30過ぎた若干ハゲかかったアイドルのフリチン騒ぎを報じるヒマがあるのなら、もっとやる事あんだろって感じの、三日坊主でございます。皆様いかがお過ごしでしょうか。それを朝から晩まで、キチガイかお前ら、と言いたくなるような下らなさ。
鳩山クソ大臣が例によって喚いていましたが、あんなクズが人の事を最低だなどと地デジなんて恥知らずな方向性を打ち出して、それに乗っかっているステークホルダーと与党のクソ共なんか、みんなチンコぶらぶらさせて歩いているようなもの。特に鳩山のクズは最低なんて甘っちょろい言い方じゃ追っ付かないくらいの蛆虫野郎です。
あげく、麻生政権支持率上昇って、本当勘弁してくれよって話です。
先日、和歌山カレー事件の判決が出ましたが、あれはかなり危険な暴走領域に入っているのではないかと思えるような判決です。被告は完黙で自供も無いし、証拠も状況証拠のみで決定的とは言えない、動機もサッパリわからない。にもかかわらず死刑というのですから、疑わしきは被告人の利益にもクソもあったもんじゃありません。
裁判員制度が始まる前に、非常に暗澹たる気持ちになって来ます。先日痴漢冤罪が最高裁で逆転無罪になってよかったと思ったら、同じ裁判官が出したこの判決。こっちの目くらましの為の囮なんじゃねえかって気がします。
自分はあの被告がやったかどうかという問題にはあまり興味が無い。それは神のみぞ知る。やったかもしれないやってないかもしれない。個人的な見解を言えば、怪しいとは思う。だけど人を裁く場合、やったかもしれないという段階では、どんなに心証が真っ黒で状況証拠があったとしても、裁けないのが近代裁判の鉄則でもある。これは原理原則です。
その事を踏み越える事の方がよっぽど大問題です。やった可能性があるという段階では人は裁いちゃならない。まして死刑にするなどとんでもない話です。マスコミにしろ世論にしろ、もう少しこの問題を切実に考えないと取り返しのつかない状態になる。この話を深く突っ込みたい所ですが、カレー事件自体は別の機会に書くとして、前回のマスコミ問題を書いた時の補足を少し書こうと思います。
前回マスコミの話をダラダラと書いたわけですが、その中でロッキード事件について少し触れました。今丁度小沢問題で検察のやり方の是非が問われております。これはロッキードと全く同じ図式です。
そしてマスメディアの報道のあり方もしかり、当時と比べて唯一違うのが我々の手にネット環境があって、かつてほど翼賛していないという部分だとも書きました。これは非常に重要な差異で、その部分を除くと全く同じ事が繰り返されている。要するに我々に最後の選択が投げられている状態です。
そしてこれと全く同じ構図が戦前にも見られます。何の選択を我々に投げられているのか?と言えば、それは民主主義や立憲主義が生きるか死ぬかです。
戦前から考えると、民主も立憲も何度も自殺していますが、今我々の選択に委ねられているのは、完全に息の根を止めるのか?それとも希望は残っているのか?という岐路に立たされているようにも感じる。
いずれにせよ少しその意味を考える為にも、過去の例を振り返って、書いてみようと思います。これは和歌山カレー事件の判決の是非を考える為にも重要なまなざしになるのではないかと思います。それでは始めます。
田中角栄というと金権政治のイメージと、コンピュータ付きブルドーザーと言ったような言い方に見られる通り、汚いけれど有能な政治家であったというのが今の一般的な認識ではないかと思います。
もちろんその汚さは多くの人にとっても許せる事ではないのでしょうし、その後彼の手法を真似た政治家達によってこの国は骨の髄まで腐り果ててしまいます。今も続いている。しかしここの問題も単純に田中角栄だけを悪者にするわけには行きません。
これは手段の目的化が起こってしまうフェチ化問題、この国が陥りやすいパターンが見て取れます。要するにオリジネーター(考案者、創設者)とサクセサー(継承者、相続人)の問題、最初は理念があっての手段も、それが次第に理念を忘れ去って手段が利権となり、それそのものが目的となってしまう。途中でブレーキが踏めなくなる。戦前から今に至るまで、この国ではよくあるパターンです。
