前回の続きです。

問題が無いうちは社会が分化していなくても政治が機能していれば上手く回るとか、道徳や伝統がコンペンセート出来たのですが、これが市民革命や産業革命によって流動化してしまうと道徳や伝統が空洞化するので法がそのコンペンセーションの役回りとなり、次第に更に政治と法がより分化するように、要するになんだか知らないけれど上手く回っていたものが、社会が変化する事によって上手く行かなくなる。秩序が壊れてしまう。そうすると、社会は分化して秩序維持の方向へ行く。そのことによって人も今までの考え方では社会に対応出来なくなるので、人もゲマインシャフト(共同体)からゲゼルシャフト(市民社会)へと共同体に埋没する事の無い主体へと変化、市民化する。

何も近代化がいい事だなんて言うつもりはありません。共同体が空洞化したり、伝統や道徳や権威がスポイルされてしまったりと、社会の変化が早いと人はそれに簡単にはついて行けない。だからアノミー化したり、疎外を感じてしまったりする。道徳や伝統や権威が機能して回るのならそれにこした事は無いし、あれをやっちゃダメこれをやっちゃダメなんて、ガキじゃあるまいしいちいち法律で事細かく記すなんて事をしなくても善意を信頼出来る社会の方がどちらかと言えば健全かもしれない。しかしこの流れは簡単には抗う事が出来ないので、秩序維持のためには社会の分化は必要になるし、人権のような価値や様々な機能分化による補完によって市民化(自立)する為のメカニズムが出来上がる。

オレオレ詐欺なんて社会に全く無い頃はもちろん何の問題も無い。しかしちらほらそういう問題が表面化すると、オレオレ詐欺の存在を我々は知る。だけどそれがたいした数がないうちは、オレオレ詐欺があるのは知っているけれど、そういう目にはあわないだろうと思って社会を営める。これがもう少し増えて来ると、オレオレ詐欺が最近流行っているらしいけれど、そういう事は道徳的に善くない行いだ、オレオレ詐欺など止めるべきであるという風に、認識が変わる。被害があちらこちらで顕在化し、近所のおばあちゃんが被害にあっちゃったなんて話を聞いたりすると、このまま放置しておくわけにはいかない状態だとみんなが思い始める。そうするとそれを取り締まるべく法が強化される。

これは実際に事件が増えているからそうなる場合ももちろんありますが、例えば今、治安が悪くなっているというのも嘘だし、犯罪も増えていないし、凶悪化もしていない。むしろ減っていて、人類の歴史上、一番犯罪からは安全な時代に(少なくとも日本は)なっているにもかかわらず、それに対処するべく人々が騒ぐという事があります。その世論に後押しされて、もちろんマッチポンプが殆どなんですが、制度が出来たり、対策が出来たりする。なんでそういうものを後押しするのかと言えば我々がその事を知るからでもある。

オレオレ詐欺を行なうような輩がなぜ出現したのかと言えば、以前は出現しなかったわけだから何らかの理由があるのでしょう。それは不景気だからかもしれないし、不景気なのはグローバル化が進みその対応が全く進んでいない無能な統治権力が原因のいったんを担っているかもしれないし、その事によって道徳が壊れているからかもしれない。その不景気や戦後復興そのものが、地方を空洞化させるというスキームだったわけだから、老人が一人暮らしだったり、老人夫婦二人で暮らしているから回避出来ないのかもしれない。空洞化によって、また新興住宅地による新住民流入によってご近所付き合いが希薄化しているから回避出来ないのかもしれない。老人やステークホルダーや企業や官僚や政治家のお偉いさんが未来の希望を食い潰し、要するに若年層から合法的にネコババするのが許されていて、それを合法の枠内では対応出来ないので、非合法に流れているのかもしれない。もちろんそこには電話の普及は不可欠だし、ひょっとすると暴力団の覚醒剤が売れないので、しのぎが厳しくてそういうものに利用されているのかもしれない。それは暴対法が起因しているかもしれないし、北朝鮮から流れてこない、つまり北朝鮮外交がめぐりめぐっているのかもしれない(もちろん大麻問題もこういうのが絡んでいるだろうし、大麻問題になると学校を聖域化しているから学校で取引が行なわれて、ガキンチョに蔓延している原因を考えると、そもそも何で聖域化したのかと言えば、かつての大学紛争にさかのぼる)。教育の問題もあるだろうし、成功例がマスコミで報じられるから模倣犯が出てくるのかもしれないし、銀行のATMに問題があるのかもしれないし、等々・・・・・・・・それこそ考え始めたらきりがありませんが、ありとあらゆる要素が複雑に絡んでいる。

勘違いされたくないので一応書いておきますが、理由があるからしょうがないとかそういう事が言いたいわけではなくて、理由があっても法に反しているわけだからこれは法的には許されません。だけどそこには何らかの理由があるわけで、もちろん同じ境遇でもやらない人もいるわけだから、やっている本人が悪いのは間違いありませんけれど、かつてはこういう問題が問題化されなかったという事はそれもやっぱり何らかの理由がある。

かつて無くて、今あるという事は何らかの変化があってかつては無かったのに増えている。電話が普及したのなんて遠い昔の話だし、銀行のATMだってそれこそ昔からある。地方の空洞化が始まったのは戦後再復興が始まるのと同時期に進行しているのだから、これも直接の原因とは考え難い。つまりいろいろ理由があるけれど、何らかの理由や変化が決定的となってその後押しをしているのは間違いない。だけどそれが何であるのか判別は出来ない。ある時期まで無くてある時期からあるわけだから、そこに何らかの変化があって理由が生まれていると考える事は出来るけれど、その変化は何らかの理由があって変化している。その理由は何らかの変化によって、その変化は何らかの理由があって・・・・と言った感じで、前提をさかのぼって行くとこれが決定的な原因だというのは難しい。

やる気になれば電話なんて無くたって手紙であっても出来る事です。だから江戸時代だってオレオレ詐欺の飛脚版じゃないけれど、やろうと思えばいろいろ上げた前提が無くたって出来る。だけどそれなのになぜかはわからないけれど、ある時期まではそういう事をやる奴はいなかった。そしてそういう事をやる奴はいないと我々も信用出来た。

