前回の続きです。

前回、議会政治のルールがいかにして成立し、契約の概念の切実さ、現在の日本の国会がいかにそこからかけ離れた代物であるのかを書きました。中でも政権党に居座る連中の無知と暴走ぶりが、いかに近代国家としての原理原則を無視しているのかわかっていただけたのではないかと思います。一応補足しておきますが、前回の話というのは理想ではありません。常識です。

近代デモクラシー国家でありながら、その事を全く教育出来ていないというか、教育する気がない状態は異常という他ありませんし、啓蒙の無さ加減もどういう状態で人々を統治したいのかがわかる。しかし最もどうにもならないのは、統治権力者達が、この例えるなら1+1=2のごとき近代デモクラシーの常識をわきまえていない点にあります。

わかっていて、あえてこのルールを破っているのだとしても、国家が機能しているのなら政治は結果ですから100歩譲ってまあいいでしょう。しかしそれが利権であり、利権であるだけではなく国民益を無視している所がどうにもなりません。国家が機能していないのですからどんな言い訳も立たない。わかってそれをやっているのなら死刑でも軽過ぎるぐらいの重罪です。

最悪なのは最近の政治家を見ると、統治権力者でありながら、本当にこの基本的な常識をわかっていないたわけ者がいるように見える点です。1+1がわかっていないバカばっかりです。これはどうにもなりません。政治家たる資格なしという事です。算数で1+1と言えば小学校一年生以前にすでに幼稚園生でもわかる話でしょう。それと同じで、政治家であれば政治家になる前にすでに常識としてわかっていなければ話にならない常識です。

こういう人間が政治家になれるのは国民の責任であるわけですが、教育も啓蒙も無いわけで出口がありません。こういう構造に胡座をかいている売国奴が統治しているとんでもない状態であるわけです。人民が権利を行使する為の教育や啓蒙を妨害しているのですから、人民の権利を侵害していますのでわかっていようがいまいが重罪である事に変わりはありません。結局は国民が選んでいるという状態を言い訳にしている。

野球なら野球の、サッカーならサッカーの、ゲームにはゲームのルールがあるわけです。当たり前ですがルールを無視すればゲームは成り立たない。その事を全くわきまえていない連中がやりたい放題やっている。

日本では近代デモクラシーを駆動させる為の必要条件がことごとく欠けているという事も書きました。正確に言うと戦後失ってしまった。近代デモクラシーという衣をまといながらも、それを駆動させる条件が無い。つまり中身が衣とフィットしていない。この事がわかれば解決方法は二つしか無い。近代デモクラシーを捨てるのか?中身である我々が変わるのか?です。

近代デモクラシーという偽りの衣をまとい、中身が全くそれに見合っていないという現状維持という選択もあり得るし、現にその選択をずっと我々はして来たわけですが、その事によって様々な問題が出て来ています。統治権力がやりたい放題の傍若無人に振る舞うのもそうでしょうし、外交も内政もことごとく底が抜けています。みんなでそれでも構わないと思うのならこれは仕方のない事ですが、それでも構わないと思っている人も情報をキチンと知ってそう思っているわけではないのが殆どでしょう。面倒くさいとか、意味がわからないとか、いろんな理由はあるでしょう。もしくは恣意的な情報と、自分が好む情報だけをインプットして今の統治権力を翼賛している人もいますので、現状維持が心地よいという人もいるでしょう。もちろんステークホルダーもそうかもしれません。これは要するに現状維持とは言うものの近代デモクラシーを捨てているのと同じ事です。

現状維持にしろ、近代デモクラシー国家にするにしろ、デモクラシーを捨てるにしても、情報をキチンとフラットに並べて、十分その危険性やそれぞれの問題点も啓蒙があり、その上でみんなでそれでよいと思える選択であれば、これは仕方がない。どうにもなりません。しかしそうなっていないのではないかと思います。こうしろああしろというつもりはありませんが、せめて選択する為には情報がなければ選択出来ません。その事が一番問題だと思います。

近代デモクラシーを捨て去って、独裁国家(になってますが)であれ、封建制度であれ、何らかの政治形態に変化するというのなら、それもみんなで納得しているのなら仕方がない。ただ、現状では建て前としては制度的にも近代デモクラシーの形になっています。少なくともそれをキチンと機能させるだけでも、今よりはマシになるのではないかと思えます。もちろんそれは統治権力だけに責任があるわけではないし、我々にも責任があり、また、近代デモクラシーを駆動させるという事は我々に重い責任がのしかかって来ます。

なのでもう少しこの前提話を続けます。そして近代デモクラシーを駆動させるとしても、時代の変化によって微妙にその意味合いも変わって来ています。つまり、我々が賢明でこの仕組みを上手く作動させたとしても、社会の変化によって、いろいろと問題点が出て来ている。従来の民主主義は民主主義を掘り崩す。即ち独裁者を民主的決定によって呼び出してしまうと言った類いのステレオタイプ的な問題点ではなくて、近代デモクラシーを作動させる為の前提条件が変わって来ている。なので正確に作動しなくなっている大きな問題が出て来ている。
まあそこまで心配する前に乗り越えなければならないエベレスト並の高い壁が膨大に連なっているので、そこまで心配している場合じゃないのかもしれませんが、そのへんまで書いて、それから本題に移ろうと思います。

「日本国民は、正当に選挙された国会における代表者を通じて行動し、われらとわれらの子孫のために、諸国民との協和による成果と、わが国全土にわたって自由のもたらす恵沢を確保し、政府の行為によって再び戦争の惨禍が起ることのないやうにすることを決意し、ここに主権が国民に存することを宣言し、この憲法を確定する。そもそも国政は、国民の厳粛な信託によるものであって、その権威は国民に由来し、その権力は国民の代表者がこれを行使し、その福利は国民がこれを享受する。これは人類普遍の原理であり、この憲法は、かかる原理に基くものである。われらは、これに反する一切の憲法、法令及び詔勅を排除する。」

さてこれは何でしょう。おそらく学校でもキチンと教えていないでしょうね。まあわかる人には常識的な話なんですが、日本国憲法前文です。本日は憲法記念日でもありますので、少しここから問題点に切り込んで行きます。

ここには国民主権が明確に謳われており、社会契約の思想がハッキリ記されています。国民の信託とは、国民同士が契約を結んで、自分達の持っている権利を国家に預け、国民の為に働きなさいと統治権力に命令している。まさにジョン・ロックの思想そのものが書かれています。

ロックの思想はイギリスの名誉革命、そしてより徹底されてアメリカの独立、モンテスキューなどを通じてフランス革命にも間接的に影響を与えます。要するに革命が彼の思想とセットになっています。正確に言えば革命の後の社会のあり方についてのビジョン。

革命と聞いただけで乱暴なとか、大袈裟なとか、嫌悪感を示される人がいるでしょう。また反日分子とか言いたい人もいるでしょう。しかしこれが日本の近代デモクラシーが作動しない根本原因であると言えます。革命思想というのはキリスト教の予定説がもとになっています。つまり神の前での平等が世の中の自明性をぶち壊した。これまで正しいとされて来た事が何の根拠も無い事に気付いたわけです。だからこそ、イギリスのピューリタン達は王様をぶっ殺して議会の言論の自由を護持した。クロムウェルのピューリタン革命です。