高度経済成長を遂げた後、最初に総理大臣になったのは田中角栄です。彼は地方の空洞化の上に成り立つ、都市部一極集中外需依存型の戦後復興スキームによって、60年代問題になっていた地方の空洞化への対処として、公共事業などのバラマキを行ない、これを一気に解決しようとする。そこには弱者救済の理念も当然あった。だから最初は無茶苦茶人気があった。
戦後復興スキーム、要するに戦後当時、吉田茂や当時の首脳陣は限られたリソースの中で、長期的な国益の観点から考えると後々見直しが必定であるような選択を、あえて短中期的国益の観点から、ネタとして戦後体制を受け入れます。敗戦後の1946年2月SCAPが起草した憲法草案が政府に示されて、11月公布、翌5月に施行。この時期までのアメリカの占領政策は懲罰的な色合いの濃い、再軍備阻止に重点が置かれています。しかし48年から冷戦の様相が強まって来ると占領政策も復興支援的な色合いに変わる。この事が憲法と自衛隊の矛盾を生み出す濫觴でもある。
再軍備阻止から再軍備要求へと真逆の転換、50年に警察予備隊が出来、51年に講和条約締結、52年に講和条約と安保条約の発効、GHQ解散と続いて行く。その背後には中華人民共和国成立と朝鮮戦争が起こる。
吉田は再軍備に強く反対します。理由は三つあって、一つは長期的国益を考えればアジアを敵に回す事は得策ではないと言う事。もう一つはアメリカと一蓮托生になる事によって、再び日本が戦果に巻き込まれるのではないかという懸念。そしてあと一つは日本の軍人を全く信用出来ないという事と日本人の民度も信用出来ないという事。なので短中期的なネタとしてアメリカがくれた「平和」憲法を逆手に取って再軍備要求を戦略的に骨を抜く。
アメリカに基地を提供する代わりに本土防衛義務を負わせ、日本は出来る限り低軍備で経済の復興に傾注するという(今の自衛隊は低軍備とは言えませんが、少なくともアメリカに守って貰わないと日本の安全保障は立ちいかないという感覚は残っています。もちろんこれは嘘なんですが、その事が都合がいい連中がいっぱいいます。右も左もです)、所謂吉田ドクトリンに従って日米安保体制をネタとしてあえて受け入れる。これは軍事的外交の主権をアメリカに譲渡する事を意味するわけですが、長期的にアジアでの国益護持の必要上、短期的には対米追従やむなしという事であって、ずっとそのまま思考停止で構わないというわけではありません。このスキームが機能する為に絶対に必要なのは冷戦体制という限定された条件があっての事。戦後復興の後、もしくは冷戦体制終結の暁には、というそれまでの意味での条件に過ぎません。
そこには親米愛国図式はもちろん無いし、アメリカが日本の為に利他的に振る舞うのは、あくまでも冷戦という特殊な条件のもとでの極めて限定された外交であって、それをわきまえた上での対米追従というのが常識でした。その条件のもとでのみ、アメリカが共産主義勢力から自らの覇権を守るという利己的振る舞いが、西側諸国から見ると自分達を守ってくれる利他的振る舞いに見える。これが60年代くらいまでは少なくとも与党の政治家の間では常識だったはずです。
この限定された特殊な条件のもとでの選択であるからアメリカの国益と日本の国益が一致するという事を、そして、戦後復興を遂げ、冷戦終結の後にはアメリカが日本を守る理由は無くなるわけだから独自外交を行なうのが当たり前、さもなければ何らかのアメリカにとっての見返りを要求するだろうし、日本を守る必要が無い上に、日本がアメリカに軍事を依存していれば、当然いくらでも脅しをかける事も出来るわけだから、どこかで一人立ちするのが常識としてあった。実際にそういう風になっている現状を見ても、この期におよんで対米追従を喚いている連中がまだいるわけですから、こういう常識をわきまえていないアホばっかりになってしまった。
現在対米追従路線を先頭切って突っ走っている自民党政権。こういう常識のかけらも無いクズの集まりでしかありません。アメリカはすでに中国と日本を測りにかければ、どう考えても中国の方がアメリカの命運を握っているわけですから、アメリカの国益を無視して日本の為に頑張ってくれるという事はあり得ません。いかに中国に沢山国債を買い続けてもらえるかがアメリカの命運を握っている。市場という意味でも中国は重要だし、日本のような魅力のかけらも無い市場とは違います。絶対にアメリカは中国相手には妥協せざるを得ない。北朝鮮問題もしかり、背後に中国がいる以上、アメリカは日本と同調しても国益を守れません。
