前回の続きです。
前回、議会政治のルールがいかにして成立し、契約の概念の切実さ、現在の日本の国会がいかにそこからかけ離れた代物であるのかを書きました。中でも政権党に居座る連中の無知と暴走ぶりが、いかに近代国家としての原理原則を無視しているのかわかっていただけたのではないかと思います。一応補足しておきますが、前回の話というのは理想ではありません。常識です。
近代デモクラシー国家でありながら、その事を全く教育出来ていないというか、教育する気がない状態は異常という他ありませんし、啓蒙の無さ加減もどういう状態で人々を統治したいのかがわかる。しかし最もどうにもならないのは、統治権力者達が、この例えるなら1+1=2のごとき近代デモクラシーの常識をわきまえていない点にあります。
わかっていて、あえてこのルールを破っているのだとしても、国家が機能しているのなら政治は結果ですから100歩譲ってまあいいでしょう。しかしそれが利権であり、利権であるだけではなく国民益を無視している所がどうにもなりません。国家が機能していないのですからどんな言い訳も立たない。わかってそれをやっているのなら死刑でも軽過ぎるぐらいの重罪です。
最悪なのは最近の政治家を見ると、統治権力者でありながら、本当にこの基本的な常識をわかっていないたわけ者がいるように見える点です。1+1がわかっていないバカばっかりです。これはどうにもなりません。政治家たる資格なしという事です。算数で1+1と言えば小学校一年生以前にすでに幼稚園生でもわかる話でしょう。それと同じで、政治家であれば政治家になる前にすでに常識としてわかっていなければ話にならない常識です。
こういう人間が政治家になれるのは国民の責任であるわけですが、教育も啓蒙も無いわけで出口がありません。こういう構造に胡座をかいている売国奴が統治しているとんでもない状態であるわけです。人民が権利を行使する為の教育や啓蒙を妨害しているのですから、人民の権利を侵害していますのでわかっていようがいまいが重罪である事に変わりはありません。結局は国民が選んでいるという状態を言い訳にしている。
野球なら野球の、サッカーならサッカーの、ゲームにはゲームのルールがあるわけです。当たり前ですがルールを無視すればゲームは成り立たない。その事を全くわきまえていない連中がやりたい放題やっている。
日本では近代デモクラシーを駆動させる為の必要条件がことごとく欠けているという事も書きました。正確に言うと戦後失ってしまった。近代デモクラシーという衣をまといながらも、それを駆動させる条件が無い。つまり中身が衣とフィットしていない。この事がわかれば解決方法は二つしか無い。近代デモクラシーを捨てるのか?中身である我々が変わるのか?です。
近代デモクラシーという偽りの衣をまとい、中身が全くそれに見合っていないという現状維持という選択もあり得るし、現にその選択をずっと我々はして来たわけですが、その事によって様々な問題が出て来ています。統治権力がやりたい放題の傍若無人に振る舞うのもそうでしょうし、外交も内政もことごとく底が抜けています。みんなでそれでも構わないと思うのならこれは仕方のない事ですが、それでも構わないと思っている人も情報をキチンと知ってそう思っているわけではないのが殆どでしょう。面倒くさいとか、意味がわからないとか、いろんな理由はあるでしょう。もしくは恣意的な情報と、自分が好む情報だけをインプットして今の統治権力を翼賛している人もいますので、現状維持が心地よいという人もいるでしょう。もちろんステークホルダーもそうかもしれません。これは要するに現状維持とは言うものの近代デモクラシーを捨てているのと同じ事です。
現状維持にしろ、近代デモクラシー国家にするにしろ、デモクラシーを捨てるにしても、情報をキチンとフラットに並べて、十分その危険性やそれぞれの問題点も啓蒙があり、その上でみんなでそれでよいと思える選択であれば、これは仕方がない。どうにもなりません。しかしそうなっていないのではないかと思います。こうしろああしろというつもりはありませんが、せめて選択する為には情報がなければ選択出来ません。その事が一番問題だと思います。
近代デモクラシーを捨て去って、独裁国家(になってますが)であれ、封建制度であれ、何らかの政治形態に変化するというのなら、それもみんなで納得しているのなら仕方がない。ただ、現状では建て前としては制度的にも近代デモクラシーの形になっています。少なくともそれをキチンと機能させるだけでも、今よりはマシになるのではないかと思えます。もちろんそれは統治権力だけに責任があるわけではないし、我々にも責任があり、また、近代デモクラシーを駆動させるという事は我々に重い責任がのしかかって来ます。
なのでもう少しこの前提話を続けます。そして近代デモクラシーを駆動させるとしても、時代の変化によって微妙にその意味合いも変わって来ています。つまり、我々が賢明でこの仕組みを上手く作動させたとしても、社会の変化によって、いろいろと問題点が出て来ている。従来の民主主義は民主主義を掘り崩す。即ち独裁者を民主的決定によって呼び出してしまうと言った類いのステレオタイプ的な問題点ではなくて、近代デモクラシーを作動させる為の前提条件が変わって来ている。なので正確に作動しなくなっている大きな問題が出て来ている。