これを日本の場合に捉え直すとわかりやすいかもしれません。日本にはキリスト教的な神はいませんでしたので、天皇がその代わりになっていたと書きました。つまり明治維新というのは、所詮は将軍家といえども天皇の下にあるものでしかない。天皇という正統性を使って将軍家の権威を相対化出来たから、ひっくり返す事が出来た。それが後に神の前での平等ならぬ天皇のもとでの平等と変わり、近代デモクラシーが作動し始める。

予定説にしろ天皇主義にしろ社会をひっくり返すのはいいとしても、問題はその後です。今まで王権を握っていた人物を排除して、その後釜に自分たちが座ったのでは意味がない。以前とは違う社会を作ってこそです。革命と言うと中国史にも易姓革命があるので同じ言葉になっちゃいますが、欧米的な革命、すなわちレボリューションと中国史的な革命とは根本的に意味が違います。中国の革命というのは基本的に皇帝が入れ替わるだけで、社会体制そのものは本質的には変わりません。異民族が皇帝になった清や元であってもです。この繰り返しが中国史です。

欧米におけるレボリューションは旧体制を否定するものなので、中国のそれとは全く違います。旧体制をひっくり返して新たな体制を構築する理論的根拠となったのが、ジョン・ロックの社会契約説というわけです。そこでこの思想の影響をモロに受けたアメリカの独立を例にとってみます。

日本ではアメリカ独立戦争と言いますが、アメリカ人的に言うとアメリカ革命と言います。イギリス人から見ると植民地の反乱となる。アメリカの植民者達が宗主国であるイギリスからの独立を目指して、独立戦争を起こすわけですが、この理論的根拠となったのがロックの思想です。

アメリカの独立の引き金はボストン茶会事件だという話がよくあるパターンです。アメリカ人が飲むお茶に対して、不当に高い税金をかけたってな感じで。しかしこれは全くの出鱈目です。これをさかのぼる事8年前の1765年にアメリカの植民者達は独立を考えるようになる。イギリスの議会で印紙税法という法律が可決された事が原因です。植民地で発行される新聞やカレンダー、証書などに印紙を貼らせて、その金でアメリカ駐屯軍の経費を賄おうという話なんですが、これに植民地人は怒った。

なぜかと言えば、印紙税を払うのはアメリカの植民者達なのに、その納税者達の意見も聞かずに本国が勝手に法律を決めたからです。要するにアメリカの植民者達の代表でもない連中が決めている。イギリスの憲法には「代表なくして課税なし」という大原則があります。ヨーロッパの議会制度の起こりというのは、そもそも税金問題を解決する為に作られたものです。王が領主に課税する為に領主の代表を、商人に課税する為に商人の代表を、それぞれ呼ぶ。課税する際には必ず納税者の代表の意見を聞くという伝統から始まったのです。特にイギリスではマグナカルタ以来、この原則が王と議会の間で何度も確認され大原則となっていました。これに理論的根拠を付け加えたのが他ならぬロックであったわけです。

国家権力とは人民の契約によって成り立っているので、課税するにしても、それは国家の権利ではなく人民が国家に与えた権利に過ぎない。みんなが信託している国家を運営する費用として、割り当てられた負担金が税金であるというわけです。当然、であるからには納税者が納得しないものを国家が勝手に課税を決めるなど言語道断、社会契約説の観点からも、代表なくして課税なしというのは正しいとなる。

アメリカの植民地人だけを対象にした税金でありながら、肝腎のアメリカの代表からは承諾を得ていない。一人も本国イギリスの議会に代表を送っていない。にもかかわらずイギリス議会が勝手に植民地人に課税するのは憲法違反であり、ロックの思想に反するというわけです。これがアメリカの言い分。

これに対してイギリス政府はイギリス憲法はイギリス国内での話であって、植民地側の意見には耳を貸そうとはしなかった。税金が高いので文句を言っているのだろうぐらいにしか思わなかった。印紙税の実施を強行します。

これを見た植民者達は、権力が人民に対して不当な事をやったら、黙っている事は無い。抵抗するのが人民の権利であるという、ロックの抵抗権を根拠にして、本国政府を非難する宣言を出し、各地でイギリス本国から来ている役人を襲って暴動を起こします。イギリス政府はこれをロックの理論に基づいた闘争であるとは思わずに、ただの暴動だと思っていた。性懲りも無くその後も何度も何度も法律を勝手に作り植民地に課税しようとする。印紙税がダメなら貿易関税ならいいだろうと言って、アメリカに入って来る品物に税金をかける。その中の一つがお茶だったというわけです。

この本国政府のやり口に我慢出来なくなったアメリカ植民地人達はとうとう革命を考えるようになる。イギリスがアメリカという新しい社会を統治しようとする事がそもそもの間違いであって、アメリカはアメリカに住む植民者達の社会契約で作られた政府によって統治される方がいいだろうという話になる。イギリス政府に対してロックの思想である革命権を行使する。

イギリスのプロの軍隊に対して、アメリカ植民地人はアマチュアの兵隊、当然最初はイギリスが断然優位でした。逃げ回ってばかりいた、しかし思想の力は凄まじい。予定説を信じ、ロックの革命思想を拠り所とした植民地人は決して諦めませんでした。フランスが植民地側に味方したというのが大きく、結果的にイギリスも最後には音を上げて、アメリカは独立を宣言する。

ロックが統治二論を書き、その中で社会契約説を理論化したときは、誰もそんな事信じちゃいなかったし批判も多かった。なぜなら社会契約によって作られた国はどこにも無かったからです。ロックの弟子を自称していたフランスの啓蒙思想家であるモンテスキューでさえ、社会契約説を絵空事だと否定していたくらいです。ロックの思想はあくまでも仮説であり理論であって実証に基づいていませんので批判は的を得ています。しかしそれから100年後、この仮説は仮説ではなくなった。1776年アメリカ合衆国が誕生したからです。

アメリカの独立宣言には、国家権力が被治者の同意に由来するものであると、社会契約によって作られると明確に記されています。人民の権利を政府が侵害した場合には人民はそれを改廃する事も新たな政府を作る権利も持っていると謳われている。

アメリカが武装権である銃を手放さない理由もここにあります。野蛮だとか危険だとかそれで人死にがでるとか、そういう事があっても手放さないのは人間が自分を守ろうとする権利は、国家が作られる以前からある自然権です。国家を作って警察や軍隊にその権利を預けるわけですが、完全に預けきってしまえばどちらが上位に位置するのかが不明確になります。あくまでも人民が一部の自然権を譲渡しているにすぎない。いざとなったら刺し違えてでも統治権力を革命で引きずり下ろすという思想がバックにあるから絶対に手放さない。合衆国憲法は世界最初の成文憲法ですが、ロックの憲法であるともいえるわけです。

さて日本国憲法前文にはロックの思想が書かれていると書きましたよね。にもかかわらず我々にはアメリカ的な武装権だの革命権だの抵抗権だのって話になりますと、何となく野蛮な感じがしたり、治安を乱す不届きものという感覚があるのではなかろうかと思えます。が、これは全くのお門違い。日本が上手く機能しない理由はそこにあります。ロックの社会契約というのはあくまでも抵抗権とセットです。それが無くちゃ機能するわけがない。ロックの思想を知っても社会契約説を知っても、憲法にそれが書かれていたとしても、この感覚が無い限り絶対に機能しない。

