前回の続きです。

そうは言っても大手マスコミの動員はまだまだ力はあるし、拒否権よりも麻生万歳みたいな人もいるし、選挙?興味ありませーん、遊ぶ約束が・・・・みたいな人もいるので、建て前はわかるけれどどうするのさって話になるでしょう。マスコミを無視しろと言ったって、それを本気にしている人を説得するのは難しく、一筋縄じゃいかないのではないか?

確かにじゃあ具体的にどうするんだよと言えば、一気に解決する方法などどこにも無いかのように感じる。が、しかしそんな事は無い、マスコミが本来はたすべき役割というか、何らかの必要があるからマスコミという機能が必要だったわけで、それを我々が補えばいいのです。ネットも含めたマスコミ機能の外部化へと変化した形がマスコミシステムの複合体になっていると書きました。それは我々がそれを補い、解釈し、伝える、コミュニケーションによって補えるものに変化している。というかそもそもそういうものであるのかもしれない。それをずっとやってこなかった。

主権を、拒否権を行使するというのと同じ事です。未分化な社会ではなく、外形的には分化した社会であるにもかかわらず、それが機能しないのは器の問題ではなく中身の問題だと言うのと同じで、機能分化した社会に我々がコミットすればいいのです。それはマスコミシステムを補うのと同じ。信頼を再構築する為の。

人から人へ伝える。一番原始的だけど、これをわかっている人間が伝えて行く。というかこれをサボっているから、社会が機能しなくなっている。本当は我々がはたすべきミドルマンの役割を、マスコミが代わりに担っていた。これが機能しなくなっているのだから、我々がやるべき事をやれば済む話です。今はネットもある事だし、伝える手段は十分あるわけです。

自分の経験で恐縮ですが、職人の仕事に従事する連中というのは、正直言って学の無い奴ばっかりです。おめでたい奴、無関心な奴、説明しても理解出来ない奴、学歴も無く、中学校しか出ていないのもいる。その人個人の人格は別の話ですし、もちろん仕事を覚えるのに学歴は関係ありませんが、学の無さという一点で言えば相対的にお寒い職業では無いかと思います。

大雑把に分けると料理関係に夢を持っている極端にモチベーションが高くてすぐに辞めちゃう子か(もちろん稀に続く子もいますけど)、全くモチベーションはないけれど、結構続くバカ(意外とこういう奴の方が続く)に二分する。特にゆとり教育以降の職人の仕事に来るような子というのは、後者のバカさ加減がただ事ではありません。もちろんだからと言って悪い奴ってわけじゃないし、仕込めばそれなりに一人前にはなりますが、ある程度の論理性と最低限の計算能力が無いと、おいしい料理は作れませんし、在庫管理も出来ませんので、教える方は結構苦労します。

漢字も書けないし、計算も出来ないし、一都六県を言ってみろと言ったら、大分県とか(なぜ?)横浜県とか、大宮県とか(神奈川とか埼玉を言いながらですよ)、滅茶苦茶な答えが返って来て具合が悪くなる事がある。漢字で書けないのではなくて言えない。二分の一足す二分の一を説明するのに、レモンを半分に切って、これが二分の一な、半分と半分を足したらいくつになる?なんて事まで説明しないとわからないおバカさんもいる。0.5と二分の一が同じ意味だという事を説明するのに、どえらい時間がかかったり。総理大臣の名前がわからないくらいでビックリしている場合じゃありません。冗談みたいな話ですが、そういう人達というのが実際にいて、本人達はその事にたいした危機感も感じていません。

麻生が漢字が読めないという問題で叩かれていました。自分もそんな下らない事で何を騒いでんだよと思いました。もっと報じるべき事があるだろうと。しかし実際にテレビを見て喜んでいる連中というのは、こういう信じがたいレベルの人もいるわけで、そういう人達にこの政治家さんをどう思いますか?というフックにするには、そういう問題を取り上げないと、何も考えないのかもしれないと、冗談抜きで思える部分があります。というか、麻生の漢字の読み間違い自体がひょっとするとわかっていないかもしれない。だからそんな事でバカ扱いされているのを見て同情と言うか共感しているかもしれない。そういう人に景気対策とか、公務員制度改革とか報じたって、全く意味がわからないわけで、天下りにしたって、退職金をいっぱい貰っているというくらいでしか釣り針にならない。

だけど、それでもこういった拒否権の問題や政治的な事をある程度わかりやすく説明すると、こりゃ大変だ!!選挙に行かなくちゃ!!という風にある程度説得出来る。民主主義というのは本来そういったものなのでしょう。

分数計算の初歩の初歩がわからなかったり、地名が言えなかったり、選挙なんてどうでもいい!!って思っちゃったりするのは、全部この国のシステムに問題がある。なぜかと言えばバカがいないと世の中回らないから。なぜバカが必要か?バカがいっぱいいれば、騙してネコババして巻き上げる事が出来る。そういう人達が騙されていると気付かないように巧妙に仕組まれている。みんなが賢くなったらそれが出来ない。

国民の権利として愚行権というのがある。それは人に迷惑をかけなければ、一見愚かな振る舞いに見えても他人がとやかく言う筋合いじゃない、本人の勝手という事。だから一日中パチンコに明け暮れるのも、飲み屋のねえちゃんのケツを追いかけるのも、ゲームばっかりやっているのも、携帯ばっかりいじくっているのも、人に迷惑をかけていなければ、人が迷惑だと言わなければ、何をやっても構わないという権利が我々にはある。もちろん説教したり教育したりするのは悪い事ではないし、本人の為を思っての事。だけど最終的には本人に決定権がある。少なくとも成人すればそうなる。

愚かな生き方などけしからんと言いたい人の気持ちはわかるし、言っている事はおそらく正論なんだろうけれど、いくら他人が言ったって、本人がそれでいいというのなら、これはどうにもならない。

煙草は体に悪い事と誰しもわかっちゃいるけれど止められない人がいっぱいいる(昔吸ってたので気持ちはわかります)。同じ部屋でプカプカ吸っているのは、吸わない人にとっては迷惑だけれど、自分の家の自分の部屋で吸う分には、他人がとやかく言う事ではない。どういう害があるのか?という事をわかった上で選択するのなら、その人の自由であると。それは酒もそうだし、何でもそう。法律に違反する事無く、他人に迷惑をかけなければ何をやっても構わない。これが統治権力が守るべき憲法意志に含まれている。

当然バカである事を選んで選択をしているのだから、賢い人との間に出来る格差は受け入れなければらない。羨ましがったり、同じ結果を望むのは間違っている。金儲けを否定するのも間違っている。自分が好きなように生きる権利を行使しているのだから、他人も尊重しなきゃフェアではない。だけどその事をわきまえて受け入れているのであれば、そういうバカがバカなままでも生きて行ける社会、バカであっても極端な損失を被ったり、被害を被ったりしないような社会を護持するのが統治権力の責務。生きて行けないような状況を作り出すようでは、統治権力としての責務を果たしているとは言えない。そしてもちろんバカであると気付いたら、もしくはバカであるという事に嫌気がさしたら、そこから這い上がれるような梯子を準備する事も。

しかしその事を逆手に取って、バカをバカなままでコントロールして動員したり、搾取したり、要するに騙したりネコババしたりしているのが、今の統治権力や一部のステークホルダーであると言ってよい。その事すら気付かせないような仕組みで回っている。普通に学校に行って、普通にテレビを見て育ち、トレンドに右往左往して、自分で自由に選択していると思っても、それは全てコントロール下にある。バカでいるのも悪くないとか、バカだっていいじゃないかと思わせて、しっかり上前をはねている。その事を気付かせない仕組みで回っている。