まあそこまで心配する前に乗り越えなければならないエベレスト並の高い壁が膨大に連なっているので、そこまで心配している場合じゃないのかもしれませんが、そのへんまで書いて、それから本題に移ろうと思います。
「日本国民は、正当に選挙された国会における代表者を通じて行動し、われらとわれらの子孫のために、諸国民との協和による成果と、わが国全土にわたって自由のもたらす恵沢を確保し、政府の行為によって再び戦争の惨禍が起ることのないやうにすることを決意し、ここに主権が国民に存することを宣言し、この憲法を確定する。そもそも国政は、国民の厳粛な信託によるものであって、その権威は国民に由来し、その権力は国民の代表者がこれを行使し、その福利は国民がこれを享受する。これは人類普遍の原理であり、この憲法は、かかる原理に基くものである。われらは、これに反する一切の憲法、法令及び詔勅を排除する。」
さてこれは何でしょう。おそらく学校でもキチンと教えていないでしょうね。まあわかる人には常識的な話なんですが、日本国憲法前文です。本日は憲法記念日でもありますので、少しここから問題点に切り込んで行きます。
ここには国民主権が明確に謳われており、社会契約の思想がハッキリ記されています。国民の信託とは、国民同士が契約を結んで、自分達の持っている権利を国家に預け、国民の為に働きなさいと統治権力に命令している。まさにジョン・ロックの思想そのものが書かれています。
ロックの思想はイギリスの名誉革命、そしてより徹底されてアメリカの独立、モンテスキューなどを通じてフランス革命にも間接的に影響を与えます。要するに革命が彼の思想とセットになっています。正確に言えば革命の後の社会のあり方についてのビジョン。
革命と聞いただけで乱暴なとか、大袈裟なとか、嫌悪感を示される人がいるでしょう。また反日分子とか言いたい人もいるでしょう。しかしこれが日本の近代デモクラシーが作動しない根本原因であると言えます。革命思想というのはキリスト教の予定説がもとになっています。つまり神の前での平等が世の中の自明性をぶち壊した。これまで正しいとされて来た事が何の根拠も無い事に気付いたわけです。だからこそ、イギリスのピューリタン達は王様をぶっ殺して議会の言論の自由を護持した。クロムウェルのピューリタン革命です。
これを日本の場合に捉え直すとわかりやすいかもしれません。日本にはキリスト教的な神はいませんでしたので、天皇がその代わりになっていたと書きました。つまり明治維新というのは、所詮は将軍家といえども天皇の下にあるものでしかない。天皇という正統性を使って将軍家の権威を相対化出来たから、ひっくり返す事が出来た。それが後に神の前での平等ならぬ天皇のもとでの平等と変わり、近代デモクラシーが作動し始める。
予定説にしろ天皇主義にしろ社会をひっくり返すのはいいとしても、問題はその後です。今まで王権を握っていた人物を排除して、その後釜に自分たちが座ったのでは意味がない。以前とは違う社会を作ってこそです。革命と言うと中国史にも易姓革命があるので同じ言葉になっちゃいますが、欧米的な革命、すなわちレボリューションと中国史的な革命とは根本的に意味が違います。中国の革命というのは基本的に皇帝が入れ替わるだけで、社会体制そのものは本質的には変わりません。異民族が皇帝になった清や元であってもです。この繰り返しが中国史です。
欧米におけるレボリューションは旧体制を否定するものなので、中国のそれとは全く違います。旧体制をひっくり返して新たな体制を構築する理論的根拠となったのが、ジョン・ロックの社会契約説というわけです。そこでこの思想の影響をモロに受けたアメリカの独立を例にとってみます。
日本ではアメリカ独立戦争と言いますが、アメリカ人的に言うとアメリカ革命と言います。イギリス人から見ると植民地の反乱となる。アメリカの植民者達が宗主国であるイギリスからの独立を目指して、独立戦争を起こすわけですが、この理論的根拠となったのがロックの思想です。
アメリカの独立の引き金はボストン茶会事件だという話がよくあるパターンです。アメリカ人が飲むお茶に対して、不当に高い税金をかけたってな感じで。しかしこれは全くの出鱈目です。これをさかのぼる事8年前の1765年にアメリカの植民者達は独立を考えるようになる。イギリスの議会で印紙税法という法律が可決された事が原因です。植民地で発行される新聞やカレンダー、証書などに印紙を貼らせて、その金でアメリカ駐屯軍の経費を賄おうという話なんですが、これに植民地人は怒った。
なぜかと言えば、印紙税を払うのはアメリカの植民者達なのに、その納税者達の意見も聞かずに本国が勝手に法律を決めたからです。要するにアメリカの植民者達の代表でもない連中が決めている。イギリスの憲法には「代表なくして課税なし」という大原則があります。ヨーロッパの議会制度の起こりというのは、そもそも税金問題を解決する為に作られたものです。王が領主に課税する為に領主の代表を、商人に課税する為に商人の代表を、それぞれ呼ぶ。課税する際には必ず納税者の代表の意見を聞くという伝統から始まったのです。特にイギリスではマグナカルタ以来、この原則が王と議会の間で何度も確認され大原則となっていました。これに理論的根拠を付け加えたのが他ならぬロックであったわけです。
