前回の続きです。
問題が無いうちは社会が分化していなくても政治が機能していれば上手く回るとか、道徳や伝統がコンペンセート出来たのですが、これが市民革命や産業革命によって流動化してしまうと道徳や伝統が空洞化するので法がそのコンペンセーションの役回りとなり、次第に更に政治と法がより分化するように、要するになんだか知らないけれど上手く回っていたものが、社会が変化する事によって上手く行かなくなる。秩序が壊れてしまう。そうすると、社会は分化して秩序維持の方向へ行く。そのことによって人も今までの考え方では社会に対応出来なくなるので、人もゲマインシャフト(共同体)からゲゼルシャフト(市民社会)へと共同体に埋没する事の無い主体へと変化、市民化する。
何も近代化がいい事だなんて言うつもりはありません。共同体が空洞化したり、伝統や道徳や権威がスポイルされてしまったりと、社会の変化が早いと人はそれに簡単にはついて行けない。だからアノミー化したり、疎外を感じてしまったりする。道徳や伝統や権威が機能して回るのならそれにこした事は無いし、あれをやっちゃダメこれをやっちゃダメなんて、ガキじゃあるまいしいちいち法律で事細かく記すなんて事をしなくても善意を信頼出来る社会の方がどちらかと言えば健全かもしれない。しかしこの流れは簡単には抗う事が出来ないので、秩序維持のためには社会の分化は必要になるし、人権のような価値や様々な機能分化による補完によって市民化(自立)する為のメカニズムが出来上がる。
オレオレ詐欺なんて社会に全く無い頃はもちろん何の問題も無い。しかしちらほらそういう問題が表面化すると、オレオレ詐欺の存在を我々は知る。だけどそれがたいした数がないうちは、オレオレ詐欺があるのは知っているけれど、そういう目にはあわないだろうと思って社会を営める。これがもう少し増えて来ると、オレオレ詐欺が最近流行っているらしいけれど、そういう事は道徳的に善くない行いだ、オレオレ詐欺など止めるべきであるという風に、認識が変わる。被害があちらこちらで顕在化し、近所のおばあちゃんが被害にあっちゃったなんて話を聞いたりすると、このまま放置しておくわけにはいかない状態だとみんなが思い始める。そうするとそれを取り締まるべく法が強化される。
これは実際に事件が増えているからそうなる場合ももちろんありますが、例えば今、治安が悪くなっているというのも嘘だし、犯罪も増えていないし、凶悪化もしていない。むしろ減っていて、人類の歴史上、一番犯罪からは安全な時代に(少なくとも日本は)なっているにもかかわらず、それに対処するべく人々が騒ぐという事があります。その世論に後押しされて、もちろんマッチポンプが殆どなんですが、制度が出来たり、対策が出来たりする。なんでそういうものを後押しするのかと言えば我々がその事を知るからでもある。
オレオレ詐欺を行なうような輩がなぜ出現したのかと言えば、以前は出現しなかったわけだから何らかの理由があるのでしょう。それは不景気だからかもしれないし、不景気なのはグローバル化が進みその対応が全く進んでいない無能な統治権力が原因のいったんを担っているかもしれないし、その事によって道徳が壊れているからかもしれない。その不景気や戦後復興そのものが、地方を空洞化させるというスキームだったわけだから、老人が一人暮らしだったり、老人夫婦二人で暮らしているから回避出来ないのかもしれない。空洞化によって、また新興住宅地による新住民流入によってご近所付き合いが希薄化しているから回避出来ないのかもしれない。老人やステークホルダーや企業や官僚や政治家のお偉いさんが未来の希望を食い潰し、要するに若年層から合法的にネコババするのが許されていて、それを合法の枠内では対応出来ないので、非合法に流れているのかもしれない。もちろんそこには電話の普及は不可欠だし、ひょっとすると暴力団の覚醒剤が売れないので、しのぎが厳しくてそういうものに利用されているのかもしれない。それは暴対法が起因しているかもしれないし、北朝鮮から流れてこない、つまり北朝鮮外交がめぐりめぐっているのかもしれない(もちろん大麻問題もこういうのが絡んでいるだろうし、大麻問題になると学校を聖域化しているから学校で取引が行なわれて、ガキンチョに蔓延している原因を考えると、そもそも何で聖域化したのかと言えば、かつての大学紛争にさかのぼる)。教育の問題もあるだろうし、成功例がマスコミで報じられるから模倣犯が出てくるのかもしれないし、銀行のATMに問題があるのかもしれないし、等々・・・・・・・・それこそ考え始めたらきりがありませんが、ありとあらゆる要素が複雑に絡んでいる。
