前回の続きです。

いきなり例文。

ここ数日は北のミサイル報道、もういい加減にしろよって感じです。断固として強い態度とか、抗議して行くとか、勇ましい話ばっかりですけれど、こういうものをこれだけバカみたいに流して翼賛する光景は世も末です。このままでは歴史は繰り返すのでしょう。

日本の上空を通るのがけしからんという話も言いたい事はわかるけれど、日々日本の上空を各国の衛星は通過しているわけで、飛行機だって日々空を飛んでいるし。それが壊れて落っこちて来る可能性は日々あり得るわけです。そういうものをいちいちパトリオットで迎撃なんてしたら、気が狂った国家として北朝鮮以上に批判されるでしょう。

なんたらシステムで国民に情報を素早く伝える?伝わる頃にはミサイルは過ぎ去った後。ほんとバカじゃないの具合が悪くなるっつうの。誤情報が流れたとか、そういう事を論じたり批判する前に、そもそもそれがファックスでなされていたりする状況や、なんたらシステムとかいう、またどうせ莫大な導入費用をかけてんじゃないの?そっちを問題にしろよ。

それをこれまた政権の人気取りとして利用したいバカ麻生翼賛の気持ち悪い報道。こういうのに犯されて本気で麻生が国を守っているなんてトチ狂っているパーもいる。こんなもん無視するのが一番賢明なやり方なのに、ニュースと言えばこればっか。実質的な対地攻撃能力のないこの国でどんな選択肢があるというのか?何するのかと言えば安保理決議。そんな事をしても無駄だから、今回打ち上げたわけで、本当バカじゃないのって感じです。

交渉の常識として、経済制裁というのは制裁するぞと脅している段階か、経済制裁した瞬間しか効果がありません。時間が経てばなれる。他から何とかする。世界中が経済制裁していれば話は別だけれど、戦前の日本みたいな状況に陥れば逆に追い込まれて暴発するので、まわりの国からすればそんな事は合理性計算が出来る普通の国なら出来ないし、やる気も無い。だから経済制裁を継続しても北とすれば痛くも痒くもない。痛くも痒くもない状態で経済制裁解除というアメをちらつかせても、痛くも痒くもないのだから意味がない。

方法は一つしか無い経済制裁をとっとと解除して、経済的に依存関係を作らせる。頭を下げても、ウソをついても、土下座をしてでもニコニコと握手をして友好を謳い、日本との関係が無くちゃ立ちいかないという状況を作り出した上で経済制裁をチラつかせる。いい加減に拉致被害者返してくれないもんですかね。もう国内的にもいいわけが出来んのですよとか何とか。それが交渉というものです。カッコつけて拳を振り上げるのは、拉致被害者返してもらうとか、北の問題を解決するというより、解決するフリをしているだけ。人気のため。武器を使わずにゲーム勝つ為には戦略が必要で、少なくともこの局面ではカッコつけるのは何の役にも立たない。これ常識。

放っといたって日本を攻撃するメリットなんて無いのに、何を騒いでいるのか?だいたい自民党政権が不人気になると、いつも北朝鮮がだだをこねる。その事の意味を考えろって話です。アメリカの軍需産業が喜ぶだけ。

安倍晋三なんかを本当に対北外交の強硬派と信じている信者も多いのが困りもんです。統一教会、文鮮明、ブッシュ、北朝鮮というパイプの意味を考えろ、頭ついてんのかよって話です。だいたい公安調査庁と朝鮮総連がつるんでいたわけで、要するにマッチポンプです。一方で危機を煽り、裏では手を握っている。散々禍々しくミサイルを配備し大騒ぎした上で冷静にとほざくバカ政府、キチガイ沙汰のミサイル報道で国民を煽動しといて、最後に一言「冷静に」、お前らが煽ってんだろって報道と瓜二つです。