国家権力とは人民の契約によって成り立っているので、課税するにしても、それは国家の権利ではなく人民が国家に与えた権利に過ぎない。みんなが信託している国家を運営する費用として、割り当てられた負担金が税金であるというわけです。当然、であるからには納税者が納得しないものを国家が勝手に課税を決めるなど言語道断、社会契約説の観点からも、代表なくして課税なしというのは正しいとなる。
アメリカの植民地人だけを対象にした税金でありながら、肝腎のアメリカの代表からは承諾を得ていない。一人も本国イギリスの議会に代表を送っていない。にもかかわらずイギリス議会が勝手に植民地人に課税するのは憲法違反であり、ロックの思想に反するというわけです。これがアメリカの言い分。
これに対してイギリス政府はイギリス憲法はイギリス国内での話であって、植民地側の意見には耳を貸そうとはしなかった。税金が高いので文句を言っているのだろうぐらいにしか思わなかった。印紙税の実施を強行します。
これを見た植民者達は、権力が人民に対して不当な事をやったら、黙っている事は無い。抵抗するのが人民の権利であるという、ロックの抵抗権を根拠にして、本国政府を非難する宣言を出し、各地でイギリス本国から来ている役人を襲って暴動を起こします。イギリス政府はこれをロックの理論に基づいた闘争であるとは思わずに、ただの暴動だと思っていた。性懲りも無くその後も何度も何度も法律を勝手に作り植民地に課税しようとする。印紙税がダメなら貿易関税ならいいだろうと言って、アメリカに入って来る品物に税金をかける。その中の一つがお茶だったというわけです。
この本国政府のやり口に我慢出来なくなったアメリカ植民地人達はとうとう革命を考えるようになる。イギリスがアメリカという新しい社会を統治しようとする事がそもそもの間違いであって、アメリカはアメリカに住む植民者達の社会契約で作られた政府によって統治される方がいいだろうという話になる。イギリス政府に対してロックの思想である革命権を行使する。
イギリスのプロの軍隊に対して、アメリカ植民地人はアマチュアの兵隊、当然最初はイギリスが断然優位でした。逃げ回ってばかりいた、しかし思想の力は凄まじい。予定説を信じ、ロックの革命思想を拠り所とした植民地人は決して諦めませんでした。フランスが植民地側に味方したというのが大きく、結果的にイギリスも最後には音を上げて、アメリカは独立を宣言する。
ロックが統治二論を書き、その中で社会契約説を理論化したときは、誰もそんな事信じちゃいなかったし批判も多かった。なぜなら社会契約によって作られた国はどこにも無かったからです。ロックの弟子を自称していたフランスの啓蒙思想家であるモンテスキューでさえ、社会契約説を絵空事だと否定していたくらいです。ロックの思想はあくまでも仮説であり理論であって実証に基づいていませんので批判は的を得ています。しかしそれから100年後、この仮説は仮説ではなくなった。1776年アメリカ合衆国が誕生したからです。
アメリカの独立宣言には、国家権力が被治者の同意に由来するものであると、社会契約によって作られると明確に記されています。人民の権利を政府が侵害した場合には人民はそれを改廃する事も新たな政府を作る権利も持っていると謳われている。
アメリカが武装権である銃を手放さない理由もここにあります。野蛮だとか危険だとかそれで人死にがでるとか、そういう事があっても手放さないのは人間が自分を守ろうとする権利は、国家が作られる以前からある自然権です。国家を作って警察や軍隊にその権利を預けるわけですが、完全に預けきってしまえばどちらが上位に位置するのかが不明確になります。あくまでも人民が一部の自然権を譲渡しているにすぎない。いざとなったら刺し違えてでも統治権力を革命で引きずり下ろすという思想がバックにあるから絶対に手放さない。合衆国憲法は世界最初の成文憲法ですが、ロックの憲法であるともいえるわけです。
さて日本国憲法前文にはロックの思想が書かれていると書きましたよね。にもかかわらず我々にはアメリカ的な武装権だの革命権だの抵抗権だのって話になりますと、何となく野蛮な感じがしたり、治安を乱す不届きものという感覚があるのではなかろうかと思えます。が、これは全くのお門違い。日本が上手く機能しない理由はそこにあります。ロックの社会契約というのはあくまでも抵抗権とセットです。それが無くちゃ機能するわけがない。ロックの思想を知っても社会契約説を知っても、憲法にそれが書かれていたとしても、この感覚が無い限り絶対に機能しない。
憲法は無視し放題どころか、それがまるで国民までも縛る法律の親分みたいなものだと勘違いしている与党のバカ議員もいる。憲法は完全に死んでいます。国家は肥大し続け、リヴァイアサンと化している。バラマキ財政を勝手に行ない、国民に税金をかけ放題。消費税も間もなく10%だとか言っています。それで景気が回復するなり、財政再建が出来るのならまだしも、この構造を維持したままでは景気回復などあり得ませんし、借金が増えるだけでしょう。バラまくと言ったって、役人の利権になるだけで我々へのリターンなんて無い。こんな状況であれば、18世紀のアメリカ人であれば、間違いなく速攻抵抗権を発動するでしょう。年間僅か6万ポンドの印紙税すら許さなかった。否、今のアメリカ人であってもというか近代デモクラシーの国家の市民であるのなら、怒りを表明して当然です。ところがどうでしょう、今の日本の政治家で革命を恐れている人なんているでしょうか?
