本日でこのネタもフィニッシュ!!気合を入れておっぱじめます。
ロスチャイルドというかユダヤ系の財閥が金融を牛耳れたのはロイターのような情報を支配したからです。結果的な情報ももちろん情報の操作も含めて利用出来る。その事によって連係プレイというか、要するにインサイダー取引のようなものによって儲ける。そして政府のポストにも人脈があり、ルールと情報とカネの流れを握っているので、その中でカネがまわり儲かるようになっている。その人脈は今でも残っている。
これは陰謀論を言っているのではありません。ネットワークが広がっているのでそういう風に見えるし、あそこもこっちも実はユダヤ系のカネが流れているという風に見えるので、何か大きな陰謀があってそれに基づいているかのように見えるけれど、それは逆であって、この世界でいかに上手く儲けるかという事の為に、それらの人脈が活用されている。彼らも予測してそれを外す事や、失敗する事は沢山ある。サブプライム崩壊だってバブルを起こしたのは仕組んでいますが、崩壊は彼らが仕掛けたわけではない。彼ら自身も制御出来なくなっている。ベルリンの壁崩壊にしろ、金融崩壊にしろ、予期していたわけでもなく、陰謀でもない。
しかしそういう事態に直面した時に、その人脈ネットワークを利用して、その危機を切り抜け、新たな草狩り場を見つけ出す。それがあまりにも規模が大きいので、世界中がそこに巻き込まれる。そして手際が鮮やかで、連係プレイが見えるので、大きな陰謀のように見える。
ユダヤ人が全部一つの一枚岩ってわけではないし、喧嘩もするし、貧富の差も激しい。彼らを一塊ととらえてしまうのは危険な発想です。ユダヤ人というのは文化人も多いし、知識人も多いので、人類に対して多大な貢献をしているのは間違いありません。そして歴史上、彼らが受けて来た扱いというのも酷いなんて甘っちょろい言い方では足りない。金融の仕事だって、そもそもキリスト教徒に無理矢理やらされたわけです。汚い商売はユダヤ人にやらせろと。
しかしこと現代の金融の分野というか、金儲けの分野に関しては、彼ら独自のネットワークが上手く作動して儲けているのが、どうしてもダーティに見えるし、その事によって世界中が迷惑を被る事もしばしば、ここにどうしても多くの人々は引っかかるので、ユダヤ人陰謀論なんかを言う人が多いのでしょう。そしてもちろんイスラエルのやり口もいくら何でもやり過ぎだろ、いい加減にしろよ、という風に、どうしてもいいイメージを悪いイメージが打ち消してしまいます。が、彼らを一つの塊と見てしまうのは危険な発想なので、止めた方がいいでしょう。
ちなみに新自由主義という言葉が蔑まれて、レーガンそして前大統領のブッシュ政権時代を揶揄されますけれど、アメリカの民主党政権時代、クリントン政権の時に最も規制緩和が進み、その後のバブルを生み出す舞台設定を着々と押し進めた。それらを支えていたのも、ルービンやロジャー・アルトマン、サマーズ、エマニュエル、そして日本でも有名で人気のあるアル・ゴアも例外ではない。
アル・ゴアの元をたどると、日本でもこれまた有名なフランクフルトのゲットーでマイヤーアムシェル・ロスチャイルドの隣に住んでいたジェイコブ・ヘンリー・シフに辿り着く。この人は日露戦争の資金をほぼ半分貸してくれた人です。明治維新の際に薩長を後押ししていたなんて話もある。これがリーマン・ブラザース・クーン・レーブ商会になって、そこのファミリーに娘を嫁がせたのがゴア家。
これをルービン的な行動作法から見つめ直すと、地球温暖化という問題をテーマにしたショッキングなインチキ塗れのプロパガンダ映画を作り、それで人々を煽動する。排出権取引を是非とも押し進めるべしと。そういう舞台を整えた所で、それを新たな金融商品として利用する。排出権取引というのはグリーン・ニューディールの要。今までなかったものに対して新たに所有権を定め、その所有権を売り買いするというデリバティブが確実に生まれる。構造的にはサブプライムや先物取引と同じ。実体のない権利を売り買いする事によって、新たな草狩り場として利用する。方向性としては確実にそっちへ行くでしょう。
しかしそういったマーケットメカニズムに組み込まないと、産業にインセンティブも生まれない。儲からなければ普及はしない。だから致し方ない側面もあるし、そういう世界のプラットフォームが出来つつあるのに、そこに闇雲に抗っても単に置いてけぼりを喰らってしまうので、非常に難しい問題でもある。
とは言うものの、二酸化炭素による温暖化仮説というのは、非常に危ない話でもある。元々の主旨はエネルギーの使用量を減らすという意味で、CO2を減らすという話だった。だからその事が正しいかどうかは別として、環境破壊を食い止めるという話であるのなら、悪い話ではないでしょう。大量生産大量消費でエネルギーを無尽蔵に使いまくる事によって汚染や公害や自然破壊が起こる。しかしそれがいつの間にかCO2削減の方に比重が乗っかってしまっている。
人為的に森を切り倒すとか、コンクリートを流し込むとか、そういった意味で環境破壊が起こっているのであって、CO2がその原因であるかのような言説はハッキリいえば怪しい話でもある。CO2は植物の成長を促進する効果があっても逆はない。そんな事は小学校で習う事です。
温暖化が起こっているかどうかは、わきにおいておきますが、そういった環境の闇雲な破壊を食い止めるという意味でのエネルギー消費量削減であれば、これは悪い話ではないでしょう。温暖化防止にしろ、CO2削減にしろ、そこに帰結するのなら別に構わない。
しかしCO2害悪説が暴走する事によって、それを金融商品化して売るなんて言う話ならまだ可愛い方ですが、CO2さえ削減出来ればいいのだ、という風に本末転倒が起こって来る。その一番の例が原発利権です。原発はあくまでもCO2温暖化仮説に基づけばCO2の排出量が少ないという話でしか無く、熱エネルギーの効率が悪く、多くを大気に放出している。これを使う事に正当性が生まれてしまっている。クリーンエネルギーとかエコって話になってしまう。勘弁してくれよって事です。