にもかかわらず、この期におよんでまだアメリカの戦争のお手伝いをさせて下さいという事をほざくバカ麻生と奴隷政権。これは以前安倍政権の際にも言った事なのですが、小泉政権のときもそうでしょう。要するにアメリカ追従のもとでの利権の鍔迫り合いです。これは間違いありませんが、仮に1万歩譲って、もしかすると対米追従を喚いている蛆虫共としてみれば、アメリカから自立して自衛出来るようにするなり、軍備を整えなくとも外交で何とかするなりと言ったような舵取りなんて出来るわけが無いので、アメリカの奴隷としてより従順に振る舞う事によって、ゲインを引き出し、その過程で軍備をある程度認めてもらって、自立への道しるべとしようという思惑がひょっとしたらあるのかもしれませんが、アメリカの対中外交のプライオリティを考えればバカでもわかる話です。
中国との戦略的な外交、北東アジアの感情的な吹き上がりを誘発させないように、日本には危険はありませんという事をプレゼンテーションしなくちゃならない。北東アジア諸国が納得しないものを、アメリカが許すわけが無いし、第一現時点で奴隷な訳だから、奴隷になりますというプレゼンテーションは無意味です。現になっているのですから。実際に安倍政権の当時アメリカに梯子を外されている。
北東アジア諸国は何かといちゃもんをつけて来て厄介な連中ですが、日本の輸出産業もすでに対アメリカで言えば20%を切っている。中国を筆頭とした新興国がこれからの市場になる。だからどう考えても軸足を対米追従から少しずらさないと先々の国益の観点からも何の利点も無い。北にどんなに吹き上がった所で、リソースの配置を整えないと無意味。だいたいガイドライン改定によって事実上安保の中身も変わっています。アメリカは日本を守るとは言っていません。日本の問題は日本が責任もって解決するという事になっている。アメリカはハッキリそう言っている。アメリカが言っているだけではなくて、その事を自民党政権が受け入れているわけです。にもかかわらずその事を国民に隠している。対米追従というのが日本の国益に合致していた時代は終わっています。とっくの昔に。
ロッキードにしろ年次改革要望書にしろ、よくアメリカの陰謀的な話に落ちますが、アメリカの陰謀が無いわけじゃないでしょうけれど、国内的な問題の方が比重が大きいような気がする。アメリカが何を言おうと撥ね付ければそれで済む。アメリカ陰謀説というよりも、アメリカ追従のもとでの利権構造にどっぷり浸かって、アメリカが日本の為に何をしてくれるかとか、それが国益に適っているのかなんて事はハナっから眼中に無く、アメリカの要望だからという言い訳を駆使して利権に勤しんでいるクズ共がいっぱいいる。そういう連中が政官財を埋め尽くしている。だからたまに対米関係に距離を取ろうとするかのような物言いが出て来ると、国益を損なう!!と言って吹き上がる。国益じゃなくて己の利権を損なうのが本音でしょう。こういう図式を念頭に置いておく必要がある。
それは反米になるとか、中国の言いなりになるとか、そういう意味ではなくて、アメリカはこれからも重要な関係を結ぶ必要はあるし、何の戦略も無くただ北東アジアに土下座してりゃいいってもんでもない。仲良くするのも土下座するのも、ちゃんとその先の戦略があって、その為に必要ならばいくらでもやればいい。ただ問題の先送り的なその場しのぎでそういう類いの事をするのは意味がない。
少なくとも田中角栄が総理だった頃までは、こういう常識が残っていた。田中は戦後復興を遂げた暁には展開するはずであった、吉田ドクトリン以降の日本の外交政策を独自外交路線に切り替えようとする。戦後はじめて対中国、対中東の外交政策を打ち出し、それがアメリカの逆鱗に触れたのかどうかはわかりませんが、結果的にアメリカ政府に刺されてロッキードで失脚し戦後外交の転換は水泡と帰す。
戦後の対米外交のオリジネーターであった吉田茂のスキームを唯一田中だけが路線転換しようとしたわけで、田中以前は戦後復興期であるし、田中以後はロッキードのトラウマであるのか独自外交路線は封印され、いまだに対米追従奴隷スキームを続けているサクセサー達のバカ共が政権にいる。
