今日はちょっと長くなります(まあいつもの事ですけど)。お付き合い頂ければ幸いです。それでは気合を入れて前回の続きです。

前回の話で民主主義や立憲主義がいかに困難で且つ重要な概念であり、守るべき価値があるのかという事を書いたわけですが、なぜ戦時体制に突っ走ったのか?という問題の背後にはマスメディアの翼賛報道と我々の民意があったからだとも書きました。しかし今のこの国の現状はその時よりも酷い状況かもしれません。なぜなら前大戦へ突っ走ったのは、マスコミによる翼賛に煽られていたとは言え、そこには我々の民意があった。しかし今の統治権力は主権者が誰かを勘違いしている。それはマスメディアもそうです。民意が消えている。暴動を防ぐ為に民意を無視するならともかく、民意を無視して権力が暴走している。これはなんとしても歯止めをかけないと後々えらい事になる。

例えば繰り返しになりますが小沢の秘書の問題。森田健作はスルー、自民党の西松関係の議員もスルー、小沢は入りをキチンと書いてあるのに、書いてない与党議員はうっかり忘れていたと書き直せばスルー、ばんそうこう大臣となんとか還元水大臣も記憶に新しい所です。検察の基準では裏献金で1億が今までの通例でした。それが表の3500万で起訴です。与党議員のハードルのなんと高い事か。裏金なんて裏なんだからそう簡単にバレるわけが無い。自民の派閥の領袖クラスは間違いなく裏金をもらってます。まあ小沢もそうかもしれませんが、表の献金というのは違法ではないのに、わけのわかんない恣意的な解釈を振り回して、ちゃんと公開しているものをパクる。

しかも裏で1億という基準を公言したのは、現検事総長です。それを大幅に解釈を変更した説明責任も果たしていない。記者クラブでの会見もオフカメでクローズ。現行法でパクれないものは罪刑法定主義の観点から言ってパクれません。解釈を変更するとかそういう問題ですらない。勝手に法律を作っちゃっている。なぜ国会に立法権があるかと言えば前回もいいましたがそこには民意があるからで、主権在民の観点から言えば我々が主権者だから、法の枠の中にいながら議員を選んで法律を作るという権限まで与えられている。

それは憲法に対してもそうです。国家権力は何があっても守らねばならないのが憲法です。その国家権力が立法し行政し司法する国家に我々は所属しているわけですが、それと同時に我々には憲法改正の権利があります。つまり半分立憲の枠の内側にいながら、半分枠の外側にいる。事実上一度も行なわれていないとは言え、建前上はそうなっている。それは国民に主権があるからです(と同時に憲法改正手続きを決めるという憲法の枠の外の権限が国家の側にある、実は国家権力も僅かながら憲法の枠外の領域がある。だから国家権力は時において法の枠を踏み越えてでも国民を守る義務があるとなるのですが、それはわきにおいて下さい。それに国民を守る為というより利権を守る為に脱法行為をしているクズばかりなので、そういう連中にはこういう権限を正統化する資格は無い、しかもバレたらサンクションというのが大前提ですが、バレても平気の平左。こんな奴らが国家権力者などと偉そうにする資格はありません)。

しかし今回の小沢の秘書逮捕の問題はこれは誰でもわかる事ですが政治的には確実に影響を及ぼす。というかすでに及ぼしています。我々の主権を侵害してバイアスをかけてしまう。小沢が隠れてコソコソやっているのなら、まだ理解出来ますが、従来の解釈である裏で1億という基準をかなぐり捨てて、情報公開されていて違法でも何でも無いものを、いきなり違法だと言って取り締まる。検察の説明では一部が時効になるという理由と、役所内の3月の人事が影響していると説明しただけで、その振る舞いはチャールズ一世になっているのではないのか?という事には全く何も答えていない。

選挙が絶対に半年以内にあるのはわかっている事ですし、今これを取り締まれば明らかに民主党は不人気になる。政権交代確実といわれていた状況で、どう見てもその行いは民主主義にも反しているし、立憲主義にも反しているように見える事に対する説明は何一つなされていない。小沢の秘書が白か黒かなんて問題なんかよりも、明らかに政治への影響力を行使している。これはそう思っていないそんなつもりではないでは済む問題ではありません。そういう風に見えた瞬間に立憲や民主をぶち壊しにする暴挙という他ありません。帰結的に見れば完全に政治介入です。帰結がそうなのだからどんな理由があっても通用しない。

立憲国家であり民主国家であればどうするかといえば、革命を起こして検察を血祭りに上げるのが正しいとなる。それが我々が持っている権利、ジョン・ロックが言った抵抗権です。これが立憲主義、民主主義の基本的な権利でその国家である以上、正しい権利です。こういう事を起こされないようにするのが、立憲や民主を謳っている国家権力の責務です。その責務を果たさなければ当然打倒される。ただ憲法があるだけなら中国だってあるし、北朝鮮だって正式名称は朝鮮民主主義人民共和国、民主主義がくっついている。しかしそれを実際機能させるとなると最低限守らねばならない原理原則というのがあります。それを踏み越えてしまえば立憲や民主を謳っても、北朝鮮や中国と変わらない。

前回書いたように民主主義や立憲主義がどれだけ重い概念か書いたのでそちらを読んで貰えばわかりますが、我々の民意を侵害するという事は、君主であってもぶち殺される、戦前の天皇だって従っていた。国民に多大な犠牲を及ぼしてでも守らねばならない概念です。それをたかが小役人ごときが勝手に侵害するなど言語道断です。その政治家が相応しいかどうかは、そんなのは国民が判断すればいい事で、余計なお世話です。それで検察が血祭りに上げられて、関わった人間全て徹底的にサンクションを与える事が出来るのならまだしも、全くそんな事がされる気配など無いし、それをチェックする裁判所と検察はグル、おまけにマスコミまでそのケツを舐めている。とんでもない話です。

戦前のこの国は立憲や民主主義はそこそこ機能していましたが(1940まで)、法治国家だったのかというと、そこの所はお上に依存する伝統からか、とても法治国家の構成要件を満たしているとはいいがたい仕組みでした。何てったって検察と裁判所が同じ役所でしたから。それをGHQがあまりにも酷い話だという事で、無理矢理切り離した。これは当然です。検察が睨んだら裁判所と同じ役所なんですから、有罪になるに決まっている。

しかし切り離したとは言え、今でも人材交流は行なわれているし、戦前の体質は脈々と受け継がれている。裁判というのは被告を裁く場ではありません、検事を裁く場です。多くの人が勘違いしやすい所ですが、これは近代裁判の鉄則です。にもかかわらず検事と裁判官がグルなんですから悪夢としか言いようが無い仕組みで回っている。

特に疑獄事件に関しては、相当悪質な捜査や判決が野放しになっている。つまり有罪に決まっているという世論をバックにして何が何でも有罪に持ち込もうとする。政治は政治家が民意で選ばれる以上、それが力の源泉になるけれど、司法に民意を反映させてはマズいと前回書きましたが、今は裁判員制度という民意を反映させる仕組みを公然と通してしまっているのが、いかに危ういかがわかるでしょう(もちろん民意が反映されるイコール重罰化になるという事が言いたいわけではありません。重い責務を担った状態と無責任にバカメディアの流す報道を鵜呑みにしている状態では、事件への理解も変わるでしょうから、むしろ死刑にしろ!!と騒いでいた人が、死刑にしていいのかな?と迷う方が多いかもしれません。が、そういう問題ではなくて、司法は民意から独立させておかないと、司法の正統性が揺るがされます。その事が大問題なのです。ポピュラリティや感情の集合体というのは時とともに移り変わってしまう、そうすると判決も都度都度そのときの人々の感情のトレンドによって、同じ事でも重かったり軽かったり、あの時ああだったのに、今回これかよという風になってしまうと{なってなくても見えてしまう恐れが可能性としてあるだけでも}、法的裁定の権威、人々が自発的に従う気持ちそのものに傷を付け、法的正統性そのものがいい加減なものに見えるようになる。所詮素人が一緒に決めた事だと、誰もその事を信じなくなってしまえば、公正感も益々期待出来なくなる)。

まして倫理的な問題でパクるなどとんでもない話です。日本では国家権力者達も頭が悪いので、法律にしろ憲法にしろ、道徳的規定を盛り込もうとするバカが沢山いますが、道徳と人権は別の話であって、道徳や感情や倫理観の問題というのは、違反したかどうかというのを問えない問題です。それは内面の問題だからです。思想信条の自由を侵害する事になる。憲法違反です。問えるのは行為だけ、したがって法と道徳、法と感情、法と倫理、法と正義は全て別の話であって、これを混同するなど越権行為もいいところです。