特に最近は、バカがいるせいでみんなが迷惑すると指をさしたり、政治家は一生懸命頑張っている、問題はバカがいるからだと責任逃れをしたり、自分達でそういうシステムに君臨して変える気もないくせに、そういう事をほざいているのが今の統治権力と言ってよい。またそういう尻馬に乗っかる愚か者もいっぱいいる。人の事をとやかく言える程の賢さなど無いにも関わらず、自分はバカじゃないという確認の為に人に指をさし実存を満たしている下らない生き方がある。

それはなぜかと言えばバカが拒否権を発動しないから。だから自分達の権利を守りたいと思ったら、誰を支持するとかそういう問題じゃなくて、キチンと現状を拒否する権利を行使しないと何も変わらない。と言った感じで。

その人その人によって伝える伝えかたというのがあるわけで、例えばサービス業に従事する人間から見えるのは、今ETC利権による高速道路安売りを翼賛していますが、これだって例えば土日だけというやり方の裏側が全く抜け落ちている。つまり飲食業に従事している人間というのは都市部はともかくとして、基本的にこの恩恵を受ける事はない。高速道路を安く利用して遠出をするというチャンスからは最初から除外されている。元々ETCを装備している人であっても恩恵を受けられない。

忙しくなって儲かるかもしれないけれど、それは一部の観光地はそうでしょう。それだって土日というのはただでさえ人を集め難い上に忙しさが集中する。平日と休日のギャップがもの凄い。つまり平日は人を必要とせず、土日だけは大量に動員する必要があるという状況になる。その都合通りに人は中々集まらないし、やりくりも大変になる。それに使われている立場の人間であればそんな事は基本的に関係ない。

高速道路というのは無料化して、制限を全て取っ払わないと景気対策にはなりません。地元で金使っていたのが、遠出して金使う事に変化するだけでは景気対策にはならない。ある地域が潤っても、そのおかげで別の場所が沈滞すれば景気対策にはなっていない。高速道路が安くなっている分、多少金を使うようになるという事はあるかもしれませんが、これも使う人もいるし、節約する人もいるという話でしかないので、経済効果としてはたいして期待も出来ない。元々の高速道路料金でも遠出をする人はその分金を使うでしょうけれど、ETC利権の恩恵を受けて遠出をする人達は、安くなったから遠出をするわけで、そういう人達はその分金を使うかと言えばあまり期待は出来ません。しかも税金で補填して役人の権益は守っているのですから、何の役にも立たない。一部の人間の為に金をバラまいて票を金で買っている最低の政策だと言える。

輸送コストを下げ、地理的格差を解消する為に高速道路を無料化し、企業を地域に移して損益分岐点を下げるという所までやってはじめて経済効果が見込める。そういう啓蒙こそが重要で、どこそこの高速道路が混んでいるとか、高速道路が安くなってうれしいと叫んでいる一般市民にマイクを向けて、景気対策になるかのように報じる事よりも伝えるべき事がある。こういう報道を見て、おそらくサービス業の人は違和感を感じているに決まっています。そこから切り口にすれば共感可能性は広がる。

先日自分の住んでいる近所をぶらついて信号待ちをしているとき、一件の潰れた店舗がありました。それを見た時に、あれ?ここって何の店だったけ?とツレに聞くと、不二家だったと言われた。そう考えて街を見渡すと、潰れた焼き肉屋だの、シャッター商店街もそうでしょう。消費者利益を散々煽って大店法緩和の世論を惹起したり、安心安全の観点から悪者をクソミソに叩いたりして、散々地獄に送り込んで来た。そういう風に煽られて右往左往する民度も話になりませんが、その先頭で旗を振っているのは常にマスメディアです。

不二家なんかは消費期限切れの牛乳を使ったとか何とかで、血祭りに上げられたわけですが、その前に、ヨーロッパの一部の国では販売する事を禁じられている飲み物である、うんこ入りの超高温殺菌牛乳を義務教育の9年間飲まされているという事をどれだけ多くの日本人が知っているのだろう?これがアレルギーの原因の一つを作っている可能性も指摘されたりしている。

これも役人の利権とマスメディアの広告主への配慮によって、殆ど表に出てこない話です。そういう事を知って選択しているのなら、それは個人の自由と言えるけれど、情報をスクリーニングされて、何も知らない人間が自由に選択していても、それは自由に選択している事とは違う。そういうものの消費期限が1日過ぎたって話で、多くの関係者や従業員を血祭りに上げているという事に対して、どれだけ自覚しているのか?

焼き肉屋だってそうですけれど、今は米国産牛などは平気で売っています。アメリカでの検査というのはヘタレ牛(狂牛病の恐れのある)であっても、電流でショックを与えて、立ち上がった瞬間に検査して検査を通しているという話もある。それが流通している。安い値段で売っている米国産の圧着肉などは繋ぎに牛の牛脂や血を使っている。それがどのような牛によるものなのかは開示されていない。そういうものが平気で流通している。それを考えるとあの大騒ぎは何だったのか?という話になる。結局今になって思えば、みんな平気な顔して、問題が解決したわけでも何でも無いのに米国産牛肉は消費している。牛丼屋で飯を喰っている。小さい焼き肉屋は潰れたけれど、クソマズい、ぞうきん食ってる気分になるようなチェーンの焼き肉屋ばっかりになっちゃった。

安心安全を大騒ぎして地獄に送り込むのはいいけれど、根底の部分でそれって安心安全になっていないんじゃないか?というような何を守ろうとしているのかが意味がわからない、乖離してしまっている。

飛翔体騒ぎも大笑いでしたけれど、北朝鮮にはノドンというミサイルがすでに実戦配備されていて、それが日本に向けられている。しかも核の搭載も可能になっているかもしれないと言われてもいる。通常弾頭が少なくとも100発以上、核弾頭搭載型が可能性として数発のノドンの脅威の方が本当は切実であるはずです。大騒ぎしろとは思いませんが、少なくともテポドンで大騒ぎする前に、日々その脅威に我々はさらされているわけで、テポドンは日本を攻撃するミサイルではないし、日本の安全保障の意味であればとっくに危機であるわけで、頭の上を通過するやもしれないという理由で大騒ぎするのは、何を騒いでいるのかがわからない。もっと重要な危機に日々さらされている。

破片が落ちて来るという理由で、MDを配備しても、そんなものを撃ち落とせるわけが無いし、破片を撃ち落とせたとしても、撃ち落としたその破片も落ちて来るわけで、撃ち落とせなければ迎撃ミサイルがそのままどこかに落下する事になる。破片が増えるだけで、逆に危ないような気もするし、そうすると何を騒いでいるのかよく意味がわからない。

それにミサイルであっても殆ど当たらない。レーダーで追尾する為にイージス艦を配置する合理性はそれなりに理解出来るし、イージス艦に搭載されているSM3であれば、まだ理解出来ますが、これが国内に物々しく配備されたPAC3に関して言えば、テポドンの高度300キロまでは届かない。半径1キロ圏内に飛んで来るミサイルに対してだけ有効な話で、そうであったとしても当たる確率は確率的には低い射程も20キロしかない。丁度真下にいないと迎撃出来ない。