憲法は無視し放題どころか、それがまるで国民までも縛る法律の親分みたいなものだと勘違いしている与党のバカ議員もいる。憲法は完全に死んでいます。国家は肥大し続け、リヴァイアサンと化している。バラマキ財政を勝手に行ない、国民に税金をかけ放題。消費税も間もなく10%だとか言っています。それで景気が回復するなり、財政再建が出来るのならまだしも、この構造を維持したままでは景気回復などあり得ませんし、借金が増えるだけでしょう。バラまくと言ったって、役人の利権になるだけで我々へのリターンなんて無い。こんな状況であれば、18世紀のアメリカ人であれば、間違いなく速攻抵抗権を発動するでしょう。年間僅か6万ポンドの印紙税すら許さなかった。否、今のアメリカ人であってもというか近代デモクラシーの国家の市民であるのなら、怒りを表明して当然です。ところがどうでしょう、今の日本の政治家で革命を恐れている人なんているでしょうか?

普通は革命で引きずり下ろされるとか、暗殺によってぶち殺されるとか、選挙で負けるとか、病気で死ぬとか、そういう理由があって首相が辞めるのならまだしも、ちょっとお腹が痛いから辞めるとか、思い通りにならないから辞めるとか、ふざけた政治家ばかりです。何の結果も残さずに勝手になって勝手に辞める。国民を舐めています。

2005年の郵政選挙のときになんて言っていたでしょうか?あのときは殆ど郵政民営化しか言っていない。財政再建路線であり無駄を省くと言ってませんでしたっけ?それがどうです。選挙で正統性を得たわけでも何でも無いのに、全く真逆の方向性に勝手に進んでいる。不景気だろうが緊急事態だろうが、政治家にとって公約は命よりも大事なものです。なぜならそれを無視すれば打倒する権利が国民側にあるからです。契約を破ればぶっ殺される。そういう緊張感が全く無い。元々反対ならば2005年の時点で自民党を割って立候補すべきであって、まがりなりにも小泉自民党の郵政選挙で勝った議席でその時の公約とは全く逆の事をやっている。郵政すら元に戻そうとしています。

断っておきますが小泉自民党が正しかったと言いたいわけではありませんよ。むしろ文句はいっぱいあります。郵政民営化にも言いたい事は山ほどある。が、今の自民党の政治家達にはそれを否定する資格は無い。新たな公約に変えるのであれば選挙で正統性を得るのが先であって逆は絶対に無い。これは社会契約を無視している。なんやかんやと理由をひねり出して勝手にやっているなどとんでもない話です。不況だろうが緊急事態だろうが、契約より上位にある事態などありません。100年に一度もクソも無いのです。この状態で代表者気取りの麻生がどれだけバカかがわかるでしょう。救いようがありません。

我々にとって有害な統治権力であればこれを打倒するのは正当な権利です。法律に従う必要なんて無い。なぜなら統治権力自らが憲法を守っていないからです。我々の信託によって憲法の枠の中で統治を行なえと我々に命令されている存在です。にもかかわらずそれを全く無視するどころか意味すらはき違えて、勝手に解釈を繰り返し、勝手に法律を作ってしかも恣意的に運用している。こんなものに従う理由は何も無い。今の日本政府には1ミリも正統性はありません。

一番どうにもならないのは護憲派の連中です。本気でそう思うのなら直ちに国会に殴り込みに行かねばなりません。革命が出来ないにしても、抵抗運動に身を投じゲリラ戦を展開するのが筋です。この国の護憲勢力を信用出来ない理由がここにあります。一番の笑い話はかつて消費税が3%から5%に上がった時の経緯です。実施したのは橋本内閣ですが、これの骨格を内定したのは自社さ政権で首相は当時の日本社会党党首であった村山富市です。

旧社会党は消費税絶対反対の立場であったにも関わらず、権力に目がくらんでアッサリ公約を覆す。消費税を廃止するどころか上げることを了承した。これで護憲を党是としていたのですから頭がおかしいとしか言いようがありません。自衛隊にも反対していたのにこれも認める。ことごとく公約を破って、数合わせの論理によって政権に居座り続けました。そもそも社会主義を主張しているのに、ロックの思想である憲法を護持するというのもなんだか変な話ですし、護憲を党是としていながら社会契約の意味をわかっておらず、勝手に公約を変更してのうのうと政権に居座ったのですから憲法の中身もよくわかっていないのに護憲と言っていたわけです。社会党がその後解体し、社民党へとなっても不人気です。こういう事をわかっていて彼らを支持していないという人はそれほど多いとは思えませんが、当然の報いであるだろうと思います。これをやったら政治家としては終わり。契約を破ったにもかかわらず、生きていられるだけでも、日本人の無知と温情に感謝しなきゃバチが当ります。生きているどころか政治家として活動している人もいるのですから。我々市民とは背負っている責務が違う。間違えたじゃ済まないのです。

自分が改憲を主張する理由というのは憲法に欠陥があると思うからですが、その前に立憲主義や社会契約の概念が無視されている状況があるので、護憲派の人の意見も尊重したいとは思う。思うのですが、こういうレベルの護憲派が多すぎます。もちろん改憲派もスットコドッコイばっかりですが、ここに書いてある話はそれ以前の問題でもある。守ろうが変えようが機能していないのだから何をしたって意味がない。

ちなみになぜ憲法に欠陥があるのかと言えば、これはアメリカがくれた憲法であるからです。押し付け憲法論を言いたいわけじゃありませんよ。そんな事はどうでもいい。要するになぜかと言えば「パソコンの説明書は初心者に分かりづらい」問題です。アメリカ人というのはロックの社会契約を実現し、世界で初めて人権宣言をし、民主主義という意味でももちろん問題はありますが、日本のだいぶ先を行っています。しかし彼らは決定的な事をわかっていない。近代デモクラシーが極めて特殊な条件下でのみ駆動するという事をあんまり重く考えていない。だから自由と民主主義を広めるなんて平気で言うわけです。本当に出来ると思っている所がある。

アメリカでもこの精神を獲得するのに時間がかかったのは確かですが、すでに血肉となって彼らの精神に宿っています。語り継いでもいる。困った事に、この極めて特殊な条件下でのみ駆動する仕組みが、どれだけ困難であっても善意がそれを乗り越えると信じている所がある。こういう連中にとってはなぜそれが駆動しないのか?と逆にわけがわからない。パソコンが出来る人が書いた説明書は、初心者にはどんなにわかりやすく書いたとしても、所詮わかっている人が書いたものである以上限界がある。伝統にしろ道徳にしろ、それが機能しているときは問題になりません。機能しなくなって初めて問題が認識出来て、伝統主義や道徳主義が生まれる。プロのスポーツ選手にしろ、事業を成功している人にしろ、成功している人から何かを学んでも、みんながプロのアスリートになれるわけじゃないし、事業が成功するわけでもない。