ライブドア事件の時に強制捜査に踏み込んだ特捜の部長が汗水たらしてどうのこうのとご託宣をのたまってましたが、こういう感覚はどうにもなりません。そんな事どうでもいい話です。だいたいこの国では金儲けはけしからんみたいな感覚がありますが、資本主義を駆動させる上で一番下らない感覚です。別に自分でそう思ってればいい話で、人の事をとやかく言うのは間違っています。だったら稼いで残った金は常に全額寄付を心がけるべきでしょう。資本主義というのは、他人の金儲けに口を出さない。何に使おうが自由である事を認めて駆動出来る仕組みです。この前近代的な古くさい抜け駆け嫉妬根性が、いつまでたってもまともな資本主義システムを構築出来ない根本原因です。そういうきれい事が蔓延っているわりには抜け駆けや拝金主義が跳梁跋扈している。ステークホルダーの醜い利権護持に利用されている。

この金儲けけしからんという下らない感覚が、例えばバブル崩壊にトドメを刺した旧大蔵省の総量規制みたいな話になる。土地の値段がむやみに上がるのはけしからんと言う感じで。これだって、法律でもなければ、総理大臣の指示でもない。議会が決めた事でも、我々の民意が反映されたわけでもなくて、勝手に役人が金融機関に出した通達で、戦後の経済的繁栄を一挙に叩き潰してしまった。これが無ければあれほどの大打撃は無かったでしょう。今でもこの後遺症から抜けきれていない。旧大蔵省は何一つその事で責任は取っていません。

要するに官僚システムというのは常に民主主義や立憲主義を踏み越えて、独裁者として振る舞って来た。ライブドア事件だってそうです。普通株式会社の強制捜査を行なう場合、原則として金曜日に行なうのが通例です。土日の休日を挟み、時間をおいて冷静さを取り戻させる為にそうする。にもかかわらず、この時は月曜日に行なって、そのせいでマネックスが狼狽してライブドア株の担保価値をゼロにした。このマネックスショックによって市場は大混乱し、他のIT銘柄の暴落に引きずられて、狼狽売りが連鎖し、東証はパンクする。散々虚業だの実体が無いだのと風説の流布を大手マスメディアがライブドアを叩いている犯罪行為と同じ事を犯し、市場がそれによってパニックに陥る。

結局出て来た話は有価証券報告書の虚偽記載と偽計風説の流布というどうでもいいような微罪で、しかも通常の粉飾のように無いものをあるとしたわけではなくて、あるものを付け足す場所が間違っているという粉飾で、記載ミスと変わらない。やり方を複雑にしたとか、ダミーを使ったとか、いろいろ言われておりますが、それが違法かどうかは相当疑わしい話です。暴力団と繋がっているとか、脱税をしているとか、海外でマネーロンダリングをしているという疑いを散々騒いでいた。立件もされなければ定かでもないような憶測によってクソミソに叩いた。宮内に対して会社の金の横領の免罪と堀江への証言で司法取引に使っているなんて話もある。検察がそれを行なったとすれば司法取引も明らかに脱法行為です。適正手続きを一歩でも踏み違えれば近代裁判の鉄則として無罪にするのが当たり前です。これを逸脱すれば法治国家ではなくなります。

明らかに市場という民主主義的な民意を反映させる場に司法が介入して、積極的に混乱させて、誰が一番強いのかを顕示したようにも見える。小沢秘書への逮捕が明らかに帰結として政治介入しているのもそうです。一番偉いのは誰かと。少なくとも市場への介入にしろ政治への介入にしろ最小限にするという気遣いは全く感じられません。

憲法より民意より偉い奴というか強制力のある組織があるのだから、この国はどう考えても立憲主義でも民主主義でもありません。何せそれをチェックする裁判所もマスコミも機能するどころかグルになっているわけですから。理由やプロセスがどうあれ帰結としてそう見えてしまうというのは重要な問題です。なぜなら正統性が崩れてしまい、誰もそういったものの権威を信じなくなるからです。いったんそういうものが崩れ去れば、簡単には再構築出来ません。

それにライブドア事件では特捜が強制捜査をして無理矢理上場廃止に追い込んでしまったわけですが、この手の粉飾決算というのはいくらでもその後も出て来ているし、課徴金で話は済んでいる。なぜなら会社の一部の人間が不正を働いたからと言って、その会社もろとも、株主もろとも、市場もろとも大混乱に貶めるような強制捜査は合理的ではないからです。

日興コーディアルが200億の粉飾で5億の課徴金、上場廃止も逮捕もされていない。これは安倍晋三と繋がりがあったという話もあります。だからお目こぼしがあったのだと。そしてIHI(石川島播磨重工)が170億の粉飾で16億の課徴金、同じく上場廃止も無いし逮捕もされていない。ライブドアは50億の粉飾疑惑の段階で、刑が確定していないにもかかわらず、上場廃止、逮捕者が4人、そして二人が実刑判決。証券取引法違反の咎で、実刑判決を食らった例はこの時がはじめてで、これも法の解釈をいきなり変えている。その説明も倫理的な問題を混同したり、市場を悪用したとかって下らない話が出て来るわけですが、これのどこに法の基での平等があるのでしょうか?

ライブドア事件のようにたった50億程度の粉飾疑惑で刑も確定していない段階で、数千億規模の被害を拡大させるような手法は仮にホリエモンが黒であってもやり過ぎです。明らかにこの捜査というのは、新興企業のちょっと自信過剰な若者が、従来のステークホルダーの利権に食い込もうとして、虎の尾を踏んでしまったから、買収されたら元も子もないマスコミが大バッシングを繰り返し、世論もそれに引きずられて特捜が介入した。理由が何であれ帰結としてはそういう風に見える。

これによって、小泉に従って事後チェック型の権益構造で利権をあさっていた官僚どもが、小泉のレイムダックの笛の音が鳴り響き、権益構造のシフトが起こって(つまり小泉インチキ事後チェック型の権益構造を経由する事によって、弱者救済、安心安全という御旗を手にして、堂々と従来の権益構造に戻る事をむしろ世論やマスコミに後押しされて戻る事が出来るようになる、というよりもインチキ事後チェックを経由するという事は民営化や合理化の名の下に責任をパージして決定権だけを残すというシフトだったので、事実上以前の護送船団方式よりも強化されるような事前チェック型に戻る事が出来てしまう、今のやりたい放題はその帰結です)官製不況、コンプライアンス不況の引き金を引く事になる。

小沢秘書にしろホリエモンにしろ、自分は彼らが白か黒かはわかりませんし、そんなものはどっちでも構わない興味もありません。しかし彼らが黒だとしても、検察やマスメディアの振る舞いはそれを遥かに凌駕する悪質な問題だと思う。一人や二人の犯罪者もっと言えば100人の罪人を逃すとも、一人の無辜の民も罰する事なかれではありませんが、100人の罪人を逃す事よりも、よっぽど社会的な影響としてはマイナスであり、この国の体制そのものを揺るがしにするような大問題です。国民全員に影響を及ぼしてしまう。これを放置しておいては、近い将来全国民に悲劇が降り掛かるのは間違いありません。

民主党は捜査の可視化を言っています。取り締まりの近代化。弁護士の立ち会いも無いし、何しろ人質司法のやり口がどうにもなりません。認めないと保釈されない。罪を認めて調書にサインすれば保釈するという、とんでもない手法を取っている。それで裁判の際にそのサインは無効であると覆せればまだしも、覆そうものなら、証言を覆したって話になって、裁判所からもマスコミからもメッタクソにバッシングされる。

光市の事件でなんかがいい例です。これは本村さんの怒りと世論に押されて、検察が途中で作戦を切り替える。生きて罪を償えと言われた被告は、調書にサインすれば死刑にはならないと言われたから調書は嘘が混じっているけれど調書にサインしたと言っています。しかし検察は何が何でも死刑にすると戦略を切り替える。当然話が違うと弁護側は証言を全部覆す。そしたら世論も含めて裁判所まで、なぜ証言を覆したのか?悪質だ!弁護士が入れ知恵している!とっとと殺せ!と世論が雄叫びを上げた。こんな不利な状況でパクられて、自供は一切覆せないというのはどう考えても公正な裁判が行われているとは言えない。何度も言いますが裁判は検察側を裁く場であり、適正手続きに僅かでもミスがあれば無罪。これが近代裁判の鉄則です。

