべき状態の峻別も不可欠でもある。それに今の日本の状況から考えれば、小さな政府の方向性は不可避だと思いますし、更なる流動化も必要だと思う。
しかし今の日本の有様は西洋的な価値観によって資本主義を駆動させる事ばかりに躍起になっていて、肝腎の日本的エートスみたいなものを支えるのに必要なものがなんであるのかを見失っている。
それは資本主義が悪いわけじゃないし、西洋的な価値観が悪いわけでもない。流動化が悪いわけでも、小さな政府が悪いわけでもない。日本人は日本人に合わせてカスタマイズするのが得意であったはずなのに、それを支えていたものもやっぱり、日本人的モノへのこだわりであったわけで、それも出来なくなって来てしょうがないからただ受け入れて合わせているけれど、それを支える神様もいないし、ネットワークへの信頼みたいなものが生まれるメカニズムが消えている。
何にもなくてスッカラカンだからバカ保守みたいに日本はいい国であるみたいな事をほざくクソが出てくる。道徳だとか喚くスットコドッコイが登場する。
一応補足しておきます。モノという言い方をしていますがそれは目標と置き換えてもいい。一神教的神のいないこの国での行動作法というか選考構造には、どう考えてもココロを推奨してもそれをバックアップするようなメカニズムが成立しようがない。
そうするとモノや目標にこだわる生き方とか、美学的生き方とか、そういうのが無いと何の為のネットワークなのかが明確にならないような気がする。道徳とか倫理とか、そういうべき論ばかりではなくて、何かを欲しいとか成し遂げたいと思う欲望や、格好よく生きたいというモチベーションを上手く否定する事なく利用した方が上手く行くような気がする。今更天皇主義を掲げるよりはよっぽどまともな気がする。
しつこいかもしれませんが、それでもつづく!!
モノにこだわらないという事がいい事であるという言い回しも、ちょっとオーバー・シンプリフィケーションになっちゃっているような所があって、厳密に言うと二つに分かれると思う。
モノへのこだわりを知っているからそれにとらわれず自由であろうとするこだわりの無さと、初めからこだわりもクソもなくただ単に空気を読んでいるだけの自由とはかけ離れたこだわりの無さ、この違いは全然違う。前者は空気を読まずに自由であろうとするこだわりの無さであるとすれば、後者はただ流されているだけの不自由を受け入れている。帰結は同じでも行為態度としては全く真逆です。
モノにこだわるという事は、まわりがなんて言おうが自分は自分の価値にコミットするぜという発想な訳ですから、これも空気を読まずに自由であろうとする方向性なので、まわりの雑念にとらわれずに、こだわらない自由にこだわる生き方と方向性は真逆であっても根本にあるものは同じです。したがってモノにこだわるか否かという分け方よりも、自由であろうとするか不自由を受け入れるのかという分け方の方がスッキリするような気がする。
例えば現在の若者の消費なんかで言うと、音楽なんかはYoutubeやiTunes、iPod、ネット配信などによって、過去のコンテンツがデータベース化されてフラット化し細分化しているのと、アマゾンのランキングなんかにみられるように、本や映画なんかはみんなが見ている(読んでいる)ものを消費する、という一見真逆の消費動向に見えるわけですが、これらには共通点があっていずれもコミュニケーションからかけ離れているというベースがある。だから細分化か?ランキング的な人気主義か?みたいな分け方では本質を見誤る。
コミュニケーションからかけ離れているが故に細分化して趣味がばらけているという事も出来るし、コミュニケーションする手段としての個を確立する為に、あえて個性的であろうとする。コミュニケーションからかけ離れているが故に空気を読んで同じであろうとする。いずれにしても自由であろうとする試みではなくて、自由に投げ出された個がコミュニケーションに包摂されようと不自由を求めている。
しかし自由であろうとする自由であるべきだと思って行動するという事もまた、不自由を己に課す事となるわけで、本当の意味での無自覚な自由というのは無規範になってしまう。自由であろうとする事そのものが不自由ではないのか?じゃあ無規範こそが自由と言えるのか?という矛盾が出てくる。自由である為にはどうあるべきかという事を徹底的に突き詰めて行くと、どうしても矛盾が出てくる。そもそも自由とはどうあるべきかという発想自体矛盾している。
自由は意外と苦しいものです。人間は不思議な物で、毎日忙しく拘束されてる時は、その拘束から解放されたいと願ったり、それを捨て去りたいという衝動に駆られたり、そこまでいかなくても、少しまとまった休みを確保してのんびりしたいとか思う物ですが、実際何も拘束される物がなくなると、何をするべきかいろいろ悩んでしまったりして、忙しくてもヒマでも疎外を感じる。