これは人が善意に満ち溢れていたとかそういう事が言いたいのではなくて、悪意に満ちた人間でもそういう手段を取らなかった。他の方法で人を騙していた。我々もそういう問題があったとしても、自分は大丈夫な「はず」と思っている事が出来た。秩序を信頼出来た。それが何らかの理由で従来のやり方では対処不能のオレオレ詐欺へと変化した。そこには変化するのが合理的だから変化しているのだろうし、その事によってかつてだったらそういう悪巧みが出来ないレベルの悪党もそういう事が手軽に出来るようになっているのかもしれない。我々も秩序を信頼出来なくなった。法がそれをコンペンセート、埋め合わせする事によって、実体は変わらなくても信頼を取り戻す。この実体は変わらなくてもと言うのがみそです。

伝統や道徳が機能している時というのは、伝統や道徳が機能しているとは自覚出来ません。そして伝統や道徳がなんで機能しているのか、どんな前提に支えられているのかも自覚出来ないし、考えもしない。しかし伝統や道徳が機能しなくなって来ると、はじめて伝統や道徳を失ってしまった社会との落差によって、伝統や道徳が無くなったと気付く。そこではじめて何によってそれらが支えられていたのか、何を失ったからもしくは変わったからそれらが空洞化したように感じるのかを考えるようになる。これは道徳や伝統だけでは無くて、ありとあらゆるものが道徳や伝統の部分の言葉に当てはまります。

つまり道徳主義と道徳は違います。伝統主義と伝統も違う。伝統だ!!道徳だ!!って喚いている連中がいるのはそれらが壊れているもしくは機能しない、もしくは必要なくなっているから騒いでいる。だからこういうのは個人の個人的寂しさの埋め合わせの為の、イグジステンシャルの問題なので、そいつらが言った事をそのまま実行なんて出来るわけが無い。

何らかの理由があるから失われている。その理由がある以上機能しない。その理由、社会の変化は何らかの必要性があると我々が錯覚するか本当に必要であるから、社会は変化する。もしくは何らかの要因によって必要性なんて無くても、それはそのようになる。善悪ではなくてただ変化する。それは変化していない社会だった頃に問題だと思ったから変化させている。もしくは何らかの社会の都合によって変化してしまう。意図しない帰結を招いているとしても、いったん破壊するともとには戻れない。そしてその変化は次の変化の前提となり連鎖して行く。

それに道徳や伝統が機能している時というのは、案外その慣習は耳障りなものだったり厄介なものだったり、めんどくさいものだったりする。だけどそれが何となく機能しているうちは別にそういうものだと思って生活をしている。

あるとき社会の変化によって、こんな不合理な事は厄介だという考えがあるレベルを超えて、多くの人が思い始めると、そのうちそれを口にする奴が出て来る。こんなの止めた方がいいんじゃないの?と。最初はみんながそれに対して、おまえ気でも狂ったのか?バカ言うなと否定する人はいるでしょうけれど、そう思って口に出すまでの人が出て来るという事は、ある程度みんな心のどこかではその事をわかっている。共同体の縛りがあるのでバカ言うなと同調はするけれど、内心ごもっともと思っている人もいる。そうなるといったん崩れ始めた自明性というのはどんどん壊れて行く、それを途中で遮る事は難しい。

社会がなんでなんだかよくわからないけれど秩序だっていたのに、あるきっかけで社会が変わり始めると秩序が乱れてしまうのかというと、ここに秘密があります。我々がみんなで善い社会を営もうと思って合意しているから、社会が秩序だっているわけではありません。何で秩序だっているのか知らないけれど、偶々ずっとそうだったから今日も明日も明後日も来週も来年も大丈夫だろうと予想出来るから、秩序は秩序として保たれる。つまり理由は無いのです。理由があったとしてもその事は自覚していない。秩序が理由も無く保たれている為の前提は何であるのか?秩序が理由も無く保たれる前の段階があったはずだ。理由も無く勝手に社会が秩序立つなどおかしな話に聞こえる。

しかし明確な理由も何も無く、それは自然にそうなった。というかもう確認も出来ないし確認出来たとしてもガッカリするだけです。だけどそれではどこかに境界があるはずだという感覚は拭えない。これは卵とニワトリどちらが先か、みたいな話に似ていて、どこかで秩序維持がスタートした境界が無いと、前提が無い事になる。何の前提も無いのに勝手に秩序が維持されているわけなど無いと思いたい気持ちを補完する為に、宗教というのがある。神が創造したという物語が、そのスッキリしなさを解決する。根源的偶発性処理です。

共同体が形成されたり国家が形成される過程もそうで、どこかに出発点があったという事にしないと、何でそうなったのかが説明出来ない。だから共同体や国家には英雄譚や神話が必要になる。どこの国でも、そんなバカなという歴史の物語があります。

なぜ宗教や歴史が必要なのかというのもこういう観点から見て行くと、全く別物に見えるようになります。なぜその事を歴史として記述し残したかったのか?歴史の真実!!とほざくバカがいかにマヌケかわかるでしょう。すでに90年代の記憶が総理の座にしがみつくバカによって評価されているとか言って改竄されて、しかもその時代を大人として生きていたくせに信じているバカがいるのだから、歴史なんてもんはその程度のものでしかありません。

秩序が壊れる可能性は常にある。犯罪に巻き込まれる可能性は常にある、にもかかわらず、我々は偶々今までそういう目にあわなかった、もしくはそういう人がまわりにいないと思っているというだけで、無自覚にだいじょうぶな「はず」だと信頼している。だけど社会が何らかの変化によって変わってしまうと、その事によって、微妙に秩序が変化する。そうすると今まで大丈夫だったものが、大丈夫じゃないかもしれないと思うようになる。ここではじめて問題が出て来るわけです。

賞味期限切れの食品を食べるはめになるとは思っていないし、毒ギョウザが売っているとも思っていない。しかしいつでもその可能性は常にあるはずなのに、そんな事は無いだろうというか、気にもならない。普通に考えれば、全く知らない人が作っていたり、バイトの学生が作っていたりするのだから、もしかすると・・・・・と思い出せばキリが無い話であるはずが、いちいち心配しなくとも信頼によって上手く回る。その信頼は何の根拠も無い。

