前回の続きです。
前回ホッブズとロックの思想の違いを書きました。前提が違う事によって、社会のあり方が真逆を示していると。そしてホッブズは歴史を変えなかったが、ロックは歴史を決定的に変えたとも書きました。
ロックの思想がどのように歴史に影響を及ぼしたのかは、すでに以前のエントリーで書きましたので、ロックの思想によって駆動した近代デモクラシーを支える前提条件が微妙に変わっているという事を書きます。
お気づきの方もいるでしょうけれど、ロックが前提とした労働によって富は増やせるという前提が壊れつつあります。環境問題にしろ、資源の問題にしろ、食料の問題が騒がれているのもそうでしょう。それが事実かどうかはわきにおいて、ずっと富が増え続けるという事は不可能であるという事に現代社会はすでに気付いています。したがって前提がホッブズのそれとなっている。だからホッブズ的な圧倒的な暴力装置である国家権力が世界各国でちらほら姿を見せ始めています。
日本は肥大化しまくっていますので論じるまでもありませんが、小さな政府的な、政府が余計な事をやらない方がいいという考えよりも、どちらかと言うと政府が適切に介入した方がいいという流れになっている。
しかしこれを無前提に受け入れてしまうと、リヴァイアサンに対する歯止めが無くなってしまいます。富は増やす事が出来るという前提が壊れたとしても、ロックの思想的な牽制を失えば、政府は適切な介入の域を軽々と乗り越え、リヴァイアサンとなり暴走するでしょう。
しかし牽制と言っても、前提があるからロックの思想もドライブ出来るわけで、前提が壊れてしまったとしたら、はたしてそれが正常に作動するのか?という問題がある。いずれにせよ近代デモクラシーは新たな局面を迎え、新たな問題を抱えている。
アメリカなんかがあれだけ不況になっても公的資金注入に反対する議員がいる事に対して、日本の報道では選挙目当てのポピュリズムの一言で片付けられてしまいます。日本では何の躊躇も無く平気の平左で国家の介入を許してしまうお国柄ですから論外なのですが、そういう選挙目当てという一言で片付けられるような問題ではないのです。その根底には近代デモクラシーの原理原則を破壊しかねない問題がある。そしてその原理原則を突き動かす前提条件も変化してしまっている。難しい状況に我々は立っているのです。
日本国内を見ても、明らかに富は増え続ける事は無い時代に、すでに90年代には入っています。最近は食料問題が騒がれているので、農業の見直しが叫ばれ、ロックが生み出した思想によって引き離した、土地への執着も復活しつつあるように見えます。これだけ借金塗れでありながら、統治権力が縮小されるどころかどんどん肥大化して、益々やりたい放題になっている。
環境が叫ばれれば環境利権が生み出され、安心安全社会が叫ばれれば安心安全社会利権が生み出される。根底にあるのは漠然とした「富の増えなさ」に対する不安をブーストさせて利権を貪るという構造に変化しています。立憲民主主義国家としても、資本主義国家としてもお寒い状況である日本ですが、このまま無防備にリヴァイアサンの暴走を我々が許していたのでは、やがてそれは我々を食い殺すでしょう。
基本的に国家に任せておいて上手く行く事など無いものと思わないとロクな事が無い。徹底的に監視し、処罰し、ちょっとでも国民益から乖離したらボロクソに叩くぐらいで丁度いいのです。例えば今、バカ麻生はコンテンツ立国とか言って、漫画やアニメ、映画や音楽に介入して国家の利権にしようとしています。実際に補正予算では建設費だけで117億もかけて、アニメ美術館なる箱もの利権を潜り込ませています。文科省と経産省でコンテンツビジネスに対して怪しい動きが起こっているなと思っていたら、ちゃっかりそういうものを潜り込ませている。
別に国家に何とかしてもらわなくたって、今でも立派に日本のコンテンツ産業はやっている。そういう産業で食っている人達の、劣悪な労働条件の問題等に対して何らかの是正措置をとるというのならそれは悪い事ではないかもしれませんが、国家が旗を掲げてやるビジネスなんて上手く行ったためしがありません。金融を見れば明らかでしょう。護送船団なんてやっていたけど結果はバブル崩壊。金融はいまだに立ち後れている。IT産業だって、散々IT革命だのなんだのと国家が利権化し、今はスッカラカンで殆どブッ潰れた。
