前回の続きです。
さてさて、前回までで一応日本の戦前のデモクラシーの発達を書いたわけですが、これが昭和に入ると急速に変化が始まります。一つは不況によって人々が苦しい状況に追い込まれてしまっていたというのが背後にあります。大きな転機となったのが1936年2月26日、世に言う2・26事件がきっかけになります。これは昭和天皇の緊急回避的な措置によって、未遂で終わるわけですが、この事件によって世間の意識が変化し始めます。軍部批判を差し控えるようになる。
その際、真っ先に手の平を返し、先頭で旗を降り始めたのが、ご想像通りマスコミの連中であります。軍を批判する事に恐れを成し、勝手に自己規制を始める。すでに大恐慌が始まっていて、それ以前から金融恐慌によって痛んでいた日本経済は大打撃を受けている。無能な政治家達はこの不況になんら打開策を見いだせず、利権に走り(今と全く同じですね)、それを見ている世論もその事にウンザリし、軍人の憂国の情を褒め讃えるような声が強まって来る。世論にデモクラシーを守ろうという意識が薄れて来る。
議会は人民の代表である議員が集まって自由に討議する場です。議員の力の源泉は民意にある。国民がデモクラシーを守ろうと思わなくなってしまえば、議員を後押しするものは無くなってしまいます。しかし帝国議会はそこで踏みとどまって戦います。直ちに道を譲ったわけではない。
2・26事件の翌年1月に開かれた、第70回帝国議会において、いわゆる浜田国松代議士の「腹切り問答」が起こります。これは有名な話です。浜田は寺内寿一陸相に詰問する。最近の軍部を見ると、独裁強化の道を歩んでいるのではないのか?と。
これに対して寺内はその事を否定した後に切り返します。「時に先刻来の浜田君の演説中、軍人に対していささか侮辱するかのごとき言説があったのは遺憾である」と。
浜田は噛み付きます。「自分の言説のどこに軍隊を侮辱した箇所があるか。いやしくも国民を代表している私が、不当な喧嘩を吹っかけられては後へは引けぬ。どこが軍を侮辱したのか、事実を挙げよ」
弁解する寺内「侮辱したとは言ってない。ただ軍を侮辱するかのような言辞は、軍民一致の精神を阻害すると言いたかっただけである」
浜田「侮辱したと言っておきながら、今度は侮辱に当るような疑いがあるとトボケて来た。武士は古来、名誉を重んじる。事実も根拠も無くして他人を侮辱するのは許しがたい。速記録を調べて、小生の発言に軍を侮辱した言葉があるかどうか探してほしい。あったら割腹して君に謝罪する。なかったら君が割腹せよ」
この浜田の発言で議会は大混乱になります。もちろん陸軍は怒り、議会を解散するか、浜田代議士を政友会から除名せよと、当時の首相であった広田弘毅に詰め寄ります。その処置に困った広田内閣は総辞職してしまいます。
この時、内閣は総辞職しても、陸軍の圧力に議会は屈しなかった。そして浜田もいかなる懲罰も受けなかった。ここが重要な所で、前回の尾崎咢堂なんかは首相の人間性までクソミソに罵倒したにもかかわらず、何の処罰も受けなかったのと浜田の一件は同じです。議会の言論の自由を守るというのと権力の横暴に屈しないという鉄則が守られている。明治の藩閥と同じで、昭和の軍閥は巨大な権力を握っていましたが、その力を駆使しても議員を処罰出来なかった。
同年、越境将軍というあだ名を持つ、林銑十郎という陸軍大将が総理大臣になります。この男は満州事変を関東軍が起こした時の朝鮮軍司令官で、満州事変が起こったと知るや、助太刀でござると勝手に朝鮮軍を動かしたので越境将軍と言われていた。そんな男が首相に任命されれば、当然陸軍にベッタリの政策をやろうとする。もちろん議会はこれに反対するわけですが、林はいきなり議会を解散してしまった。
生意気な議員共を懲らしめるつもりだったのかもしれませんが、結果は大失敗。総選挙をやったものの、議員の顔ぶれは全く変わらなかった。たった4ヶ月で内閣総辞職に追い込まれる。選挙を甘く見て痛い目に合った、これは非常に重要な事を示しています。軍が送り込んだ首相でさえ選挙結果には勝てなかった。どんなに軍部や首相が暴走したくても、議会が賛成しなければ何も出来ない。
しかしその3年後にはこの健全さを失ってしまいます。1940年2月、第75回帝国議会において、民政党の斎藤隆夫代議士が代表質問をする。有名な「反軍演説」です。腹切り問答のあった年の7月7日、盧溝橋事件に始まる支那事変はすでに足掛け4年を迎え、戦線は拡大する一方で終わる見込みがない。斉藤はこの事変の目的を政府に問いただす。
「事変による戦死者は10万人を越え、その数倍の負傷者を出している。軍はこの事変を『聖戦』と呼んでいるようだが、そもそも戦争に正しいも悪いもない。問題なのはこの戦争によって何を得るのかという事である。にもかかわらず政府は公式声明において『支那の主権を尊重し、領土賠償を要求しない』と言っている。それではここまで浪費した軍費や損害をどのようにして埋めるつもりなのか?」理路整然と問いただした。