だけどある時それをバイオレートしている輩がいるという事がわかると、今まですでに食っちゃったという事もあるし、信頼していたのにそんなバカな!!となって、みんなが怒る。それが数が少ないもしくはマスコミが取り上げなければ、そういう事があるというのは知っているけれど、まさかこの店は大丈夫だろうと思って食べる。この段階では信頼はまだ崩れちゃいない。偶々悪い奴がやった事で、そういう店は稀だろうと思う。

しかしどんどん数が増えている、もしくは増えているように感じると、信頼出来なくなって法律がこれに介入する。制度によって取り締まったりするから、大丈夫と信頼して再びお店で消費が出来るようになる。しかし実体は何も変わっていない。なぜなら法が取り締まるからと言ったって、全く知らない人が作ったりバイトが作ったりする事そのものは何も変わらない。だけど法が介入したり、国家が介入すると言う事で、信頼がコンペンセートされる。

秩序を維持するという事は複雑性が低い、エントロピー低い事を指しますが、知る事によってエントロピーは増大する。社会を維持する為には秩序を守らなきゃならない。秩序を守る為にはエントロピーを低く保つ必要があるが、知る事によってエントロピーは増大し秩序は乱れる。つまり我々がマスコミに求めるある時期から発生した本来あるべき姿、市民社会の護持というのは、そもそも矛盾したインコンパティブルな命題を突き付けているという事も出来る。

そして本来のマスコミのあるべき姿というのは、実は幻想でしか無く。社会が変化し、我々が変化しているからそういう風に見えている。確かに日本のマスコミというのは国境なき記者団が出す報道の自由度ランキングで見ても先進国とは言えない。2007年のデータで見ると169カ国中37位、報道の自由を謳っている民主主義国家にしては低い。G8諸国の中では当時ブッシュ政権のアメリカやロシアよりは上だけどそれ以外には負けている。この時は安倍が退陣に追い込まれたときだったから、この順位だったわけで、今の麻生報道なんかを見ると多分順位を落としているでしょう。アメリカはオバマ政権が誕生したわけですから抜かれているかもしれない。

もちろんデータが必ずしも正しいとは言えないのは百も承知ですが、個人的な感覚からすると、この順位でも随分と高い数値だなと思うくらいで、記者クラブ制度は相当異常だし、韓国だってすでに6年前に止めているしと、問題だらけなのは確かです。

しかし日本のマスコミは特にそうかもしれませんが昔から何も変わっちゃいない。昔あるべき姿だったわけでもない。そもそも報道というのはただそのときの社会の流れにそって、報じるべきか、報じないべきかを決めているだけです。人が必要とするものを報じているにすぎない。

官報が必要な時代には官報を流し、食の安全が人気であればそういう事をわざわざ選んで報じている。報じていない時代にその問題が無かったわけじゃない。治安が悪化していなくとも、政府がそれを望み、ステークホルダーや広告主がそれを望み、国民がそれをみて、その事がウケれば、そういうネタを集中的に報じる。

それだけのものでしか無く、そこに市民社会の規範を期待しても、そういう原理とは別の原理でそもそも動いている。だいたい市民性も無い国でそんな事を期待したって無理に決まっている。そういう意味で、何も変わっちゃいない。あるべき姿になんて一度たりともなった事など無い。

そして本来の意味でのマスコミやジャーナリズムの意からすれば官報とか媒体とか定期刊行物であるのが本来であって、そういう意味でも本来のままであるとも言える。それでもその事が気にならなかった時代が終わっているという事も同時に示している。

つまりジャーナリズムやマスコミのあり方そのものが、今の社会にはもうついて来れない時代に変化している事も示している。だからネットがこれだけ普及して、ブログがこれだけ普及しているのでしょう。みんな言いたい放題ああだこうだ言う時代になったというだけじゃなくて、それを表に出す事が出来る時代になった。

それは大手のマスコミという企業の問題だけではなくて、万人が共感出来る報道というものが不可能な事も示している。オバマがネットであれだけ金をかき集めたのなんかを見ていてもそういう流れを感じます。テレビに出てパフォーマンスを示して、みんなが共感してくれる時代は終わり、様々なレイヤーの人々に様々な語り口や啓蒙が必要な時代になっている。だからネットでの広がりが従来のマスメディア的な動員より上回っている。

つづく!!
前回の続きです。

いきなり例文。

ここ数日は北のミサイル報道、もういい加減にしろよって感じです。断固として強い態度とか、抗議して行くとか、勇ましい話ばっかりですけれど、こういうものをこれだけバカみたいに流して翼賛する光景は世も末です。このままでは歴史は繰り返すのでしょう。

日本の上空を通るのがけしからんという話も言いたい事はわかるけれど、日々日本の上空を各国の衛星は通過しているわけで、飛行機だって日々空を飛んでいるし。それが壊れて落っこちて来る可能性は日々あり得るわけです。そういうものをいちいちパトリオットで迎撃なんてしたら、気が狂った国家として北朝鮮以上に批判されるでしょう。

なんたらシステムで国民に情報を素早く伝える?伝わる頃にはミサイルは過ぎ去った後。ほんとバカじゃないの具合が悪くなるっつうの。誤情報が流れたとか、そういう事を論じたり批判する前に、そもそもそれがファックスでなされていたりする状況や、なんたらシステムとかいう、またどうせ莫大な導入費用をかけてんじゃないの?そっちを問題にしろよ。

それをこれまた政権の人気取りとして利用したいバカ麻生翼賛の気持ち悪い報道。こういうのに犯されて本気で麻生が国を守っているなんてトチ狂っているパーもいる。こんなもん無視するのが一番賢明なやり方なのに、ニュースと言えばこればっか。実質的な対地攻撃能力のないこの国でどんな選択肢があるというのか?何するのかと言えば安保理決議。そんな事をしても無駄だから、今回打ち上げたわけで、本当バカじゃないのって感じです。

交渉の常識として、経済制裁というのは制裁するぞと脅している段階か、経済制裁した瞬間しか効果がありません。時間が経てばなれる。他から何とかする。世界中が経済制裁していれば話は別だけれど、戦前の日本みたいな状況に陥れば逆に追い込まれて暴発するので、まわりの国からすればそんな事は合理性計算が出来る普通の国なら出来ないし、やる気も無い。だから経済制裁を継続しても北とすれば痛くも痒くもない。痛くも痒くもない状態で経済制裁解除というアメをちらつかせても、痛くも痒くもないのだから意味がない。