結局自由とは、不自由がなければ確認できないものなのではないかと思います。不自由とは考えなくてすむ方法なのだろうと。せっかく自由になっても、読書や、音楽、映画鑑賞、友人との時間、結局何かしらの不自由を求めてしまう。この世にあるあらゆるもの、国家、法律、道徳、宗教、戦争、平和、仕事、家庭、消費、恋愛、スポーツ、芸術、その他たくさんの、不自由に囲まれていないと我々は生きていけない。それが我々にアイデンティティーを与えてくれる。
結局不自由を選択する自由があるだけで、本来の意味の自由な状態とはあり得ないのかもしれない。あったとしても楽しい物ではないのでしょう。気が狂うのも不自由の選択の一つです。
俺は自由に生きるのだとどんなに鼻息を荒くしても、結局何かを選択したり、何らかの立ち位置を取った瞬間に、それは不自由を選択する事となる。不自由を選択した瞬間から、そこから自由になる事を夢想し、自由になれば何らかの不自由を求めて彷徨う。人間とは何とも厄介な不条理、矛盾を抱えたものです。
そこで必要となるのは、その矛盾を突破する論理を越えた不条理にどうやって向き合うのか?という発想になるわけで、そこでもこだわりを持つ(こだわらない事をこだわる)というのは意味を持つと思う。こだわりを持つという事は美学的生き方につながる所もある。美学とか言うとキザな言い回しですが、日本的に言うとそれが粋であるか?野暮であるか?ただ単に格好つけるというのともちょっと違って、格好悪いのが格好いいという境地もあり得るし、大勢に罵倒されたとしてもあえて悪者としての役割を引き受けて振る舞う事が美しいという事もあり得る。
もちろんそれは自己満足と紙一重なので、危険は間違いなくあるのですが、ちょっとそういう価値を見直すくらいなら必要な考え方ではないかと感じる。
徹底的に論理的に思考して突き詰めて行っても、人間である以上死ぬ。これは避けられない。所詮、人はどこまでいっても不条理な存在でしかない。その不条理を乗り越える時に必要なモチベーションとなるのが美学ではないかと思う。ようするにそれが合理的なのはわかるけれど、美しくないぜと思えるかどうか。粋じゃねえよ、野暮だぜと思うかどうか。
それは論理が不必要だと言う事ではない。自分を動機付ける為にも、外野の梯子はずしをはねつける為にも徹底的に論理で考えて、最後に残った残余の部分は格好いいと思えるかどうか?美しいかどうか?雑音に対してもそんな事は百も承知だぜと撥ね付ける為にも、論理は必要で、そんな事はわかっているけど、美しくねえよと言えるかどうか。
短期的合理性を追求していても、それがめぐりめぐって合成の誤謬に陥ってしまうとか、部分部分は最適化しているのに全体を見ると不合理な状態になるという事がよくあると書きましたが、人間である以上、やっぱり目先の損得勘定からは簡単には逃れる事は出来ない。合理的だと思えば飛びついてしまう。しかしちょっと待て、それはそうかもしれねえけれど、美しくねえじゃねえかと撥ね付ける事が出来るのは、多分論理では不可能な部分もあると思う。
もちろん賢い人が長期的合理性を計算して論理で突破するという事は可能かもしれませんが、それを多くの人に求めるのは難しい。賢明ではない我々が、目先の損得勘定や論理を撥ね付け、人を説得するのに有効な手段は、美学的かどうか、格好いいかどうかは重要な気がする。それが人にミメーシスを起こし、感染の輪が広がり、ムーブメントを起こす。時代を変える。まあもちろんムーブメントは新たな排除と統合を生むわけですから、堂々巡りなんですが、美学的であるという事が多分統合や不自由、ようするに安全に胡座をかかずに脱構築して行く為のモチベーションにもなると思う。
まあ美学なんて言ってられるのは、余裕があるやつの話であって、実際美学もクソも無いような、尊厳が引きはがれてしまっているような境遇に立っている人に、美学を求めよなんて言えないというのもあるでしょう。だから美学的に生きられるかどうかというのも、結局格差なんだよという話に降りてくるかもしれない。もちろんそれはそうかもしれません。余裕がある人の方が美学的に生きられるかもしれない。
ただこれは余裕と比例しているとは言えない部分もあります。余裕があるのに美しくない輩はいっぱいいますし、余裕が無いけれど、格好いい生き様の人もいる。美学的に生きて、やせ我慢したあげく死んじゃうとか、ハナっから論理もクソもなく、美学を掲げて討ち死に覚悟、玉砕覚悟の独りよがり、もしくは集団的暴走とか、そういう話では行き過ぎ本末転倒だと思いますが(結構この国ではそれが多いから問題なんだというのも事実だとは思います)、何かを判断する時の判断基準に、多少でも合理性の枠の外側から眺めるまなざしを持つ事によって、合理や論理の袋小路を突破する鍵があるような気がする。合成の誤謬を回避するようなまなざしを持つ事が出来るような気がする。
日本人には唯一無二の独特な、世界でも他に類をみない美意識、現実を切る取る感覚がある。だからこそ少し違ったこの国ならではの止揚するまなざしを持つ事だって出来るはずです。
ロゴス(論理)と対比される言葉にミュトスというのがある。これは神話、もしくはロゴスが論証する言葉であり、ミュトスは物語る言葉という風になる。人は昔から神話や物語に感染し、論理だけでは世の中割り切れないという事を遥か昔のギリシャの時代からわかっていた。