勘違いされたくないので一応書いておきますが、理由があるからしょうがないとかそういう事が言いたいわけではなくて、理由があっても法に反しているわけだからこれは法的には許されません。だけどそこには何らかの理由があるわけで、もちろん同じ境遇でもやらない人もいるわけだから、やっている本人が悪いのは間違いありませんけれど、かつてはこういう問題が問題化されなかったという事はそれもやっぱり何らかの理由がある。
かつて無くて、今あるという事は何らかの変化があってかつては無かったのに増えている。電話が普及したのなんて遠い昔の話だし、銀行のATMだってそれこそ昔からある。地方の空洞化が始まったのは戦後再復興が始まるのと同時期に進行しているのだから、これも直接の原因とは考え難い。つまりいろいろ理由があるけれど、何らかの理由や変化が決定的となってその後押しをしているのは間違いない。だけどそれが何であるのか判別は出来ない。ある時期まで無くてある時期からあるわけだから、そこに何らかの変化があって理由が生まれていると考える事は出来るけれど、その変化は何らかの理由があって変化している。その理由は何らかの変化によって、その変化は何らかの理由があって・・・・と言った感じで、前提をさかのぼって行くとこれが決定的な原因だというのは難しい。
やる気になれば電話なんて無くたって手紙であっても出来る事です。だから江戸時代だってオレオレ詐欺の飛脚版じゃないけれど、やろうと思えばいろいろ上げた前提が無くたって出来る。だけどそれなのになぜかはわからないけれど、ある時期まではそういう事をやる奴はいなかった。そしてそういう事をやる奴はいないと我々も信用出来た。
これは人が善意に満ち溢れていたとかそういう事が言いたいのではなくて、悪意に満ちた人間でもそういう手段を取らなかった。他の方法で人を騙していた。我々もそういう問題があったとしても、自分は大丈夫な「はず」と思っている事が出来た。秩序を信頼出来た。それが何らかの理由で従来のやり方では対処不能のオレオレ詐欺へと変化した。そこには変化するのが合理的だから変化しているのだろうし、その事によってかつてだったらそういう悪巧みが出来ないレベルの悪党もそういう事が手軽に出来るようになっているのかもしれない。我々も秩序を信頼出来なくなった。法がそれをコンペンセート、埋め合わせする事によって、実体は変わらなくても信頼を取り戻す。この実体は変わらなくてもと言うのがみそです。
伝統や道徳が機能している時というのは、伝統や道徳が機能しているとは自覚出来ません。そして伝統や道徳がなんで機能しているのか、どんな前提に支えられているのかも自覚出来ないし、考えもしない。しかし伝統や道徳が機能しなくなって来ると、はじめて伝統や道徳を失ってしまった社会との落差によって、伝統や道徳が無くなったと気付く。そこではじめて何によってそれらが支えられていたのか、何を失ったからもしくは変わったからそれらが空洞化したように感じるのかを考えるようになる。これは道徳や伝統だけでは無くて、ありとあらゆるものが道徳や伝統の部分の言葉に当てはまります。
つまり道徳主義と道徳は違います。伝統主義と伝統も違う。伝統だ!!道徳だ!!って喚いている連中がいるのはそれらが壊れているもしくは機能しない、もしくは必要なくなっているから騒いでいる。だからこういうのは個人の個人的寂しさの埋め合わせの為の、イグジステンシャルの問題なので、そいつらが言った事をそのまま実行なんて出来るわけが無い。
何らかの理由があるから失われている。その理由がある以上機能しない。その理由、社会の変化は何らかの必要性があると我々が錯覚するか本当に必要であるから、社会は変化する。もしくは何らかの要因によって必要性なんて無くても、それはそのようになる。善悪ではなくてただ変化する。それは変化していない社会だった頃に問題だと思ったから変化させている。もしくは何らかの社会の都合によって変化してしまう。意図しない帰結を招いているとしても、いったん破壊するともとには戻れない。そしてその変化は次の変化の前提となり連鎖して行く。