プラス言うまでもない事ですが、原発のリスクは回復不可能なリスクです。取り返しがつかない。便所がないという問題もある。廃棄物の処理の問題です。こういった問題も棚上げされたまま、なし崩し的に利権化されて話が進んでしまう。しかも日本ではわざと活断層の上に作っているのではないか?と思えるくらい、無計画に危険な所にどんどん作ってしまう。
そもそも原発の出発点は中曽根が1953年に初めて原子力予算というのを出した。そして54年に正力松太郎が公職追放から読売の社主に戻って来る。そこから読売新聞がテレビを利用してジャイアンツとプロレスと原発利権で弱小新聞からのしあがって行く。力道山とか、馬場とか猪木に国民が熱狂し、ミスター長嶋に夢と希望を託している背後で、原発利権の足固めが進んで行く。
正力はその後、富山県から衆議院議員になって、初代科学技術庁長官にまでなり、初代原子力委員長にまでなって、電力会社と結託し、北陸地方に原発を自らが持って行く(志賀原発が2基で石川県。敦賀が2基、美浜が3基、大飯が4基、高浜が4基と、これらは福井に集中している。興味深いのは富山には無い。現在稼働中の原発48基のうち、実に15基が北陸地方で稼働している)。正力はCIAのエージェント的な動きをしていて、ポダムというコードネームで動いていたというのが、アメリカの公文書で残っている。
この男は、戦前、警視庁官房主事として、悪名高い特高警察の生みの親であり、その親玉でもあった。米騒動の鎮圧や学園騒動の鎮圧を口実にしてデモクラティズムを徹底的に弾圧し、関東大震災に乗じて、共産主義者や社会主義者を指をさし、徹底的に弾圧した男です。許しがたいのは震災の際に、本来緊急時のデマゴギーを取り締まり秩序維持の責任者である立場の人間が、朝鮮人暴動の嘘を流布させて疑心暗鬼で煽り焚き付けて、弾圧、虐殺を誘発させた。無関係な半島の方々はもちろんの事、耳の不自由な方や方言で発音が若干違うというだけで、多くの日本人も酷い目に合う事になる。
その後転身して読売を買収して、軍部の手先となり、聖戦を煽り、当時最も売れていた朝日や毎日もより過激にそこに便乗し、ナチとの同盟を煽り、デタラメな虚報、情報隠匿、戦意高揚のプロパガンダを加熱させて行き、後戻り不能の大戦へ突っ走る世論を煽る。
その後貴族院議員になり、小磯内閣顧問に就任し、戦後はA級戦犯に指定されて巣鴨行き。占領軍との裏取引で死刑を真逃れ、戦後戻って来てからはCIAのエージェントとなって、親米プロパガンダの尖兵となる。当時、アイゼンハワーが原発の平和利用キャンペーンを唱えていたその矢先、ビキニ環礁の水爆実験での第五福竜丸事件によって、日本では反米反核運動が加熱する。これに頭を悩ませたCIAは正力を利用する。これが基本的に読売の立ち位置を形作っています。どんなときでも自民党擁護は必須、ナベツネが角栄に中曽根を総理にしてくれと土下座して頼んだという話もある。こう言った腐敗の連鎖が表沙汰になったらヤバいというわけです。
前大戦に突っ走った原因の一つにエネルギー供給を絶たれたというトラウマが残っている日本にとっては、エネルギーの生命線を確保しておくという安全保障という名の建て前は立派だけど、中身は腐敗堕落の構造であり、被爆国であり核を持てない日本にとって唯一核を手にする事が出来る利権です。原発人脈というのは薬害エイズの人脈と重なっている。一つの門閥として君臨している。鹿島建設がなぜ原発の受注を多く手がけているのか?中曽根や正力と姻戚関係にある。戦後の腐敗の連鎖がそこには見て取れる。木っ端役人権益でどうのこうのって問題じゃない。
原発に関しては読売はもちろん最前線で旗を振っていますが、基本的に大手メディアにとって電力会社は最大のスポンサー。NHKの内部にも電力会社の会長や、原子力産業会議の理事、原子力文化振興財団の理事なんかが、経営に深く関わっているので全く期待は出来ません。これでは基本的な問題点なんて出てくるわけが無い。原子力は安全!!と旗を振るわけです。それが最近のエコブームにも如実に現れています。
オール電化でエコなんて話になってしまう。そもそも発電所の時点で効率が悪いので、こんなものを導入してもエコでも何でも無い。効率も悪いし、環境破壊に加担しているのと同じです。石油ストーブを焚いた方がよっぽど自然に優しい。電気自動車なんてのも同じ。それがエコだって話になって自動車業界もそこに突っ込む。こんな事では環境保護もクソもない。カネもエネルギーも時間も無駄にしている。
これも富を増やす為の循環構造だと考えれば致し方ないとも言えますが、失敗したときの取り返しのつかなさという意味では、バブルで儲けて、暴落時に空売りを仕掛けて儲ける構造に似ていなくもない。ある意味、正常な経済活動というよりも、あるステークホルダーでカネを回す為の腐敗堕落の構造にしか見えない。当たり前ですが自由経済だと言ったって、そういうものは自由経済とは言いません。
いったん転がりだすと、誰もが根本的な問題を考えれば回復不能の不合理に対して、何ら答えが出ていないという事はわかっているのに、ブレーキを踏めなくなる。これは戦前から延々と繰り返される、この国の悪しき病癖です。裁判員制度なんかも始まりましたが、あんなもんは誰だって問題だらけだという事はわかっている。せめてもう少し延期するとか、もう少し議論を詰めて問題点を是正してからだって遅くはないのに、いったん転がりだすと、ステークホルダーと御用学者の後付け的な合理性調達によって、当初の志からするとかけ離れた醜い成れの果てになっても、もうブレーキは利かない。
日本的に言えば空気支配の構図と言えますし、いわゆる、アビリーンのパラドックス的パターンに陥る。仲間内数人で集まってあれこれ話していると、そのうちの一人が例えば海に行こう(アビリーンへ旅行に行こう)と言うとする。暑いとか諸々の条件が重なったりすると、別に行きたくないけれど、他のみんなは行きたいと思っているのかもしれないし、行きたいと言う奴がいるのだから、まあいいかと全員が思って、結果的に海へと行く。しかし全然楽しくなく、道中もクソ暑くて快適ではなかった。提案者も含めて本当は誰も行きたいとは思っていない。みんなが喜ぶのではないか?と提案し、他のみんなは行きたがっているかも知れないしと、みんなが賛成すると、楽しくもクソもない旅行をするはめになる。誰も行きたくなかったと知ったのは旅行が終わってから。