田中が行なった地方への公共事業バラマキ内政利権は、裏切り者である竹下の経世会に引き継がれ、オリジネーターであった田中が利権塗れじゃなかったとは言いませんが、少なくとも弱者救済、地方復興の理念に基づいて行なわれたものを、サクセサー達が弱者をダシにして利権を貪る図式へと堕落する。独自外交も無くなり、アメリカの核の傘の下でのODAという弱者救済をダシにした利権構造に邁進する。理念は利権に変わり、手段が目的化する図式が見て取れます。
オリジネーターであった吉田茂があえて特殊な条件下でこそ成立する対米追従戦後復興スキームを田中以後のサクセサー達は延々と思考停止的に受け入れ続け、そのもとでの年次改革要望書スキームで日本の国民益を傷つけても利権に邁進する売国奴連鎖。オリジネーターの田中が戦後復興を貫徹し、独自外交路線に打って出る為に内政的な不満を中和するのに利用した、地方への再配分を(地方が疲弊しているのに外交で金をバラまいたのでは地方に言い訳出来ませんから、地方を納得させる為にもこれをやらないと独自外交なんてやってる場合じゃなかった)、その後のサクセサー達は利権製造装置、役人は天下りシステムとして、政治家は献金システム集票システムとして利用し続け、日本をここまで腐らせた。あくまでも目標があっての手段だったはずです。
目標があれば利権塗れであっても構わないとか、そういう事が言いたいわけじゃありませんが、目標に直結する手段であるのなら、目標も無く利権に邁進されるよりはマシです。目標を掲げて、ただきれい事と御託を並べて何の手段も無く何も変わらないというのも最悪です。残念ながら今の日本の政治家達は殆どが目標の無い利権野郎か手段を持たないきれい事野郎ばっかりです。これでは何もサブスタンスは生まれない。主権者である我々はその事を見失いがちです。その事が民主主義や立憲主義を殺している。結果的に利権屋の蛆虫や建て前のクズばかり。
小沢の問題も田中スキームのサクセサーとしての手法がどうしてもダーティに見えるわけですが、彼の対米従属から国連という正統性をネタ的に使って自立するという発言は、危険どころかオリジネーターの理念を言っているわけで、だから第七艦隊で十分発言をしたりする。本当にやるとは思えないという意見はわかりますが、自民党の売国奴共の批判は全く的外れです。また旧左翼的なこれをもって日本が軍国化するなんて言うバカもいますが、逆です。アメリカのケツを追いかけて、憲法の解釈変更によって無原則無規範に集団的自衛権云々なんていう話をなし崩し的に行なうよりは、しっかりと原理原則を定めてしっかりと縛りをかけて自立するという話の方が本当はまともなはずです。彼を信用出来ないというのは理解出来ますが、言っている事自体は筋が通っている。少なくともとっくの昔に冷戦が終わって、戦後復興もとっくに遂げているわけですから、いつまでも対米追従でケツの毛をむしり取られて、残った草狩り場で利権に勤しんでいる売国奴どもに比べれば当たり前のことを言っているに過ぎません。この期におよんで対米従属奴隷外交強化なんて事をやって戦後レジームからの脱却という寝言をほざく安倍とか麻生みたいな蛆虫よりは、まともな話です。
さて一応、田中角栄的スキームの本来の意義というのがわかったとしても、それでも金貰ってたんだから道義的責任があるだろうと思う方もおられる事でしょう。多くの国民がその事に吹き上がったわけで、どんな理念があろうが何だろうが悪いものは悪いという感覚自体、否定するつもりは毛頭ありません。そう思うのはむしろ自然な話かもしれない。しかしロッキード事件の際、こういった戦後の本義本懐話をわきにおいたとしても、はたして彼を罰したロジックに正当性があったのかどうか?
実はそっちが大問題で、今までの話は前提でしかありません。彼がやろうとしていた事の背後にはこういう意図があったという事を前置きとして書いただけです。このときは世論もマスコミも司法権力までもが、こういう背後の意図よりも金を貰っているという問題を重視して血祭りに上げるという選択を我々はしています。それがどういうロジックだったのか?という事を検証しようと思います。ここからが本題。
エンジンがかかって来た所で、次回につづく!!