それに道徳や伝統が機能している時というのは、案外その慣習は耳障りなものだったり厄介なものだったり、めんどくさいものだったりする。だけどそれが何となく機能しているうちは別にそういうものだと思って生活をしている。
あるとき社会の変化によって、こんな不合理な事は厄介だという考えがあるレベルを超えて、多くの人が思い始めると、そのうちそれを口にする奴が出て来る。こんなの止めた方がいいんじゃないの?と。最初はみんながそれに対して、おまえ気でも狂ったのか?バカ言うなと否定する人はいるでしょうけれど、そう思って口に出すまでの人が出て来るという事は、ある程度みんな心のどこかではその事をわかっている。共同体の縛りがあるのでバカ言うなと同調はするけれど、内心ごもっともと思っている人もいる。そうなるといったん崩れ始めた自明性というのはどんどん壊れて行く、それを途中で遮る事は難しい。
社会がなんでなんだかよくわからないけれど秩序だっていたのに、あるきっかけで社会が変わり始めると秩序が乱れてしまうのかというと、ここに秘密があります。我々がみんなで善い社会を営もうと思って合意しているから、社会が秩序だっているわけではありません。何で秩序だっているのか知らないけれど、偶々ずっとそうだったから今日も明日も明後日も来週も来年も大丈夫だろうと予想出来るから、秩序は秩序として保たれる。つまり理由は無いのです。理由があったとしてもその事は自覚していない。秩序が理由も無く保たれている為の前提は何であるのか?秩序が理由も無く保たれる前の段階があったはずだ。理由も無く勝手に社会が秩序立つなどおかしな話に聞こえる。
しかし明確な理由も何も無く、それは自然にそうなった。というかもう確認も出来ないし確認出来たとしてもガッカリするだけです。だけどそれではどこかに境界があるはずだという感覚は拭えない。これは卵とニワトリどちらが先か、みたいな話に似ていて、どこかで秩序維持がスタートした境界が無いと、前提が無い事になる。何の前提も無いのに勝手に秩序が維持されているわけなど無いと思いたい気持ちを補完する為に、宗教というのがある。神が創造したという物語が、そのスッキリしなさを解決する。根源的偶発性処理です。
共同体が形成されたり国家が形成される過程もそうで、どこかに出発点があったという事にしないと、何でそうなったのかが説明出来ない。だから共同体や国家には英雄譚や神話が必要になる。どこの国でも、そんなバカなという歴史の物語があります。
なぜ宗教や歴史が必要なのかというのもこういう観点から見て行くと、全く別物に見えるようになります。なぜその事を歴史として記述し残したかったのか?歴史の真実!!とほざくバカがいかにマヌケかわかるでしょう。すでに90年代の記憶が総理の座にしがみつくバカによって評価されているとか言って改竄されて、しかもその時代を大人として生きていたくせに信じているバカがいるのだから、歴史なんてもんはその程度のものでしかありません。
秩序が壊れる可能性は常にある。犯罪に巻き込まれる可能性は常にある、にもかかわらず、我々は偶々今までそういう目にあわなかった、もしくはそういう人がまわりにいないと思っているというだけで、無自覚にだいじょうぶな「はず」だと信頼している。だけど社会が何らかの変化によって変わってしまうと、その事によって、微妙に秩序が変化する。そうすると今まで大丈夫だったものが、大丈夫じゃないかもしれないと思うようになる。ここではじめて問題が出て来るわけです。
賞味期限切れの食品を食べるはめになるとは思っていないし、毒ギョウザが売っているとも思っていない。しかしいつでもその可能性は常にあるはずなのに、そんな事は無いだろうというか、気にもならない。普通に考えれば、全く知らない人が作っていたり、バイトの学生が作っていたりするのだから、もしかすると・・・・・と思い出せばキリが無い話であるはずが、いちいち心配しなくとも信頼によって上手く回る。その信頼は何の根拠も無い。
