前回の続きです。

前回ホッブズとロックの思想の違いを書きました。前提が違う事によって、社会のあり方が真逆を示していると。そしてホッブズは歴史を変えなかったが、ロックは歴史を決定的に変えたとも書きました。

ロックの思想がどのように歴史に影響を及ぼしたのかは、すでに以前のエントリーで書きましたので、ロックの思想によって駆動した近代デモクラシーを支える前提条件が微妙に変わっているという事を書きます。

お気づきの方もいるでしょうけれど、ロックが前提とした労働によって富は増やせるという前提が壊れつつあります。環境問題にしろ、資源の問題にしろ、食料の問題が騒がれているのもそうでしょう。それが事実かどうかはわきにおいて、ずっと富が増え続けるという事は不可能であるという事に現代社会はすでに気付いています。したがって前提がホッブズのそれとなっている。だからホッブズ的な圧倒的な暴力装置である国家権力が世界各国でちらほら姿を見せ始めています。

日本は肥大化しまくっていますので論じるまでもありませんが、小さな政府的な、政府が余計な事をやらない方がいいという考えよりも、どちらかと言うと政府が適切に介入した方がいいという流れになっている。

しかしこれを無前提に受け入れてしまうと、リヴァイアサンに対する歯止めが無くなってしまいます。富は増やす事が出来るという前提が壊れたとしても、ロックの思想的な牽制を失えば、政府は適切な介入の域を軽々と乗り越え、リヴァイアサンとなり暴走するでしょう。

しかし牽制と言っても、前提があるからロックの思想もドライブ出来るわけで、前提が壊れてしまったとしたら、はたしてそれが正常に作動するのか?という問題がある。いずれにせよ近代デモクラシーは新たな局面を迎え、新たな問題を抱えている。

アメリカなんかがあれだけ不況になっても公的資金注入に反対する議員がいる事に対して、日本の報道では選挙目当てのポピュリズムの一言で片付けられてしまいます。日本では何の躊躇も無く平気の平左で国家の介入を許してしまうお国柄ですから論外なのですが、そういう選挙目当てという一言で片付けられるような問題ではないのです。その根底には近代デモクラシーの原理原則を破壊しかねない問題がある。そしてその原理原則を突き動かす前提条件も変化してしまっている。難しい状況に我々は立っているのです。

日本国内を見ても、明らかに富は増え続ける事は無い時代に、すでに90年代には入っています。最近は食料問題が騒がれているので、農業の見直しが叫ばれ、ロックが生み出した思想によって引き離した、土地への執着も復活しつつあるように見えます。これだけ借金塗れでありながら、統治権力が縮小されるどころかどんどん肥大化して、益々やりたい放題になっている。

環境が叫ばれれば環境利権が生み出され、安心安全社会が叫ばれれば安心安全社会利権が生み出される。根底にあるのは漠然とした「富の増えなさ」に対する不安をブーストさせて利権を貪るという構造に変化しています。立憲民主主義国家としても、資本主義国家としてもお寒い状況である日本ですが、このまま無防備にリヴァイアサンの暴走を我々が許していたのでは、やがてそれは我々を食い殺すでしょう。

基本的に国家に任せておいて上手く行く事など無いものと思わないとロクな事が無い。徹底的に監視し、処罰し、ちょっとでも国民益から乖離したらボロクソに叩くぐらいで丁度いいのです。例えば今、バカ麻生はコンテンツ立国とか言って、漫画やアニメ、映画や音楽に介入して国家の利権にしようとしています。実際に補正予算では建設費だけで117億もかけて、アニメ美術館なる箱もの利権を潜り込ませています。文科省と経産省でコンテンツビジネスに対して怪しい動きが起こっているなと思っていたら、ちゃっかりそういうものを潜り込ませている。

別に国家に何とかしてもらわなくたって、今でも立派に日本のコンテンツ産業はやっている。そういう産業で食っている人達の、劣悪な労働条件の問題等に対して何らかの是正措置をとるというのならそれは悪い事ではないかもしれませんが、国家が旗を掲げてやるビジネスなんて上手く行ったためしがありません。金融を見れば明らかでしょう。護送船団なんてやっていたけど結果はバブル崩壊。金融はいまだに立ち後れている。IT産業だって、散々IT革命だのなんだのと国家が利権化し、今はスッカラカンで殆どブッ潰れた。

国家が介入すると必ず競争力を失ってダメになります。これは絶対間違いない法則です。戦後復興が官僚のおかげだみたいなインチキを吹聴する御用学者もいますけれど、これはとんでもない間違いです。単に戦争で人が沢山死んで、冷戦構造があり、余計な事をしなかったから上手く行った。日本人が優秀だからでも無ければ、官僚が優秀だったからでもない。いい加減こういった幻想から目を覚まさなければこの国は沈没します。

製造業が上手く行っていたのも、その企業が上手くやったからであって、国のおかげなんかじゃない。むしろ国はずっと邪魔して来た。そしてその成功ももはや過去の話です。間もなく新興国が安い労働力だけではなくて技術も手に入れるでしょうから、そうなったら太刀打ち出来ない。