普通は革命で引きずり下ろされるとか、暗殺によってぶち殺されるとか、選挙で負けるとか、病気で死ぬとか、そういう理由があって首相が辞めるのならまだしも、ちょっとお腹が痛いから辞めるとか、思い通りにならないから辞めるとか、ふざけた政治家ばかりです。何の結果も残さずに勝手になって勝手に辞める。国民を舐めています。
2005年の郵政選挙のときになんて言っていたでしょうか?あのときは殆ど郵政民営化しか言っていない。財政再建路線であり無駄を省くと言ってませんでしたっけ?それがどうです。選挙で正統性を得たわけでも何でも無いのに、全く真逆の方向性に勝手に進んでいる。不景気だろうが緊急事態だろうが、政治家にとって公約は命よりも大事なものです。なぜならそれを無視すれば打倒する権利が国民側にあるからです。契約を破ればぶっ殺される。そういう緊張感が全く無い。元々反対ならば2005年の時点で自民党を割って立候補すべきであって、まがりなりにも小泉自民党の郵政選挙で勝った議席でその時の公約とは全く逆の事をやっている。郵政すら元に戻そうとしています。
断っておきますが小泉自民党が正しかったと言いたいわけではありませんよ。むしろ文句はいっぱいあります。郵政民営化にも言いたい事は山ほどある。が、今の自民党の政治家達にはそれを否定する資格は無い。新たな公約に変えるのであれば選挙で正統性を得るのが先であって逆は絶対に無い。これは社会契約を無視している。なんやかんやと理由をひねり出して勝手にやっているなどとんでもない話です。不況だろうが緊急事態だろうが、契約より上位にある事態などありません。100年に一度もクソも無いのです。この状態で代表者気取りの麻生がどれだけバカかがわかるでしょう。救いようがありません。
我々にとって有害な統治権力であればこれを打倒するのは正当な権利です。法律に従う必要なんて無い。なぜなら統治権力自らが憲法を守っていないからです。我々の信託によって憲法の枠の中で統治を行なえと我々に命令されている存在です。にもかかわらずそれを全く無視するどころか意味すらはき違えて、勝手に解釈を繰り返し、勝手に法律を作ってしかも恣意的に運用している。こんなものに従う理由は何も無い。今の日本政府には1ミリも正統性はありません。
一番どうにもならないのは護憲派の連中です。本気でそう思うのなら直ちに国会に殴り込みに行かねばなりません。革命が出来ないにしても、抵抗運動に身を投じゲリラ戦を展開するのが筋です。この国の護憲勢力を信用出来ない理由がここにあります。一番の笑い話はかつて消費税が3%から5%に上がった時の経緯です。実施したのは橋本内閣ですが、これの骨格を内定したのは自社さ政権で首相は当時の日本社会党党首であった村山富市です。
旧社会党は消費税絶対反対の立場であったにも関わらず、権力に目がくらんでアッサリ公約を覆す。消費税を廃止するどころか上げることを了承した。これで護憲を党是としていたのですから頭がおかしいとしか言いようがありません。自衛隊にも反対していたのにこれも認める。ことごとく公約を破って、数合わせの論理によって政権に居座り続けました。そもそも社会主義を主張しているのに、ロックの思想である憲法を護持するというのもなんだか変な話ですし、護憲を党是としていながら社会契約の意味をわかっておらず、勝手に公約を変更してのうのうと政権に居座ったのですから憲法の中身もよくわかっていないのに護憲と言っていたわけです。社会党がその後解体し、社民党へとなっても不人気です。こういう事をわかっていて彼らを支持していないという人はそれほど多いとは思えませんが、当然の報いであるだろうと思います。これをやったら政治家としては終わり。契約を破ったにもかかわらず、生きていられるだけでも、日本人の無知と温情に感謝しなきゃバチが当ります。生きているどころか政治家として活動している人もいるのですから。我々市民とは背負っている責務が違う。間違えたじゃ済まないのです。
自分が改憲を主張する理由というのは憲法に欠陥があると思うからですが、その前に立憲主義や社会契約の概念が無視されている状況があるので、護憲派の人の意見も尊重したいとは思う。思うのですが、こういうレベルの護憲派が多すぎます。もちろん改憲派もスットコドッコイばっかりですが、ここに書いてある話はそれ以前の問題でもある。守ろうが変えようが機能していないのだから何をしたって意味がない。
ちなみになぜ憲法に欠陥があるのかと言えば、これはアメリカがくれた憲法であるからです。押し付け憲法論を言いたいわけじゃありませんよ。そんな事はどうでもいい。要するになぜかと言えば「パソコンの説明書は初心者に分かりづらい」問題です。アメリカ人というのはロックの社会契約を実現し、世界で初めて人権宣言をし、民主主義という意味でももちろん問題はありますが、日本のだいぶ先を行っています。しかし彼らは決定的な事をわかっていない。近代デモクラシーが極めて特殊な条件下でのみ駆動するという事をあんまり重く考えていない。だから自由と民主主義を広めるなんて平気で言うわけです。本当に出来ると思っている所がある。
アメリカでもこの精神を獲得するのに時間がかかったのは確かですが、すでに血肉となって彼らの精神に宿っています。語り継いでもいる。困った事に、この極めて特殊な条件下でのみ駆動する仕組みが、どれだけ困難であっても善意がそれを乗り越えると信じている所がある。こういう連中にとってはなぜそれが駆動しないのか?と逆にわけがわからない。パソコンが出来る人が書いた説明書は、初心者にはどんなにわかりやすく書いたとしても、所詮わかっている人が書いたものである以上限界がある。伝統にしろ道徳にしろ、それが機能しているときは問題になりません。機能しなくなって初めて問題が認識出来て、伝統主義や道徳主義が生まれる。プロのスポーツ選手にしろ、事業を成功している人にしろ、成功している人から何かを学んでも、みんながプロのアスリートになれるわけじゃないし、事業が成功するわけでもない。
憲法もしかり。近代デモクラシーを手にしてそれが当たり前に身体に身についている国に書いてもらったからと言ったって、全く条件の違う国で同じように機能するわけがない。天皇の機能の骨を抜いた事を見ればそれは明らかです。戦前の天皇の前での平等の精神が、日本のデモクラシーの鍵であったという事を見落としている。それが無くなってただ平等だけが与えられた。自由も同じです。結果は言うまでもありません。今更天皇主義の復活は見込めません。もう壊れてしまっていますので無理です。どうすれば機能するのかもわからない以上、手直ししながら少しずつ問題点を是正して作り上げて行くしか無い。だから改憲すべしと思うのです。一番重要なのは社会契約や立憲主義を守る事であって、憲法中身そのものを守る事ではない。
とまあいずれにせよ、日本においては憲法の専門家にしろ、政治家にしろ社会契約など本気で信じちゃいません。建て前だと思っている。そんな事は当たり前であってフィクションをいかに駆動させるのかを考えなきゃしょうがない。ロックだってそんな事は百も承知だった。アメリカ人はこの思想を熱狂的に信じて突っ走ったから近代化を遂げたわけです。神もおらず天皇も戦前の機能は失っている。よってアメリカ的な信じ込みや理想に燃えて突っ走るという事は出来ない。予定説は日本には無い。今のままでは明治維新は二度と出来ない。したがって社会契約も機能するわけがない。
続く!!