国連の安保理決議を無視しているのが問題だとするのなら、それを無視している連中に対して安保理でどうにかしようとしたってどうにもなるものではないし、まして拘束力の無い、決議ですらないとなれば、一体全体何の為に騒いでいるのかさえわからない。

強行的な姿勢をとるのなら、それなりの考えがあるぜという事を示す必要があるのだとしても、実質対地攻撃能力の無いというか出来ないこの国で、全く効果の無いMDをちらつかせ、強気な発言で吠えても結局は安保理やアメリカ頼みであるという事を宣伝するだけの話でしかないわけで、だったら最初から衛星だって言うのなら勝手にやればと無視をして、その代わり日本に落とすなよ位の事を言うにとどめて、放置しておいた方が何の処方箋も無いという事を宣伝するよりはマシなような気がする。許さない!!と吹き上がるのはいいけれど何も出来ませんというのでは、一体何を騒いでいるのか何をしようとしているのか意味不明です。

強硬路線に対していろいろ意見はあるでしょうし、いろんな議論がありますが、この政府の対応は強硬路線でもない。もちろんその反対でも中間でも何でも無い。大きくズレている。何がしたいのかもわからないし、どこに着地点を求めているのかもわからない。

強硬路線と、強硬路線のパフォーマンスは違います。迎撃出来もしないミサイルで大騒ぎするのは、北の思う壷でしょう。ミサイルと核で脅すくらいしか交渉の手段が無いわけですから、そんな事は無視して、交渉の扉は開けながら、日本に仮に攻撃があった場合は許さんぞという風に思わせれば済む話です。向こうのゲームのルールに従う必要は無い。

この問題も強硬路線と強硬路線懐疑派という分断があって、その中でも強硬路線と強硬路線パフォーマンス、強硬路線懐疑派と強硬路線懐疑パフォーマンス派、その都度その都度によって硬軟織り交ぜながら最適化すべき派、いずれも無意味と日和見主義的ニヒリスト気取りで、ことごとくただナンセンスと斬って捨てる派、そして実際の処方箋の無意味さと、様々なレイヤーで実体との乖離があってその事をマスメディアでは報じる事がもはや出来ない。

百歩譲って国民を安心させるためという意味と、万が一という事もあるし、何の準備もしていないよりは、当たる確率が殆ど無くともゼロではないのだから配備させとこうと思うのは、まあしょうがない。政府としては何もしないという事は叩かれる原因にもなりかねないし、何かしらの対応をする姿勢は見せないと国民が納得しないというのもあるかもしれない。

しかしこれに対して、大騒ぎする報道はキチガイ沙汰です。どちらかと言えば何の準備もしていなかったという事や、無駄だとわかっているけれど、MDを配備していなかったという事が、マスコミが大騒ぎする事によって叩かれる可能性に繋がる。その為に過剰に政府が適応しているようにも見える。

そうすると何の為の政府の対応で、何の為のマスコミ報道なのか?実際の問題点とは大きく乖離した所で、お祭り騒ぎが起こっているように見える。

拉致問題を含めた北朝鮮問題というのは、政府に先ず責任がある。そしてマスコミにも。ずっと拉致問題を放置して来た。この問題が拉致被害者達が日本に帰国した時から、全部北朝鮮の責任にする事によって、政府やマスコミの責任がどこかに消えてしまった。つまり北朝鮮が悪者だ!!という事にしておけば都合のいい連中がいる。拉致を啓蒙するどころかむしろ握りつぶして加担して来た連中がいる。そういう連中から目線を反らす為には、お祭り騒ぎは都合がいいわけです。その為には北がずっと悪者であってくれないと逆に困るでしょう。解決してしまって、素直に北朝鮮が仮に謝罪でもしようものなら(するわけないと思いますけど)、責任の矛先は確実に隠蔽して来た政府やマスコミに向く。そういう行動原理で蠢いている連中がいる事も考えないとマズい。

その事によって冷静な議論を妨げてしまう。強硬路線か、それとも無視するか、それとも多少折れてみるか、その都度その都度、最適な答えを出す事が難しくなってしまう。要するに実体と処方箋が乖離していて、その埋め合わせをすべきマスコミも機能していないので、ポッカリ穴があいている。強硬路線の是非を問う前に、議論の前提を共有出来ていない。そこに楔を打ち込めばいくらでも共感可能性は広がる。その上で是非を問うのなら、どういう方向性に向かうにしろ今よりはマシになるでしょう。

ライブドアの問題も書きましたけれど、あれも会社法の観点から見ると脱法行為をしているとは言えない。だけど証券取引法の観点から見ると違法のようにも見える。つまり同じ法体系の中にありながら、すでに矛盾した法制度を抱えている。この場合、証券取引法を優先するというのが今の所の司法の判断ですので、これはこれで尊重すべき事です。そして日本社会はすでに事後チェック型社会に変化しているという事も考えねばなりません。それを考慮すると、これは以前も書きましたが包括規定適応という話になるので、逆にホリエモンの罪は軽過ぎるという見方も出来る。

株主保護の観点と投資家保護の観点というのは同じようですけれど、実は別の観点で、当時の特捜は株主保護とは言ってません。投資家保護と言っています。これが重要で、すでにライブドア株を持っている株主の保護はハナっから考えていないという事を言っています。株主というのはすでに投資をして株を持っている人、投資家というのはこれから投資をしようとしている人もひっくるめて、将来的にその可能性がある人、国民全てというか外国人投資家まで含まれますので、あらゆる人というと言い過ぎかもしれませんが、その可能性がある人全てと言えるかもしれない。そういう人達が全うな投資を行なう為には、市場の公正さを無視した会社は許さないというのがあの時の検察の論理です。比較すれば明らかに後者の方を優先させるのは当然といえば当然です(しかしその為に行なった介入が、市場全体を機能不全にしましたので、もっと厄介な事態を生み出してますから、その問題は別です)。

そういう観点から言うと、100分割、10、10の一万分割というのも尋常じゃない分割ですし、明らかに需給のギャップによるバランスを崩して株価の高騰をあえて狙ったのではないかという見方も出来るし、仮にあえて狙っていないとは言え、帰結的にそう思われても仕方がない。ましてニッポン放送買収の際にはMSCB(Moving Strike Convertible Bond ムーヴィング・ストライク・コンヴァーティブル・ボンド)=転換価格(下方)修正条項付き転換社債なんてのもありましたから、あれは投資家どころか、株主までバカにするような振る舞いです。

法律に違反していなければそういうのを許していいのか?という問題ももちろんあるし、証券取引法の包括規定適応であれば十分理解は出来る(繰り返しますが、いきなり強制捜査をして、市場を滅茶苦茶にした事に関しては明らかに検察のやり方には問題があるし、勝手に事後チェック型になっていると言われても、そんなの誰も知らないわけで、まして主権者である我々は同意もしていない。したがって恣意性の問題は消えない、適応基準の曖昧さという意味での恣意性も消えない)。あの当時否定肯定入り交じって、あの人は時の人でしたから、社会的影響力も相当なものでした。会社をいきなり上場廃止に追い込むのはどうかと思いますが、検察側の理屈も一定の理解が出来る。

しかし問題は法の乖離があるという事と、いつの間にやら勝手に事後チェック型社会へと変化し、その説明が全く無い政府の責任がまず第一にある。そういう社会になっていると、国民が認識出来ているのか?そして仮にその事を認識出来たとしても、事後チェック型社会に我々が適応しきれていないという問題。要するにお上任せではなく自己責任で生きていないという問題。