先日久方ぶりにマイケル・ムーアの「ロジャー&ミー」というドキュメンタリー映画を観ました。自分は彼の映画はあまり好きではありませんが、この映画は素晴らしい。大好きです。なぜ観たのかと言うと、アメリカの自動車産業の体たらくが今騒がれていますが、この映画もGMの工場を閉鎖されてしまった、ある町の問題を切り取った映画だからです。だから観直してみた。この映画は80年代後半の映画なのですが、これを観ると、本質的に何も変わっていない現状を痛感させられます。

かつてアメリカの自動車産業花盛りだった頃、もの凄い景気の良さによって繁栄を謳歌した一つの町が、自動車産業の衰退によって今まさに絶望の縁に立たされている。切り捨てられた人間、切り捨てられずに生き延びた人間、逃げ切れてもいずれは自動車産業が終わるのは目に見えている。しかし今逃げ切れている人間達はその事を見ようとしない。かつての繁栄を懐かしみ、線の外側に不平等を作り出す事によって逃げ切れている。政府主導の新規ビジネスや箱ものはことごとく失敗し、切り捨てられた人々は路頭に迷う。どこかの国の現状と同じような気がしますが、注目すべきはすでに80年代後半の時点でとっくにケリのついている問題、即ちアメリカの製造業には未来がないという事を描いている。そしてそれはそのまま今の日本の現状と未来に対する一つの可能性を突き付けてもいる。日本の現状と驚く程同じ状況です。

日本のモノ作りが強いというまやかしは嘘です。そういう企業もあるという話なだけで、人件費の安い国とモノ作りで真っ向勝負をしてもいずれ負けるのは確実であって、勝てるとしてもそれはコストを押さえ、人件費を押さえる事が前提ですので、収入はむしろ減るでしょうから、裕福になるどころか勝ってもジリ貧になる。それは明らかです。企業自体はグローバル化して安い労働力を動員すればどうにでもなるでしょうし、生き残れるでしょうけれど、日本人自体にはその恩恵は殆ど無いものと思った方がいい。その上、日本の企業もトヨタなんかが典型ですが、80年代後半のアメリカの自動車産業と同じ轍を踏んでいるように見えます。需要が適切に把握出来ていないような気がする。消費者が欲望しているものから大幅な乖離が見られます。国家に守って貰っているからそういう風になる。

それから約20年後の今、アメリカの自動車産業がとうとう終焉に近付いています。なぜそれらが生き延びて来たのか?というと、この80年代後半から金融テクノロジーをアメリカは生み出して、製造業を諦めて金融先進国へと変貌を遂げたからです。

日本的な見方をすると、この金融テクノロジーというのがくせ者で、現にサブプライムで世界中に迷惑をかけたわけだし、けしからんって話になるのでしょう。気持ちはわからないでもありませんが、この映画の産業の衰退とそれを柱として来た地域の空洞化を観ると、他に選択肢があるのか?という疑問が浮かび上がるわけです。

つまり今だから金融テクノロジー駆使した手法の問題点がわかっている。だからこそ批判したり文句言ったり出来るのですが、80年代末期、日本がバブルを謳歌し、日本の製造業のグローバル化によってアメリカはとことん痛い目に合う。元々自由経済を押し付けて来たのはアメリカでもありますので、自業自得だろとも思えますが、その状況を何とかする方法が他にあるのか?と考えると、金融で巻き返しを図るという方法論そのものを批判出来ないのではないか?という気がする。

多くの人々が職を失い、未来の希望を無くしている。丁度今の日本と似たような状況です。これを何とかしようと考えれば(日本政府は利権の事以外は考えちゃいませんが)、金融テクノロジーによって自動車産業も開発や設備投資などの本業をある程度捨てても、サイドビジネス的な金融部門で生き残って、雇用を最低限守る方向性に行く事自体を断罪出来ないような気もするのです。

結果的にサブプライムで痛い目に合いますので、インチキしやがってという風にも思うのですが、職を失って絶望している80年代後半のあの映像を観た後ですと、金も無く信用もない低所得者層が家を持てるようにする事と、職を失わせて路頭に迷わせる事と、どちらがとるべき選択なんだろうか?と考えれば前者であると考える事そのものに罪があるとは言えないのではないのか?と思う。

もちろんそれで金儲けの仕組みがまわり、実際にはもっと暴利を貪っていた高所得者層の問題というのもあるだろうけれど、そうやって景気を回す事によって、日本のような製造業中心の海外にものを売って儲けている国からすれば恩恵にあやかる事も出来たわけです。ヘッジファンドや投資銀行ばかりが悪なのかと言えば、それにぶら下がって回っている構造があり、それは日本の派遣労働者という末端までもを巻き込んでいたわけです。その構造を問題だとするのなら、どのようにするのがよかったのか?これは結構難しい問題のような気がする。

日本はバブル崩壊以降、その問題に対する本質的な対処は全くやって来ませんでしたし、事ここにいたっても全くやる気もない。国民もそんな事よりも目先の不況や政治家個人のスキャンダルに目を奪われている。

債券化してインチキ商品を売りやがってというのも、買って儲けていた人がいて、その恩恵を受けて来た人もいる。サブプライム問題によって金融による錬金術も陰りを見せていますが、今のオバマ政権の布陣を見れば明らかですが、金融によって何らかの草狩り場を見つけ出すという事は絶対に諦めないだろうし、アメリカが改心してアメリカ的な資本主義を止めるという事も絶対に無い。なぜかと言えば、「富を増やし続ける」という前提が壊れてしまえば、アメリカの原理原則が壊れてしまう。ロックの社会契約が通じなくなる。