前回、議会政治のルールがいかにして成立し、契約の概念の切実さ、現在の日本の国会がいかにそこからかけ離れた代物であるのかを書きました。中でも政権党に居座る連中の無知と暴走ぶりが、いかに近代国家としての原理原則を無視しているのかわかっていただけたのではないかと思います。一応補足しておきますが、前回の話というのは理想ではありません。常識です。
近代デモクラシー国家でありながら、その事を全く教育出来ていないというか、教育する気がない状態は異常という他ありませんし、啓蒙の無さ加減もどういう状態で人々を統治したいのかがわかる。しかし最もどうにもならないのは、統治権力者達が、この例えるなら1+1=2のごとき近代デモクラシーの常識をわきまえていない点にあります。
わかっていて、あえてこのルールを破っているのだとしても、国家が機能しているのなら政治は結果ですから100歩譲ってまあいいでしょう。しかしそれが利権であり、利権であるだけではなく国民益を無視している所がどうにもなりません。国家が機能していないのですからどんな言い訳も立たない。わかってそれをやっているのなら死刑でも軽過ぎるぐらいの重罪です。
最悪なのは最近の政治家を見ると、統治権力者でありながら、本当にこの基本的な常識をわかっていないたわけ者がいるように見える点です。1+1がわかっていないバカばっかりです。これはどうにもなりません。政治家たる資格なしという事です。算数で1+1と言えば小学校一年生以前にすでに幼稚園生でもわかる話でしょう。それと同じで、政治家であれば政治家になる前にすでに常識としてわかっていなければ話にならない常識です。
こういう人間が政治家になれるのは国民の責任であるわけですが、教育も啓蒙も無いわけで出口がありません。こういう構造に胡座をかいている売国奴が統治しているとんでもない状態であるわけです。人民が権利を行使する為の教育や啓蒙を妨害しているのですから、人民の権利を侵害していますのでわかっていようがいまいが重罪である事に変わりはありません。結局は国民が選んでいるという状態を言い訳にしている。
野球なら野球の、サッカーならサッカーの、ゲームにはゲームのルールがあるわけです。当たり前ですがルールを無視すればゲームは成り立たない。その事を全くわきまえていない連中がやりたい放題やっている。
日本では近代デモクラシーを駆動させる為の必要条件がことごとく欠けているという事も書きました。正確に言うと戦後失ってしまった。近代デモクラシーという衣をまといながらも、それを駆動させる条件が無い。つまり中身が衣とフィットしていない。この事がわかれば解決方法は二つしか無い。近代デモクラシーを捨てるのか?中身である我々が変わるのか?です。
近代デモクラシーという偽りの衣をまとい、中身が全くそれに見合っていないという現状維持という選択もあり得るし、現にその選択をずっと我々はして来たわけですが、その事によって様々な問題が出て来ています。統治権力がやりたい放題の傍若無人に振る舞うのもそうでしょうし、外交も内政もことごとく底が抜けています。みんなでそれでも構わないと思うのならこれは仕方のない事ですが、それでも構わないと思っている人も情報をキチンと知ってそう思っているわけではないのが殆どでしょう。面倒くさいとか、意味がわからないとか、いろんな理由はあるでしょう。もしくは恣意的な情報と、自分が好む情報だけをインプットして今の統治権力を翼賛している人もいますので、現状維持が心地よいという人もいるでしょう。もちろんステークホルダーもそうかもしれません。これは要するに現状維持とは言うものの近代デモクラシーを捨てているのと同じ事です。
現状維持にしろ、近代デモクラシー国家にするにしろ、デモクラシーを捨てるにしても、情報をキチンとフラットに並べて、十分その危険性やそれぞれの問題点も啓蒙があり、その上でみんなでそれでよいと思える選択であれば、これは仕方がない。どうにもなりません。しかしそうなっていないのではないかと思います。こうしろああしろというつもりはありませんが、せめて選択する為には情報がなければ選択出来ません。その事が一番問題だと思います。
近代デモクラシーを捨て去って、独裁国家(になってますが)であれ、封建制度であれ、何らかの政治形態に変化するというのなら、それもみんなで納得しているのなら仕方がない。ただ、現状では建て前としては制度的にも近代デモクラシーの形になっています。少なくともそれをキチンと機能させるだけでも、今よりはマシになるのではないかと思えます。もちろんそれは統治権力だけに責任があるわけではないし、我々にも責任があり、また、近代デモクラシーを駆動させるという事は我々に重い責任がのしかかって来ます。
なのでもう少しこの前提話を続けます。そして近代デモクラシーを駆動させるとしても、時代の変化によって微妙にその意味合いも変わって来ています。つまり、我々が賢明でこの仕組みを上手く作動させたとしても、社会の変化によって、いろいろと問題点が出て来ている。従来の民主主義は民主主義を掘り崩す。即ち独裁者を民主的決定によって呼び出してしまうと言った類いのステレオタイプ的な問題点ではなくて、近代デモクラシーを作動させる為の前提条件が変わって来ている。なので正確に作動しなくなっている大きな問題が出て来ている。