方法は一つしか無い経済制裁をとっとと解除して、経済的に依存関係を作らせる。頭を下げても、ウソをついても、土下座をしてでもニコニコと握手をして友好を謳い、日本との関係が無くちゃ立ちいかないという状況を作り出した上で経済制裁をチラつかせる。いい加減に拉致被害者返してくれないもんですかね。もう国内的にもいいわけが出来んのですよとか何とか。それが交渉というものです。カッコつけて拳を振り上げるのは、拉致被害者返してもらうとか、北の問題を解決するというより、解決するフリをしているだけ。人気のため。武器を使わずにゲーム勝つ為には戦略が必要で、少なくともこの局面ではカッコつけるのは何の役にも立たない。これ常識。

放っといたって日本を攻撃するメリットなんて無いのに、何を騒いでいるのか?だいたい自民党政権が不人気になると、いつも北朝鮮がだだをこねる。その事の意味を考えろって話です。アメリカの軍需産業が喜ぶだけ。

安倍晋三なんかを本当に対北外交の強硬派と信じている信者も多いのが困りもんです。統一教会、文鮮明、ブッシュ、北朝鮮というパイプの意味を考えろ、頭ついてんのかよって話です。だいたい公安調査庁と朝鮮総連がつるんでいたわけで、要するにマッチポンプです。一方で危機を煽り、裏では手を握っている。散々禍々しくミサイルを配備し大騒ぎした上で冷静にとほざくバカ政府、キチガイ沙汰のミサイル報道で国民を煽動しといて、最後に一言「冷静に」、お前らが煽ってんだろって報道と瓜二つです。

そもそも核の小型化が技術的に可能な時代に、海に囲まれてしかもいくらでも隠れて入国出来る甘甘の管理体制であるこの国、本気で日本を攻撃したいと思ったら簡単な話です。核なんて使わなくたって爆弾でも、包丁で脅してでも、いくらだってやろうと思えば出来るでしょう。それをわざわざ前時代的なロケットという技術でわざわざわかりやすいように力を誇示しているフリをする北朝鮮。それに釣られて騒いでいるバカメディアとそのケツを舐める国民。奴隷どもがバカ麻生を支持。この下らないケツ舐め連鎖。MD利権、米軍基地利権、防衛利権まっしぐら。テロを本気で起こそうと思っているとすると、それを食い止める事は出来ないという事が、すでに911でハッキリわかっているはずです。それには核もミサイルも兵器さえもいらない。

だから物理的実力を持ってそれを排除するという事や、物理的にプロテクトして防御する、人の流れを遮って防御する、なんて話よりも、テロなんて起こすのがバカらしいと思えるような状態を作り出すという事が一番遠回りかもしれないけれど、結局は一番確実であり、実は一番近道でもある。対立を煽っているうちは徹底的に無視をして、交渉の扉は開いておき、それに応じる姿勢見せたら、なるべくだだをこねてヘソを曲げないように扱えばいい。

というか事実上そういう選択肢しか本当は無いはずです。拉致の解決だってそれしか選択肢は無い。相手は核を本当かどうかは定かじゃなくとも持っていると言っている。日本が核武装出来るのか?と言えば日本人に反対する輩がいようがいまいが、現状の世界の体制からすると、ほぼ不可能。武力によって核に対する抑止になるのは核しかありません。MDなんてのは何の役にも立たない。一発ずつミサイルを発射して下さる戦争なんて聞いた事無い。複数発通常弾も混ぜて核を撃たれたらアウトです。普通戦争になればそうなる。

例文終わり。



と、いきなり前回の続きとは関係ない話じゃねえかと思ったそこの貴方!!確かにそうなのですが、何でこんな事をいきなり書いたのかと言いますと、これは麻生及び与党のバカ共を批判している文章なんですが、この文章は同時にマスコミ批判でもあります。何を批判しているのかというと、北朝鮮問題のあり方なんですが、これは北朝鮮報道の本来のあり方に対してイラ書きしているのです。報道の本来のあり方?これは自分もよく言ってしまう言葉なんですが、原則に立ち返る前に、少しこの問題のフォーカスをズラして問題を整理してから、そちらへと移ります。

これはマスコミが本来何の為にあるのか?マスコミというかジャーナリズムが何の為にあるのか?という事を考えるというより、何でそういう風に思うのか?という問題ですので、ちょっと切り口が違います。

マスコミが死んでいるという事を書いて来たわけですが、死んだという事はかつては死んでいないという状態があったと言う事になります。かつては生きていたという事になる。日本でマスコミが死んでいるという場合、NHKと5系列16社体制の記者クラブ制度を指している場合が多く、要するに既存の大手マスメディアが死んでいるという意味合いが殆どだと思いますが、それ以外にもジャーナリズムそのものが、従来の枠組みで切れなくなっているという大きな意味での場合もあるでしょう。

しかし前者の場合であれば、これは時間の問題で、誰もがすでにそう思っている事でもあるのでしょうから、近い将来記者クラブは開放の道に進むだろうと思いますし、そうなればある程度独占構造というのも変わって来る可能性がある。既存の大手マスメディアが仮に死んでしまっても、コンテンツは何らかの形で残るだろうし、中で働いている人や所属している記者達は、ある程度スクリーニングされてしまうとは思いますが、散らばって行くのでしょうから、技術や善き伝統はある程度残るでしょう(もちろん悪しき伝統も残るかもしれませんが)。

そういう意味でのマスコミの死であればたいした問題ではない。勤めている人達は冗談じゃないよと思うでしょうけれど、社会的にはたいした問題は無いでしょう。オルタナティブが出て来ていないという問題も、頭を押さえつけるものが無くなれば、どうにかなるものです。もちろん既存の大手メディアが生き残る可能性は十分あり得ますし、むしろ従来の大手メディアのやり方が死ぬという意味であるだけで、何の問題も無いかもしれない。

