前回の続きです。

さてさて、前回までで一応日本の戦前のデモクラシーの発達を書いたわけですが、これが昭和に入ると急速に変化が始まります。一つは不況によって人々が苦しい状況に追い込まれてしまっていたというのが背後にあります。大きな転機となったのが1936年2月26日、世に言う2・26事件がきっかけになります。これは昭和天皇の緊急回避的な措置によって、未遂で終わるわけですが、この事件によって世間の意識が変化し始めます。軍部批判を差し控えるようになる。

その際、真っ先に手の平を返し、先頭で旗を降り始めたのが、ご想像通りマスコミの連中であります。軍を批判する事に恐れを成し、勝手に自己規制を始める。すでに大恐慌が始まっていて、それ以前から金融恐慌によって痛んでいた日本経済は大打撃を受けている。無能な政治家達はこの不況になんら打開策を見いだせず、利権に走り(今と全く同じですね)、それを見ている世論もその事にウンザリし、軍人の憂国の情を褒め讃えるような声が強まって来る。世論にデモクラシーを守ろうという意識が薄れて来る。

議会は人民の代表である議員が集まって自由に討議する場です。議員の力の源泉は民意にある。国民がデモクラシーを守ろうと思わなくなってしまえば、議員を後押しするものは無くなってしまいます。しかし帝国議会はそこで踏みとどまって戦います。直ちに道を譲ったわけではない。

2・26事件の翌年1月に開かれた、第70回帝国議会において、いわゆる浜田国松代議士の「腹切り問答」が起こります。これは有名な話です。浜田は寺内寿一陸相に詰問する。最近の軍部を見ると、独裁強化の道を歩んでいるのではないのか?と。

これに対して寺内はその事を否定した後に切り返します。「時に先刻来の浜田君の演説中、軍人に対していささか侮辱するかのごとき言説があったのは遺憾である」と。

浜田は噛み付きます。「自分の言説のどこに軍隊を侮辱した箇所があるか。いやしくも国民を代表している私が、不当な喧嘩を吹っかけられては後へは引けぬ。どこが軍を侮辱したのか、事実を挙げよ」

弁解する寺内「侮辱したとは言ってない。ただ軍を侮辱するかのような言辞は、軍民一致の精神を阻害すると言いたかっただけである」

浜田「侮辱したと言っておきながら、今度は侮辱に当るような疑いがあるとトボケて来た。武士は古来、名誉を重んじる。事実も根拠も無くして他人を侮辱するのは許しがたい。速記録を調べて、小生の発言に軍を侮辱した言葉があるかどうか探してほしい。あったら割腹して君に謝罪する。なかったら君が割腹せよ」

この浜田の発言で議会は大混乱になります。もちろん陸軍は怒り、議会を解散するか、浜田代議士を政友会から除名せよと、当時の首相であった広田弘毅に詰め寄ります。その処置に困った広田内閣は総辞職してしまいます。

この時、内閣は総辞職しても、陸軍の圧力に議会は屈しなかった。そして浜田もいかなる懲罰も受けなかった。ここが重要な所で、前回の尾崎咢堂なんかは首相の人間性までクソミソに罵倒したにもかかわらず、何の処罰も受けなかったのと浜田の一件は同じです。議会の言論の自由を守るというのと権力の横暴に屈しないという鉄則が守られている。明治の藩閥と同じで、昭和の軍閥は巨大な権力を握っていましたが、その力を駆使しても議員を処罰出来なかった。

同年、越境将軍というあだ名を持つ、林銑十郎という陸軍大将が総理大臣になります。この男は満州事変を関東軍が起こした時の朝鮮軍司令官で、満州事変が起こったと知るや、助太刀でござると勝手に朝鮮軍を動かしたので越境将軍と言われていた。そんな男が首相に任命されれば、当然陸軍にベッタリの政策をやろうとする。もちろん議会はこれに反対するわけですが、林はいきなり議会を解散してしまった。

生意気な議員共を懲らしめるつもりだったのかもしれませんが、結果は大失敗。総選挙をやったものの、議員の顔ぶれは全く変わらなかった。たった4ヶ月で内閣総辞職に追い込まれる。選挙を甘く見て痛い目に合った、これは非常に重要な事を示しています。軍が送り込んだ首相でさえ選挙結果には勝てなかった。どんなに軍部や首相が暴走したくても、議会が賛成しなければ何も出来ない。

しかしその3年後にはこの健全さを失ってしまいます。1940年2月、第75回帝国議会において、民政党の斎藤隆夫代議士が代表質問をする。有名な「反軍演説」です。腹切り問答のあった年の7月7日、盧溝橋事件に始まる支那事変はすでに足掛け4年を迎え、戦線は拡大する一方で終わる見込みがない。斉藤はこの事変の目的を政府に問いただす。

「事変による戦死者は10万人を越え、その数倍の負傷者を出している。軍はこの事変を『聖戦』と呼んでいるようだが、そもそも戦争に正しいも悪いもない。問題なのはこの戦争によって何を得るのかという事である。にもかかわらず政府は公式声明において『支那の主権を尊重し、領土賠償を要求しない』と言っている。それではここまで浪費した軍費や損害をどのようにして埋めるつもりなのか?」理路整然と問いただした。