当時の畑俊六陸相は、政治家とは、なかなか上手い事急所をついてくると漏らしていたとか。ところが困った事に、この斉藤議員に対する迫害が、軍部ではなく、議会の同僚達から起こったのです。斉藤の発言が聖戦を侮辱するものであると、衆議院本会議で彼の除名を決定し、彼の発言も議事録から削除された。そればかりか、軍に媚を売る議会で「聖戦貫徹に関する決議」なるものまで可決してしまったのですから、困った話なんてもんじゃない。言論の自由を捨て、議会は自殺する。
権力からどんな弾圧を受けようが、議会を解散させられようが、言論の自由と権力への監視を明け渡さなければ、議会は死にません。それだけの力がある。しかし自ら自殺したのではお終いです。二度と復活は出来ない。1940年3月7日、戦前のデモクラシーも明治憲法も死んだ。この日を持って日本の命運は尽きたと言えます。その後、敗戦にまで突っ走るわけですが、当然の帰結と言えるでしょう。
戦前の日本がなぜ軍国主義と呼ばれるような形態に変化してしまったのかというと、いろいろ説はありますが、よく言われるのが、明治憲法や当時の制度に欠陥があったという話です。大日本帝国憲法第11条に「天皇は陸海軍を統帥す」という規定があり、戦前の軍隊は天皇に直属する事になっていました。そのため政府が軍の作戦行動に干渉するのは憲法違反、いわゆる「統帥権の干犯」であるとされ、軍の独断専行を許したのだと。天皇は立憲君主ですから口を挟む事もないので事実上軍部のやりたい放題だと。
あるいは「軍部大臣現役制」が問題だというのもある。これは、陸軍、海軍大臣になれるのは、現役の大将、中将に限るという規定です。この規定は1913年、山本権兵衛内閣によっていったん廃止されるのですが、「腹切り問答」が行なわれた広田弘毅内閣で復活します。この制度を陸軍は最大限に活用します。言う事をきかない人物が首相候補になった場合、陸軍がこの首相では陸軍大臣の引き受け手がいないと宣告します。陸軍大臣がいなければ組閣出来ませんから、首相候補は任命を辞退するしか無くなる。事実上、内閣を支配出来るようになる。この制度によって、軍は自分の望む総理大臣を選べるようになった。支那事変でも対米戦争でも、常に軍の意向を最優先して、日本は政治不在の国になったというわけです。
しかし統帥権にしても、軍部大臣現役制にしても、重要な問題ではありますが、これが致命的であったのかと言うとそんな事はない。議会が正常に作動していれば、いくらでも阻止する事が出来る。憲法や制度の欠陥があったって、議会がまともに機能すればいくらでも穴埋め出来る。権力の暴走を止められる。欠陥のない制度や憲法などあり得ないからです。しかし議会がその任務を放棄してしまえば、欠陥や矛盾がそのままシステムを破壊する。リヴァイアサンの歯止めが無くなる。
そして議会が機能しなくなった一番の原因は何かと言えば、それは世論です。1937年7月7日に起こった、いわゆる支那事変によって民意が圧倒的に変化してしまう(ちなみに支那事変という呼び方を日中戦争と呼ぶようになってますが、当時は支那事変と呼んでいましたし、この時期の中国というのは統一政権もなく、清とか中国といった国号を使えませんでしたので、地理的名称である支那という言葉が使われた。日中戦争という言い方をすると、そういう歴史的背景が消えてしまいますのでよくない風潮です)。
浜田の腹切り問答も林銑十郎内閣の総辞職もそれ以前の話です。前年の2・26事件を境にマスコミが軍部翼賛報道に切り替え、翌年の支那事変をきっかけに世論が激変し、斉藤の「反軍演説」の時には世論がそれをすでに支持していない。軍部と同じように、支那事変を聖戦だと考える意見が圧倒的だった。斉藤が除名されたのも、世論がそれを望んだからでもある。
政治家ほど世論の動向に敏感な連中はいません。彼らにとっての最大の関心事は選挙に受かる事ですから。郵政民営化に反対しているにもかかわらず、選挙に受かりたいばっかりに、小泉を担いで選挙に受かった与党議員がいっぱいいる事を見れば今でも基本的に何も変わらない。それどころかそういう輩が選挙で民意を問うたわけでもないのに総理大臣にまでなっている。
もちろんここに議会政治の問題点があるのですが、我々がその事を認識し、マスコミがその事に敏感であれば、この問題はクリアー出来ます。もちろん残念ながら、マスコミはこの頃と何も変わらないし、我々も何も学んじゃいない。だからこの問題は問題として残っている。ただそれは議会政治の欠陥というよりも、議会政治を回す民度の問題だとも言える。政治家は選挙で受からなければ政治家になれませんので、世論を気にするという作法は仕方がない。逆に世論を無視されても困る。だけど世論を気にする事にしろ、無視する事にしろ、政治家のそういった作法を問題にするのなら、先ず我々の問題を認識しないとマズい。