今回のエントリーも殆どがその切り口で散々書いて来たわけですが、少し視野を広げて、従来の枠組みで切れなくなっているのではないか?という後者のジャーナリズム全体の問題に少し目を移してみます。前者がくたばる理由は何となくわかる。腐っているという言い方も多くの場合前者の体制から生まれる権益構造を抱えているが故に起こる事でしょう。しかしそこに後者の意味合いでの機能不全の問題が絡んでいるとなると、前者の構造を解体しても、問題は残る事になります。それでは始めます。

「本来の姿」という言い方は、フーコー的に言うと、ここに権力が発生します。だから権力がつけ込む隙間にもなる。自明性の支配。本来の姿になればマスコミの「資格」があって、本来の姿になれなければその「資格」が無い。

本来の姿になっている、なっていない。この両極のどの変にいるのか?という事を我々はそれぞれ主観的に感じて、なっていない状態に近ければ近い程、けしからんと感じる。なっていないものをありがたがって見ている奴はバカだというある種の抑圧にもなる。

しかし社会を見渡すとその役割を担っている人が必ずしもその資格があるのか?というと、いろんな職業、いろんな役割、いろんな立ち位置全てに言える事ですが、そんな事は無いわけで、マスコミは特権を握っているのだから云々と言う書き方をいつもしますが、特権を握っていてもその「資格」があるとは思えない人もいっぱいいるし、そういう団体も数限りなくある。だけど普段はそんな事は気にならない。

もちろんその「資格」とやらがあればそれにこした事はないのかもしれませんが、全てにそれを望んでいるわけではもちろん無いし、それを望むという事そのものが、一種の暴力にもなる。また一般人の場合自分にそれを言う資格があるのか?というと、そんな事も無いわけで、立派にサボタージュしているくせに、自分の資格の無さは棚に上げて、偉そうに言っている事もあるでしょう。

それにマスコミは特にあるべき姿にならないと「資格」が無いと常に批判もされるわけで、彼らは(それを支持する人々も含めて)そういった見えない権力の暴力性に常にさらされているとも言える。一般的に批判にさらされやすい職業とか、人とか団体というのは、スキルを必要とし、収入も比較的高かったり、ある程度流動化が遮られていて、誰でもなれるものではなかったり、当然それらの特別性故に責任が重くなっているという事で余計にそう見えたりもするのでしょう。

政府が免許という意味での資格を与えれば、公的には資格があるとなるわけですが、「本来の姿の資格」という意味での「資格」とは意味が違うわけで、免許という意味での資格を持っていたとしても、自明性に支配された目線から見て、「資格」がないという事はあり得る。

「特権を握っていてもその『資格』があるとは思えない人もいっぱいいるし、そういう団体も数限りなくある」のに、自分の身近でそれを実感しないと、迷惑だと感じたりもしないし、お前らに資格はねえんだよとも思わないというか思えない。知らないのだから。そしてだから世の中犯罪だらけになるかと言えば、それはそれでそこそこ上手く回っている。怠け者が組織の中にいても、注意する人がいたりして、それはそれで何となく回る。

だけどマスコミがどこそこに悪者がいると指をさしてその事を知ると、大騒ぎになる。自分に迷惑がかかっていると自覚出来ていないのに、知ると間接的に迷惑していると感じる。自分が損しているわけでもないのに、何となく損したような気分にもなる。もちろん税金を無駄遣いされたって話であれば、間接的に俺の金と思うわけですが、減っているのも見えないし、無くなった実感も無いのですが、知ると損したような気になる。



それではその「資格」とは何に由来するのか?それは知るから。何を?「資格」が無いという事を。??




そもそもジャーナルというのは日刊の刊行物とか、定期刊行物の事を指すわけですが、別にその意味自体にイデオロギーとかは含まれてはいないし、権力を監視するという意味も含まれていない。起源をたどると、相当昔からあるもので、ローマの時代にそれを見ると要するに政府の官報とか速報みたいな感じのものでした。メディアは媒体、マスメディアが大衆媒体、マスコミ(ュニケーション)は大衆伝達と、そもそもそれ自体には本来という意味で言えば伝達手段というくらいの意味しかない。

だからどこかの時点で、それが権力をチェックするとか、社会正義とか、民衆の側に立ってとか、所謂今的な「本来のあるべき姿」というのが出来上がったのでしょう。

マスコミの「本来あるべき姿」というのは、どこかで出来上がったわけですが、それ以前は本来の姿が官報を指したり、定期的な刊行物そのものをさしたり、何らかの情報を伝える手段の事を指していたわけで、それでも問題が無かったというより問題はあったのかもしれませんが問題にならなかった。日本の大手マスコミも官報垂れ流しですし、定期的に刊行していたり放送していたりしますし、どこそこで事件があった、どこそこのスーパーは安い、どこそこの料理は安くて旨い、みたいなどうでもいいような報道ばかりですが、従来の意味で言えば十分その機能ははたしているわけで、これが問題があると感じるのは、どこかで生じた「本来あるべき姿」から乖離していると感じるから、そう感じる。

この後から生じた「本来あるべき姿」というのは、権力をチェックするとか、社会の公正性とか、民衆の側に立ったとか、要するに市民社会を護持する為に必要な要素がかけていると感じるからです。

という事は、この場合の市民社会の起源をたどる必要があるでしょう。これは言うまでもありませんが、フランスの市民革命にさかのぼる事が出来ます。要するに第一共和制から第一帝政に至る革命の挫折によって国家から社会が分離する。つまり国家(社会)のあり方を善き方向に変えようと思って、革命を起こし圧政者をぶっ殺して、万事解決と思ったら、あれ?最初に思っていたようにはならないぞ?どうも上手く行かない。

個々人が善かれと思って行動した結果、全く意図とは違う帰結に辿り着く。個々人からは見通しがたい不透明な何かがある。なんだかわからないけれど秩序が維持されていた。圧政者が全部悪いのかと思ったらそれを取り除いても上手く行かない。どうも国家の善きあり方を目指すだけでは足りない。秩序が壊れてしまった。なんだかわからない秩序を維持していた何ものかは何だろう?というのが社会の問題となる。

社会というのは昔からある概念です。すでにギリシャの昔、アリストテレスの時代からあります。原初社会から高文化社会への変化の中で、オイコス(家長を頂点とする各部族単位)がコイノニア・ポリティケ(もっと大きな単位)に従う理由を、ソキエタス・キヴィリス(政治優位の市民社会)によって主題化します。共同体の営みを人体に捉えて、政治的コミュニケーションを頭として秩序を考える。