自分はこの一件の死刑囚が悪くないとかそんな事を言いたいわけじゃありません。コイツは自分も許されない罪を犯しているとは思う。だけど司法というのはだからと言って何をやってもいいわけじゃない。ちゃんと適正手続きに沿っているかどうかは厳しくチェックしなきゃならない。それをいい加減にやってもどうせ犯罪を犯しているから死刑にするというのでは、裁判なんてやる意味が無い。

今の小沢の秘書にしろ植草一秀教授にしろ、ホリエモンにしろこの人質司法でも中々罪を認めない、だから出てこられない。ちなみに堀江が拘置所にぶち込まれた時に、パソコンは無いの?と言っている。という話に対して、自分が何をしたのかわかっていない!!とか吹き上がっているバカが結構いましたが、そういう連中こそわかっちゃいない。捕まった時点では犯罪者ではない。刑が確定して有罪になる。それまでは無罪として扱わなければならないにもかかわらず、わかっちゃいないとか言うのは、どっちがわかってないんだ?って話です。捕まった段階で犯罪者扱いを受け、何の権利も認められない状態こそ異常です。この時もバカマスコミは拘置所の模型なんか作っちゃって、嬉しそうに憎き堀江がこんなに惨めな場所に入っているとお祭り騒ぎをしていた。とんでもない話です。推定無罪もクソも無い。

米兵が犯罪を犯した時に日本の法律で裁けないという問題が出て来て、沖縄なんかで事件が起こると必ず大騒ぎになりますが、こういった法治国家としての当たり前の容疑者の人権をないがしろにしているから、その弱みに付け込まれて、米兵を引き渡さないわけです。彼らがとんでもないというのも確かかもしれませんが、その前に日本の司法制度が滅茶苦茶だから悪いのです。

とまあ書き出すと終わらないのでこの辺にしておきますが、とにかくこの国の司法制度というのは問題点だらけです。これを民主党は是正すると言っています。ところがこれを快く思わない連中がいます。当然ですが、これを一番阻止したいのは検察組織や警察組織であって、何が何でも回避したいでしょう(ちなみにこの捜査の可視化の為に試験的に導入したDVDの録音装置一揃え700万なんて話もあります、どう考えても10万以内でおさまる話でしょう。今時DVDプレーヤーは1万切っている時代なのにもかかわらずです。いずれにせよそういう風に移行するとしても、こういった細かい権益を潜り込ませて来るのは確実ですから、その事にも目を光らせねばなりません)。

それに官僚が全部反対するような霞ヶ関改革も民主党はぶち上げている。特別会計の可視化、人事への介入、天下りの全面禁止、それに比べて官僚利権を何としても護持しないと、自民党自体の問題にまで発展しかねない与党からすれば、なんとしても情報開示を阻止したい。もしくは自分達の政権で情報を管理したいと思うでしょう。散々積もりに積もった官との癒着の腐敗堕落が全部可視化されれば、自民党は確実に息の根を止められる。今の形での存続は不可能になるでしょう。だから絶対に阻止したい。特に麻生政権というのは国民の為というよりも、官僚と利権の為に政治をしている。

そして小沢民主はマスメディアに対しても記者クラブ開放を謳っていますので、マスメディアにとっても何が何でも阻止したい流れでしょう。もちろんインターネットによる選挙活動に対しても大幅に見直される可能性もある。それも絶対に阻止したい。今の自公正権は地デジの為のバラマキというエサまで与えているのですから、政権交代などこれらのステークホルダーからすれば悪夢でしょう。

要するに小沢民主に対して検察にしろ、大手マスコミにしろ、引きずり下ろしたくてウズウズしている(実際に小沢が党首で政権交代を行なったからと言ったって、それらを全部やるかどうかは疑わしい所もあったわけですが、いったん小沢に手をつけてしまった以上は何が何でも引きずり下ろさないと、小沢が首相にでもなったら、おそらく絶対にこれらの改革を断行してやると思っているに決まっています)。なんとしても与党に勝ってもらわなきゃ困るのでしょうし、最悪政権交代が起こっても小沢抜きの民主党でならくみしやすしと思うに決まっています。こういった改革は霞ヶ関界隈の話によれば、小沢が党首で無くなれば仮に政権交代が起こっても骨抜きに出来ると踏んでいるそうです。

この状態ではたして検察にしろマスコミにしろ、公正な判断が出来ているといえるでしょうか?小沢と似たような献金問題も与党議員は殆どスルー。これは金額が多いとか言っていますが、実際に政権を握っているのは与党です。小沢は野党であって何の決定権も無い。自民党の方が数でいえば多いわけですし、与党な訳ですから当然政策にもバイアスがかかるに決まっている。こっちを無視して、小沢だけというのは法の平等に反していますし、明らかに政治的な意志を反影させる為と見えるような帰結になっている。

若かりし頃の小沢は田中角栄と検察のやり取りを見ている。田中を必死に支える立場だった。ロッキードも検察の金字塔なんて言われますが、実際には醜いデュープロセスを無視した暗黒裁判です。数百億の金の流れがあったはずが、そのうちの5億の金が田中に流れているという事だけをクローズアップし、残りがどうなったのかは不明。総理大臣には飛行機の機種選定に対する職務権限なんて無いので、というか職務権限と言い出したら全てにある事になってしまうので、外為法違反の別件逮捕で引っ括っている。

そして佐川事件の金丸の時も検察は日にちを間違えていて、金丸を立件した案件は時効だった。しかし逮捕されて引っ張られれば政治的ダメージは受ける。本当は時効で引っ張れないのに検察はしらばっくれて、金丸に引っ張らないでやるから認めろと検察は脅しをかけて取引を持ち込む。小沢はこの際、粘れば勝てると踏んで、金丸に進言する。しかし年齢的なものもあるし、身柄を押さえられるというのは避けたい金丸はその略式起訴という取引に乗ってしまう。そしたらその後、その略式起訴というのが騒がれて世論が沸騰し、特捜が及び腰であると徹底的に批判される。金丸のような巨悪をなぜ叩かないのか?と。そして金丸は血祭りに上げられる。このような検察のやり口を小沢はただ検察に批判的なだけではなく、裏の裏まで知っている。この部分が検察に取って非常に厄介な存在である事は間違いない。

小沢の元秘書である石川知裕衆議院議員に対する事情聴取という話が、バンバンやる前から検察リークが流れる。別に参考人聴取をするだけなのに、あたかも一枚噛んでいるかのように犯罪者の片棒を担いでいるかのように報じる。普通そういう話は秘密でやるもので、そういうリークがあってもそれは事後に出て来るものです。にもかかわらず事前にバンバン報じる。そんでもって石川議員の選挙区がどこなのかと思ったら、例のへべれけ会見の中川昭一元財務・金融大臣の選挙区。このオチ、凄い偶然です。わかりやすすぎます。もの凄い援護射撃。当然特捜はその事をわかってやっているわけです。リークもそうでしょう。にもかかわらず政治的意味は無いというパターン、詭弁です。

そして今回の小沢秘書逮捕の告発をした西松の元総務部長は不起訴。検察の根拠はそいつが大久保から請求されたと証言したからです。こんなものは何の証拠にもならないし、ましてダミーを知っていた事の根拠にもならない。完全な見込み捜査であり、見込み逮捕に他なりません。後はなんやかんやと理由を付けて、無理矢理有罪に持ち込もうとするのでしょう。

先日高橋洋一氏が窃盗でパクられたという話が出ました。自分は彼がやったかどうか知らないし、マスコミ情報しか知りませんが、24日に事件があって、情報が出て来たのが30日、書類送検もこの日。この情報が出てくるまでのタイムラグに何の意味があるのかと思ったら、翌31日は内閣人事局設立を含んだ骨抜き公務員制度改革関連法案が閣議決定され国会に提出される。なんだそういう事ねって感じです。これもわかりやすすぎます。偶然って言うんでしょうけれど。

これはどういう事かと言うと、この公務員制度改革骨抜きに対して高橋洋一氏は噛み付いていた。天下り規正を事実上内閣官房副長官である漆間が権限を握るという法案です。この男はご存知の通り、元警察庁長官であり、高橋氏の情報が流れたのも警察が流している可能性大です。それに例の自民党には西松の件で特捜の捜査はおよばないと断言した男でもある。
官房副長官というのは各省事務次官会議を取り仕切って、事実上内閣の閣議決定を決めているポジションにいます。なぜかと言えばこの事務次官会議で決定されたものを内閣がただ承認するだけだからです。要するに官僚が全て決めている。それのトップに座っている。官僚マインドズブズブの男です。