このライブドア問題の是非はわきにおいて、そういうポッカリ開いた穴を塞ぐのは、機能分化した社会では我々の役割でもある。マスコミは全くこういった事を説明する気配すらありませんでしたから、我々がそういった事の是非を考えて、どういう社会がいいのか?どういう市場であるべきか?という問題を考えて行かないと、この穴はそのまま権力にとっての恣意性、権益となるだけです。

今、漢検でマスコミが叩いておりますけれど、これも公益法人でありながら、もうけ過ぎみたいな意味の解らない。基準がよくわからない叩きかたというのをわきにおいたとしても、漢検が叩かれる理由は理解出来ますし、マスコミの言い分は一理あります。しかし、それを言うのならマスコミ共の公益性を無視したもうけ過ぎはどうなんだよって話で、大手マスコミの独占構造は公益法人なんてもんじゃない。もっと競争を免除された、特権を手にしているにもかかわらず、その儲けを回して甘い汁を吸いまくっている。その分際でありながらよくもぬけぬけと人の事をもうけ過ぎだのなんだのと叩けるもんです。頭が狂ってんじゃねえかって感じです。これも多くの人が違和感を感じるでしょう。

政治献金問題もそうです。金を貰うのはけしからんというのはいいでしょう。しかし小沢問題が典型的なように、彼の秘書は金を貰っていたからパクられているわけではない。記載の仕方が不適切であるという事でしょっぴかれている。不適切ですら無いのではないか?と思えますが、それをわきにおいても、その事に対して金を貰っているけしからんと叩くわけです。いや、みんな貰ってるから、って話で、それを誤摩化している人もいっぱいいる。むしろ小沢の問題は正直に書いちゃったから叩かれている。そうすると何を騒いでいるのか意味がわからない。

悪い!!というのもいいでしょうけれど、何が悪いのか?それはどのように法律違反であるのかをキチンと説明しないと片手落ちです。道義的責任がある!!というのはいいとしても、法的な問題で違法行為かどうかが先ず問題なのだから、どのような問題があるのかをキチンと検証しないとフェアではない。

違法行為をやっているから道義的問題も生じるわけで、違法行為かどうかわからない場合、少なくとも推定無罪なのですから、道義的責任も生じるわけが無い。献金をもらう事そのものが悪いというのだったら、これは政治家個人の問題というよりも仕組みの問題ですし、献金自体がいい事なのか悪い事なのかこれも判断が難しい。単純には言えない。企業献金を全面禁止にして個人献金だけでやれ、というのはいいけれど、大企業の社長とかお偉いさんだって、個人な訳で、だったら企業名がわかる方が、少なくとも迂回献金だとわかっている方が、可視化できている。それを禁じて、個人献金に切り替えるとなると、もっと見え難くなる。どこから金を貰っていて、どういう政策をやっている、もしくはやろうとしているという事がわかれば、そこから先は国民が判断する事です。検察が違法だと言っているから悪者で道義的責任も生じるというのだったら、マスコミがいる意味が無い。

耐震偽装で大騒ぎした事もありました。しかし建築基準法の問題、耐震性の不徹底の問題と、彼が設計した物件に偽装があったかどうかで安心安全の侵害だって話になって血祭りに上げたわけですが、その基準である建築基準法が何を守っているのか?という問題は殆ど語られない。またそれをバイオレートしたからと言っても、すぐに建物がぶっ壊れるってわけでもないし、基準を下回っている建物なんて腐る程ある。ある部分に基準を厳格に適応して裁く。

何を騒いでいるのか本質から乖離してしまっているような報道が溢れかえっています。その事によっていくらでも共感可能性ある。むしろ増えて来ているような気がする。これを上手く利用しない手は無い。

もう少しつづきます。
前回の続きです。

いつの時代でも民主主義の機能不全に絶望し、民主主義に対してもう沢山と思う民意というのが必ず出て来る。例えば民意がギャースカピーピー喚いていて、政治が前に進まない。国民は政治家に何でもかんでも要求しすぎる。政治家はそういう民意の雑音を無視して政治に取り組むべし、みたいな話です。

今度の衆院選でも、麻生を本気で信じている哀れな連中がいますので、自民政権が続いた場合、すぐに不人気になって、どうしようもない政策を繰り返し、不況は益々深刻になり、官僚は益々増長して天下りやり放題、日本全体を骨までしゃぶりつくすまで止められない。増税の話も出て来るでしょう。そういう事を支持してしまった人達に対して、小泉支持の連中に対してなされた行為と同じ、全くB層のアホどものせいでこっちまで被害を被ってんだよとなる事が予想されます。

また逆に民主党が政権を取ったとしても、麻生程のアホはあんまりいないでしょうけれど、経済政策を任せて大丈夫か?と思えるような、スットコドッコイなことを言っている困った経済オンチもいますから、そう簡単にどうにかなるようには思えないし、官僚達は間違いなく抵抗するだろうし、そもそも民主党にそれを乗り越えるような力技のある人間がそんなにいるとも思えない。官僚のサボタージュにあい、脇の甘い連中も沢山いるので、スキャンダリズムで叩かれて、潔癖性のバカが吹き上がって自爆するような気がする。それは国民だけを言っているのではなくて、民主党にしろ、他の今の野党にしろ、そういう政治家ばかりです。それに、ミンスなんか支持しているバカがいるせいで、反日的な法律が通っちゃったぜみたいな感じで、安倍晋三とか麻生とか中川昭一みたいな売国奴のクズを愛国者と勘違いしている能天気のおバカさんなんかは、おそらく文句を言うでしょうから、こっちもこっちでそう簡単に一筋縄ではいかないでしょう。

しかしいろいろ不満はあるでしょうけれど、民意が反映されて、政党が選ばれて内閣が立ち上がる事に関しては、それを支持した人を攻撃してもしょうがない。だって政治家はちゃんとやると言っているのですから、騙された方が悪いのではなくて、騙す方が悪い、能力が無い奴が悪いのです。支持した連中のせいで俺達まで痛い目に合わされるという感覚が支配すると、こういうバカに投票権を与えても選択する能力が無いのだから民主主義なんて非効率だって話に繋がってしまう。気持ちはわかるけれど危険な発想に繋がります。民主主義に絶望したとき、民主主義は死ぬ。戦前の繰り返しになる。

だからそういう何々を支持したB層、もしくは反日分子という言葉を使って線を引く連中を逆側からの観点で攻撃しても溝は深まるばかりですので、そういう連中が支持している人を支持する権利はあるわけですから、批判はそこではなくあくまでも権力に向けるべきでしょう。変な内閣が出来ちゃって、国民益にとって深刻な絶望的な打撃になってしまったとしても、それは民主主義にとってのコストであって、我々が変える事が出来る権利が残っていれば希望は無くならない。それに今の局面でどちらを支持しても、すぐに効果が望めるような政治が行なえるとも思えません。いずれにせよそんなに簡単な話ではない。

同じく選挙に行かない奴は政治に文句を言う資格は無い。みたいな話もあります。これも気持ちはわかる。だけど国家にとって何が大切なのかという優先順位を間違っている。先ず第一が立憲、統治権力が憲法を守るという事です。次に人権。これは政治からの自由です。そして民主。政治への自由です。民主よりも人権の方が優先される価値です。つまり、選挙に行ける自由よりも、選挙に行かなくても済む自由の方が上位にある。選挙に行かなくても政治に文句を言う権利はあるのです。