憲法もしかり。近代デモクラシーを手にしてそれが当たり前に身体に身についている国に書いてもらったからと言ったって、全く条件の違う国で同じように機能するわけがない。天皇の機能の骨を抜いた事を見ればそれは明らかです。戦前の天皇の前での平等の精神が、日本のデモクラシーの鍵であったという事を見落としている。それが無くなってただ平等だけが与えられた。自由も同じです。結果は言うまでもありません。今更天皇主義の復活は見込めません。もう壊れてしまっていますので無理です。どうすれば機能するのかもわからない以上、手直ししながら少しずつ問題点を是正して作り上げて行くしか無い。だから改憲すべしと思うのです。一番重要なのは社会契約や立憲主義を守る事であって、憲法中身そのものを守る事ではない。

とまあいずれにせよ、日本においては憲法の専門家にしろ、政治家にしろ社会契約など本気で信じちゃいません。建て前だと思っている。そんな事は当たり前であってフィクションをいかに駆動させるのかを考えなきゃしょうがない。ロックだってそんな事は百も承知だった。アメリカ人はこの思想を熱狂的に信じて突っ走ったから近代化を遂げたわけです。神もおらず天皇も戦前の機能は失っている。よってアメリカ的な信じ込みや理想に燃えて突っ走るという事は出来ない。予定説は日本には無い。今のままでは明治維新は二度と出来ない。したがって社会契約も機能するわけがない。

続く!!
「民主主義の眼目は、率直で力を込めた討論である」

これはイギリスのサッチャーの言葉ですが、この言葉通り、前回、田中角栄が議会の討論を徹底的に利用したという話を書きました。故にかれは議会制民主主義を熟知した戦後ただ一人の政治家であったと。これがいかに重要な要素であるのか?少しイギリスを例にとって書こうと思います。これは日本のような政治体制を取っている国では、非常に重要でありますので、そこからこの国の問題点も見えて来ると思います。

イギリスで最も立派だった首相は誰か?という問いをすれば、おそらくサッチャー、チャーチルあたりを上げる人もいると思いますが、ダントツであり、イギリス人的にもダントツであるその人と言えば、ディズレーリではないかと思います。いかに凄かったのか?

彼はイギリスが最も繁栄したヴィクトリア時代の政治家です。当時のイギリスは経済も政治も世界チャンピオンでした。スエズ運河を買収しフランスの東洋進出をくい止め、ベルリン会議でロシアの南下政策を挫折させ、ヴィクトリア女王をインド帝国の皇帝に推戴し、小説家としても名を馳せた。これらはユダヤ人家系に生まれ、ユダヤ人として唯一イギリス首相にまで上り詰めたベンジャミン・ディズレーリその人の業績ですが、彼が偉かったのは首相として有能だったから、才能に恵まれていたからというだけではなくて、彼こそがイギリスの議会政治の基本ルールを確立した人物であるから彼は偉かったのです。

1840年代、穀物法の是非をめぐってイギリス議会はまっぷたつに割れて議論を重ねていた。要するにイギリスに輸入される穀物を制限するという法律なのですが、ナポレオン戦争の直後から行なわれていた規制です。外国産の安い穀物が入って来ると、イギリスの穀物が売れなくなるという、なんだか今でも延々と堂々巡り的に議論されている事ですが、当時と今とで決定的に違うのは大多数の農民や労働者階級の人々には選挙権がありません。今の時代であれば高く穀物を売りたい農民と、安く穀物を買いたい労働者という図式で争点化されそうですが、当時は少し様子が違います。

この規制が何を守っていたのかと言えば、イギリスの地主階級達、つまり貴族達の既得権を守る為のものでした。貴族は領地からの「上がり」で生活しているので、穀物が高い程上がりが増え、安いと困るというわけです。一方これに反対するのは都市部の資本家達で、彼らが自由貿易論者だからというのもあったのでしょうけれど、一番の要因は穀物価格が安くなれば労働者達の生活は楽になる。したがって資本家達は彼らに支払う賃金を低く抑える事が出来る。だから穀物規制反対!!というわけです。地主層を支持基盤に持つ保守党、資本家層を支持基盤に持つ自由党とまっぷたつに分かれて選挙の争点になる。

結局選挙で勝ったのが穀物法支持の保守党でした。党首のロバート・ピールは首相となる。しかしここから事態は急変します。アイルランドで大飢饉が起こります。1801年以来、アイルランドはイギリスに併合されていました。アイルランドは元々ゲール人の国で、アングロ・サクソンのイギリスとは言葉も民族も宗教も違う国でした。昔からイギリスはアイルランドを支配しようとして来て、16世紀ヘンリー8世の頃から侵略が本格化し、アイルランドは抵抗するものの結局はイギリスの属国になってしまいます。そういう長い抗争の因縁と、プロテスタントのイギリスに対し、アイルランドはカトリック国と宗教上の相容れなさもあって、イギリスの地主達はアイルランドの小作農達を徹底的に絞り上げていました。収穫された小麦はすべて搾り取られ、アイルランドの人々が食べるものと言えばジャガイモしかなかった。

そこにジャガイモの伝染病である馬鈴薯病が発生しジャガイモが全滅してしまいます。普通日本人的感覚からすると、百姓は生かさず殺さずではありませんが(最近の日本の統治権力者はこの感覚すら失っているように見えますが)、ろくでもない地主であれ領主であれ、小作人が死んじゃったのでは本末転倒ですのでそこまではやらないでしょう。多少の食い扶持は残してあげる。

しかし当時のイギリスの地主達は全く同情のかけらも見せず徹底的に搾り取った。なぜかと言えばイギリス人からすると長年の抗争によって困らされて来たカトリックのアイルランド人、酷い話ですが人間だと思っちゃいない、いっそ全滅してくれた方がスッキリするぐらいに思っていた。アイルランド人がイギリス人を憎む気持ちが並大抵ではない事がわかります。アイルランドでは数十万人の餓死者が出る。数十万で済んだのは、彼らが移民となってアメリカなんかに移住したからで、逃げ道が無ければもの凄い数になっていたでしょう。

何年にもわたって馬鈴薯病が流行すれば、人口は減り当然小麦の収穫量も減りますから、穀物価格は急騰する。いくらイギリス人であってもさすがにマズい事に気付き始める。ザマアミロじゃ済まない。

さしもの保守党も地主層が支持基盤ではあるものの、穀物法を廃止して海外からの輸入を解禁する。背に腹は変えられません。政策を転換する。しかしこれに噛み付いたのがピールと同じ保守党員である、かのベンジャミン・ディズレーリです。首相に論戦を挑む。今の自民党の議員達や麻生に聞かせてやりたい話です。ちっとは歴史を勉強しろい!!って感じです。

ディズレーリは「自由党が入浴中に、その衣類をかっぱらった」と首相を批判します。ピールは自由党の政策を盗んだと泥棒扱いする。

「穀物法を解禁するのは、誰が考えても当然の措置でしょう。しかし、首相閣下、あなたがそこに座っていられるのは、保守党が『穀物法を守る』という公約を掲げて選挙に勝ったからではありませんか。だったら閣下には穀物法を変える資格はありません。潔く自由党に政権を譲り、自由党内閣に穀物法廃止を任せるのが筋というものではありませんか」