そもそもこの因縁は昨年末からあって、年末のドタバタの際にこっそり天下り法案骨抜きの為の政令を勝手に事務次官会議で通して閣議決定してしまう。これは法律違反であって、官房副長官及び各省事務次官というのは法律違反の犯罪を犯しています。政令というのは法律という前提に従って出されるものであって、役人が勝手に出せるものなのですが、あくまで法律に従わなければなりません。政令によって法律の文面を覆すというのはあってはならない事だからです。法律違反を公然とやっている。これは事実上役人のクーデターと言っても過言ではない。我々の民意を無視した行為であり事実上国会議員などいらないと言っているようなものです。天下りを護持する為にここまで執念を燃やす。何ともとんでもない連中です。

この法律に知恵を貸したのが高橋洋一氏で、官僚達が政令で覆せるような抜け道を許さなかった。通常であれば法律の中にちょっとした言い回しをいじくって、抜け穴を準備するのですが、元官僚である彼がそれをさせないようにした。なので苦し紛れにこっそり法律を堂々と破るような政令を出して、まんまと公務員制度改革の骨を抜こうとする。これに対する批判の先鋒であったのが高橋氏であり、これを麻生内閣が官僚の手先となって許してしまったから、渡辺喜美が自民党から離党する。その渡辺と江田憲司、そして知識人や文化人の中に混じって高橋氏も知恵袋として加わり、国民運動体なるものを立ち上げた。これの是非はいろいろあるでしょうけれど、それはひとまずわきにおいて、この31日の天下り容認の骨抜き公務員制度改革関連法案に対しては、おそらく渡辺にしろ江田にしろ徹底的に批判するはずだったでしょう。もちろん高橋氏も含めて。その機先を制された形に見える。

この事件を30日に発表する事によって、事実上彼らの批判は表に出てこない。出ていたとしてもマスコミも取り上げるわけが無い。黙らせる効果としては凄まじい効果を及ぼした。その後例のミサイル報道でこういった公務員制度改革骨抜きに対しては、全く取り上げられる事もないスルーの状況を作り出す。もちろん小沢への検察の恣意性の問題も。

高橋氏が窃盗していたとしても、その日に合わせて情報を流しているように見える。随分与党や役人の権益に触る政敵というのは、都合良くパクられるもんです。こういう情報を見るにつけ検察にしろマスメディアにしろ国家権力にしろ暴走しているように見える。我々の民意を後付け的に翼賛報道で動員する。そのやり口が段々えげつなくなって来ている。それはなぜかと言えば効きが鈍くなっているからです。

お疲れさまでした。それでもつづく!!
続きです。

せっかくなので書こうかどうか迷いましたが、民主主義や立憲主義がどれほど守るのが大変な概念であるかを書きたいと思います。少し横道にそれます。これは多くの人がちょっと違和感を感じるかもしれませんが、その違和感こそが、この国で民主主義や立憲主義といった近代の前提が作動していない原因でもあるのでしょう。

天皇の戦争責任という言い方があります。前大戦の帰結に対して天皇に責任があったかどうか?これは今でもよく行なわれる議論で、一般的にはあったけれど、それを免罪する為に戦犯が処刑された、というストーリーではないかと思います。しかし結論から書きますが、もちろん心情的には理解しますけれど、民主主義や立憲主義という観点からこの問題を眺めますと、民主主義や立憲主義を全くはき違えた暴論だという他ありません。

戦前の日本の体制は政治学的に言うと立憲君主国といいます。この場合の君主はもちろん天皇陛下です。これの本家本元はイギリスです。イギリスでは君主は国王という事になるわけですが、国王の権力は議会によって完全に制限されていて、実際には何の決定権も無い。要するによく言うのが「君臨すれども統治せず」という事です。憲法があれば立憲君主国であるのかと言えば、そうではなくて、憲法があっても君主が実質的統治を行なっていれば専制君主国になる。

立憲君主か専制君主かの差は、政府が決定した事に対して、君主に拒否権を発動出来るかどうかにかかって来る。発動出来れば立憲君主国とは言えず、政府の決定に君主が全て従うのであれば立憲君主国という事になる。イギリスでは「議会が女王に死刑宣告文を可決したら、女王は黙ってそれにサインせねばならない」なんてたとえもある。

例えばチャールズ一世と議会の折り合いが悪くて、議会は君主の言う事を全然聞かない。怒ったチャールズ一世は議会に国王軍を投入する。そこで立ち上がったのが有名なオリヴァー・クロムウェルで、ピューリタン革命を起こすわけです。内戦が勃発し、遂に革命軍はチャールズ一世の首をはねてぶち殺す。その国王をぶち殺したクロムウェル像がイギリスの国会議事堂正面に建っています。なぜかと言えば議会内での言論の自由を守る為には国王をぶっ殺してでも守るという事を示している(明治時代日本では天皇が君主にあたるわけですから、今の我々の平均的な認識がいかにおめでたいかがわかるでしょう、君主をぶっ殺してでも民主主義を守るなんて考えも及ばない)。

議会に介入させない。まさにこれこそが立憲主義、民主主義の眼目でもある。議会というのは民意によって選ばれた政治家達が民意を反映させて徹底的に議論する場です。君主であってもそれに介入する事は許されないとするのが、立憲君主制の眼目。その民意をないがしろに何かの強権で妨害するような事があっちゃマズい(小沢であっても支持している人がいる即ちそこには民意がある。にもかかわらず根拠も定かでない法の恣意的な適応でその民意をないがしろにする行為ではないか?小沢が民意を踏みにじっているかどうかは民意即ち選挙が決める事であって、特捜の振る舞いはチャールズ一世になっちゃいないか?という事を厳しくチェックにさらす必要がある。いくらそれが少数意見だったとしてもある民意をそれを民意とは関係のない上位の権力装置によって勝手に介入する事をノーチェックで許してしまえば、今度は別の民意が常に揺るがされる危険性を許してしまう事になる。民意を勝手にねじ曲げるという事を許しては、民主主義を揺るがしにする)。

さて戦前の日本に戻って、明治憲法下ではどうだったかと言うと、大日本帝国憲法第55条「国務大臣ハ天皇ヲ輔弼(輔弼<ほひつ>=天子や君主の行政を助ける事という意)シ其ノ責ニ任ズ」というのがあって、これをもって天皇が最終決定権を持っていたと解釈する人もいる。

しかし憲法というのは慣習が重要で、拒否権が仮にあったとしても実際に行使出来たのか?という観点から見ると、明治憲法の運用は明確で立憲君主国として機能していた。内閣が決定した事に対して天皇は反対する事が出来ない。反対したいと思っても「そうであるか」と裁可をする。これが明治以来の伝統でした。天皇陛下万歳というのも現人神であるというのも、フィクションとして利用し、天皇をシステムの一部として利用していた。

明治憲法が作られた当初、日清戦争が始まる際に、政府や外務省、軍部は断固として日清戦争を行なうと決意していた。ところがこれに対して明治天皇は反対をした。戦争に打って出る前に、もう少し外交努力をやったらどうか?という事です。しかし政府は天皇のご意向など無視、開戦の準備をがんがん進めて行く。清軍を攻撃するまさにそのとき、その情報を知った天皇は怒って伊藤博文首相に攻撃命令を中止せよと強く命じた。伊藤はビビって攻撃中止命令を参謀本部と外相に伝える。ところが陸奥外相は天皇の命令を無視して発信させなかった。開戦の火ぶたは切られる。当然明治天皇は腹を立てて「これは朕の戦争ではない」とヘソを曲げちゃった。

しかしこれが重要な事で、当時の日本はすでに明治憲法は発布され、立憲国家になっているわけで、どんなに天皇が反対したとしても、政府が開戦決定をしたらそれを裁可するしか無い。それが立憲君主として求められている事です。実際にこの直後の開戦の閣議決定には明治天皇は裁可している。この時を持って大日本帝国憲法第55条の解釈は確定し、実質的に明治憲法が成立し、日本が完全な立憲君主国となったと言える。