だけどある時それをバイオレートしている輩がいるという事がわかると、今まですでに食っちゃったという事もあるし、信頼していたのにそんなバカな!!となって、みんなが怒る。それが数が少ないもしくはマスコミが取り上げなければ、そういう事があるというのは知っているけれど、まさかこの店は大丈夫だろうと思って食べる。この段階では信頼はまだ崩れちゃいない。偶々悪い奴がやった事で、そういう店は稀だろうと思う。
しかしどんどん数が増えている、もしくは増えているように感じると、信頼出来なくなって法律がこれに介入する。制度によって取り締まったりするから、大丈夫と信頼して再びお店で消費が出来るようになる。しかし実体は何も変わっていない。なぜなら法が取り締まるからと言ったって、全く知らない人が作ったりバイトが作ったりする事そのものは何も変わらない。だけど法が介入したり、国家が介入すると言う事で、信頼がコンペンセートされる。
秩序を維持するという事は複雑性が低い、エントロピー低い事を指しますが、知る事によってエントロピーは増大する。社会を維持する為には秩序を守らなきゃならない。秩序を守る為にはエントロピーを低く保つ必要があるが、知る事によってエントロピーは増大し秩序は乱れる。つまり我々がマスコミに求めるある時期から発生した本来あるべき姿、市民社会の護持というのは、そもそも矛盾したインコンパティブルな命題を突き付けているという事も出来る。
そして本来のマスコミのあるべき姿というのは、実は幻想でしか無く。社会が変化し、我々が変化しているからそういう風に見えている。確かに日本のマスコミというのは国境なき記者団が出す報道の自由度ランキングで見ても先進国とは言えない。2007年のデータで見ると169カ国中37位、報道の自由を謳っている民主主義国家にしては低い。G8諸国の中では当時ブッシュ政権のアメリカやロシアよりは上だけどそれ以外には負けている。この時は安倍が退陣に追い込まれたときだったから、この順位だったわけで、今の麻生報道なんかを見ると多分順位を落としているでしょう。アメリカはオバマ政権が誕生したわけですから抜かれているかもしれない。
もちろんデータが必ずしも正しいとは言えないのは百も承知ですが、個人的な感覚からすると、この順位でも随分と高い数値だなと思うくらいで、記者クラブ制度は相当異常だし、韓国だってすでに6年前に止めているしと、問題だらけなのは確かです。
しかし日本のマスコミは特にそうかもしれませんが昔から何も変わっちゃいない。昔あるべき姿だったわけでもない。そもそも報道というのはただそのときの社会の流れにそって、報じるべきか、報じないべきかを決めているだけです。人が必要とするものを報じているにすぎない。
官報が必要な時代には官報を流し、食の安全が人気であればそういう事をわざわざ選んで報じている。報じていない時代にその問題が無かったわけじゃない。治安が悪化していなくとも、政府がそれを望み、ステークホルダーや広告主がそれを望み、国民がそれをみて、その事がウケれば、そういうネタを集中的に報じる。
それだけのものでしか無く、そこに市民社会の規範を期待しても、そういう原理とは別の原理でそもそも動いている。だいたい市民性も無い国でそんな事を期待したって無理に決まっている。そういう意味で、何も変わっちゃいない。あるべき姿になんて一度たりともなった事など無い。
そして本来の意味でのマスコミやジャーナリズムの意からすれば官報とか媒体とか定期刊行物であるのが本来であって、そういう意味でも本来のままであるとも言える。それでもその事が気にならなかった時代が終わっているという事も同時に示している。
つまりジャーナリズムやマスコミのあり方そのものが、今の社会にはもうついて来れない時代に変化している事も示している。だからネットがこれだけ普及して、ブログがこれだけ普及しているのでしょう。みんな言いたい放題ああだこうだ言う時代になったというだけじゃなくて、それを表に出す事が出来る時代になった。
それは大手のマスコミという企業の問題だけではなくて、万人が共感出来る報道というものが不可能な事も示している。オバマがネットであれだけ金をかき集めたのなんかを見ていてもそういう流れを感じます。テレビに出てパフォーマンスを示して、みんなが共感してくれる時代は終わり、様々なレイヤーの人々に様々な語り口や啓蒙が必要な時代になっている。だからネットでの広がりが従来のマスメディア的な動員より上回っている。
つづく!!