これは投資の世界なんかも同じで、株式投資は美人コンテストと言われるように、自分が美人だ(株価が上がる優良銘柄だ)と思ったかどうかではなくて、みんなが美人だと思ったものがコンテストで優勝出来る(株価が上がる)ような仕組みになっている。これはアビリーンのパラドックス的構造を生みやすい。みんなが不細工だ(インチキだ)と思っているのに、世間的には受けるだろう(買うだろうと)思えば、誰も可愛いとは思っていない(優良銘柄だなんて思ってない)にもかかわらず、暴走してしまう仕組みが内包されている。要するにバブルを生じやすい仕組みをそもそも構造的に抱えている。そこにルールと情報とカネを握っている連中が仕掛けるんだから、暴走させるのなんて簡単な話なのかもしれません。
例えばコンドルセの投票のパラドックス、どういう順番で人々が考え投票したかによって、結果がすべて分岐して来てしまうと言ったように、神頼み的偶発性にさらされてしまう。また、A>B>C、という順番の価値観のXさん。B>C>A、の順のYさん。C>A>B、の順のZさんの三人で投票するとする。そうするとそれぞれがA、B、C、とバラバラに結果が出るので答えが出ない。CよりAを好む人は一人に対して、AよりCを好む人は二人いる。BとCだと、Bが上なのが二人に対してAが一人。AとBだと、Aが二、Bが一。AとCではCなので、C>A>B>C>A>B>C>A>B・・・・・の堂々巡りで答えが出ない。これを政治的に解決するとなると、投票手続きの決定権を握っている側が結果を操作出来る事になってしまう。AとBを先ず選択させると、Aが勝つのでBという選択肢を排除する。次にAとCを選択させると、Cが勝つという具合に。Bをあらかじめ排除すれば、Cが必ず勝つ。このABCには何を当てはめてもよいわけで、政策の優先順位にしろ、政党の優先順位にしろ、恣意的に選択肢にスポットを当てる事によって、いくらでもコントロール出来てしまう。
もしくは、それを数学的に証明した、アローの順序合成の不可能性定理、選択肢が3つ以上ある場合、定義域の非限定性、全会一致性、無関係な選択対象からの独立性、非独裁性をすべて満たす、ソシアル・ウェルフェア・ファンクション、社会的厚生関数(反射性・完備性・推移性を満たす個人の選好順序から、反射性・完備性・推移性を満たす社会全体の選好順序を導く関数)を作ることはできない。要するに物差しが複数あり、ある種の物差しから合理的だと判断されるプライオリティが全部ずれて行く場合に、これを合成出来ない。そこから先は決断主義になってしまう。この事から導きだされる帰結は、決定性と民主主義は両立不可能な命題である事を証明してしまっている。
例えば原発は経済合理性から言うと合理的であるという意見がある。経済的安全保障の観点からの合理性やエネルギーの安全保障にフォーカスを当てて、それ以外の要素を考えなければ確かに合理的になる。アメリカの軍事力に依存するような石油化学エネルギー重視は日本の経済的安全保障の観点から不合理であると。それに対して原子力は、オーストラリアとかカナダと言ったような、日本と外交的に安定した関係を結んでいる国から、原材料を供給して貰って、それで発電をしている。それが多少コスト高であったとしても、エネルギーや経済的な安全保障の観点から言うと非常にいい事なんだという評価がある。
ただこの評価は、実際に災害が起こる可能性と起こった場合の規模がどれくらいでるのかを無視している。ウルリッヒ・ベック的に言えば、予測不能、計測不能、手当不能だという事が起こりうる。そうしたリスクを抱えるという事自体が、ベイズ統計的なというか、行動の指針になるような統計計算の対象になり難いぐらい規模の大きな災害になってしまう。
こう言った場合、経済的な合理性に、リスク計算出来ないような恐ろしい事が起こってしまう可能性についての評価を織り込んで、人は判断する事を迫られるわけですが、そこから先が非常に難しい事になってしまう。
日本人的特性からすると、嫌な事は考えないとか、現に上手く行っているので面倒くさい事は考えないでおこうとか、そうすれば嫌な目にあう前に逃げ切れるかもしれないとか、こう言った発想が出て来てしまう。
未来の事を考えるという合理的な目標を立てるとすると、こう言った発想は許容されないはずなんですが、、実際には子々孫々というよりも同時代を生きている我々の利益ということを言うのだったら、逃げ切り型の合理性というのはあり得てしまう。現にある年代から上の世代は丸っきり発想がこのパターンです。統治権力もそれしか頭にない。未来どころか、なんとしても目の前の選挙、天下り先、利権しか頭にない。
そうすると、そもそもスタートの時点で広い意味での合理性も無く、偏ったフォーカスの当て方によって無理矢理合理性を調達して、ブレーキも踏めずにいったん始めてしまったものだから、後付け的に合理的であるとせざるを得なくなってしまう。今更言えないというパターンに陥る。
金融バブルと構造は同じ。基本的にいつか天井をつけて暴落するという事はわかっている。にもかかわらず、格付け会社やエコノミスト達が後付け的に合理的説明をしてもっともらしさを調達する。そこでプレーヤー達は無意識的にしろ意識的にしろ、賭けをする。暴落まではいい思いが出来るわけだから、多分オレが買っている間は大丈夫なはずだと。結局、最後には痛い目にあう。
オレが生きている間には原発は事故らないと、原発への無関心は無意識的に暴落まではいい思いが出来るはずだと押し目買いをしているようなもの。みんなここまで投資して来ちゃったんだから、今更何を言っているのだ?儲かっているんだからいいじゃないか、みんなの飯の種にもなっているんだし、という風になってしまう。