鳩山クソ大臣が例によって喚いていましたが、あんなクズが人の事を最低だなどと地デジなんて恥知らずな方向性を打ち出して、それに乗っかっているステークホルダーと与党のクソ共なんか、みんなチンコぶらぶらさせて歩いているようなもの。特に鳩山のクズは最低なんて甘っちょろい言い方じゃ追っ付かないくらいの蛆虫野郎です。
あげく、麻生政権支持率上昇って、本当勘弁してくれよって話です。
先日、和歌山カレー事件の判決が出ましたが、あれはかなり危険な暴走領域に入っているのではないかと思えるような判決です。被告は完黙で自供も無いし、証拠も状況証拠のみで決定的とは言えない、動機もサッパリわからない。にもかかわらず死刑というのですから、疑わしきは被告人の利益にもクソもあったもんじゃありません。
裁判員制度が始まる前に、非常に暗澹たる気持ちになって来ます。先日痴漢冤罪が最高裁で逆転無罪になってよかったと思ったら、同じ裁判官が出したこの判決。こっちの目くらましの為の囮なんじゃねえかって気がします。
自分はあの被告がやったかどうかという問題にはあまり興味が無い。それは神のみぞ知る。やったかもしれないやってないかもしれない。個人的な見解を言えば、怪しいとは思う。だけど人を裁く場合、やったかもしれないという段階では、どんなに心証が真っ黒で状況証拠があったとしても、裁けないのが近代裁判の鉄則でもある。これは原理原則です。
その事を踏み越える事の方がよっぽど大問題です。やった可能性があるという段階では人は裁いちゃならない。まして死刑にするなどとんでもない話です。マスコミにしろ世論にしろ、もう少しこの問題を切実に考えないと取り返しのつかない状態になる。この話を深く突っ込みたい所ですが、カレー事件自体は別の機会に書くとして、前回のマスコミ問題を書いた時の補足を少し書こうと思います。
前回マスコミの話をダラダラと書いたわけですが、その中でロッキード事件について少し触れました。今丁度小沢問題で検察のやり方の是非が問われております。これはロッキードと全く同じ図式です。
そしてマスメディアの報道のあり方もしかり、当時と比べて唯一違うのが我々の手にネット環境があって、かつてほど翼賛していないという部分だとも書きました。これは非常に重要な差異で、その部分を除くと全く同じ事が繰り返されている。要するに我々に最後の選択が投げられている状態です。
そしてこれと全く同じ構図が戦前にも見られます。何の選択を我々に投げられているのか?と言えば、それは民主主義や立憲主義が生きるか死ぬかです。
戦前から考えると、民主も立憲も何度も自殺していますが、今我々の選択に委ねられているのは、完全に息の根を止めるのか?それとも希望は残っているのか?という岐路に立たされているようにも感じる。
いずれにせよ少しその意味を考える為にも、過去の例を振り返って、書いてみようと思います。これは和歌山カレー事件の判決の是非を考える為にも重要なまなざしになるのではないかと思います。それでは始めます。
田中角栄というと金権政治のイメージと、コンピュータ付きブルドーザーと言ったような言い方に見られる通り、汚いけれど有能な政治家であったというのが今の一般的な認識ではないかと思います。
もちろんその汚さは多くの人にとっても許せる事ではないのでしょうし、その後彼の手法を真似た政治家達によってこの国は骨の髄まで腐り果ててしまいます。今も続いている。しかしここの問題も単純に田中角栄だけを悪者にするわけには行きません。
これは手段の目的化が起こってしまうフェチ化問題、この国が陥りやすいパターンが見て取れます。要するにオリジネーター(考案者、創設者)とサクセサー(継承者、相続人)の問題、最初は理念があっての手段も、それが次第に理念を忘れ去って手段が利権となり、それそのものが目的となってしまう。途中でブレーキが踏めなくなる。戦前から今に至るまで、この国ではよくあるパターンです。
高度経済成長を遂げた後、最初に総理大臣になったのは田中角栄です。彼は地方の空洞化の上に成り立つ、都市部一極集中外需依存型の戦後復興スキームによって、60年代問題になっていた地方の空洞化への対処として、公共事業などのバラマキを行ない、これを一気に解決しようとする。そこには弱者救済の理念も当然あった。だから最初は無茶苦茶人気があった。