それはどういう事かと言えば、アメリカ的なロックの思想に基づいた民主主義は崩壊する事を意味する。日本はそもそも民主主義も資本主義もキチンと作動していませんし、ロックの思想も憲法に書いてあるだけですので、それほど気にならないのかもしれませんが、それを否定するという事は、富は有限であるという事となり、ホッブズの言った自然状態になるとは限りませんが、そういう煽りを現に不安や治安の悪化という嘘を喚いて統治権力はリヴァイアサン化している。それでいいのか?という問題があるわけです。

すでに60年代後半から消費主義パラダイムといって、例えば自動車という機能を欲望するというよりも、デザインや個人の嗜好に合わせた様々なモデルを生み出して、その差異に欲望するという構造に変化させて、需要の飽和を回避し、新たな需要を開拓し、喚起し、富は増え続けるというモデルを維持して来た。しかし環境や資源の問題がその頭を抑え、世界的な人口増大によって食料問題など、それが実際の脅威かどうかは別にして、富は増え続けるという前提を保てなくなっている。

実際に環境や資源の枯渇、食料問題ですら富を増やすエンジンとして利用しようとする動きもありますが、その事を問題化するのなら、有限である富を奪い合わずにみんなで一蓮托生に貧しくなるという選択肢を選ぶ他ない。それを世界共通で認識出来れば出口はあるかもしれませんが、おそらくそういう風にはなりそうもないし、実際に資源ナショナリズムのようなものが出て来たりする。抜け駆け感は出て来るだろうし、実際に抜け駆け野郎も出て来るでしょう。そうなるとどういう風にパイを分け合うのかも、増えないのだから、結局みんなが満足するという風にはなるわけがない。必ず不満は出て来るでしょう。

だからと言って、分け合うパイが減っているのに国家ばかりが肥大化してリヴァイアサン化するというのも、どう考えても効率的ではない。だけど、有限であるパイを奪い合うという連鎖を食い止める為には、強力な暴力装置が必要になってしまう。外交的にいえばより強力な軍備が必要だと思う国も増えるでしょう。他所がそう思えば、それも連鎖する。

そういう富の有限性に対する問題を解決しようと、モノから情報を切り離して、情報化が進むわけですが、情報が増大する事によって逆に物事の本質が見え難くなるという問題も出て来ている。木を隠すには森という事です。IT革命と騒いでいたのも今は過去、結局社会は個に分断されてしまい、社会へのコミットメントは益々無くなり、情報化によって可視化される事が、かえって益々既得権者はよりなりふり構わず利権構造を護持するという悪循環も生み出し、国家は益々肥大化する。

日本は近代デモクラシーにしろ資本主義にしろ、全く問題外の体たらくでどうにもなりませんが、仮に我々が賢明になって、それを正常に作動させたとしても、前提が変わってしまえば正常に作動しない。したがってそこの問題を考えないと、出口のない袋小路に我々は立たされている。

国家権力を縛り徹底的に監視するという事自体は、手放さない方がいいでしょう。いくら富は増え続けないとしたって、今はかつてのような時代と違いテクノロジーも発達していますので、近代以前のような状態に戻ってしまうのはあまりにも危険すぎます。したがって立憲民主主義ごっこや資本主義ごっこをやっている場合ではない。まだリソースが残っているうちに、手遅れになる前に一刻も早く近代の常識を機能させ、その上でどのような変化を我々が望むのかを考えねばなりません。もちろん危険は承知の上で近代の常識を捨て去って、リヴァイアサンが君臨して国家を維持するという選択肢もあるでしょう。いかにしてパイを分け合うのか?もしくは何らかの方法によってパイを増やすのか?いずれにしても疑似近代ごっこをやっている場合ではないのです。なにを選択しているのかを把握しない事には、何を変えたからそうなったのかもわかりません。

この問題の結論が書けるくらいなら、とっくに解決出来る問題でしょうから、困難な問題が目の前にあるという事を認識していただければ、とりあえずこの問題はこれ以上突っ込みません。様々な前提話が整った所で、やっと本題に入ろうと思いますが、それは次回という事で。

つづく!!
前回の続きです。

ロックがこういった「国家は制限されるべきだ」「リヴァイアサンを縛れ」という主張をしたのには、もう一つ理由があります。ご存知の通り、「リヴァイアサン」を著わしたトマス・ホッブズの思想に対抗したからです。ホッブズというのはロックよりも早くから社会契約説という考えをリヴァイアサンの中で記しています。ところがこれがロックのそれとは全く違う。

ロックが人間や社会や国家を抽象化して自然人や自然状態という仮定を作り出して思考したと書きましたが、ホッブズもロック程は抽象化していないものの、自然状態という概念を基にして思考する。ホッブズの考える自然状態というのは、有名な言葉で「万人の万人に対する戦い」「人間は人間に対して狼である」要するになまじっか人間には知恵があるばっかりに未来を予想する能力が備わっている。野生動物のように目の前の獲物を捕まえてそれを食らえば満足というわけにはいかない。今日は食えたけど明日は大丈夫だろうか?と不安を持つ。したがって今日の分だけではなく未来の分まで手に入れようと考える。つまり欲望はどんどん膨らむ。しかし食べ物や資源の数には限りがあるので、帰結として奪い合いの闘争状態になる。