当時の畑俊六陸相は、政治家とは、なかなか上手い事急所をついてくると漏らしていたとか。ところが困った事に、この斉藤議員に対する迫害が、軍部ではなく、議会の同僚達から起こったのです。斉藤の発言が聖戦を侮辱するものであると、衆議院本会議で彼の除名を決定し、彼の発言も議事録から削除された。そればかりか、軍に媚を売る議会で「聖戦貫徹に関する決議」なるものまで可決してしまったのですから、困った話なんてもんじゃない。言論の自由を捨て、議会は自殺する。

権力からどんな弾圧を受けようが、議会を解散させられようが、言論の自由と権力への監視を明け渡さなければ、議会は死にません。それだけの力がある。しかし自ら自殺したのではお終いです。二度と復活は出来ない。1940年3月7日、戦前のデモクラシーも明治憲法も死んだ。この日を持って日本の命運は尽きたと言えます。その後、敗戦にまで突っ走るわけですが、当然の帰結と言えるでしょう。

戦前の日本がなぜ軍国主義と呼ばれるような形態に変化してしまったのかというと、いろいろ説はありますが、よく言われるのが、明治憲法や当時の制度に欠陥があったという話です。大日本帝国憲法第11条に「天皇は陸海軍を統帥す」という規定があり、戦前の軍隊は天皇に直属する事になっていました。そのため政府が軍の作戦行動に干渉するのは憲法違反、いわゆる「統帥権の干犯」であるとされ、軍の独断専行を許したのだと。天皇は立憲君主ですから口を挟む事もないので事実上軍部のやりたい放題だと。

あるいは「軍部大臣現役制」が問題だというのもある。これは、陸軍、海軍大臣になれるのは、現役の大将、中将に限るという規定です。この規定は1913年、山本権兵衛内閣によっていったん廃止されるのですが、「腹切り問答」が行なわれた広田弘毅内閣で復活します。この制度を陸軍は最大限に活用します。言う事をきかない人物が首相候補になった場合、陸軍がこの首相では陸軍大臣の引き受け手がいないと宣告します。陸軍大臣がいなければ組閣出来ませんから、首相候補は任命を辞退するしか無くなる。事実上、内閣を支配出来るようになる。この制度によって、軍は自分の望む総理大臣を選べるようになった。支那事変でも対米戦争でも、常に軍の意向を最優先して、日本は政治不在の国になったというわけです。

しかし統帥権にしても、軍部大臣現役制にしても、重要な問題ではありますが、これが致命的であったのかと言うとそんな事はない。議会が正常に作動していれば、いくらでも阻止する事が出来る。憲法や制度の欠陥があったって、議会がまともに機能すればいくらでも穴埋め出来る。権力の暴走を止められる。欠陥のない制度や憲法などあり得ないからです。しかし議会がその任務を放棄してしまえば、欠陥や矛盾がそのままシステムを破壊する。リヴァイアサンの歯止めが無くなる。

そして議会が機能しなくなった一番の原因は何かと言えば、それは世論です。1937年7月7日に起こった、いわゆる支那事変によって民意が圧倒的に変化してしまう(ちなみに支那事変という呼び方を日中戦争と呼ぶようになってますが、当時は支那事変と呼んでいましたし、この時期の中国というのは統一政権もなく、清とか中国といった国号を使えませんでしたので、地理的名称である支那という言葉が使われた。日中戦争という言い方をすると、そういう歴史的背景が消えてしまいますのでよくない風潮です)。

浜田の腹切り問答も林銑十郎内閣の総辞職もそれ以前の話です。前年の2・26事件を境にマスコミが軍部翼賛報道に切り替え、翌年の支那事変をきっかけに世論が激変し、斉藤の「反軍演説」の時には世論がそれをすでに支持していない。軍部と同じように、支那事変を聖戦だと考える意見が圧倒的だった。斉藤が除名されたのも、世論がそれを望んだからでもある。

政治家ほど世論の動向に敏感な連中はいません。彼らにとっての最大の関心事は選挙に受かる事ですから。郵政民営化に反対しているにもかかわらず、選挙に受かりたいばっかりに、小泉を担いで選挙に受かった与党議員がいっぱいいる事を見れば今でも基本的に何も変わらない。それどころかそういう輩が選挙で民意を問うたわけでもないのに総理大臣にまでなっている。

もちろんここに議会政治の問題点があるのですが、我々がその事を認識し、マスコミがその事に敏感であれば、この問題はクリアー出来ます。もちろん残念ながら、マスコミはこの頃と何も変わらないし、我々も何も学んじゃいない。だからこの問題は問題として残っている。ただそれは議会政治の欠陥というよりも、議会政治を回す民度の問題だとも言える。政治家は選挙で受からなければ政治家になれませんので、世論を気にするという作法は仕方がない。逆に世論を無視されても困る。だけど世論を気にする事にしろ、無視する事にしろ、政治家のそういった作法を問題にするのなら、先ず我々の問題を認識しないとマズい。

いま小泉政権を批判したり、戦後の自民党政治の行き詰まりを問題にしたりしていますが、基本的にそれは我々が支持しているからです。勝手に彼らが独裁制にしているわけではない。確かに小泉以降の安倍、福田、麻生には正統性は無いかもしれませんが、自民党を人々が圧倒的に支持したのはまぎれもない事実です。その事を忘れちゃマズい。