いま小泉政権を批判したり、戦後の自民党政治の行き詰まりを問題にしたりしていますが、基本的にそれは我々が支持しているからです。勝手に彼らが独裁制にしているわけではない。確かに小泉以降の安倍、福田、麻生には正統性は無いかもしれませんが、自民党を人々が圧倒的に支持したのはまぎれもない事実です。その事を忘れちゃマズい。
戦前の日本は暗黒であったわけではない。もちろん弾圧など、少なくともこの時点では全く無い。国民がそれを望んだのです。マスコミは沈黙するどころか軍よりも勇ましく戦争に熱狂して言論を尽くして国民を戦争に駆り立てた。軍を煽り立てたわけです。
支那事変が始まった当初、日本軍は破竹の勢いの猛進撃でした。その年の暮れには早くも国民政府の首都南京に迫る程でした。連戦連勝の報が伝えられるようになると、国民は熱狂し猛烈に興奮し、毎日毎日新聞を開いては南京陥落のニュースを待ちわびていた。大人も子供も男も女も大多数がそういう状況です。戦争は負ける事もあるという当たり前の常識すら誰も考えもしないし、そんな事を言おうもんなら袋叩きにあう。
近代日本が体験した日清、日露戦争は、共に日本の大勝利だと教えられている。日露戦争などは、まさに薄氷を踏むような勝利だったわけですが、そんな事は啓蒙もされないし誰も知らない。神国日本に敵はいないと本当に思っていた。
したがって支那事変においても日本が勝つのは当然であって、相手はろくに訓練も受けていない支那軍、鎧袖一触で蹴散らせるとみんな思っていた。だから南京陥落を多くの国民が待ちわびていた。日本人が戦争に対して不安を感じるようになるのは戦局が悪化してからの事で、殆どの日本人が不安など全く感じちゃいなかった。だからそういう議員が選ばれていたというわけです。
この年の暮れの、南京総攻撃が始まろうとする前の晩、新聞が何を勘違いしたのか南京陥落という号外をばらまいた。南京攻撃開始を取り違えての大誤報なのですが(今もこういった大誤報はしょっちゅう起こります。麻生が首相になる前にすでに衆議院選の日取りまで決まっているかのような報道がされたりした。こういう誤報を糊塗する為に、今度は先延ばしとか居座りという言葉が出て来る。麻生にとっとと解散して欲しいとは思いますが、こういった誤報によって民意を煽動し、その事を誤摩化す構造は非常に危険なものがあります)、その号外を見た市民の興奮は半端じゃなかった。銀座の街頭には「祝南京陥落」の看板が掲げられ、芝居小屋では役者も観客も万歳の連呼、各地の盛り場では提灯行列。
忘れてはならないのは、これは政府や軍が関与したり強制したりしたものでは全く無い。マスコミが勝手に暴走し、市民が自主的に行なった。南京が陥落していない事を一番知っているのは他でもない政府や軍です。本来なら政府や軍部がまだ陥落していないという声明を出すべき所ですが、あまりにも熱狂的な大衆の大興奮を見て恐れをなした。誰もそれを公式に否定なんて出来る状況ではなかった。つまり、軍部や政府よりも、マスコミやそれに煽動された大衆の方が戦争に酔いしれ歓迎していた。
腹切り問答や林内閣総辞職はこの支那事変の前の話ですので議会がまだ正常に作動していた。しかしこういった世論の後押しを受けた政治家達がどのように行動するのかと言えば、書くまでもないでしょう。支那事変は聖戦である、勝てる戦争である、そういう熱狂に逆らおうものなら、天下の公論に反対するとは何事か!!この戦争は正しい、軍部を批判する奴は卑怯者だ、売国奴だ、非国民だ!!となる。
山本七平が日本は空気が支配する国であると言いましたが、まさに今でも変わらぬどころかより強化されている構造です。空気を読めないと叩かれる。この戦争は負けるのではないか?とか、間違っているのではないか?なんて事をたとえ思っていたとしても言えない。今の我々はネット環境を手に入れたにもかかわらず、基本的にこの頃の意識から殆ど変わっていません。
先日、田原総一朗が北朝鮮に拉致された被害者はすでに死んでいるということを言って、その事を被害者家族に叩かれた。田原の発言は被害者家族の気持ちを踏みにじるとか、不遜な発言だという話になる。これはおかしな話で、田原が死んでいると言ったって、生きていると言ったって、北朝鮮の拉致被害者の生き死にが決まるわけではない。逆に生きていると願っても心情的に同情の意味でしか無く、事実がどうであるのかとは無関係であり、まして政治的な問題や外交の問題であれば無意味です。
生きているという事を前提にして拳を振り上げて強硬路線で喚き散らして、結果的に一歩も前に進まないという状況を招いたアホ共の罪は消えない。生きていると国民を煽り、拳を振り上げているバカを国民が支持した事も忘れちゃならない。当たり前ですが解決する為には交渉しなきゃ解決出来ない。交渉の扉を塞いだら仮に生きているとしても解決出来るわけがない。