個々人の暴力能力の差が、そのまま生き残り競争の勝ち負けを決めるわけですが、所詮人の能力なので決定的な差というわけではありません。隙があれば弱いものが強いものを倒す事が出来る。だからこの戦いでは最終的な勝者は決まらない。いつまでたっても戦いが繰り広げられ、孤独、貧困、不快、殺伐、短命という連鎖が繰り返される。みんなでルールを決めて仲良く暮らそうとしても、必ずそれを破る奴が出て来る。抜け駆けする奴が出て来る。そうすると誰もルールを守らなくなる。それをどうにかするには「力」が必要であるというわけです。つまり暴力による脅しが必要だと。

ホッブズも社会の成立には社会に参加するメンバーの合意が必要であるという部分は、ロックの社会契約説と同じです。しかし契約だけでは社会は続かない。それを破る奴が出て来る。だから契約だけでなく力、つまり圧倒的な暴力装置である国家権力が出て来て、刑罰を与える。その力が無い限り社会は成り立たない。これがホッブズの結論です。

国家権力の力が弱まれば社会はバラバラになり、自然状態に戻り内乱が始まってしまう。ホッブズは内乱はビヒーモスであると言います。このビヒーモスを止める事が出来るのはリヴァイアサンしかいないというわけです(ビヒーモスもリヴァイアサンも聖書に登場する怪獣です)。暴力の連鎖する自然状態(というビヒーモス)に戻るのなら、国家が暴力によって統治する方(リヴァイアサン)がマシだというわけです。

しかしこれですとホッブズの説では王権を弁護する事にしかならず、革命を否定する事になる。そこでロックはこれを真っ向から同じ社会契約説や自然状態を持ち出して反論したわけです。

ロックはホッブズと同じように、人間の自然状態を仮定する。その状態では個人個人はバラバラであり社会は無い。ホッブズのいう通り人間には知恵がある。ここまでは全く同じですが、ここから先が違います。ホッブズのような奪い合いの連鎖にはならないと言います。なぜか?

それは人間が働くからです。働けば富が増える。自然界のめぐみに頼っているだけでは食物は有限です。しかし我々には知恵があり、体を動かして働けば富を増やせる。だから終わりの無い殺し合いの連鎖にはならないと考えたわけです。今から考えればバカみたいな当たり前の話なんですが、当時としてみるとかなり画期的な発想です。富の量は有限であって増えたりはしないというのが当時の常識でした。

中世の社会では富というのは要するに土地の事を意味します。土地というのは当たり前ですが有限ですので総量は決まっています。だから中世ヨーロッパというのはホッブズの言うような闘争状態が土地をめぐって常に繰り返されていました。しかしこの時代微妙な変化の始まりが起こります。商売やモノ作りで利潤を上げて行く資本主義の芽生えのようなものが生まれ始めた。その時代状況をロックは観察し、富は有限ではないという画期的な発想を得るわけです。労働が富を作り出すと考えたのは思想史上ロックが最初です。いかに革新的な発想だったかがわかるでしょう。

キリスト教の予定説によって勤勉さをヨーロッパ人達は手に入れ、労働こそが救済の手段であり、日曜日以外週6日働く事が人間として正しい行いであるという常識が根付いた。金の為に働く事が第一義にあるのではなくて、神が与え賜うた天職であるから一生懸命働く、労働は神が定めた事だから正しいというわけです。が、ロックは違います。神が与えて下さったからではなくて、労働そのものに価値があると言った。動物は働かない。したがってこの世の富を増やさない。しかし人間は違う。知恵を使って働けば、富を増やす事が出来る。社会の資源を増やす事となる。それが社会全体の為にもなる。神がいようがいまいが労働に意義があるという事を言った。

この大発見によって近代資本主義は理論的根拠を得たわけです。これが無ければ金儲けに対して一抹の罪悪感を人間は感じたままだったでしょう。働いて富を増やす事は即ち社会貢献なのだと言われれば、金を稼ぐ事に罪悪感を感じる事も無くなる。

富を増やす事が出来て、土地への執着が薄れれば、それを奪い合う必要性も薄れる。今の我々の感覚からすると何も土地にこだわる事が富の象徴ってわけではないのは当たり前です。金でもモノでも、いくらでも蓄える事が出来るものがあるし、富を増やす事こそが幸福ってわけでもなくなっている。幸福に対する価値観も多様化しています。しかしそういった多様化した生や、土地への執着を断ち切って多様な財産のあり方、様々な選択肢や可能性を提示出来たからこそ近代化する事が出来た。その出発点が、このロックの思想によるパラダイムシフトのおかげで近代化のモーターを手に入れる事が出来たわけです。

私有財産の正当性は1804年に制定されたナポレオン法典によって初めて打ち出されたものです。所有権の絶対と契約自由の原則です。これが無ければ資本主義は駆動しません。ちなみに日本ではまだ根付いていない。所有権とは所有者が自己の所有物を自由任意に使用、収益、処分し得る絶対的権利であり、また、契約は両当事者が自由任意の合意によって成立する。この私有財産の正当性の基礎付けたのもロックの思想です。ロックは民主主義や立憲主義だけではなく、資本主義をも基礎付けた凄まじい思想家なのです。