昔の部族社会とか、血縁社会とか、社会の単位が小さい頃には問題にならなかった主題が、大きな単位、要するに国家的なる共同体が形成されて行く事によって、しきたりや部族の長による意思決定ではまとまらなくなって来る。したがってその為には何が必要か?集合的意思決定の総体である政治が必要となる。世界から国家が分離して主題化され、国家から政治が分離して主題化される。

時は流れ社会契約説という概念も生まれます。これは要するに主権が君主にあったものを、市民にあると転換して、市民の自然権の譲渡、市民との契約によって、国家が生まれるという風に変わる。これは絶対王制が営む国家、国家を機能させる為の政治と一枚岩であったものが、サプレションによって国民が幸福から乖離しているが故に誰が主権者なのか?という主題が国家から分離される。後にフランス革命に繋がって、意図しない帰結を生み、ロベスピエールやナポレオンを生み出す事になる。特定の人間や機関に主権があるとすると、今度はその主権によって独裁政治を招く、絶対王政の形が変わるだけとなる。ボナパルティズムやナチズムを生み出したのも主権者である市民が自ら選んでしまう。

エドマンド・バーク流の保守主義はこういった帰結を予想し、自由主義を破壊するものとして「主権」を捉える。これが英米の思想の根底にある。主権や憲法制定権力という概念は法の支配をぶち壊しにするインコンパティビリティ、両立不能性があるので、英米の憲法上にもこの概念はありません。主権者が国民であり憲法を制定出来るとなると、国家をぶち壊しにする自由まで含まれる事となる。だから主権の矛盾をマックス・ウェーバーなんかが国家はそういう場合は脱法せよという話に繋がる。

日本は主権が国民にある事に一応なっています。日本人は主権の概念を空気や山や川かなんかのような自然物のように思っていますが、これはもの凄く重い責務なのです。主権者気取りの官僚機構がやりたい放題というのもどうしようもない話なので、これを是正しないと始まらないのは確かなんですが、主権があるという事の切実さと同時に、暴走と表裏一体であるという事の重さを自覚する必要があります。とまあこの話はわきにおきましょう。主権の話は書きましたので。元に戻します。

産業革命の時代、ヘーゲルが提唱したビュニガーリッヘ・ゲゼルシャフト(経済優位の市民社会)の概念が問題になる。マルクスはブルジョワジーが搾取する市場の無政府性が秩序を破壊すると捉えてプロレタリア独裁による社会主義革命を構想します。市場というのは相当古い概念で共同体がある程度の大きさになった時点で生まれている概念でしょう。2000年以上何の問題も無かったものが産業が急速に進歩する事によって、資本が大量に動き、労働者と資本家という関係がこれまでの社会とは形が変わってしまった事によって問題化される。資源再配分機能である市場が国家や政治から分離されて主題化される。

「神の見えざる手」で有名なアダム・スミスは市場を背景にした自由な商品経済が自立的な秩序を持つという事を考えます。が、いずれにせよ、経済優位の市民社会というのもその後の顛末を見ればわかるように、問題ありまくりです。

一方は市場の暴走を招いて大恐慌のような意図せざる悲劇を生む事になりますし、つい最近まで新自由主義的な自由放任、市場原理主義と言われるような方向性もそうでしょう。どうもそれでは上手く行かない所が出て来る。これは道徳や共同体の共通前提があってはじめて自由を放置しても回るわけで、経済が動くと社会も流動化するので、共通前提も変わり、社会が変化すれば道徳感情も変化する。人それぞれの価値感になると、単に優勝劣敗が色濃くなる。一方もその後の東側社会やソ連、ナチスなんかもそうですが、意図せざる帰結を招く。

フランス革命の顛末から、国家を秩序立てているのは、どうやら集合的意思決定の総体である政治だけでは意図せざる帰結を招くという事に気付き、なんだかよくわからないけれど秩序が維持されていたのは何なのかと、資源再配分機能である市場の問題を分離して、秩序を維持しようと試みるも、どうやらそれだけでも足りない。その、なんだかわからないけれど維持されていた秩序を秩序付けていたものは何であるのか?という問題に対応して、様々な問題が主題化されます。

集合的決定機能(政治)、資源配分機能(経済)、紛争処理機能(法)、真理探究機能(科学)、根源的偶発性処理機能(宗教)、昔は一部の特権階級(旧東側諸国も政治が配分を決め、裁き、真理を決め、究極の価値を決めていた)がこれら全てを牛耳っていても何の問題も無かった。だけど、時代が変わり社会が変化する事によって、どうも上手く行かなくなる。政治と経済が一緒くたになっていると問題が生じるという事に気付き、経済を切り離して主題化し、それでも上手く回らないのはなぜだろう?と考えたら、どうも政治と法が一緒くたになっていると、法を利用してよからぬ帰結を招くと気付き、法を分離する。同じように科学や、宗教や、どんどん社会が分化して行く。これが要するに近代化を遂げるという事です。


段々マスコミ批判が違う方向に行きそうに見えるかもしれませんが、着地点はありますので、この話もう少しつづきます。!!
前回の続きです。

今回の背景にあるのは特捜検察の行き詰まりというか、事件日照りもあり、成果が上げられない状態が続いていたという事、そういう中でさすがに40人もの検事達を特殊事件の為に専従させている、特捜の体制の維持に対して合理的説明がし難くなっている。

胸のすくような政界捜査をやろうと思っては手を出し、結局上手く行かないのが続く。日歯連事件なんかがそう。日歯連事件は今回のような形式犯ではないけれど、今回と似たような所がある。政治資金規正法というのは派閥をめぐって派閥の中でやり取りされている裏金に対しても適応し難い。沢山の大物政治家が出て来てしまうと全部捕まえる事は出来ないので、村岡をつまみ食いして失敗する。しかも公判ももめる。何が検察の正義か?と。

その後ライブドアとか村上ファンドとか経済犯罪に手を出して、またまた失敗、大火傷を負う。経済オンチのくせに無理矢理手をつけて、とんでもない事になってしまう。経済犯罪の方にも行けない。また政界捜査だという事になって来るわけだけど、政界捜査をやろうと思って手を出した防衛省の守屋の事件。