戦前の日本は暗黒であったわけではない。もちろん弾圧など、少なくともこの時点では全く無い。国民がそれを望んだのです。マスコミは沈黙するどころか軍よりも勇ましく戦争に熱狂して言論を尽くして国民を戦争に駆り立てた。軍を煽り立てたわけです。

支那事変が始まった当初、日本軍は破竹の勢いの猛進撃でした。その年の暮れには早くも国民政府の首都南京に迫る程でした。連戦連勝の報が伝えられるようになると、国民は熱狂し猛烈に興奮し、毎日毎日新聞を開いては南京陥落のニュースを待ちわびていた。大人も子供も男も女も大多数がそういう状況です。戦争は負ける事もあるという当たり前の常識すら誰も考えもしないし、そんな事を言おうもんなら袋叩きにあう。

近代日本が体験した日清、日露戦争は、共に日本の大勝利だと教えられている。日露戦争などは、まさに薄氷を踏むような勝利だったわけですが、そんな事は啓蒙もされないし誰も知らない。神国日本に敵はいないと本当に思っていた。

したがって支那事変においても日本が勝つのは当然であって、相手はろくに訓練も受けていない支那軍、鎧袖一触で蹴散らせるとみんな思っていた。だから南京陥落を多くの国民が待ちわびていた。日本人が戦争に対して不安を感じるようになるのは戦局が悪化してからの事で、殆どの日本人が不安など全く感じちゃいなかった。だからそういう議員が選ばれていたというわけです。

この年の暮れの、南京総攻撃が始まろうとする前の晩、新聞が何を勘違いしたのか南京陥落という号外をばらまいた。南京攻撃開始を取り違えての大誤報なのですが(今もこういった大誤報はしょっちゅう起こります。麻生が首相になる前にすでに衆議院選の日取りまで決まっているかのような報道がされたりした。こういう誤報を糊塗する為に、今度は先延ばしとか居座りという言葉が出て来る。麻生にとっとと解散して欲しいとは思いますが、こういった誤報によって民意を煽動し、その事を誤摩化す構造は非常に危険なものがあります)、その号外を見た市民の興奮は半端じゃなかった。銀座の街頭には「祝南京陥落」の看板が掲げられ、芝居小屋では役者も観客も万歳の連呼、各地の盛り場では提灯行列。

忘れてはならないのは、これは政府や軍が関与したり強制したりしたものでは全く無い。マスコミが勝手に暴走し、市民が自主的に行なった。南京が陥落していない事を一番知っているのは他でもない政府や軍です。本来なら政府や軍部がまだ陥落していないという声明を出すべき所ですが、あまりにも熱狂的な大衆の大興奮を見て恐れをなした。誰もそれを公式に否定なんて出来る状況ではなかった。つまり、軍部や政府よりも、マスコミやそれに煽動された大衆の方が戦争に酔いしれ歓迎していた。

腹切り問答や林内閣総辞職はこの支那事変の前の話ですので議会がまだ正常に作動していた。しかしこういった世論の後押しを受けた政治家達がどのように行動するのかと言えば、書くまでもないでしょう。支那事変は聖戦である、勝てる戦争である、そういう熱狂に逆らおうものなら、天下の公論に反対するとは何事か!!この戦争は正しい、軍部を批判する奴は卑怯者だ、売国奴だ、非国民だ!!となる。

山本七平が日本は空気が支配する国であると言いましたが、まさに今でも変わらぬどころかより強化されている構造です。空気を読めないと叩かれる。この戦争は負けるのではないか?とか、間違っているのではないか?なんて事をたとえ思っていたとしても言えない。今の我々はネット環境を手に入れたにもかかわらず、基本的にこの頃の意識から殆ど変わっていません。

先日、田原総一朗が北朝鮮に拉致された被害者はすでに死んでいるということを言って、その事を被害者家族に叩かれた。田原の発言は被害者家族の気持ちを踏みにじるとか、不遜な発言だという話になる。これはおかしな話で、田原が死んでいると言ったって、生きていると言ったって、北朝鮮の拉致被害者の生き死にが決まるわけではない。逆に生きていると願っても心情的に同情の意味でしか無く、事実がどうであるのかとは無関係であり、まして政治的な問題や外交の問題であれば無意味です。

生きているという事を前提にして拳を振り上げて強硬路線で喚き散らして、結果的に一歩も前に進まないという状況を招いたアホ共の罪は消えない。生きていると国民を煽り、拳を振り上げているバカを国民が支持した事も忘れちゃならない。当たり前ですが解決する為には交渉しなきゃ解決出来ない。交渉の扉を塞いだら仮に生きているとしても解決出来るわけがない。

強硬路線を喚いて人気を得ていた連中からすれば実際に生きているかどうかなんて事はどうでもいい事です。死んでいたって生きていると言えばいいのだから。そして実際に解決するかどうかもハナっからどうでもいい。解決するぞとポーズをとれる事が最優先で、実際に解決なんてしちゃえば日本政府の問題も出て来るし、人気のリソースが一つ減り、不安を利権に変えるリソースも減る。そしてそれを強烈に後押ししているのは、バカマスコミの単細胞な翼賛お涙頂戴報道と、それに引っかかって熱狂する国民にある。