個人の私有財産は労働の結果生み出された資源です。誰かから奪ったものでもなければ、盗んだものでもない。その人の持っている私有財産は労働に対する正当な報酬なのだから、それをどれだけ貯めようと、どんな使い方をしようと、誰にも文句は言われる筋合いは無い。ロックの考えによれば自然状態にある自然人達は労働によって富を増やす事によって、ホッブズの言うような自然状態にはならないという事を言いました。つまり国家権力や社会が出来る前から私有財産はあった事になる。だから当然国家がこれに干渉してはならないとなるのです。

日本では何かっつうと私有財産の所有権の絶対性や契約自由の原則を侵害するかのような法律を平気の平左で統治権力が作り出すというだけではなく、国民自身も国家に依存して何かっつうと不安を煽られて、抜け駆け感や不公平感を感じ、それを支持してしまいます。金儲けに対して罪悪感すらある。自分の儲けに対してそう思うのなら勝手に思っていればいいと思いますが、人の儲けに対していちいちああだこうだ言ってしまう。

制度的な問題があるのならその事を論じればいいのに、どこか金儲けはけしからんという道徳的な無意味な感覚で誰かを断罪したり、制度をそういう道徳感情や近代化のベースとなる私的財産の所有権を侵害するかのようなものに平気で変えてしまう。その事の危険性をわかっていない。そういうものが認められていない事の問題点すら認識出来ていない。人の財産はどう使おうが煮ようが焼こうがその人の勝手なのです。事業を行ってそれで得た利益であるのならこれも人がとやかく言う事ではない。

何でもかんでも規制して、よく見るとその中身はザル。ステークホルダーに甘く、新規参入をはじき出すような制度を平気で作り、それを国民が支持してしまう。選択出来る自由を重視すべきであって、お上が押しつけ的に選択肢を決めるのは国民の自由を侵害している。それが権力の恣意性になり必ず利権化する。その危険性がわかっていないからそれを許してしまう。絶望的です。

ロックの自然状態での自然人である人間は労働し、富を増やして平和的に暮らして行く事が出来る。しかし実際の所は全員が働き者で他人を妬まずにいられるのかと言えば、そこはきれい事では済みませんので、当然働かない人もいるでしょう。そうなると人々の間でも格差が生まれます。興味深いのはロックの時代には働いて富を増やし、私有財産の所有権の絶対性や契約の自由が確立されていない時代です。最近の日本人的感覚からすると、お上に何でもかんでも依存して他人の所有権を欲しがったり、富を増やさないけれど守って貰おうという話になりがちですが、自分のものを自分のものだと言える権利や、富を自由に増やせる権利というのは、本当はもの凄く重要な価値です。

格差が生まれれば例えば後の時代のマルクスであれば、貧しいものを救えというのでしょう。今もそういう感覚があると思います。しかしロックの時代というのは、貧しいものを救う為には自分が食って行く以上に儲けられないとそれすら出来ません。好き勝手に私的財産を所有する権利すら確立されていないし、好き勝手に所有するものを売り買いする契約の自由も確立されていない。それどころか富を増やせるという感覚すら革新的であった時代ですから、貧しい者というのは即ち怠け者であるという感覚でした。自由に富を増やせて、増やした分だけ自分のものに出来るのに、それをしないのは単なる怠け者であると。

今から考えると違和感がありますが、そういう時代性を反影した思想なのです。この富を増やさない奴というか増やせない奴は怠け者であるという感覚は、特にロックの思想の影響力の強いアメリカなんかでは根強く残っている感覚です。貧しい人を国家が救済するという話は日本人的に考えると悪い話ではないように聞こえますが、アメリカでは一定数反対する人が必ず出て来ます。

しかし当たり前ですがロックの時代と今では決定的に変わってしまっているので、富を増やさない人=怠け者という図式は当てはまりません。日本ではロックの思想を根っこに持つ憲法を持ちながら、全くロックの思想なんて根付いちゃいませんが、不思議な事に、富を増やさない人=怠け者、という図式だけは、なぜか持っている人が結構います。しかしこの図式はロックの思想を最低限理解して、当時の時代性を割り引いて考えないと危険な代物ですので、その部分はむしろ現代風にカスタマイズする必要がある部分です。都合のいい所をいいとこ取りするのが日本人のお家芸なのかもしれませんが、ちょっとはしょり過ぎです。

話を戻しますが、ロックの言う自然状態も怠け者が一定数出て来る事によって、和を乱す事が起こって来る。ロクに働きもせず、他人の財産を妬み、それを奪おうとする輩が出て来るし、実際に事件も起こってしまう。こうした事が起きて来ると、自然状態のままというのも何かと不便です。問題解決の為には争いごとを仲裁する権威ある存在が必要になる。そこで人々が集まって契約を結び共同体、政治、社会、国家を作る事となった。これがロックの社会契約説の奥義です。

ロックが考えた政治システムとは、即ちトラブルの仲裁機関であり、調整役です。その目的は、人民の生命と私有財産を守る事にある。人民の為の国家であるというわけです。日本の統治権力は薬害で国民をぶっ殺して利権を貪るのが仕事だったり、預けていた年金をネコババするのが仕事であったり、税金を踏んだくって利権温存が仕事であったり、景気を悪化させ国民を貧しくして、危機を煽りそれを利権にしているようなクズ共ですから、問題外という事です。何の正統性もありません。人民の為というよりも統治権力者やステークホルダーの利権の為であるのが日本であり、国家の主人は彼らです。これはとんでもない状況である事を先ず認識しないと何も変わらない。