もちろん心情的には選挙に行って意志を示さないから、統治権力がツケ上がるんだよと、そういう人が目の前にいれば、説教の一つもするでしょうけれど、説教のレベルを超えて、それが国家国民の義務であるみたいな話になると全然意味が違います。抑圧になる。だからこれも民意にキチンと啓蒙出来ない統治権力、マスコミ、そして教育を問題にした方がいい。そういうバカには選挙権なんて与えるな!!というのは短絡的な発想です。これも民主主義の絶望に繋がってしまう。

民主的な選挙で誰かが選ばれて、その人が無能で腐敗塗れで、日本国民一蓮托生で痛い目に合っても、選んでいる人がいる以上、これは民主主義ですからしょうがない。選んでいる人を攻撃するのではなくて、選ばれているのに責務を果たさない人達(与党政治家)、選ばれてもいないのに民主主義や立憲主義に介入して世論をコントロールしようとする人達(官僚やマスコミ)に対して、怒りを表明すべきであって、次の選挙でこそ民意を示せばよろしい。

民主や立憲を無視する輩が跳梁跋扈しても、主権者が我々である限り、政権交代を起こせば、意見を表明する事が出来る。これは今なぜ政権交代が必要なのかという話と直結します。もちろんそれを投票にいかない事も含めて行使しないのも国民の権利ですので好きにすればよろしい。

自民党がいいとか、民主党がいいとか、そういう話を超越した所に政権交代の意義がある。どちらを選ぶかという状況ではありません。主権者を無視して勝手にやっているのですから、主権者が主権を行使するしか無い。要するに拒否権です。それは変えるという事です。もちろん今の与党体制で十分満足だと思えば、拒否権を行使しない選択肢もある。好きにすればいい。ただ立憲主義というのは主権者にしか拒否権が無い。代議制の場合は政治家達が我々の代わりですので法案を拒否したり、予算を拒否したり(してないですけど)出来るわけです。議会を通じて国家権力をコントロールするには、我々が拒否権を発動させるしか無いのです。

立憲君主国と専制君主国の差は何か?という事を書きましたがそこでも触れたように、君主に拒否権があれば専制君主国になり、拒否権が無ければ立憲君主国になります。それは君主に主権があるから拒否権があって専制君主国になり、君主に主権が無いから拒否権が無い立憲君主国になるわけです。拒否権を行使しないから我々から主権が無くなるのです。だからどちらを選ぶという問題ではもうすでにこの国はどうにもならない状況に立たされている。したがって拒否権を行使し主権者は誰かを思い知らせてやれば民主主義も立憲主義も正常に作動し始めるでしょう。すぐに絶好調というわけには行きませんが、先ずは正常に作動させないと、何をやっても効果がありません。遠回りに見えるかもしれませんが、それが一番近道です。

その可能性が残っていれば十分民主主義は機能するし、牽制にもなる。民主主義や立憲主義を否定すれば、永久に民意を反影させるチャンスを失いかねない選択をする事になる。これだけは回避しなきゃならない。主権を持っているわけでもない官僚やステークホルダーがやりたい放題に振る舞うのは、我々が拒否権を行使しないからです。しかもこの拒否権は選挙でしか行使出来ない。民主主義や立憲主義を無視してやりたい放題やっている連中がいるのに、民主主義で政権を選んでも民主主義が機能しないのだから意味がない。自民党の支持者であっても、自民党の政治家達が機能的に政治を行なう為にも一度は主権がどこにあるのかをハッキリさせないと、主権を侵害して勘違いしている奸賊どもにわからせるにはそれしか無い。官僚組織を機能させる為にもそれは必要です。このままでは何も前に進まない。

前大戦になぜ突っ走って行ったのかと言えば、我々が拒否権を行使しなかった。拒否権を行使してもどうせ変わらないと民主主義を諦めた。むしろ軍部に任せた方が上手く行くのではないか?と、民主主義を捨ててしまった。軍部が独走しようと思っても、我々が拒否権を行使し続けていれば、絶対に回避出来た。あんなにボロクソになるまで続ける事も無かった。

主権を侵害している奴らを黙らせるには拒否権、つまり政権交代しか無い。民主党が何とかしてくれるじゃなくて、あんな連中に期待するだけ無駄です。帰結的に民主党を支持する事にはなりますが、民主党が頼りないとか、民主党が腐敗しているとか、民主党は何をしてくれるのか?ではなくて、重要なのは主権を取り戻す為に拒否権を行使するという事です。これがあれば政治家も役人も我々のコントロール下に置く事が出来る。

そして政権交代が仮に起こったとすると、官僚達のサボタージュが始まる事が予想されますので、すぐに前回の政権交代の時のようにあっという間に元に戻っちゃうと、何も変わらずに元の木阿弥というパターンになるでしょう。それでも政権交代が起こるか起こらないかではだいぶ役人のマインドも変わりますが、権益の配置を入れ替えて、チェックに開かれた仕組みを構築するには、最低でも3回くらいは予算を組ませないと、官僚達は様子を見るでしょう。だから変わった途端にどうにかなるという問題でもない。いったんそれで問題点を全部表に出さないとどうにもなりません。

さすがに3年も下野すれば、自民党の行動作法も変わるでしょう。隠蔽されていた情報が可視化されれば、一巻の終わりである議員もいると思いますので、その間に党内の力関係も変わるでしょう。もう少し、麻生とか安倍みたいなバカを掃除して、保守ならもう少しまともな保守、もちろんこういうバカがお勉強すればいいのですが、まあそれはリベラルでもそうです。インチキ保守やインチキリベラル、この党内のお掃除を上手く行なえば、だいぶ実力もつく。

民主党の舵取りが上手く行けばそれにこした事はありませんが、どうせ100点満点中20点ぐらいでしょうから、その時は今度は民主党に下野してもらって、自民党が再び与党になる。その間に野党に再び落ちた民主党は、力をつけた自民党と渡り合うべく党内を再構築する。4年から8年、だいたい長くても10年に一回位は政権交代が起こる。こういった歯車が回りだせば、だいぶ風通しが良くなるのでは無いかと。そういう環境が整ってはじめて、どこの政党を支持するという要するに政治が機能し始める。この国はまだそこにすら達していない。

どんなに腐敗した政治家であってもそれを支持する人がいるという事を忘れちゃマズい。政治家が政治家として資格があるかどうかはあくまでも主権者である我々が決める事であって、特捜が決める事ではない。ましてマスコミが煽動する事でもない。それはそういう政治家を必要とする人達への抑圧になる。悪質な法律違反があれば当然取り締まってしかるべきですが、法律違反かどうかも怪しいような話で見込み捜査をするなど、余計なお世話なのです。マスコミは善悪を決めるのが仕事でもなければ、違法が合法かを判断する権限も無い。ただ情報開示をすればよし。それ以外の世論操作はナンセンスです。全て無視するべし。マスコミ情報を補完する為にブロガー達は徹底的に炎上させればいい。こういうわきまえていない連中に思い知らせる為にも主権を発動するしか無いのです。

だからどちらを応援するか?どういった政策が重要か?どういった法律が必要か?という問題で鬩ぎあっていても、その前に主権を取り戻さないと始まりません。どんなにいい政治家を選んでも、素晴らしい政党を選んでも、素晴らしい政策があったとしても、主権を侵害する不届きものがいる以上、何もかもが無意味な議論です。逆にムカつく政策があるとか嫌いな議員がいるとか、気持ちはわかるけれど、だから政権交代反対というのでも意味がない。主権が国民に無いのだから、そんな事を言う前にそれを取り戻さないと、我々の選択が反映されません。主権を取り戻すか否かという論点で、論じた方がいいでしょう。

