前回の続きです。

競争を煽るのはバカバカしいとは思いますが、それ自体が悪であるわけではない。しかし競争する為にせめてスタートラインをなるべく揃えるような努力を怠るのはマズい。

これは絶対に揃わない。しかしだからしょうがないという話ではない。必ず揃わないけれど揃える努力を怠れば資本主義は資本主義ではなくなる。必ず線を引けばこぼれる人が出てくる。だから絶えずその線を疑い、絶えず線を引き直し、こぼれてしまった人が這い上がれるシステムが必要不可欠です。

競争すれば結果が必ず出ます。だけど競争に負けたらお終いというのでは、いくら何でも行き過ぎです。競争というのは必ず勝ち負けが決まる。死ぬまで勝ち続けるなんて出来ないわけですから、殆どの人がどこかで負けを味わう。それ自体はしょうがない。しかしその時に死んじゃうとか、犯罪を犯すしかないとかまで行ってしまうのを放置するようじゃ、それもやり過ぎです。物事にはほどというものがある。

アメリカでオバマが大統領に選ばれたわけですが、そこにはむしろオバマになる事によって増税される層も支持しています。それはネオコン的な舵取りでは、資本主義のプラットフォームそのものも壊れてしまいかねないとみんなが思ったからです。それが壊れてしまえばそのゲームで勝っているプレイヤーにとっても、不合理な社会になりかねない。結果的に痛い目に合うわけです。

もちろんそれは単なるエゴです。しかしこの国ではエゴ=悪という単純バカが多いので厄介なのですが、利己的である為には利他的でなければ結果的に利己的目的も達成出来ないという事が結構世の中にはあります。

そこを上手く利己的目的にそれぞれが閉じて奪い合い結果的に利己的目的も果たせず自由でもなくなってしまう社会に成り下がらないようにアーキテクチャーを設計する必要があるのですが、設計する人間が利権に邁進し、それをコントロールする輩がバカ、そして国民も利己的な目的を遂げる為に必要なものがなんであるのかを知らず、エゴはけしからんという頭の悪い理想をほざく輩がこんなにいっぱいいる社会であるにもかかわらず抜け駆け合戦に陥る。

当然そこに媚びざるを得ないポピュリズムがメディアのくだらんヒューマニズムなどによってブーストされ、設計者やコントロールする人間もそこに媚びるという、悪しきサーキュレーションとなっています。

エゴであっても設計の仕方や啓蒙の仕方で、それはただのエゴではなくなり、まわりもハッピーになる方法があるにもかかわらず、そういう方向には向かわない。

人間のエゴは簡単には無くならない。多くの人間が俗物であるわけです。大切な身近な人には献身的になれても、知らない他人に同じように振る舞う事は中々出来るもんじゃない。みんなが聖人君子にはなれない。みんなが賢明であるという事は実現不可能な理想です。言うのは別に構わないと思いますが、賢明でなければ切り捨てるというのでは話になりません。

問題はエゴで他人を回復不能な状況にまで傷つけたり、社会が壊れてしまうような状況にまでなってしまうようでは話にならないという事であって、エゴ自体は誰でも持っている。むしろ上手い事インセンティブメカニズムを組み込む事が出来れば、エゴであるからこそ利他的にも振る舞うという社会にもなるわけです。

エゴが悪いわけでも、資本主義が悪いわけでも、市場が悪いわけでもない。インセンティブメカニズムを上手く組み込めない事に問題があるわけです。エゴによって結果的に損していればエゴすらも貫徹出来ないわけですから、それはエゴとは言いません。そういうのは合理性の無い、ただのバカと言います。

エゴを排除すれば社会が上手く行く的な実現不可能な理想論では社会はよくならない。道徳教育が大切だとかほざくバカが総理大臣だった事もありますが、そういうのは不必要だとは言いませんけど、抜け駆け感の蔓延した、エゴがむき出しのエゴのまま社会を切り崩してしまうようなアーキテクチャーのままでそんな事をほざいても、ハッキリ言えば無駄です。道徳や倫理を持つ事によってバカを見るような社会である事が問題なわけで、道徳や倫理を持っていないから問題なんじゃない。道徳や倫理を信じられるような社会でない事が問題なのです。

エゴであるからこそ人はより良い状態になろうと思うわけですし、怠け者であるからこそ合理的に振る舞おうと思い、面倒くさい事をショートカットする為にテクノロジーを編み出して来た。その事自体を否定してもしょうがない。

個人のレベルでエゴを制御し仙人的生き方をするのは別に個人の自由なので、やりたい奴はやればいい。だけどそれを万人が共有するという事は不可能ですし、それを人に強要する事はファシズムと大差ありません。理想はいつでも暴力に変じる危険性がある。教育としてそういう生き方を推奨するのは、別に悪い事ではないとは思いますが、そこに問題の解決は無いという事を自覚する必要があります。