そもそも核の小型化が技術的に可能な時代に、海に囲まれてしかもいくらでも隠れて入国出来る甘甘の管理体制であるこの国、本気で日本を攻撃したいと思ったら簡単な話です。核なんて使わなくたって爆弾でも、包丁で脅してでも、いくらだってやろうと思えば出来るでしょう。それをわざわざ前時代的なロケットという技術でわざわざわかりやすいように力を誇示しているフリをする北朝鮮。それに釣られて騒いでいるバカメディアとそのケツを舐める国民。奴隷どもがバカ麻生を支持。この下らないケツ舐め連鎖。MD利権、米軍基地利権、防衛利権まっしぐら。テロを本気で起こそうと思っているとすると、それを食い止める事は出来ないという事が、すでに911でハッキリわかっているはずです。それには核もミサイルも兵器さえもいらない。

だから物理的実力を持ってそれを排除するという事や、物理的にプロテクトして防御する、人の流れを遮って防御する、なんて話よりも、テロなんて起こすのがバカらしいと思えるような状態を作り出すという事が一番遠回りかもしれないけれど、結局は一番確実であり、実は一番近道でもある。対立を煽っているうちは徹底的に無視をして、交渉の扉は開いておき、それに応じる姿勢見せたら、なるべくだだをこねてヘソを曲げないように扱えばいい。

というか事実上そういう選択肢しか本当は無いはずです。拉致の解決だってそれしか選択肢は無い。相手は核を本当かどうかは定かじゃなくとも持っていると言っている。日本が核武装出来るのか?と言えば日本人に反対する輩がいようがいまいが、現状の世界の体制からすると、ほぼ不可能。武力によって核に対する抑止になるのは核しかありません。MDなんてのは何の役にも立たない。一発ずつミサイルを発射して下さる戦争なんて聞いた事無い。複数発通常弾も混ぜて核を撃たれたらアウトです。普通戦争になればそうなる。

例文終わり。



と、いきなり前回の続きとは関係ない話じゃねえかと思ったそこの貴方!!確かにそうなのですが、何でこんな事をいきなり書いたのかと言いますと、これは麻生及び与党のバカ共を批判している文章なんですが、この文章は同時にマスコミ批判でもあります。何を批判しているのかというと、北朝鮮問題のあり方なんですが、これは北朝鮮報道の本来のあり方に対してイラ書きしているのです。報道の本来のあり方?これは自分もよく言ってしまう言葉なんですが、原則に立ち返る前に、少しこの問題のフォーカスをズラして問題を整理してから、そちらへと移ります。

これはマスコミが本来何の為にあるのか?マスコミというかジャーナリズムが何の為にあるのか?という事を考えるというより、何でそういう風に思うのか?という問題ですので、ちょっと切り口が違います。

マスコミが死んでいるという事を書いて来たわけですが、死んだという事はかつては死んでいないという状態があったと言う事になります。かつては生きていたという事になる。日本でマスコミが死んでいるという場合、NHKと5系列16社体制の記者クラブ制度を指している場合が多く、要するに既存の大手マスメディアが死んでいるという意味合いが殆どだと思いますが、それ以外にもジャーナリズムそのものが、従来の枠組みで切れなくなっているという大きな意味での場合もあるでしょう。

しかし前者の場合であれば、これは時間の問題で、誰もがすでにそう思っている事でもあるのでしょうから、近い将来記者クラブは開放の道に進むだろうと思いますし、そうなればある程度独占構造というのも変わって来る可能性がある。既存の大手マスメディアが仮に死んでしまっても、コンテンツは何らかの形で残るだろうし、中で働いている人や所属している記者達は、ある程度スクリーニングされてしまうとは思いますが、散らばって行くのでしょうから、技術や善き伝統はある程度残るでしょう(もちろん悪しき伝統も残るかもしれませんが)。

そういう意味でのマスコミの死であればたいした問題ではない。勤めている人達は冗談じゃないよと思うでしょうけれど、社会的にはたいした問題は無いでしょう。オルタナティブが出て来ていないという問題も、頭を押さえつけるものが無くなれば、どうにかなるものです。もちろん既存の大手メディアが生き残る可能性は十分あり得ますし、むしろ従来の大手メディアのやり方が死ぬという意味であるだけで、何の問題も無いかもしれない。