エートスを支える概念にエピステーメー(専門的な意見や知識)というのがあります。フーコーによれば、時代知とかメタ知なんて言われる。人はどんなに自由に振る舞っても、時代(メタ構造)から逃れる事が出来ない、しかし時代(歴史)を作るのは人間の力による所もあるわけで、エピステーメーを変化させる事は可能なはずです。
しかし洋服にこだわると言っても、空気を読まず自由に振る舞うと言っても、この時代の日本に暮らしているという事によって、決定的に我々はメタ構造に規定されている。そこからは逃れられない。いきなり紋付袴で仕事場に行ったらみんな驚くだろうし、そんな格好で電車に乗れば、じろじろ見られる。ちょんまげを結うとか、月代を剃るとか、もちろんふざけてやろうと思えば出来ますが、ネタじゃなくて本気でそういう事は出来ない。
どこかの部族がつけている飾りやペイントをほどこして、同じような格好でそのへんをフラフラするという事も出来ない。警察に職質されるでしょう。どんなにそれが彼らにとって格好よくて、イケているとしても、それを理解する事も出来ない。格好いいとかオシャレだとは思えない。
この国の今の時代というメタ構造に我々は規定されている。自由と言ってもその範囲でしかない。だからエピステーメーを根底から覆すという事もまた出来ない。ならば日本という場所に住んでいるというメタ構造にフィットする叡智を過去から学び、同時代性を外部から学ぶという事が重要なんでしょう。
それと同じで、人間は生まれた場所や、生まれた家庭、性別等々、ほぼ殆ど生まれた瞬間にある限界や制約を受け、決定的にその事に規定されてしまう。法律で手の届く範囲での公正さ、制度で担保出来る範囲での機会へのチャンス、どうしてもそれだけでは支えきれない所がある(もちろんこの国のそれはお粗末過ぎて話になりませんが)。論理だけでは越えられない壁を抱えている。
その壁と対峙したとき、論理を越える思考法が多分それに向き合う事を可能にし、場合によってはそれを乗り越えたり、手を差し伸べたり出来るものなのではないかと。
メタ構造に規定されて我々はモラルとかコモンセンスを持っているので、そこからひねり出す美意識だってある程度はそこからは逃れられません。しかし神話の時代からずっと貫かれた人としての変わらぬ美意識というのもあるわけで、それはメタ構造が何であれ、美しいと感じて来たから語り継がれて来たわけです。
メタ構造というのは時代が変われば変わって行く。しかしある種の美意識は変わらないものがある。メタ構造から、ほんの少しだけ自由になる力が、そこにはあるのではないかと思う。だから神話や芸術を必要として来たわけだし、ミュトスがロゴスの対概念として用いられたのではないかと。
モノへのこだわりを本当に取り戻す事が出来れば共同体的結束の復活は可能だと思います。そういう関係性によって承認が得られるようになれれば、絆不足に煽られる必要もなくなる。むしろその共同体から逃れる為に外へ向かって力学が作用する。
とは言うものの、モノの消費は単なる記号の消費へと変容しモノ自体にはすでに神は宿らない現在、もちろん昔のようなモノの輝きは取り戻す事は出来ないでしょうし、情報化の流れは止められない。かつてのような共同体の復活は難しいでしょう。そして資本主義である以上、ある状態とあるべき状態の峻別も不可欠でもある。それに今の日本の状況から考えれば、小さな政府の方向性は不可避だと思いますし、更なる流動化も必要だと思う。
しかし今の日本の有様は西洋的な価値観によって資本主義を駆動させる事ばかりに躍起になっていて、肝腎の日本的エートスみたいなものを支えるのに必要なものがなんであるのかを見失っている。
それは資本主義が悪いわけじゃないし、西洋的な価値観が悪いわけでもない。流動化が悪いわけでも、小さな政府が悪いわけでもない。日本人は日本人に合わせてカスタマイズするのが得意であったはずなのに、それを支えていたものもやっぱり、日本人的モノへのこだわりであったわけで、それも出来なくなって来てしょうがないからただ受け入れて合わせているけれど、それを支える神様もいないし、ネットワークへの信頼みたいなものが生まれるメカニズムが消えている。
何にもなくてスッカラカンだからバカ保守みたいに日本はいい国であるみたいな事をほざくクソが出てくる。道徳だとか喚くスットコドッコイが登場する。
一応補足しておきます。モノという言い方をしていますがそれは目標と置き換えてもいい。一神教的神のいないこの国での行動作法というか選考構造には、どう考えてもココロを推奨してもそれをバックアップするようなメカニズムが成立しようがない。
そうするとモノや目標にこだわる生き方とか、美学的生き方とか、そういうのが無いと何の為のネットワークなのかが明確にならないような気がする。道徳とか倫理とか、そういうべき論ばかりではなくて、何かを欲しいとか成し遂げたいと思う欲望や、格好よく生きたいというモチベーションを上手く否定する事なく利用した方が上手く行くような気がする。今更天皇主義を掲げるよりはよっぽどまともな気がする。
しつこいかもしれませんが、それでもつづく!!