強硬路線を喚いて人気を得ていた連中からすれば実際に生きているかどうかなんて事はどうでもいい事です。死んでいたって生きていると言えばいいのだから。そして実際に解決するかどうかもハナっからどうでもいい。解決するぞとポーズをとれる事が最優先で、実際に解決なんてしちゃえば日本政府の問題も出て来るし、人気のリソースが一つ減り、不安を利権に変えるリソースも減る。そしてそれを強烈に後押ししているのは、バカマスコミの単細胞な翼賛お涙頂戴報道と、それに引っかかって熱狂する国民にある。
自分は拉致事件の問題は初めから本当に生きているかどうかわからないのだから、生きているかもしれないという仮定を前提にしてしまう事にもの凄く問題を感じていましたが、当然そんな事は今ではそれほど感じないかもしれませんが、あの事件がクローズアップされて、国民が拳を振り上げている時に、そんな事を言おうものなら売国奴扱いを受ける事を覚悟しなきゃならない。
こういう構造は何一つ変わらない。熱狂的な空気が支配し、冷静な意見を言おうものなら叩かれる。北方領土問題なんかもそうでしょうし、靖国問題だってそうでしょう。そういう空気によって司法まで影響を受け死刑を連発する。いったんそういう空気によって世論が動き物事が進むと、今更言えないという問題が出て来る。間違っているかも知れないと思ってもブレーキが踏めない。全てこの国の構造はこれで回っている。役人の体質も、政治家の先送りも、芸能人やスポーツ選手が祭り上げられ、引きずり落とされ血祭りに上げられるのも、この繰り返しばかりです。
支那事変の際もそうです。熱狂する国民を前にして、反対を唱えても何の役にもたたない。戦線を拡大し、後戻り不能の状況に突っ走り、決定的な敗戦に至るまで、もうブレーキは利かない。空気によって暴走し、今更言えない状況を作り出し、誰かが止めてくれると思ったと誰も責任を感じない。
田中角栄のロッキード事件もそうですし、小泉劇場も、今の小沢の西松問題も、何が問題なのかもわからず、何で熱狂しているのかもわからない、ただ空気に従って破滅に突っ走る。主権を捨てさり、憲法を殺し、民主主義を殺す。
そしてそういう風に国民が動いてしまう背後の問題としては、支那事変当時で言えば、不況がバックにある。つまりロックが社会契約の前提とした、労働によって富は増え続けるという前提が壊れている。富は増えないどころか分け合えない状況になれば、ホッブスが前提とした自然状態になる。つまり国家はリヴァイアサン化する。その事を国民も望む。その帰結が世界大戦です。日本も多くの人が死んだ。
今我々は100年に一度と言われる大不況の入口に立たされている。パイも分け合えない、切り捨ても起こっている。国家もどんどん肥大しリヴァイアサン化している。役人にしろ政治家にしろ利権塗れ、それの牽制が何もない。マスメディアは翼賛体制、特捜は主権を侵害する。国民も空気に支配されている。軍隊も何の原理原則も無く外に出て行っている。不況だけの問題ではなく、資源にしろ食料にしろ枯渇しているといった啓蒙も多いし、環境問題のような成長の限界を意識するような時代に変化もしている。
今こそ戦前の繰り返しを起こしてはならないと、憲法や民主制を機能させようと思っても、ロックの前提が壊れてしまえば、ロックの社会契約も機能しなくなる。この問題をどう乗り越えるのかを考えなければなりません。
肝腎なのは、富の増えなさという、要するに金の問題は資本主義の問題だけではなくて、民主主義や立憲主義の問題の方がむしろでかいかも知れない。資本主義と立憲民主主義というのは別の問題です。市場原理主義と言った感じで拝金主義と決めつけをし、否定するような言説が横行しておりますが、何で日本で立憲民主主義が機能しないのかというと、実はそのへんにも原因がある。
戦前の「ある」転換点を書きましたが、これは今でも引きずっている問題です。民主主義も憲法も死んだままです。リヴァイアサンの歯止めがない。そのうえ、今まさに不況によってロックの前提が壊れつつある。何を捨て何を無くしたのかがわかっても、それを再構築出来ないような前提に変わってしまえば、どうやってリヴァイアサンを止めるのかが問題になる。
戦後民主主義国家の間ではこういった問題に対して分厚い議論があるわけですが、日本は知識人の空中戦的言論空間でやり合っているのはありますが、殆ど一般化されていませんし、政治家もその事を前提として考えているような人間がいません。マスコミはもちろん啓蒙なんてするわけがない。何を捨て何を無くしたのかを書こうと思ったわけですが、せっかくなので、変化した前提にどう対処するのか?という問題を次回で書こうと思います。多分次回でフィニッシュか?