国家が介入すると必ず競争力を失ってダメになります。これは絶対間違いない法則です。戦後復興が官僚のおかげだみたいなインチキを吹聴する御用学者もいますけれど、これはとんでもない間違いです。単に戦争で人が沢山死んで、冷戦構造があり、余計な事をしなかったから上手く行った。日本人が優秀だからでも無ければ、官僚が優秀だったからでもない。いい加減こういった幻想から目を覚まさなければこの国は沈没します。
製造業が上手く行っていたのも、その企業が上手くやったからであって、国のおかげなんかじゃない。むしろ国はずっと邪魔して来た。そしてその成功ももはや過去の話です。間もなく新興国が安い労働力だけではなくて技術も手に入れるでしょうから、そうなったら太刀打ち出来ない。
先日久方ぶりにマイケル・ムーアの「ロジャー&ミー」というドキュメンタリー映画を観ました。自分は彼の映画はあまり好きではありませんが、この映画は素晴らしい。大好きです。なぜ観たのかと言うと、アメリカの自動車産業の体たらくが今騒がれていますが、この映画もGMの工場を閉鎖されてしまった、ある町の問題を切り取った映画だからです。だから観直してみた。この映画は80年代後半の映画なのですが、これを観ると、本質的に何も変わっていない現状を痛感させられます。
かつてアメリカの自動車産業花盛りだった頃、もの凄い景気の良さによって繁栄を謳歌した一つの町が、自動車産業の衰退によって今まさに絶望の縁に立たされている。切り捨てられた人間、切り捨てられずに生き延びた人間、逃げ切れてもいずれは自動車産業が終わるのは目に見えている。しかし今逃げ切れている人間達はその事を見ようとしない。かつての繁栄を懐かしみ、線の外側に不平等を作り出す事によって逃げ切れている。政府主導の新規ビジネスや箱ものはことごとく失敗し、切り捨てられた人々は路頭に迷う。どこかの国の現状と同じような気がしますが、注目すべきはすでに80年代後半の時点でとっくにケリのついている問題、即ちアメリカの製造業には未来がないという事を描いている。そしてそれはそのまま今の日本の現状と未来に対する一つの可能性を突き付けてもいる。日本の現状と驚く程同じ状況です。
日本のモノ作りが強いというまやかしは嘘です。そういう企業もあるという話なだけで、人件費の安い国とモノ作りで真っ向勝負をしてもいずれ負けるのは確実であって、勝てるとしてもそれはコストを押さえ、人件費を押さえる事が前提ですので、収入はむしろ減るでしょうから、裕福になるどころか勝ってもジリ貧になる。それは明らかです。企業自体はグローバル化して安い労働力を動員すればどうにでもなるでしょうし、生き残れるでしょうけれど、日本人自体にはその恩恵は殆ど無いものと思った方がいい。その上、日本の企業もトヨタなんかが典型ですが、80年代後半のアメリカの自動車産業と同じ轍を踏んでいるように見えます。需要が適切に把握出来ていないような気がする。消費者が欲望しているものから大幅な乖離が見られます。国家に守って貰っているからそういう風になる。
それから約20年後の今、アメリカの自動車産業がとうとう終焉に近付いています。なぜそれらが生き延びて来たのか?というと、この80年代後半から金融テクノロジーをアメリカは生み出して、製造業を諦めて金融先進国へと変貌を遂げたからです。
日本的な見方をすると、この金融テクノロジーというのがくせ者で、現にサブプライムで世界中に迷惑をかけたわけだし、けしからんって話になるのでしょう。気持ちはわからないでもありませんが、この映画の産業の衰退とそれを柱として来た地域の空洞化を観ると、他に選択肢があるのか?という疑問が浮かび上がるわけです。
つまり今だから金融テクノロジー駆使した手法の問題点がわかっている。だからこそ批判したり文句言ったり出来るのですが、80年代末期、日本がバブルを謳歌し、日本の製造業のグローバル化によってアメリカはとことん痛い目に合う。元々自由経済を押し付けて来たのはアメリカでもありますので、自業自得だろとも思えますが、その状況を何とかする方法が他にあるのか?と考えると、金融で巻き返しを図るという方法論そのものを批判出来ないのではないか?という気がする。