イギリスの憲法というのは慣習法で、日本のような成文憲法ではない。イギリスの憲法がいつ成立したのかというと、いろいろあってその中で一番有力なのが1707年説です。ようするにその年に君主が議会の決定に対して拒否権を発動したのを最後にして、それ以後拒否権発動の例が無くなる。したがって憲法が成立し立憲国家になったというわけです。君主は政府の決定に従わなければならない。

戦前の日本はこういった事の積み重ねによって、明治憲法を近代憲法として機能させていたわけですが、二度だけ例外がある。天皇が権力を発動する即ち天皇頼みとなる状況です。一つは2・26事件の際、もう一つは終戦のご政断の時です。

前者の際、首相が暗殺されたりして政府の機能が動かなくなってしまった。軍首脳も青年将校を支持すべきか、反乱軍として処分すべきかで迷って決断を下せずにいる。そこで昭和天皇自ら「これは反乱軍である」と決定を下し、軍部が動いて事態が終息した。これは憲法上問題があるとかないとかの前に、政府機能がストップして、天皇を補弼すべき内閣が機能していない。したがって緊急避難的に選択肢が無かったとも言える。

そしてもう一つは御前会議でのご政断。この時も日本政府の首脳達は何度も会議を繰り返したあげく、終戦か継続かの決断を下せなかった。政府機能が麻痺していた。政府自らが天皇の判断を求めたわけで、天皇が憲法を積極的にないがしろにして出しゃばったわけではない。なのでこれも非常事態の措置と言えて、選択肢も他に無かった。

この二つを持って天皇に政治責任があったとしてしまうのは強引な話で、それ以外の憲法が前提としている体制がキチンと整っている状況では、明治、大正、昭和と歴代の天皇は拒否権を発動する事無く立憲君主の立場を全うしていた。立憲の観点から見ると天皇に戦争責任などあるわけも無く、戦前も戦後も政治責任は全て内閣にある。それはどういう事かと言うと、それを支持している民意があるからそうなるという事です。戦時体制に突っ走るのも全部マスコミの煽動、世論の後押しがあったからで、無理矢理押し付けたものではない。マスコミが翼賛報道に邁進し、チェック機能を失って、マスコミが流す恣意的な情報を鵜呑みにした国民が自主的に熱狂して暴走したわけです。

そういう世論があった場合、そういう世論を汲んだ政治家じゃないと選挙で勝てません。だから政治家の決定の背後には民意があり、民意がそうなるような情報をマスコミが流していたからです。

天皇が日米開戦の際に拒否権を発動していれば悲劇は回避出来たという理由を持って天皇の戦争責任をほざくバカがいますが、それはその瞬間に立憲主義を捨て去って、民主主義も捨て去って、天皇の独裁国家になる事を意味する。政府の決定は民意の決定。それに従うのが立憲君主の立場であり鉄則であるわけで、それは立憲も民主も否定する事になる。

それがどんなに重たいのかと言えば、独裁政権が決める決定というのは民意で決める事は出来ない。民主主義というのは民意が決定出来る。極論すれば・・・・・これを言うと拒絶反応を起こしそうな人がいそうなので書こうかどうか迷う所ですが・・・・とりあえず前提話なので冷静に聞いて下さいね。

極論すれば民意が戦争を支持している場合、民主主義であればそれに従うのが民主主義になる。政府機能が正常に作動してその決定を導きだしたら、立憲君主の立場であればそれを覆す事は何があっても許されない。それを覆せば議会への干渉となり、チャールズ一世と同じ運命になってもしょうがない。なぜそれが重要かといえば、戦争をしないという決断もまた民意が決める事が出来るからです。独裁国家を許してしまえばそれさえも出来なくなる。

なので民主や立憲を守るという事は、極論しますよ、前大戦のような戦争で膨大な被害を及ぼして人がいっぱい死んでしまうという帰結を招いたとしても、人口が半分になっても、原爆で人がいっぱい死んだって、そんな事より遥かに重い重要な価値です。民主主義や立憲主義を護持するという事は、国民が気付けば同じ過ちを繰り返さないという選択が取れるからです。独裁国家であれば独裁者が優秀であれば別かもしれませんが、だとしても国民の意志を反映させる決定が出来ない。まして国民が従いたくないと思ってもそうはいかない。決定権が無い。これがあるかないかは滅茶苦茶重要です。

だから国民は不断の努力と重い責務を担っている、その事を我々は自覚しているでしょうか?マスコミには国民が選択肢を選べるような情報を開示する義務がある。それをしていないという事がどういう帰結を招くのか?全く学習していないと言わざるを得ません。マスコミも国民も。

もちろんマキャベリやウェーバー的政治学上の鉄則で言えば、国民が誤った選択を望む場合、民主主義による国民の意志を無視してでも、立憲主義を脱法してでも、国民及び国家を守る、立憲主義を守る事や民主主義を守る事が意味があるような社会を護持する、要するに国民が戦争を望んでいるとしても、それが勝ち目の無い戦であるのなら、空気を無視して、例え嘘をついたとしても、国民を騙したとしても、非常時であれば、この場合戦争回避するのが、政治家であって、もちろんその嘘がバレたり脱法行為がバレればその政治家は血祭りに上げられるという覚悟をもつ事が、政治家の資質には含まれるという風になるのですが、これはまた別の話で十分わかって書いていますので、ちょっとわきにおいて下さい。国民にとってどれほど民主主義や立憲主義が重たくて価値があるのかという事を書いていますので。

これは投票で我々の民意を反映させられるという事が重要であって、投票率が高いとか低いとかそういうセコい話じゃありません。投票して決める決定権が国民の側にあるという価値が重要なのです。我々が決める事が出来る。たった一人の独裁者や彼の取り巻き達が、彼らの目線から見た利害得失計算で決定を下すという事を避けられるというのは重要な価値です。独裁者=弾圧みたいな頭の悪い左翼みたいなことを言いたいのではありませんよ。弾圧なんて無くたって、どんなにその独裁者が優秀であっても、我々の側にそれに対する拒否権があるのか無いのかでは天と地の差の開きがある。戦争を拒否するという決定が我々側にあるかないかの差は重要なのです。

戦前この国はある時期(1940年3月7日)から、民主主義も立憲主義もかなぐり捨てて、議会は自殺し暴走に突っ走るわけですが、その時点で引き返す事は出来た。しかしそれをしなかった。要するに内閣不信任案を出して可決し総辞職に追い込んで選挙をやって、暴走を食い止めれば良かったわけですがそれをしなかったというより出来なかった。なぜかと言えば、そんな事をしても国民が戦争を支持しているわけで、反対議員を支持していなかった。民意こそが議会の力の源泉です。民意が戦争を反対し、戦争反対議員を国会に送り込んでいればどんなに軍部が暴走したくてもそれを止める事は出来た。立憲主義や民主主義の歴史において、民意に逆らって事を成し遂げた権力者は皆無です。絶対にそこには太刀打ち出来ない仕組みだからです。

政府のケツ舐め報道がどれだけ危険であるかわかるでしょう。絶対に政府はチェックの対象とし続けなきゃダメです。もちろん司法権力に対してもそうです。それと一枚岩になるなどとんでもない話です。なぜ国民が戦争翼賛したかと言えば、マスコミが政府の弱腰を批判し、軍部を翼賛し、聖戦と煽ったからに他なりません。言論統制されたからそういう事を報じていたわけじゃありませんよ、それは嘘です。積極的に翼賛の旗を振っていた。

例えば今バカ麻生は補正予算に反対したら選挙だと息巻いています。官僚達も予算編成権は内閣にあるとかほざいて、財務省が作った予算を国会が否決したり修正する事は越権行為だという話が出て来たり、それをそのままほざく与党のバカ共がいますが、予算の承認こそが議会の特権であり伝家の宝刀です。ここを握っているから議会には力がある。何をするにも金がいるわけです。それは戦前であっても同じ事で、戦争するにも金がかかる。議会が予算を否決すれば戦争は出来ません。だから戦前も戦後もそうですが、大蔵省(現財務省)の主計局には誰も逆らえない。しかしその予算を可決するのは我々の民意をバックにした議会です。

当然そこには我々の民意があるわけですが、予算を否決するという事がとんでもない、みたいな話になる事こそがとんでもない。それをチェックするのが国会であるわけです。しかしこの否決というのを戦前もやらなかった。なぜかと言えばそれは国民が戦争を支持していたからです。したがってそういう政治家じゃないと選挙に受からない。今の政治家が官僚の言いなりなのも、結局我々の民意によるものです。同じ政権がずっと官僚と癒着していても何とも思わないのだから当然です。