戦後復興スキーム、要するに戦後当時、吉田茂や当時の首脳陣は限られたリソースの中で、長期的な国益の観点から考えると後々見直しが必定であるような選択を、あえて短中期的国益の観点から、ネタとして戦後体制を受け入れます。敗戦後の1946年2月SCAPが起草した憲法草案が政府に示されて、11月公布、翌5月に施行。この時期までのアメリカの占領政策は懲罰的な色合いの濃い、再軍備阻止に重点が置かれています。しかし48年から冷戦の様相が強まって来ると占領政策も復興支援的な色合いに変わる。この事が憲法と自衛隊の矛盾を生み出す濫觴でもある。
再軍備阻止から再軍備要求へと真逆の転換、50年に警察予備隊が出来、51年に講和条約締結、52年に講和条約と安保条約の発効、GHQ解散と続いて行く。その背後には中華人民共和国成立と朝鮮戦争が起こる。
吉田は再軍備に強く反対します。理由は三つあって、一つは長期的国益を考えればアジアを敵に回す事は得策ではないと言う事。もう一つはアメリカと一蓮托生になる事によって、再び日本が戦果に巻き込まれるのではないかという懸念。そしてあと一つは日本の軍人を全く信用出来ないという事と日本人の民度も信用出来ないという事。なので短中期的なネタとしてアメリカがくれた「平和」憲法を逆手に取って再軍備要求を戦略的に骨を抜く。
アメリカに基地を提供する代わりに本土防衛義務を負わせ、日本は出来る限り低軍備で経済の復興に傾注するという(今の自衛隊は低軍備とは言えませんが、少なくともアメリカに守って貰わないと日本の安全保障は立ちいかないという感覚は残っています。もちろんこれは嘘なんですが、その事が都合がいい連中がいっぱいいます。右も左もです)、所謂吉田ドクトリンに従って日米安保体制をネタとしてあえて受け入れる。これは軍事的外交の主権をアメリカに譲渡する事を意味するわけですが、長期的にアジアでの国益護持の必要上、短期的には対米追従やむなしという事であって、ずっとそのまま思考停止で構わないというわけではありません。このスキームが機能する為に絶対に必要なのは冷戦体制という限定された条件があっての事。戦後復興の後、もしくは冷戦体制終結の暁には、というそれまでの意味での条件に過ぎません。
そこには親米愛国図式はもちろん無いし、アメリカが日本の為に利他的に振る舞うのは、あくまでも冷戦という特殊な条件のもとでの極めて限定された外交であって、それをわきまえた上での対米追従というのが常識でした。その条件のもとでのみ、アメリカが共産主義勢力から自らの覇権を守るという利己的振る舞いが、西側諸国から見ると自分達を守ってくれる利他的振る舞いに見える。これが60年代くらいまでは少なくとも与党の政治家の間では常識だったはずです。
この限定された特殊な条件のもとでの選択であるからアメリカの国益と日本の国益が一致するという事を、そして、戦後復興を遂げ、冷戦終結の後にはアメリカが日本を守る理由は無くなるわけだから独自外交を行なうのが当たり前、さもなければ何らかのアメリカにとっての見返りを要求するだろうし、日本を守る必要が無い上に、日本がアメリカに軍事を依存していれば、当然いくらでも脅しをかける事も出来るわけだから、どこかで一人立ちするのが常識としてあった。実際にそういう風になっている現状を見ても、この期におよんで対米追従を喚いている連中がまだいるわけですから、こういう常識をわきまえていないアホばっかりになってしまった。
現在対米追従路線を先頭切って突っ走っている自民党政権。こういう常識のかけらも無いクズの集まりでしかありません。アメリカはすでに中国と日本を測りにかければ、どう考えても中国の方がアメリカの命運を握っているわけですから、アメリカの国益を無視して日本の為に頑張ってくれるという事はあり得ません。いかに中国に沢山国債を買い続けてもらえるかがアメリカの命運を握っている。市場という意味でも中国は重要だし、日本のような魅力のかけらも無い市場とは違います。絶対にアメリカは中国相手には妥協せざるを得ない。北朝鮮問題もしかり、背後に中国がいる以上、アメリカは日本と同調しても国益を守れません。