小泉が構造改革と言って拳を振り上げました。しかし構造改革の帰結は多くの人がガッカリした。結局自民党のかつての体質は何も変わらず、役人のコントロール下にあるという事も何も変わっていない。多くの人が森自民党にウンザリして、小泉に希望を感じたわけですが、ガッカリして結局森自民党と同じようなしょうもない内閣が居座っている。なぜかと言えば、我々は拒否権を発動しちゃいない。拒否権を発動したように、小泉に錯覚させられただけです。結局自民党をずっと支持して来た。主権を眠らせたままだった。その為のエサだったわけです。

一番手っ取り早い構造改革は拒否する事、つまり政権交代です。どんなに素晴らしい改革案があったとしても、官僚と政治家が一枚岩であれば出来るわけが無い。そして一人の政治家が拳を振り上げたくらいでどうにかなるものでもない。そもそも小泉にはそんなつもりもハナっから無かったでしょう。彼はポピュリズムを煽って味方に付ける為の彼にとっての最良の選択肢を選択したにすぎない。自民党内のパワーバランスを逆転させ、旧経世会に対する私怨を晴らす為に構造改革という刀を振るったに過ぎない。それはなんだってよかったはずです。そこに理念なんてそもそも無い。

政権交代が普通に当たり前に起こるようになってはじめて我々の主権が機能し、戦後の民主主義がやっと第一歩を歩みだす。第一歩ですから道のりは長い。しかし歩みださないと、前には進まない。誰を選ぶとか、どこの政党が支持出来るとか、そういう問題ではない。先ずはその一歩を歩みださないと、永久にこの構造は変わらない。そしてこの状態を保つ事も出来ない。どんどん落ちて行くのみ。もうすでに多くの人を切り捨てないと回らない社会になっています。

物事が壊れるのは一瞬ですが再構築するのは難しいのと同じで、どこから民主主義が機能しなくなったのか?もしくは機能していなくても上手く社会が回っていたものが、いつから回らなくなったのか?言い方はいろいろあると思いますが、これをどこの時点でとるかは様々でしょうし、いろんな見方があるのだろうと思います。少なくともすでに何年も、もしくは何十年も、もしくは最初の時点から、崩壊の過程が始まっているとすると、崩壊は一瞬なのですから、再構築には長い年月がかかるとするのなら、どんなに短く見積もっても民主主義によって政治を機能させるには云十年かはかかるのではないかと思います。長ければ100年単位。というか民主主義というのはそういうものかもしれません。面倒くさい話ですが、それが一番マシであるのも確かです。

短期的なエサに引っかかって主権を放棄したままであれば、好き勝手にやってもらって構わないと表明しているのと同じです。主権を取り戻したとしても、民主主義である以上、必ず間違える事が付きまとう。後退する事もある。だけど主権さえ手放さなければ、可能性は無くならない。

主権が我々の手にあれば、国家の暴走も主権者が止められる、政策を誤っても正す事が出来る。それは官僚たたきをするのとも違う。主権者の公僕として適切に使う為にも、彼らに分をわきまえさせる必要がある。主権者が我が儘だというのなら、誰も公僕になってくれと頼んじゃいない。成りたくて勝手に成っているのですから辞めりゃいいのです。そしてもちろん主権の重さを自覚する必要もあるでしょう。そんなの面倒くせえよと思って来たから、主権を横取りされて、やりたい放題になっていたわけで、取り戻さないとならないけれど、取り戻す事がどういう暴走の危険性があるのかを自覚出来ないとマズい。

つづく!!
前回の続きです。

本当はこう思っているけれど、例えば共同体の共通前提に従って、ここは話を合わせておこうという振る舞いもそれほど必要ではなくなっている。みんなの共通前提提供の為の今までのマスコミ的なあり方が必要なくなっている。俺にとって気持ちがいい報道じゃないというだけの話で、俺にとってが昔はもう少し範囲が広くて、俺達だったりしたわけです。年齢や性別、職業、収入、住んでいる場所・・・・・・いろいろな共通前提があった。

今は同じ年齢で同じ性別で同じような職業で、同じような収入で、同じような場所に住んでいたとしても、10人いても同じ価値観を共有出来る人がいるとは限らない。優先順位が人によって全然違うし、ものの見方も変わっている。だからネット上のような物理現実に縛られず、年齢、性別、職業、収入に縛られない人間関係をみんなが求めている。そうでもしないと共感が無いからです。だからこれだけ普及する。

今ドラマで人気が出るのはだいたい学園ものだと言います。なぜかと言えば、学校に行っていたという共通前提だけは老若男女かろうじて残っているからです。あとは死をフックにしたお涙頂戴。これは誰でも死ぬからです。まわりの誰かが死ぬと想像すれば誰でも悲しい。バラエティ的なバカを笑うというのもそうで、バカをバカだと思うのは万人共通の価値感です。それにバカだっていいんだもんという風に思いたいというのもある。そういうものしか共感が無くなっている。だからこそ共感を求めて彷徨っている。こういう状況で、万人が満足するようなものを提供しなきゃならないという重荷は物理的に無理な話で、ドラマとかバラエティならまだしも、政治的なものであったり、要するに報道が担って来たものではこれだけ複雑分化した社会では絶対に無理。分化するしか道はない。

それは何を意味するのかというと、昔は法と政治が一緒くたになっていても上手く回っていたのは、我々がそれを信頼していたからです。だけどある時からそれが信頼出来なくなる。そして実際に問題も顕在化している。そういう社会の変化による要望に応えて、法と政治が分化する。これをマスコミのレベルで考えると何を示すのかと言うと、従来のマスコミと今のマスコミで何が変わっているのかと言えば、別に何も変わっちゃいない。だけど昔はそれが機能しているように感じていたとすれば、それは我々がマスコミをある程度信頼していたからです。嘘捏造は昔からのお家芸ですし、翼賛報道もポピュリズムも昔から得意中の得意。

しかし我々はマスコミを信用しなくなった。そういう人が相対的に増えた。テレビや新聞を見なくとも選択肢が増えたという変化によるのかもしれないし、いろいろ理由はあるだろうけれど、昔は100%信用していたわけじゃないにしろ、それほど酷い事はやらない「はず」だと思っていた。信頼をしていた。それが我々の自明性に書き込まれていた。だけど社会の変化によってその自明性が崩れ、マスコミを信用出来なくなった。だからブログやネット上でのコミュニケーションがその穴埋め作用と、マスコミ批判のブログだったり、ネット上でのコミュニケーションだったりが必要となる。しかしそれが何によって支えられているのかを忘れてはマズい。

見方を変えると、マスコミを本気にするというのとバカにするというのは、いずれにせよマスコミを前提にしていると見る事も出来る。本気で信じている人なんていないかもしれないけれど、マスコミなんて嘘ばかりじゃないか、こんな報道をしやがって、あんな報道をしやがって、こんなバカな番組を作りやがってと、例えば自民党支持者にしろ、民主党支持者にしろ、この部分だけは共感可能性がある。という事は要するにマスコミをネタにしてバカにするという風に変わっただけで、共通前提をマスコミが提示していると見る事も出来るし、その共通のネタで盛り上がるという意味では、何も変わっていないようにも見える。マスコミがインチキであるという事をみんなで信頼している。ネットやブログが補完する事によって。その複合体が社会の変化に対応したマスコミの分化と言えるのかもしれない。