これは検察が掘り起こしたというより、国会の証人尋問で表沙汰になった問題。この事によって、自民党の大物政治家達の名前が浮かび、いよいよ久々に疑獄事件か?という期待を見事に裏切って、秋山というキーマンを捕まえたなんて言うどうでもいいような話に落ちる。無理矢理脱税で捕まえたのはいいけれど、何も出来なかった。守屋がフェイクで出した、額賀や久間にももちろん届かず、守屋の本当のバックは小泉飯島ラインですがそちらも何も出てこない。

今度こそという事で突っ込んだのが、今回の西松事件。これも外為法という形式犯で社長まで逮捕した。巨額の裏金が政界に流れているという。今度こそ久々に胸のすくような疑獄捜査が始まるという期待が高まり、司法マスコミも期待した。しかし何も出て来ない。無理矢理やろうとして手を出した長野の事件では自殺者が出る。完全に追い込まれていたのが3月の初めの状態。

そこで小沢秘書に突っ込むわけですが、そこには検察の焦りを感じる事が出来ます。その焦り故に功を急ぎ更に失敗するという悪循環に入っている。自信が無い故に強さを誇示し、俺達は強いんだ!偉いんだ!という虚勢を張りたい。自信が無い故に勝ち負けにこだわらないと前に進めない。アドルノ・ホルクハイマー的に言えば権威主義的パーソナリティ。ナチスを生み出す醜いそして惨めで愚かな価値感に縛られている。これはこの国の様々なレベルで蔓延っている醜悪な価値感です。学者や知識人なんかこればっかり。政治家も官僚達も。そして一般人も。

なんとか悪者を名指しして、民意を味方に付けようとするも、実際には民意も半信半疑が殆どで、昔のように素朴に特捜イコール正義の味方という図式を信じている人がどんどん減っている。今本気で鈴木宗男が悪だとか、ホリエモンが悪だとか思っている人はむしろ少ないでしょう。法律違反はあったかもしれないけれど、どちらかと言えば運が悪いというだけで、同じようなと言うかもっと悪い奴はいるだろ?という感覚が一般的にはあるのではないかと思います。

これは大手マスコミなんかにも共通する所があって、どんどん感情を煽り、人々を煽動するような過剰な演出で盛り上げようと歯止めが効かなくなっている。その割には大手マスコミももはや沢山ある選択肢の一つでしか無く、過剰になればなるほど、人々は離れている。煽動にあまり反応しなくなる。血祭りに上げ引きずり下ろすという繰り返しも段々人々が反応しなくなって来ている。繰り返されるガス抜きの感情劇に、またかよって感じで。だから余計に過剰にならざるを得ない。

ポピュリズムは一種の麻薬です。最初は調子がいいのですが、調子に乗って繰り返していると、どんどん効きが悪くなって来る。しかしいったん俗情に媚びた演出によって動員に利用してしまうと、ポピュリズム抜きの動員だと人々の反応が鈍る。だけどポピュリズムで動員を続けていても、どんどん効き目は薄れて行く。今の与党にしろ、マスコミの報道にしろ、特捜の介入にしろ、動員としては殆ど効果が無くなっている。ここから抜け出す方法は一つしか無いのに、そことは全く対極の方法を繰り返す。

そうは言ってもまだまだ動員としては力がありますから、ひょっとすると政権交代も起こらないかもしれませんが、そうである以上、益々この麻薬は必要になり、そして効き目は益々無くなって来る。

それにポピュリズムを利用すると、今度はその事が制約になって足を引っ張るようになる。つまりマスコミであれば正義の味方面してお涙頂戴に勤しんでいるのに、当のマスコミは腐敗しているじゃないか!!みたいな話になる。脱税、捏造、隠蔽とやりたい放題です。北朝鮮問題で振り上げた拳をいまだに政治もマスメディアもおさめる事が出来ず、落としどころに迷走しています。こんな事では解決出来ない事ぐらいとっくにわかっているはずなのに、被害者家族やそれに感情的に同情するような人々や、安心安全にベタで怯えている哀れな人、脆弱な自尊心故に大いなる柱にすがるヘタレのもやし共の、北朝鮮何するものぞ!!断固決然!!という万歳突撃依存心、そして権威主義的パーソナリティを動員に利用してしまったが為に、彼らの感情的な拭き上がり故に本音が言えないという墓穴を掘る状況に陥ってしまう。

かつてこの国が暴走して戦時体制に突っ走ったときというのは、どちらかと言うと、民意が先ず政治にウンザリして、軍人さんのほうがクリーンで日本の為に考えているのではないか?という風に軍部の肩を持つようになる。もちろんマスコミの翼賛もありますが、民意が民主主義を食い殺した。

明治時代、法の前での平等というのは司法制度として欠陥がありましたので問題はありましたが、民主主義や立憲主義の観点から見ると十分に花を咲かせるに至ります。当時のヨーロッパのように、神の前での平等や、憲法の精神、人民との契約ではなくて、天皇の前での平等、皇祖、皇考との契約と、神のいないお国柄、天皇をシステムに組み込む事によって亜流ではありますが近代化を遂げる事になる。

大正時代になると益々独自のデモクラシーを持つようになり、天皇中心の国なので、「民主主義」という言い方は恐れ多いとして、「民本主義」なんて言い方でしたけれど、民意を反映させて議会が権力を縛るという意味では、そこそこ立派な民主主義でした。ひょっとすると今よりマシかもしれません。

ところがこの輝かしき大正デモクラシーも昭和に入ると陰りを見せ始めます。大きな転機は2,26事件以降(1936年2月26日)、このクーデター未遂を見てビビったマスコミが急に自己規制をはじめて軍部批判から翼賛に舵を切るわけですが、それより何より、民意が民主主義を食い殺した。

金融恐慌から始まった不況が長引き、トドメに大恐慌がによって更に大打撃を食らい景気が益々悪化して出口の見えない状況に立たされていた。農村の娘達は身売りをし、失業者が溢れかえり、いっこうに打開策が見いだせず、政治はただ議論に議論を重ね、選挙区におもねり、献金してくれる企業の顔色を伺う代議士ばかり。