要するに国家が暴走しマスコミが翼賛報道をし国民が熱狂したというよりも、マスコミが煽り、国民が熱狂して暴走したのに政治家が引きずられて後戻り不能の事態に陥る。ヒトラーだって民意が支持したから独裁者になりえたわけで、ヒトラーが独裁者になりたいと思っても支持されなければなれない。ヒトラーが悪いわけではない。民意がそれを支持し、民意に支持された議会が全権委任法を可決し、ワイマール憲法を殺したからなれた。日本が戦時体制に突っ走ったのもそう。イギリスやアメリカが民主主義を守ってこられたのは、歴代の権力者が善で、日本やドイツが悪者だったからではありません。権力者が法や制度の欠陥を悪用していないか監視してきたからに他なりません。そういう仕組みで回っている。

憲法があって、民主主義という制度があれば、それが維持出来るわけではない。憲法も制度も欠陥があるに決まっている。欠陥のない憲法や制度なんて歴史上一つもないでしょう。欠陥があるから悪者が生まれるのなら地球上全ての権力者は悪者になっている。憲法や制度というのは神が作ったものではない、所詮人間が作ったものに過ぎない。その事をチェックする為に我々の民意を力の源泉にした議員達が議会で知恵を絞るわけです。マスコミもその為に存在する。役人の書いた作文の朗読会になっているから議会が機能しないわけです。それをチェックするのが仕事なのに。憲法や制度に抜け穴があるから悪者が生まれるのではなくて、それをチェックしないから悪用する輩が出て来る。

日本国憲法41条には、国会は、国権の最高機関であると定められています。その力の源泉は民意にある。アメリカだって最高権力者は大統領と多くの人が感じているでしょうけれど、それは大きな誤解であって議会の方が一段上にいる。大統領といえども議会を自由にする事は出来ないし、アメリカの大統領は日本の首相と違って、自分で法律案を議会に提出する事すら許されておらず、教書で議員にお願いするしか無い。それに対して議会は大統領に対して好き勝手に批判し立法によって制限する事が出来る。

なぜかと言えば多種多様な意見を一人が背負うという事は物理的に不可能です。戦争するという意見としないという意見は両立出来ない。だから一人の力より、議会の方が強い力を持っている。そこにはいろんな意見を持った議員が集まっているから、民意もあると期待出来る。だからもっとも力のある立法府としての権限が与えられているわけです。

しかし日本では議員の代わりに法律を作り、内閣をコントロールして政策を決定しているのが官僚です。立法も行政も牛耳られている。民意もクソもありません。おまけに司法まで牛耳っている。ある法律の解釈は裁判所に任せて裁判所が決めればいい事です。これが普通の法治国家です。しかし日本では肝腎の裁判所と検察がグルになっているわけで、チェックが働いているとは言えない。有罪率の問題もそうだし、検察が勝手に解釈を変えて、それを裁判所が是正出来るならまだしも、多くの場合スルーしている。とてもじゃないけれどチェックしているとは言えない。ある条例の解釈をめぐって市町村レベルで解決する。それが出来ない場合県庁にお伺いを立てる。それでも結論が出なければ霞ヶ関にお伺いを立てて、お告げを出す。こいういう仕組みで回っている。

法律は議会が定め、その法に基づいて政府が行政をし、裁判所がその解釈をする。これが本来の役割分担であって、なぜそうあるのかと言えば、チェック機能がそれによって担保されるからです。しかしこの国では役人が法を作り、運用し、解釈までも行なっている。ヒトラーでさえ司法権までは持っていません。立法権を議会から全権委任法によって与えられただけです。という事はヒトラー以上の独裁者、しかも顔の見えない責任も問えない官僚という独裁者達によって、独裁政治が行なわれている。これに対するチェックが全く働かない。与党は役人の手の平で踊っている。特に今の麻生内閣のバカ共は張り切って踊っている。

本来であれば野党はもちろん、マスメディアがこれに対するチェックを担っているわけですが、どうでもいいような話はガス抜きとして報じても、完全に立憲や民主を台無しにしかねないような権力の乱用に対しては殆どノーチェックです。今回の検察の動きももっと情報開示しなきゃマズい。立法、行政、司法、そしてマスメディアと権力が一枚岩になっています。これに国民も翼賛すれば戦前体制のいっちょ上がりです。

この国は正確に言うと三権分立じゃありません。二権分立でしかない。システム的にそうなのです。立法府と行政府は多数党が内閣を組織する以上、一枚岩になるのは当然の事。したがってこれに対するチェックは厳しくしなければならない。それが野党の責務であり、マスコミの責務である。まして二権分立にすらなっていない、司法まで官僚に牛耳られている状況は悪夢という他ありません。司法は何があっても独立させておかないとマズい。自分が小沢辞めるべしと思う理由もそこがどうしても外せないからです。

もう可能性としては薄いかもしれませんが、小沢が首相になると司法への介入になると書きました。これは大きな問題を含んでいます。議員が司法に介入するとなると、そこには民意のバックがある。つまり国民感情によって司法を揺るがされる可能性が出て来てしまう。当たり前ですがそういうものにバイアスがかからないように、司法というのは独立しているわけでして、法の問題と感情の問題を同列に扱うわけにはいかない。

それに小沢の場合は当事者なわけですから、彼が首相になってしまうと、仮にそんな意味はなくとも、司法へ介入したという風に見られてしまいかねない。だから逆に小沢が首相になると、今回の検察の恣意性は闇に葬られ手打ちになる可能性もあり情報開示出来ないかもしれないし、逆に介入したとなるとこれまた大きな問題になる。

当事者が司法に介入するという事がどれほど恐ろしいかと言うと、被害者が裁判官になって、被告を裁いたら絶対に有罪になる。東京裁判と同じです(東京裁判は茶番だ!とか言いたいわけじゃありませんよ、そんなの当たり前の話です。茶番である事をわかった上で受け入れている)。

だから議会が検察をチェックするという状況も絶対にマズい。司法をチェック出来るのは裁判所な訳ですが、裁判所と検察は一枚岩と見まがうばかりの依存関係。そうなるとマスメディアしかそれをチェック出来る機関はないわけで、にもかかわらず検察情報が欲しいばっかりに検察のケツ持ち報道が幅をきかせている。小沢が黒か白かなんていう話よりも遥かに重い問題があって、この部分は小沢の是非と切り離して考える必要があるでしょう。

当然そういう検察も含めた官僚どもの暴走を許しているのは与党であり、それを支持する国民であり、国民に啓蒙出来ないマスコミであるわけです。

つづく!!
前回の続きです。

倫理的な問題でグチグチ言っている人もいますが、世論のレスポンスという意味での倫理であれば、自分も小沢が責められるのは宜なるかなと思いますけれど、個人的には倫理的にも全く問題だとは思わない。だって情報が見えているわけで、これを隠してコソコソやっていればとんでもない話ですが、全部情報開示している。その事によって小沢が献金をもらっているせいで政治活動にバイアスがかかっていて、その事が問題だと思えば不支持を容易に選択出来るわけですから、誤摩化している連中に比べれば情報開示している分だけ全然マシだと思える。支持している人がいるから政治家になれるわけです。少なくとも先日千葉県知事になった森田健作というカスよりはマシです。

こういう案件を叩いたり、倫理的に血祭りに上げたりしていると、誤摩化すインセンティブを益々煽るだけになる。見えていれば支持しなければそれで済むのですから、透明化するという事を叩いてしまってはマズい。クリーンであるかどうかというのも、見えていないと判断出来ません。見えている事自体を叩くより、それで汚いと思ったら、支持しないという選択が容易に取れるという事は非常に重要です。今の自民党というのは基本的に隠蔽、捏造、責任転嫁のオンパレードです。にもかかわらずその事が見えてないバカ共がこういうクズの売国奴共を支持している。それよりは全然マシだと言える。

それに政治資金規正法というのは占領下で作られた法律なので、アメリカ式のやり方、即ち献金をもらう事そのものを防止する事に目的が置かれていない。献金をもらっているという事を可視化させる為にそもそもこの法律はあると言える。国民が選択する為に情報開示させる為のものであると。しかし日本の民度、献金に対する嫌悪感、そして実際に金を貰って利権に邁進する薄汚い政治家どもが跳梁跋扈して来たせいで、運用や解釈、そして法改正では、明らかに献金そのものを防止する為にねじ曲げられて使われている。なので法律そのものが歪んでしまっていて、何を取り締まれて何を取り締まれないのかが、法実務家達でもよくわからない代物になっている。要するに恣意性塗れの場当たり的対応によるつまりそこには裁量と権益塗れの醜い法律と化している。