危険の警鐘を鳴らすと同時に、今我々が乗っかっているゲームから、オルタナティブなゲームに移行出来るという道筋を、シンボリックに我々にわかりやすく理解出来るように示さないと、確かに危険かもしれないけれど、今まで大丈夫だったんだから、今まで暴落しなかったから、明日も多分大丈夫なはずだよ、っていう非合理だけれど、みんなが不安を抱えたまま社会を営む事のコストを考え、コスモロジーの安定という事から言うと、合理性のある心理的処理法になってしまう。実存的に満たされるという意味でもそうだろうし、俺が言ってもどうにもならねえし的な感覚もある。こういう構造に取り込まれてしまって、この社会はすでに回っている。そこに投げ出された個人は認知的協和理論的体験加工から逃れられなくなってしまう。
G20なんかで各国首脳が集まって、アメリカ以外の国は、もちろんアメリカもわかっているけれど、この金融システムが信用ならないという事はわかっている。そして世界中の人々もその事はわかっている。しかし首脳だけではなく世界中の人々が、こういう金融の仕組みは問題であるとわかっていながらも、相変わらずアメリカの大量消費に期待している。
これだけ大量に消費してくれる国というのは、アメリカ以外に今はまだない。BRICs諸国がもっと発展して行けばそれを飲み込む胃袋を持っているとは言えますが、現時点ではまだそこまでではない。
アメリカが回復してくれないと、日本も車が売れなくなっちゃうみたいな意識がある。アメリカのサブプライムや金融のバブルに対して文句を言いながらも、日本だって末端の労働者まで含めて、その構造にぶら下がって来た。それがはじけたから文句を言っているわけで、文句を言いながらも結局は頼っている。
アメリカ的な資本主義を市場原理主義とか、新自由主義と言ったような言い方でメッタクソに文句を言っている割には、派遣労働者を守れ、労働者の権利を守れと、何を言うのかと思えば企業に雇用を確保しろと言う。もちろんその企業は、製造業であり、どこが最大の顧客であるかと言えばアメリカ、この矛盾を理解していない人が多すぎます。
国家のバラマキも当然そういった人々の世論を利用して、製造業の大企業にエコだと言ってバラまく。需要する側であるアメリカ国内の景気復活を前提にして政策を打ち、人々は企業に文句を言っている。何を批判し、何を望んでいるのか?
アメリカの過剰消費に支えられて、世界中が恩恵を受けて来た。アメリカにも責任はあるけれど、そこに隷属して儲けてきた仕組みにも問題がある。ヘッジファンドとか、投資銀行だけの責任ではないのです。現にまだアメリカの経済復活を前提とした製造業優遇のバラマキ政策をこの国は続けている。
この構造というのは実際の所、一部の企業は儲かっても国民全てに恩恵などすでに無い状態であり、地域の空洞化の原因も作っている。そして末端の労働者の取り分などは僅かであり、用が無くなれば切り捨てられる。少子化の原因も、年金未払いの原因も全てここに問題がある。
しかしここから脱却する事など、この国の政府は何も考えてはいない。そしてそれに反対する日本の左派も結局は企業に雇用維持を言うという事がどういう事なのかわかっていない。それがアメリカ依存から抜けられない経済構造になっている。
戦争反対!アメリカ軍出て行け!!憲法9条護持!自衛隊反対!!軍隊はいらない!!という矛盾した要求を突き付けるのと全く同じ構造です。アメリカから自立したかったら、独力で安全保障を担う覚悟がなければ出来るわけがない。いざとなったらやり返すぜ!という意志がなければ平和は保てません。平和を祈れば平和になるわけではない。こういうお花畑が存在する限り、アメリカは常駐し続けて、日本がそれを負担し、その利権を一部の連中が回すという構造からは出る事が出来ない。
大企業の派遣切りを許すな!!と吹き上がっているという事は、アメリカのバブルを待ち、アメリカの過剰な消費に期待する事と同じです。それに対して市場原理主義と文句を言っても意味がない。かと言って外資が参入して来るとなると、これまた文句を言って後付け的にルールを変更して追い出す。何を望み何を要求しているのか?もはやそういうお花畑的言説を喚き散らす連中自身も、自分が何を言っている事になるのかすら理解出来ていない。
この状況を打破するには自立するしかない。富というのは必ずしもカネってわけではない。食うに困らなければ死ぬ事はないわけで、労働エネルギーが余っていて、耕作放置の土地があるわけだから、いくらでも打開策はある。国内で回る経済をある程度考えないと、いつまでも外需一辺倒では同じ事を繰り返すだけです。
さて、このブログの読者の方々からすれば、こんな面倒くさい話にお付き合い下さるのですから、リテラシーのある方々ばかりだろうと思いますので、こう言った話を聞いても、何ともないかもしれませんが、普通こう言った面倒な話は御免被りたいと思っている方々からすれば、なんかどうにもならなそうな構造だし、ややこしい話だし、可能性を限りなく感じる事の出来ない身も蓋もない話でもあるしという事で、こう言った話は敬遠されるような話だろうと思います。
まあそういう人がこういう面倒くさい文章を読む可能性は殆ど無いわけですが、もっとわかりやすく、もっとコンパクトに、出来れば数行で説明してくれて、選択肢を提示してくれた方がいいのでしょう。そういう感覚がある種、マスメディアのどうにもならない構造を生み出してもいる。こういう話は報じる事が出来ないだろうし、そんな単純な話でもないので、万人うけしない。こういう話をわかりやすく説明するとなると、もっと単純化し感情に訴えかけ、陰謀の類いや悪者を指差して終わってしまう。
いろんな所にとんでもない輩が跳梁跋扈しているのは間違いありませんが、全ての出発点は我々にあり、どういった未来を作り出すのかも我々にかかっている。民主主義や立憲主義が機能し、資本主義が機能したとしても問題は山積です。政権交代が起こったって、そう簡単にどうにかなるような構造ではない。しかしその構造を許しているのもやっぱり大本は我々にある。
この問題は我々の問題であるという事に向き合わないと何も始まりません。世界はあらかじめ決定されているわけではない。それでは、この話題はこれにてEND!!