多くの人々が職を失い、未来の希望を無くしている。丁度今の日本と似たような状況です。これを何とかしようと考えれば(日本政府は利権の事以外は考えちゃいませんが)、金融テクノロジーによって自動車産業も開発や設備投資などの本業をある程度捨てても、サイドビジネス的な金融部門で生き残って、雇用を最低限守る方向性に行く事自体を断罪出来ないような気もするのです。
結果的にサブプライムで痛い目に合いますので、インチキしやがってという風にも思うのですが、職を失って絶望している80年代後半のあの映像を観た後ですと、金も無く信用もない低所得者層が家を持てるようにする事と、職を失わせて路頭に迷わせる事と、どちらがとるべき選択なんだろうか?と考えれば前者であると考える事そのものに罪があるとは言えないのではないのか?と思う。
もちろんそれで金儲けの仕組みがまわり、実際にはもっと暴利を貪っていた高所得者層の問題というのもあるだろうけれど、そうやって景気を回す事によって、日本のような製造業中心の海外にものを売って儲けている国からすれば恩恵にあやかる事も出来たわけです。ヘッジファンドや投資銀行ばかりが悪なのかと言えば、それにぶら下がって回っている構造があり、それは日本の派遣労働者という末端までもを巻き込んでいたわけです。その構造を問題だとするのなら、どのようにするのがよかったのか?これは結構難しい問題のような気がする。
日本はバブル崩壊以降、その問題に対する本質的な対処は全くやって来ませんでしたし、事ここにいたっても全くやる気もない。国民もそんな事よりも目先の不況や政治家個人のスキャンダルに目を奪われている。
債券化してインチキ商品を売りやがってというのも、買って儲けていた人がいて、その恩恵を受けて来た人もいる。サブプライム問題によって金融による錬金術も陰りを見せていますが、今のオバマ政権の布陣を見れば明らかですが、金融によって何らかの草狩り場を見つけ出すという事は絶対に諦めないだろうし、アメリカが改心してアメリカ的な資本主義を止めるという事も絶対に無い。なぜかと言えば、「富を増やし続ける」という前提が壊れてしまえば、アメリカの原理原則が壊れてしまう。ロックの社会契約が通じなくなる。
それはどういう事かと言えば、アメリカ的なロックの思想に基づいた民主主義は崩壊する事を意味する。日本はそもそも民主主義も資本主義もキチンと作動していませんし、ロックの思想も憲法に書いてあるだけですので、それほど気にならないのかもしれませんが、それを否定するという事は、富は有限であるという事となり、ホッブズの言った自然状態になるとは限りませんが、そういう煽りを現に不安や治安の悪化という嘘を喚いて統治権力はリヴァイアサン化している。それでいいのか?という問題があるわけです。
すでに60年代後半から消費主義パラダイムといって、例えば自動車という機能を欲望するというよりも、デザインや個人の嗜好に合わせた様々なモデルを生み出して、その差異に欲望するという構造に変化させて、需要の飽和を回避し、新たな需要を開拓し、喚起し、富は増え続けるというモデルを維持して来た。しかし環境や資源の問題がその頭を抑え、世界的な人口増大によって食料問題など、それが実際の脅威かどうかは別にして、富は増え続けるという前提を保てなくなっている。
実際に環境や資源の枯渇、食料問題ですら富を増やすエンジンとして利用しようとする動きもありますが、その事を問題化するのなら、有限である富を奪い合わずにみんなで一蓮托生に貧しくなるという選択肢を選ぶ他ない。それを世界共通で認識出来れば出口はあるかもしれませんが、おそらくそういう風にはなりそうもないし、実際に資源ナショナリズムのようなものが出て来たりする。抜け駆け感は出て来るだろうし、実際に抜け駆け野郎も出て来るでしょう。そうなるとどういう風にパイを分け合うのかも、増えないのだから、結局みんなが満足するという風にはなるわけがない。必ず不満は出て来るでしょう。
だからと言って、分け合うパイが減っているのに国家ばかりが肥大化してリヴァイアサン化するというのも、どう考えても効率的ではない。だけど、有限であるパイを奪い合うという連鎖を食い止める為には、強力な暴力装置が必要になってしまう。外交的にいえばより強力な軍備が必要だと思う国も増えるでしょう。他所がそう思えば、それも連鎖する。