問題が無いうちは社会が分化していなくても政治が機能していれば上手く回るとか、道徳や伝統がコンペンセート出来たのですが、これが市民革命や産業革命によって流動化してしまうと道徳や伝統が空洞化するので法がそのコンペンセーションの役回りとなり、次第に更に政治と法がより分化するように、要するになんだか知らないけれど上手く回っていたものが、社会が変化する事によって上手く行かなくなる。秩序が壊れてしまう。そうすると、社会は分化して秩序維持の方向へ行く。そのことによって人も今までの考え方では社会に対応出来なくなるので、人もゲマインシャフト(共同体)からゲゼルシャフト(市民社会)へと共同体に埋没する事の無い主体へと変化、市民化する。
何も近代化がいい事だなんて言うつもりはありません。共同体が空洞化したり、伝統や道徳や権威がスポイルされてしまったりと、社会の変化が早いと人はそれに簡単にはついて行けない。だからアノミー化したり、疎外を感じてしまったりする。道徳や伝統や権威が機能して回るのならそれにこした事は無いし、あれをやっちゃダメこれをやっちゃダメなんて、ガキじゃあるまいしいちいち法律で事細かく記すなんて事をしなくても善意を信頼出来る社会の方がどちらかと言えば健全かもしれない。しかしこの流れは簡単には抗う事が出来ないので、秩序維持のためには社会の分化は必要になるし、人権のような価値や様々な機能分化による補完によって市民化(自立)する為のメカニズムが出来上がる。
オレオレ詐欺なんて社会に全く無い頃はもちろん何の問題も無い。しかしちらほらそういう問題が表面化すると、オレオレ詐欺の存在を我々は知る。だけどそれがたいした数がないうちは、オレオレ詐欺があるのは知っているけれど、そういう目にはあわないだろうと思って社会を営める。これがもう少し増えて来ると、オレオレ詐欺が最近流行っているらしいけれど、そういう事は道徳的に善くない行いだ、オレオレ詐欺など止めるべきであるという風に、認識が変わる。被害があちらこちらで顕在化し、近所のおばあちゃんが被害にあっちゃったなんて話を聞いたりすると、このまま放置しておくわけにはいかない状態だとみんなが思い始める。そうするとそれを取り締まるべく法が強化される。
これは実際に事件が増えているからそうなる場合ももちろんありますが、例えば今、治安が悪くなっているというのも嘘だし、犯罪も増えていないし、凶悪化もしていない。むしろ減っていて、人類の歴史上、一番犯罪からは安全な時代に(少なくとも日本は)なっているにもかかわらず、それに対処するべく人々が騒ぐという事があります。その世論に後押しされて、もちろんマッチポンプが殆どなんですが、制度が出来たり、対策が出来たりする。なんでそういうものを後押しするのかと言えば我々がその事を知るからでもある。
オレオレ詐欺を行なうような輩がなぜ出現したのかと言えば、以前は出現しなかったわけだから何らかの理由があるのでしょう。それは不景気だからかもしれないし、不景気なのはグローバル化が進みその対応が全く進んでいない無能な統治権力が原因のいったんを担っているかもしれないし、その事によって道徳が壊れているからかもしれない。その不景気や戦後復興そのものが、地方を空洞化させるというスキームだったわけだから、老人が一人暮らしだったり、老人夫婦二人で暮らしているから回避出来ないのかもしれない。空洞化によって、また新興住宅地による新住民流入によってご近所付き合いが希薄化しているから回避出来ないのかもしれない。老人やステークホルダーや企業や官僚や政治家のお偉いさんが未来の希望を食い潰し、要するに若年層から合法的にネコババするのが許されていて、それを合法の枠内では対応出来ないので、非合法に流れているのかもしれない。もちろんそこには電話の普及は不可欠だし、ひょっとすると暴力団の覚醒剤が売れないので、しのぎが厳しくてそういうものに利用されているのかもしれない。それは暴対法が起因しているかもしれないし、北朝鮮から流れてこない、つまり北朝鮮外交がめぐりめぐっているのかもしれない(もちろん大麻問題もこういうのが絡んでいるだろうし、大麻問題になると学校を聖域化しているから学校で取引が行なわれて、ガキンチョに蔓延している原因を考えると、そもそも何で聖域化したのかと言えば、かつての大学紛争にさかのぼる)。教育の問題もあるだろうし、成功例がマスコミで報じられるから模倣犯が出てくるのかもしれないし、銀行のATMに問題があるのかもしれないし、等々・・・・・・・・それこそ考え始めたらきりがありませんが、ありとあらゆる要素が複雑に絡んでいる。