まあそこまで心配する前に乗り越えなければならないエベレスト並の高い壁が膨大に連なっているので、そこまで心配している場合じゃないのかもしれませんが、そのへんまで書いて、それから本題に移ろうと思います。
「日本国民は、正当に選挙された国会における代表者を通じて行動し、われらとわれらの子孫のために、諸国民との協和による成果と、わが国全土にわたって自由のもたらす恵沢を確保し、政府の行為によって再び戦争の惨禍が起ることのないやうにすることを決意し、ここに主権が国民に存することを宣言し、この憲法を確定する。そもそも国政は、国民の厳粛な信託によるものであって、その権威は国民に由来し、その権力は国民の代表者がこれを行使し、その福利は国民がこれを享受する。これは人類普遍の原理であり、この憲法は、かかる原理に基くものである。われらは、これに反する一切の憲法、法令及び詔勅を排除する。」
さてこれは何でしょう。おそらく学校でもキチンと教えていないでしょうね。まあわかる人には常識的な話なんですが、日本国憲法前文です。本日は憲法記念日でもありますので、少しここから問題点に切り込んで行きます。
ここには国民主権が明確に謳われており、社会契約の思想がハッキリ記されています。国民の信託とは、国民同士が契約を結んで、自分達の持っている権利を国家に預け、国民の為に働きなさいと統治権力に命令している。まさにジョン・ロックの思想そのものが書かれています。
ロックの思想はイギリスの名誉革命、そしてより徹底されてアメリカの独立、モンテスキューなどを通じてフランス革命にも間接的に影響を与えます。要するに革命が彼の思想とセットになっています。正確に言えば革命の後の社会のあり方についてのビジョン。
革命と聞いただけで乱暴なとか、大袈裟なとか、嫌悪感を示される人がいるでしょう。また反日分子とか言いたい人もいるでしょう。しかしこれが日本の近代デモクラシーが作動しない根本原因であると言えます。革命思想というのはキリスト教の予定説がもとになっています。つまり神の前での平等が世の中の自明性をぶち壊した。これまで正しいとされて来た事が何の根拠も無い事に気付いたわけです。だからこそ、イギリスのピューリタン達は王様をぶっ殺して議会の言論の自由を護持した。クロムウェルのピューリタン革命です。
これを日本の場合に捉え直すとわかりやすいかもしれません。日本にはキリスト教的な神はいませんでしたので、天皇がその代わりになっていたと書きました。つまり明治維新というのは、所詮は将軍家といえども天皇の下にあるものでしかない。天皇という正統性を使って将軍家の権威を相対化出来たから、ひっくり返す事が出来た。それが後に神の前での平等ならぬ天皇のもとでの平等と変わり、近代デモクラシーが作動し始める。
予定説にしろ天皇主義にしろ社会をひっくり返すのはいいとしても、問題はその後です。今まで王権を握っていた人物を排除して、その後釜に自分たちが座ったのでは意味がない。以前とは違う社会を作ってこそです。革命と言うと中国史にも易姓革命があるので同じ言葉になっちゃいますが、欧米的な革命、すなわちレボリューションと中国史的な革命とは根本的に意味が違います。中国の革命というのは基本的に皇帝が入れ替わるだけで、社会体制そのものは本質的には変わりません。異民族が皇帝になった清や元であってもです。この繰り返しが中国史です。
欧米におけるレボリューションは旧体制を否定するものなので、中国のそれとは全く違います。旧体制をひっくり返して新たな体制を構築する理論的根拠となったのが、ジョン・ロックの社会契約説というわけです。そこでこの思想の影響をモロに受けたアメリカの独立を例にとってみます。
日本ではアメリカ独立戦争と言いますが、アメリカ人的に言うとアメリカ革命と言います。イギリス人から見ると植民地の反乱となる。アメリカの植民者達が宗主国であるイギリスからの独立を目指して、独立戦争を起こすわけですが、この理論的根拠となったのがロックの思想です。
アメリカの独立の引き金はボストン茶会事件だという話がよくあるパターンです。アメリカ人が飲むお茶に対して、不当に高い税金をかけたってな感じで。しかしこれは全くの出鱈目です。これをさかのぼる事8年前の1765年にアメリカの植民者達は独立を考えるようになる。イギリスの議会で印紙税法という法律が可決された事が原因です。植民地で発行される新聞やカレンダー、証書などに印紙を貼らせて、その金でアメリカ駐屯軍の経費を賄おうという話なんですが、これに植民地人は怒った。
なぜかと言えば、印紙税を払うのはアメリカの植民者達なのに、その納税者達の意見も聞かずに本国が勝手に法律を決めたからです。要するにアメリカの植民者達の代表でもない連中が決めている。イギリスの憲法には「代表なくして課税なし」という大原則があります。ヨーロッパの議会制度の起こりというのは、そもそも税金問題を解決する為に作られたものです。王が領主に課税する為に領主の代表を、商人に課税する為に商人の代表を、それぞれ呼ぶ。課税する際には必ず納税者の代表の意見を聞くという伝統から始まったのです。特にイギリスではマグナカルタ以来、この原則が王と議会の間で何度も確認され大原則となっていました。これに理論的根拠を付け加えたのが他ならぬロックであったわけです。