そういう富の有限性に対する問題を解決しようと、モノから情報を切り離して、情報化が進むわけですが、情報が増大する事によって逆に物事の本質が見え難くなるという問題も出て来ている。木を隠すには森という事です。IT革命と騒いでいたのも今は過去、結局社会は個に分断されてしまい、社会へのコミットメントは益々無くなり、情報化によって可視化される事が、かえって益々既得権者はよりなりふり構わず利権構造を護持するという悪循環も生み出し、国家は益々肥大化する。
日本は近代デモクラシーにしろ資本主義にしろ、全く問題外の体たらくでどうにもなりませんが、仮に我々が賢明になって、それを正常に作動させたとしても、前提が変わってしまえば正常に作動しない。したがってそこの問題を考えないと、出口のない袋小路に我々は立たされている。
国家権力を縛り徹底的に監視するという事自体は、手放さない方がいいでしょう。いくら富は増え続けないとしたって、今はかつてのような時代と違いテクノロジーも発達していますので、近代以前のような状態に戻ってしまうのはあまりにも危険すぎます。したがって立憲民主主義ごっこや資本主義ごっこをやっている場合ではない。まだリソースが残っているうちに、手遅れになる前に一刻も早く近代の常識を機能させ、その上でどのような変化を我々が望むのかを考えねばなりません。もちろん危険は承知の上で近代の常識を捨て去って、リヴァイアサンが君臨して国家を維持するという選択肢もあるでしょう。いかにしてパイを分け合うのか?もしくは何らかの方法によってパイを増やすのか?いずれにしても疑似近代ごっこをやっている場合ではないのです。なにを選択しているのかを把握しない事には、何を変えたからそうなったのかもわかりません。
この問題の結論が書けるくらいなら、とっくに解決出来る問題でしょうから、困難な問題が目の前にあるという事を認識していただければ、とりあえずこの問題はこれ以上突っ込みません。様々な前提話が整った所で、やっと本題に入ろうと思いますが、それは次回という事で。
つづく!!
前回ホッブズとロックの思想の違いを書きました。前提が違う事によって、社会のあり方が真逆を示していると。そしてホッブズは歴史を変えなかったが、ロックは歴史を決定的に変えたとも書きました。
ロックの思想がどのように歴史に影響を及ぼしたのかは、すでに以前のエントリーで書きましたので、ロックの思想によって駆動した近代デモクラシーを支える前提条件が微妙に変わっているという事を書きます。
お気づきの方もいるでしょうけれど、ロックが前提とした労働によって富は増やせるという前提が壊れつつあります。環境問題にしろ、資源の問題にしろ、食料の問題が騒がれているのもそうでしょう。それが事実かどうかはわきにおいて、ずっと富が増え続けるという事は不可能であるという事に現代社会はすでに気付いています。したがって前提がホッブズのそれとなっている。だからホッブズ的な圧倒的な暴力装置である国家権力が世界各国でちらほら姿を見せ始めています。
日本は肥大化しまくっていますので論じるまでもありませんが、小さな政府的な、政府が余計な事をやらない方がいいという考えよりも、どちらかと言うと政府が適切に介入した方がいいという流れになっている。
しかしこれを無前提に受け入れてしまうと、リヴァイアサンに対する歯止めが無くなってしまいます。富は増やす事が出来るという前提が壊れたとしても、ロックの思想的な牽制を失えば、政府は適切な介入の域を軽々と乗り越え、リヴァイアサンとなり暴走するでしょう。
しかし牽制と言っても、前提があるからロックの思想もドライブ出来るわけで、前提が壊れてしまったとしたら、はたしてそれが正常に作動するのか?という問題がある。いずれにせよ近代デモクラシーは新たな局面を迎え、新たな問題を抱えている。
アメリカなんかがあれだけ不況になっても公的資金注入に反対する議員がいる事に対して、日本の報道では選挙目当てのポピュリズムの一言で片付けられてしまいます。日本では何の躊躇も無く平気の平左で国家の介入を許してしまうお国柄ですから論外なのですが、そういう選挙目当てという一言で片付けられるような問題ではないのです。その根底には近代デモクラシーの原理原則を破壊しかねない問題がある。そしてその原理原則を突き動かす前提条件も変化してしまっている。難しい状況に我々は立っているのです。