泥棒扱いされたピールも黙っちゃいません。「選挙の公約には反するかもしれないが、私は女王陛下の信任を得て、この国家の要職に就いた身である。国家のためになる事であれば、断固として行なうのが女王陛下から与えられた責務である」と。

それを受けてディズレーリ「では閣下、お尋ねします。貴方は『女王陛下、女王陛下』と盛んにおっしゃいますが、もし地主層の支持が得られなかったとしたら、貴方は選挙に勝てたでしょうか?それでも陛下は貴方を信任なさったと思いますか?」

この大論争を聞いていた保守党議員達はディズレーリの言う通りだと、どんどんピールの元から離れて行く。結果ピール内閣は打倒されちゃう。

このディズレーリの大演説によって、議会政治に新たなルールが追加されます。それが彼が偉大な所です。まず選挙公約は必ず守るべしという事です。もしそれを変えるのなら、代議士全員が辞職して、もう一度選挙で新しい公約を選挙民に問わねばならないという大原則です。今は不景気だからとか、君主の為とか国民の為という口実を使って公約を堂々と破り政権に居座るような政治家は政治家としての資格無しという事です。選挙をやる度胸が無ければ、潔く下野すべきであって、政党の党利党略よりも民意を問う事が優先される。いくら君主が信任していたとしても、いったん政権を手に入れたとしても、民意を裏切ったのでは首相の資格無しという事です。国民も景気対策を望んでいると勝手に居座って、解散権は首相にあると言ってやりたい放題のどこかのおバカさんに言ってあげたい話です。

解散権というのも、本当はそんな権限を定めた条文は日本国憲法にはありません。解釈としてそうであるという話なだけです。なぜそうなのかと言えば、政党が公約を変更するのは自由です。が、それをやる為には選挙を行なって国民との契約を改訂するのが原理原則です。その為に解散権が首相にあるという話になっている。首相に解散権が無ければそれが出来ない。言わば民意を問う為のものであって、民意を無視して政党が生き延びる為にあるわけじゃない。民意を問い、政策に反映させる為にあるわけです。だから不支持率が支持率を上回っているにもかかわらず、時間稼ぎをして政局に利用するような事は問題外、政治家としても政党としても資格は無いという事です。

そして他人の公約を盗むなという事。選挙で掲げて戦った公約が不人気になったり、効果がなかったりしたからと言って、全く逆のしかも反対政党が掲げた公約を盗むなど論外という事です。高速道路無料化は環境破壊に繋がる、エコにならないとほざいて、不人気になったらETC利権を潜り込ませて大安売りなんて事をやるようじゃ政治家としての資格無しという事です。どんなに国民生活が困っているとしても、自分達の政党が掲げた公約を覆すのなら、先ず民意に問うのが先であって、不景気だからという事で、民意に問うたわけでもないにもかかわらず野党の公約をパクリ勝手に財政規律をぶち壊してバラマキをやるなど、政治家の資格無しという事です。

そしてディズレーリがピールを打倒したのは、議会での論戦で圧倒したからです。首相を徹底的に論破した。結果ピールを支持する声は無くなり、多数派のピール内閣も倒れた。多数派工作をして勝ったわけじゃありません。それまでのイギリス議会では、所詮政治は数だ、数は金で集められる。という考えがまかり通っていました。イギリス最初の首相であるウォルポールはその典型で、有り余る資金にものを言わせて多数派工作をした。これをディズレーリは打ち破った。数は弁論の力で獲得するものと変わった。ヴィクトリア時代に英国憲法が完成したと言われる所以です。

金で多数派工作するどころか、国民に何の効果も無い景気対策で金をバラまいて票を買うような政治家は論外という事です。政党に所属しているという理由で考えが全く逆であるにもかかわらず、選挙で勝つ為に人気のある党首を支持し、選挙で勝ったらだだをこねるなんてのも論外という事です。小泉が郵政で参議院の否決に対して衆議院を解散させた事を持って、憲法違反であるという議論が一時期横行しました。自分もどちらかと言えばそれは後押ししたい口なんですが、残念な事に民意が彼を支持した。ポピュリズムを駆使し民意を上手く利用して選挙で大勝をおさめる。そういう意味では憲法は政治家の立場を守る為にあるものではないので、民意を味方につけた者勝ちという事になる。ここは非常に危険なんですが、だから民主主義の国の投票権を持っている選挙民である我々は重い責務を担っているのです。

自分の意見と全く違うのに何々党に所属しているなんてのは、基本的に公約の意味をわかっていない。最近は金権政治というのはすぐに叩かれる対象となるので、かつて田中角栄が議会制民主主義の権化から金権政治家として堕落し、後の経世会はその堕落だけを引き継いで、権力をほしいままにしていた頃のような金で議会の多数派工作をするような振る舞いは無くなっているかのような錯覚がありますが、そんな事は全然無い。

党に縛られる理由は金です。たとえ党首といえども首相といえども、民意も問うてない、しかも公約を勝手に変更しているようなゴミに従って、平気な顔をしている連中なんてもんは、基本的に政治家としての最低限の資質さえ無い。議会政治の基本をわきまえていないと言わざるを得ません。国会というのはすでに討議する場では無くなっています。単なるセレモニーと化している。議論の正しさを競うのではなく、数の論理は変わりません。公約も守らない。人の公約は盗む。ディズレーリは150年前の政治家です。ウォルポールは250年前。日本の議会政治はイギリスから150年どころか250年遅れているというわけです。しかもその自覚すらない。

日本的なデモクラシーという言い方が誤摩化しとしてよく言われたりしますが、日本的もヨーロッパ的もアメリカ的もクソも無い。デモクラシーはデモクラシーでしかないのであってそれ以上でもそれ以下でもない。デモクラシーの看板を掲げて、そうなっていないのですから、日本的もヘッタクレも無いのです。

近代デモクラシーの大前提は契約を守るという事です。契約は守ったか守ってないかのどちらかしかありません。守っていなければデモクラシーとは言えない。この大前提が無ければ憲法があろうが、選挙で議員を選ぼうが、民主主義でもなければ立憲主義でもない。近代国家としての最低限の常識が無いのが日本の現状です。この事に危機意識も無ければ教育も無い。啓蒙も皆無どころか肯定する御用学者までいる始末。出口も可能性も何から何まで何にもない。どうにもなりません。唯一国民が意志を示す事が出口なんですが、示そうとしたら検察が出て来て政治介入する。マスコミが翼賛報道で国民を煽動する。まんまと引っかかる国民。これではどうにもならない。

断っておきますが、自分は民主主義や立憲主義を機能させれば幸福になるとか、日本社会が上手く行くとか、そういう事が言いたいわけではありません。イギリスが素晴らしい国であるとか、アメリカが素晴らしいとか言うつもりは毛頭ありません。ただ、少なくとも現状の日本の政治体制は近代デモクラシーに基づいて制度設計され、システムが組まれています。当然、であるからにはその器の中身を満たさなければ上手く機能するはずがない。上手く機能させても戦争は起こりうるし、みんなが幸福になるとは限らない。だけど形だけ近代国家としての枠組みを持っていても、中身がスッカラカンで原理原則も無ければ契約も守らない、即ち憲法も法律も守らない統治権力であれば、もっと始末に負えません。政治を機能させる前提すらないのです。