自分は拉致事件の問題は初めから本当に生きているかどうかわからないのだから、生きているかもしれないという仮定を前提にしてしまう事にもの凄く問題を感じていましたが、当然そんな事は今ではそれほど感じないかもしれませんが、あの事件がクローズアップされて、国民が拳を振り上げている時に、そんな事を言おうものなら売国奴扱いを受ける事を覚悟しなきゃならない。

こういう構造は何一つ変わらない。熱狂的な空気が支配し、冷静な意見を言おうものなら叩かれる。北方領土問題なんかもそうでしょうし、靖国問題だってそうでしょう。そういう空気によって司法まで影響を受け死刑を連発する。いったんそういう空気によって世論が動き物事が進むと、今更言えないという問題が出て来る。間違っているかも知れないと思ってもブレーキが踏めない。全てこの国の構造はこれで回っている。役人の体質も、政治家の先送りも、芸能人やスポーツ選手が祭り上げられ、引きずり落とされ血祭りに上げられるのも、この繰り返しばかりです。

支那事変の際もそうです。熱狂する国民を前にして、反対を唱えても何の役にもたたない。戦線を拡大し、後戻り不能の状況に突っ走り、決定的な敗戦に至るまで、もうブレーキは利かない。空気によって暴走し、今更言えない状況を作り出し、誰かが止めてくれると思ったと誰も責任を感じない。

田中角栄のロッキード事件もそうですし、小泉劇場も、今の小沢の西松問題も、何が問題なのかもわからず、何で熱狂しているのかもわからない、ただ空気に従って破滅に突っ走る。主権を捨てさり、憲法を殺し、民主主義を殺す。

そしてそういう風に国民が動いてしまう背後の問題としては、支那事変当時で言えば、不況がバックにある。つまりロックが社会契約の前提とした、労働によって富は増え続けるという前提が壊れている。富は増えないどころか分け合えない状況になれば、ホッブスが前提とした自然状態になる。つまり国家はリヴァイアサン化する。その事を国民も望む。その帰結が世界大戦です。日本も多くの人が死んだ。

今我々は100年に一度と言われる大不況の入口に立たされている。パイも分け合えない、切り捨ても起こっている。国家もどんどん肥大しリヴァイアサン化している。役人にしろ政治家にしろ利権塗れ、それの牽制が何もない。マスメディアは翼賛体制、特捜は主権を侵害する。国民も空気に支配されている。軍隊も何の原理原則も無く外に出て行っている。不況だけの問題ではなく、資源にしろ食料にしろ枯渇しているといった啓蒙も多いし、環境問題のような成長の限界を意識するような時代に変化もしている。

今こそ戦前の繰り返しを起こしてはならないと、憲法や民主制を機能させようと思っても、ロックの前提が壊れてしまえば、ロックの社会契約も機能しなくなる。この問題をどう乗り越えるのかを考えなければなりません。

肝腎なのは、富の増えなさという、要するに金の問題は資本主義の問題だけではなくて、民主主義や立憲主義の問題の方がむしろでかいかも知れない。資本主義と立憲民主主義というのは別の問題です。市場原理主義と言った感じで拝金主義と決めつけをし、否定するような言説が横行しておりますが、何で日本で立憲民主主義が機能しないのかというと、実はそのへんにも原因がある。

戦前の「ある」転換点を書きましたが、これは今でも引きずっている問題です。民主主義も憲法も死んだままです。リヴァイアサンの歯止めがない。そのうえ、今まさに不況によってロックの前提が壊れつつある。何を捨て何を無くしたのかがわかっても、それを再構築出来ないような前提に変わってしまえば、どうやってリヴァイアサンを止めるのかが問題になる。

戦後民主主義国家の間ではこういった問題に対して分厚い議論があるわけですが、日本は知識人の空中戦的言論空間でやり合っているのはありますが、殆ど一般化されていませんし、政治家もその事を前提として考えているような人間がいません。マスコミはもちろん啓蒙なんてするわけがない。何を捨て何を無くしたのかを書こうと思ったわけですが、せっかくなので、変化した前提にどう対処するのか?という問題を次回で書こうと思います。多分次回でフィニッシュか?

つづく!!
前々回の続きです。

以前のエントリーで書いたように、戦前の日本はある時期までは立憲国家、民主主義国家として非常に機能的に動いていた。それがある時期を境にしてそれが壊れて行く。行き着く先は決定的な敗戦です。天皇が拒否権を行使しなかった事を持って立憲君主として機能していたという話は書きました。それと同様に民主主義もしっかりと機能していた。

日本が近代化出来たのは明治維新によって急激に舵を切ったかのように、明治政府の教育によって我々は今でも思い込まされていますが、イギリスなんかとは多少形は違いますが、結構それ以前の歴史にも積み重ねがあった。我々がどのような選択をするにしろ、そういった積み重ねを台無しにしかねないという事を頭に入れておく必要があります。もうすでに一度断ち切られた積み重ねですが、何を断ち切ったのか把握出来るうちに。