そして既存のマスコミの独占構造が壊れて、オルタナティブが出て来たからと言っても、今よりもマシになるかどうかはわからない。マシになるかどうかはわからないけれど、変わる可能性があるというだけです。オルタナティブと言っても、例えばこのアメブロのニュース欄の見出しを見れば中身を読まなくても読む価値があるかどうかは人によってそれぞれですが、とてもじゃないけれど、報道の代わりが務まるような類いのものではありません。オルタナティブと言っても、そういうものが人気を得る場合だってあるわけですから、むしろ劣化するかもしれない。

重要なのはそのポジションが入れ替わるという意味での変化があるだけで、マシになるかどうかはわからない。それも全体的な構図で見れば独占構造が消えてもどこかが勝ち優位にたち、どこかが相対的に負けて劣位にたつ事になるわけで、問題そのものが解決するわけではない。解決出来るとしても競争による一定の淘汰が必要ですから、それには時間がかかるでしょう。

そして競争による淘汰が起これば、勝った所は総取りできるので、独占構造と帰結は同じになります。しょうもないメディアが人気を博して勝ち組になってしまえば、もっと酷い事になるかもしれません。なので常に流動化を維持していかないとどの道腐敗はします。それは流動化をただ押し進めるだけでは優勝劣敗になるので、流動化を健全に保つ為にはある程度の管理と市民によるコミットメントが必要になる。市場の原理と同じです。短期的に見れば変化と言っても既存のマスコミに対するルサンチマンが晴れるという意味しか無い。だから信頼を担保する為に分化して外部化が起こっているのでしょう。従来のマスメディアよりもネット上での言論で情報を吟味している人がもの凄く増えた。ネット上の一部の人たちによる市民性やリテラシーが広がっている。

実際インターネットメディアというのは動画配信サービスなんかをみてもどこもかしこも厳しい状況のようで、GYAOが大赤字でがヤフー動画と統合なんて話もあるし、ヤフー動画自体もあんまり儲かっているようではない。YOU TUBE本体もそれとは比較にならないような大赤字だし、ニコ動も赤字。活字のニュースの配信も実際は大手マスコミがただで流しているから、それをただで流せる。旧来のビジネスモデルの上にオルタナティブも乗っかっているから、現状のネット環境を我々はエンジョイ出来るわけで、そういう意味で分化していると言ってもこの複合体がマスメディアのシフトチェンジした形と言える。

その複合体の一部分である旧来のマスコミだけを問題にしても、旧来のマスコミが旧来のマスコミであってくれるから現状のシステムが回っていると言える。この中、もしくは外部からでも、いずれにせよ流動化が起こって中身が入れ替わったとしても、つまり旧来のマスコミが何らかの形に変化したとしても、全体の大枠での複合体で捉えると何も変わらない可能性は十分あり得る。

旧来のマスコミの構造が壊れれば、当然情報は有料化する可能性が高いので、旧来のマスコミの権益構造がいずれ崩れるのは確実であったとしても、無理矢理しかも急激に壊してしまえば痛い目に合うのは無料で情報をエンジョイしている我々なわけで、複合体としてのマスコミシステムもバランスを失う。だから批判も流動化も当然必要なんですが、旧来のマスコミを叩き潰すという意味ではなくて、システムを正常に作動させる。変化させるとしてもその変化が社会を掘り崩すまで急激に舵を切らないような、システムが正常に作動しなくなるような舵の切り方はしないような感覚がないと、政治や経済や法の執行や様々な分野のシステムに影響を与えて、破壊してしまう可能性がある。

秩序の維持と言うと、犯罪を無くすとか、問題を解決するとか、そういう風に思いがちなんですが、社会の秩序と考えるとき、しかもその主題を犯罪と捉えると、犯罪をゼロにするという事を優先させるよりも、ある一定よりも低い状態に保つという事を優先させて考えないと社会は上手く機能しません。犯罪撲滅と言いますが、本当の意味で犯罪を撲滅するというのは実現不可能な命題です。おそらく歴史上一度も実現された事は無いでしょうし、未来永劫実現もされないでしょう。

犯罪の撲滅を目指して徹底的に取り締まるとか、重罰化によって脅し、ガチガチに監視するとか、そういう事までやってまで秩序を維持するという事を勘違いすると、信頼の穴埋めという補完の意味を越えてしまって、より我々の自明性や自由な領域を破壊する事になりますので、いったんそういう風にしてしまうと、退却不可能な監視社会になってしまう。またそこまで徹底的に取り締まらないと秩序が保たれていないのだとすると、自明性は跡形も無く破壊され尽くしている事になるので、誰も信用出来ない、いつ抜け駆けされるかわからない、常に合意が必要で、満足に外食も出来なくなる。電車にも乗れないし、大丈夫なはずだと思えなくなる。

だから肝腎なのは信頼の穴埋めであって、信頼を掘り崩すまで社会が変化しないようにしないと痛い目に合うのは結局我々になります。犯罪撲滅と言ったような均衡的な秩序維持ではなく、社会の変化に対応しつつ開放系の定常的な秩序維持が重要になる。犯罪をある一定の割合以上は増やさないような。

常に危険だと言えば危険にさらされて入るけれど、そういう事をする奴はまさかいないだろうと思って、合意や監視をスキップしながら社会を営まないと、コストばかりが高くつく。そんな時間もない。非効率になります。いちいち何か食品をスーパーから買って来て、それを検査機関でチェックして、なんて事をやる社会は治安がいい社会であってもまともな社会とは言えません。そしたらその検査機関も信用する為に、外部の第三者機関が、みたいな感じでどこまでいっても穴埋め出来ない。もうすでにそういう社会になるつつありますけれど。

それに社会をむやみに変化させると、必ず意図しない帰結によって自滅するというパターンがある。現代社会はどの道かつてのようなわけにはいかず、必ず社会は変化し続ける。日々変わっています。その事によって常に意図しない帰結が生まれている。もう複雑になりすぎて何が原因かもそう簡単にわからない時代になっちゃった。なんだかよくわからないけど上手く回っているものというのは、システムがそれで上手く作動しているから上手く回っている。そういう自明性が壊れると、それを補うのは簡単な話じゃありません。コストもかかる。

犯罪が起こったり問題が起こったりする事そのものではなく、人が生きていれば病気になるように、それはある程度避けられないものでもある。人が病気になっても治療する手段があったり、病院に誰もが行けたりと、それを手当てする手段があれば社会は上手く回るのと同じで、一定数犯罪が起こっても、それがキチンと取り締まりがあって、適正手続きに基づいた裁判が執行されて、その事によって罰が与えられ、被害にあったご家族の感情的な救済が社会やまわりの人々によってなされ、と言ったように、犯罪が起こってもそれがキチンと処理される仕組みが整っていればシステムは正常に作動する。

これがある一定の数より増えるとか、キチンと処理されないという状態になる事が秩序維持にとって重要な問題で、そういう場合はシステムが正常に作動していないわけだから、何かしらの問題がある。何かしらの問題がある事に気付いて是正出来るのであれば、それもある意味健全であると言える(もちろん日本は健全とは言えないと思いますよ。日本のシステムが正常に作動していないのは、犯罪が一定の数より増えているからという問題よりも、むしろ犯罪が激減しているのに、激減しているという事を国民が知ると、役所の権益も減っちゃうので、減っているという事は言わないで、あたかも増えているかのような錯覚をさせ、それを利用して更に無理矢理減らそうと、もしくは減らしているポーズをとる為に、システムをいじくり回している。だから自明性や信頼は益々破壊されてコストは増え、社会は益々疲弊するという悪循環が起こっている。右手でマッチポンプ的にエントロピー増大にむしろ加担して、左手でエントロピー縮減の縫策を打つ、犯罪という問題を例題的に上げましたが、これはあらゆる分野のあらゆる事に言える事かもしれません)。