今回のエントリーも殆どがその切り口で散々書いて来たわけですが、少し視野を広げて、従来の枠組みで切れなくなっているのではないか?という後者のジャーナリズム全体の問題に少し目を移してみます。前者がくたばる理由は何となくわかる。腐っているという言い方も多くの場合前者の体制から生まれる権益構造を抱えているが故に起こる事でしょう。しかしそこに後者の意味合いでの機能不全の問題が絡んでいるとなると、前者の構造を解体しても、問題は残る事になります。それでは始めます。

「本来の姿」という言い方は、フーコー的に言うと、ここに権力が発生します。だから権力がつけ込む隙間にもなる。自明性の支配。本来の姿になればマスコミの「資格」があって、本来の姿になれなければその「資格」が無い。

本来の姿になっている、なっていない。この両極のどの変にいるのか?という事を我々はそれぞれ主観的に感じて、なっていない状態に近ければ近い程、けしからんと感じる。なっていないものをありがたがって見ている奴はバカだというある種の抑圧にもなる。

しかし社会を見渡すとその役割を担っている人が必ずしもその資格があるのか?というと、いろんな職業、いろんな役割、いろんな立ち位置全てに言える事ですが、そんな事は無いわけで、マスコミは特権を握っているのだから云々と言う書き方をいつもしますが、特権を握っていてもその「資格」があるとは思えない人もいっぱいいるし、そういう団体も数限りなくある。だけど普段はそんな事は気にならない。

もちろんその「資格」とやらがあればそれにこした事はないのかもしれませんが、全てにそれを望んでいるわけではもちろん無いし、それを望むという事そのものが、一種の暴力にもなる。また一般人の場合自分にそれを言う資格があるのか?というと、そんな事も無いわけで、立派にサボタージュしているくせに、自分の資格の無さは棚に上げて、偉そうに言っている事もあるでしょう。

それにマスコミは特にあるべき姿にならないと「資格」が無いと常に批判もされるわけで、彼らは(それを支持する人々も含めて)そういった見えない権力の暴力性に常にさらされているとも言える。一般的に批判にさらされやすい職業とか、人とか団体というのは、スキルを必要とし、収入も比較的高かったり、ある程度流動化が遮られていて、誰でもなれるものではなかったり、当然それらの特別性故に責任が重くなっているという事で余計にそう見えたりもするのでしょう。

政府が免許という意味での資格を与えれば、公的には資格があるとなるわけですが、「本来の姿の資格」という意味での「資格」とは意味が違うわけで、免許という意味での資格を持っていたとしても、自明性に支配された目線から見て、「資格」がないという事はあり得る。

「特権を握っていてもその『資格』があるとは思えない人もいっぱいいるし、そういう団体も数限りなくある」のに、自分の身近でそれを実感しないと、迷惑だと感じたりもしないし、お前らに資格はねえんだよとも思わないというか思えない。知らないのだから。そしてだから世の中犯罪だらけになるかと言えば、それはそれでそこそこ上手く回っている。怠け者が組織の中にいても、注意する人がいたりして、それはそれで何となく回る。

だけどマスコミがどこそこに悪者がいると指をさしてその事を知ると、大騒ぎになる。自分に迷惑がかかっていると自覚出来ていないのに、知ると間接的に迷惑していると感じる。自分が損しているわけでもないのに、何となく損したような気分にもなる。もちろん税金を無駄遣いされたって話であれば、間接的に俺の金と思うわけですが、減っているのも見えないし、無くなった実感も無いのですが、知ると損したような気になる。



それではその「資格」とは何に由来するのか?それは知るから。何を?「資格」が無いという事を。??