日本はずっと昔から統治権力が打倒されて幕府が入れ替わるという構造はありましたし、領主が大名を支持するのも基本的には契約関係にあるからです。だからそれを破られれば反乱もあったし、下克上なんてのもあった。中世のヨーロッパに匹敵するような激烈な戦国割拠もあり、ホッブズの言うような自然状態も繰り返しました。当然その事にウンザリし、強い統治権力を望むようにもなる。

ロックの思想によって土地への執着を引き離して、富は増やせるという風に変わったと書きましたが、日本ではそれよりも100年近く前に、すでに日本人が大好きな織田信長によって試みられています。楽市楽座というのがそうでした。土地中心の有限な経済循環から、増やす事が可能な商品経済へと移行させる。元々織田信長が父の死によって家督を受け継いだ際には、尾張一国すら統一していませんでしたが、その時点ですでに商業の力を上手く取り込んで、実質的には尾張一国以上の財力を持っていました。なぜその彼が天下に覇を唱える事が出来たのかと言うと、その事によって財力があったからです。

ちなみに今、大河ドラマでやっている上杉家なんかもそうです。基本的には越後一国とその他ちょびちょびとを抱えていただけなのに、戦国最強と謳われたその原動力は、海を利用して貿易によって潤沢な資金を手にしていた。だから強かった。

この頃もう一つ注目すべき事は、当時の日本は世界屈指の金の産出国であったという事も注目すべきかもしれません。その事によって富の感覚が劇的に変化している。決定的なのはグローバル化の波が日本にやって来ていた。その事が様々な面で意識の変革をもたらしたのかもしれません。江戸時代の幕末もグローバル化が原動力になっている。

そして信長は千利休なんかを利用して、茶の湯によって土地から武士達のマインドを引き離そうとして、ある程度上手く行きます。いくら圧倒的な力の差で統治しようとも、有限である土地に執着するから争いが無くならないわけで、その事を理解して戦略を立てていたように見えます。富の有限性と土地への執着心を変えなければいずれは繰り返しになると。

ルソン渡りのボロ茶碗を利休が詫びだの寂びだのと権威付けすれば、家来はありがたがってそれを貰う。信長は無骨な家来達を、しょっちゅう茶会に呼んで、茶道の素晴らしさを洗脳し芸術的な関心を植え付ける。褒美として茶器を渡すと、武将達もこれは土地に換算すると何万石の価値があると感謝感激する。褒美が土地でなくとも満足させられるように価値観をマインドコントロールによって埋め込んだ。

その後、秀吉がそれを受け継いで、全国制覇を果たすわけですが、彼にその芸術的センスがなかったのか、それとも信長程のカリスマ性がなかったのかは定かではありませんが、全国を統一するとなると、それを全てに行き渡らせる事は不可能です。土地第一主義のマインドは中々変わらない。おそらくその事が朝鮮出兵を決意するバックボーンになっていたのではなかろうかと思います。

しかし大名達もそんな遠くの土地よりも目の前の一万石なんて言っていたという話が嘘か本当か残っていますので、それもやっぱり上手く行かないし、いい加減戦争はウンザリ、コストもかかる。そこそこ商品経済も根付き出した所で、家康が統一を果たす。

徳川の制度設計は非常に巧みであり、江戸中期以降の江戸の発達はおそらく当時世界で最も人口が多く、最も治安もよく、最も清潔で、最も秩序正しく統治されていたのではなかろうかと思います。ヨーロッパなんて屁みたいなもんです。武家は徹底的な思想教育と腐敗を防止するメカニズムを組み込んで、当時の日本は徳川が天下を治めていると言っても、それぞれの藩は独立採算であり、一種の独立国家の寄り集まりです。それらが相互に牽制し、比較的善政を行なわない事には立ち行かないような仕組みを上手く盛り込んだ。

この時代の水戸学なんかもある意味画期的な発想が盛り込まれています。時は江戸幕府、御三家である水戸徳川家ではありますが、あくまでも天皇の家来であって、将軍の家来ではない。もし将軍が天子に弓を引くような事があれば、どちらにつくかわきまえよなんて教えていた。水戸黄門は全国行脚したから偉かったのではなくて、この思想を基礎付けたから偉かったのです。これは重要な意味を含んでいます。なぜならいざとなれば徳川宗家であっても敵に回して戦うべしと教えていた。要するに明治維新の原動力となる尊皇思想です。人民の為ではないにしろ、革命権と言えない事もない。

興味深いのは、これは本来、天皇にどんなに非があり、将軍家が仮に正しかったとしても、あくまでも君主は天皇であるという事を忘れてはならない。それを踏み越える時、必ず世が乱れる(南北朝などを例にとって。だから足利尊氏はこの時代逆賊扱いをずっと受けるわけです)。という要するに革命に対する否定の意味で言っている教えなんですが、皮肉な事に日本の王権というのはねじれていたので幕末の展開に繋がるわけです。革命を絶対的に否定した教えが、形式的に革命に近い帰結を生み出す。

ちなみに水戸藩というと、助さん角さん黄門さまの時代劇で有名ですが、必ず出てくる場面で、角さんだか助さんだかが印籠を8時45分頃に出して(最初から出せば手っ取り早いのに)、控えい!控えおろう!!こちらにおわすお方をどなたと心得る(そんなの知らねえよ)、先の「副将軍」水戸光圀公にあらせられるぞ!!各々方頭が高い!!控えい!控えおろう!!という下りが有名ですが、この中で出て来る副将軍という役職が実際にあったわけではありません。将軍が全権を握っていて副将軍というと、これを助ける政治的な実力がなければならないわけですが、水戸は御三家の一つですので政治的には直接かかわりません。