そこでマスコミの後付け的な「本来あるべき姿」の話に戻りますが、マスコミは市民社会を護持するため、秩序維持の役割、権力の監視、ということを言う時に、我々はマスコミそのものに、啓蒙とエントロピー増大による秩序の乱れという相反する作用があるにもかかわらず、均衡的な複雑性の縮減、秩序維持の意味も込めて期待してしまっている部分があるのではないかと思えます。でありながら徹底した情報公開も望んでいる。マスコミが何かを報じて、それが何らかの手段によって是正されるのなら、それはシステムが正常に作動していると言えます。つまり複雑性の縮減や秩序維持はマスコミの仕事ではない。秩序が乱れているとすればそれはシステムが正常に作動していないからです。

マスコミが犯罪を報じて、それでシステムが作動し、信頼回復をはたせれば何の問題も無い。マスコミが嘘捏造を行なったとしても、もちろん道義的責任は生じると思いますが、それをネットが糾弾してインチキが白日の下にさらされて、例えば広告主が撤退するなんて話もあったりしますから、マスコミがそれによってサンクションを受ければ、もしくは競争によって淘汰が起こって入れ替えがあれば、それはそれでシステムとしては正常に作動している。

つまりマスコミは本来出来もしない、秩序維持、市民社会護持という役割まで担っていると勝手に勘違いしているのか、我々が期待しているのか、いずれにせよそういう不可能な目的を果たそうとするから、複雑性の縮減の為に嘘捏造をしたり、悪者を徹底的に叩いたり、エントロピーの増大を防ぐ為に、難しい問題を深く突っ込まなかったり、下らないと我々が感じる事しか報じる事が出来なくなっているようにも見える。秩序維持は彼らの仕事ではないし、市民社会を護持するのは市民の役目です。マスコミは単なる道具に過ぎない。

肝腎なのはエントロピーを増やさないのではなくて、マスコミが情報開示してエントロピーが増大しても、システムの定常的な秩序維持によってそれを常に打ち消す事が出来れば何の問題も無い。だから本当はそこを問題にしないと意味がない。

マスコミ自体がシステムの作動を妨げているのであれば、当然それは問題です。独占構造や無駄な高コスト構造なんかはまさにそうでしょう。社会全体のシステムというのは、政治システムだけが機能しても上手く行かず、経済システムだけが機能しても上手く行かない。法システム、科学システム、宗教システムと、相互に前提を供給し合い、影響を受け、秩序を保つ相互依存関係にあるのが社会というシステムです。それが正常に機能する事によって、秩序も維持される。エントロピーも定常に保たれる。

マスコミの対応も、機能不全を起こしているように見えますし、実際にそういう部分は間違いなくあるでしょう。だけど社会はマスコミだけを問題にしても上手く回らない。おそらく様々な政治、経済、法と、あらゆるシステムが機能不全を起こしてシステムを作動させているので、その機能不全のシステムで秩序を維持しようとするから、余計歪みが出ているように感じる。

機械というのは部分部分から組み立てる事が出来ます。その部分だけを取り外して、修理する事も出来る。だけど人体とか有機体というのは部分部分をかき集めても全体にはなりません。脳だけを取り外して修理するという事も出来ない。相互に干渉し合っていて、どこかが機能不全を起こすと全体のシステムが狂って来る。社会というシステムもこれと同じです。

近代以前は政治と法や政治と経済と言ったように、未分化で特権階級が牛耳っていてもそれで社会は回っていた。しかし近代化による社会の変化が起こると、自明性が崩れ信頼の前提が脅かされてしまいます。そうすると、システムの秩序維持の為に機能分化をはたすことによって信頼の穴埋め作用を行なう。機能分化した上で、相互に前提を供給しあう相互依存関係に移行する。

日本は一応機能分化しているので近代化していると外形的には見る事が出来ます。しかし政治と法が癒着し、政治と経済も癒着している。政治と宗教も一致している。と、実情はとてもじゃありませんが機能分化しているとは思えない。しかしこの場合機能分化していないという事を問題にするよりも、機能分化していないのに上手く行っていたのはなぜ?という事を考えた方がいいかもしれない。それは答えは簡単。それでも信頼があって社会が回っていたからです。なぜ問題になったのか?信頼が壊れてそれで社会が回らなくなった、社会が変化しているからです。

日本の近代化というのは、市民から沸き上がって起こったものではなく、下級とは言え武士という特権階級が起こした上からの変化です(サムライジャパンとかちょっと前に騒いでましたけれど、武士は全人口の7%に過ぎません。サムライの国だったというよりサムライがいた国であって、殆どがそれ以外の人達だった。本当は百姓ジャパンの方が日本の全体性という意味で言えば的確でしょう。まあサムライの方が格好よく聞こえるのかもしれませんが)。戦後の再近代化もアメリカが上から変化させた。問題があるから機能分化したわけでは元々無い。だからそれが形骸化するのも必然です。問題が認識出来ていなかったのですから。

マスコミも何も変わっちゃいない。政治家もそう、役人も。そして我々も。社会が変わったから機能していないだけ。したがって処方箋は単純な話で、空洞化した信頼を穴埋めすればよし。政治システムと法システムと経済システムと宗教システムと、それぞれ分化させればよい。マスコミはマスコミの役割、市民は市民の役割と分化すればよい。社会の変化は元には戻らないのだから、道徳だの伝統だのを叫んでもどうにもなりません。こういう事を叫んでオナっている連中は下半身をさらしているのと同じです。実質的な効果は何もないと断言出来ます。したがってこういうバカを徹底的にバカにしましょう。

問題が認識出来るようになったというのは重要な話で、認識出来なけりゃ変化も出来っこない。そこで、これを逆回転させる為にはシンプルに原則に立ち返って考える必要があるという問題に移ります。問題がわかっていて、この国は我々が主権者なんですから、本当は簡単な話です。

機能分化は制度的には整っている。問題は制度があるにもかかわらず、中身がそれについて行けていない。未分化な社会、近代以前の中身のままである事が問題な訳です。制度が整っていない、もしくはそれを整える手段が無いというのなら、分厚い壁が阻んでいると言う事になるわけですが、そういう障害は本当は取り除かれている。取り除かれているのに、我々のマインドがそこに適応していないが為に、やりたい放題にしている連中がいるわけです。機能分化した社会に我々が対応すればいいだけの話なのです。

法と法以外の問題をキチンと峻別出来ないとか、政治が全く機能していないのに、どこの政党を選ぶかでもめていたり、金を稼がないと食って行けないのに、経済の問題に鈍感だったり、物事の優先順位を考えなかったり、ノドンが実戦配備されていて核弾頭も搭載出来る状態かもしれないのに、日本には破片が落ちるかもしれないという比較的どうでもいい話のテポドンにお祭り騒ぎをしたり、それに対してMDなんかが効果があると、まるで迎撃出来るかのように思っていたり、勘違いを正して、対応すればいいだけなのです。

つづく!!