ロスチャイルドというかユダヤ系の財閥が金融を牛耳れたのはロイターのような情報を支配したからです。結果的な情報ももちろん情報の操作も含めて利用出来る。その事によって連係プレイというか、要するにインサイダー取引のようなものによって儲ける。そして政府のポストにも人脈があり、ルールと情報とカネの流れを握っているので、その中でカネがまわり儲かるようになっている。その人脈は今でも残っている。
これは陰謀論を言っているのではありません。ネットワークが広がっているのでそういう風に見えるし、あそこもこっちも実はユダヤ系のカネが流れているという風に見えるので、何か大きな陰謀があってそれに基づいているかのように見えるけれど、それは逆であって、この世界でいかに上手く儲けるかという事の為に、それらの人脈が活用されている。彼らも予測してそれを外す事や、失敗する事は沢山ある。サブプライム崩壊だってバブルを起こしたのは仕組んでいますが、崩壊は彼らが仕掛けたわけではない。彼ら自身も制御出来なくなっている。ベルリンの壁崩壊にしろ、金融崩壊にしろ、予期していたわけでもなく、陰謀でもない。
しかしそういう事態に直面した時に、その人脈ネットワークを利用して、その危機を切り抜け、新たな草狩り場を見つけ出す。それがあまりにも規模が大きいので、世界中がそこに巻き込まれる。そして手際が鮮やかで、連係プレイが見えるので、大きな陰謀のように見える。
ユダヤ人が全部一つの一枚岩ってわけではないし、喧嘩もするし、貧富の差も激しい。彼らを一塊ととらえてしまうのは危険な発想です。ユダヤ人というのは文化人も多いし、知識人も多いので、人類に対して多大な貢献をしているのは間違いありません。そして歴史上、彼らが受けて来た扱いというのも酷いなんて甘っちょろい言い方では足りない。金融の仕事だって、そもそもキリスト教徒に無理矢理やらされたわけです。汚い商売はユダヤ人にやらせろと。
しかしこと現代の金融の分野というか、金儲けの分野に関しては、彼ら独自のネットワークが上手く作動して儲けているのが、どうしてもダーティに見えるし、その事によって世界中が迷惑を被る事もしばしば、ここにどうしても多くの人々は引っかかるので、ユダヤ人陰謀論なんかを言う人が多いのでしょう。そしてもちろんイスラエルのやり口もいくら何でもやり過ぎだろ、いい加減にしろよ、という風に、どうしてもいいイメージを悪いイメージが打ち消してしまいます。が、彼らを一つの塊と見てしまうのは危険な発想なので、止めた方がいいでしょう。
ちなみに新自由主義という言葉が蔑まれて、レーガンそして前大統領のブッシュ政権時代を揶揄されますけれど、アメリカの民主党政権時代、クリントン政権の時に最も規制緩和が進み、その後のバブルを生み出す舞台設定を着々と押し進めた。それらを支えていたのも、ルービンやロジャー・アルトマン、サマーズ、エマニュエル、そして日本でも有名で人気のあるアル・ゴアも例外ではない。
アル・ゴアの元をたどると、日本でもこれまた有名なフランクフルトのゲットーでマイヤーアムシェル・ロスチャイルドの隣に住んでいたジェイコブ・ヘンリー・シフに辿り着く。この人は日露戦争の資金をほぼ半分貸してくれた人です。明治維新の際に薩長を後押ししていたなんて話もある。これがリーマン・ブラザース・クーン・レーブ商会になって、そこのファミリーに娘を嫁がせたのがゴア家。
これをルービン的な行動作法から見つめ直すと、地球温暖化という問題をテーマにしたショッキングなインチキ塗れのプロパガンダ映画を作り、それで人々を煽動する。排出権取引を是非とも押し進めるべしと。そういう舞台を整えた所で、それを新たな金融商品として利用する。排出権取引というのはグリーン・ニューディールの要。今までなかったものに対して新たに所有権を定め、その所有権を売り買いするというデリバティブが確実に生まれる。構造的にはサブプライムや先物取引と同じ。実体のない権利を売り買いする事によって、新たな草狩り場として利用する。方向性としては確実にそっちへ行くでしょう。
しかしそういったマーケットメカニズムに組み込まないと、産業にインセンティブも生まれない。儲からなければ普及はしない。だから致し方ない側面もあるし、そういう世界のプラットフォームが出来つつあるのに、そこに闇雲に抗っても単に置いてけぼりを喰らってしまうので、非常に難しい問題でもある。
とは言うものの、二酸化炭素による温暖化仮説というのは、非常に危ない話でもある。元々の主旨はエネルギーの使用量を減らすという意味で、CO2を減らすという話だった。だからその事が正しいかどうかは別として、環境破壊を食い止めるという話であるのなら、悪い話ではないでしょう。大量生産大量消費でエネルギーを無尽蔵に使いまくる事によって汚染や公害や自然破壊が起こる。しかしそれがいつの間にかCO2削減の方に比重が乗っかってしまっている。
人為的に森を切り倒すとか、コンクリートを流し込むとか、そういった意味で環境破壊が起こっているのであって、CO2がその原因であるかのような言説はハッキリいえば怪しい話でもある。CO2は植物の成長を促進する効果があっても逆はない。そんな事は小学校で習う事です。
温暖化が起こっているかどうかは、わきにおいておきますが、そういった環境の闇雲な破壊を食い止めるという意味でのエネルギー消費量削減であれば、これは悪い話ではないでしょう。温暖化防止にしろ、CO2削減にしろ、そこに帰結するのなら別に構わない。
しかしCO2害悪説が暴走する事によって、それを金融商品化して売るなんて言う話ならまだ可愛い方ですが、CO2さえ削減出来ればいいのだ、という風に本末転倒が起こって来る。その一番の例が原発利権です。原発はあくまでもCO2温暖化仮説に基づけばCO2の排出量が少ないという話でしか無く、熱エネルギーの効率が悪く、多くを大気に放出している。これを使う事に正当性が生まれてしまっている。クリーンエネルギーとかエコって話になってしまう。勘弁してくれよって事です。