勘違いされたくないので一応書いておきますが、理由があるからしょうがないとかそういう事が言いたいわけではなくて、理由があっても法に反しているわけだからこれは法的には許されません。だけどそこには何らかの理由があるわけで、もちろん同じ境遇でもやらない人もいるわけだから、やっている本人が悪いのは間違いありませんけれど、かつてはこういう問題が問題化されなかったという事はそれもやっぱり何らかの理由がある。
かつて無くて、今あるという事は何らかの変化があってかつては無かったのに増えている。電話が普及したのなんて遠い昔の話だし、銀行のATMだってそれこそ昔からある。地方の空洞化が始まったのは戦後再復興が始まるのと同時期に進行しているのだから、これも直接の原因とは考え難い。つまりいろいろ理由があるけれど、何らかの理由や変化が決定的となってその後押しをしているのは間違いない。だけどそれが何であるのか判別は出来ない。ある時期まで無くてある時期からあるわけだから、そこに何らかの変化があって理由が生まれていると考える事は出来るけれど、その変化は何らかの理由があって変化している。その理由は何らかの変化によって、その変化は何らかの理由があって・・・・と言った感じで、前提をさかのぼって行くとこれが決定的な原因だというのは難しい。
やる気になれば電話なんて無くたって手紙であっても出来る事です。だから江戸時代だってオレオレ詐欺の飛脚版じゃないけれど、やろうと思えばいろいろ上げた前提が無くたって出来る。だけどそれなのになぜかはわからないけれど、ある時期まではそういう事をやる奴はいなかった。そしてそういう事をやる奴はいないと我々も信用出来た。
これは人が善意に満ち溢れていたとかそういう事が言いたいのではなくて、悪意に満ちた人間でもそういう手段を取らなかった。他の方法で人を騙していた。我々もそういう問題があったとしても、自分は大丈夫な「はず」と思っている事が出来た。秩序を信頼出来た。それが何らかの理由で従来のやり方では対処不能のオレオレ詐欺へと変化した。そこには変化するのが合理的だから変化しているのだろうし、その事によってかつてだったらそういう悪巧みが出来ないレベルの悪党もそういう事が手軽に出来るようになっているのかもしれない。我々も秩序を信頼出来なくなった。法がそれをコンペンセート、埋め合わせする事によって、実体は変わらなくても信頼を取り戻す。この実体は変わらなくてもと言うのがみそです。
伝統や道徳が機能している時というのは、伝統や道徳が機能しているとは自覚出来ません。そして伝統や道徳がなんで機能しているのか、どんな前提に支えられているのかも自覚出来ないし、考えもしない。しかし伝統や道徳が機能しなくなって来ると、はじめて伝統や道徳を失ってしまった社会との落差によって、伝統や道徳が無くなったと気付く。そこではじめて何によってそれらが支えられていたのか、何を失ったからもしくは変わったからそれらが空洞化したように感じるのかを考えるようになる。これは道徳や伝統だけでは無くて、ありとあらゆるものが道徳や伝統の部分の言葉に当てはまります。
つまり道徳主義と道徳は違います。伝統主義と伝統も違う。伝統だ!!道徳だ!!って喚いている連中がいるのはそれらが壊れているもしくは機能しない、もしくは必要なくなっているから騒いでいる。だからこういうのは個人の個人的寂しさの埋め合わせの為の、イグジステンシャルの問題なので、そいつらが言った事をそのまま実行なんて出来るわけが無い。
何らかの理由があるから失われている。その理由がある以上機能しない。その理由、社会の変化は何らかの必要性があると我々が錯覚するか本当に必要であるから、社会は変化する。もしくは何らかの要因によって必要性なんて無くても、それはそのようになる。善悪ではなくてただ変化する。それは変化していない社会だった頃に問題だと思ったから変化させている。もしくは何らかの社会の都合によって変化してしまう。意図しない帰結を招いているとしても、いったん破壊するともとには戻れない。そしてその変化は次の変化の前提となり連鎖して行く。