御三家だから政治的な発言権が強かったのではないかというと、それはある点では誤解です。幕府の制度は、将軍のもとに老中、これは譜代の大名。その下に三奉行とか色々な組織がある。それが天下を監視し徳川家の家臣団を統率している。

御三家というのは家康の子供達が分家したものであって、幕府の政治機構の中で一定の役職を与えられたものではありません。もちろん例えば将軍の跡取りをどうするかというような問題の時には御三家が呼び出されて意見を聞かれ、そういう時は重視されたようです。綱吉が将軍になった時などは光圀公の意見が取り入れられた。将軍家の家政面に関しては発言権があります。親戚の代表としての発言権です。

しかし通常の幕政の運営については、口を挟まない。言い出せば少しは力になるんでしょうが直接的にはそういう役割はなかった。ですから副将軍というのは事実上も、また役職上も本当はあり得ない。けれども世間の見方として、それから水戸藩主の意識としても、この副将軍的な、水戸家というものは他の御三家とは少々ちがうんだ、いざという時には将軍をお助けする、一番身近にいて将軍をお助けするのは水戸なんだ、という意識はあったようです。実質ではないけれども一種の雰囲気というか、観念として水戸藩というのは御三家の中でも特別なんだと。

同じ御三家と言っても水戸は石高もずっと低い。それから極官(生きている間に朝廷から頂く官位も)低い。尾張と紀伊は権大納言ですが、水戸は権中納言、これが極官です。従三位権中納言。御三家の中では、三家といいながら水戸家だけが実質的な権威で言えばちょっと格下でした。格下ではあるけれど、というかだからこそ重要な役割があるんだという雰囲気があった。

水戸藩が他の藩と実質的に違う所というのは、一つは常府であるという事(水戸藩だけが参勤交代を免除されていて、藩主が常にいる場所が江戸であるという事。本国に帰るときはお暇をいただいてという形であって、あくまでも江戸にいるのが普通の状態、いつも将軍の側にいるので副将軍と呼ばれていたとも言える)。もう一つはもろもろの条件の中から副将軍という仇名を頂だいするような意識がそこにあった。その事がその後の水戸藩というものに、ずっと様々な形で影響している。

水戸徳川家というものは他の大名から比べて特にずば抜けた武力、経済力を持つ藩ではない。御三家の中でも一つだけちょっと石高も少ないし身分もちょっと低い不思議な立場に置かれている。しかしながら副将軍的な意味あい、意識、あるいは世間の目というようなものが藩にはある。実際に特別扱いを受ける部分ももちろんあって、その微妙な立場で水戸学のような教えをする所に、江戸時代の統治の巧みさが見られます。

水戸藩出身の将軍というのは最後の将軍慶喜ただ一人です(正確に言うと一橋家に養子に出されていたので、系譜上は水戸徳川家とは別なんですが)。なぜかと言えばこれは水戸藩が光圀以来、学問に金を注ぎ込みすぎて財政難に陥り(驚くべき事に藩の収入の3分の1とか。それだけ教育や学問に力を入れていた。武士とは死ぬ事を見つけるというけれど、それをわきまえる為にも学が必要であり、死ぬべき時に死を選び、生きるべき時はなんとしてでも生きられるようにと)、光圀の死後、彼の養子である跡継ぎの綱條が財政再建に乗り出しますが一揆を招き失敗します。それによって幕閣や譜代から将軍家の器にあらずと認識を持たれてしまったというのが先ず一点。

尾張の義直公は水戸と同じように朝廷を尊敬していて、幕府と朝廷とが対立した場合、武力抗争になった場合、朝廷に味方せよ、幕府の敵になってよいということを考えていたらしいということがわかっています。そういう意味では水戸家と尾張家とはおなじような土台を持っていた。ところが尾張はそれがいつの間にか将軍家から養子が入ったりして結局ごちゃごちゃになって消えてしまう。

これに対して水戸では将軍と天子、京都と江戸が戦いになった時には、江戸の味方をしなければならないのが譜代ですから、水戸家からそういう譜代には養子を出してはならんと教えていた。副将軍という位置を守り続けて、あくまでも天皇家に従うという序列と牽制の意味を貫徹する為には、将軍職に就いてしまっては逆に足枷になる。実際に将軍職に成れなかったという事を逆手に取って、そういう思想を貫いたのかもしれませんが、これは光圀の教えに添っていますし、それ故に幕末の理論的根拠を生み出す原動力にも成りえた。

興味深いのは7代将軍徳川家継の後継者選びの際、水戸の綱條が御三家の当主の内、最年長であったにもかかわらず、財政改革の失政によって、紀州徳川家の吉宗が将軍に成るわけなんですが、その吉宗が編み出した御三卿という制度によって御三家や宗家のあり方を微妙に変化させてしまいました。その事によって決して将軍に成る事のない水戸徳川出身の一橋慶喜が皮肉にも最後の将軍として幕引きをした。彼がガチガチに水戸学の薫陶を得ていたから、官軍に弓を引く事無く、泥沼の内戦を回避出来たとも言えます。