にもかかわらず、この期におよんでまだアメリカの戦争のお手伝いをさせて下さいという事をほざくバカ麻生と奴隷政権。これは以前安倍政権の際にも言った事なのですが、小泉政権のときもそうでしょう。要するにアメリカ追従のもとでの利権の鍔迫り合いです。これは間違いありませんが、仮に1万歩譲って、もしかすると対米追従を喚いている蛆虫共としてみれば、アメリカから自立して自衛出来るようにするなり、軍備を整えなくとも外交で何とかするなりと言ったような舵取りなんて出来るわけが無いので、アメリカの奴隷としてより従順に振る舞う事によって、ゲインを引き出し、その過程で軍備をある程度認めてもらって、自立への道しるべとしようという思惑がひょっとしたらあるのかもしれませんが、アメリカの対中外交のプライオリティを考えればバカでもわかる話です。
中国との戦略的な外交、北東アジアの感情的な吹き上がりを誘発させないように、日本には危険はありませんという事をプレゼンテーションしなくちゃならない。北東アジア諸国が納得しないものを、アメリカが許すわけが無いし、第一現時点で奴隷な訳だから、奴隷になりますというプレゼンテーションは無意味です。現になっているのですから。実際に安倍政権の当時アメリカに梯子を外されている。
北東アジア諸国は何かといちゃもんをつけて来て厄介な連中ですが、日本の輸出産業もすでに対アメリカで言えば20%を切っている。中国を筆頭とした新興国がこれからの市場になる。だからどう考えても軸足を対米追従から少しずらさないと先々の国益の観点からも何の利点も無い。北にどんなに吹き上がった所で、リソースの配置を整えないと無意味。だいたいガイドライン改定によって事実上安保の中身も変わっています。アメリカは日本を守るとは言っていません。日本の問題は日本が責任もって解決するという事になっている。アメリカはハッキリそう言っている。アメリカが言っているだけではなくて、その事を自民党政権が受け入れているわけです。にもかかわらずその事を国民に隠している。対米追従というのが日本の国益に合致していた時代は終わっています。とっくの昔に。
ロッキードにしろ年次改革要望書にしろ、よくアメリカの陰謀的な話に落ちますが、アメリカの陰謀が無いわけじゃないでしょうけれど、国内的な問題の方が比重が大きいような気がする。アメリカが何を言おうと撥ね付ければそれで済む。アメリカ陰謀説というよりも、アメリカ追従のもとでの利権構造にどっぷり浸かって、アメリカが日本の為に何をしてくれるかとか、それが国益に適っているのかなんて事はハナっから眼中に無く、アメリカの要望だからという言い訳を駆使して利権に勤しんでいるクズ共がいっぱいいる。そういう連中が政官財を埋め尽くしている。だからたまに対米関係に距離を取ろうとするかのような物言いが出て来ると、国益を損なう!!と言って吹き上がる。国益じゃなくて己の利権を損なうのが本音でしょう。こういう図式を念頭に置いておく必要がある。
それは反米になるとか、中国の言いなりになるとか、そういう意味ではなくて、アメリカはこれからも重要な関係を結ぶ必要はあるし、何の戦略も無くただ北東アジアに土下座してりゃいいってもんでもない。仲良くするのも土下座するのも、ちゃんとその先の戦略があって、その為に必要ならばいくらでもやればいい。ただ問題の先送り的なその場しのぎでそういう類いの事をするのは意味がない。
少なくとも田中角栄が総理だった頃までは、こういう常識が残っていた。田中は戦後復興を遂げた暁には展開するはずであった、吉田ドクトリン以降の日本の外交政策を独自外交路線に切り替えようとする。戦後はじめて対中国、対中東の外交政策を打ち出し、それがアメリカの逆鱗に触れたのかどうかはわかりませんが、結果的にアメリカ政府に刺されてロッキードで失脚し戦後外交の転換は水泡と帰す。
戦後の対米外交のオリジネーターであった吉田茂のスキームを唯一田中だけが路線転換しようとしたわけで、田中以前は戦後復興期であるし、田中以後はロッキードのトラウマであるのか独自外交路線は封印され、いまだに対米追従奴隷スキームを続けているサクセサー達のバカ共が政権にいる。