プラス言うまでもない事ですが、原発のリスクは回復不可能なリスクです。取り返しがつかない。便所がないという問題もある。廃棄物の処理の問題です。こういった問題も棚上げされたまま、なし崩し的に利権化されて話が進んでしまう。しかも日本ではわざと活断層の上に作っているのではないか?と思えるくらい、無計画に危険な所にどんどん作ってしまう。
そもそも原発の出発点は中曽根が1953年に初めて原子力予算というのを出した。そして54年に正力松太郎が公職追放から読売の社主に戻って来る。そこから読売新聞がテレビを利用してジャイアンツとプロレスと原発利権で弱小新聞からのしあがって行く。力道山とか、馬場とか猪木に国民が熱狂し、ミスター長嶋に夢と希望を託している背後で、原発利権の足固めが進んで行く。
正力はその後、富山県から衆議院議員になって、初代科学技術庁長官にまでなり、初代原子力委員長にまでなって、電力会社と結託し、北陸地方に原発を自らが持って行く(志賀原発が2基で石川県。敦賀が2基、美浜が3基、大飯が4基、高浜が4基と、これらは福井に集中している。興味深いのは富山には無い。現在稼働中の原発48基のうち、実に15基が北陸地方で稼働している)。正力はCIAのエージェント的な動きをしていて、ポダムというコードネームで動いていたというのが、アメリカの公文書で残っている。
この男は、戦前、警視庁官房主事として、悪名高い特高警察の生みの親であり、その親玉でもあった。米騒動の鎮圧や学園騒動の鎮圧を口実にしてデモクラティズムを徹底的に弾圧し、関東大震災に乗じて、共産主義者や社会主義者を指をさし、徹底的に弾圧した男です。許しがたいのは震災の際に、本来緊急時のデマゴギーを取り締まり秩序維持の責任者である立場の人間が、朝鮮人暴動の嘘を流布させて疑心暗鬼で煽り焚き付けて、弾圧、虐殺を誘発させた。無関係な半島の方々はもちろんの事、耳の不自由な方や方言で発音が若干違うというだけで、多くの日本人も酷い目に合う事になる。
その後転身して読売を買収して、軍部の手先となり、聖戦を煽り、当時最も売れていた朝日や毎日もより過激にそこに便乗し、ナチとの同盟を煽り、デタラメな虚報、情報隠匿、戦意高揚のプロパガンダを加熱させて行き、後戻り不能の大戦へ突っ走る世論を煽る。
その後貴族院議員になり、小磯内閣顧問に就任し、戦後はA級戦犯に指定されて巣鴨行き。占領軍との裏取引で死刑を真逃れ、戦後戻って来てからはCIAのエージェントとなって、親米プロパガンダの尖兵となる。当時、アイゼンハワーが原発の平和利用キャンペーンを唱えていたその矢先、ビキニ環礁の水爆実験での第五福竜丸事件によって、日本では反米反核運動が加熱する。これに頭を悩ませたCIAは正力を利用する。これが基本的に読売の立ち位置を形作っています。どんなときでも自民党擁護は必須、ナベツネが角栄に中曽根を総理にしてくれと土下座して頼んだという話もある。こう言った腐敗の連鎖が表沙汰になったらヤバいというわけです。
前大戦に突っ走った原因の一つにエネルギー供給を絶たれたというトラウマが残っている日本にとっては、エネルギーの生命線を確保しておくという安全保障という名の建て前は立派だけど、中身は腐敗堕落の構造であり、被爆国であり核を持てない日本にとって唯一核を手にする事が出来る利権です。原発人脈というのは薬害エイズの人脈と重なっている。一つの門閥として君臨している。鹿島建設がなぜ原発の受注を多く手がけているのか?中曽根や正力と姻戚関係にある。戦後の腐敗の連鎖がそこには見て取れる。木っ端役人権益でどうのこうのって問題じゃない。
原発に関しては読売はもちろん最前線で旗を振っていますが、基本的に大手メディアにとって電力会社は最大のスポンサー。NHKの内部にも電力会社の会長や、原子力産業会議の理事、原子力文化振興財団の理事なんかが、経営に深く関わっているので全く期待は出来ません。これでは基本的な問題点なんて出てくるわけが無い。原子力は安全!!と旗を振るわけです。それが最近のエコブームにも如実に現れています。
オール電化でエコなんて話になってしまう。そもそも発電所の時点で効率が悪いので、こんなものを導入してもエコでも何でも無い。効率も悪いし、環境破壊に加担しているのと同じです。石油ストーブを焚いた方がよっぽど自然に優しい。電気自動車なんてのも同じ。それがエコだって話になって自動車業界もそこに突っ込む。こんな事では環境保護もクソもない。カネもエネルギーも時間も無駄にしている。
これも富を増やす為の循環構造だと考えれば致し方ないとも言えますが、失敗したときの取り返しのつかなさという意味では、バブルで儲けて、暴落時に空売りを仕掛けて儲ける構造に似ていなくもない。ある意味、正常な経済活動というよりも、あるステークホルダーでカネを回す為の腐敗堕落の構造にしか見えない。当たり前ですが自由経済だと言ったって、そういうものは自由経済とは言いません。
いったん転がりだすと、誰もが根本的な問題を考えれば回復不能の不合理に対して、何ら答えが出ていないという事はわかっているのに、ブレーキを踏めなくなる。これは戦前から延々と繰り返される、この国の悪しき病癖です。裁判員制度なんかも始まりましたが、あんなもんは誰だって問題だらけだという事はわかっている。せめてもう少し延期するとか、もう少し議論を詰めて問題点を是正してからだって遅くはないのに、いったん転がりだすと、ステークホルダーと御用学者の後付け的な合理性調達によって、当初の志からするとかけ離れた醜い成れの果てになっても、もうブレーキは利かない。
日本的に言えば空気支配の構図と言えますし、いわゆる、アビリーンのパラドックス的パターンに陥る。仲間内数人で集まってあれこれ話していると、そのうちの一人が例えば海に行こう(アビリーンへ旅行に行こう)と言うとする。暑いとか諸々の条件が重なったりすると、別に行きたくないけれど、他のみんなは行きたいと思っているのかもしれないし、行きたいと言う奴がいるのだから、まあいいかと全員が思って、結果的に海へと行く。しかし全然楽しくなく、道中もクソ暑くて快適ではなかった。提案者も含めて本当は誰も行きたいとは思っていない。みんなが喜ぶのではないか?と提案し、他のみんなは行きたがっているかも知れないしと、みんなが賛成すると、楽しくもクソもない旅行をするはめになる。誰も行きたくなかったと知ったのは旅行が終わってから。