日本国内を見ても、明らかに富は増え続ける事は無い時代に、すでに90年代には入っています。最近は食料問題が騒がれているので、農業の見直しが叫ばれ、ロックが生み出した思想によって引き離した、土地への執着も復活しつつあるように見えます。これだけ借金塗れでありながら、統治権力が縮小されるどころかどんどん肥大化して、益々やりたい放題になっている。
環境が叫ばれれば環境利権が生み出され、安心安全社会が叫ばれれば安心安全社会利権が生み出される。根底にあるのは漠然とした「富の増えなさ」に対する不安をブーストさせて利権を貪るという構造に変化しています。立憲民主主義国家としても、資本主義国家としてもお寒い状況である日本ですが、このまま無防備にリヴァイアサンの暴走を我々が許していたのでは、やがてそれは我々を食い殺すでしょう。
基本的に国家に任せておいて上手く行く事など無いものと思わないとロクな事が無い。徹底的に監視し、処罰し、ちょっとでも国民益から乖離したらボロクソに叩くぐらいで丁度いいのです。例えば今、バカ麻生はコンテンツ立国とか言って、漫画やアニメ、映画や音楽に介入して国家の利権にしようとしています。実際に補正予算では建設費だけで117億もかけて、アニメ美術館なる箱もの利権を潜り込ませています。文科省と経産省でコンテンツビジネスに対して怪しい動きが起こっているなと思っていたら、ちゃっかりそういうものを潜り込ませている。
別に国家に何とかしてもらわなくたって、今でも立派に日本のコンテンツ産業はやっている。そういう産業で食っている人達の、劣悪な労働条件の問題等に対して何らかの是正措置をとるというのならそれは悪い事ではないかもしれませんが、国家が旗を掲げてやるビジネスなんて上手く行ったためしがありません。金融を見れば明らかでしょう。護送船団なんてやっていたけど結果はバブル崩壊。金融はいまだに立ち後れている。IT産業だって、散々IT革命だのなんだのと国家が利権化し、今はスッカラカンで殆どブッ潰れた。
国家が介入すると必ず競争力を失ってダメになります。これは絶対間違いない法則です。戦後復興が官僚のおかげだみたいなインチキを吹聴する御用学者もいますけれど、これはとんでもない間違いです。単に戦争で人が沢山死んで、冷戦構造があり、余計な事をしなかったから上手く行った。日本人が優秀だからでも無ければ、官僚が優秀だったからでもない。いい加減こういった幻想から目を覚まさなければこの国は沈没します。
製造業が上手く行っていたのも、その企業が上手くやったからであって、国のおかげなんかじゃない。むしろ国はずっと邪魔して来た。そしてその成功ももはや過去の話です。間もなく新興国が安い労働力だけではなくて技術も手に入れるでしょうから、そうなったら太刀打ち出来ない。
先日久方ぶりにマイケル・ムーアの「ロジャー&ミー」というドキュメンタリー映画を観ました。自分は彼の映画はあまり好きではありませんが、この映画は素晴らしい。大好きです。なぜ観たのかと言うと、アメリカの自動車産業の体たらくが今騒がれていますが、この映画もGMの工場を閉鎖されてしまった、ある町の問題を切り取った映画だからです。だから観直してみた。この映画は80年代後半の映画なのですが、これを観ると、本質的に何も変わっていない現状を痛感させられます。
かつてアメリカの自動車産業花盛りだった頃、もの凄い景気の良さによって繁栄を謳歌した一つの町が、自動車産業の衰退によって今まさに絶望の縁に立たされている。切り捨てられた人間、切り捨てられずに生き延びた人間、逃げ切れてもいずれは自動車産業が終わるのは目に見えている。しかし今逃げ切れている人間達はその事を見ようとしない。かつての繁栄を懐かしみ、線の外側に不平等を作り出す事によって逃げ切れている。政府主導の新規ビジネスや箱ものはことごとく失敗し、切り捨てられた人々は路頭に迷う。どこかの国の現状と同じような気がしますが、注目すべきはすでに80年代後半の時点でとっくにケリのついている問題、即ちアメリカの製造業には未来がないという事を描いている。そしてそれはそのまま今の日本の現状と未来に対する一つの可能性を突き付けてもいる。日本の現状と驚く程同じ状況です。