国家権力とは人民の契約によって成り立っているので、課税するにしても、それは国家の権利ではなく人民が国家に与えた権利に過ぎない。みんなが信託している国家を運営する費用として、割り当てられた負担金が税金であるというわけです。当然、であるからには納税者が納得しないものを国家が勝手に課税を決めるなど言語道断、社会契約説の観点からも、代表なくして課税なしというのは正しいとなる。
アメリカの植民地人だけを対象にした税金でありながら、肝腎のアメリカの代表からは承諾を得ていない。一人も本国イギリスの議会に代表を送っていない。にもかかわらずイギリス議会が勝手に植民地人に課税するのは憲法違反であり、ロックの思想に反するというわけです。これがアメリカの言い分。
これに対してイギリス政府はイギリス憲法はイギリス国内での話であって、植民地側の意見には耳を貸そうとはしなかった。税金が高いので文句を言っているのだろうぐらいにしか思わなかった。印紙税の実施を強行します。
これを見た植民者達は、権力が人民に対して不当な事をやったら、黙っている事は無い。抵抗するのが人民の権利であるという、ロックの抵抗権を根拠にして、本国政府を非難する宣言を出し、各地でイギリス本国から来ている役人を襲って暴動を起こします。イギリス政府はこれをロックの理論に基づいた闘争であるとは思わずに、ただの暴動だと思っていた。性懲りも無くその後も何度も何度も法律を勝手に作り植民地に課税しようとする。印紙税がダメなら貿易関税ならいいだろうと言って、アメリカに入って来る品物に税金をかける。その中の一つがお茶だったというわけです。
この本国政府のやり口に我慢出来なくなったアメリカ植民地人達はとうとう革命を考えるようになる。イギリスがアメリカという新しい社会を統治しようとする事がそもそもの間違いであって、アメリカはアメリカに住む植民者達の社会契約で作られた政府によって統治される方がいいだろうという話になる。イギリス政府に対してロックの思想である革命権を行使する。
イギリスのプロの軍隊に対して、アメリカ植民地人はアマチュアの兵隊、当然最初はイギリスが断然優位でした。逃げ回ってばかりいた、しかし思想の力は凄まじい。予定説を信じ、ロックの革命思想を拠り所とした植民地人は決して諦めませんでした。フランスが植民地側に味方したというのが大きく、結果的にイギリスも最後には音を上げて、アメリカは独立を宣言する。
ロックが統治二論を書き、その中で社会契約説を理論化したときは、誰もそんな事信じちゃいなかったし批判も多かった。なぜなら社会契約によって作られた国はどこにも無かったからです。ロックの弟子を自称していたフランスの啓蒙思想家であるモンテスキューでさえ、社会契約説を絵空事だと否定していたくらいです。ロックの思想はあくまでも仮説であり理論であって実証に基づいていませんので批判は的を得ています。しかしそれから100年後、この仮説は仮説ではなくなった。1776年アメリカ合衆国が誕生したからです。
アメリカの独立宣言には、国家権力が被治者の同意に由来するものであると、社会契約によって作られると明確に記されています。人民の権利を政府が侵害した場合には人民はそれを改廃する事も新たな政府を作る権利も持っていると謳われている。
アメリカが武装権である銃を手放さない理由もここにあります。野蛮だとか危険だとかそれで人死にがでるとか、そういう事があっても手放さないのは人間が自分を守ろうとする権利は、国家が作られる以前からある自然権です。国家を作って警察や軍隊にその権利を預けるわけですが、完全に預けきってしまえばどちらが上位に位置するのかが不明確になります。あくまでも人民が一部の自然権を譲渡しているにすぎない。いざとなったら刺し違えてでも統治権力を革命で引きずり下ろすという思想がバックにあるから絶対に手放さない。合衆国憲法は世界最初の成文憲法ですが、ロックの憲法であるともいえるわけです。
さて日本国憲法前文にはロックの思想が書かれていると書きましたよね。にもかかわらず我々にはアメリカ的な武装権だの革命権だの抵抗権だのって話になりますと、何となく野蛮な感じがしたり、治安を乱す不届きものという感覚があるのではなかろうかと思えます。が、これは全くのお門違い。日本が上手く機能しない理由はそこにあります。ロックの社会契約というのはあくまでも抵抗権とセットです。それが無くちゃ機能するわけがない。ロックの思想を知っても社会契約説を知っても、憲法にそれが書かれていたとしても、この感覚が無い限り絶対に機能しない。
憲法は無視し放題どころか、それがまるで国民までも縛る法律の親分みたいなものだと勘違いしている与党のバカ議員もいる。憲法は完全に死んでいます。国家は肥大し続け、リヴァイアサンと化している。バラマキ財政を勝手に行ない、国民に税金をかけ放題。消費税も間もなく10%だとか言っています。それで景気が回復するなり、財政再建が出来るのならまだしも、この構造を維持したままでは景気回復などあり得ませんし、借金が増えるだけでしょう。バラまくと言ったって、役人の利権になるだけで我々へのリターンなんて無い。こんな状況であれば、18世紀のアメリカ人であれば、間違いなく速攻抵抗権を発動するでしょう。年間僅か6万ポンドの印紙税すら許さなかった。否、今のアメリカ人であってもというか近代デモクラシーの国家の市民であるのなら、怒りを表明して当然です。ところがどうでしょう、今の日本の政治家で革命を恐れている人なんているでしょうか?