だいたい賢明である方々が賢明であると言っていられるのは、賢明でない方々がいるからに他なりません。賢明でない人が賢明でないままであってくれるから、賢明な人間が賢明であると言えるわけで、相互補完関係でもある。賢明ではない人間を教育して金を貰っている人間の仕事も無くなっちゃうし、賢明ではない人間が例えばプレステのゲームが欲しいとか、車が欲しいとか、洋服が欲しいとか、どうでもいいものを必要以上に欲しいと思う動機を持つから消費が回って経済が動き、真面目に働こうという動機も生まれて経営者も経営者でいられる。みんなが賢くなって奪い合いになれば、賢明な人間が賢明故に享受している分け前は減る事になる。

ちょっと頭がいいとか、金もっているとか、地位をもっているとか、仕事が出来るとか、家柄がいいとか、賢明である側に属する事が出来たからと言ったって、賢明でない人がいなくなれば賢明であると威張っていられなくなる。賢明でない人もいないと困るわけです。みんなが賢明になれば社会が上手く行くというような簡単な話ではないわけです。

そしてこれは異論を感じる人もいるかもしれませんが、競争したくないと思う人が競争しないで依存していても生きられるというのも必要だと思います。そこには病気であったり、家庭の事情であったり、もしくはただ単に競争したくないというだけの話でしかないとしても、何不自由ない生活を保障する必要はないと思いますが、生きて行けずに路頭に迷うしかないというのでは、やっぱりやり過ぎです。

競争しろ!競争しなけりゃ死ね!競争に負けてもやっぱり死ね!これは競争ではない。単なる殺し合いのゲームになってしまう。我々はまがりなりにも文明社会を生きているはずです。働けるのに働かないでクレクレ主義というのでは問題だとは思いますが、最低限出来る範囲でやることやっていれば、せめて死なないでいられるくらいのバッファをみんなで負担しないで、何が社会だと言えるのか。それは共産主義でも何でも無い。むしろ資本主義であるからこそ、尚必要な考え方ではないかと思います。

弱肉強食と言ったって所詮社会というプラットフォームを利用しているから強者は強者でいられるだけの話でしかないわけですから、社会が壊れてしまえば資本主義と言うゲーム自体も壊れてしまう。競争しろよと言うくらいなら別に構いませんが、競争する気になるような社会も同時に保全しなきゃマズい。それは国家を呼び出して何とかしろという言い方だけでは出来ません。我々のコミットメントが重要です。もちろん競争から降りる自由も担保する必要がある。

肝腎なのは競争から降りるにしろ、競争に挑むにしろ、自己決定出来るような状態であるべきであって、自己決定する為には自己決定出来る人間として育ち上がらなければ自己決定も出来ない。自己決定している気になっているだけで、単に搾取されているだけというパターンに陥ってしまっている人間に自己責任だと言っても、自己決定出来るような選択肢があるのか?その選択肢は誰が用意したものなのか?そう言う所にも敏感になる必要がある。

ようするに「三択問題」問題と言うやつです。三つの中から好きなものを選べ、自由だと言われても、何でその三択なのか?誰がその三択を決めているのか?そこで好きなのを選んでもあらかじめ予想出来る範囲でしかなく、自由に振る舞っていると錯覚させて搾取するというパターンです。今のこの国のアーキテクチャーは殆ど全てこのパターンです。

そして自己決定出来る人間として育ち上がっているのか?これも重要な問題です。そういう教育も受ける事なく、選択肢を選ぶ為の知識もない状況で、しかもあらかじめ提示された選択肢を、自分で選択していると思い込まされて搾取されるような状況であってはマズい。

残念ながらこの国の教育は自己決定出来るだけの人間に育ち上がるというよりも、空気を読み服従し、自己決定する為の選択肢も提示されず教育もされないまま、夢を持つ事の重要さや、やりがいの大切さのような美辞麗句を吹き込んで、望めばかなうと自己実現地獄に落とし込んで、本当の自分が何かをする事やどこかに行く事によって見いだせるのではないかと言った感じの、自分探しゲームに叩き込んで搾取するというパターンです。夢を売って自己責任スキーム、レギュラシオンスクール的に言えば消費主義パラダイムと言います。

例えばアメリカの今回のイラク戦争の顛末を見ていますと兵士達は徴兵されて戦争に行っているわけではありませんが、動員された兵士の多くがROTC(Reserve Officers' Training Corps、予備役将校訓練過程)と言って大学に進学するときの奨学金を政府から貰うのと引き換えに予備役として登録して、年に何回か行けば奨学金が出るという制度を利用していた人達が戦争に駆り出された。裕福ではないけれど勉強したいと思っている層が、まさか本当に戦争に駆り出されるとは夢にも思っていなかったのに、戦って人を殺さなきゃならない境遇に叩き込まれた。