しかし法律に沿っているのか否かという問題で言えば、明らかに今回の問題は検察側にミスがある。小沢の秘書を取り締まるのには無理がある。これだけ複雑に歪んでしまった法律なので、検察であっても単純に読み間違いという可能性は十分あり得る。その事をチェックするのがマスメディアの役割であるわけで、その役割を全く果たしていないどころか、自覚的にしろ無自覚にしろ嘘捏造を垂れ流している。コイツらに記者クラブを独占させる理由は完全に無いと言っていいと思う。

そういう意味で言うと小沢が会見で繰り返している、政治資金の問題に対する認識、徹底したディスクローズ、これは元々の法の趣旨には沿っていると言える。だけど今回の件が違法であるというのならという前置き付きで言った、企業団体献金の全面禁止、要するに日本人的お上意識から来る金イコール汚いというナイーブな感性に沿った感覚。このいずれの道を取るのかという政治資金規正法そのもののあり方を考えるチャンスであるのに、その事は全く報じない。小沢の問題に矮小化し、盗人猛々しいとほざく自民のクソ共的な感覚で法律そのものの問題は適当に流してしまう。

法律というのは、善悪の問題とは別の問題です。だから献金を貰うという事に対して嫌悪感を持ったり、そんなに大金を貰い続けていれば当然政治にバイアスがかかるはずだろうと思う事は自由でしょう。だけど法に違反しているかどうかその事だけが法で罰を与える場合重要であって、そういった善悪の感情や倫理的な問題というのを混同してはマズい。感情的にムカつくから法もクソも無く罰を与えるというのでは、法治国家とは言えない。

そして嫌悪感を持ったり、その献金は不自然だと見えているという事が重要であって、ただ闇雲に叩けばそれが見えなくなってしまう。政治家として倫理的な問題を問う事が可能な状態になっているという事は重要な価値です。見えなくなる事と、そういう行為を撲滅するという事は意味が違う。そういう行為の是非を問う為には見えていないと問えません。

この国では俗情に媚びて吹き上がったあげく、可視化されていたものが見えなくなって余計やぶ蛇になるという事が多々ある。というかそればっかりです。見えなくなれば恣意性が生まれ、益々腐敗を許す事になる。倫理的な善悪を問う事すら出来なくなる。現状では殆どの政治資金の問題というのは問題が無いわけじゃなくて、可視化されていないだけです。だから腐敗もしている。目先のスッキリ感に煽られて吹き上がったあげく、善悪すら問えない構造にどんどん突き進み、恣意的に悪を設定して、法も無視して、法律違反と悪を混同して叩いている。こんな国家は暗黒国家でしかない。

一罰百戒による恣意性というのは、特捜のマンパワーから考えればしょうがない部分はもちろんある。いちいち全部に突っ込むわけにはいかないし、法的にもそもそも特捜はそういう組織であると認められているし、そんな人も予算もない。だけど一罰百戒というのは、なぜ一罰なのかという説明が出来ないと百戒にはならない。単に一罰が処罰する側が勝手に法解釈を変えて罰を与えているだけであれば、その他の九十九はアイツは運が悪かったという話で終わってしまう。百戒にならない。何も改めない。余計上手く隠すモチベーションにしかならない。

スピード違反だって一時不停止だって、駐車違反だって、何だって、本当に悪質なものは捕まらない。しかし納得がいかなくとも、スピード違反であれば運が悪かったと諦めて、みんな罰金を払う。文句をいいながら。しかし人の一生を左右するような事柄に対して、法をいい加減に解釈して恣意的にパクるというのは、スピード違反の類いとは次元の違う問題で、まして今回の小沢への恣意的な法の適応というのは、これからの日本のあり方に対する重大な分かれ目に立っているとも言えるわけで、一木っ端役人ごときの裁量や、マスメディアやステークホルダーの権益護持の為に血祭りに上げ、引きずり下ろす事というのは、献金貰っているなんて言うどうでもいい話とは次元が違う問題でもある。

法を勝手に解釈して恣意的にパクれるというのなら、立法府の上に検察が君臨してしまう。そうなったら(というかもうなってますが、これを許し続ければ)民主主義もクソも無いし、立憲主義の本義本懐も損なわれてしまう。つまり日本は民主国家でもなければ立憲国家でもない。近代国家の体を成していない。北朝鮮を笑えないという事です。

この国の命運を握るような事柄に繋がる事を、一罰百戒といういいわけによって行なうなんてのは言語道断です。物事には優先順位というものがある。特捜の捜査が一罰百戒であるという事は特捜の性質上しょうがないのは確かなので、マスメディアは本来その事をチェックするのが仕事であって、一罰百戒に加担するのが仕事ではない。何の権限でそんな事をやっているのか?勘違いも甚だしい。目障りです。

断っておきますが、自分は小沢が金を貰っている事自体の是非を書いているわけではありません。そして彼がクリーンであるという事が言いたいわけでももちろん無い。収賄のようなものが無いとは断定出来ませんので、そういう問題はあるかもしれない。しかし例えそういう問題があったとしても、検察の今回の動きかたはもちろん、マスメディアの報道が間違っていなかったという風にはならない。これは立憲主義や民主主義の根幹をぶち壊しにする問題だから怒っているのです。

そして違法だと叩いている連中の事を非難するつもりも無い。違法だと思う人が違法だと叫ぶ権利はあるわけですから、違法性を指摘する報道はそれはそれで重要です。しかし違法性を問う事が出来ないのではないか?という事を十分選択肢として提示出来ているようには思えない。これは善悪とは別の問題ですし、政局とも関係がない。民主支持だからとか、自民支持だからという理由で、検察の問題点を見ないもしくは攻撃するという問題とは別の話で、そういうレベルの低い話ではない。

立憲主義の本義本懐が損なわれているのではないのか?憲法違反ではないのか?民主主義をぶち壊しにする振る舞いではないのか?司法のデュープロセスを踏み越えているのではないか?そういう問題であって、麻生や中川昭一へのバッシングのような、自民党叩きのどうでもいいような報道とは質が違う。権力と一体化してチェック機能を投げ捨てている。

こういった事が公正に報道されて、その上で小沢氏の代表としての資質や、政治家としての倫理観を問うとか、法的に問題はなくとも、こういった政治システムは正すべきであるとか、そういう話に繋がっていけば、小沢を批判するのも、民主党を批判するのも、いくらでもやってくれてかまわない。実際に麻生信者や自民党信者からすれば、マスメディアは民主党よりとか、小沢を擁護しているとか、反日であるとか、そういう下らないコミュニケーションもありますから、それぞれどういう政府を望むのか?という立ち位置次第で、反自民にも反民主にも見えるのは確かでしょう。だから批判する分にはそれはいっこうに構わないと思います。

しかしその前にちゃんと最低限の情報を開示するくらいの事はやってもらわないと、明らかに嘘はマズい。解釈とかそういう問題じゃない。どう考えてもメディアは嘘をついているわけですから、それでは選択する方も選択出来ません。まして検察と司法クラブが結託して情報開示をしない状況というのはとんでもない話です。

選択する為には、先ずその選択肢がある事を知らないと選択出来ないし、選択肢が提示されているとしても、その選択に接続出来る環境でないと選択出来ない。そして選択に接続出来る環境下にあっても、その選択肢が何を意味しているものなのか理解出来なければ選択出来ない。要するに検察側の問題点を報じる事無く、一方的に小沢たたきの報道しかなければ、検察側に問題があるという事を知らないわけだから、問題が無いのと変わらない。検察側にも問題があるという事を知っても、検察側の問題点を解析する報道が無かったり少なければ、その問題を理解するチャンスを阻害していると言える。そして検察側の問題も小沢問題も等価で並んでいるとしても、それを冷静な目で文脈を参照して吟味する能力が欠如していればやっぱり選択出来ない。そういう能力が無いのに自由に選択していると思うのは錯覚でしかありません。

選択には前提が必要です。選択前提には三種類があります。第一は「選択領域」、第二は「選択チャンス」、第三は「選択能力」です。選択領域とは、すなわち選択可能な選択肢群が与えられていなければなならない。次に、選択領域から現に選べなければならない。後者は、選択チャンスがあるので選べるという水準と、選択能力があるので選べるという水準とがあります。