そもそもジャーナルというのは日刊の刊行物とか、定期刊行物の事を指すわけですが、別にその意味自体にイデオロギーとかは含まれてはいないし、権力を監視するという意味も含まれていない。起源をたどると、相当昔からあるもので、ローマの時代にそれを見ると要するに政府の官報とか速報みたいな感じのものでした。メディアは媒体、マスメディアが大衆媒体、マスコミ(ュニケーション)は大衆伝達と、そもそもそれ自体には本来という意味で言えば伝達手段というくらいの意味しかない。

だからどこかの時点で、それが権力をチェックするとか、社会正義とか、民衆の側に立ってとか、所謂今的な「本来のあるべき姿」というのが出来上がったのでしょう。

マスコミの「本来あるべき姿」というのは、どこかで出来上がったわけですが、それ以前は本来の姿が官報を指したり、定期的な刊行物そのものをさしたり、何らかの情報を伝える手段の事を指していたわけで、それでも問題が無かったというより問題はあったのかもしれませんが問題にならなかった。日本の大手マスコミも官報垂れ流しですし、定期的に刊行していたり放送していたりしますし、どこそこで事件があった、どこそこのスーパーは安い、どこそこの料理は安くて旨い、みたいなどうでもいいような報道ばかりですが、従来の意味で言えば十分その機能ははたしているわけで、これが問題があると感じるのは、どこかで生じた「本来あるべき姿」から乖離していると感じるから、そう感じる。

この後から生じた「本来あるべき姿」というのは、権力をチェックするとか、社会の公正性とか、民衆の側に立ったとか、要するに市民社会を護持する為に必要な要素がかけていると感じるからです。

という事は、この場合の市民社会の起源をたどる必要があるでしょう。これは言うまでもありませんが、フランスの市民革命にさかのぼる事が出来ます。要するに第一共和制から第一帝政に至る革命の挫折によって国家から社会が分離する。つまり国家(社会)のあり方を善き方向に変えようと思って、革命を起こし圧政者をぶっ殺して、万事解決と思ったら、あれ?最初に思っていたようにはならないぞ?どうも上手く行かない。

個々人が善かれと思って行動した結果、全く意図とは違う帰結に辿り着く。個々人からは見通しがたい不透明な何かがある。なんだかわからないけれど秩序が維持されていた。圧政者が全部悪いのかと思ったらそれを取り除いても上手く行かない。どうも国家の善きあり方を目指すだけでは足りない。秩序が壊れてしまった。なんだかわからない秩序を維持していた何ものかは何だろう?というのが社会の問題となる。

社会というのは昔からある概念です。すでにギリシャの昔、アリストテレスの時代からあります。原初社会から高文化社会への変化の中で、オイコス(家長を頂点とする各部族単位)がコイノニア・ポリティケ(もっと大きな単位)に従う理由を、ソキエタス・キヴィリス(政治優位の市民社会)によって主題化します。共同体の営みを人体に捉えて、政治的コミュニケーションを頭として秩序を考える。

昔の部族社会とか、血縁社会とか、社会の単位が小さい頃には問題にならなかった主題が、大きな単位、要するに国家的なる共同体が形成されて行く事によって、しきたりや部族の長による意思決定ではまとまらなくなって来る。したがってその為には何が必要か?集合的意思決定の総体である政治が必要となる。世界から国家が分離して主題化され、国家から政治が分離して主題化される。

時は流れ社会契約説という概念も生まれます。これは要するに主権が君主にあったものを、市民にあると転換して、市民の自然権の譲渡、市民との契約によって、国家が生まれるという風に変わる。これは絶対王制が営む国家、国家を機能させる為の政治と一枚岩であったものが、サプレションによって国民が幸福から乖離しているが故に誰が主権者なのか?という主題が国家から分離される。後にフランス革命に繋がって、意図しない帰結を生み、ロベスピエールやナポレオンを生み出す事になる。特定の人間や機関に主権があるとすると、今度はその主権によって独裁政治を招く、絶対王政の形が変わるだけとなる。ボナパルティズムやナチズムを生み出したのも主権者である市民が自ら選んでしまう。