ネオリベラルをブーストさせすぎた社会であるが故に学費が高くなってしまっている。そして競争によって格差が固定化し、そこから出る為には教育を受けねばならずその為には高い学費を払わなきゃならない。そういう境遇に追い込まれた人達に救いの手を差し伸べているかのような奨学金の制度によって選択させ、そして戦争に利用する。これで自己責任と言ってしまうのは酷な話です。これは徴兵制では無いかもしれませんが、結果的に徴兵制と同じ効果を得る事が出来て、しかも自己責任に投げ出す事も出来る。

日本では小泉竹中路線がアメリカ追従でネオリベだったみたいな言い方がありますが、この方向性は80年代からすでに始まっていて、どんどんアメリカンプラットフォームを受け入れるしかないという状況に無能な政府のバカ共のおかげで追い込まれ続けて来た。

結果貧困層は増え、戦争を待望するかのような空気もあるし、派遣のように明日をもしれないという状況に放り出して、教育費もアホみたいに高くなっている。そして実際にアメリカの戦争のお手伝いをしている。こういう社会になってしまえば、選択肢を選んでいるという事にどれほどの自由が含まれているのか?この事に非常に気をつけなければ危ない時代になってしまった。単に戦争を待望しているゾーンにいる人間に向かってけしからん、自己責任だろ、と言っていてもどうにもならないようなアーキテクチャーによってどんどん我々は追い込まれている。

昔は一人前に人間を教育し、自分で自己決定して選択し、社会に参加出来るよう育てる事を重要視していたわけですが、ここ20年くらいは日本でも、一人前の人間に育てるというのは面倒くさいしコストもかかるので、一人前でなくとも快不快の感覚さえ持っていれば、自動的にアーキテクチャーに従って、しかも自分で自己決定しているつもりになれるよう、アーキテクチャーそのものをいじくってしまおうという方向性に進んでいます。

ネットが普及する事によって新たなる多様性が生まれるのだなあんて言い方も昔はありましたが、ネット環境が普及するにしたがって、非常にマズい事態が起こっている。それは掲示板でどうたらこうたらとか、匿名でどうたらこうたらみたいなつまんない話ではなくて、計算不可能性が消えて行くという事態です。

ヤフーでもグーグルでも何かを検索するとする。自由に選んでいる。が、しかし検索されて出てくるものというのは、ある程度順番が固定化してくる。そうすると自由に選択している気になっていても、実はみんな同じものを見ているという事態が起こってくる。別にそれなら旧来のマスメディアと同じじゃないかとなるのですが、これがそんなに甘い話ではない。

例えば旅行に行くとする。旅行先で何をしようかと、とりあえずネットで調べるとする。しかしみんながその旅行先で検索した結果が同じものを見ているとすると、みんなが同じ所に行って消費するという事態が起こってくる。これも旧来のマスメディアと同じじゃないかとなるわけですが、肝腎なのは自由に選択していると錯覚させて、実はみんな同じ方向性に動機付けるという事が可能な時代になっているという事です。そして旧来のメディアに比べて、いつでも検索可能で、簡単に情報にアクセス出来る。その事がみんな似たような消費行動になるという事が起こってくる。

旅行とは本来想像したものよりよかったり、もしくはガッカリする事も含めて、予測不能のサプライズがあるから楽しいわけですが、みんな似たような所に行き、しかもその場の評価などが事前にある程度調べつくす事も出来てしまう。そうなると予想通りの展開で予想通りのおもてなしを受け、予想通りの感想を持ち予想通りに満足するという、旅の本来の楽しみであった予測不能というのが消えてしまう。検索によってコントロールされた場所に行き、すべて予想通りに楽しんでかえってくるという風になる。そうなるとそれはもう旅とは言えない。単なるお使いになってしまう。

アマゾンなんかで買い物をすると、ランキングにそってアグリゲートされたものが提示され、自分の過去の購入履歴から勝手にオススメを見せられて、何となくそれを購入する。そこには自由意志が殆ど消えている。本屋に行って本を買うとなれば、パラパラとページをめくり何となく面白そうだと思えば、買う気が無かったものでも自分の自由意志で選択するという機会が結構あったのですが、そういう自由意志みたいなものが、自由意志で選んでいるという気分はそのまま残っているにもかかわらず消えて行くという事態が起こる。