ロックはホッブズのように権力が強くなくてはならないとは考えません。むしろ権力を強くしすぎると必ず人民を無視するようになる。国家の主人は人民であり、人民が作ったものでもある。国家は人民に奉仕する為のもの。したがって人民の代表を議会に送り込んで、政府の運営を徹底的に監視しなければならない。これが民主主義の原理原則なのです。

同じような社会契約説を用いて社会の秩序維持を考えながら、ロックとホッブズの思想は全く逆のベクトルを向いています。なぜそうなるかと言うと、ホッブズは富は有限であると考えたのに対して、ロックは富を労働によって増やす事が出来ると考えた点にあります。この前提の差によってホッブズの自然状態は戦争と同義語になり、ロックの場合は皆が私有財産を増やしてそこそこ平和的に暮らす事が出来るという違いになった。決定的な差のように思いますが、この違いはたいした違いではありません。いずれにせよ社会契約を交わして、国家を作るという点では一致しているからです。

しかしそこから先が決定的に違います。ホッブズは無理矢理にでも秩序を押し付ける圧倒的な暴力装置が無ければ、社会契約は役に立たないと考えたのに対して、ロックは最低限の仲裁機関があれば契約は守られると考えます。交わした約束を守るだけの分別は、大概の人間には備わっていると。日本人的感覚から言うと、ホッブズの考えの方がしっくり来るかもしれませんが、ホッブズの「リヴァイアサン」は歴史を変えませんでしたが、ロックの「統治二論」は歴史を決定的に変えました。ヘーゲル的な歴史の視点からすると、ホッブズの思想こそがロックの思想を生み出したとなるのでしょうから、ホッブズにももちろん計り知れない功績があるのは確かでしょう。

つづく!!
前回の続きです。

前回憲法の話を少し書いたわけですが、憲法というのは国民から国家に向けた覚え書きです。国家権力を縛る為のものであって、我々を縛るものではありません。国民の義務が書いてあったりするので勘違いする人が結構います。政治家までもわかってないたわけ者がいますが、これはあくまで統治権力が守る責務であって、我々が守る法律とは違う。法律よりも上位にあり、これを守らない統治権力であれば、ロックの思想で言えばぶっ潰して構わないのです。従ってそういう統治権力が勝手に作り出す法律なんてもんは何の正統性も無いのです。

当たり前ですが、みんなで不法行為をやろうぜ!!って話じゃありませんよ。そんな事をわざわざ言わなくてもわかるでしょうけれど、今の統治権力には正統性が無いという事が言いたいのです。人に迷惑がかかるような事はやらない方がいいに決まっている。

例えば納税の義務が憲法に書いてあります。だから国民も守らなきゃならないと国家から国民に向けた義務であるかのように勘違いする人もいるでしょう。しかしこれは全然違います。我々は税金を払いますよね?しかしどこかに税金を払わずに国家にただ乗りしているただ乗り野郎がいるとします。ちゃんと税金を払っている人からすれば、それは不愉快でしょうし、不公平だと思うはずです。だから国家にその不公正を是正しろと命令しているから、納税の義務が書いてあるのです。あくまでも我々が国家に命令しているのであって、利権の為に勝手に税金を搾り取る為にその事が書いてあるわけではない。

憲法も守れないような統治権力はその資格が無い。だから国民もそんなものに納税する義務は本当は無いのです。先ずは憲法をしっかりと守るのが先であって、そういう統治権力であるというのが前提で、納税の義務を我々が国家に命令している。こういう基本的な常識すらこの国の統治権力者はわかっていない。

我々一般国民が憲法違反をするという事は出来ません。我々が守るべきものではないからです。あくまでも統治権力が守るべきものであって国民を縛る為にあるのではない。自民党の改憲論者のバカ共はこういった基本すらわかっていない蛆虫共です。まるで国民が守るべき義務を書いていいかのように考えているバカもいる。救いようがありません。

そしてちょっと前に靖国参拝の時に小泉が思想信条の自由だと喚いていましたね。あれもバカ丸出し、国家権力が守るべき義務であって国家権力者が守られる立場にあるわけではない。それを主張するならとっとと政治家を辞めればよい。とんでもない勘違い野郎です。ところが、不思議な事にこれに対して国民は怒らない。それに比べたら参拝の是非なんてのはどうでもいい話です。

社会契約の概念についても同じです。戦後のこの国は、そもそも革命が起こったわけでもないし、憲法意志があったわけでもない。社会契約に基づいて国家が形成されたわけでも何でも無い。戦争に負けて憲法を与えられてそうなった。押し付け憲法論を言いたいわけではありませんよ。憲法意志も無いし、憲法を作る能力も無かった。なし崩し的にそうなった。再復興と独立の為にネタとして最初は受け入れた。

だけど始まりがどうであれ、立憲民主主義国家として再復興したわけです。であればたとえネタであろうが憲法意志が無かろうが、社会契約のフィクションをキチンと機能させなければ国家として機能しないのは当然です。それがこの国が上手く機能しない全ての根源であると言ってよい。