おっとっと、この辺の話は書き出すと止まらなくなりそうなので本筋に戻ります。

要するに近代化の鍵としては、問題は絶対神がいないという事と、人民の無知であるわけですが、天皇の臣民というフィクションを使って明治政府はどちらも担保するという離れ業をやってのけるわけですが、その基礎はすでに江戸時代に確立されていた。

教育も普及していましたし、革命の主体者である武士自らが特権を捨て去るという考えられない行動に出たのも、全てその蓄積が前時代からあったのです。ですから民主主義や立憲主義を駆動させるメカニズムがなかったわけではなく(アリストテレス的な形式論理学が足らなかったような気もしますけれど)、十二分にあり、しかも日本にフィットするように上手く微調整して前提条件を整え近代をスタートさせる。

明治時代において薩長藩閥の権力は凄まじいものがありました。彼らは自分達が明治政府を作ったという自負があるから議会を甘く見ていた。薩摩出身の樺山資紀海軍大臣が議会に対して、「それほどまでに反薩長的言辞を弄するならば、議会に大砲をぶち込むぞ」と言ったとか。議会制度の始まりというのはどこでもこういう事はあるもので、イギリスでもチャールズ一世が楯突く議会に軍隊を投入し、そこであくまでも議会が抵抗したからピューリタン革命によって議会政治が定着した。そこで議会が屈服していればイギリスに議会政治は芽生えることは無かったでしょう。

明治憲法成立によって天皇は立憲君主と成りましたが、そこで行なわれる政治が一部の人々によって行なわれるのなら、民主主義とは言えません。憲法はデモクラシーの前提条件ではありますけれども、憲法があればデモクラシーが成立するわけではない。憲法は民主主義の必要条件であって十分条件ではありません。

明治政府を当初牛耳っていたのは藩閥です。薩長を中心とする維新に功績のあった藩閥が実際の政治を行なっていて、人民の代表たる議会は首相を出す事が出来ませんでした。山縣有朋、井上馨、松方正義、西郷従道、大山巌、西園寺公望、桂太郎、黒田清隆、伊藤博文の9人が法的な規定はないにも関わらず事実上牛耳っていたわけです。しかし天皇の力は凄まじく、「神の前での平等」ならぬ「天皇の前での平等」によって、決定的に日本人の人権思想を変化させます。次第にデモクラシーが育って来る。

戦前の日本の歴史について、この国ではキチンと教育しません。ある時期まで暗黒史観というインチキが蔓延り、これのバックフラッシュとして、戦前の日本はいい国だったんだ的なバカ右翼図式が生まれた。いずれにせよ無意味な感情論でやり合っている下らない議論です。自分はどちらにも組みするつもりはありませんが、戦前のある時期までのこの国のデモクラシーは、今よりもよっぽどマシだったように思えます。例えば1913年憲政の神様と呼ばれた、尾崎咢堂(治安維持法や翼賛選挙に反対し、戦時下において不敬罪で告訴されるも無罪)の桂内閣弾劾演説なんかが典型です。

時の首相であった桂太郎と言えば、その権勢たるや他に並ぶものなし。なにしろ桂内閣の下、日本は日露戦争で勝利をおさめ、韓国を併合した。桂太郎は自分こそ日本を救った男であると思っている。ところが帝国議会がこの桂に噛み付いた。桂は己の権力を笠に着て、やたらに勅令を連発し、国民に無用の圧力を加えているという非難が高まった。

ここで登場するのが立憲政友会の尾崎咢堂です。第30回帝国議会の壇上に立ち、弁論を持って桂を指弾した。

「桂首相は、常に口を開ければ直ちに忠愛を唱え、あたかも忠君愛国は自分の一手専売のごとく唱えている。しかし、その実際はどうか。天皇の名の下に、私利私欲の政治を行なっているにすぎない。そもそも首相とは、憲法の規定にある如く、天皇の補弼の任に当たるべき人物であるのだから、一挙一動が天皇の手本となるくらいでなければならない。ところが桂には、そんな立派な所は一つもないではないか。」

この尾崎の演説に議会は満場総立ちになって喝采を送った。桂は顔面蒼白、公的な場で人間性まで罵倒されたのだから当然です。この演説が火をつけた形になって、議会の外でも桂内閣打倒運動が行なわれ、桂内閣は総辞職、あげく桂は癌で死んじゃった。第一次憲政擁護運動、もしくは護憲運動(今の護憲とは少し意味合いが違います)と呼ばれるもので、国民運動に火がついて内閣まで打倒する。

これの凄い所は議会での演説によって、内閣を結果的に打倒するに至るという点です。イギリスの議会でディズレーリがピール内閣を辞任に追い込んだ話は書きました。この時を持ってイギリスの議会政治は一人前に成ったわけですが、尾崎の演説も同じです、桂内閣の総辞職こそが、大正デモクラシーの始まりであり、藩閥政治を批判し、憲法に基づいた民主的な政治を国民自らが望む出発点でもあった。