エドマンド・バーク流の保守主義はこういった帰結を予想し、自由主義を破壊するものとして「主権」を捉える。これが英米の思想の根底にある。主権や憲法制定権力という概念は法の支配をぶち壊しにするインコンパティビリティ、両立不能性があるので、英米の憲法上にもこの概念はありません。主権者が国民であり憲法を制定出来るとなると、国家をぶち壊しにする自由まで含まれる事となる。だから主権の矛盾をマックス・ウェーバーなんかが国家はそういう場合は脱法せよという話に繋がる。

日本は主権が国民にある事に一応なっています。日本人は主権の概念を空気や山や川かなんかのような自然物のように思っていますが、これはもの凄く重い責務なのです。主権者気取りの官僚機構がやりたい放題というのもどうしようもない話なので、これを是正しないと始まらないのは確かなんですが、主権があるという事の切実さと同時に、暴走と表裏一体であるという事の重さを自覚する必要があります。とまあこの話はわきにおきましょう。主権の話は書きましたので。元に戻します。

産業革命の時代、ヘーゲルが提唱したビュニガーリッヘ・ゲゼルシャフト(経済優位の市民社会)の概念が問題になる。マルクスはブルジョワジーが搾取する市場の無政府性が秩序を破壊すると捉えてプロレタリア独裁による社会主義革命を構想します。市場というのは相当古い概念で共同体がある程度の大きさになった時点で生まれている概念でしょう。2000年以上何の問題も無かったものが産業が急速に進歩する事によって、資本が大量に動き、労働者と資本家という関係がこれまでの社会とは形が変わってしまった事によって問題化される。資源再配分機能である市場が国家や政治から分離されて主題化される。

「神の見えざる手」で有名なアダム・スミスは市場を背景にした自由な商品経済が自立的な秩序を持つという事を考えます。が、いずれにせよ、経済優位の市民社会というのもその後の顛末を見ればわかるように、問題ありまくりです。

一方は市場の暴走を招いて大恐慌のような意図せざる悲劇を生む事になりますし、つい最近まで新自由主義的な自由放任、市場原理主義と言われるような方向性もそうでしょう。どうもそれでは上手く行かない所が出て来る。これは道徳や共同体の共通前提があってはじめて自由を放置しても回るわけで、経済が動くと社会も流動化するので、共通前提も変わり、社会が変化すれば道徳感情も変化する。人それぞれの価値感になると、単に優勝劣敗が色濃くなる。一方もその後の東側社会やソ連、ナチスなんかもそうですが、意図せざる帰結を招く。

フランス革命の顛末から、国家を秩序立てているのは、どうやら集合的意思決定の総体である政治だけでは意図せざる帰結を招くという事に気付き、なんだかよくわからないけれど秩序が維持されていたのは何なのかと、資源再配分機能である市場の問題を分離して、秩序を維持しようと試みるも、どうやらそれだけでも足りない。その、なんだかわからないけれど維持されていた秩序を秩序付けていたものは何であるのか?という問題に対応して、様々な問題が主題化されます。

集合的決定機能(政治)、資源配分機能(経済)、紛争処理機能(法)、真理探究機能(科学)、根源的偶発性処理機能(宗教)、昔は一部の特権階級(旧東側諸国も政治が配分を決め、裁き、真理を決め、究極の価値を決めていた)がこれら全てを牛耳っていても何の問題も無かった。だけど、時代が変わり社会が変化する事によって、どうも上手く行かなくなる。政治と経済が一緒くたになっていると問題が生じるという事に気付き、経済を切り離して主題化し、それでも上手く回らないのはなぜだろう?と考えたら、どうも政治と法が一緒くたになっていると、法を利用してよからぬ帰結を招くと気付き、法を分離する。同じように科学や、宗教や、どんどん社会が分化して行く。これが要するに近代化を遂げるという事です。


段々マスコミ批判が違う方向に行きそうに見えるかもしれませんが、着地点はありますので、この話もう少しつづきます。!!