つづく!!
さてさて、前回までで一応日本の戦前のデモクラシーの発達を書いたわけですが、これが昭和に入ると急速に変化が始まります。一つは不況によって人々が苦しい状況に追い込まれてしまっていたというのが背後にあります。大きな転機となったのが1936年2月26日、世に言う2・26事件がきっかけになります。これは昭和天皇の緊急回避的な措置によって、未遂で終わるわけですが、この事件によって世間の意識が変化し始めます。軍部批判を差し控えるようになる。
その際、真っ先に手の平を返し、先頭で旗を降り始めたのが、ご想像通りマスコミの連中であります。軍を批判する事に恐れを成し、勝手に自己規制を始める。すでに大恐慌が始まっていて、それ以前から金融恐慌によって痛んでいた日本経済は大打撃を受けている。無能な政治家達はこの不況になんら打開策を見いだせず、利権に走り(今と全く同じですね)、それを見ている世論もその事にウンザリし、軍人の憂国の情を褒め讃えるような声が強まって来る。世論にデモクラシーを守ろうという意識が薄れて来る。
議会は人民の代表である議員が集まって自由に討議する場です。議員の力の源泉は民意にある。国民がデモクラシーを守ろうと思わなくなってしまえば、議員を後押しするものは無くなってしまいます。しかし帝国議会はそこで踏みとどまって戦います。直ちに道を譲ったわけではない。
2・26事件の翌年1月に開かれた、第70回帝国議会において、いわゆる浜田国松代議士の「腹切り問答」が起こります。これは有名な話です。浜田は寺内寿一陸相に詰問する。最近の軍部を見ると、独裁強化の道を歩んでいるのではないのか?と。
これに対して寺内はその事を否定した後に切り返します。「時に先刻来の浜田君の演説中、軍人に対していささか侮辱するかのごとき言説があったのは遺憾である」と。
浜田は噛み付きます。「自分の言説のどこに軍隊を侮辱した箇所があるか。いやしくも国民を代表している私が、不当な喧嘩を吹っかけられては後へは引けぬ。どこが軍を侮辱したのか、事実を挙げよ」
弁解する寺内「侮辱したとは言ってない。ただ軍を侮辱するかのような言辞は、軍民一致の精神を阻害すると言いたかっただけである」
浜田「侮辱したと言っておきながら、今度は侮辱に当るような疑いがあるとトボケて来た。武士は古来、名誉を重んじる。事実も根拠も無くして他人を侮辱するのは許しがたい。速記録を調べて、小生の発言に軍を侮辱した言葉があるかどうか探してほしい。あったら割腹して君に謝罪する。なかったら君が割腹せよ」
この浜田の発言で議会は大混乱になります。もちろん陸軍は怒り、議会を解散するか、浜田代議士を政友会から除名せよと、当時の首相であった広田弘毅に詰め寄ります。その処置に困った広田内閣は総辞職してしまいます。
この時、内閣は総辞職しても、陸軍の圧力に議会は屈しなかった。そして浜田もいかなる懲罰も受けなかった。ここが重要な所で、前回の尾崎咢堂なんかは首相の人間性までクソミソに罵倒したにもかかわらず、何の処罰も受けなかったのと浜田の一件は同じです。議会の言論の自由を守るというのと権力の横暴に屈しないという鉄則が守られている。明治の藩閥と同じで、昭和の軍閥は巨大な権力を握っていましたが、その力を駆使しても議員を処罰出来なかった。
同年、越境将軍というあだ名を持つ、林銑十郎という陸軍大将が総理大臣になります。この男は満州事変を関東軍が起こした時の朝鮮軍司令官で、満州事変が起こったと知るや、助太刀でござると勝手に朝鮮軍を動かしたので越境将軍と言われていた。そんな男が首相に任命されれば、当然陸軍にベッタリの政策をやろうとする。もちろん議会はこれに反対するわけですが、林はいきなり議会を解散してしまった。
生意気な議員共を懲らしめるつもりだったのかもしれませんが、結果は大失敗。総選挙をやったものの、議員の顔ぶれは全く変わらなかった。たった4ヶ月で内閣総辞職に追い込まれる。選挙を甘く見て痛い目に合った、これは非常に重要な事を示しています。軍が送り込んだ首相でさえ選挙結果には勝てなかった。どんなに軍部や首相が暴走したくても、議会が賛成しなければ何も出来ない。
しかしその3年後にはこの健全さを失ってしまいます。1940年2月、第75回帝国議会において、民政党の斎藤隆夫代議士が代表質問をする。有名な「反軍演説」です。腹切り問答のあった年の7月7日、盧溝橋事件に始まる支那事変はすでに足掛け4年を迎え、戦線は拡大する一方で終わる見込みがない。斉藤はこの事変の目的を政府に問いただす。
「事変による戦死者は10万人を越え、その数倍の負傷者を出している。軍はこの事変を『聖戦』と呼んでいるようだが、そもそも戦争に正しいも悪いもない。問題なのはこの戦争によって何を得るのかという事である。にもかかわらず政府は公式声明において『支那の主権を尊重し、領土賠償を要求しない』と言っている。それではここまで浪費した軍費や損害をどのようにして埋めるつもりなのか?」理路整然と問いただした。