一人前の近代国家の市民として、ちゃんとその事を教育するなり啓蒙するなりしていない。そこを守らないのに改憲だ護憲だと喚いていても無意味なのです。現状で最優先に考えねばならないのは、憲法に書いてある文面を守る事でもなく、憲法をキチンと日本人が作る事でもない。憲法が何であるのかをキッチリ理解して機能させる事が最重要なのです。その上で改憲護憲の話が出て来る。

ロックが1680年前後に「統治二論」という論文を書いた理由は当時の政治情勢も大きく影響しています。この時代のイギリスは、ピューリタン革命が終わり、王政復古の時代になります。1658年にクロムウェルが死にピューリタン革命が崩壊すると、イギリスの王党派の連中は革命で処刑されたチャールズ一世の息子であるオランダに亡命していたチャールズ二世に帰国を要請し、1660年に熱烈な歓迎の中、チャールズ二世はロンドンに入り戴冠式を行います。王政復古が成立する。

ロックが生まれたのは1632年、彼が10歳の時にピューリタン革命が始まって、国王チャーチル一世が大衆の目の前で処刑されたのが17歳、そしてクロムウェルの死によって革命が崩壊し王政復古となったのが彼が28歳の時でした。興味深いのはロックが統治二論を書いたのは、このイギリスが王制に戻って行く時期である所です。この頃のイギリスはピューリタン革命の反動もあって王党派の力が強くなっていた。上っ面のどうでもいいような改革と改革逆行を繰り返して一歩も前に進めないどこかの国の住民はここの所に注目する必要があります。

ドーバー海峡を挟んだフランスでは、ルイ14世が太陽王として絶対王政を行って君臨していた。この時代のフランスは国力が盛んでした。それを見た当時のイギリス人が何を思ったかと言うと、絶対王政を懐かしむような、フランスのように王様が絶対権力を持っている方がいいと考える人が沢山いたわけです。当のイギリスはと言うと議会が王様にしょっちゅう逆らって反抗している。政治が乱れ、国が弱体化しているのではないかと。

国王はアダム直系の子孫であり、神から統治者としての権利を与えられている。従って王に逆らうのは神に逆らう事だ、なんて言う話もあったりした。ロバート・フィルマーが書いた、所謂「王権神授説」という考えです。

こういう世の中の流れや王党派の人達に対する反論の意味を込めて、ロックは統治二論を書くわけです。実際その第一論文は王権神授説に対する批判に充てられています。社会契約説を用いて王の権力を議会が牽制するのは正しい事を証明しようとした。王が偉いのは神に選ばれたからではない。人民が契約によって国家を作った時に、その権力を王様に預けただけに過ぎないのであると。したがって国王とは本来人民を守る為の存在であると。

しかし実際の所、人民を幸福にするどころか、王がやりたい放題に振る舞って人民を不幸にする事がしょっちゅう起こる。だから王が勝手な事をしないように、人民の代表者が集まる議会が国王の権力の濫用を押さえる必要があるのだと。リヴァイアサンを縛れと。

これこそがまさしく立憲主義や民主主義の思想を生み出すモーターになり、今もその根底に流れている基本理念です。国家権力は必ず肥大化して暴走する。それをいかにして封じ込めて国民益の為に機能させるのか、この基本理念がわかっていないから、統治権力が今の日本のようにやりたい放題に振る舞うわけです。

ロックが登場した事によって民主主義の哲学が生まれただけでなく、革命の哲学をも生み出した。いかに国家権力を縛ろうと思っても上手く行かない場合があるかもしれない。言うまでもなく民主主義というのは民主的決定によって独裁や絶対王政を望む可能性がある。そんな事はロックだって百も承知です。だから国家権力が暴走した時には、人民一人一人にはそれに抵抗する権利があると言ったのです。それでも尚暴走を続けるのであれば革命を起こせと。国家を作ったのは人民の社会契約の上であるのだから、作った本人である人民にはそれをひっくり返す権利がある。というわけです。

これは革命の勧めでは決してありません。過激な思想ではなく、ロックがどのように社会を考えていたのかを考慮する必要があります。人間は辛抱強いものであるから、少し気に食わない事があったからといって、すぐに革命を起こすわけではないと言っています。革命権を認めても、現実にはそれほど革命が起きる心配は無い。要するに革命権が国民の側にあると統治権力に思わせる事が重要であって、直ちに行使しろという話では本当はありません。いつ革命によってぶっ殺されるかわからないのですから、当然統治権力も横暴を控えるようになるでしょう。つまり牽制として重要であるというわけです。

イギリスではマグナ・カルタ以来、国王が法を無視した場合、反乱を起こしてもよいとされていました。しかしそれを実際に行使したのは、ピューリタン革命と名誉革命ぐらいのものでした。そういう歴史的事実があるので、ロックは抵抗権を認めても社会が混乱続きになる心配は無いと断言出来たわけです。

ちなみにマグナ・カルタ(大憲章)というのは、1215年6月15日(公布)、ヨーロッパで最初に誕生した憲法となっているのですが、これは民主主義とは何の関係もない代物です。なぜ作られたのかと言うと、当時のイギリス王であったジョン王があまりにも慣習法を無視したからです。フランスとの戦争の為に貴族や教会にどんどん課税した。これに対してイギリスの貴族達が既得権益と慣習法を踏みにじっていると怒ったわけです。そこで63ヶ条の契約を作って、それを守るように王に要求した。その眼目は伝統を守れという事であり、一部の特権階級の既得権を守れという事だった。このマグナ・カルタには自由民という言葉が出て来ますが、自由な市民という意味ではありません。人口の9割を占める農奴は含まれていない。一部の特権階級の為のものでした。民主主義とは全く関係がありません。