田中が行なった地方への公共事業バラマキ内政利権は、裏切り者である竹下の経世会に引き継がれ、オリジネーターであった田中が利権塗れじゃなかったとは言いませんが、少なくとも弱者救済、地方復興の理念に基づいて行なわれたものを、サクセサー達が弱者をダシにして利権を貪る図式へと堕落する。独自外交も無くなり、アメリカの核の傘の下でのODAという弱者救済をダシにした利権構造に邁進する。理念は利権に変わり、手段が目的化する図式が見て取れます。
オリジネーターであった吉田茂があえて特殊な条件下でこそ成立する対米追従戦後復興スキームを田中以後のサクセサー達は延々と思考停止的に受け入れ続け、そのもとでの年次改革要望書スキームで日本の国民益を傷つけても利権に邁進する売国奴連鎖。オリジネーターの田中が戦後復興を貫徹し、独自外交路線に打って出る為に内政的な不満を中和するのに利用した、地方への再配分を(地方が疲弊しているのに外交で金をバラまいたのでは地方に言い訳出来ませんから、地方を納得させる為にもこれをやらないと独自外交なんてやってる場合じゃなかった)、その後のサクセサー達は利権製造装置、役人は天下りシステムとして、政治家は献金システム集票システムとして利用し続け、日本をここまで腐らせた。あくまでも目標があっての手段だったはずです。
目標があれば利権塗れであっても構わないとか、そういう事が言いたいわけじゃありませんが、目標に直結する手段であるのなら、目標も無く利権に邁進されるよりはマシです。目標を掲げて、ただきれい事と御託を並べて何の手段も無く何も変わらないというのも最悪です。残念ながら今の日本の政治家達は殆どが目標の無い利権野郎か手段を持たないきれい事野郎ばっかりです。これでは何もサブスタンスは生まれない。主権者である我々はその事を見失いがちです。その事が民主主義や立憲主義を殺している。結果的に利権屋の蛆虫や建て前のクズばかり。
小沢の問題も田中スキームのサクセサーとしての手法がどうしてもダーティに見えるわけですが、彼の対米従属から国連という正統性をネタ的に使って自立するという発言は、危険どころかオリジネーターの理念を言っているわけで、だから第七艦隊で十分発言をしたりする。本当にやるとは思えないという意見はわかりますが、自民党の売国奴共の批判は全く的外れです。また旧左翼的なこれをもって日本が軍国化するなんて言うバカもいますが、逆です。アメリカのケツを追いかけて、憲法の解釈変更によって無原則無規範に集団的自衛権云々なんていう話をなし崩し的に行なうよりは、しっかりと原理原則を定めてしっかりと縛りをかけて自立するという話の方が本当はまともなはずです。彼を信用出来ないというのは理解出来ますが、言っている事自体は筋が通っている。少なくともとっくの昔に冷戦が終わって、戦後復興もとっくに遂げているわけですから、いつまでも対米追従でケツの毛をむしり取られて、残った草狩り場で利権に勤しんでいる売国奴どもに比べれば当たり前のことを言っているに過ぎません。この期におよんで対米従属奴隷外交強化なんて事をやって戦後レジームからの脱却という寝言をほざく安倍とか麻生みたいな蛆虫よりは、まともな話です。
さて一応、田中角栄的スキームの本来の意義というのがわかったとしても、それでも金貰ってたんだから道義的責任があるだろうと思う方もおられる事でしょう。多くの国民がその事に吹き上がったわけで、どんな理念があろうが何だろうが悪いものは悪いという感覚自体、否定するつもりは毛頭ありません。そう思うのはむしろ自然な話かもしれない。しかしロッキード事件の際、こういった戦後の本義本懐話をわきにおいたとしても、はたして彼を罰したロジックに正当性があったのかどうか?
実はそっちが大問題で、今までの話は前提でしかありません。彼がやろうとしていた事の背後にはこういう意図があったという事を前置きとして書いただけです。このときは世論もマスコミも司法権力までもが、こういう背後の意図よりも金を貰っているという問題を重視して血祭りに上げるという選択を我々はしています。それがどういうロジックだったのか?という事を検証しようと思います。ここからが本題。
エンジンがかかって来た所で、次回につづく!!



