日本の政治が機能不全である事や、法治国家とは言えない状況、社会が上手く回らない現状、もとを正せば全部ここに問題の根源がある。その事が何しろ問題だと思うのです。民主主義や立憲主義を止めたいというのなら止めればいい。だけど民主主義や立憲主義を装ってインチキをやっているのは最悪です。

日本人は義理堅いとか、政治家はウソつきばかりだけど、国民一般は約束はキチンと守る。みたいな感覚もあるでしょうけれど、約束と契約は違います。義理堅い事と契約を守る事とは関係がない。

契約とは言葉です。言葉によって明確に定義されない限り、それは契約とは言えない。よく契約書で虫眼鏡でみないと読めないような契約がこっそり書いてあるという事を持って、契約社会の胡散臭さを日本では語られたりしますけれど、これは考え得るあらゆるケースを想定し、契約を守ったかそうでないかを明確にする為には必要な事です。書かれていない事であればもちろん法律や道徳は守った方がいいのでしょうけれど何をやってもいいわけです。

しかし日本人はこういう感覚を嫌います。いちいち約束事を言葉にするのを嫌がる。事細かに契約書に記載する手法をまるでインチキ商売のような捉え方があります。しかしこれは全く逆の話であって、キチンと約束を言語化しておかなければ、何の具体性も無いし何も言っていないのと変わらない。だから公約なんて守るわけが無い。何がよい事で何がダメなのかもハッキリしていない。この感覚が権力の恣意性を許す事にもなるのでしょう。

欧米人が契約を言葉にするのは約束を守らないからだとか、日本人はいちいち言葉にしなくとも約束は守るとか、我々日本人はそのように思い込むクセがありますが、これは全くの出鱈目です。日本人にウソをついた事の無い人がいるでしょうか?約束を一度も破った事が無い人がいるでしょうか?いるわけがありません。約束を極力守ろうとする人もいるでしょうし、平気ですっぽかす人もいる。いろいろです。それと同じで、欧米人が隙あらば他人を蹴落とそうという人ばかりではない。当たり前です。ある民族や人種が信用出来るとか出来ないとか一概には言えない。

日本は地理的に海に囲まれているから相対的に呑気で、大陸とは文化が違うという見方もありますが、それは当然あるでしょうけれど、だから日本人は約束を言語化しなくとも守るという風にはならないし、実際に守らない人がいっぱいいる。そもそも言語化していなければ何も約束していないのだから守ったか守っていないかもあり得ません。単に好き嫌いの話でしかない。現状の政治体制である以上、好きとか嫌いとかは関係なく、契約の概念が無ければシステムは駆動しない。

ヨーロッパは大陸だから契約書が発達したというのも、中国を見れば一目瞭然ですが関係ありません。文明で言えば中国の方が昔から発達していましたし、ずっと長い間、最先端の先進国だったわけです。最近ちょっと逆転しただけ。多種多様な民族の集合体ですし、文化も言語もライフスタイルも違う人々が同じ大陸に住んでいながら、中国では契約書を作るというスタイルは生まれませんでした。民主主義にしろ立憲主義にしろ今にいたっても生まれていない。

契約の概念を駆動させる鍵は聖書にあります。極めて特殊な条件が無いと立憲主義も民主主義も生まれません。そしてプロテスタンティズムの精神が無いと資本主義も駆動しない。これが決定的に日本には欠けている点です。戦前は天皇がその穴埋めとして機能していた。しかしそれが今は無くなっている。無いのに民主主義や立憲主義を装い、資本主義であるかのように振る舞っている。その事に気付かないと何も始まりません。何らかの機能的代替物でその足りない部分を担保しなきゃならない。それが無ければ、我々がその事を熟知して、徹底的に監視しなきゃ上手く行かない。幸いにも外形的にはそういう体制になり、まがりなりにも一度は戦前にこれらの体制も駆動させ機能させた。だから我々がその事を自覚すれば道がないわけではない。

つづく!!
前回の続きです。

田中角栄というと田中眞紀子オバはんの父ちゃんというイメージが今は強いのかもしれませんが、田中眞紀子という脳みその足りないカスに比べたら、それこそ天と地の差があります。あのバカのおかげで余計にイメージが悪化しているように感じます。

おそらく戦後の日本でもっともデモクラシーを体現した政治家と言えるかもしれない。議会制民主主義の権化、議会制民主主義の国であるにもかかわらず、彼のような存在は彼以外一人として出て来ていない。おそらく彼ただ一人が戦後の民主主義を機能させた政治家と呼べる。この民主主義の権化を叩き潰したのだから、民主主義が上手く行かないのも当然かもしれない。ここにつまずきがある。

ロッキード事件の際の日本の空気は、裁判が終わったわけでもないのに(今もこればっかりですが)、テレビも新聞も犯罪者であるかのようにメッタクソに叩いた。反省しろ!恥を知れ!!巨悪を許すな!!!みんなで徹底的に罵倒して貶めた。推定無罪原則を一億総玉砕的にかなぐり捨てて万歳突撃を敢行する。近代裁判の常識を言おうものなら袋叩きにされたわけです。

そのほんの数年前、彼が首相に就任した際には今太閤とか庶民宰相と言った感じでもてはやされ、皆で褒め讃えマスコミも祭り上げた。小学校しか出ていない、にもかかわらず!!みたいな感じで。

それがわずか数年で全く逆に民意が動く。この変わり身の早さ、ちょっと前までボロクソに叩かれていた麻生、小沢民主が政権交代確実視されていた。それが例の事件で民主党の勢いに陰りが見え、それだけならまだしも麻生を応援している人が増えている。小泉翼賛、安倍翼賛から一気に逆バネが働いて不人気になる様もそうだったし、それこそ毎日毎日芸能人だのスポーツ選手だの、新興企業の経営者だのが祭り上げられては、あっという間にクソミソに叩かれる対象となる。戦前からこれの繰り返しばかり。


あの田中角栄を金権政治の権化というのならまだしも、民主主義の権化という言い方をして、しかも唯一なんて言い方をすると拒絶反応を起こす人もいるかもしれませんが、近代民主主義成立の為の必要条件とは、議会が機能し議会での言論の自由が保障され、そこで自由な議論が交されて法律や予算が決まる。これが重要です。

この観点から見ると、田中ほどこれを徹底的に熟知し体現していた政治家はいません。昭和20年代彼が新人議員だった頃、僅か8年の間に彼が作った法律が26本。提案するだけではなく成立までさせる。今の国会をみれば明らかですが議員立法なんて殆ど無い。官僚が作った法案を採決しているだけです。

なぜぺーぺーの駆け出しであり、金もコネも学も無い男がそれほどバンバン法律を作れたのかと言えば、議会での演説が巧みであり、説得力に優れていたからに他なりません。議会での討議をいとわず最大限に議会を活用した。聞いていても何をしゃべってんのかわからない官僚の作文を読む操り人形ばかりの今の国会議員から考えると次元が違います。彼が凄かったのは文句を言ったり批判したり、もしくは自分の意見を喚き立てるだけではなく、人を説得する力があった。

戦後作られた国会法第78条に、自由討議の規定(後に昭和30年の第5次国会法改正でこの制度は廃止され、国会は自ら言論の府である事を止める)、それを活用出来たのは彼だけです。その他のザコ共はヤジるのみ。