これは投資の世界なんかも同じで、株式投資は美人コンテストと言われるように、自分が美人だ(株価が上がる優良銘柄だ)と思ったかどうかではなくて、みんなが美人だと思ったものがコンテストで優勝出来る(株価が上がる)ような仕組みになっている。これはアビリーンのパラドックス的構造を生みやすい。みんなが不細工だ(インチキだ)と思っているのに、世間的には受けるだろう(買うだろうと)思えば、誰も可愛いとは思っていない(優良銘柄だなんて思ってない)にもかかわらず、暴走してしまう仕組みが内包されている。要するにバブルを生じやすい仕組みをそもそも構造的に抱えている。そこにルールと情報とカネを握っている連中が仕掛けるんだから、暴走させるのなんて簡単な話なのかもしれません。
例えばコンドルセの投票のパラドックス、どういう順番で人々が考え投票したかによって、結果がすべて分岐して来てしまうと言ったように、神頼み的偶発性にさらされてしまう。また、A>B>C、という順番の価値観のXさん。B>C>A、の順のYさん。C>A>B、の順のZさんの三人で投票するとする。そうするとそれぞれがA、B、C、とバラバラに結果が出るので答えが出ない。CよりAを好む人は一人に対して、AよりCを好む人は二人いる。BとCだと、Bが上なのが二人に対してAが一人。AとBだと、Aが二、Bが一。AとCではCなので、C>A>B>C>A>B>C>A>B・・・・・の堂々巡りで答えが出ない。これを政治的に解決するとなると、投票手続きの決定権を握っている側が結果を操作出来る事になってしまう。AとBを先ず選択させると、Aが勝つのでBという選択肢を排除する。次にAとCを選択させると、Cが勝つという具合に。Bをあらかじめ排除すれば、Cが必ず勝つ。このABCには何を当てはめてもよいわけで、政策の優先順位にしろ、政党の優先順位にしろ、恣意的に選択肢にスポットを当てる事によって、いくらでもコントロール出来てしまう。
もしくは、それを数学的に証明した、アローの順序合成の不可能性定理、選択肢が3つ以上ある場合、定義域の非限定性、全会一致性、無関係な選択対象からの独立性、非独裁性をすべて満たす、ソシアル・ウェルフェア・ファンクション、社会的厚生関数(反射性・完備性・推移性を満たす個人の選好順序から、反射性・完備性・推移性を満たす社会全体の選好順序を導く関数)を作ることはできない。要するに物差しが複数あり、ある種の物差しから合理的だと判断されるプライオリティが全部ずれて行く場合に、これを合成出来ない。そこから先は決断主義になってしまう。この事から導きだされる帰結は、決定性と民主主義は両立不可能な命題である事を証明してしまっている。
例えば原発は経済合理性から言うと合理的であるという意見がある。経済的安全保障の観点からの合理性やエネルギーの安全保障にフォーカスを当てて、それ以外の要素を考えなければ確かに合理的になる。アメリカの軍事力に依存するような石油化学エネルギー重視は日本の経済的安全保障の観点から不合理であると。それに対して原子力は、オーストラリアとかカナダと言ったような、日本と外交的に安定した関係を結んでいる国から、原材料を供給して貰って、それで発電をしている。それが多少コスト高であったとしても、エネルギーや経済的な安全保障の観点から言うと非常にいい事なんだという評価がある。
ただこの評価は、実際に災害が起こる可能性と起こった場合の規模がどれくらいでるのかを無視している。ウルリッヒ・ベック的に言えば、予測不能、計測不能、手当不能だという事が起こりうる。そうしたリスクを抱えるという事自体が、ベイズ統計的なというか、行動の指針になるような統計計算の対象になり難いぐらい規模の大きな災害になってしまう。
こう言った場合、経済的な合理性に、リスク計算出来ないような恐ろしい事が起こってしまう可能性についての評価を織り込んで、人は判断する事を迫られるわけですが、そこから先が非常に難しい事になってしまう。
日本人的特性からすると、嫌な事は考えないとか、現に上手く行っているので面倒くさい事は考えないでおこうとか、そうすれば嫌な目にあう前に逃げ切れるかもしれないとか、こう言った発想が出て来てしまう。
未来の事を考えるという合理的な目標を立てるとすると、こう言った発想は許容されないはずなんですが、、実際には子々孫々というよりも同時代を生きている我々の利益ということを言うのだったら、逃げ切り型の合理性というのはあり得てしまう。現にある年代から上の世代は丸っきり発想がこのパターンです。統治権力もそれしか頭にない。未来どころか、なんとしても目の前の選挙、天下り先、利権しか頭にない。
そうすると、そもそもスタートの時点で広い意味での合理性も無く、偏ったフォーカスの当て方によって無理矢理合理性を調達して、ブレーキも踏めずにいったん始めてしまったものだから、後付け的に合理的であるとせざるを得なくなってしまう。今更言えないというパターンに陥る。
金融バブルと構造は同じ。基本的にいつか天井をつけて暴落するという事はわかっている。にもかかわらず、格付け会社やエコノミスト達が後付け的に合理的説明をしてもっともらしさを調達する。そこでプレーヤー達は無意識的にしろ意識的にしろ、賭けをする。暴落まではいい思いが出来るわけだから、多分オレが買っている間は大丈夫なはずだと。結局、最後には痛い目にあう。
オレが生きている間には原発は事故らないと、原発への無関心は無意識的に暴落まではいい思いが出来るはずだと押し目買いをしているようなもの。みんなここまで投資して来ちゃったんだから、今更何を言っているのだ?儲かっているんだからいいじゃないか、みんなの飯の種にもなっているんだし、という風になってしまう。