選択出来る事を自由といい、何らかの理由によって選択出来ない事を不自由という。例えば携帯電話が欲しいと思えるのは、携帯電話が便利である事を知っているつまり選択領域が与えられているから欲望できるわけです。知らないという事によって選択出来ない不自由さというのは主観的に感じる事は出来ません。これを選択領域の欠落と言います。ブータンの人々がなぜ幸福なのかと言えば、彼らはそれ以外の社会の利便性を十分知っていないからです。知らないから不便でも不幸とは思わないし不自由だとも思わない。携帯電話が何を意味するのか知らない人に携帯電話を与えても、どうやって使うのかもわからない。

しかし携帯電話の便利さを知ってしまうと、不自由感を自覚出来るようになります。金が無いとか、売っている店が無いとか、電波が届かないとか、携帯がそもそも普及していない国に住んでいると言った理由で選べない、○○さえあれば選べるのに、という不自由。これを選択チャンスの欠落と言う。選択領域を獲得する事によって選択チャンスの欠落が問題になる。これを利便性のトラップと言います。

選択領域も選択チャンスも開かれているのに、携帯がなんであるか知っていて、金があって、売っている店がすぐ側にあって、電波もバリバリで届くのに、利害得失の計算能力を欠いていたり、それを評価する事が出来なかったりと、どれを選べばいいか迷ってしまって選択出来ない不全感による不自由。これを選択能力の欠落という。

一般的には選択領域の欠落が問題になるのは近代以前、選択領域が拡大し選択チャンスの欠落が問題になるのが近代過渡期、選択領域も十分広がって、選択チャンスも十分供給されているのに、選択能力の欠如や不足による問題が重要になるのが近代成熟期と言われています。

この国の現状を見渡してみますと、選択能力を養うような教育がなされているとは言えず、いまだに空気支配から抜け出る事が出来ない。そして選択チャンスを開いているのかと言えば、全く担保されているとは言えず、国家に担保する気もないでしょう。そして選択領域、この国が本当に民主主義か?立憲国家か?デュープロセスは?という問題認識を持っていない人が大多数でしょう。暗黒裁判だと思ってない人がいっぱいいる。法の問題と感情の問題の区別が出来なかったり、それを区別出来ないという事の問題性も認識していないし、論理性も全く無いし、論理性が無いという事の問題点もわかっていない人が圧倒的、つまり民主主義や立憲主義、法治国家、資本主義国家としての選択領域が開かれていない。にもかかわらず殆ど問題視されていない。欠如している。したがって不自由すら自覚していない。この状態は絶望的です。要するに近代以前の国家であるという事です。民主主義でも立憲主義でもないのだから民主主義も立憲主義も機能しない。

勘違いされると困るので書いておきますが、不自由を全く無くして自由に選択出来る状態を完ぺきに担保するというのは物理的に不可能です、最善を望んでもそれは簡単な話ではない。簡単な話ではないのだから、常にその事に対するチェックが作動し、我々が自覚してコミットしていないと、民主主義は民主主義を掘り崩して、どんどん不自由が拡大して行く。

チェックすべきものはリヴァイアサン(国家権力)であって、リヴァイアサンのケツを舐める事を持って愛国的と見なし、リヴァイアサンを批判する事を持って反日的という、頭の悪いパーが愛国や売国奴という意味をはき違え、国家のケツ舐め奴隷がネット上には結構存在しますけれど(国民の権利を簡単にないがしろにしかねないリヴァイアサンをチェックし批判し、徹底的に警戒し、憲法で雁字搦めに縛り付ける。この事がもっとも重要な事であって、それを行なうものこそが愛国者というものです。リヴァイアサンのケツを舐めるような輩やそういう事を強制するような輩は愛国者とは言いません。売国奴と売国奴のケツを舐める奴隷と言う、愛国者であればそういう売国奴と刺し違えてでも人民の権利を守るのが尽忠報国であって、麻生政権のケツを舐め、批判を攻撃するような輩はその類いと一緒。そういう連中が反日分子と言って攻撃している行為はお門違い。国家にもの申す輩がいなかったら国家をチェック出来ない。批判こそが国家を健全に保つ。どんなにトンチンカンな批判だとしても、批判を言う事自体の自由は担保しないと、国家が弱体化する。批判の無い国家の暴走は国民を傷つける。国民あっての国家です。与党の権力者は野党とは根本的に背負っている責任が違う。それが嫌なら降りればいい、そして野党が与党になれば同じように徹底的にチェックにさらす事が重要です。小沢の秘書が違法に見えるとしても、それは司法が決める事で、マスコミや市民が決める事じゃない。それに媚びるなどは言語道断。もちろん司法に媚びるのも。司法の動きをチェックする事が重要であって、小沢に倫理的な問題があるのなら選挙で落とせばそれで済む。その事と司法の適正手続きに基づいた執行は別の問題)、そういう連中と対極にいる、つまり検察のやり方は悪質であるから、小沢擁護、民主党支持という二項対立図式を越えた所に今回の問題は存在する。

極論すれば小沢がパクられようが、民主党が不人気になろうが、政権交代が起きず自民党が更に4年間やりたい放題に振る舞おうが、そういうどうでもいい話とは根本的に次元の違う問題でもある。もちろん個人的に言えば政権交代は起こってほしいし、自民党は下野してほしいとは思いますが、仮にそれが頓挫しても、すぐにこの国が沈没するという事は無いし、4年間やりたい放題にされて、借金は更に増加し、復活の経路が益々閉ざされたとしても、民主主義や立憲主義がキチンと機能して我々が自覚的にコントロールする覚悟を失わなければ、可能性は残っている(そういう意味でも小沢は辞めた方がいいと自分は思っていたわけです。二正面作戦というのは簡単な話ではない。政権交代というのは小沢じゃなくても出来るわけですから、それはそれで任せて、検察と真っ向勝負を挑むのなら、その事に専念した方がいい。政権交代を成し遂げて首相の座に座ってしまうと、逆に別の意味、権力の司法への介入という問題が生まれるので、深く突っ込めなくなるし、突っ込んだら突っ込んだで、今度はその事が民主主義や立憲主義を掘り崩す事になってしまう、権力を握る人間が私怨にかられてチェックするという風に見られるのはマズい、検察の恣意性を情報公開してチェックする事が公正に見えるようにする為にも、小沢が権力を握っていない方が別の人間がやった方がいいような気がする、小沢は検察の恣意性と戦っている当事者なのだから、当事者としての戦いに専念するべしと言うのが自分の立ち位置です)。

しかし民主主義も立憲主義もかなぐり捨てて、近代国家としての枠組みを放棄するのなら、復活の経路は完全に無いのと同じ、可能性はゼロになる。もちろん、現状でも民主制や立憲主義は殆ど機能していないとは言え、機能していないという事に危機を感じるコミュニケーションがかろうじて残っている。それが残っているうちは可能性もある。しかし多くの人が必要ないと放棄すれば、新しい枠組み、オルタナティブを考えなければならない。それが無い状態のまま外形的な真似事として民主主義的で立憲主義的な構造を装っていても、全く機能していなければ、不自由はどんどん拡大して、やがて我々はそれによって痛みを味わう事になるでしょう。前大戦の二の舞です。

メディアならメディアの、検察なら検察の、政治家なら政治家達の利益の最大化を目指すという事自体は何も問題は無い。悪辣であっても、ずる賢くても、倫理的に問題はあっても、それぞれが牽制してチェック出来る仕組みが整っていれば、ある程度システムは機能する。麻生的自民党とそれを支持したい人、民主党とそれを支持したい人、小泉的新自由主義とそれを支持したい人、ありとあらゆる考え方が時には同じ目標の為、時には対立したりする事を含めて、相互にチェックが働きあっていてそれが可視化されていれば、民主主義としては十分機能する。国民が選択すればいい。

しかし検察とメディアと政治家が一枚岩となってチェックが働かなくなれば危機に陥る。みんな腐っているので談合して目をつぶるようになったらお終いです。特にメディアは徹底的に検察や権力者達の情報開示をしなきゃならない。検察と一緒になって悪者叩きをするようになったら、チェックなんて絶対に働かない。検察が正しいかどうか法に沿っているかどうかも関係ない。その事を徹底的に情報公開するのがマスメディアの責務であって、それがみえていなけれ民主主義など絶対に働かない。

つづく!!