そして決定的なのは官僚操縦の天才であった事でしょう。だからあれだけ議員立法が出来た。日本の政治家達が法律を作るのが仕事であるにもかかわらず、なぜ法律を作れないのか?というとバカばかりだからというのが先ず第一、官僚を操縦どころか操縦される連中ばっかりというのが理由としてあります。何でそうなっちゃうのかというと、新しく作った法律とすでに施行されている法律の間に矛盾があってはならないと考える所があるからです。なので素人が勝手に法案を作っても、矛盾があれば本会議前に廃案になる。だからすでにある法との間の細かい微調整が必要となる。となると官僚は担当する分野においてはそのスペシャリストですから、彼らの力が必要になる。彼らを上手く使えないバカな政治家だと法に抜け穴をめぐらされ骨を抜かれてしまう。その事によって官僚の言いなりになる麻生内閣みたいなクズ政治家ばかりになる。殆どの法案は役人が作っている現状を生み出している。

アメリカなんかだと議員立法が非常に多い。議員がその事に熱心であるというのが第一にあるのでしょうけれど、アメリカでは法と法の間の矛盾点なんてのは全く気にしない。作った者勝ち。矛盾があったら裁判所がバッティングした法律のどちらを優先させるのかという判決を下す。その判例が積み重なり法の運営が定まる。

日本ではその判断を下すのは官僚の仕事になっちゃっている。本来であればその事自体非常に問題があるのですが、官僚の操縦が巧みであれば、彼らの能力を駆使して法案を作る事が出来る。田中はその事に長けていた。バカな政治家であればそれが出来ない。というかそれが出来た政治家は戦後彼一人だけかもしれない。問題意識と知識を持ち適切な支持を与えモチベーションも持たせつつ的確にコントロールしていた。議会制民主主義の権化と言える部分でしょう。

最近の政治家達がよく政治主導という言葉を口にします。そして必ず現状の制度や官僚のサボタージュを理由にする。しかし本当の原因は政治家がアホだからであり、もっと言えばそれを我々が延々と支持しているからです。

ちなみにロッキードの頃の当時の同時代的な文脈で見直してみると、60年代後半から70年代にかけての空気は、大学紛争、ベトナム戦争によって吹き出した米国社会の暗部、黒人運動の爆発、宇宙開発競争、月面制覇、テレビの普及による情報化、地方の空洞化と都市化、東側の革命や共産主義が色褪せ、西側諸国がその事によって開放衝動に煽られる。日本でも吉田ドクトリンの中では革命勢力であった社会党までもが、対米交渉のカードとして利用されていたのが、革命の季節が陰りを見せ始めるとともに、牽制としての役割を終え、対米交渉のリソースとしての意味も失い、自民党も革命勢力に怯える必要が無くなって行く。シラケ世代の登場と表裏一体となって社会の開放衝動、その空気に上手く乗ったのが田中の日本列島改造計画です。つまりもの凄く微妙な時代の転換点にあったとも言えるわけで、田中の失脚によって戦後の本義本懐が頓挫し、政治がただ社会の変化に順応したがゆえに暴走する。歯止めが無くなる。

この空気によって田中は大人気になるわけですが、74年に金権政治批判を受けて総理の座から降ります。田中自身にも慢心があったのかもしれません。この事自体はまあどうでもいい。

今、世襲制度見直しが争点化され始めました。これに対して世襲だからって政治家になれないのは人権侵害だとかほざいている世襲の議員がいっぱいいますが、別に政治家になるなと言っているのではなくて、親の地盤を引き継いで、政治資金団体も引き継いでっていう世襲が問題なだけで、そういうものを一切引き継がずに別の土地で立候補することは何の問題も無い。どうして今までこれを許して来たのか?と言うような不合理で不公正な制度でしかありませんので、即刻辞めるべきことでしょう。

この問題と表裏一体にあるのが、政治と金の問題でもある。つまり田中角栄とか、鈴木宗男とか、叩き上げの政治家で尚かつ力を握っている政治家というのは、金に汚いように見える部分があります。二世のお坊ちゃん世襲議員というのは金に汚くはない。だから金の汚さを叩いてクソミソにぶっ潰して来た事が、元々金を持っているが能力も胆力も無い世襲議員(小沢も世襲なんですけどね)ばっかりな状況を生み出してもいる。その事をよくよく考えねばなりません。

いずれにせよ金の汚さに対する嫌悪感や不人気というのは、正直そんな事を言える程我々は無垢なのか?という疑問もあるし、そういう政治家を望んでいる人、その事によって何らかのベネフィットを得ている人、そういう人が支持しているからそうなるわけで、一概に金に汚いように見えるからと言って断罪するのも違うのかもしれませんが、それによって政治家が不人気になって退陣に追い込まれるという事自体はたいした問題ではない。

しかし問題はこの後起こるロッキード事件です。要するに全日空に導入される新型飛行機の選定に当たって、当時首相であった田中が5億の金を受け取ったと。これに一斉に日本のマスコミは飛びつく。

金脈問題で辞めた元総理であるから、こういった賄賂をもらっているのもあり得る話だ、というか受け取っているに決まっている。こういう空気が日本を覆い尽くした。ちょっと前までもてはやしていたのをコロッと忘れ去って、一刻も早く巨悪を逮捕しろ!!と大合唱になる。その世論の後押しに押される形で、76年7月逮捕。ここから暗黒裁判が始まる。

田中が逮捕されたとき、マスコミも世論も大喜びしたわけですが、検察はすぐに壁にぶち当たる事になる。田中に賄賂を贈ったとされるのがロッキード社の副社長であったコーチャンなのですが、このコーチャンが証言を拒んだ。理由は簡単な話で彼は賄賂を贈った当事者な訳ですから、ロッキード事件の共犯者として起訴される可能性がある。自分に不利になるような事を日本の法廷にノコノコ出かけて行って証言なんかしたら自爆するだけですから当然です。

検察としてみれば彼の証言が無ければ決め手が無い、たちまち手詰まりとなる。


しかしそんなのは当たり前の話で、有罪となるのも構わずに証言する奴なんているわけが無い。にもかかわらず日本の検察は世論の後押しがあるのだから何とかなるだろうと見切り発車で田中を逮捕する。物証も証人も揃ってないのに、マスコミや世論が逮捕しろと雄叫びを上げているから、逮捕をする。アイツは悪に決まっているから逮捕しろとマスコミが指をさせば、証拠も無いのに逮捕されるような社会であれば、魔女狩りと変わらない。特に日本では逮捕=犯罪者の国です。こんな事を許してしまっては近代国家の体を成していません。この構造は延々と今でも繰り返される構図です。

こんな話はまだ序の口。このコーチャンが日本から来た検事に対して前代未聞の条件を提示する。贈賄罪、偽証罪で起訴しないのであれば証言に応じてもいいという、刑事免責の条件です。

当たり前ですが刑事免責なんて制度は日本にはありません。アメリカではよくある話なのでコーチャンは要求するわけですが、日本の刑事訴訟法にはそんなもんを許す規定はどこにも無いし、それまで一度も行なわれた事も無い。ところが、こともあろうに東京地裁はそれを勝手に認めてしまう。