実際にその5年後には「平民宰相」原敬が総理大臣になる。藩閥出身者ではなく、平民の衆議院議員が総理大臣に選ばれた。長年にわたる権力との闘争を経て、人民が勝ち取ったデモクラシーであると言えるわけです。天皇の前での平等という、本家民主主義からすると考えられない前提から出発した日本の立憲民主政治も、自力でここまで進化した、まさに奇跡と言っていい話です。

自分は「戦前の日本はいい事もしたんだ」的なバカ右翼は大っ嫌いですけれど、この事は日本人として誇りに思うべき事だと思います。僅か半世紀前まで身分制があった日本が、誰の力も借りる事無く自力で奇跡を成し遂げた。今の我々からすると輝かしい素晴らしい事です。我々は今の現状を恥じるべきでしょう。

しかしこの後、日本は重大な分岐点を迎える事になるわけですが、簡単に道を譲ってそうなったわけではありません。その戦いは次回で。

つづく!!
ちょっと中断します。続きは次回で。

小沢代表が辞任しましたね。遂にという感じでしょうか。自分としては問題発覚後、直ちに辞任せよと書きました。それは小沢が間違っているとは思わないけれど、確実にバッシングによってボロクソにされるであろうから、傷が浅いうちに身を引けという意味で書いた。何よりも重要なのは政権交代であって、その為に必要な事をやれと。

しかし実際には小沢は続投し、案の定、メディアからも総攻撃を受ける事になりますが、自分としては辞めてくれとは思いましたが、小沢が違法であるとは思えないし、検察の主権の侵害も許しがたい暴挙であるし、何よりマスメディアに引導を渡す為には記者クラブ開放が必要だとも思うので、小沢が続投するという以上、支持するしかないと思っていました。

どうせ続けると決断したのなら、とことんまでやって、政権交代を起こすべしと。逆に言えばこの状態で続投し、仮に政権交代が起こったとしたら、中途半端に政権交代するよりは、より重いプレッシャーを逆に小沢にかける事が出来るのではないか?これだけ逆風の中それでも政権交代を支持されれば、絶対に中途半端なマネは許されないであろう事はバカでもわかる話です。したがってそういう意味で、ただ政権交代をするよりも、もっと根本的な問題解決への近道になる可能性もあるのではないかとも思いました。

それで政権交代が起こらないのであれば、それも一旦地獄を味わって国民が懲りるにはいいチャンスかもしれないとも思った。悲劇を味合わないと、中々人々は目覚めない。まあ沈没したら浮上するチャンスももうないかもしれませんが。

しかしこのタイミングで辞めるというのは、どうも納得出来ない。辞めるならもっと早い段階で辞めるべきでしたし、続けると言った以上続けた方がいいような気がする。辞めてもマスコミの与党翼賛の方向性はもう変わらないでしょうし、何よりマスメディアが増長するでしょう。結局マスコミが一番強いんだという事が埋め込まれて、ヘタすると今後の民主党政権もマスコミ問題に対して及び腰になる可能性がある。そして何より検察の主権の侵害、憲法違反に対して、忘れ去られる可能性もある。

まあ辞めるというのでしょうがありませんが、これを生かしてもらいたいもんです。民主党もしょうもない政党ですけれど、彼らが弱体化すると牽制の機能を失います。

今回の一連の流れで、この国の問題点がよくわかったのではなかろうかと思います。もちろん野党の情けなさが第一かもしれませんが、先ずは役人共、コイツらはどうにもなりません。特に特捜はどうにもならない。腐ってます。完璧に主権を侵害している。そして与党のブタ共、頭が悪過ぎる。官僚の操り人形と化している。そして何より酷いのはマスコミの連中です。このゴキブリ共を駆除しない事には、明日はない。

豚インフルだのなんだのと、どうでもいい話ばかり、民主党の話と言えば小沢の進退しか報じない。肝腎の補正予算の話なんか殆どスルーです。ゼネコンから献金と言いますが、与党が経団連から献金を受けて、実際にエコカーだのエコ家電だのと税金のバラマキをする事の方がよっぽどたちが悪い。何で地デジの普及に国民の血税を使わなきゃならない?何も見る番組など無いのだから、必要ないと思う人が大勢いる。にもかかわらずそういう下らないバラマキをマスコミは補正予算通すべしなんて事を平気な顔して言います。小沢の辞任会見も案の定はしょって報じてるし、困った連中です。

献金を貰っている事に嫌悪感を感じる人がいる事は理解出来ますし、その事で辞めろというのもわかる。だけど、本質的に何が問題なのか本当にわかってんの?という感じがする。そういう事を全くマスコミは報じません。と言っても、以前のロッキードの事を書いたエントリーでも触れましたが、あの時、マスコミは田中を攻撃する権力批判のポーズの真意は検察、つまり国家権力のケツを舐めていただけです。単なる翼賛報道。そういう連中が今のマスコミを形成している。

もっと中身を吟味しなきゃならない事が山ほどあるのに、与党の蛆虫共と翼賛のゴキブリメディアと寄生虫霞ヶ関で、この国は沈没しかけている。

国民が最後の砦です。その事を自覚しましょう。そして自覚していない人に説明してあげましょう。政権を選ぶ事よりも政権交代によって主権を取り戻す事を重視しましょう。そうじゃないと民主主義も立憲主義も機能しません。民主党か自民党かなんて言う下らない問題ではないのです。

次回は真面目に続きを書きます。