それに道徳や伝統が機能している時というのは、案外その慣習は耳障りなものだったり厄介なものだったり、めんどくさいものだったりする。だけどそれが何となく機能しているうちは別にそういうものだと思って生活をしている。
あるとき社会の変化によって、こんな不合理な事は厄介だという考えがあるレベルを超えて、多くの人が思い始めると、そのうちそれを口にする奴が出て来る。こんなの止めた方がいいんじゃないの?と。最初はみんながそれに対して、おまえ気でも狂ったのか?バカ言うなと否定する人はいるでしょうけれど、そう思って口に出すまでの人が出て来るという事は、ある程度みんな心のどこかではその事をわかっている。共同体の縛りがあるのでバカ言うなと同調はするけれど、内心ごもっともと思っている人もいる。そうなるといったん崩れ始めた自明性というのはどんどん壊れて行く、それを途中で遮る事は難しい。
社会がなんでなんだかよくわからないけれど秩序だっていたのに、あるきっかけで社会が変わり始めると秩序が乱れてしまうのかというと、ここに秘密があります。我々がみんなで善い社会を営もうと思って合意しているから、社会が秩序だっているわけではありません。何で秩序だっているのか知らないけれど、偶々ずっとそうだったから今日も明日も明後日も来週も来年も大丈夫だろうと予想出来るから、秩序は秩序として保たれる。つまり理由は無いのです。理由があったとしてもその事は自覚していない。秩序が理由も無く保たれている為の前提は何であるのか?秩序が理由も無く保たれる前の段階があったはずだ。理由も無く勝手に社会が秩序立つなどおかしな話に聞こえる。
しかし明確な理由も何も無く、それは自然にそうなった。というかもう確認も出来ないし確認出来たとしてもガッカリするだけです。だけどそれではどこかに境界があるはずだという感覚は拭えない。これは卵とニワトリどちらが先か、みたいな話に似ていて、どこかで秩序維持がスタートした境界が無いと、前提が無い事になる。何の前提も無いのに勝手に秩序が維持されているわけなど無いと思いたい気持ちを補完する為に、宗教というのがある。神が創造したという物語が、そのスッキリしなさを解決する。根源的偶発性処理です。
共同体が形成されたり国家が形成される過程もそうで、どこかに出発点があったという事にしないと、何でそうなったのかが説明出来ない。だから共同体や国家には英雄譚や神話が必要になる。どこの国でも、そんなバカなという歴史の物語があります。
なぜ宗教や歴史が必要なのかというのもこういう観点から見て行くと、全く別物に見えるようになります。なぜその事を歴史として記述し残したかったのか?歴史の真実!!とほざくバカがいかにマヌケかわかるでしょう。すでに90年代の記憶が総理の座にしがみつくバカによって評価されているとか言って改竄されて、しかもその時代を大人として生きていたくせに信じているバカがいるのだから、歴史なんてもんはその程度のものでしかありません。
秩序が壊れる可能性は常にある。犯罪に巻き込まれる可能性は常にある、にもかかわらず、我々は偶々今までそういう目にあわなかった、もしくはそういう人がまわりにいないと思っているというだけで、無自覚にだいじょうぶな「はず」だと信頼している。だけど社会が何らかの変化によって変わってしまうと、その事によって、微妙に秩序が変化する。そうすると今まで大丈夫だったものが、大丈夫じゃないかもしれないと思うようになる。ここではじめて問題が出て来るわけです。
賞味期限切れの食品を食べるはめになるとは思っていないし、毒ギョウザが売っているとも思っていない。しかしいつでもその可能性は常にあるはずなのに、そんな事は無いだろうというか、気にもならない。普通に考えれば、全く知らない人が作っていたり、バイトの学生が作っていたりするのだから、もしかすると・・・・・と思い出せばキリが無い話であるはずが、いちいち心配しなくとも信頼によって上手く回る。その信頼は何の根拠も無い。