近代裁判とは被告が無罪を証明する場ではありません。検察が有罪を証明する場です。被告を裁く場ではなく検察が不法な取り調べをしていないか、適正手続きを無視していないか、証拠が妥当かどうか、その事を吟味する場であって事実を明らかにする場ではない。ほんの僅かでも適正手続きをミスであったにしろ間違えたらその場でアウト。証拠に僅かでも疑う余地があればこれもアウト。被告は無罪放免となる。これが原理原則です(もちろんこれは今でも平気の平左で破っているにも関わらず国民はその事にたいした危機意識を持っていない。先日の和歌山カレー裁判なんかが典型です)。

権力というのはリヴァイアサンであり、無実の人を有罪にしかねない。その事を監視するのが裁判の眼目であって、悪を裁く場でも何でも無い。悪かどうかは結審するまでわからないのですから。ところがロッキード(だけではなく、今でも日常茶飯事に繰り返されている暴挙ですが)裁判では、裁判所と検察がグルになって勝手に法律を作っちゃっている。何で裁判所がそんな事を認めるのかと言えば検察を助ける為です。証拠も無いのに逮捕したはいいけれど、そのままでは裁判にならない。困った検察の肩を持って、裁判所が勝手にルールを変更する。

罪刑法定主義も無視している。裁判官と検察がグルなんですから、どんな被告だって有罪に持ち込む事が出来る。検察の肩を持って勝手に裁判所が検察が有利になるようにルールを変更してしまえば、被告が勝てるわけがありません。検察がこれを踏み越えるのは百歩譲ってまあいいでしょう。裁判所がそれに歯止めをかければいい。無罪とすればそれはそれで機能している。しかし裁判所までがグルになって一緒にやっているのですから、公正な裁判もクソも無い。

こんなしょうもない事が行なわれているにもかかわらず、日本のマスコミは刑事免責の特例が出た事を叩くどころか、これで重要な証言がそろった!!と翼賛していたわけです。刑事免責の特例もこの際しょうがないなんて書いているバカもいた(今でも同じ構造でグッタリしますが)。とんでもない話です。検察のやり方や裁判の不公正さを問題にするマスコミは皆無。

誤解されると困るので書いておきますが、田中が金を貰っていたかどうかとは別の話です。金を貰っていたとしてもこういうやり方は近代裁判の鉄則に反しているし、民主主義も立憲主義も踏みにじる行為です。検察独裁国家である事を意味する。たかが5億程度の金を貰っているとかいないとかなんて話は下らないどうでもいい話です。それより遥かに重要且つ全国民にとって重大な問題です。憲法違反であり、極刑に値する。
そしてまだまだですよ。ここからがもっと酷い。ロッキード裁判のもっとも問題な部分は、コーチャン証言に対して反対尋問が認められなかった所にある。裁判所が刑事免責を与えた事によって、検察はアメリカに飛び、コーチャンをアメリカの裁判官の前で証言させ、それを記録に取って持ち帰った。嘱託尋問調書と言われるものです。日本の裁判なのに、アメリカの裁判官の前で証言したものが正式の証拠として認められてしまう。実にバカバカしい話です。

裁判において検事調書が証拠として提出される事は珍しくありません。目撃者の証言や共犯者の証言を検事が聞き取りまとめたものが検事調書と言います。この検事調書と嘱託尋問調書では決定的に違う点がある。ロッキード裁判において、この証言を行なったコーチャンに対して、被告側の反対尋問の機会が一度たりとも与えられなかった。しかもコーチャン証言にはアメリカの裁判官と日本の検事だけが立ち会って、被告の弁護人はそこにはいなかった。その上反対尋問まで許されないのですから、暗黒裁判なんてもんじゃない酷過ぎる。憲法違反です。

憲法第37条第2項には、刑事被告人は、全ての証人に対して審問する機会を十分に与えられ、又、公費で自己の為に強制的手続きにより証人を求める権利を有する。とあります。

刑事裁判で検察側が被告に不利な証言を持ち出したとき、その場合、被告側はその証人に対して反対尋問を行なう権利がある。その場合は国が証人を強制的に、公費で呼ばなければならない。反対尋問は被告人が当然有する基本的人権です。

これは事件が凶悪だから与えなくてもいいとか、与えても解決できそうだから与えるとか、そう言う権利ではない。民主主義国家では例外無く全ての人にある権利だから人権なのです。この重大な人権を踏みにじった。裁判所が先頭切って踏みにじっている。とんでもない話です。

反対尋問というのは被告が自分の身を守る為の重要な権利です。それが無ければどんな人間でも有罪にして刑務所にぶち込む事が出来るようになってしまう。思考実験をしましょう。貴方にもしこの権利が無かったとしたら、貴方に怨みを持っている人が仮にいると仮定して下さい。貴方を陥れるのは簡単な話です。適当な未解決事件の犯人であるという嘘の証言を誰かがすればいい。

殺人現場にいたのは貴方です。貴方が血まみれのナイフを持っている所を見ました。貴方はそんな事は嘘だとわかっているのですから、当然反論するでしょう。しかし貴方に容疑がかけられている場合、そんなのは嘘ですと言っても通用しません。だから残された手段は反対尋問によってその証言が嘘であるという事を暴く、それが唯一の方法です。その証言が嘘であるという事、矛盾点などを指摘し、証拠として不正確である事を暴く。それが無実の被告である貴方に残された道です。しかしその反対尋問の機会が貴方に与えられていなかったとしたらどうでしょう。そしたらそのいい加減な証言が証拠として扱われ、貴方は有罪判決を受けるはめになる。そんな理不尽でアホな話があるでしょうか?それがロッキード事件では堂々と行なわれて、その事をマスコミが翼賛し、国民も万歳三唱を繰り返したわけです。民主主義も立憲主義も死ぬ。最近では死刑にまでなるような始末。

この裁判において一審、二審ではいずれも有罪判決となる。コーチャンの嘱託尋問調書は認められる。結局最高裁まで争いますが判決を見る事無く田中は1993年に死に、公訴棄却となる。裁判そのものが無かった事にされた。

この公訴棄却の際、最高裁はコーチャン発言は適法性が無かったという旨を述べる。つまり最高裁も憲法違反であった事をわかっていた。田中が死ぬのを待ってそれを発表する。

司法がこのとき以降、どんどん橋を渡ってしまい暴走が止まらなくなっているという事も大問題なんですが、それよりも更に問題なのはマスコミにもある。このとき司法の恣意性を指摘して検察批判をした識者達はことごとく血祭りに上げられて、検察翼賛をして田中たたきに勤しんだ連中が今にいたってもマスコミでは主流を占めている。当然これ以後同じ図式が繰り返されても、検察批判に向くはずも無く、推定有罪報道を繰り返し司法の恣意性は野放し、リヴァイアサンを監視したり縛るものがことごとく壊れている。憲法は無視され、我々の主権は侵害され、マスコミは国家権力のケツを舐める。行き着く先に何が待っているのか?戦前を見ればそれは明らかです。

それではロッキード問題はこれくらいにして、次回は戦前民主主義国家として立憲国家としての前提が壊れて行くプロセスに今度は目を移します。

ひとまずENDだけど続く!!