普通は革命で引きずり下ろされるとか、暗殺によってぶち殺されるとか、選挙で負けるとか、病気で死ぬとか、そういう理由があって首相が辞めるのならまだしも、ちょっとお腹が痛いから辞めるとか、思い通りにならないから辞めるとか、ふざけた政治家ばかりです。何の結果も残さずに勝手になって勝手に辞める。国民を舐めています。
2005年の郵政選挙のときになんて言っていたでしょうか?あのときは殆ど郵政民営化しか言っていない。財政再建路線であり無駄を省くと言ってませんでしたっけ?それがどうです。選挙で正統性を得たわけでも何でも無いのに、全く真逆の方向性に勝手に進んでいる。不景気だろうが緊急事態だろうが、政治家にとって公約は命よりも大事なものです。なぜならそれを無視すれば打倒する権利が国民側にあるからです。契約を破ればぶっ殺される。そういう緊張感が全く無い。元々反対ならば2005年の時点で自民党を割って立候補すべきであって、まがりなりにも小泉自民党の郵政選挙で勝った議席でその時の公約とは全く逆の事をやっている。郵政すら元に戻そうとしています。
断っておきますが小泉自民党が正しかったと言いたいわけではありませんよ。むしろ文句はいっぱいあります。郵政民営化にも言いたい事は山ほどある。が、今の自民党の政治家達にはそれを否定する資格は無い。新たな公約に変えるのであれば選挙で正統性を得るのが先であって逆は絶対に無い。これは社会契約を無視している。なんやかんやと理由をひねり出して勝手にやっているなどとんでもない話です。不況だろうが緊急事態だろうが、契約より上位にある事態などありません。100年に一度もクソも無いのです。この状態で代表者気取りの麻生がどれだけバカかがわかるでしょう。救いようがありません。
我々にとって有害な統治権力であればこれを打倒するのは正当な権利です。法律に従う必要なんて無い。なぜなら統治権力自らが憲法を守っていないからです。我々の信託によって憲法の枠の中で統治を行なえと我々に命令されている存在です。にもかかわらずそれを全く無視するどころか意味すらはき違えて、勝手に解釈を繰り返し、勝手に法律を作ってしかも恣意的に運用している。こんなものに従う理由は何も無い。今の日本政府には1ミリも正統性はありません。
一番どうにもならないのは護憲派の連中です。本気でそう思うのなら直ちに国会に殴り込みに行かねばなりません。革命が出来ないにしても、抵抗運動に身を投じゲリラ戦を展開するのが筋です。この国の護憲勢力を信用出来ない理由がここにあります。一番の笑い話はかつて消費税が3%から5%に上がった時の経緯です。実施したのは橋本内閣ですが、これの骨格を内定したのは自社さ政権で首相は当時の日本社会党党首であった村山富市です。
旧社会党は消費税絶対反対の立場であったにも関わらず、権力に目がくらんでアッサリ公約を覆す。消費税を廃止するどころか上げることを了承した。これで護憲を党是としていたのですから頭がおかしいとしか言いようがありません。自衛隊にも反対していたのにこれも認める。ことごとく公約を破って、数合わせの論理によって政権に居座り続けました。そもそも社会主義を主張しているのに、ロックの思想である憲法を護持するというのもなんだか変な話ですし、護憲を党是としていながら社会契約の意味をわかっておらず、勝手に公約を変更してのうのうと政権に居座ったのですから憲法の中身もよくわかっていないのに護憲と言っていたわけです。社会党がその後解体し、社民党へとなっても不人気です。こういう事をわかっていて彼らを支持していないという人はそれほど多いとは思えませんが、当然の報いであるだろうと思います。これをやったら政治家としては終わり。契約を破ったにもかかわらず、生きていられるだけでも、日本人の無知と温情に感謝しなきゃバチが当ります。生きているどころか政治家として活動している人もいるのですから。我々市民とは背負っている責務が違う。間違えたじゃ済まないのです。
自分が改憲を主張する理由というのは憲法に欠陥があると思うからですが、その前に立憲主義や社会契約の概念が無視されている状況があるので、護憲派の人の意見も尊重したいとは思う。思うのですが、こういうレベルの護憲派が多すぎます。もちろん改憲派もスットコドッコイばっかりですが、ここに書いてある話はそれ以前の問題でもある。守ろうが変えようが機能していないのだから何をしたって意味がない。
ちなみになぜ憲法に欠陥があるのかと言えば、これはアメリカがくれた憲法であるからです。押し付け憲法論を言いたいわけじゃありませんよ。そんな事はどうでもいい。要するになぜかと言えば「パソコンの説明書は初心者に分かりづらい」問題です。アメリカ人というのはロックの社会契約を実現し、世界で初めて人権宣言をし、民主主義という意味でももちろん問題はありますが、日本のだいぶ先を行っています。しかし彼らは決定的な事をわかっていない。近代デモクラシーが極めて特殊な条件下でのみ駆動するという事をあんまり重く考えていない。だから自由と民主主義を広めるなんて平気で言うわけです。本当に出来ると思っている所がある。
アメリカでもこの精神を獲得するのに時間がかかったのは確かですが、すでに血肉となって彼らの精神に宿っています。語り継いでもいる。困った事に、この極めて特殊な条件下でのみ駆動する仕組みが、どれだけ困難であっても善意がそれを乗り越えると信じている所がある。こういう連中にとってはなぜそれが駆動しないのか?と逆にわけがわからない。パソコンが出来る人が書いた説明書は、初心者にはどんなにわかりやすく書いたとしても、所詮わかっている人が書いたものである以上限界がある。伝統にしろ道徳にしろ、それが機能しているときは問題になりません。機能しなくなって初めて問題が認識出来て、伝統主義や道徳主義が生まれる。プロのスポーツ選手にしろ、事業を成功している人にしろ、成功している人から何かを学んでも、みんながプロのアスリートになれるわけじゃないし、事業が成功するわけでもない。
憲法もしかり。近代デモクラシーを手にしてそれが当たり前に身体に身についている国に書いてもらったからと言ったって、全く条件の違う国で同じように機能するわけがない。天皇の機能の骨を抜いた事を見ればそれは明らかです。戦前の天皇の前での平等の精神が、日本のデモクラシーの鍵であったという事を見落としている。それが無くなってただ平等だけが与えられた。自由も同じです。結果は言うまでもありません。今更天皇主義の復活は見込めません。もう壊れてしまっていますので無理です。どうすれば機能するのかもわからない以上、手直ししながら少しずつ問題点を是正して作り上げて行くしか無い。だから改憲すべしと思うのです。一番重要なのは社会契約や立憲主義を守る事であって、憲法中身そのものを守る事ではない。
とまあいずれにせよ、日本においては憲法の専門家にしろ、政治家にしろ社会契約など本気で信じちゃいません。建て前だと思っている。そんな事は当たり前であってフィクションをいかに駆動させるのかを考えなきゃしょうがない。ロックだってそんな事は百も承知だった。アメリカ人はこの思想を熱狂的に信じて突っ走ったから近代化を遂げたわけです。神もおらず天皇も戦前の機能は失っている。よってアメリカ的な信じ込みや理想に燃えて突っ走るという事は出来ない。予定説は日本には無い。今のままでは明治維新は二度と出来ない。したがって社会契約も機能するわけがない。
続く!!