だけどある時それをバイオレートしている輩がいるという事がわかると、今まですでに食っちゃったという事もあるし、信頼していたのにそんなバカな!!となって、みんなが怒る。それが数が少ないもしくはマスコミが取り上げなければ、そういう事があるというのは知っているけれど、まさかこの店は大丈夫だろうと思って食べる。この段階では信頼はまだ崩れちゃいない。偶々悪い奴がやった事で、そういう店は稀だろうと思う。
しかしどんどん数が増えている、もしくは増えているように感じると、信頼出来なくなって法律がこれに介入する。制度によって取り締まったりするから、大丈夫と信頼して再びお店で消費が出来るようになる。しかし実体は何も変わっていない。なぜなら法が取り締まるからと言ったって、全く知らない人が作ったりバイトが作ったりする事そのものは何も変わらない。だけど法が介入したり、国家が介入すると言う事で、信頼がコンペンセートされる。
秩序を維持するという事は複雑性が低い、エントロピー低い事を指しますが、知る事によってエントロピーは増大する。社会を維持する為には秩序を守らなきゃならない。秩序を守る為にはエントロピーを低く保つ必要があるが、知る事によってエントロピーは増大し秩序は乱れる。つまり我々がマスコミに求めるある時期から発生した本来あるべき姿、市民社会の護持というのは、そもそも矛盾したインコンパティブルな命題を突き付けているという事も出来る。
そして本来のマスコミのあるべき姿というのは、実は幻想でしか無く。社会が変化し、我々が変化しているからそういう風に見えている。確かに日本のマスコミというのは国境なき記者団が出す報道の自由度ランキングで見ても先進国とは言えない。2007年のデータで見ると169カ国中37位、報道の自由を謳っている民主主義国家にしては低い。G8諸国の中では当時ブッシュ政権のアメリカやロシアよりは上だけどそれ以外には負けている。この時は安倍が退陣に追い込まれたときだったから、この順位だったわけで、今の麻生報道なんかを見ると多分順位を落としているでしょう。アメリカはオバマ政権が誕生したわけですから抜かれているかもしれない。
もちろんデータが必ずしも正しいとは言えないのは百も承知ですが、個人的な感覚からすると、この順位でも随分と高い数値だなと思うくらいで、記者クラブ制度は相当異常だし、韓国だってすでに6年前に止めているしと、問題だらけなのは確かです。
しかし日本のマスコミは特にそうかもしれませんが昔から何も変わっちゃいない。昔あるべき姿だったわけでもない。そもそも報道というのはただそのときの社会の流れにそって、報じるべきか、報じないべきかを決めているだけです。人が必要とするものを報じているにすぎない。
官報が必要な時代には官報を流し、食の安全が人気であればそういう事をわざわざ選んで報じている。報じていない時代にその問題が無かったわけじゃない。治安が悪化していなくとも、政府がそれを望み、ステークホルダーや広告主がそれを望み、国民がそれをみて、その事がウケれば、そういうネタを集中的に報じる。
それだけのものでしか無く、そこに市民社会の規範を期待しても、そういう原理とは別の原理でそもそも動いている。だいたい市民性も無い国でそんな事を期待したって無理に決まっている。そういう意味で、何も変わっちゃいない。あるべき姿になんて一度たりともなった事など無い。
そして本来の意味でのマスコミやジャーナリズムの意からすれば官報とか媒体とか定期刊行物であるのが本来であって、そういう意味でも本来のままであるとも言える。それでもその事が気にならなかった時代が終わっているという事も同時に示している。
つまりジャーナリズムやマスコミのあり方そのものが、今の社会にはもうついて来れない時代に変化している事も示している。だからネットがこれだけ普及して、ブログがこれだけ普及しているのでしょう。みんな言いたい放題ああだこうだ言う時代になったというだけじゃなくて、それを表に出す事が出来る時代になった。
それは大手のマスコミという企業の問題だけではなくて、万人が共感出来る報道というものが不可能な事も示している。オバマがネットであれだけ金をかき集めたのなんかを見ていてもそういう流れを感じます。テレビに出てパフォーマンスを示して、みんなが共感してくれる時代は終わり、様々なレイヤーの人々に様々な語り口や啓蒙が必要な時代になっている。だからネットでの広がりが従来のマスメディア的な動員より上回っている。
つづく!!