日本のモノ作りが強いというまやかしは嘘です。そういう企業もあるという話なだけで、人件費の安い国とモノ作りで真っ向勝負をしてもいずれ負けるのは確実であって、勝てるとしてもそれはコストを押さえ、人件費を押さえる事が前提ですので、収入はむしろ減るでしょうから、裕福になるどころか勝ってもジリ貧になる。それは明らかです。企業自体はグローバル化して安い労働力を動員すればどうにでもなるでしょうし、生き残れるでしょうけれど、日本人自体にはその恩恵は殆ど無いものと思った方がいい。その上、日本の企業もトヨタなんかが典型ですが、80年代後半のアメリカの自動車産業と同じ轍を踏んでいるように見えます。需要が適切に把握出来ていないような気がする。消費者が欲望しているものから大幅な乖離が見られます。国家に守って貰っているからそういう風になる。
それから約20年後の今、アメリカの自動車産業がとうとう終焉に近付いています。なぜそれらが生き延びて来たのか?というと、この80年代後半から金融テクノロジーをアメリカは生み出して、製造業を諦めて金融先進国へと変貌を遂げたからです。
日本的な見方をすると、この金融テクノロジーというのがくせ者で、現にサブプライムで世界中に迷惑をかけたわけだし、けしからんって話になるのでしょう。気持ちはわからないでもありませんが、この映画の産業の衰退とそれを柱として来た地域の空洞化を観ると、他に選択肢があるのか?という疑問が浮かび上がるわけです。
つまり今だから金融テクノロジー駆使した手法の問題点がわかっている。だからこそ批判したり文句言ったり出来るのですが、80年代末期、日本がバブルを謳歌し、日本の製造業のグローバル化によってアメリカはとことん痛い目に合う。元々自由経済を押し付けて来たのはアメリカでもありますので、自業自得だろとも思えますが、その状況を何とかする方法が他にあるのか?と考えると、金融で巻き返しを図るという方法論そのものを批判出来ないのではないか?という気がする。
多くの人々が職を失い、未来の希望を無くしている。丁度今の日本と似たような状況です。これを何とかしようと考えれば(日本政府は利権の事以外は考えちゃいませんが)、金融テクノロジーによって自動車産業も開発や設備投資などの本業をある程度捨てても、サイドビジネス的な金融部門で生き残って、雇用を最低限守る方向性に行く事自体を断罪出来ないような気もするのです。
結果的にサブプライムで痛い目に合いますので、インチキしやがってという風にも思うのですが、職を失って絶望している80年代後半のあの映像を観た後ですと、金も無く信用もない低所得者層が家を持てるようにする事と、職を失わせて路頭に迷わせる事と、どちらがとるべき選択なんだろうか?と考えれば前者であると考える事そのものに罪があるとは言えないのではないのか?と思う。
もちろんそれで金儲けの仕組みがまわり、実際にはもっと暴利を貪っていた高所得者層の問題というのもあるだろうけれど、そうやって景気を回す事によって、日本のような製造業中心の海外にものを売って儲けている国からすれば恩恵にあやかる事も出来たわけです。ヘッジファンドや投資銀行ばかりが悪なのかと言えば、それにぶら下がって回っている構造があり、それは日本の派遣労働者という末端までもを巻き込んでいたわけです。その構造を問題だとするのなら、どのようにするのがよかったのか?これは結構難しい問題のような気がする。
日本はバブル崩壊以降、その問題に対する本質的な対処は全くやって来ませんでしたし、事ここにいたっても全くやる気もない。国民もそんな事よりも目先の不況や政治家個人のスキャンダルに目を奪われている。
債券化してインチキ商品を売りやがってというのも、買って儲けていた人がいて、その恩恵を受けて来た人もいる。サブプライム問題によって金融による錬金術も陰りを見せていますが、今のオバマ政権の布陣を見れば明らかですが、金融によって何らかの草狩り場を見つけ出すという事は絶対に諦めないだろうし、アメリカが改心してアメリカ的な資本主義を止めるという事も絶対に無い。なぜかと言えば、「富を増やし続ける」という前提が壊れてしまえば、アメリカの原理原則が壊れてしまう。ロックの社会契約が通じなくなる。