アマゾンのようなもので購入する人が増えると、物理現実の本屋もアマゾンみたいにランキングで書棚を作り、話題の作品や目玉の作品の中身の吟味も無いまま、どこに行っても同じようなものが同じように並んでいるという風になる。そうなると物理現実での自由意志も消えてしまう。自由意志がハナっから無くて当たり前、そういう所でしか買った事が無い世代が増えて行き、それがマジョリティになれば、別にそれで何の問題があるのだ?という風になる。便利さを手に入れていると錯覚して、大切な自由を手放す事に違和感を感じないようになっている。

リスクを回避し、安心安全を喚き散らして、全てを予測可能な方向性にどんどん向かっている。予測可能と言っても限界があるわけで、先の事は誰にもわからないのが当たり前だったのですが、段々アーキテクチャーの様々な部分で、人がそうと気付かぬうちに自由を錯覚させてある方向に動機付けるという事が可能になってくると、みんなを同じ方向性にコントロール出来れば消費のニーズに応えるのも比較的簡単になるし、先を予想しやすくなればあらかじめ人の向かう方向性をコントロールして予測を回避するという方向性になる。しかもあっという間に怒濤の流れを作り出す事が出来るので、そこで反論を喚いても益々無力になって行く。

それでも実際に完璧な予測は不可能ですが、ある程度人々の思考が動いて行く方向性は予想しやすくなっている。昔はシステムが完璧であっても、そこに人間という不確定要素がシステムにとって最大のリスクになる、みたいな話がよくあったわけです。しかし人が愚かであるという事は変わらないというかむしろ劣化しているかもしれませんが、不確定要素が段々消えて来ている。何となく悪い事ではないかのような錯覚を感じますが、コントロールがしやすくなっているというのと、自由が消えているというのは非常に危うい。

安心安全というのは重要な要素だとは思いますが、あんまりその事に固執すると我々が本来持っていた自由が消えて行くという事態が起こってしまう。というかすでに起こっている。しかも情報操作だとか捏造だとか、そんなリスクの高い事をする必要も無ければ、誰かに騙されているとコントロールされている側が気付く事も無い。

そういう事に気付けるようなコントロールは別に恐れる必要は無い。気付かない所で相当そういうものが我々の日常を浸食してしまっているという事が問題なのです。それなりに満足し、気持ちよく日常を送り、別にそれでいいじゃねえか便利なんだしという風になる。

そうなるともう人を動員したり動機付けしたりしてこのコントロールされた不自由から脱出せよなんて言ったって、敵は見えないし、それなりに気持ちがいいし、自由だと思えるし別に面倒くせえよとなる。緩やかな環境管理型のアーキテクチャーによって人々はそれと気付かぬうちにコントロールされ家畜化が更に進んで行く。

今の日本が自由を謳歌したあげく、不自由に縛られ何も出来なくなっている人が増え、不自由をむしろ望む人が増えている顛末を見れば、自由である事の暴力性のようなものに敏感でなければ危険です。人は所詮学ばない生き物であり、愚かな存在であるからと言って、自由だと錯覚させ不自由によって縛るという方向性では本末転倒のような気がする。

小泉の郵政選挙での大勝、そして安倍の参院選惨敗、今の麻生政権のあっという間の墜落と、人々が同じ方向性に一斉に、しかもあっという間に動員されて炎上するという事態がもの凄いスピードで繰り返される。祭り上げ引きづり下ろすというサイクルが延々と繰り返され、そのスピードが従来のマスメディア的な動員なんかとは比べ物にならないくらいのスピードで繰り返される。しかもそれなりに自分で情報を選択し、自由に考えた結果、怒りを感じ、正義感に燃え、間違っていると叫ぶ。が、言っている事がみんな同じコピー&ペースト。

この情報のスピードアップによってバカ左翼が叫ぶような昔ながらの軍国主義的わかりやすい動員というのは事実上不可能なので、そんな事が問題なんじゃない。すぐにバックフラッシュし、格好悪くなるのでそれは今の日本の状態から考えるとそれほど恐れる必要は無い。

情報のサイクルの早さという所にキモがあって、そのせいで肝腎の問題点が見えないうちに、あっという間に次の情報に流されて忘れ去られてしまう。その情報に隠れている問題点を吟味しようなんて面倒くさい話にはならず、情報を隠す為には実に都合のいい環境が整っている。価値のある情報と価値の無い情報が等価に並び、あっという間に過去に流されて行く。情報によって情報が隠されて行く。

したがって同じ事が繰り返される。人は益々学ばなくなる。そうすると人は益々問題点などに興味を持てなくなり、益々諦めの感情が支配するようになる。結果国家に更に依存し何とかしろと叫び、国家は権益をむしろ国民に望まれて好きなだけ増大させる事が出来る。もちろんそれは国民の為とかそういう話には絶対にならない。ポーズだけですぐに忘れてくれるわけだから簡単な話です。

つづく!!