当時の畑俊六陸相は、政治家とは、なかなか上手い事急所をついてくると漏らしていたとか。ところが困った事に、この斉藤議員に対する迫害が、軍部ではなく、議会の同僚達から起こったのです。斉藤の発言が聖戦を侮辱するものであると、衆議院本会議で彼の除名を決定し、彼の発言も議事録から削除された。そればかりか、軍に媚を売る議会で「聖戦貫徹に関する決議」なるものまで可決してしまったのですから、困った話なんてもんじゃない。言論の自由を捨て、議会は自殺する。
権力からどんな弾圧を受けようが、議会を解散させられようが、言論の自由と権力への監視を明け渡さなければ、議会は死にません。それだけの力がある。しかし自ら自殺したのではお終いです。二度と復活は出来ない。1940年3月7日、戦前のデモクラシーも明治憲法も死んだ。この日を持って日本の命運は尽きたと言えます。その後、敗戦にまで突っ走るわけですが、当然の帰結と言えるでしょう。
戦前の日本がなぜ軍国主義と呼ばれるような形態に変化してしまったのかというと、いろいろ説はありますが、よく言われるのが、明治憲法や当時の制度に欠陥があったという話です。大日本帝国憲法第11条に「天皇は陸海軍を統帥す」という規定があり、戦前の軍隊は天皇に直属する事になっていました。そのため政府が軍の作戦行動に干渉するのは憲法違反、いわゆる「統帥権の干犯」であるとされ、軍の独断専行を許したのだと。天皇は立憲君主ですから口を挟む事もないので事実上軍部のやりたい放題だと。
あるいは「軍部大臣現役制」が問題だというのもある。これは、陸軍、海軍大臣になれるのは、現役の大将、中将に限るという規定です。この規定は1913年、山本権兵衛内閣によっていったん廃止されるのですが、「腹切り問答」が行なわれた広田弘毅内閣で復活します。この制度を陸軍は最大限に活用します。言う事をきかない人物が首相候補になった場合、陸軍がこの首相では陸軍大臣の引き受け手がいないと宣告します。陸軍大臣がいなければ組閣出来ませんから、首相候補は任命を辞退するしか無くなる。事実上、内閣を支配出来るようになる。この制度によって、軍は自分の望む総理大臣を選べるようになった。支那事変でも対米戦争でも、常に軍の意向を最優先して、日本は政治不在の国になったというわけです。
しかし統帥権にしても、軍部大臣現役制にしても、重要な問題ではありますが、これが致命的であったのかと言うとそんな事はない。議会が正常に作動していれば、いくらでも阻止する事が出来る。憲法や制度の欠陥があったって、議会がまともに機能すればいくらでも穴埋め出来る。権力の暴走を止められる。欠陥のない制度や憲法などあり得ないからです。しかし議会がその任務を放棄してしまえば、欠陥や矛盾がそのままシステムを破壊する。リヴァイアサンの歯止めが無くなる。
そして議会が機能しなくなった一番の原因は何かと言えば、それは世論です。1937年7月7日に起こった、いわゆる支那事変によって民意が圧倒的に変化してしまう(ちなみに支那事変という呼び方を日中戦争と呼ぶようになってますが、当時は支那事変と呼んでいましたし、この時期の中国というのは統一政権もなく、清とか中国といった国号を使えませんでしたので、地理的名称である支那という言葉が使われた。日中戦争という言い方をすると、そういう歴史的背景が消えてしまいますのでよくない風潮です)。
浜田の腹切り問答も林銑十郎内閣の総辞職もそれ以前の話です。前年の2・26事件を境にマスコミが軍部翼賛報道に切り替え、翌年の支那事変をきっかけに世論が激変し、斉藤の「反軍演説」の時には世論がそれをすでに支持していない。軍部と同じように、支那事変を聖戦だと考える意見が圧倒的だった。斉藤が除名されたのも、世論がそれを望んだからでもある。
政治家ほど世論の動向に敏感な連中はいません。彼らにとっての最大の関心事は選挙に受かる事ですから。郵政民営化に反対しているにもかかわらず、選挙に受かりたいばっかりに、小泉を担いで選挙に受かった与党議員がいっぱいいる事を見れば今でも基本的に何も変わらない。それどころかそういう輩が選挙で民意を問うたわけでもないのに総理大臣にまでなっている。
もちろんここに議会政治の問題点があるのですが、我々がその事を認識し、マスコミがその事に敏感であれば、この問題はクリアー出来ます。もちろん残念ながら、マスコミはこの頃と何も変わらないし、我々も何も学んじゃいない。だからこの問題は問題として残っている。ただそれは議会政治の欠陥というよりも、議会政治を回す民度の問題だとも言える。政治家は選挙で受からなければ政治家になれませんので、世論を気にするという作法は仕方がない。逆に世論を無視されても困る。だけど世論を気にする事にしろ、無視する事にしろ、政治家のそういった作法を問題にするのなら、先ず我々の問題を認識しないとマズい。