それはどういう事かと言えば、アメリカ的なロックの思想に基づいた民主主義は崩壊する事を意味する。日本はそもそも民主主義も資本主義もキチンと作動していませんし、ロックの思想も憲法に書いてあるだけですので、それほど気にならないのかもしれませんが、それを否定するという事は、富は有限であるという事となり、ホッブズの言った自然状態になるとは限りませんが、そういう煽りを現に不安や治安の悪化という嘘を喚いて統治権力はリヴァイアサン化している。それでいいのか?という問題があるわけです。
すでに60年代後半から消費主義パラダイムといって、例えば自動車という機能を欲望するというよりも、デザインや個人の嗜好に合わせた様々なモデルを生み出して、その差異に欲望するという構造に変化させて、需要の飽和を回避し、新たな需要を開拓し、喚起し、富は増え続けるというモデルを維持して来た。しかし環境や資源の問題がその頭を抑え、世界的な人口増大によって食料問題など、それが実際の脅威かどうかは別にして、富は増え続けるという前提を保てなくなっている。
実際に環境や資源の枯渇、食料問題ですら富を増やすエンジンとして利用しようとする動きもありますが、その事を問題化するのなら、有限である富を奪い合わずにみんなで一蓮托生に貧しくなるという選択肢を選ぶ他ない。それを世界共通で認識出来れば出口はあるかもしれませんが、おそらくそういう風にはなりそうもないし、実際に資源ナショナリズムのようなものが出て来たりする。抜け駆け感は出て来るだろうし、実際に抜け駆け野郎も出て来るでしょう。そうなるとどういう風にパイを分け合うのかも、増えないのだから、結局みんなが満足するという風にはなるわけがない。必ず不満は出て来るでしょう。
だからと言って、分け合うパイが減っているのに国家ばかりが肥大化してリヴァイアサン化するというのも、どう考えても効率的ではない。だけど、有限であるパイを奪い合うという連鎖を食い止める為には、強力な暴力装置が必要になってしまう。外交的にいえばより強力な軍備が必要だと思う国も増えるでしょう。他所がそう思えば、それも連鎖する。
そういう富の有限性に対する問題を解決しようと、モノから情報を切り離して、情報化が進むわけですが、情報が増大する事によって逆に物事の本質が見え難くなるという問題も出て来ている。木を隠すには森という事です。IT革命と騒いでいたのも今は過去、結局社会は個に分断されてしまい、社会へのコミットメントは益々無くなり、情報化によって可視化される事が、かえって益々既得権者はよりなりふり構わず利権構造を護持するという悪循環も生み出し、国家は益々肥大化する。
日本は近代デモクラシーにしろ資本主義にしろ、全く問題外の体たらくでどうにもなりませんが、仮に我々が賢明になって、それを正常に作動させたとしても、前提が変わってしまえば正常に作動しない。したがってそこの問題を考えないと、出口のない袋小路に我々は立たされている。
国家権力を縛り徹底的に監視するという事自体は、手放さない方がいいでしょう。いくら富は増え続けないとしたって、今はかつてのような時代と違いテクノロジーも発達していますので、近代以前のような状態に戻ってしまうのはあまりにも危険すぎます。したがって立憲民主主義ごっこや資本主義ごっこをやっている場合ではない。まだリソースが残っているうちに、手遅れになる前に一刻も早く近代の常識を機能させ、その上でどのような変化を我々が望むのかを考えねばなりません。もちろん危険は承知の上で近代の常識を捨て去って、リヴァイアサンが君臨して国家を維持するという選択肢もあるでしょう。いかにしてパイを分け合うのか?もしくは何らかの方法によってパイを増やすのか?いずれにしても疑似近代ごっこをやっている場合ではないのです。なにを選択しているのかを把握しない事には、何を変えたからそうなったのかもわかりません。
この問題の結論が書けるくらいなら、とっくに解決出来る問題でしょうから、困難な問題が目の前にあるという事を認識していただければ、とりあえずこの問題はこれ以上突っ込みません。様々な前提話が整った所で、やっと本題に入ろうと思いますが、それは次回という事で。
つづく!!