こうした状況を見て、もはや日本の政治を議員共に任せておけない、日本のこの苦境を救わねばならないと考えたのが当時の軍人達でした。青年将校達が暴発する。しかしこの感覚は憂国の情の背後にルサンチマンがあったのだろうという事は想像出来ますが、理解は出来ます。問題はそれをどういう風に受け止めるかです。

民主主義は衆愚政治だと考える考え方というのは遠くギリシャのプラトンやアリストテレスの時代からあります。これを教訓として受け止めて、危機的な状況に対して何を成すべきか考えていれば、十分青年将校達の暴走も社会的にはプラスになったのかもしれません。いかに軍人達が憂国の情を持っていたとしても、感情的にはわかるが、それでは何も変わらないと冷静でいられれば何の問題も無かった。

ところがお上に依存するメンタリティは筋金入りの我が国、昭和の初期この軍人達を支持する人が増えて来る。非効率な議会政治はもう沢山。軍人さんの方が政治家達よりも日本の事を心配している。いっそ軍人さん達に政治を任せてみてはどうだろうか?こういう考え方がどんどん出て来る。マスコミの軍部翼賛の報道が後押しをし、死をかけて憂国に訴えるという崇高に見える精神、こういうのに日本人は弱い。

ボナパルティズムにしろ、ナチズムにしろ、民主主義を殺すのは独裁政治ではありません。民主主義は民主主義によって掘り崩される。民意が民主主義なんていらないと言い出したらお終い。もうどうにもなりません。日本の場合も軍部が悪いわけでも憲法が悪いわけでも、青年将校達が悪いわけでも、まして天皇が悪いわけでもない。国民自らが民主主義を守るという事がどういう事なのか自覚出来ずに自爆する。もちろんそこにはマスコミの翼賛報道による影響もありますが、国民がそれを相対化していれば、前大戦のような悲劇は回避出来たかもしれない。少なくとも戦争はしていたかもしれませんが、あそこまで大打撃を食らう事は無かったでしょう。もっと前の段階でブレーキを踏んでいる

さて、戦後日本の憲法というのはアメリカから与えられたとは言え、自国で作るような民意も無ければ能力も無かったので、いろいろ問題はあったのは確かですが、そこそこ民主主義と立憲主義を機能させながら再近代化を遂げます。右肩上がりの経済状況、不況を何度か味わいますが克服し、ポストモダンやリベラリズムもそこそこ普及し、バブルの熱狂へと加速する。しかしこれがバブル崩壊によって大打撃を食らう。失われた10年もうすぐ20年ですが、90年代とことん政治が機能せず、国民を無視した彌縫策と政局ばかりを繰り返す。

官僚も政治家も腐敗を極め、腐敗だけではなくて、能力的にも質が悪くなり、改革はいっこうに進まず、ステークホルダーの利権を守りつつ末端に痛みを押し付けるような方向性にどんどん進んで行く。小泉の時にちょっと国民が熱狂し危険な兆候が見えましたが、再び官製不況、コンプライアンス不況がステークホルダーの舵取りのマズさから来る失策によって経済を直撃、トドメにサブプライム。

事ここにいたっても全く効果の期待出来ないバラマキを繰り返し、誰もそんな事を選挙で頼んじゃいないのに勝手にやっている。その事についてそれほど危機感も無い。郵政選挙で支持された衆議院の三分の二を使って、全く真逆の方向性を取っているのに、その事を何とも思わない。小泉の方向性に問題があったという事にみんなが気付いたというのであれば、それはそれでわかりますが、だからと言って、選挙で正統性を得たわけでもないのに勝手に方向性を切り替える事の危険性に何も感じない。しかもその舵の切り替えが正しい道ならまだしも、こちらも全然正しいとは言えないような道です。というか散々失敗して痛い目に合って来たのにまだその事も自覚出来ない。ほんの10年ちょっと前まで散々痛い目に合っているのに、多くの人が忘れているというか、学習もしていない。90年代の政策が正しかったなんて言っているバカが舵取りをしているわけです。とんでもない話です。

肝腎のバブル以降の構造の変化、これから数十年を見越した産業のシフトチェンジは全く進まず、おそらくこのままで行けば90年代を繰り返すのみ。マスコミは翼賛報道を繰り返し、もしくはガス抜きの中身の無い批判を繰り返し、国民は政治に絶望し、検察が正義の味方面をして民主主義や立憲主義をぶち壊しにする。しかし国民も民主主義や立憲主義がどれほど重要な概念であるのかという教育も啓蒙も無いまま骨を抜かれているので、それを解釈する物差しも持たず、それほどたいした事だとも思っていない。

なんともあまりにも酷似しています。

政治家が無能なのも同じ、役人がやりたい放題なのも同じ、マスコミは一部のジャーナリストは踏ん張っているとは言え、大手マスコミ、そしてそれに媚びる御用学者、御用ジャーナリスト、御用コメンテーターが国民の絶望を煽り、啓蒙を全く行なわず、人参を鼻先にちらつかされると、簡単に翼賛報道に舵を切る。利権温存の為に何としてでもデッチアゲでも何でも駆使して、与党翼賛の旗を振る。民主主義や立憲主義をぶち壊しにしている特捜検察の奸賊どもを、正義の味方扱いし、問題点は殆ど光を当てない。後は民意が本気で翼賛の方向性を取り、民主主義の意義も立憲の本義本懐も投げ出せば、全く同じ状況を作り出す事になる。今この国は危機的な状況に突っ走っている。

ただ戦前と決定的に違うのが我々の側にネットでのコミュニケーションを通じた、情報のスピードによる梯子はずしがもの凄い速度で起こる事です。大手マスコミが翼賛報道をしていても、次第にネットで梯子はずしが始まって、あっという間に消費され尽くす。したがって動員と言っても一時的にしか通じないし、持続も出来ない。だから戦前みたいな暴走が起こらないのでよさそうに聞こえるかもしれませんが、そんな単純な話ではなくて、社会は益々複雑化し、様々なコミュニケーションが溢れ、もはやどんな合意も調達不可能な時代に突入しているというもっと厄介な事態が進行している。

絶望的な袋小路で参ってしまいますが、こういう時は民主主義や立憲主義の原理原則に立ち返ってもう一度シンプルに考え直すのが一番です。

つづく!!