危険の警鐘を鳴らすと同時に、今我々が乗っかっているゲームから、オルタナティブなゲームに移行出来るという道筋を、シンボリックに我々にわかりやすく理解出来るように示さないと、確かに危険かもしれないけれど、今まで大丈夫だったんだから、今まで暴落しなかったから、明日も多分大丈夫なはずだよ、っていう非合理だけれど、みんなが不安を抱えたまま社会を営む事のコストを考え、コスモロジーの安定という事から言うと、合理性のある心理的処理法になってしまう。実存的に満たされるという意味でもそうだろうし、俺が言ってもどうにもならねえし的な感覚もある。こういう構造に取り込まれてしまって、この社会はすでに回っている。そこに投げ出された個人は認知的協和理論的体験加工から逃れられなくなってしまう。
G20なんかで各国首脳が集まって、アメリカ以外の国は、もちろんアメリカもわかっているけれど、この金融システムが信用ならないという事はわかっている。そして世界中の人々もその事はわかっている。しかし首脳だけではなく世界中の人々が、こういう金融の仕組みは問題であるとわかっていながらも、相変わらずアメリカの大量消費に期待している。
これだけ大量に消費してくれる国というのは、アメリカ以外に今はまだない。BRICs諸国がもっと発展して行けばそれを飲み込む胃袋を持っているとは言えますが、現時点ではまだそこまでではない。
アメリカが回復してくれないと、日本も車が売れなくなっちゃうみたいな意識がある。アメリカのサブプライムや金融のバブルに対して文句を言いながらも、日本だって末端の労働者まで含めて、その構造にぶら下がって来た。それがはじけたから文句を言っているわけで、文句を言いながらも結局は頼っている。
アメリカ的な資本主義を市場原理主義とか、新自由主義と言ったような言い方でメッタクソに文句を言っている割には、派遣労働者を守れ、労働者の権利を守れと、何を言うのかと思えば企業に雇用を確保しろと言う。もちろんその企業は、製造業であり、どこが最大の顧客であるかと言えばアメリカ、この矛盾を理解していない人が多すぎます。
国家のバラマキも当然そういった人々の世論を利用して、製造業の大企業にエコだと言ってバラまく。需要する側であるアメリカ国内の景気復活を前提にして政策を打ち、人々は企業に文句を言っている。何を批判し、何を望んでいるのか?
アメリカの過剰消費に支えられて、世界中が恩恵を受けて来た。アメリカにも責任はあるけれど、そこに隷属して儲けてきた仕組みにも問題がある。ヘッジファンドとか、投資銀行だけの責任ではないのです。現にまだアメリカの経済復活を前提とした製造業優遇のバラマキ政策をこの国は続けている。
この構造というのは実際の所、一部の企業は儲かっても国民全てに恩恵などすでに無い状態であり、地域の空洞化の原因も作っている。そして末端の労働者の取り分などは僅かであり、用が無くなれば切り捨てられる。少子化の原因も、年金未払いの原因も全てここに問題がある。
しかしここから脱却する事など、この国の政府は何も考えてはいない。そしてそれに反対する日本の左派も結局は企業に雇用維持を言うという事がどういう事なのかわかっていない。それがアメリカ依存から抜けられない経済構造になっている。
戦争反対!アメリカ軍出て行け!!憲法9条護持!自衛隊反対!!軍隊はいらない!!という矛盾した要求を突き付けるのと全く同じ構造です。アメリカから自立したかったら、独力で安全保障を担う覚悟がなければ出来るわけがない。いざとなったらやり返すぜ!という意志がなければ平和は保てません。平和を祈れば平和になるわけではない。こういうお花畑が存在する限り、アメリカは常駐し続けて、日本がそれを負担し、その利権を一部の連中が回すという構造からは出る事が出来ない。
大企業の派遣切りを許すな!!と吹き上がっているという事は、アメリカのバブルを待ち、アメリカの過剰な消費に期待する事と同じです。それに対して市場原理主義と文句を言っても意味がない。かと言って外資が参入して来るとなると、これまた文句を言って後付け的にルールを変更して追い出す。何を望み何を要求しているのか?もはやそういうお花畑的言説を喚き散らす連中自身も、自分が何を言っている事になるのかすら理解出来ていない。
この状況を打破するには自立するしかない。富というのは必ずしもカネってわけではない。食うに困らなければ死ぬ事はないわけで、労働エネルギーが余っていて、耕作放置の土地があるわけだから、いくらでも打開策はある。国内で回る経済をある程度考えないと、いつまでも外需一辺倒では同じ事を繰り返すだけです。
さて、このブログの読者の方々からすれば、こんな面倒くさい話にお付き合い下さるのですから、リテラシーのある方々ばかりだろうと思いますので、こう言った話を聞いても、何ともないかもしれませんが、普通こう言った面倒な話は御免被りたいと思っている方々からすれば、なんかどうにもならなそうな構造だし、ややこしい話だし、可能性を限りなく感じる事の出来ない身も蓋もない話でもあるしという事で、こう言った話は敬遠されるような話だろうと思います。
まあそういう人がこういう面倒くさい文章を読む可能性は殆ど無いわけですが、もっとわかりやすく、もっとコンパクトに、出来れば数行で説明してくれて、選択肢を提示してくれた方がいいのでしょう。そういう感覚がある種、マスメディアのどうにもならない構造を生み出してもいる。こういう話は報じる事が出来ないだろうし、そんな単純な話でもないので、万人うけしない。こういう話をわかりやすく説明するとなると、もっと単純化し感情に訴えかけ、陰謀の類いや悪者を指差して終わってしまう。
いろんな所にとんでもない輩が跳梁跋扈しているのは間違いありませんが、全ての出発点は我々にあり、どういった未来を作り出すのかも我々にかかっている。民主主義や立憲主義が機能し、資本主義が機能したとしても問題は山積です。政権交代が起こったって、そう簡単にどうにかなるような構造ではない。しかしその構造を許しているのもやっぱり大本は我々にある。
この問題は我々の問題であるという事に向き合わないと何も始まりません。世界はあらかじめ決定されているわけではない。それでは、この話題はこれにてEND!!