が、イギリスの議会政治が発達して行く原点であるとも言える。王といえども法を守る義務がある事が確認されたのです。王がこれを破った場合には反乱に訴える事が出来るとも明記されている。民主主義とは全く関係ない代物なのですが、この二つの原則がその後のイギリス憲法の柱となる。民主主義が生まれる原点となる。

日本人的感覚からすると社会契約説というフィクション自体が信じられないというか、そんな契約した覚えが無いし歴史的事実も無いので、日本には日本にフィットした形の日本独自の民主主義や立憲主義の形があるはずだ云々。こういった感覚があるのだろうと思いますが、こういう言い方というのは全て誤摩化す為だと思った方がいい。社会契約説がフィクションだというのも、そんな事当たり前のコンコンチキだからです。

そもそも社会というのはいかなる形態をとろうとフィクションですので、その事をどうこう言っても仕方がない。民主主義や立憲主義である以上、そのフィクションを守らなければ作動しません。日本的云々なんていう誤摩化しによって、そのフィクションを守らなければ当然作動しない。マグナ・カルタに書かれていた原則にしたって、日本の古来からの政治システムにしたって、全てフィクションであって例外はありません。

ロックの思想だってフィクションですし、そんな事はロック自身がよくわかっていた事です。いかにして特権階級の既得権護持の為ではなく、国民益の為に政治を機能させ、社会を上手く回すのかを考えた。この思想を前提にして近代デモクラシーは作動している。

ロックの思想がなぜ影響力を持ったのかと言うと、彼の思想は非常に科学的であるからです。人間や社会を抽象化して考えた。社会とは何かを考えようとした時に最も困るのは、一口に国家や社会と言っても、その形態や歴史は千差万別です。彼の時代で言えばフランスのような絶対王政の国もあるし、イギリスのようにピューリタン革命を起こす国もある。社会を構成する人間にしても、王様と貴族と農民では生活も考え方も違う。

そこで彼は議論をシンプルにする為に、そうした違いを一切無視する。これは乱暴な話に聞こえるかもしれません。現実の社会分析であれば、ディティールを無視する事は出来ない。しかしだからこそ前提を考えたのです。現代のように社会が複雑になる以前、国家や社会が出来る前の人間はどのように暮らしていたのだろうか?と。

国家や社会がまだ出来ていない段階を生きる人間を「自然人」と呼び、自然人が生きている状況の事を「自然状態」と呼びました。自然状態に暮らしている自然人達が、なぜ今のような国家や社会を作る事にしたのか?その理由を考えようとしたのです。

もちろんここで出て来る自然人や自然状態が本当に存在していたかどうかは誰も知りませんし、無かった可能性が高いかもしれない。最初から何らかの社会の真似事のような、群れのしきたりのようなものがあったと見る方が自然な考え方でしょう。単なる空想だというのも正しい。しかしそんな事をロックは言いたかったわけではないのです。

実際にあるかないかではなくて、社会とは何か?国家とは何か?という命題を一般化して考える為の仮定として自然人や自然状態を考えた。社会の成り立ちや国家の成り立ちを考えようとしたわけです。一般化出来なければ個別で論じなければなりません。社会とは何か?国家とは何か?これらは全て個別的な問題にしかならない。イギリスの社会、フランスの社会、それぞれです。で話は終わってしまいます。

幾何学において、点は位置だけがあって大きさが無いものである、線は太さを持たないものである、という風に教わるわけですが、実際に黒板に書いてあったり教科書に書いてある点とか線は大きさや太さがありますし、それを言ってしまえば表記出来ない。点や線をそのように仮定する事から数学はスタートするわけです。

ロックの自然人という概念も幾何学における点や線の概念と似ています。大きさの無い点が存在しないように、完全に自然な状態の人間なんてあるわけが無い。しかしあえてそれをあると仮定する所から、社会論を出発させる。

自然状態もしかり。物理学では物体の運動を考える時に、その物体が移動する時に生じるであろう空気抵抗や摩擦を無視する。ゼロであると仮定する。当たり前ですがそんな状態などあるわけが無い。宇宙だって真空状態ではありません。ごく微量ですが物質分子は漂っている。地球だって厳密に言えばそうした分子によって抵抗を受けてスピードが落ちている。しかしそうした複雑な現実を無視したからこそ、ニュートンは運動方程式や万有引力の法則を見いだしたわけです。

それと同じで、法も無ければ政治権力も無い社会がロックの言う自然状態なわけですが、そんな状態などあり得ません。しかしあえてそれを仮定する事によって社会とは何か?国家とは何か?を解き明かそうとしたわけです。

日本的な議論にありがちな日本の歴史に合わない云々かんぬん、日本の風土や気質に合わない云々かんぬん、こういう言い訳はロックの思想もわからずに騒いでいるたわけです。「先生、黒板に書いてある点は大きさが、線も太さがありますけどおかしいのではないですか?そんなのはインチキじゃないですか」と言っているようなもの。近代デモクラシーに何が必要かもわからず、何を原則としているのかもわかっていない。批判している肝腎の中身もわかっていない。要するにバカです。無視しましょう。

つづく!!