いま小泉政権を批判したり、戦後の自民党政治の行き詰まりを問題にしたりしていますが、基本的にそれは我々が支持しているからです。勝手に彼らが独裁制にしているわけではない。確かに小泉以降の安倍、福田、麻生には正統性は無いかもしれませんが、自民党を人々が圧倒的に支持したのはまぎれもない事実です。その事を忘れちゃマズい。
戦前の日本は暗黒であったわけではない。もちろん弾圧など、少なくともこの時点では全く無い。国民がそれを望んだのです。マスコミは沈黙するどころか軍よりも勇ましく戦争に熱狂して言論を尽くして国民を戦争に駆り立てた。軍を煽り立てたわけです。
支那事変が始まった当初、日本軍は破竹の勢いの猛進撃でした。その年の暮れには早くも国民政府の首都南京に迫る程でした。連戦連勝の報が伝えられるようになると、国民は熱狂し猛烈に興奮し、毎日毎日新聞を開いては南京陥落のニュースを待ちわびていた。大人も子供も男も女も大多数がそういう状況です。戦争は負ける事もあるという当たり前の常識すら誰も考えもしないし、そんな事を言おうもんなら袋叩きにあう。
近代日本が体験した日清、日露戦争は、共に日本の大勝利だと教えられている。日露戦争などは、まさに薄氷を踏むような勝利だったわけですが、そんな事は啓蒙もされないし誰も知らない。神国日本に敵はいないと本当に思っていた。
したがって支那事変においても日本が勝つのは当然であって、相手はろくに訓練も受けていない支那軍、鎧袖一触で蹴散らせるとみんな思っていた。だから南京陥落を多くの国民が待ちわびていた。日本人が戦争に対して不安を感じるようになるのは戦局が悪化してからの事で、殆どの日本人が不安など全く感じちゃいなかった。だからそういう議員が選ばれていたというわけです。
この年の暮れの、南京総攻撃が始まろうとする前の晩、新聞が何を勘違いしたのか南京陥落という号外をばらまいた。南京攻撃開始を取り違えての大誤報なのですが(今もこういった大誤報はしょっちゅう起こります。麻生が首相になる前にすでに衆議院選の日取りまで決まっているかのような報道がされたりした。こういう誤報を糊塗する為に、今度は先延ばしとか居座りという言葉が出て来る。麻生にとっとと解散して欲しいとは思いますが、こういった誤報によって民意を煽動し、その事を誤摩化す構造は非常に危険なものがあります)、その号外を見た市民の興奮は半端じゃなかった。銀座の街頭には「祝南京陥落」の看板が掲げられ、芝居小屋では役者も観客も万歳の連呼、各地の盛り場では提灯行列。
忘れてはならないのは、これは政府や軍が関与したり強制したりしたものでは全く無い。マスコミが勝手に暴走し、市民が自主的に行なった。南京が陥落していない事を一番知っているのは他でもない政府や軍です。本来なら政府や軍部がまだ陥落していないという声明を出すべき所ですが、あまりにも熱狂的な大衆の大興奮を見て恐れをなした。誰もそれを公式に否定なんて出来る状況ではなかった。つまり、軍部や政府よりも、マスコミやそれに煽動された大衆の方が戦争に酔いしれ歓迎していた。
腹切り問答や林内閣総辞職はこの支那事変の前の話ですので議会がまだ正常に作動していた。しかしこういった世論の後押しを受けた政治家達がどのように行動するのかと言えば、書くまでもないでしょう。支那事変は聖戦である、勝てる戦争である、そういう熱狂に逆らおうものなら、天下の公論に反対するとは何事か!!この戦争は正しい、軍部を批判する奴は卑怯者だ、売国奴だ、非国民だ!!となる。
山本七平が日本は空気が支配する国であると言いましたが、まさに今でも変わらぬどころかより強化されている構造です。空気を読めないと叩かれる。この戦争は負けるのではないか?とか、間違っているのではないか?なんて事をたとえ思っていたとしても言えない。今の我々はネット環境を手に入れたにもかかわらず、基本的にこの頃の意識から殆ど変わっていません。
先日、田原総一朗が北朝鮮に拉致された被害者はすでに死んでいるということを言って、その事を被害者家族に叩かれた。田原の発言は被害者家族の気持ちを踏みにじるとか、不遜な発言だという話になる。これはおかしな話で、田原が死んでいると言ったって、生きていると言ったって、北朝鮮の拉致被害者の生き死にが決まるわけではない。逆に生きていると願っても心情的に同情の意味でしか無く、事実がどうであるのかとは無関係であり、まして政治的な問題や外交の問題であれば無意味です。
生きているという事を前提にして拳を振り上げて強硬路線で喚き散らして、結果的に一歩も前に進まないという状況を招いたアホ共の罪は消えない。生きていると国民を煽り、拳を振り上げているバカを国民が支持した事も忘れちゃならない。当たり前ですが解決する為には交渉しなきゃ解決出来ない。交渉の扉を塞いだら仮に生きているとしても解決出来るわけがない。
強硬路線を喚いて人気を得ていた連中からすれば実際に生きているかどうかなんて事はどうでもいい事です。死んでいたって生きていると言えばいいのだから。そして実際に解決するかどうかもハナっからどうでもいい。解決するぞとポーズをとれる事が最優先で、実際に解決なんてしちゃえば日本政府の問題も出て来るし、人気のリソースが一つ減り、不安を利権に変えるリソースも減る。そしてそれを強烈に後押ししているのは、バカマスコミの単細胞な翼賛お涙頂戴報道と、それに引っかかって熱狂する国民にある。
自分は拉致事件の問題は初めから本当に生きているかどうかわからないのだから、生きているかもしれないという仮定を前提にしてしまう事にもの凄く問題を感じていましたが、当然そんな事は今ではそれほど感じないかもしれませんが、あの事件がクローズアップされて、国民が拳を振り上げている時に、そんな事を言おうものなら売国奴扱いを受ける事を覚悟しなきゃならない。
こういう構造は何一つ変わらない。熱狂的な空気が支配し、冷静な意見を言おうものなら叩かれる。北方領土問題なんかもそうでしょうし、靖国問題だってそうでしょう。そういう空気によって司法まで影響を受け死刑を連発する。いったんそういう空気によって世論が動き物事が進むと、今更言えないという問題が出て来る。間違っているかも知れないと思ってもブレーキが踏めない。全てこの国の構造はこれで回っている。役人の体質も、政治家の先送りも、芸能人やスポーツ選手が祭り上げられ、引きずり落とされ血祭りに上げられるのも、この繰り返しばかりです。
支那事変の際もそうです。熱狂する国民を前にして、反対を唱えても何の役にもたたない。戦線を拡大し、後戻り不能の状況に突っ走り、決定的な敗戦に至るまで、もうブレーキは利かない。空気によって暴走し、今更言えない状況を作り出し、誰かが止めてくれると思ったと誰も責任を感じない。
田中角栄のロッキード事件もそうですし、小泉劇場も、今の小沢の西松問題も、何が問題なのかもわからず、何で熱狂しているのかもわからない、ただ空気に従って破滅に突っ走る。主権を捨てさり、憲法を殺し、民主主義を殺す。
そしてそういう風に国民が動いてしまう背後の問題としては、支那事変当時で言えば、不況がバックにある。つまりロックが社会契約の前提とした、労働によって富は増え続けるという前提が壊れている。富は増えないどころか分け合えない状況になれば、ホッブスが前提とした自然状態になる。つまり国家はリヴァイアサン化する。その事を国民も望む。その帰結が世界大戦です。日本も多くの人が死んだ。
今我々は100年に一度と言われる大不況の入口に立たされている。パイも分け合えない、切り捨ても起こっている。国家もどんどん肥大しリヴァイアサン化している。役人にしろ政治家にしろ利権塗れ、それの牽制が何もない。マスメディアは翼賛体制、特捜は主権を侵害する。国民も空気に支配されている。軍隊も何の原理原則も無く外に出て行っている。不況だけの問題ではなく、資源にしろ食料にしろ枯渇しているといった啓蒙も多いし、環境問題のような成長の限界を意識するような時代に変化もしている。
今こそ戦前の繰り返しを起こしてはならないと、憲法や民主制を機能させようと思っても、ロックの前提が壊れてしまえば、ロックの社会契約も機能しなくなる。この問題をどう乗り越えるのかを考えなければなりません。
肝腎なのは、富の増えなさという、要するに金の問題は資本主義の問題だけではなくて、民主主義や立憲主義の問題の方がむしろでかいかも知れない。資本主義と立憲民主主義というのは別の問題です。市場原理主義と言った感じで拝金主義と決めつけをし、否定するような言説が横行しておりますが、何で日本で立憲民主主義が機能しないのかというと、実はそのへんにも原因がある。
戦前の「ある」転換点を書きましたが、これは今でも引きずっている問題です。民主主義も憲法も死んだままです。リヴァイアサンの歯止めがない。そのうえ、今まさに不況によってロックの前提が壊れつつある。何を捨て何を無くしたのかがわかっても、それを再構築出来ないような前提に変わってしまえば、どうやってリヴァイアサンを止めるのかが問題になる。
戦後民主主義国家の間ではこういった問題に対して分厚い議論があるわけですが、日本は知識人の空中戦的言論空間でやり合っているのはありますが、殆ど一般化されていませんし、政治家もその事を前提として考えているような人間がいません。マスコミはもちろん啓蒙なんてするわけがない。何を捨て何を無くしたのかを書こうと思ったわけですが、せっかくなので、変化した前提にどう対処するのか?という問題を次回で書こうと思います。多分次回でフィニッシュか?
つづく!!